色々なところから、「修士論文提出しました!」という話を耳にします。
提出された皆さま、本当にご苦労さまでした。私は博士課程には在籍したことがありませんので、コメントできるのは経験したことのある修士論文までとなります。そこまでしか、共感できないわけです。やったことのないことは、どれほど想像力をたくましく、どれほど思いを巡らせても、コメントできる立場ではないのです。
だからこそ、やったこともないことに対して、場違いな批判したり、負け犬の遠吠えにも似た罵詈雑言を吐く輩を見ると、虫唾が走ると同時に、哀れみを覚えてしまいます。そんなことを言う暇があったら、自分もやればいいのに・・・と思ってしまうわけです。
逆に、私と同じ道をクリアした同志には、本当に、「よくやった!」と胸が熱くなってしまいます。愚直に、生涯学習に勤しむ同志は、それが、たとえ数年間という、人生の「何十分の一」程度の努力であったとしても、その栄誉をたたえてしまいます。少なくとも、あなたはやりとげたわけですから、称賛に値します。
修士論文も立派ですが、そこまでいかなくとも、そう、それが学士であれ、短期大学士であれ、××の免許であったとしても、人生と言う、貴重な時間を投下して、その時間と等価交換して得たものがあるのなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
人生は限りのある1回限りの砂時計。一刻一刻、砂が滑り落ち、落ちる砂が無くなれば、ただ死を迎えるのみ。そんな簡単なものにもかかわらず、人は諦めることなく、苦難の道を歩み続けるわけです。「結局、死んじゃうんだから、何もしなくていいじゃない?」って思えてしまうのですが、もし、全人類が、そのように考えて歩みを止めてしまうと、わずか100年で原始時代に逆戻りしてしまう、本当、チャンチャラおかしい世の中にもかかわらず、確実に、人類は進歩し続けてしまっているわけです。
逆に、進歩し続けるから、生きて続けることが、本当に、苦しいし、ハードルが高すぎるわけです。現代社会で「落ちこぼれ」とさげすまれている人でも、縄文時代では世界一の天才になるのです。弥生時代でも、あるいは古墳時代でも。我々が学習で修得した知識は、例え、中学・高校生レベルであったとしても、数百年前なら、「秀才」とか「神童」とか言われるレベルであったわけです。
おぞましいまでに急速に進化していく時代。それについていくだけで精一杯で、ついていけなければ「落ちこぼれ」といわれてしまう比較社会。昔と比べるまでもなく、今、この瞬間でも、何億人と言う文盲の人々がいる時代なのに、日本に生まれてきてしまったがために、比較されて「出来ない子のレッテル」を貼られてしまう・・・物に溢れ、治安もよく、タダ同然で衛生的な水が飲める日本。幸せなようで、この国で生きていくためには、世界でもトップレベルの勉強をクリアし続けなければならない、ある意味、不幸な国。
そんな国で生きているからこそ、せめて、社会人になってからは、自分の興味の持てる学習に、人生を費やしてみたいわけです。