元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

DENONの新型プリメインアンプを試聴した。

2012-11-13 06:38:31 | プア・オーディオへの招待
 DENONの新型プリメインアンプPMA-2000REの試聴会に行ってみた。DENONはかつては日本コロムビアのオーディオ・ブランドであり、2001年に同社の経営再建策により分社化したが、元々は日本電氣音響という戦前に発足したメーカーであった(60年代に日本コロムビアと一度合併)。昨今のオーディオ不況にあっても昔とほぼ変わらず機器のフルラインナップを揃え、その製品は家電量販店でもよく見かける。

 PMA-2000はDENONのプリメインアンプの中堅機種で、96年にシリーズ第一作がリリースされ、今回の2000REで7代目になる。とはいえ、以前の製品は私にとって満足出来るものではなかった。押しの強い中低域と寸詰まりの高域。恰幅の良い音だが、質感はそれほどでもない。何より音場表現については他メーカー品の後塵を拝している印象が強かった。



 それでも前作の2000SEは幾分フラットに振っているようにも思えたが、諸手を挙げての評価は出来なかった。ならばこの新作はどのような展開を示すのか、決して小さくはない関心を持って試聴会に臨んだ次第だ。しかも、今回は2000SEとの聴き比べも企画されており、なおかつ繋げるスピーカーはアンプの違いをリスナーが認識出来るようにと、モニター調の音質を持つ英国PMC社の製品を用意してくれたのは有り難い。

 実際に聴いてみると、PMA-2000REはとても良い製品であることが分かる。前作の2000SEと比べると、低域の押し出し感が幾分気にならなくなった代わりに、中高域がかなり充実してきた。特に中域の聴感上でのS/N比の改善は目覚ましく、音場の見通しが格段に良い。高域も詰まった感じや妙な強調感が伴うこともなく、しなやかに響く。また適度な力感があり、決して音像がやせることはない。

 解像度や情報量といった音のクォリティでは、同クラスのMARANTZのPM-15S2を確実にリードしている。同じMARANTZならば上位クラスのPM-13S2といい勝負だ。またONKYOのA-9070との比較では、クリアネスやヌケの良さならばONKYOに分があるが、音のコクや温度感では勝っている。電源ケーブルの交換により、全域に渡って少し“引き締まった”テイストを演出することも可能だろう。



 おそらくこのアンプの音が嫌いな人は、あまりいないのではないだろうか。決して高忠実度再生を目指したような音作りではなく、独自の色付けが施されているが、鳴りっぷりがよく長時間聴いても疲れない。繋ぐスピーカーもあまり選ばないと思う。万人向けのモデルである。

 ただし、この図体と重量のデカさはいただけない。もちろん“オーディオ機器は大きくて重い方がイイのだ!”と思っている昔ながらのマニアは気にならないかもしれないが、家庭に入れると一般ピープルは“引いて”しまうほどの威圧感がある。それと、10万円を優に超える製品だけに、ツマミはアルミ無垢を採用して高級感を出して欲しかった。

 なお、CDプレーヤーは本機とペアになるDCD-1650REと共に、前作のDCD-1650SEとも聴き比べることが出来た。個人的な印象としては、両者の差はあまりないと思う。店のスタッフも“今回のモデルチェンジはCDプレーヤーよりもアンプの方が音の変化が大きい”と言っていた。

 いずれにしろ、PMA-2000REはこのクラスのベストバイのひとつであり、(重量とサイズの問題をクリアすれば)買って損するような製品ではないと思う。機会があれば、SOULNOTEのsa3.0やNmodeのX-PM2Fといったスクエアな音作りのアンプとも聴き比べてみたい。
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「エクスペンダブルズ2」

2012-11-12 06:37:32 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Expendables 2 )雑な映画だが、許せる(笑)。傭兵部隊“エクスペンダブルズ”の運営主体はハッキリせず、彼らが“出張”する先は絵に描いたような無法地帯。悪人どもの放つ銃弾はほとんど当たらず、こっちの射撃は百発百中。展開も御都合主義のオンパレードで、ピンチになると決まって助太刀が入り、こっちが素手のファイトを提案すると、相手もわざわざ飛び道具を捨てて応じてくれる有様(爆)。

 しかし、それをいちいち指摘して糾弾する気は起きない。何しろ、主演がシルベスター・スタローンだ。その周りにいるのがジェイソン・ステイサムやジェット・リー、ドルフ・ラングレン、ブルース・ウィリス、そしてアーノルド・シュワルツェネッガーだ。ついでに悪役がジャン=クロード・ヴァン・ダムで、大事なところでチャック・ノリスまで出てくる。この面子を前にして、脚本がどうのドラマツルギーがどうのと言い募っても無駄である。

 東欧アルバニアの山中に墜落した輸送機からデータを回収する仕事を請け負った“エクスペンダブルズ”の面々。しかし、そのデータを奪って横流しを企む地元の武装グループが登場。たちまち派手なドンパチが巻き起こる。

 サイモン・ウェストの演出は物凄く大味で、正直言って展開にキレもコクも無い。しかし、ここではそれが映画の瑕疵にならない。ヘタに“緻密な構成”なんか提示されても、大雑把なオジさん連中には荷が重すぎるだろう(笑)。こういう緩い作りの方が、観ている方も安心出来るというものだ。随所に挿入される楽屋落ち的なギャグも寒々とした雰囲気は皆無で、大らかに笑って済まされる。

 各キャストのパフォーマンスに関しては一つ一つ指摘するまでもないと思うが、ジェイソン・ステイサムの体術は相変わらず見応えがある。それに比べればスタローン御大の鉄拳ファイトなんか生ぬるい。でも、それで良いのだ。小難しいことは言わず、黙ってスクリーンに対峙すればオッケー。そういう映画である。
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千如寺の紅葉を見物した。

2012-11-11 06:31:08 | その他
 先日、福岡県糸島市にある真言宗大覚寺派の古刹・雷山千如寺大悲王院に行ってきた。この寺は成務天皇48年(西暦178年)にインドから渡来した清賀上人という僧が開創したという伝説があるらしいが、とにかく歴史が古いことは間違いないようだ。



 ここはこの季節、県内で有数の紅葉の名所として知られる。行楽客が多いことを予想して朝早く出掛けたのだが、すでに第一駐車場は満車。第二駐車場に何とかギリギリで入れた。午前10時過ぎにこの寺を後にしたのだが、すでに駐車待ちの長い渋滞が発生しており、余裕を持って見物するためには出来るだけ早い時間に到着することが大事かと思う。

 目玉は、県指定天然記念物でもある樹齢400年の大楓だ。福岡藩主によって植樹されたものと伝えられているが、なるほど実に見事である。この大楓の他にも境内には200本を超えるモミジが植えられており、11月中旬から下旬にかけて次々に紅葉していく。



 大楓以外の木々はまだ十分に紅葉しているとは言い難かったが、それでも所々色付いているのを見るだけでも楽しい。本堂の裏には心字庭園と呼ばれる日本庭園があるのだが、残念ながらちょうど団体客でごった返していて、入るのを断念した(^_^;)。本尊の木造十一面千手千眼観音像(鎌倉時代に建立)は国の重要文化財に指定されているが、結局これも見られなかった。機会があれば改めて訪れたい。

 それにしても、冬場にはスキー場も開設する雷山付近は、下界よりも体感温度が低い。これから足を運ぶのならば、防寒対策は必須であろう。
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「闇金ウシジマくん」

2012-11-10 07:14:52 | 映画の感想(や行)

 怪しげなイベントサークルの主宰者に扮した林遣都の熱演で、何とか最後まで観ていられた。考えていることはデカいけど、本人の資質がまったく伴っておらず、藻掻けば藻掻くほどドツボにハマっていく風采の上がらないアンちゃんを、林は懸命に演じる。特に、打つ手が全て裏目に出るという“貧すれば鈍する”を地で行くような終盤の狼狽えぶりは、一種のスペクタクルと言えよう。

 本人の“器の小ささ”に相応しい結末を迎えるのも、大いに納得してしまう(笑)。ともあれ、林は将来を嘱望される俳優であることには間違いない。さて、本作で林のパフォーマンス以外に何があるかというと、これが実にお寒い限りである。

 真鍋昌平の同名漫画(私は未読)の映画化だが、“原作が人気があるから取り敢えず映像化してみました”みたいな、軽いノリしか感じない。法外な金利で金を貸し付ける闇金業者“カウカウ・ファイナンス”社長のウシジマは、その取り立ても容赦ない。母親のギャンブルでの多額の借金を背負わされた若い女や、イベントサークルで一儲けしようとする青年は、ウシジマと知り合ったばかりに坂道を転げ落ちるように人生の階段を踏み外してゆく。

 ウシジマを演じる山田孝之は外見こそ原作に近いらしいが、血も涙もない高利貸しの凄みが出ていない。肉蝮と呼ばれるイカレた男をはじめ、周囲には暴力の臭いをプンプンさせた連中がたむろしているのだが、そのいずれにも“中身”がない。ただ表面的に取り繕っているだけだ。

 カネに狂わされた人間の愚かさをジリジリと焙り出さないで、いったい何の映画化だろうか。もちんこれは、山口雅俊の演出が手緩いことが大きい。いくら元ネタが漫画だろうが、作品に実体感を付与させるのは正攻法の映画作りである。単に見てくれをハデにするだけでは、茶番にしかならないのだ。

 あと、ヒロイン役の大島優子の演技は、かなりヒドい。大根そのもので、最近の例では「ぱいかじ南海作戦」の佐々木希といい勝負である。母親役に黒沢あすかが扮しているのだが、アクの強い黒沢と並ぶと、その“軽量級”ぶりには情けなくなってしまう。(可愛いけど)とびきりの美少女でもない彼女および彼女の仲間達に、芸らしい芸も身に付けさせないまま人気度ばかりを上げようとする秋元某の遣り口には釈然としないものを感じてしまう。
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「友へ チング」

2012-11-06 06:45:41 | 映画の感想(た行)
 (英題:Friend)2001年作品。釜山を舞台に、幼なじみの4人の仲間がたどる、悲劇的な運命を描く。韓国版「スタンド・バイ・ミー」とか「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」とか言われた本作は、“韓国人にしか分かるまい”というネタばかりが網羅されていわけではなく、少年時代の友情とその後の人生という普遍的なテーマを扱っている。

 それだけ演出にはオーソドックスなドラマ展開とここ一番の映像の喚起力が必要となるのだが、この映画が日本初紹介となったクァク・キョンテク監督は骨太な押しの強さで観る者を圧倒させる。



 嬉しいのは主人公達の少年時代から長じてヤクザになった仲間を中心に描く現在の場面まで徹底したアクション仕立てになっていることで、特に映画館での乱闘シーンや相手組織への殴り込みの場面などは往年の東映任侠路線を思わせるキレの良さ。そして沈痛なラストの扱いも見事なものだ。

 主役のユ・オソンも良いが、共演のチャン・ドンゴンはさすがの存在感。ソ・テファやチョン・ウンテク扮する脇の面子も悪くない。

 映画では主人公たちの出生を60年代半ばに設定しているが、日本と韓国の社会風俗は約10年ほどのズレがある。従って少年時代を描いたパートは日本の昭和40年代に該当し、精緻なディテールも相まって古き良き日本映画を観るようなノスタルジーを感じさせる。その点でも見応えあり。
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LUXMANのセパレート型アンプを試聴した。

2012-11-05 06:53:05 | プア・オーディオへの招待
 我が国の代表的なオーディオメーカーであるLUXMANの製品を試聴できたのでリポートしたい。先日も同社の新型プリメインアンプのL-305を聴いた印象をアップしたが、今回の試聴会の主役は上級機のセパレート型である。

 ラインナップはプリアンプがC-600fC-800f、メインアンプがM-600AM-800A、CDプレーヤーがD-08D-05である。600シリーズが100万円で、800シリーズが200万円。この上に1000シリーズというのがあり、そっちは400万円なのだが、展示されていた製品でも十分高価であることは間違いない。なお、スピーカーは英国MONITOR AUDIO社のPL300が採用されていた。



 聴いた感じは、整然としたアキュレートな音であるとの印象を持った。高音から低音までほどよく出て、不自然な強調感はない。音像の捉え方や音場の広がりも申し分の無いレベルだ。600シリーズと800シリーズとではやはり情報量に差が出るが、一般的な認識からすれば、600シリーズでも十分な高音質だと言える。

 しかし、しばらく聴いているうちに以前同社のDAC(デジタル・アナログコンバーター)のDA-200に接したときのような、猛烈な違和感を覚えた。これは作為的な音だ。PL300は前に(他社のアンプで駆動した音を)何回も試聴していたが、こんなにワザとらしい音を出しているのに接したのは初めてなので、これはアンプのキャラクターによるものと考えて差し支えないだろう。

 これはまるで、マーケティング調査によって“オーディオファンが喜ぶ音造り”の何たるかを探り、それを手練れの営業マン達が合議制で練り上げたようなサウンドではないか。



 要するに、製品の送り手の“こういう音を聴かせたい”というポリシーがまるで伝わらないような音作りなのだ。確かに店頭効果は高く、この音が好きだというユーザーが多いことは分かる。しかし、少なくとも私には“血の通った音楽”は感じられなかった。聴いていて面白くないのである。

 前に聴いた同社のL-305の素晴らしさと、今回の高級セパレート機の低評価との“違い”は、ポリシーの有無によるところが大きいと思う。もちろん、600シリーズ等の製作コンセプトであろう“顧客の好みの最小公倍数を目指そう”というのも、まあポリシーの一つには違いない。しかし、そんな(ある意味)下世話な思惑は、高級オーディオに対するセンス・オブ・ワンダーとは程遠いものだ。

 対してL-305をはじめとする“ヴィンテージ路線”の製品には、エンジニアが考える“良い音”に対するポリシーが滲み出ている。やはり社長個人が手掛けた製品と、営業サイドの意向が大きく反映される(おそらくは)合議制によるプロダクツとは、根本から出来が違うと思わせる。

 ともあれ、もしも私がLUXMANのモデルを買うとしたら、L-305やセパレートアンプのCL-38uMQ-88uといった古くからの“ラックストーン”を踏襲したとモデルになると思う。アキュレートな方向性を目指したいと思えば、(国内メーカーならば)LUXMANではなくACCUPHASEの製品を選ぶだろう。
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「夢売るふたり」

2012-11-04 06:59:20 | 映画の感想(や行)

 西川美和監督は、結局「蛇イチゴ」と「ゆれる」の2本で“終わって”しまうのではないかという危惧の念を抱いてしまった。斯様に本作のヴォルテージは低い。

 共に九州出身の貫也と妻の里子は東京の下町で小料理屋を営んでいてけっこう繁盛させていたが、ある晩調理場から失火し店は全焼。失意のどん底を味わうハメになる。自暴自棄の日々を送っていた貴也は、ひょんなことで店の常連客だった玲子と再会。酔った勢いで関係を持ってしまうが、それを知った里子は、夫を孤独な女たちに近付けて金を巻き上げる結婚詐欺を思いつく。

 本作の最大の欠点は、ダンナの浮気を知った妻が、どうして夫に結婚詐欺を持ちかけるのか、その理由がほとんど描かれていないことだ。パートナーの不貞に対する“腹いせ”だという解釈も成り立つが、そんなのは“後講釈”に過ぎないだろう。平凡な夫婦が犯罪に走るというイレギュラーな事態に説得力を持たせるには、切羽詰まったシチュエーションの構築が不可欠なはずだが、この映画にはそれがまったく見当たらない。

 そもそも、夫婦の濡れ場を省略したのが間違いだ。文字通り“裸”でぶつかることによって、互いの内面やコンプレックスをジリジリと焙り出すことも可能だったはずだが、ここでは御為ごかし的な妻の自慰シーン程度で事を済ませてしまう。

 さらには、彼女の“思わせぶりだが実は何も語っていない”ような言動が積み重なり、話はどんどん絵空事になるばかり。ならば犯罪ドラマにふさわしいサスペンスの醸成が出来ていたかというと、それもまるで不発。ストーリー面でグッと惹き付けられる箇所は皆無に近い。

 これではイケナイと思ったのか、終盤には思わぬ刃傷沙汰が挿入されるが、これがまあ取って付けたような段取りで失笑するばかりだ。あと気になったのは、貫也と里子が詐欺の相手に選ぶ重量上げの女子選手の扱いだ。女性ウェイトリフターとは面白い設定だが、演じる女優(江原由夏)の演技のカンの悪さも相まって、実に退屈なモチーフにしかなっていない。

 撮り方が平板そのもので、男に縁の無さそうな女の屈折した心情が上っ面しか捉えられていないのだ。とにかく、キャラクターの練り上げ方が足りていない。主演の松たか子と阿部サダヲは熱演だし、鈴木砂羽や木村多江、田中麗奈も悪くないのだが、筋書き自体が盛り上がらないため、いずれも空回りしているように見える。

 ともあれ、西川監督に必要なものはオリジナル脚本をキチンと精査できるスタッフであろう。
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綾辻行人「Another」

2012-11-03 07:06:19 | 読書感想文
 古澤健監督による映画化作品は評判が悪いようなので観ていない。ならば、2010年版の「このミステリーがすごい!」の国内編で、第3位に入った原作はどうなのだろうと思って読んでみたが、これもあまり褒められた出来ではない。

 98年春、東京から病気療養のため、山あいの地方都市にある夜見山北中学校に転校してきた榊原恒一。だが、新しいクラスである3年3組の雰囲気がどこかおかしい。同級生の女生徒・見崎鳴を、皆“存在していない人間”のごとく無視し続けているのだ。やがて恒一は、このクラスに起こっている戦慄すべき“ある現象”を知ることになる。

 3組のメンバーや担任教師およびその親族がほぼ毎年不慮の事故や急病で相次いで死亡し、しかも、クラス内には過去に死んだ者が誰にも気付かれないうちに紛れ込んでいるという。見崎鳴が無視されていたのは、一人増えた“死者”との帳尻を合わせるための“まじない”らしい。しかし、学級委員の女子が死亡事故に遭ったのをきっかけに、死の連鎖はその年も発生する。



 この設定のおかしな点は、長年にわたって異常なほど数多くの犠牲者が出ているにもかかわらず、当局側が大きく関知している様子が窺えないことだ。教師連中が腰が引けているのならば、市議会や教育委員会などが問題視してもおかしくないのに、本書では事態を懸念する刑事一人を登場させるだけでお茶を濁してしまう。

 そもそも普通に考えれば住民がまず騒ぎ出すだろうし、それを嗅ぎ付けたマスコミが押し寄せてもおかしくない。話を小さな町に“限定”させられるほど、この“現象”は規模が小さなものではないはずだ。

 さらに、この“現象”は26年前に死んだ生徒をめぐる周囲の対応に端を発していることが示されるが、それがどうして死体の山が築かれることになるのか、さっぱり分からない。ここで“ホラーなんだから理屈っぽいことは言うべきではない”という突っ込みが入るのかもしれないが、ホラーやファンタジーのような絵空事だからこそ、筋の通ったプロットの積み上げが必要なのだ。

 だいたい、文中に“理由は分からないけど、ただそうある現象”なんてセリフが何度も出てくるなんて、読者をバカにしているとしか思えないではないか。しかも、一番サスペンスが盛り上がるであろう“紛れ込んだ死者を探す”というモチーフは軽視され、及び腰のまま中盤を過ぎると、何やらハリウッド製三流ホラー映画のようなバタバタした終盤が待ち受けるという脱力ぶり。それまでに明示も暗示もされなかった“小ネタ”が最後の方になって漫然と並べられるに及び、タメ息が出てきた。

 綾辻はミステリー作家として名を成しているらしいが(私は読んだことはない)、どうも“軽量級”のような印象を受ける。あまり作品を追いたいタイプの書き手ではないようだ。
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「プロメテウス」

2012-11-02 06:45:23 | 映画の感想(は行)

 (原題:PROMETHEUS)リドリー・スコット監督作では最低の映画である。よくもまあ、こんなくだらない企画が通ったものだ。映画会社の幹部はいったい何をやっていたのだろうか。あの「エイリアン」の前日譚だからヒット間違い無しとでも思ったか。いくら人気シリーズの関連作だろうと、出来が悪ければどうしようもないのだ。

 2093年、考古学者エリザベスら17名のクルーは、宇宙船プロメテウス号に乗って“人類の起源”とやらを解明するために未知の惑星を目指す。だが、このミッションの背景がまったく描かれていない。世界各地の古代遺跡から同じような構図の壁画が出てきたからといって、どうしてそれが“人類の起源”に繋がるのか不明。さらに言えば、それらのどの部分が特定の天体を指し示しているのかも分からない。そもそも、壁画が宇宙座標みたいなものであることに関しての説明もない。

 長い人工冬眠の末にやっと目的の惑星にたどり着いた一行だが、当初はこの星の大気が人間の生存に適していないことが示されるものの、ナゾの建造物の中に入ったら“空気の成分は地球と同じだ”とばかりに皆安直にヘルメットを外してしまうのには愕然とした。未知のウイルスか何かが存在する可能性に思い当たらないらしい。

 嵐が迫ってきたので慌てて宇宙船に戻る彼らだが、その前に怖じ気づいて戦線離脱した2人は建物の中でなぜか道に迷っている・・・・というあたりで、私は観る気を無くした。こんなドラマツルギー不在の与太話に付き合ってはいられない。

 後の展開は推して知るべし・・・・と思っていたら、果たしてそれからは、いちいち指摘するのが面倒になるほどの支離滅裂な描写の連続。バカバカしいにも程がある。この映画の“種明かし”を知りたかったら次回作を観ろと言わんばかりの幕切れにも、不快感しか覚えない。

 出ている連中も一人として印象に残るヤツはおらず、特にヒロイン役のノオミ・ラパスは不細工そのもので、大いに気分を害した。シャーリーズ・セロンも顔を出しているのだが、彼女を活かすような御膳立ても無し。マルク・ストライテンフェルトの音楽、ダリウス・ウォルスキーの撮影、いずれも特筆すべきものはない。

 それにしても、この映画の時代設定は「エイリアン」よりも随分と前のはずだが、メカの“新品度”(?)は「エイリアン」よりも上であるのには苦笑してしまった。
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「クレイマー、クレイマー」

2012-11-01 06:48:29 | 映画の感想(か行)
 (原題:Kramer vs. Kramer )79年作品。第52回の米アカデミー賞の作品賞をはじめ、当時の主要な映画アワードを総ナメにした話題作である。当然我が国でも評判になったが、どうもそのヒットの要因が、主題とは別なところにあったような気がして、居心地が悪い思いをしたことを覚えている。

 マンハッタンで働く会社員テッド・クレイマーはとても仕事熱心な男だが、家事と育児を妻のジョアンナにすべて全て押しつけていた。彼女が“何か仕事をしたい”と夫に相談を持ちかけても、“仕事に打ち込む甲斐性がある夫でどこが悪い!”と言い張って取り合わない。ある日ジョアンナはテッドに別れを告げる。そして5歳の息子を一人で面倒を見るハメになったテッドの悪戦苦闘が始まるのであった。

 当時この映画に対して“慣れない家事に戸惑う仕事人間のダンナが面白い”とか“ゴタゴタの末に、父子の絆が深まるところが泣かせる”とかいった評が罷り通り、実際にそういう(お涙頂戴の)ヒューマンドラマとして観客に受け入れられた側面があったことは否定できない。



 しかし、大時代な“父子もの”がオスカーを取れるわけがない。本作のハイライトはテッドとジョアンナが親権を法廷で争う後半にある。二人とも息子を愛していて、何とか幸せな結末に持って行きたいと望んでいる。だが、夫婦生活が終わりを迎えた今、息子を手元に置くためには、いかにして“相手が親として相応しくないか”を暴き立てないといけないのだ。

 その頃アメリカ国内において社会問題となっていた離婚・養育権を真正面から描いていることは間違いないが、とにかく、親としての情感を否定するかのようなドラスティックな社会システムへの告発には、鋭いものを感じる。少なくとも、本作を観て親子の情愛にしみじみと浸る余裕は、私には無かった。

 監督のロバート・ベントンはこの映画の他にも「殺意の香り」や「プレイス・イン・ザ・ハート」といった注目作があるが、本作での仕事がベストである。主演のダスティン・ホフマンとメリル・ストリープも素晴らしい演技を見せる。特にストリープに関してはここでのパフォーマンスが一番だったと、今でも思う。

 背景に流れるパーセルやヴィヴァルディのバロック音楽。名カメラマンのネストール・アルメンドロスによる奥行きの深い映像。この時代を代表する秀作である。
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