いじめの蔓延

 
 最近、いじめによる自殺が話題になっている。自殺に到るのがごぐ一部であることを考えれば、いじめ自体は蔓延していると見ていい。
 抑圧は抑圧を再生産する。抑圧を断ち切るには、時間をかけないほうが効率がよい。つまり子供に、抑圧の意味を理解させ、抑圧を断ち切る力を(その条件も含めて)与えるのが、一番早い。……というのが、世界の見識者たちの共通の結論。
 
 相棒に教えてもらったことだが、人間社会の自由の発展は、その抑圧の領域を狭めていくことで自由の領域を広げることによって、得ることができる、というアマルティア・センの考え方が、どうやら正しいらしい。人間社会には常に抑圧が存在することを前提すれば、そういう考え方に落ち着く。
 同様にいじめ問題も、いじめは必ずあるという前提に立ち、いじめが生じた時点で一つ一つ対処していくことによってしか、改善の道はないように思う。もし、いじめの事実を確認していない、などと学校側が言おうものなら、その時点で、学校もまたいじめを黙認し、いじめに加担するわけだ。

 もう一つ、どんな理由であれ、いじめる側に非があること。英語では、いじめられる側は「被害者(victim)」という。

 いじめを受ける人が自殺に到る理由の一つは、いじめられる社会関係、人間関係だけを、すべての世界だと思い込んでしまう、視野の狭さにあるのだろう。が、自殺にまで追い詰められる心理というのは、視野の狭さだけではないと思う。
 例えば、犯罪被害には「二次被害」というものがある。直接の被害を受けた後に、その加害行為について社会的な解決がなされない時点で、「加害者の酌量の余地」や「被害者の非」などを第三者から持ち出されることで受ける、精神的苦痛のことをいう。この「二次被害」による精神的苦痛は、私自身の経験で言えば、最初の被害におけるそれとは比べものにならないくらい甚大となる。

 周囲がいじめを、加害・被害関係としてはっきりと捉えないなら、いじめを受ける人の心理は多分、「二次被害」に似たものとなるだろう。そうだとすれば、苦痛は無限大だ。
 いじめが必ずあるという前提に立つ時点で、同時に、いじめる・いじめられる関係は加害・被害関係であるという前提をも周知とすれば、それだけでも、対処の方向性ははっきりすると思う。

 けれども、刑事犯罪行為を含むいじめなら、対処は比較的容易かも知れないが、集団ネグレクトのようないじめだと、多分、根絶はできないだろう。
 弱い者が、より弱い者へと抑圧を転嫁させていく。子供は最も多く皺寄せを受ける。加えて、集団性、共同性とは、人間の最も原始的な属性だ。知力の発展途上では、まだまだそれが前面に出る。そして日本の場合、社会自体がいじめ社会なのだから……
 
 いじめ社会は、うわさ社会にねたみ社会。総じて抑圧社会。そしてストレス社会、喫煙社会。リアリズムの欠落した、間主観的なイデオロギー社会。ついでに、サル社会に最も近しい社会。
 ゲロゲロゲ~。

 画像は、ジェローム「日本の神仏への祈願」。
  ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome, 1824-1904, French)
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