原発是か非か

 
 福島原発事故が起こる前と後とでは、私のなかの感覚は全然変わってしまった。
 別にこれまでの認識が特に変わったのではない。感覚が変わってしまったのだ。うまく表現できないけれど、猶予が許されない、という感覚になった。

 多くのことは、「よく分からないから」、「もっと考えてみたいから」、「答えは持っているが言いたくないから」等々の理由で、価値判断を保留するのが許されている。けれども福島原発事故に関しては、そうした保留はもはや許されない。
 日本全土が多かれ少なかれ汚染され、そこに住む日本人は日々汚染被害を受けている。それだけならまだしも、凄まじい汚染物質がダダ漏れに垂れ流され、放射能汚染は破滅的な世界規模で進行している。
 今や世界では、日本と言えば「フクシマ」であって、「ラジエーション(=放射能)」がイメージされる。

 こんな状況で、もし何の責任もない子供たちから、あるいは少なくとも今回の事故には責任のない世界の人々から、「これでも、原発を許してきたのは正しかったのか、否か」、「これからも原発を許すのか、否か」と問われたとき、「分からない」、「答えたくない」と返答することは、即ち、「是」と答えることを意味する。
 「非」は、「非」と明言することによってしか表明できない。そんな状況だと思う。

 同じ理由で、条件付きで「非」と答えることも許されない。生活水準が落ちるから、不便になるから、……云々は、原発推進派が流布してきたごまかしの論理なのだが、どんな不都合や不利益が伴おうとも、「非」それ自体を選択しなければならない。そんな状況だと思う。

 原発は安全でも安価でもクリーンでもない。今回のような事故が起こった以上、同じような事故が起こり得るすべての原発を、まず即刻停止する。生産がダウンしようが、交通網が混乱しようが、そんなことはその後で考える。……それくらいの決断が必要だ。
 日本はもうすでに救いようのない状況になっている。まだ何とかなるだろうと思っているのは日本国民だけ、まだ何とかごまかせるだろうと思っているのは日本国家だけで、当の日本以外、諸外国にはもう何もかも見抜かれ、見通されている。
 それくらいの決断ができなければ、内奥においても日本は救いようがないままに滅んでしまうことになる。

 画像は、シンベリ「岐路にて」。
  ヒューゴ・シンベリ(Hugo Simberg, 1873-1917, Finnish)
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