二十日鼠と人間

 
 スタインベック「二十日鼠と人間」は、小説の一章が戯曲の一幕に相当する手法で書かれており、あっさりとした情景と人物の会話の描写があるきりだ。場所も最初と最後の章はサリナス河畔、他の章は農場で、時間も木曜日の夕方から日曜日の夕方まで、と限定されている。
 そのせいか、ストーリーの展開にほとんど無駄がなく、事件の伏線は完璧で、最後の悲劇まで一気に持っていく。

 内面描写はないけれど、人物の単純な言葉や動作から、その気持ちが十分に伝わってくる。主人公はカリフォルニアの農場を渡り歩く二人の労働者。一人はマトモなピリッとした小男で、もう一人は頭の足りない赤ん坊のような大男。二人は自分たちの小さな農場を持つ夢を持つ。
「農場で働く奴らは孤独な人間だ。家族も土地もない。農場で金を稼いだ先から町で使っちまって、先の望みなどありゃしない。だけどおいらはそうじゃねえ。おいらには将来がある。話し相手ってものがある。いずれは金を貯めて、小さな家と農場を持ち、牝牛や豚や鶏を飼うんだ。ウサギも飼おう。ウサギの世話はお前がするんだ」
 そう小男が喋るのを大男は何度も聞きたがり、話をせがむ。

 スタインベックのことだからと、私はまた、農場で働く最下層の人間の悲劇を想定し、「怒りの葡萄」や「タバコ・ロード」あたりの農民の無知と土地への愛着を勝手に予想して、タカをくくって余裕かまして読んでいた。

 最後の終局のとき、大男は最初に言いつけられた約束の場所へやって来る。そこに小男が現われる。そのときにも大男は同じ話をせがむ。小男は淡々と話す。そのちょっとした言葉と動作から、小男の悲痛な、やるせない気持ちが切々と伝わってくる。
 そのとき私ははっとした。おい、ちょっと待て。これはもしかして私が一番苦手なタイプの悲劇じゃないの? わ~、私、こういう悲劇はダメなんだ~。
 ……時すでに遅く、不覚にもぽろりと涙が出た。

 よくスタインベックは、単純なモチーフを用い、虐げられた人々へのヒューマニズムを描いたと言われるが、「二十日鼠と人間」は、その評価にぴったりだった。「怒りの葡萄」で鼻についた無知や共同性への回帰がなく、素直に悲しい物語だった。

 画像は、レドモンド「カリフォルニアの芥子畑」。
  グランヴィル・レドモンド(Granville Redmond, 1871-1935, American)

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