気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

窓は閉めたままで 紺野裕子 

2017-07-04 18:15:43 | つれづれ
鬼胡桃の木の間にひかる阿武隈の川に汚染は測定し得ず

まだ生きて温かきからだ懇ろに清拭されたり口の中まで

老いし夫婦のかたちつぶさに子らに見せ父母は逝きたり二年をおかず

汚染水の流出止まずふるさとのずつしりおもい桃を切りわく

いまいちど汽笛ききたし出発の座席に父とよそゆきを着て

おおブレネリ、くちずさみつつ浴室を磨きをへればなつの夕映え

手になじむキッチン鋏に封をきる二キロの米は軽がるとして

柩にはめがねはずした田村よしてる噓のやうにも眠りてをりぬ

ペリー艦隊「着船の図」の行列の左右にわづか楽人は見ゆ

ふくしまの止むときの無き喪失をわが身のうちにふかく下ろさむ

(紺野裕子 窓は閉めたままで 短歌研究社)

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短歌人編集委員の紺野裕子の第三歌集『窓は閉めたままで』を読む。

紺野さんは、福島市出身の人。高校卒業後は首都圏で暮らしている。この歌集は、東日本大震災の影響の残る福島への思いと、お父さまとの別れが芯となっている。旧かな文語の端正な詠いぶり。離れていても在り続ける故郷、両親の存在感がいかに作者の人生を豊かなものにしているかを、しみじみと思いながら読んだ。

一首目、三首目、いつまでも原発の崩壊による汚染が続く不安を鬼胡桃、桃と絡めて詠んでいる。二首目は挽歌だが、「口の中まで」が哀切。そばで見ていないとこうは詠めない。五首目。きっと可愛がられて育ったであろう作者の幼いころを思い出させる。「よそいきを着て」に共感する。むかしはよそいきの服とふだん着があったと、改めて思う。六首目は爽やかな家事のうた。紺野さんは音楽(声楽)を専門に勉強した人なので、日常にも歌が自然に出てくるのだろう。九首目で絵を見るときも、つい楽人に目が行ってしまうのだ。「わづか」に楽人ももっと大切にしてほしいという気持ちが見える。
七首目は、購入した米の袋が2キロと小さかったときの実感から、家族が大勢だったころを懐かしむ歌。
八首目は、短歌人の仲間の田村よしてるさんの歌。一緒に歌会をしたり、観光をしたり、飲んだり食べたり。いろんなことがあったのに、早くに亡くなってしまった田村さん。「残されしのむらたむらの野村さんが柩を追へるそのうしろ見つ」も心に残る。小池さんが水戸黄門なら、助さん格さん的な存在だったお二人。「のむらたむら」と呼び親しんでいた。「嘘のやうにも」に実感がこもる。

短歌は短い詩形なので、一首に収めることのできる情報が限られてくる。紺野さんの歌を読み、この量の配分が絶妙だと思った。言い過ぎず、説明でもなく、思いを読者に手渡す。適量を考えて歌を作りたいものだと、教えられた。

おるがんのほとりに歌ひしことありや正岡律の歌ごゑおもふ

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