前回の続きです。
橋上公園を後にして、日光道中に戻ります。
これをまっすぐ行くと東武伊勢崎線の春日部駅東口に突き当たります。この駅からのメインストリートは車道も歩道も広くて、落ち着いていて、雰囲気があり、ホントに、ホントに、いいのです。気に入りました。
画面中央からすこし右に寄った処の瓦屋根に白壁の建物、遠くからでも、誰がどう見ても、間違いなく、それなのでした。
粕壁宿の面影厠?です。当然、わたしも、しみじみと用を足したのでした。
それにしても、硝子張りのドアを開けると、正面にコレですから、フツウは外から見えるところは手洗い場が設置されています。それにステンレス製はわたしの好みではありません。やはり、金属よりも陶器です。
用足しをして交差点手前より橋の方向をふり返ります。こちらからは厠は木立で遮蔽されています。
ビルの前に立つ彫刻は「月に吠える」 手塚登久夫の作品です。コメントは長いのでこちらで確認して下さい。
パンフAコース⑩番の「日光道中粕壁宿の案内板」です。
それで、案内板の「日光街道・日光海道・日光道中」の説明ですが、江戸時代の初期には、「街道と海道の両方が表記されていた」と、あるのです。
でも、しかし、上記の説は、わたくしが一日を費やして調べた結果では、見たことも、聞いた事もありません。
以前にも触れたのですが、江戸時代の初期には、甲州海道とか、日光海道とか、奥州海道とか、「海道」表記であり、いろいろな歴史書にも、「海道」表記がフツウのです。極々まれに「街道」の表記はあるそうです。
それでも、日光海道が日光街道と表記されたとの説は、見たことも聞いたこともありません。
もしも、です。「街道・海道」が併用されていたのならば、海も無いのに「カイドウ」おかしい、と云うならば、「街道」で統一されるのが自然です。「道中」なんて事にはなりません。
ですから、明治になって「道中」という、不自然で、誰も使わない言葉から、江戸初期からずっと、ずっと使われていた「カイドウ」と云う読みに合わせて、正式に「街道」が採用されたとの説がフツウなのです。
海道、街道の表記についての研究は、こちらが一番かも、
http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_01.pdf
それとです。この案内板ですが、いったい誰が立てたのでしょうか? フツウは教育委員会とか、観光協会とか、管理責任の所在と、設置年月日が記載されています。名無しのゴンベイさんです。
あっ!今気が付いたのですが、もしかして、裏にそのへん事は書いてあったりして!そうであればゴメンナサイ。
どうも、最近は、注意力が散漫になりがちで、記憶力も怪しい傾向なのです。なんだかんだ云っても、やっぱり歳には勝てない? でも、まだ、体力は自信があります。視力と聴力には自信が無くなりつつあります。
またしても、興味のない方には、とても、とても、退屈な”重箱隅的”な”小言幸兵衛的”なお話になってしまった。
今日は、ここらで、おしまい。
それでは、また。