気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

春の質量 河合育子 短歌研究社

2022-11-09 23:13:57 | つれづれ
蔓草がはてなく繁る夏野ゆくひかりするりと蛇へ戻りぬ

コンビニの伊右衛門取ればその隙間するする次の伊右衛門が消す

太極拳しながら母は朝の空はみだすほどの〈ゆ〉の字書きたり

曇り日の複写機ひらき詰まりたる雲のひとひらつまみ出したり

椎の木の下へころがる椎の実よ転がることが木の実のしごと

丸めんとすれども伸びたがる餅の気もちなだむる母の手わが手

豆を煮る母が笑へば黒豆もわたしも笑ふ大歳の夜

天上の春の質量いかほどかひかり引つ張りひきがえる跳ぶ

「勝」の字の肩のあたりを揉みほぐし深呼吸などさせてやりたし

新品の縞柄のシャツ着るけふは尻尾しやきつと立てつつ歩く

(河合育子 春の質量 短歌研究社)
************************
コスモス、COCOONの会所属の河合育子の第一歌集。身近な素材で歌を作っていて読みやすい。一読意味がわかるが、もう一度読むと仕掛けに気づかされる。小島ゆかりの傍で学んできて、そのユーモアの精神が受け継がれている。音感がよく、音が音を引き連れてきたのがわかる。

しずくのこえ 東海林文子 六花書林

2022-10-31 10:54:19 | つれづれ
スーパーの袋一つの手応えを提げて帰り来冬枯れの道

「次に生かす気持ちがあれば何一つ無駄なことはない」子は卒業へ

一つの目の緩さに崩れしドイリーをほどく新たに編み出す一目

十字架の見えざる重さ最後まで我も歩いて行かねばならず

「ひとつぶのしずくがなければ海もない」一斉音読窓を震わす

土産店軒下に「津波ここまで」の変色したる張り紙残る

「困った子は困っている子」ぷくぷくのAのほっぺを今日もなでやる

脈拍も呼吸も零(ゼロ)になるからだを父はしずかに脱いでしまえり

教師としてのプール指導終え横たわる水やさしくて深き青空

朝夕に子が住めるあたりをながめては病棟の窓になごむひととき

(東海林文子 しずくのこえ 六花書林)

**********************

短歌人同人の東海林文子の第二歌集。秋田県で小学校教師として勤め上げた日々をまとめた歌集で、自分史としての色が濃い。子供の自活、父親の看取り、自身の退職と病が淡々と描かれる。会話文をうまく取り入れることで歌がいきいきしてくる。人の中で役にたつ人生ということを考えさせられた。

夏の天球儀 中川佐和子 角川書店

2022-10-23 11:01:27 | つれづれ
長くながくかかりて選ぶ夏帽子卒寿の母に気力のわきて 

天球儀ながめておれば人間を小さく感ず夏の光に

デパートのうっすら寒き台の上(え)に袋詰めなる福らしきもの

咲くという大きな力 黄の色が喇叭水仙を浸(ひた)しはじめる

遠き葉は大きく揺れて近き葉が順のあるごと小さく揺れる

テーブルのうえの洋梨影の濃くひとつひとつが空間をうむ

こんなところに来てしまったと言う顔を海辺の猫にみておりわれは

死ののちに米のこされて食むことのあらざる母よ九十三歳

実印をシンガーミシンの抽斗に隠しし母に胸を突かれる

まやかしの言葉のようにひんやりと〈人道回廊〉ニュースに流る

(夏の天球儀 中川佐和子 角川書店)

*******************

未来短歌会の中川佐和子の第七歌集。九十三歳で亡くなった母の思い出の歌が多い。シンガーミシンなどの銘柄が時代を反映していて懐かしい。「なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ」と詠った子供たちも成長しそれぞれの家庭を築く。家族の歌はもちろんのこと、デパートの福袋や植物を見て描写する確かな技術を感じる。天球儀の視線で人間を捉えるからだろう。

淡黄 山中律雄 現代短歌社

2022-10-18 17:13:11 | つれづれ
大きなる鯉のあふりにたゆたへる水の濁りはしばしにて澄む

震災の津波に逝きし人あはれ型ひとつなる位牌がならぶ

しろうをの透きとほる身をはかなめど口にはこべば口がよろこぶ

夜と朝の境にしるし打つごとくうす暗がりに野の鳥が鳴く

墨染めの僧衣まとひて乗るバスのわれの傍へに人は座らず

そのときの加減におなじ色のなき草木に染めし袈裟の淡黄(たんくわう)

おのずから窪みにみづは集まりて秋の干潟にひかりを返す

窓外にスコップ使ふ人のゐてすこやかげなる音は身に沁む

公園の空よりくだり来し鳩が木立の影にその影仕舞ふ

五年後の生存率の四割をよろこぶ勿れ六割は死ぬ

(山中律雄  淡黄  現代短歌社)
*****************************
山中律雄の第五歌集。お会いしたことはない。六十歳代の僧侶というので、生活感覚が遠いかもしれないと読み始めたが、とても良い歌集だった。一首一首に神経が行き届き、歌が粒ぞろいなのだ。一首目、鯉のことを詠みながら人生を思わせる。その程度のことで慌てるなと言われている気がする。僧衣の傍に人の座らぬことを寂しがるようで、実は人との距離を楽しんでいるようだ。後半、病を得た歌は切実だが、どこかで俯瞰している視点がある。家族のうたが多いが、それに閉口することはなかった。

はるかな日々 栗明純生 六花書林

2022-10-10 22:30:00 | つれづれ
夕さればあかねの影絵、大手町を眼下に眺(み)つつメール読み継ぐ

入りくるメール幾十標題を読みとばしさぐる緊急案件

半円のくぐり戸にかつてのポーズとる妻はほどよく肉づきしなり

壁面をほぼ本棚で埋めつくし終日ぼーっと過ごす贅沢

冠動脈に管通さるる不気味さの二時間あまり慣れることなく

M&A、スワップ、オプション、インデクス、アルゴリズムに追いまくられて

日々外に出でゆく妻よそんなにも俺が居るのがうっとうしいか

シンゾーがウラジミールと呼ばうたびぞっとする笑みプーチンは浮かべ

早朝の目覚めの憂鬱恐る恐るパソコン開き株価を覗く

公園の露店カフェーの木漏れ日をまだらに浴びてマスクを外す

(栗明純生 はるかな日々 六花書林)

*********************************

短歌人編集委員の栗明純生の第五歌集。証券業界で会社を転じつつ四十三年を働いてきて、退職ののちに纏めた一冊だ。庶民にはわからないような神経をすり減らす激務の日々だったのだろう。心臓の手術の歌もありながら、妻との暮らしがあり、スポーツや旅を楽しんでいる。短歌に関わる人には貧しさ、生活の不遇を嘆く人が多い中で珍しい存在だ。

ひともじのぐるぐる 田上義洋 六花書林

2022-09-20 19:23:52 | つれづれ
幾千の花を水面に散らし終へ五月の山へ消ゆる大藤

親鶏の名も書かれたる卵三つ謹んで食む春の夕暮れ

南蛮と蔑せし裔(すゑ)のわれら今カステラおいしく頂いてをり

身のうちゆはがれ来しかとゆくりなく眼鏡レンズはぱらりを外る

街の湯に父と入りしは去年なり寡黙なりしよその日も父は

居酒屋を出で来し男女が手を繋ぐふと街の灯の途切るる辺り

換気扇をりをり回り気まぐれに夏の日差しを細切れにする

触れられてふとも鳴りだす風鈴の鳴り止むまへの音のかそけさ

東京のバナナと飯塚のサブレーが新幹線で東北へ行く

ふるさとの葱のぐるぐる肥後弁のふとも懐かし酢味噌に食みき

(田上義洋 ひともじのぐるぐる 六花書林)

************************

短歌人の田上義洋(たのうえよしひろ)の第一歌集をよむ。短歌をはじめて日が浅いとのことだが、なかなかどうしてかなりのセンスの持ち主とわかる。文語旧かなを使いこなして、違和感がない。モノを見る目が鋭く、独自の切り取りをしながら、のどかなユーモアを醸し出している。音感がよい。「南蛮と蔑せし」は「な」音の連なりが楽しい。音が次の音を呼ぶのだろう。これからの活躍が楽しみだ。

おかえり、いってらっしゃい 前田康子 現代短歌社

2022-09-04 12:02:52 | つれづれ
ひんやりと足踏みミシンに秋が来て踏めば遠くに行けるだろうか

叡電のひと駅ひと駅小さくて木の椅子に待つ学生たちが

寂しいときぼそぼそ食べている箱にビスコの坊やの古びし笑顔

我は娘(こ)を 娘は夫を叱りいて夫は老いたうさぎと話す

基地が見え砂浜が見え基地が見えだんだんそれに慣れゆくまなこ

草の歌私が詠まねば誰が詠む えのころぽんぽん電柱を打つ

真四角にアイロンあてしハンカチを護符ならねども今朝も手渡す

体温を他人に知られ店に入る影売る男の話のように

おかえりといってらっしゃい言えぬ場所に子ら二人とも行ってしまえり

シンプルに母が願いてつけし名もこの頃効力うすれてきたり

(前田康子 おかえり、いってらっしゃい 現代短歌社)

**************************

前田康子の第六歌集。植物好きの前田さんらしい野原の装丁(花山周子)が楽しい。京都市の同じ区に住んでいて、ときどきバスで出会ったりする。自然体のように見える歌がならぶ。本当は「そのまんま」ではないだろうけれど、そのまんまかと思わせる技を感じる。生活感があるのに、ちょっと浮遊している。また家事のできる人なのだとも思った。

麦笛 室井忠雄 六花書林

2022-08-04 22:48:09 | つれづれ
「最初はグ-」を流行らせたるは志村けん令和の春に死にゆきにけり

働けばしあわせになると信じつつ生きてきたりぬ昭和の時代は

旅人のわれは味わうあしひきの会津のやまのコクワひとつぶ

生栗を五つほど入れわがからだ午後五時半のバスタブに浮く

アルミニウムでつくる一円玉よりも価値ある紙の二円切手は

火葬場担当でありし若き日死者を焼く原価を計算せしことのあり

甘酒を売っていたから和菓子屋になっても「あまざけ」屋号は楽し

九十歳まで生きた葛飾北斎は七十歳から本領発揮す

下向きに生きた羊を殺すとき仰向けにして空を見せやる

濡れないように包んでとどく朝刊の記事一面が豪雨災害

(室井忠雄 麦笛 六花書林)

******************************

短歌人の室井忠雄の第四歌集。読みやすくわかりやすい。ちょっとした豆知識を歌にしているだけのようだが、深く身にしみる。味わいの濃い「ただごと歌」と言えばよいのだろうか。小池光の弟子のひとり。謂わばわたしの兄弟子のような存在だと、改めて認識した。こういうすっきりした歌に癒やされる。


発寒河畔 明石雅子 六花書林

2022-07-28 15:00:02 | つれづれ
やはらかき雪のくびれにさす茜 中洲ふたわけにして川の流るる

あふむきに泳ぎゆくときつるくさのつるの捩れのゆるびゆくなり

独り暮らしの怖さはそこにあるものが何日間もそこにあること

すぐそばに死があるゆゑに距離おきて話せ食せといふ 令和三年

三密といふ何やら甘ゆき言の葉のほそほそ飛び交うマスクの中より

来る人と逝きたるひととすれちがふ発寒河畔の風ひかる橋

少しづつしぼむわたしの紙風船 今も昔も言葉とは 剣

ひと様のことと思ひてゐたる死がふと立ち上がり目の前にある

みんなみの血が指の先までめぐるゆゑわたしは今日も眠れぬ一樹

ふくろふはねむたき尊者の貌をして今のまんまでよからうといふ

(明石雅子 発寒河畔 六花書林)

****************************

短歌人所属の明石雅子の第二歌集。第一歌集『骨笛』上梓より三十年以上が過ぎたという。
歌集名の発寒川のほとりに長く暮らした歳月。「さくら鳥の来るところ」という副題がついている。残り少ないであろうこれからの日々を思い、気持ちを宥めるような歌に魅力を感じた。短歌という文芸に関わることで、豊かさを思うこともあれば、その逆もある。「うつし身は聖母ならねど 文芸のとりこなるゆゑ疎まれてゐる」という歌もあった。

樟の窓 大辻隆弘 ふらんす堂

2022-07-21 17:47:43 | つれづれ
 一月五日 岡井隆の誕生日
亡きひとの生誕の日を嘉(よみ)せむはさびし遙かに川明かりして

 三月六日 軽装の歌集ばかり流行る
てのひらの丘をページに圧し当てて今日届きたる歌集を開く

 四月二十五日 ワクチン不足
神託のごとくにも聞こゆこの秋に来む飛ぶ鳥のアストラゼネカ

七月一日 短歌日記折り返し
さやさやと浮かむ夕合歓これの生(よ)の復路半ばのあたり気だるし

 七月十二日 偶成
追憶は細部に及び火のなかに籐ほどけつつ燃えてゆく椅子

八月六日 秋隣
思つたより夏はみじかく餡蜜の半透明に沈んだ小豆

 八月十四日 Z00m選考会
大いなる手があらはれて緘黙の声のミュートを解(ほど)かむとせり

 八月十八日 休暇明け
葉の影が幹の裏よりまはり来て樟(くす)の木は夏の午後となりたり

 九月二十日 敬老の日
鍵束の鍵かろらかに触れあひて涼しく朝に韻(ひび)くその音

 十二月二十三日 述懐
おもほゆれば歌にかかはる友のほか友と呼ぶべきひとりだになし

(大辻隆弘 樟の窓 ふらんす堂)

**************************

大辻隆弘の第九歌集。2021年を通して一日一首をふらんす堂のホームページに掲載し、一冊の歌集となった。ここに十首を選ぶことは難しいけれど、好みの歌を取りあげる。どのページを開いても大辻さんがいる。見るもの聞くもの触るもののすべてが短歌となって出てくるという短歌製造マシンである大辻隆弘の向こうにはアララギの長い分厚い歴史がある。なお、大辻の辻の之繞の点は一つ。