ストーリーと芸術(続)

 
 彼は音楽家として育てられ、音楽は彼という人間の一部となっていた。私はそんな彼を小説に書いてみたいと思った。

「きっと自伝小説が書けるよね。そうすれば、それが一つの芸術になるんだものね」
「僕のことなんか書いたって、つまらないよ。なんのエピソードもありやしない。ピアノを弾いてしかこなかったんだから。それに……」
 彼はほんの少しためらった。

「小説は芸術じゃないよ。ストーリーが入るからね」

 言語が介入するということだろうか? 思想の手段へと堕するということだろうか? 物語という形では自己を表現し得ないということだろうか? ……
「君は僕を絵に描くけど、僕を小説に書こうとすればさ、今度は書きたいもののために、余計なもの、例えば父たちのことまで、同じように心を砕いて書かなくちゃならないだろう?」
 それから、僕は余計なもののないほうが好きだな、と付け加えた。

「でも私、いつかあなたの小説を書くからね。お父さんのことも、書いたっていいでしょう? 怒らないよね」
 彼はクスリと笑って、「いいよ」と答えた。それから、見晴るかすように空を仰いで呟いた。「君は多才な人だな」

 私はしっかり許可を得ているので、亡き友人のエピソードも小説に盛り込もうと思う。彼の章の位置づけは「対自(für sich)」。彼の存在は、主人公を映し出す鏡となる。

 絵画や音楽の場合、それらは宇宙と魂との直接の交わりによって発信(創造)され、魂と魂との交わりによって受信(享受)される、ということかも知れない。
 ストーリーが入ると芸術ではない、という彼の言葉の意味を、今では私はこのように受け取っている。

 画像は、ラファエリ「午後の散歩」。
  ジャン=フランソワ・ラファエリ(Jean-Francois Raffaelli, 1850-1924, French)

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