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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

アンジおじさんのアルザス

2007-01-29 | 月影と星屑
 

 最近ちょっと思うところがあって、狭い(と言うか、制約のある)政治思想を持つ絵描きは、どこまでの絵を描くのか、興味がある。狭い視野というのは大抵、傲慢を伴うから、私とは相性が合わないんだけれど。

 ジャン=ジャック・ヴァルツ(Jean-Jacques Waltz)というアルザスの挿画家がいる。通称、アンジ(Hansi)。

 屋根にコウノトリが巣を作る木骨組みの家々。ヴォージュ山脈を背に広がるブドウ畑。コワフ(coiffe)という黒い大きなリボンの帽子に、白のブラウスと赤のスカート、上から黒いエプロンドレス、という民族衣装を纏った女の子。
 アルザス地方独特の可愛らしい情景を、そのまま絵にした画家アンジ。

 今でもアンジはアルザスの名物。地方のシンボルとして一役買っているみたい。
 が、アルザスをモティーフとしたアンジの牧歌的な絵には、当時のドイツに対する手厳しい批判と、馬鹿にしきった皮肉とが込められている。アンジ自身、フランス贔屓の強硬な活動家で、その行動はいささか度が過ぎているほど。
 一律にフランスを礼讚し、ドイツを否定するアンジの主張は、大戦後、芸術的評価を得られなかったらしく、アルザス以外ではあまり知られていない感がある。

 コルマールに生まれ、生涯をそこで過ごしたアンジ。彼の生まれた当時、アルザスは、普仏戦争によってドイツ皇帝に併合され、ドイツ領となったばかり。
 進学後、ドイツが教えるドイツの学校で勉学を放棄、教師にもことごとく反発して、とうとう退学。その後、デザインの勉強などを経て、美術学校へと進学、本格的に絵の勉強を始める。
 故郷コルマールでデザイナーとして働く傍ら、ポストカードやプログラムの挿絵を手がけ、アルザスの村々をスケッチしてまわった。

 で、もともとラディカルだったアンジは、政治運動にも参加。絵のほうも、ドイツをコケにした風刺画を次々と発表する。ドイツの旅行者や兵士、教授などを揶揄しながら、ドイツ人を野暮ったく滑稽に描いた。
 こうなったら、ドイツ権力がアンジを、反ドイツ主義者としてレッテルを貼り、マークするのも仕方がない。

 アンジは何度も投獄され、ライプツィヒ裁判所には1年以上の禁固を言い渡されている。このときには、フランス全土に国民的悲憤が巻き起こったとか。
 ……が、この判決、とある記事によると、レストランで、そばに座ったドイツ兵に対して、なんとアンジ、汚れた空気を浄化してやる、と、その椅子の下で、砂糖に火をつけて燃やしたからだという。いくらなんでも、こりゃダメだ。

 が、アンジは警官の隙を突いて逃走、フランスへと亡命する。第一次大戦が勃発すると、偵察兵としてフランス軍に入隊。
 第二次大戦時には、反ドイツ主義的な作品と政治的叛逆とを理由に、ゲシュタポに手配される。スイスへ亡命する途中、ナチスに危うく暗殺されそうになって、このとき負った重症が原因で衰弱、とうとう死んでしまった。

 アンジの絵に、反ドイツ思想を評価する人はほとんどいないだろう。もともと絵は、そういうものではない。
 今、アンジの絵に漂うものは、せいぜい祖国愛、そして郷土愛だけ。

 画像は、アンジ「日曜日、外出前の正しい“ストゥヴァ”」。
  アンジ(Hansi 1873-1951, French)
 他、左から、
  「コルマールの聖ニコラウスと善き肉屋」
  「ガチョウ番」
  「コウノトリの家」
  「私の村」
  「“ブレダラ”作り」

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ノルウェー民話を描く画家

2006-12-14 | 月影と星屑
 

 うちにあるグリーグのCDの表紙には、ノルウェー画家の絵がついている。相棒は、CDのアルバムの表紙の絵を全部憶えている。
 で、キッテルセンの存在も、相棒に教えてもらった。テオドール・キッテルセン(Theodor Kittelsen)は、ノルウェーの自然や民話を描いた画家。トロルの絵は特に有名。

 貧困のなかで育つが、とある人物に絵の才能を見出され、惜し気ない経済援助を受けて、美術学校で絵を学ぶようになる。ミュンヘンにも留学し、ヴェレンショルを初めとするノルウェー画家のサークルに参加。が、援助が途切れてノルウェーに帰国する。
 収入を得るために、ノルウェー民話の挿画を手がけたのをきっかけに、以降、ミュンヘンに戻ってからも、ドイツの新聞や雑誌の挿画のためのデッサン画家として活動する。

 キッテルセンの絵は、線描によるものが多い。線の繊細さ、多様さが描き出す、ノルウェー民話の不思議な、ミステリアスな、奇妙な、ぞっとするような印象は、他に類を見ない。
 私はノルウェー民話を知らないけれども、彼の絵はどれも生き生きとしていて、ユーモラス。自然表現そのものが詩的で、物語性に富んでいる。
 民話を主題とすることで、彼の絵は、ヴェレンショルとは違った、だがやはりノルウェーの伝統的な日常生活に、根差すものとなった。

 ところでキッテルセンは、ノルウェー美術史の流れのなかでは、ヴェレンショルら、民族主義寄りの写実主義に属するらしい。
 が、彼の絵は、自然主義のスタイルではない。そのせいで、彼は決して成功しなかったという。で、彼のようなスタイルは、「新ロマン派(Neo-Romanticism)」と呼ぶみたい。

 このターム、音楽史のものかと思っていたら、同様に美術史にも用いられる。これは「後期ロマン主義(Post-Romanticism)」と同義で、内面性や感情、空想性などを重んじるロマン主義の特徴を受け継ぐ一方、物質文明への嫌悪と表裏をなす象徴主義や、民族アイデンティティの再昂揚による民族主義などを、新たな契機とする。概ね、ヒストリックでロマンティックなものへの懐古や憧憬が特徴。
 ……ロマン主義の様式は、かなり長期のものであることが分かる。

 確かにキッテルセンの絵は、自然と精霊とが同居していた、失われた過去への思慕のようなものが感じられる。だから彼の絵は、グリーグにぴったりなわけかな。

 画像は、キッテルセン「月光のなかのトウモロコシの積み藁」。
  テオドール・キッテルセン(Theodor Kittelsen, 1857-1914, Norwegian)
 他、左から、
  「森のトロル」
  「地をさまよう災い」
  「ノッケン(水の精)」
  「ソリア・モリア城」
  「こだま」

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ノルウェー民族主義、再び

2006-12-05 | 月影と星屑
 
 
 ノルウェー写実主義絵画と言うとクローグが有名だけれど、ノルウェー絵画史の上では、クローグと対立した民族主義の流れのほうが、多分、主流だと思う。

 エリク・ヴェレンショル(Erik Werenskiold)を初めとして、テオドール・キッテルセン(Theodor Kittlesen)、クリスティアン・スクレスヴィク(Christian Skredsvig)、キティ・ヒェラン(Kitty Kielland)、ハリエット・バッケル(Harriet Backer)、ハンス・ヘイエルダール(Hans Heyerdahl)、ゲルハール・ムンテ(Gerhard Munthe)などなど、ノルウェー画家たちはミュンヘン、そしてパリを拠点に絵を学び、故国に帰ってからは、その農村風景や風俗を描いた。時代は19世紀後半、フランスではちょうど、バルビゾン派などの自然主義、そして印象派が生まれ、育った頃。 
 クローグに対して、ヴェレンショルらの流れが「民族主義」と呼ばれるのは、彼らがノルウェーの伝統的な田園を好んで描いたのに加えて、ノルウェー民話などからも題材を得たからだと思う。民族派を主導したヴェレンショルも、ノルウェー民話のための素描を制作し、ノルウェーでは挿画家として知られているという。そう言えば、彼がパリで、同時代の印象派に関心を寄せつつも、線描やフォルム描写を捨てることができず、印象派のスタイルを取らなかったのは、そのせいもあるのだろう。

 ヴェレンショルらはロマン派と同様、いかにもノルウェーらしいテーマやモティーフを取り上げてはいる。が、フィヨルドのような劇的な情景よりも、もっと身近な田園の情景を主題とした点や、リズミカルな諧調や動感によるムードよりも、情景そのものの描写に主眼を置いた点など、やはり、リアリズムが息づいている。色彩は、印象派と同じくらい明るい。
 クローグの絵に比べても遜色のない、自然主義的なディテール。何が違うかと言えば主題であって、そのため、ヴェレンショルらの絵は牧歌的、道徳的な感もある。が、こちらはこちらで、当時ノルウェーの、もう一つの情景だったのだろう、と思う。 

 それで思い出したが、学生のとき、相棒(そのときはまだ相棒じゃなかったけど)に、「牧歌的なのが好き」と言ったところ、「それじゃあ現実を見ていない」と、けちょんけちょんに批判されたことがあった。
 が、今では相棒も、「牧歌的なのが好き」らしい。曰く、
「牧歌的嗜好は、現実逃避を意味しない。要は、現実をリアルに見る眼を持てばいいだけのこと」

 私のこと、けちょんけちょんに言ったくせに。反省して。

 画像は、スクレスヴィク「テレマルク風景」。
  クリスティアン・スクレスヴィク
   (Christian Skredsvig, 1854-1924, Norwegian)

 他、左から、
  ヴェレンショル「テレマルクの少女」
   エリク・ヴェレンショル(Erik Werenskiold, 1855-1936, Norwegian)
  ムンテ「ミルクメイド」
   ゲルハール・ムンテ(Gerhard Munthe, 1849-1929, Norwegian)
  バッケル「洗濯女」
   ハリエット・バッケル(Harriet Becker, 1845-1932, Norwegian)
  ヒェラン「夏の夜」
   キティ・ヒェラン(Kitty Kielland, 1843-1914, Norwegian)
  ヘイエルダール「赤スグリを持った少女」
   ハンス・ヘイエルダール(Hans Heyerdahl, 1857-1913, Norwegian)
 
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ノルウェー・リアリズムの旗手

2006-11-30 | 月影と星屑
 

 私みたいな極東人の眼からすれば、近代北欧の絵は多かれ少なかれ、どの時代のどの画家の絵も、民族主義(Nationalism)の芳香がする。ノルウェーの絵もそう。氷食によるフィヨルドや湖、その鏡のような水面、針葉樹の森や山野草の花畑、赤く塗った木造小屋、白夜と夏至祭、薄い金髪に黒、赤、白の民族衣装、……などなど。
 が、解説によれば、19世紀後半、写実主義の時代には、ノルウェー絵画は激しく対立する二つの流れがあって、そのうちの一つは民族主義に対して強く警鐘を鳴らしていたのだとか。へー、そーなんだ。

 詳しくは調べていないが、一方はクリスティアン・クローグの流れで、こちらは過激で国際派。もう一方はエリク・ヴェレンショルの流れ。こちらは逆に、リベラルで民族派。
 絵を観るかぎり、取り上げるテーマやそこに籠めた主張が違うだけのようにも思える。が、リアリズムという時代が時代だけに、対立の激しさには、ま、政治的背景もあるのかも知れない。

 このうち、ノルウェー写実主義の画家として有名なのは、前者、クリスティアン・クローグ(Christian Krohg)のほう。
 彼のほうが有名なのは、彼がかのムンクの師匠であるとか、国際主義だったとか、そういう事情もあると思う。が、やはり多くは、クローグのクールベ的な、リアリズムに対する自負と直進的なスタイルとに拠るのだろう。

 クローグは法律の学位を取得後、本格的に絵を学び、やがてベルリンへ。ベルリンでは総じて、哲学的、社会的、政治的な問題意識を強くする。この時期、極貧の生活を送ったことも手伝って、都市の下層民の日常生活の現実を記録することが、社会批判の立場に立つことだという、リアリストの思想を会得。
 パリではヴェレンショルら、他のノルウェー画家たちと合流するが、ミュンヘンから移ってきた彼らとは反りが合わなかったのだろうか。帰国後は、ノルウェー農村の伝統的な風景や生活を描く彼らの民族主義を批判する。
 ヴェレンショルらの絵が牧歌的なムードを持つからと言って、彼らが無告の民の生活苦を見ていないわけではないと思うのだけれど。……クールベ的な傲慢、視野を広く持てと説教する側の視野の狭さを、感じないでもない。
 
 が、クローグはクローグで一貫していて、自己の信念のもとに絵を描いていた。彼はジャーナリストでもあったし、作家でもあった。娼婦をテーマに小説を書いてスキャンダルを巻き起こし、警察沙汰にもなっている。
 明るい色彩にも関わらず、彼の絵は暗い。そこには嘆息と諦観、そしてささやかな喜びが描かれている。

 画像は、クローグ「眠る母と子」。
  クリスティアン・クローグ(Christian Krohg, 1852-1925, Norwegian)
 他、左から、
  「三つ編み」
  「身繕い」
  「病める少女」
  「ロフォーテンからの手紙」
  「レイフ・エリクソンのアメリカ発見」

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日本のバルビゾン画家

2006-11-22 | 月影と星屑
 

 相棒は何かにつけて、親父ギャグを考案する。で、相棒の考えた謎々を一つ。
「ディープ・キスしそうにない画家は誰?」
 ……答えは、「浅井忠(=浅いチュー)」。ははははは。寒。

 今年の五月頃(だったと思う)、デパートで開催されていた「浅井忠展」に行った。デパートのギャラリーは、こじんまりとまとまっている点が良いのだが、時間つぶしに買い物にやって来たオバサン集団が、ついでにギャラリーまで足を運んで、ペチャクチャ喋るのでコマルトフ。寒。
 日本の洋画には疎い私だけれど、それでも何人か好きな画家がいる。浅井はその一人。

 浅井忠(Chu Asai)は黒田清輝とともに、近代日本洋画界の先駆者と言われる。佐倉藩士の長男で、幼少時には武芸や儒教など武士道を仕込まれ、花鳥画の手ほどきを受け、父亡き後は家督も継いでいる。が、時代は明治維新前夜。
 近代化の流れのなか、浅井は工部美術学校の1期生として入学。指導にあたったのは、バルビゾン派画家らと交流のあったアントニオ・フォンタネージ。浅井はフォンタネージから、本格的な美術教育を受けると同時に、自然観察にもとづく写実描写、そこに漂う、自然への回帰としての農村生活に対するロマンティックな憧憬、というバルビゾン派の特徴をも受け継いだ。

 画家としては幸運なスタート。だが、日本の伝統美術を否定する欧風化の反動で、今度は日本の伝統美術が称賛され、洋画のほうは否定される苦難の時代がやって来る。行き場を失った浅井は、日本各地を転々としながら風景をスケッチし続けた。

 やがて、日本の洋画界も徐々に認知されるようになる。この時期浅井は、日本の農村風景を瑞々しい印象で描いている。浅井が本領を発揮した絵は、虚飾がなく、さり気がなく、地味で渋くて、さらりとしている。
 東京美術学校の洋画科の復活に伴い、浅井は教授に任命される。が、すぐにフランスへと留学。このとき、スカンジナビア画家たちの芸術家コロニーとして知られる小村、グレー・シュル・ロワンにも滞在し、その風景の数々を残している。

 帰国後は、隠遁の気持ちもあったのだろうか、東京には戻らず京都へと移り住み、後進の育成に努めた。

 この夏、ロンドンがボツになったので、代わりにどこへ行こうかと、いろいろ調べてみたら、日本にも絵になりそうな風景が結構あった。日本にいるあいだに、旅してまわっておこうと思う。

 画像は、浅井忠「春畝」。
  浅井忠(1856-1907, Japanese)
 他、左から、
  「グレー風景」
  「グレー風景」
  「収穫」
  「秋郊」
  「小丹波村」

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