レポートが書けない、書けない・・・とほざいている私。
そろそろ、最初の1通を提出せねばと、とりあえず、WBT(通信教育システム)にログインし、履修状況を確認してみた。当然、レポート提出0通(=0/25)なのだが、履修状況的には、32単位の登録で12単位の修得単位となっている。
そう、過去に人間学研究科人間学専攻で修得した単位が認定されているのである。8月月初の段階で12単位修得ということは、当然のことながら、同期ではトップの単位修得数にちがいない。
レポート1通も提出できないダメ院生が、現時点で同期トップを爆走しているというのも、何だか、不思議なものである。現実問題としては、あと、「現代仏教特講」か「仏教史特講」のうちの1科目の単位を取得できれば、特定課題研究演習も来年度履修することができる(必修科目5科目中4科目以上合格が条件)。
無論、あまりに楽観的に構えていては、足元をすくわれるだろうが、それほど悲観的になることもないのだろう。
駄文ながら、拙ブログにおいて、書き綴った件数は10,760件。それぐらい書いているのだから、本質的には書くことが好きなのだろう。しかし、何事も強制されるとやりたくなくなるという、人間の心理が、書くことを遠ざけているだけなのである。
放送大学でお借りしている参考文献を、土曜日に返却しなければならないことも大きな要因ではあるが、正直、書きたくなってきているのは事実である。書きたくなる心境とは、書くべき内容の断片が、頭の中で踊っている状況であり、その断片たちが手をつないで、輪を作って、「早く、現実世界に出してくれ~!!」と叫んでいる状況でもある。
文献を多数読み、それぞれの文献に付箋をはり、「こことここを引用し・・・」などと考えながら、知識や情報を熟成させることで、頭の中で、書くべきことが徐々にまとまっていく。今までそういう書き方を続けてきたので、いまさら、早期単位取得を実現するために、4月からコンスタントに毎月提出!な~んて書き方はできないのである。
そもそも、何のためにレポートを書くのか?そりゃ単位取得、そして学位を取得するためというのが、もっとも主要な答えだろうが、既に私は、武蔵野大学大学院において、46単位取得し、修士(人間学)の学位も得ているのである。
なら、私にとって、レポート提出は、目先の利益?ではなく、本当の意味での仏教学の追究というところなのだろう。そう、私は「悟りたい」のである。生涯学習とは何かという根本的なものを。正直、私が続けてきた生涯学習は、邪道で、間違っているのかもしれない。しかし、それは釈尊が、悟りを開く前に、肉体を痛めつけ、死のギリギリまで修行したのと同様、正しい道を求めるための、支払わなければならない代償といえるのかもしれない。
何もせず、人生を消化していくより、ガムシャラにジタバタして、本来、自分の目指すべき道へのきっかけを捜し求めるほうが、何だか、生きているな~っていう感じがするのである。
自分自身、いまだ、生涯学習における正解を見つけ出すことはできていない。「万人に適合する生涯学習の形はない」と言うのは簡単だし、「人それぞれの生涯学習がある」というのも正しいのであろう。しかし、人生を賭して、私がなすべき生涯学習とは何か?と聞かれた場合、それを具体的に言い切れる人がいるだろうか?
悟れないからこそ、悟るために、色々と、「学びの制約」を自分自身にかけているのである。その蓄積こそが、見えない自分に、誰も見たことのない「何か」を悟らせてくれるかもしれないと信じて。
そろそろ、最初の1通を提出せねばと、とりあえず、WBT(通信教育システム)にログインし、履修状況を確認してみた。当然、レポート提出0通(=0/25)なのだが、履修状況的には、32単位の登録で12単位の修得単位となっている。
そう、過去に人間学研究科人間学専攻で修得した単位が認定されているのである。8月月初の段階で12単位修得ということは、当然のことながら、同期ではトップの単位修得数にちがいない。
レポート1通も提出できないダメ院生が、現時点で同期トップを爆走しているというのも、何だか、不思議なものである。現実問題としては、あと、「現代仏教特講」か「仏教史特講」のうちの1科目の単位を取得できれば、特定課題研究演習も来年度履修することができる(必修科目5科目中4科目以上合格が条件)。
無論、あまりに楽観的に構えていては、足元をすくわれるだろうが、それほど悲観的になることもないのだろう。
駄文ながら、拙ブログにおいて、書き綴った件数は10,760件。それぐらい書いているのだから、本質的には書くことが好きなのだろう。しかし、何事も強制されるとやりたくなくなるという、人間の心理が、書くことを遠ざけているだけなのである。
放送大学でお借りしている参考文献を、土曜日に返却しなければならないことも大きな要因ではあるが、正直、書きたくなってきているのは事実である。書きたくなる心境とは、書くべき内容の断片が、頭の中で踊っている状況であり、その断片たちが手をつないで、輪を作って、「早く、現実世界に出してくれ~!!」と叫んでいる状況でもある。
文献を多数読み、それぞれの文献に付箋をはり、「こことここを引用し・・・」などと考えながら、知識や情報を熟成させることで、頭の中で、書くべきことが徐々にまとまっていく。今までそういう書き方を続けてきたので、いまさら、早期単位取得を実現するために、4月からコンスタントに毎月提出!な~んて書き方はできないのである。
そもそも、何のためにレポートを書くのか?そりゃ単位取得、そして学位を取得するためというのが、もっとも主要な答えだろうが、既に私は、武蔵野大学大学院において、46単位取得し、修士(人間学)の学位も得ているのである。
なら、私にとって、レポート提出は、目先の利益?ではなく、本当の意味での仏教学の追究というところなのだろう。そう、私は「悟りたい」のである。生涯学習とは何かという根本的なものを。正直、私が続けてきた生涯学習は、邪道で、間違っているのかもしれない。しかし、それは釈尊が、悟りを開く前に、肉体を痛めつけ、死のギリギリまで修行したのと同様、正しい道を求めるための、支払わなければならない代償といえるのかもしれない。
何もせず、人生を消化していくより、ガムシャラにジタバタして、本来、自分の目指すべき道へのきっかけを捜し求めるほうが、何だか、生きているな~っていう感じがするのである。
自分自身、いまだ、生涯学習における正解を見つけ出すことはできていない。「万人に適合する生涯学習の形はない」と言うのは簡単だし、「人それぞれの生涯学習がある」というのも正しいのであろう。しかし、人生を賭して、私がなすべき生涯学習とは何か?と聞かれた場合、それを具体的に言い切れる人がいるだろうか?
悟れないからこそ、悟るために、色々と、「学びの制約」を自分自身にかけているのである。その蓄積こそが、見えない自分に、誰も見たことのない「何か」を悟らせてくれるかもしれないと信じて。