ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

考えるアシ

2012-06-29 | 雑記
子供のころ、何かのテレビ番組だったと思うが、パスカルの言葉が紹介されていた。


恐らく多くの方がご存知であろう、あのフレーズである。


「人間は考える葦である」


確か、画面には葦の群生地の映像も流れていたはずなのだが、なにを思ったか、こう考えていた。


「そうか、人間は脚で考えているんだなぁ」などと。で、母親にそんなことを言ったら「ちゃうちゃう、植物の葦や」と訂正された。



余談だが、葦簀(よしず)と行ったり、吉原(元々あそこは葦「あし」の群生地である)といったり、スルメをアタリメと呼称してきたのは、験を担いだ、廓言葉から来ているそうな。


アシだと悪しと響きが重なるので、反対の言葉を当てたのである。



しかし、考える脚、というのも間違いではないのかもしれない、と後で思ったこともある。

なんでも、脚が弱ってくると、つま先のほうまで循環している血が登ってこれなくなる。太股だとかの筋肉がポンプの役割をしているのだとか。「第二の心臓」とまで言われている。

第一の心臓がないと死んでしまうが、脚のある限りは第二の心臓もまた代わりがないほど重要だといえる。



よし、じゃあ歩け!という話をしようというわけではないので、本題に入ろう。



さて先日、トニー・ライト著「レフト・イン・ザ・ダーク」の話を紹介した。元にしたBeyond 5 Sensesの記事はこちら。なかなかに難しいので、こういうのはどうだろうか?というような話をした。そもそも、菜食主義だけでも変な目で見られる。ちゃんと理に適ったところがあるのに、理解できないのではなく、理解しようとしない、のが大抵の世人の反応である。

さらにそれの上を行く話である。「果物を主食としなくなった人類は、脳が縮んでおかしくなっていて、現在の人類はどうしようもなくなったその脳が作り上げた妄想の世界でのた打ち回っている」などと言われて「左様で」と答えられるだろうか。

こちらとしては「やはりそうだったか」と膝を叩くところだが、その話は措く。



人類の祖先は森で暮らしていた。霊長類というのは、例えばチンパンジーやらゴリラといった、人間に近い種類もまた、森で暮らしている。チンパンジーよりさらに人間に近いピグミーチンパンジーというのもいる。

彼らの主食はほとんど果物であり、比率は少ないが、虫を食べたり、これも滅多にないが、チンパンジーは集団で狩をして、他の猿を捕まえて食べることがある。

といっても、毎日観察できることではない。だから、肉は彼らの主食ではない。そして、我々人類の五倍は屈強である。チンパンジーと力比べをしたら、腕をもぎ取られかねないのである。ゴリラやオランウータンならまず確実にもぎ取るだろう。



と、話が逸れた。「森で暮らしていた」というところに話を持っていきたかっただけである。



さて、また話が変わってしまうのだが、野口晴哉はこういうことを言っている。

「歩いて脚が疲れたなら、寝るときに折りたたんで寝ると、次の日に疲れが残らない。これは、脚は伸ばした状態より折りたたんだ状態のほうが自然だからである」などと。

だから、正坐すべし!という風な話である。



「折りたたんだ状態のほうが自然」。そして、「人類の祖先は森で暮らしていた」。この二つから考え得ること。


想像してもらいたい。


木の上に猿がいる。ニホンザルでもいい。木の上で何かを食べている。

その時、彼らの脚はどうなっているだろうか?リクライニングでだらしなく寝そべっているのだろうか?

恐らく、蹲踞のようになっているのではなかろうか?膝を曲げて腰を落とした状態であるはずだ。


チンパンジーも、移動するときは、実は歩くことが多いそうだ。体が少々大きいので、木から木へ飛び移るというのは難しかったりする。


テクテク歩いて次の木に辿り着いたらよじ登って、折れそうにない枝に腰を据えるとする。その脚は伸びているだろうか?多分、上の例えと似たようになっているのではなかろうか。


正坐について以前こう想像した。「正座は、人類が裸だったときに、地面に坐るために考案したのではなかろうか」と。


胡坐のように尻を直に接地する方法というのは、体の大事な部分を傷つけそうだから、そうやって脚で守る坐り方を考えたのではなかろうかと思ったのである。


それよりももっと単純な理由で「正坐の状態が、猿だったときのくつろぎ方を思い起こさせるから」なのかもしれない。実際に猿がくつろいでいるのかはわからないが。

それなら脚を折り曲げているには違いない胡坐はどうなのか?と思われるだろうが、蹲踞の姿勢を取ってみれば判る。実際に猿が蹲踞をしているわけではないが、脚にかかる力がまったく違う。

胡坐は足腰が弱くても出来る。正坐といい、猿の坐り方(想像)は、足腰が強くなければ出来ないのである。といっても、彼ら(人類以外の霊長類)と、果物を食べていた時の人類にとっては当たり前のことで、現代の人類からしたら「強かった」というところである。


正坐して果物を食べる。なんだか冗談にも聞こえるが、これが人類の本来の姿だったのかもしれない。


しかし、現代は、特に南国でもない日本では果物を主食とするのは難しいかもしれない。


そこで、以前の記事で触れたことをおさらいしておく。


まず、脳の萎縮の原因となっているのが性ホルモン「テストステロン」。これは実に簡単な話で、肉を食べるとよく出てくる。要するに肉は食べないことだと。食べたければ週に一回とか段階的に減らしていく、というのでもマシにはなる。

個人的な体験では、昔から余り肉は食べなかったが(魚は食べるほうだが)、その上でさらに食べるのをほぼ辞めてしばらくすると、目の輝きが違ってくる。それだけではないが、注意深く見ていればすぐ判る変化が起きる。
最近は少々食生活が荒れ気味(主に食べすぎ)だが、無理して筋トレしていた時より体つきがしっかりしているのである。

ところで、菜食主義者の方がよく食べられる偽肉。確かに肉の味や歯ごたえがしっかり出されていて、肉を食わなくても肉の感じが味わえると評判である。肉にそもそも多大な未練があったわけではないので、利用したことはない。

肉を食わないが故に菜食主義なのに肉の味を忘れたくない、というのも変な話だが、原材料が危険(主に大豆タンパク。その話は長くなるのでここでは詳しくはしない)である、という以外に、別の意味で危ないようだ。

どこかの菜食主義者のブログで読んだ、という程度で申し訳ないが、「肉ではないが肉の振りをした物を食べると体が勘違いして、結局肉を食べたときと同じ反応をする」という。テストステロンが出るのかは、その時はあまり注目していなかったので忘れたが、肉を食べたのと同じ反応を体が起こすというのなら、肉を食べるのと同じであろう。大豆タンパクなどの醗酵していない大豆は実際は猛毒になりうるので、「それなら肉そのものを食ったほうがマシである」と言えるが、そもそもは食うべきではない、という前提でお考え願う。こちらも、時折肉を食べてしまうが、ステーキやら焼肉やら牛丼やらハンバーガーといった、肉の塊には魅力を覚えなくなっている。


それではたんぱく質はどこで取るのだ?と、皆判で押したように申す。それなら空気をよーく吸い込むべし。


これは別に科学的に示されたという話ではないが、上記の偽肉の体内での反応を語っていたのと同一人物の方の話で、たんぱく質の主な原料が窒素であり、窒素はまた空気中に多く存在している。空気を吸っていれば足りるんじゃないかと。


そこはまあ、冗談(とも言い切れないが)としても、実際は現在の食事で肉や乳製品を抜いたところでたんぱく質が少ないということはないのである。
むしろ多く取りすぎたが故の弊害の方が起こっているのである。

そして、ボディビルディングについても同様。然る専門家が断言している。「体を大きくする食べ物など存在しない」と。筋肉はトレーニングで大きくなっているだけである。ただし、鍛えたら適度に弛緩させる必要がある。
こちらとしては、随意筋のみを鍛える(随意筋と言うのは意識のみで動かせる部分である)のは、返って心身の成長を阻害するという話をよく知っているが故、ボディビルディングを推奨する気はないが、体を使う必要があることには賛同する。では何をどう鍛えるのか?という話はまたいずれやりたいと思うが、申し訳ない未定である。


果物には「フラボノイド」という化学物質があり、これが人類の祖先の脳を、当初の三倍にまで大きくさせた要因であったという。
果物を食うのが手っ取り早いわけだが、ないなら代わりにお茶でもどうかと。緑茶にも少々含まれていると言われる。熱には弱かろうが、水出しにするだとか、抹茶を水で溶いて飲む、というのもまた、置き換えにはならないだろうが、補助としてはいいかもしれないだろうと。

茶については、支那の伝承で伝説上の皇帝が怪我をした時、茶葉を食して治した、という話が伝わっている。
煎じて飲んだ、じゃないが、茶葉自体は実にいいものだと考えられる。

紅茶と烏龍茶と緑茶は、それぞれに合わせた品種や栽培法を取られているのだが、そもそも全部同じ茶の木の仲間である。

どれもこれも熱を加えたり醗酵させたりするのだが、緑茶だけはあまり熱を通さず、従って醗酵もさせない。完全とはいえなくとも、生の葉に近いものがあると思われる。
今すぐ果物を主食に出来ない、したくない、といわれる方は、まずは肉をなくすところからだが、コーヒーや紅茶を飲むより緑茶を選ぶ、というのが、下手なサプリメントを飲むよりはいいだろう。
飽くまで補助だが、0よりはいい。


さて、もう一つ。メラニンと勘違いした(すぐ気付いたが)メラトニン。脳の松果体より分泌される、ビタミンCも及ばない抗酸化物質である。

フッ素で石灰化が進んだ人はどうしようもないのかもしれないが、瞑想で額が疼く時、ここが刺激されているという。


瞑想の呼吸法は、吐くときを長くするのだが、これは副交感神経を優位にさせる。つまり、副交感神経が優位になっていればいいといえる。
ここしばらく、仕事が立て込んで、着物を着る時間が少なかったのだが、やはり着ると落ち着く。
それは、帯を締めることが腰にある副交感神経叢を刺激し、副交感神経優位に働かせているのだという。
その状態になるので、息自体も深くゆっくりとしたものになるのである。

着物なんていきなり無理だ、という方は、褌なんてどうだろうか。理屈は同じである。

女性の方が褌をし始めたら、今まで治らなかった病気がなんだかしらんが治った、などという話が出ており、某女性週刊誌に載っていたそうな。
ある男着物のサイトをやっている人がそれを読んで「そんなわけない」などと笑っていたのを見て、その無知さ加減がどうしようもないと感じ(本当に着物着てるのかと)、ブックマークを消したものである。


余談は措くとして、そういう手もある。



さて、上の二つ(フラボノイドとテストステロン関連)はまだ普通に食事(果物を食うにしても何食か食べる前提)を摂る話ではある。


体に取り込む物質がおかしくて脳が萎縮して今にいたったわけだ。人類全体も、また、個人も。


断食や瞑想、利き手でないほうを使うなどして、サボっている脳に喝を入れるべし、というわけだが、金もあまり掛からず即座に出来る方法である。すなわち、要らないものをなるべく入れないようにする。


断食して瞑想し続ければよいのである。何か飲むとしたら水出し緑茶等、という具合である。年がら年中食わずに瞑想、というのは急に出来るようではないので、まずは一日の食事を減らすところから。

戦後の食糧難で日本人が絶滅したわけではない(ある意味したかしらんが)ので、今までの基準の一日分を三日で摂るだとかに徐々に変えてしまえばよい。勿論、肉はなし。食糧難が来てもビクともしなくなるだろう。

そうして、メラトニンをたくさん出しておけば、脳が腐ることもなくなるだろう。少量とはいえ緑茶のフラボノイドも効くかもしれない。それに、腐るようなことをしたら拒絶反応が出るようになるとも考えられる。


テレビを消して、夜は明かりも消す。PCは必要なことを済ませたら電源を消す。

明かりが欲しければロウソクを燈す。そして正坐し、ゆっくり呼吸をするのである。正坐してなくてもゆっくり呼吸である。

意識的に瞑想をするのもいいのだが、元々が瞑想状態ともいえる和装が打って付けであると考えている。なければ褌を。


さあ、二つに一つ。果物を主食にするか、なるべく食わないで修行をするか。



ちなみにこの修行。「スーパーの果物食うのもな」と思ったのと、元々食事の量を減らしていっても大丈夫な状況にする(実際、遥かに食べる量は少なくなったし、腹が減ったから食べなくてはならぬ、という考え方自体なくなった)ために、元々やってきたこと+考案したことである。本当に断食と瞑想をやり続けたわけではないが、食べる量と次に食べるまでの時間を、一般の基準とは違うところにしてきた。俗に言う「不健康」な状態である。


やってきたとはいえ、中々難しいところもある。皆様方におかれましては、果物を主食にするというのをお勧め致したいと存じ上げております。

というわけで、正坐で果物を食べて「先祖返り」しましょう。では、また。

日常のこぼれ話

2012-06-27 | 雑記
さてはてなんとか帳。相撲は八百長。


というわけで、なんだか最近は写真を載せる事がなかったので、以前からやろうと思っていた話を改めて。





えー、西八の若旦那といいましたら私しかおりませんで、まだ若いんで、文字通り若旦那でございます。



ようやく仙人だか若旦那だかよく判らない微妙な位置を思い出したので、昨年から着物で暮らすようになったしだいであります。


ですが、まだ思い出したばかりなので『あれか、これか』と、暗中模索の状態でありまして。




で、ようやく思い出したとはいえ、世のしがらみもございまして。


じゃあ、この辺りで妥協しようかと思い至ったしだいでございます。



今は特に梅雨の時期でございますが、あまり雨が降りません。こりゃ出番がないのかと思いましたが、ここで出番にしようかということで、こちらをご覧ください。




いつもより多く回ることはございませんが、このような傘を仕入れてまいりました。といいましても、先月かその前ぐらいの話でございます。

上から見るとこうなります。

たたんでしまうとこうなると。


こんな傘を洋装で使ったり使わなかったりとやっておりました。すれ違う人がなんだかたまに見てくるナァと思ったら、まだ肌寒いのに素足に雪駄、ビーチサンダルでございますが、の方を見ていたのかな、などと感じております。




さてさて、和装にはこれしかないと思い立ちまして、キセルを愛用しております。

実は順序が逆でして、キセルを使い始めてから「着物着るべし」に至ったのですが、やはりこれしかないと。


キセルは真ん中が竹の筒で出来ておりまして、ここが痛んでくると。ずっと昔はこれを取り替える専門の羅宇屋というのが町を流していたそうです。

無賃乗車を「キセル」と申しますは、「入り口と出口だけ金(かね)を使う」という洒落から来ております。


今ではお取替えが少々お高くつきまして、キセルを買い換えるほうが安くついたりします。


さて、今年の初めに純銀製の延煙管(徹頭徹尾銀で出来たもの)を買ったのはよいものの、去年から愛用している所謂キセルの方の羅宇が少々傷んでまいりました。


それならばと、一念発起いたしまして、羅宇の取替え代より高いのを買ってしまおうと。


それがこちら。


しかし、こうやって遠くから眺めてみると、なんだか蛭に見えてきます。蛭も煙管も吸うもの、といえましょうか。


金ぴかなのは金鍍金でございまして、お店のHPを検分いたしましたところ、純金鍍金であるようだと。すぐ見える写真の10-Gでございます。


これが少々意匠を凝らしておりまして、入り口と出口の近くがこうなっております。

こちらは出口かな?

そして入り口

純金に惹かれましたのは、なんとかの桜の影響でございます。実ににゃんとも。


まだまだ出口は見えないかもしれませんが、入り口があるなら出口はそのうち来るだろうと感じておるしだいでございます。では、お後がよろしいようで。












以前、着物でアパートの家賃を払いに(近所の不動産屋に)行ったら、「着物着てるんだから落語でもやったらいい」などと、妙な事を言われた。それなら江戸時代の人は皆噺家である。

というわけで、ちょっと落語風にやってみた。この調子でラヂヲやったら「あんた誰だ」と言われそうだが、書くのと喋るのでは中々違いがあるのである。



さて、前回の記事でまた書き漏らしがあった。


以前から言おうと思っていたのだが、もしかしたら書いたかもしれないが、正坐の話のラヂヲをブログでご紹介してくださった方に一言を。


そのブログにコメントしたら、こういう風に返ってきた。

「こちらも可能性が広がりました」と。


改めて申し上げたい。

こちらこそ、可能性が広がったと感じております。何の後押しもなく一人でラヂヲをやっていたら多分、ずっと続けようと思わなかったと考えております。

ちょっと六杯目は可能性を狭めてしまったようなところがありますが、それもまた可能性と思っっております。

落語ではないですが、落としどころを探れたと感じます。本当にありがとうございました。



少々照れくさいが、コメントを戴いた時から感じていたことである。先延ばしになって申し訳ない。では、また。

ラヂヲこぼれ話

2012-06-27 | 雑記
というわけで、こぼれ話の始まりである。


ラヂヲの内容自体にもう、何やら後でああだのこうだの言っても仕方ない気がするのである。いや、あるにはあるのだろうが、今回出した四編はそもそもが「こぼれ話」だったわけで。



ああいう形をやろうと思い立った理由が「ラジオに対する姿勢がおかしくなっている」と感じたからだった、とは何度か書いた。


そして、終わってみてどうだったか?実はやっぱりおかしかった。



何がおかしかったのかというと、皮肉な理由である。

「マインドから離れろ」と散々言って書いてきたのに、どうやらその当人がマインドに囚われていたというわけである。

いや別に、爬虫類脳が刺激されてとか、「正常な」男性の脳自体が病気とかいう、知らない人が見たらわかりにくい話ではない。(爬虫類脳云々はまだわかりやすい話ではあろうか)


余りに悲しくなったので、こうなったら並々とウヰスキーをグラスに注いでは一気飲みをしてやろうか、などと考えたが、そいつぁ危険だ。マインドから離れるどころかマインドコントロールされるに違いない。



お分かりになっただろうか?いや、分かり難い。


ブログだとこうやって妙なこと(妙でもなかったかもしれないが)をさらっと書いたり、冗談や駄洒落を書いたりしているのに、ラヂヲになるとなんだかなんだか堅苦しくなる。

書いているときのようにスラスラと出来てなかったというわけである。

つまり、何か特別なことを意識してやっていて、そしてその特別に沿うようにやらねばならぬ、と思い込んでいたようなのだと。


ここに書くときは、実際は前もって何か考えてることがあまりなく(考えていたりはするが、何かあったらすぐ後回しになったり忘れたりする)、前回の記事などもそうだが、きっかけになったBeyond 5 Sensesの記事を何度か読み返してから「よし、こんなタイトルで書いてみよう」となったりした。


えー、実は仕事の暇な時に読んでまして、タイトルを(冒頭の話なんかも)仮眠しながら考えたりしてました。はい。
自分で自分の冗談を受けて笑っているのである。周りが見たら気味悪がられただろうが、仮眠の時は周囲に誰もいないので、多い日も安心である。



それが昨日今日ブログを始めた、というのなら、もうちと考え込んでいたのだろう。そして書きあがったらぎこちないことこの上ない文章になっていたに違いない。


ラヂヲの場合はちと落とし穴があったといえる。


三年ほど、喋りながらゲームのプレイを録画する実況プレイ動画というのをやっていた。人によってやり方は違うのだが、動画として出来上がれば巧拙を除いてほぼ同じである。


こちらは文字通り吹き込みながらプレイして撮影していたのである。これが少々神通力と言うより勘違いに繋がった。


一応、ここでこういうことを喋りたいな、とは前もって考えるのだが、偶然が偶然を呼んで予想とは変わってしまうことが多々ある。良くなれば悪くもなると。

それに合わせて喋っているのが当たり前だったのである。つまり、本当にアドリブでしか喋ることが出来なかった、ということらしい。



またゲームの動画の時に話の焦点を戻すが、例えば「このステージの最初から終わりまで撮影」をしようとなる。

そこは話が盛り上がるところで(最近のゲームは映画みたいなもんである)、キーパーソンが出てきたり、ストーリーに絡んだりするから、「この人何々に似てる」なんて言おうと考えたりはする。

が、結局忘れてたり、やってたら別のことに気付いてそっちに話がいったり、プレイ自体が上手くいったりいかなかったりと、こうなるわけだ。去年は軽く地震に見舞われる、ということもあった。三月十一日以降の話だが。

そこまで予想を超越したことばかりだったわけではないが、結局「このステージの最初から終わりまで撮影」以外の舞台配置に意味がなくなる可能性もあるわけだ。


それと・・・これは言うと怒られそうというかなんというか。


ラヂヲ、一回目はちょっと覚えてないが、それ以降の数回。

夕方に飲んで帰って来てしばらく寝てから夜中に起きてきては録音するという、まだ酒が残った状態だったのである。飲んだ日しかなかった、というわけではないが、夕方飲んでその夜中に録音、というのは本当にやっていたのである。流石に、飲みながらは行っていないので、ご安心ください。

どうもそういう星の元に生まれついてしまったらしい。毒を持って毒を制す、ということにしておく。

仙人の無意識は「正坐」ではなく「飲酒」が培っていた!となるとラヂヲ存続の可否を問うこととなるに違いない!まあいいか。


ちょっと言い訳っぽくなるが、飲んだ寝起きでまだ酒が残ってるナァという風でも、正坐をきっちりするとアラ不思議。なんともないじゃありませんか。

なんともない、は言いすぎかもしれないが、荘子でも馬車から落っこちた人の話でこういうのがある。「素面の人が落っこちたら怪我をして、泥酔している人が落っこちたら無傷だった。これは素面の人が意識して怪我を避けようとしたが故に要らない所に力が入って体が強張り、返って怪我を招いた。一方、泥酔していた人は意識がなかったので、強張るところがなく、流れに逆らわなかった故に怪我をしなかった。無為自然とはこういうものである」云々と。
きっとお酒がいいほうに働いたんだなー。そうに違いないなー。ごめんなさい。

まあ、泥酔者の無為自然じゃ放送禁止になりかねないし、そこまでめちゃくちゃな状態で録音しようということはないので、半分冗談だと思っていただく。では、この話はここまで。


というわけで、こんな話を書いてしまったのでもう一つ。


ニコニコ動画でラヂヲを直接見られる方には、もしかしたらもうずっと前からお馴染みの人がいたりするかもしれないのだが、「のんべぇの人」というタグが付けられている。


プレイ動画を始めたとき、どうしても緊張するから、開始直前にショットグラスで一杯やってからプレイしていたのである。そのうちあってもなくても関係なくなったが、そんな話をしたり、実際に少々酔いが回ったりした状態の物を公開したことがあったせいで、誰かが付けていったようである。


ありがとう。これからもその名に恥じぬよう、精一杯飲んでいくことにする。いや、その理屈はおかしい。


この先、ラヂヲの内容は別に問題ないのに、前より饒舌だなとか冗談が酷いなと思ったら怪しんでいただきたい。画面から貞子ならぬ酒子が飛び出してくるやもしれませんぞ。未成年の方やお酒に弱い方は、成人の方や肝(臓)の強い方と警戒しながらご視聴あそばせ。


もう少し真面目に話をしようかと思ったのに、酷い暴露と冗談になってしまった。ラヂヲ自体のこぼれ話としては、話そうと思っていたけどやっぱり忘れていた「タグ」の話ぐらいである。


これから先は、またテーマに沿って話す予定になっているのだが、そのテーマと中身を「このステージの最初から終わりまで撮影」だけにしてしまおうというわけである。
それはつまり、こういうことである。

筋肉というのは弛緩している時が一番膨張していくという話がある。無論、ある程度鍛えてそして必要な栄養があってこそだろうが、運動部だった学生が受験勉強を開始して運動をしなくなったら途端に背が伸びた、という話が結構あるようだ。

筋肉も脳も身体である。飽くまで想像だが、脳や精神というのも、これまた弛緩すれば(上記どおり適宜必要なものがあってこそだろうとしても)膨張は流石にしないだろうが、よい働きをしてくれるのではなかろうかと。


次のテーマは歩くことだったっけ?くらいの気持ちで暫く(一週間を目安に)ブラブラしてみようと思い立ったわけである。いや、別にどこもいかないが。では、また。

ラヂヲ 六杯目三口とチェイサー

2012-06-26 | ラヂヲ
チェイサーというのは、ウヰスキーなどをロックやストレートで飲むときに、交互に飲むお冷のことである。

本来は今言ったとおり交互に飲むのだが、まあ、最後に口直しして終わり、というイメージである。

というわけで、三口目から

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 六杯目三口



内容は528hz関連で少々と、正坐について野口整体から面白い話を一つ。


そしてチェイサー

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 六杯目チェイサー



三口で言い間違いがあったので、投稿者コメントで訂正してあるのだが、一つ。

A=440hzにしたときに528hzになると言ってしまったのだが、A=444hzの間違いである。



ちょっと今回はある意味試験的にやったとはいえ、手広く話をしすぎた。それで少し半端なところもあるが、これだけ聞いた場合にどういう話を元々やっていたのだろうか?と興味を持っていただければ幸いである。

雑談としては「なんであんなタグがついているのか」などもやろうかと思ったが、思い出したときにやろうかと。大した話ではないので、きっと忘れている。

えーと、細かい話はこぼれ話でやろうかと。では、また。

レフト・イン・ザ・ライト

2012-06-25 | 雑記
四番、レフト、ライト。

彼のバットは少ぉし曲がってるんです。って何の話だ。(こんな話


さて先日。Beyond 5 Sensesでこんな記事が公開された。「意識と身体構造の指揮


えー、掻い摘んでいいますとーつまりですな、「人間の脳は進化してるのだと思ったらみんな機能的にバカになっていた」ということでありますな。



為清さんが「人間の食べ物は果物であると確信した」というのはこういうことなんだろうと。人類の脳がいい意味で大きくなってきたのは果物のおかげだったのだと。


現在の人類は、左脳の影響、つまり見えてる意識による影響が強い。(意識なんて見えないぞ、という言い方がもう「意識」である)

それはてっきり、左脳が肥大化してるのだとばかり思っていた。


実は、脳は機能不全に陥ったほうに引き摺られてしまっていて、そして左脳が機能不全に陥っていると。かくして左脳の支配が始った。

それを読んでふと思ったことを一つ。

よく、学校の勉強のレベルが落ちていると言われているのだが、どうしてもどんぐりの背比べ的な話とはいえ、賢いほうに水準をあわせることが出来ないため、皆揃って下げられてしまっている。

皆揃ってバカになれば、お互い賢いと思ってしまうわけだ。その水準をちょっとでも超えたら「変だ」とか「狂ってる」と言われるのだろう。


今の基準が進んでいるという前提に立ってモノを語ってきたのが「進歩主義」である。

発祥は欧米であるが、恐らく、これまたどんぐりの背比べ的に退化の進んだ彼らの妄想だったのだ。

戦前の学説だが、こういう風に言っていた。「日本人の脳は、西洋人の灰白色と比べて白っぽいから頭が悪い」などと。色の感じはどっちだったか忘れたが、灰白色というのは脳が石灰化してるからと推測するなら、多分あっている。

そんな猿染みた日本人は、西洋人の技術の粋たる飛行機なんぞ操縦できまいとタカを括っていたそうで、戦時中の日本軍の空襲を食らって、「あれはドイツ人パイロットに違いない」と申していたそうな。


まあ、何度も言うが、どんぐりの背比べでしかないが。



さて、全体をこれこれこうだと解釈する能力がこちらには足りないので(劣化した左脳では難しい)、いくつか気になった単語とそれに纏わる話を少々やろうかと考えている。


フラボノイド。今の基準よりも二十倍多かったそうだが、果物以外では少々緑茶にもあるようだ。うーん、お茶ばっかり飲んでたからちょっとマシになってたのかな?多分足りないが。日本では果物が手に入りにくいので、補助的にどうぞ。水出し緑茶とか抹茶を水で溶くなんてどうだろうか。

テストステロン。人間の脳の退化(正確には「男性化」)を担っているのが性ホルモンで、果物の化学物質がこれを抑制していたのだという。果物を辞めてしまったから性ホルモン過剰になって、妄想染みた世界が形作られたのである。ちなみに、「正常な」男性の脳は「病気である」との診断結果が、著者のトニー・ライトではなく、別の研究者が出しているそうな。

さて、このテストステロン。ある物を食べるとよく出てくるそうだ。

それは、肉である。恐らく、肉に纏わるもの全部だと思われる。きっと肉食系女子とやらは、ホントに肉ばっかり食ってて、脳が「男性化」してるんじゃなかろうか。おお、こわいこわい。


脆弱な脳を守るために、脳は種々の抗酸化物質で満たされていたという。ビタミンC自体も血中の濃度より濃くあり、フラボノイド自体もまた、ビタミンCを凌ぐ効果があるという。

それと、自前で作り出してもいたようだ。果物の化学物質の影響で、たくさん出していたそうな。

それが、松果体から分泌される、メラトニンである。

久しぶりにこのメラトニンという名前を聞いたらついうっかり「ああ、日焼けしたら黒くなるあれか」と思って、「そりゃメラニンだ!」と一人ぼけ突っ込みをやってしまったのはナイショである。


上記の記事の前の記事で、(ラヂヲじゃないよ)こういう話が出ている。


このこと〔引用註:マインドの支配〕を自覚するには、マインドをオフにした状態を知る必要がある。その方法が、具体的には断食であったり、食事を変えること(食べ物の好みもマインド)であったり、断眠であったり、右利きでも左手を使うことであったり、瞑想であったり、植物の化学物質であったり(マインドを抑圧するために違法化されている)、スローセックス(刺激を求めるのはマインド)であったり、いろいろあるわけである。『ムーンマトリックス』を読んでマインドによる支配を知的に(マインドで)理解することもその助けになるだろう。


子供のころ、母親に「ヤスオ君(もういいやこの名前出すの)は小さいころ、左利きになりかけてた」などと言われた。なんでも、右手のフォークでスパゲッティをすくって、左手でつかんでは口に放り込んでいたそうな。

あるボクサーが、「利き手ではないほうをよく鍛えている」といっていた。結構な歳だったのだが、現役を続けていたのだという。今は知らないが、ボクサーやってるとは思えない年齢としっかりした体つきだった。

著者のトニー・ライト氏は、不眠の記録が十一日あるそうな。脳の研究で挑戦したのだとか。先日、夜勤だったので、仮眠を眠らず(横になって目を瞑ったりはしたが)過ごし、意外と平気だなぁ、と思ったら、やはり電車で寝てしまった。しかし、最近は仮眠の時間に眠りに落ちたことがあまりないのである。


ちょっと余談に逸れてしまったが、メラトニンの話に戻ろう。


この松果体。ある物質の影響で石灰化するのだそうな。石灰化するというのは勿論、死んでしまう、もしくは機能不全になるということだ。

それはフッ素である。歯磨き粉に入っているアレだ。

フッ素自体は虫歯予防どころか虫歯の原因とすら言われている。まさか、と思われる方は色々お調べいただきたいが、はてさて、お調べになるのかどうか。


上記の引用文に、「瞑想」がある。瞑想に纏わる体験を述べて、終わりにしようと思う。


四ほど前になるが、ある精神科医の著作で「瞑想やちょっとした精神的ショックなどでも脳に多大な影響を及ぼしうる」というような話があった。

色々な民族のシャーマン(本当はシャマン、及びシャマーンというべきなんだが、こめくにさんの悪影響だそうな)の話の中には、何やら病気(精神的な)になった場合、自ら進んで「シャマンして」治すというような事例が数多くあるそうだ。

なんとなく惹かれたのが、晩年のルソーのエッセイである。ちょっと長いが、その引用を引用してみたい。


しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとって何の意義ももたないような状態、いつまでも現在が続き、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけがあってこの感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである。こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく船の中に身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにすわって、または他の美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流かたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである。それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある。 ルソー『孤独な散歩者の夢想』より

他にも、犬に激突して気絶した時の体験が、あたかもてんかんの発作のような記述をしていたりと、そんな話もあった。それにしても犬に激突されて気絶とは。元気な犬ころだったようだ。(ころとは呼べない大きさである)


よしじゃあ、夜中の巡回のときに非常階段で座り込んでみて、ちと普段やらないような呼吸をやってみよう、「シャマン」してみようと思ってやってみたら、何やら額がむず痒いような感じがする。

しかし、上記のルソーのような心持もそこはかとなく感じられる。ルソーの文章だったか忘れたのだが、頭の奥がキーンとするようなという話もある。

目を開くと、何やらさっぱりしている。それが数年続いていた。(ずっとむず痒かったわけではない)

当時は瞑想の呼吸を知らなかったので、数ヶ月前に調べてみたら、「三秒すって六秒かけて吐く」だそうな。

息を吐くほうが副交感神経を優位にさせるだったか、それは知っていたので、吐く時を長くは心がけていた。


ほうほう。でもわしが知りたいのは瞑想やると額辺りで起こる妙な感じなのだが、と思って調べてみたら、これはチャクラの一つ「アジナチャクラ」に当たるそうな。

チャクラを開くときは、まずこの額辺りにあるアジナチャクラを開かないことには、よくないほうに行きやすいとのことである。

第三の目ともいわれるこのチャクラだが、脳の松果腺に対応しているのだとか。松果体とそれは場所は同じで、部分を腺と言ったり、全体で松果体と呼ぶようである。

ついでに、ニューエイジと言われる方々御用達の、ソルフェジオ音楽がある。

その一つで、その名も『Pineal Grand Activator』。正確には、計算して引き出してきた数字なので、ソルフェジオ音階そのものではないようだが、近いものということである。
Pineal Grandとは松果体のことである。

936Hz Pineal Gland Activator



意識を向けて音楽を聴くと、普通の曲は気分がおかしくなるのを感じるが、このSource Vibrationsにある曲はなんともなかった。なんともない、ではなく心地がよい。

YouTubeで公開しているものは曲の抜粋で、全曲は販売になる。とはいえ、無料公開している分だけでも何やら感じられるかもしれない。


有史時代からどんどん劣化していってて、さらに個体としても日に日にボケて行く脳みそを、果物食べることと、あとは自力で補う(松果体を刺激する)ことが出来れば、Left in the lightになれるかもしれない。(光に取り残されて、じゃ変だが)

果物が主食、というのに抵抗のある方は、呼吸を変えて松果体を働かせていただきたい。その前に、食事自体を見直して、フッ素の歯磨きも辞めて、という事が前提になるが、少なくとも肉を食べるのを辞める、もしくは大幅に減らすだけでも感覚が変わること請け合いである。
たんぱく質を肉から、そして多く摂取する必要は、科学的に否定されているのである。テレビや新聞雑誌で言ってないよ、は、いい加減にしましょう。


さて、長くなったがついでに。

前回出したラヂヲで、電気だとか石油について「僕はそういう具体的なことやってませんが」などと喋っていた。

言い訳くさくなるが、こういうことである。「デモ運動などの、一時的にしかならないような意味での行動は行っていない」である。

夜の明かりはロウソクで過ごしている。といっても、PCをつけるとあまり意味がないが。

もし、夜ゆったり過ごそうと思ったが、何か明かりがないと寂しいなどと腰の抜けた・・・じゃなくてお困りの方は、ロウソクを一本立ててみるのもいいかもしれない。

まあ、火を使うようになったのが人間のケチの付け始めなのかもしれないな、ともいえるのだが、正直、馬鹿げていて効率も良くなく、おまけに健康に悪いことこの上ない蛍光灯やらLEDを使うくらいなら、それがいいだろう。

蜜蝋ロウソクでタバコに火をつければ、自前でフレーバーを足すことも出来る。普通のロウソクはまずくなるのでご注意いただきたい。では、また。



ラヂヲ 六杯目二口

2012-06-23 | ラヂヲ
後日、といいつつ、二日ほど経過してしまったが、二口目を。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 六杯目二口



今回掲載した分は、話自体は短い。といっても十三分ほど入っているが。

では、何故二十分近くもあるのか?


「ではCMへ」といいつつただ終わるのは悲しいので喋るだけのCMを入れてみたら、予想以上に長くなったせいである。申し訳ない。


というわけで、冒頭の提供に出した、「アプトパラコメール」のリンクを掲載しておく。Beyond 5 Sensesのトップにあると言ったらそれまでだが。


http://tamekiyo.com/aptoparacomer/diarypro/diary.cgi


ラヂヲ自体の内容に関していうと、前回の区切りが時間を気にした余り(とはいえ続けざまに吹き込んでいるが)、蹴りがつかないまま区切ってしまったのである。

ようやく言い切って、次の話へ行こうというところで終わりなので、一先ず安心というところだろう。一口目と二口目は、本来は一つのほうがよかった、ともいえるが、試験的に(ノリは気に入ったのでこの調子で行こうかと思っているが)やっているのもあり、この先に同じ調子でやった時に失敗しにくくなるのではなかろうか、という楽観的な見立てをしている。

CMも、今回はアプトパラコメール自身の説明をやったのが大きいので、もう少し短くなると思われる。


というわけで、もしラヂヲをブログでご紹介なされる方がいらっしゃるのならば、一口と二口を両方並べて掲載していただいた方が、スムーズになると思われる。

残りは凡そ三十分。ただ、配分は真っ二つではなかったと思う。なるべく区切りがよくなるようには喋ったと思うが、「なんとなく」で区切ったのでちょっと危うい。では、また。

「変」な話

2012-06-22 | 雑記
それは・・・二十年前の話であった・・・。


「サムライスピリッツ」という格闘(というより死合)ゲームがあった。


俄かに人気が出て、続編が出た。タイトルは「真・サムライスピリッツ」。そして副題がついている。

「覇王丸地獄変」


子供心に、「変じゃ変じゃないか」と変なことを考えたものである。


そして成人して、あることを聞いた。


支那は敦煌のほうだったろうか。自分が生まれる前の調査の話だったと思うが、砂に埋もれた遺跡群の中から古文書が見つかったという。


絵と文章が書かれていて、向こうの言葉で「変文」と呼ばれている。パッと見「恋文」に見えないこともないが、変である。


「変」とは絵のことだそうな。絵と文で「変文」というわけである。では、変な恋文とやれば、絵が描かれたラブレターということになろう。いや、なってない。


そう振り返ると、上記のゲームの副題は現代にも通じる言葉で言い換えれば「覇王丸地獄絵図」というわけだ。



その話を大学で聞いて、ようやく子供のころの話に落ちがついたのである。



絵とは目に見える形である。絵というのはつまり、見える枠組みであると。

変化、といったら、見える枠組み(慣用的に必ずしもそうではないが)が化けると。


絵と類義といえば、「画」というのがある。画期的、といって絵を想像することはなかろう。

画一、などともいう。一つの形になる、もしくはするというわけだ。


さて、なんでこんな変な話をしているのかというと、対して面白く無く(そしてバカにされている感じとはいえ、なんとも思わなかったが)腹の立つ、とも言える話があった。



先月、新しくバイトの子が入った。


最近、ようやく同じに日に入ることがあったので、あれやこれやと話したり、今度大卒だというくらい若いのに、わしがキセルで吸っているのを見て「キセルだ」などと言っている。


そして、その日の夕方である。酒飲みの先輩と一緒でもあったので、夜勤明けに冷蔵庫に入っている客の忘れ物のを酒を飲んでいた。

ちと飲みすぎたので仮眠室でごろごろしたりしていたら、夜勤がやってくる時間になっていた。


さて、その日の夜勤のメンバーの一人が、こちらに向かって言う。


「N君(上記の新人バイト君)にアンジョーさんはどんな人か聞かれたんで、カバンは風呂敷のタバコはキセルで吸うの着物で過ごしてるだの、まあ、要するに変な人ですといっておきました」と。


「なにを言うかわしのどこが・・・ウーン変かな!はっはっは」とやって別れた。



さてその日から数日後。別の人にこの話をした。


「着物やらキセルは個性かしらんが、変には違いない」とくる。


ほーさよか。それならパチンコも立派な個性ですナァ、と皮肉は言わなかった。言ったところで通じない。通じたら通じたで面白いが、面倒である。


と、いうわけで、変とはなんなのかを、ここまで考えなくてもなんだかひらめいたのか、最初に「変な人」と紹介した奴の話を聞いた時点で思い至ったのか、あっさり「変だ」認めてしまったのである。



持って回った言い方をしたが、こういうわけだ。


つまり、「変」であるとは「はっきりとした形が現れている」と考えられはしないだろうか。キセルだとか着物だとかパチンコ(皮肉である)に由らぬ、存在そのものから涌き出る個性であると。


パチンコやったり機械的な、余りに機械的なボディビルをやったり甘いものが無いと耐えられないと言い出して甘いものを食べたと思ったらなんかしらんが急にテンションが上がって冷蔵庫に軽くパンチを食らわしたりタバコもどきを吸ったり(タバコもどき以前と以後は別人の話である)するのは実に画一的な「変」だなぁ、としみじみ思うのである。

だが、上記の状態というのは「変」とは思わぬ。

なにやら不定形生物を見ている気分だ、などと毒を吐いてみたくなるのである。



というわけで、「変な奴だ」と言われたら、満面の笑みで「そうですね!」と皮肉たっぷりに返して、不定形生物のあるんだかないんだか判らない神経を逆撫でしてやりましょう。





普段は、ラヂヲこぼれ話、と相成っていたのだが、なんせまだ続く。こぼれない程度に覚えておいて、後でまとめてやろうかと考えてはいるが、どうなるやら。



さて、その話でちょっとだけ。また長くなりそうな気がしないでもないが。


今回のラヂヲは、話しながら「じゃあCMへ」とやって区切りながら録音している。


元から続いているナンバリングは、一回の収録であることを示しておき、さらにCMを入れて区切りとしたの別のナンバリングをした。

今回はこうである。「六杯目一口」と。



これがある人に気に入られたようである。内容自体がよかったと言われるのは勿論喜ばしいのだが、ちょっとした計らいに反応してもらえたというのは、特に今まで(ラヂヲ以外を)やってきて、初めてのことだった。



こういう細かいネタは昔からよくやってきた。特に上手くできたなぁと思ったのが、「ゲーム辞める」とエンディングで話したこのゲームの時である。





ゲーム(の動画)が始ってすぐ、主人公のすぐ近くに倒れている死体の前で回想シーンが始る。

本当は瀕死の重傷だった主人公がどうして生きているのかをフラッシュバックするシーンである。


理由は「その死体が生前着ていた超人スーツを着せられたから助かった」である。


というわけで、「おっさんのお古を着せられる」としたのだが、悲しいかな、誰も突っ込まなかった。



ゲームを辞めたといいつつ、なんだかゲームに絡んだ話ばかりであった。(ラヂヲも振り返りの性格上、ゲームに絡んだ話になっていた)

だが、所詮思い出である。思い出に浸るほどわしは暇ではない(暇ではあるが、意味が違う)。さあ!あなたも思い出に耽ってないで今を見つめ直しませんか!?と、なんだか無理矢理こじつけたように終わることにする。では、また。



ラヂヲ 六杯目(まだ続く)

2012-06-21 | ラヂヲ
さて、以前から予告していた、雑談っぽいラヂヲ。

一本大体十五分から二十分で区切る形で収録して、少しずつ出す形に。

というわけで、一回目を。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 六杯目一口




やろうかなと言っていた身の上話は、一回目の話に繋げるつもりで、ゲームをやっていたころの話を。

しかし、その身の上話だけで終わってしまいましたとさ。


ちょっとふざけて、自分の声で「提供」を付けたり。

もっとふざけてCMを本当につけようかと考えたが(ウヰスキーのCMをつけようかと)ちょっと編集に手間取ったので没。そこまで行くと遊びすぎかなと思ったのも大きいが。

その上、エンコードソフトの調子が悪く、さらに時間がかかったので、編集自体もこの一本で今日は終わり。



今まで何年もこうやって声を吹き込んできたのだが、ハンドルネームも含めて名乗ったことがなかったので、今回改めて名乗ることにした。

本名そのものを名乗ろうかとも考えたが、Beyond 5 Sensesで紹介されている名前と、その由来を少々で。


というわけで、少し体力の限界です。寝ます。では、また。

信用問題

2012-06-18 | 雑記
さて、先ほどコンゴの将来について憂いたが(していない)、それを書き終えて暫くしたついさっきのことである。


ゆっくりタバコをふかしていたら電話が鳴った。

その前にはセーフの下請けから電話があったので、今日は珍しく立て続けかと思ったら違う。


夕方、軽く一杯やってきたのだが、そのいつものお店の兄さんからである。まだ営業中であるのに。


おかしいな、と思い電話に出たら、こういう。


「さっきの豆大福に何か異常はなかったか」と。


いや、こっちはなんともなかったがというと、お土産に持っていった豆大福に木屑が混ざっていたそうな。

兄さんではなく、もう一人のパートのおばちゃんが食べたほうに入っていたそうだ。

特に怪我したというほどの大事でもない。しかし、怒っているわけでもないが、これがもし、子供に当たった場合は親が黙っていない。

そうなった場合、お店の信用問題とこの先が心配なので(大事になって謹慎を食らうと潰れかねない)、一応注意、というか忠言というかをしておこうとの話である。こちらに電話する前にかけたそうだが、出なかったそうなので、明日にするという。


色々と想像して気配りが出来て、その上冷静である。以前から色々と兄さんに吹き込んだら、自分でモノを調べて考え始めたりしている(2chのまとめブログを見たりだったりするが)。元々素養があったと思われる。

上から目線で恐縮だが、言ってしまえばまだ次元の低いところではあるが、単純に流されないところがあるなと感じているしだいである。しかし、目覚めすぎたら、あのお店を維持できなくなるというジレンマにぶち当たるだろう。そこまで行くかは判らんが、先々の楽しみにしておく。

しかし、しばらく豆大福及び伊勢屋の和菓子はお土産に持っていけないな。代わりにちょっと遠いが、市内のケーキ屋のケーキでもお詫び(こちらが悪いわけではないのだが)に持っていこうかと考えている。お口直しといおうか。
食べログとやらの話でしかないが、東京でもトップクラスのケーキ屋なのだそうな。以前は知らずに立ち寄って買ったものである。今は食べるべきものではないと思っているので、滅多に(全然じゃないだと?)ケーキ自体食べない。
だが、ケーキ・・・。献上するだけにしよう。まあ、お店に持ち込んで自分だけ食べないのも失礼か。その時だけは食べて、後で豆大福を食べるより後悔してみよう。(豆大福は食べすぎた以外で後悔したことなどない!)


ところで、餡子に紛れた木屑。

これから推測出来ることはこうだろう。

少なくとも、対岸の製餡所の餡子ではないのだろうなと。そうだと断言できるわけではないが、饅頭の生地を膨らませる麹を手作りするお店が餡子を手作りしないわけがないし、「昔より甘さを控えている」と言っていたので、自分達で加減している証左であろう。


その点で今回の事件が示すことは、和菓子というものを食べていいものかどうかは別として、伊勢屋のは一般のお店よりは食べるに価するのかもしれないと。



ところで、電話を取る前は、PCを切って暗い中でタバコを吸っていた。

収録するのに向いた時間が来たら録音しようかと考えていて、それまで瞑想じゃないが邪魔な意識を追い出すつもりでゆっくりしていようと。しかし、掲載日時を見たら、前回から一週間も経っていない。

てっきり一週間は過ぎたのだと勘違いしていた。時間が速く過ぎたり遅く感じたり、混乱しそうである。

台風も来るしまた夜勤が三連続である。この機を逃すと一週間を越えることになりそうだが、遅くとも次の週明けにはやろうかと考えている。今からやってやれないこともないのだが、一個一個が短いとはいえたくさん出るとしたら、見ている人が困るであろう。

今まで出した分の内容に触れるような話をして前のラヂヲを振り返って見てもらう、という風に誘い込んだり、はたまた初めて見たのが次のだったら興味を持って最初から見てもらうといった風にできたらいいなと思う。
ここでそんな計略を書いたら見る人が身構えしまいそうだが、こういう風にわざと書くのもまた計略である。(嘘です)


というわけで、気になったのでつい書いたが、ここまで。では、また。

今後について

2012-06-18 | 雑記
アフリカのコンゴはこれからどうなるのであろうか。いや、違う。


申し訳ない。ダジャレをつい言いたくなるので。



さて、この前のラヂヲ。ちっとばかり肩に力がこもり過ぎたようで(もっと正確に言えば鳩尾の凝りが強かった)、色々と不完全燃焼だった。


ブログで補足をやったのはいいが、見ている人の分布が偏っている。補足だけでもある程度わかるように書いているような気がしないでもないが、両方見ていただいた人、もしくはラヂヲだけ見ている人にしか通じにくいところもある。


それに、前回の余談を次のパートに持ってくるというだけでは足りないようなところもある。


丁度よい機会なので、予告していた「歩くこと」については延期して、新しく聞いた話や、これも付け足しておこうかといった話を、放送順に雑談しつつやろうかと考えている。


得たいの知れない人が得たいの知れない話(そこまで得たいの知れない話をした覚えはないが)をしている、では、ちと親近感も湧きづらかろうということで、昔何をやっていて、そしてなにを感じて一回目のラヂヲに至ったのか、というような身の上話も盛り込めたらなと思っている。


あんまり長くやると、一本に纏めた場合に大学の講義のような状態になる。時計は気にしつつ、切のいいところで「続きはCMの後で」という感じで、一本一本は短くやろうかと考えている。十五分から二十分程度になればいいかなと。
しかし、収録自体は多分長くなる。これはまあ、こっちの体力気力、あとは力の抜き具合で変わるし、編集しだいである。編集の手間を省くために、時間が来たら収録を自身の手(声だが)で区切ろうというわけだ。



ところで、ラヂヲでも触れる予定の話なのだが、思うところがあったからこうやって振り返ろうと考えたのも大きいのだが、「六」というのも大きな契機だと感じている。


ソルフェジオ音階でもっとも力のある音が528hz。これをそれぞれの数字を一桁として足し算すると、15になる。さらに同じ事をすると、「6」となる。


6だって!?悪魔の数字じゃないか!と、思われる。それは仕方ない。誰かさんのプロパガンダが功を奏したから。


本来、この6という数字は、最も神聖で力に満ち満ちた素晴らしいものだった、と言われている。

ただ、皆が皆これを素晴らしいものだと認識して生活すると、支配する方々には都合が悪い。

だから、「危険なものだから近づくな」と常々触れ回られ、出てくるときも必ず危険なものや悪魔といったものと結び付けられ、人々の意識に嫌悪感や恐怖と結びつけるように仕向けられたのだという。

この数字やその象徴自体に罪はなく、それに悪意を被せて広めていることが罪だったのだ、というわけだ。


キチガイに刃物という。ものは使いようである。悪意のある存在が悪意を持って使うのなら、悪意の塊としてその力は動いてしまうのである。力そのものには善も悪もないのである。

ジョルジュ・バタイユがいうには、本来、「聖なるもの」というのは、清廉で潔白なものだけではなく、ある意味醜いとでもいえるようなおどろおどろしいものも含まれていたのだが、特にキリスト教の発展と共に「聖なるもの」からおどろおどろしい部分だけが取り除かれ、現代の我々がすぐ想像できるような「聖なるもの」となり、おどろおどろしいともいえる部分は悪魔だとか邪悪といった概念に落とし込まれたのだと。

日本の江戸時代にあって、差別階級のエタというものがある。差別として現代はあるといえばあるが、それで飯食ってる総会屋みたいなやつらが騒ぐとはいえ、気にしなければ誰も気にしない程度だと思う(皮膚感覚としては判らない状態)が、これも「穢れた」存在だというので忌避されている。単純に、いわゆる汚いからというだけではなく、畏怖でもあり畏敬の対象でもある、というものだったそうだ。日本ではなにやら秀でている存在に対して「神様だ」と言ったりするのだが、エタというのもある意味、本来の「聖なるもの」としての「神様」だったというわけである。

そして、上記のバタイユの論ように、否定的な観念が残され、畏敬の念が消え去った状態が差別となり、現代まで尾を引くこととなったのである。


話が逸れた。というわけで、倍数に意味があるのかは判らないが、振り返り雑談ラヂヲを定期的にやるとしたら、六回ごとにやろうかと思っている。一回一テーマになるのかはわからないが、そういう区切りでいこうかと。

テーマが動画の区切りをまたいでいくのであれば、タイトルのカウント自体は続けるとして、前編後編だとか六杯目の一という風にしようと思う。

元々原稿なしの(ある程度は考えて纏めてはいるが)アドリブなのだが、今回はいつもよりアドリブになってしまうだろう。どうなるかはやってみるまではわからない。

ただ、自分が伝えたいと考えていること自体からは逸れることはない、もしくは逸れないようにするつもりである。


これ以上つらつら書くと、ラヂヲで話そうかと構想していることなのか、さらっと書いて触れるだけのつもりのことだったのかわからなくなる。ここで終わりとする。では、また。

ラヂヲこぼれ話 覆水盆に返らず

2012-06-15 | 雑記
※少し修正しました。
というわけで、恒例になりつつあるようなこぼれ話。


こぼれた話があったというより今回は、話全体がこぼれてしまった気がしないでもない。

ともかく、こぼれた話が重要だったとも思えるので、重大さにリテイクをすべきか悩んだものの、そうなると三十分を越えることになったと思われる。そもそも思い出したのがアップして掲載されてからだというのだから、始末に負えない。

時間は関係ないが、どちらにしろ恐らく結論は大差ないことには違いない。仕方がないので、ここで書くか、次でしゃべるかのどちらか、もしくは両方になる。


さて、先日のラヂヲの内容を振り返る。


「礼儀とは何か、及び道徳について」というテーマだった。


砕けて言えば、礼儀のなってないコメントに噛み付いたというわけだ。大人気ない。


別にコメントした人間自身にいわゆる「道徳的」な反省を促してもらおうと考えていたわけではないのは、ラヂヲを聞いた人にはご理解いただけたかと思われる。



しかし、何故そうなるか多分理解できない、もしくはしづらい部分が、特に反応はされていないのだが、意外と重要な部分を何故か端折ってしまったのである。



礼儀=道徳というわけで、道徳の発生と定式化の流れを、ニーチェの論旨に拠って少々喋った。

正直、いきなりニーチェなんぞ話して大丈夫かと思っていた(自分がやるというのが大それたものだとちょっと思っていた)のもあったが、道徳の発生とそれが定式化していく際に起こったこと(動機と結果の入れ替わり)については述べた。


しかし、そこで話が終わってしまったのである。


単にそれだけだと道徳批判にはならない。積極的に肯定してはいないが、否定もしていないといえる。


改めて単純に何を言ったかを示す。



道徳の発生と思しき行いが、いわゆる強者の行動によるものだったと。

その動機は、ほぼ全てが、いわゆる「利己的」なものだったとすらいえる。

しかし結果として「善良な行い」として写り、その強者の「善良な行い」は「善良な心」から発生したのであると、誤解、もしくは曲解されたのである。


そうか、じゃあ別に問題無さそうだ、となりそうだが、違う。


利己的だとか利他的という観念自体がそもそも人間の理解を損なっている。


スペインの思想家、オルテガ・イ・ガセットが、「わたし」についての有名な命題を述べている。

曰く 「わたし」とは「わたし」と「その環境」である、と。


利他的に見える利己的な行為とはつまり、「その環境」を己にとって都合良くしようとしているだけの「利己的」な行為であるといえる。

ニーチェ自身も、客観的に純粋な利他主義などないと断じていた。


つまり、自分自身がこうしてやりたい、と思ったところによる行為が延いては周りを良くしているのだと。


「わたし」から「その環境」を変えていくという能動的な営為であるといえる。


さて、この価値観が入れ替わったらどうなるだろうか。



道徳とやらはこう言うだろう。

「その環境」を良くしないと「あなた」(「わたし」のこと)は「善人」でなく愚かしい「利己的」な存在となるだろう、と。

もしくは

「その環境」(この場合は道徳そのものと言える)はこの上なく善良であるのにどうしては「あなた」は「その環境」に沿って「善人」たろうとしないのか、等と。

「環境」に振り回されなさい、というわけである。

さらにもう少し話をすると、キリスト教の思想に「原罪」というのがある。人は生まれながらにして罪深き存在であるという認識である。

つまり、生きているだけで悪どいというわけなので、「善人」になろうとしなければならぬ、という土壌がそもそも出来上がっているというわけだ。

これが道徳の言い草ならば何のことはない。奴隷を作るために価値観を摩り替えたのである、と断じてよいものである。


生き生きとした「わたし」に拠って「その環境」を変えていくのが人間の営みである。

本来生き生きとした「わたし」を改変された「その環境」によって「改善」されるのが奴隷の生である。


さて、ラヂヲでも言おうか言うまいかと録音前に考えていて、そもそも上記で話をしたことが出なかったので言えなかったのだが、前から似たことを言っている人がいる。


先日、夢の話をした時、「どこそこの真似事だ」とやった。

Beyond 5 Sensesでもたまに出てくることがあるので、ご存知の方も多いだろうし、かなり有名である。そう、「幻の桜」である。


記事が多く、最近は結界がどうとかおばばが何だとか、ぬしさんが、とやっているので、どこが?と思われるかもしれない。

凡そ三年前のものだが、グーグルで「幻の桜」を検索したときに結果一覧に出てくる、こういう記事がある。「自己愛についての補足


本来の意味による自己愛から出る「利己的」な行為は、回りまわって自身とその周りを良くしてしまうのである、という。


自己愛。それはニーチェのいう卓越したものだとか強者だとかが抱いているものと同じだと考えている。つまりは自己を強く肯定している存在であると。


さて、それならば能力の有無(物理的精神的を問わず)、頑張ればいいのじゃなかろうか?と考えがちである。


マザーテレサの言葉を解釈している別記事があって、単純ながら唸ってしまった話がある。まあ、こちらが単純なだけとしても。

マザーテレサ曰く「貧しいもの同士分け合うのです」云々と。


単純にお金を上げると考えるならば、大金持ちが貧乏人に恵んだ場合、金持ちは全財産投げ出すのでなければ、貧乏人は困窮の底から這い上がれ、その上金持ち自身も感謝される。デメリットは存在しない。


では、貧しいもの同士で分け合うならどうか。


それは、さらなる貧困の増大でしかないのである。貧困が貧困を生み続けるならば、怨嗟の声遍く広がるのみである。貧乏人が貧乏人に、お互いさらに貧しくなった上で感謝しあえる状況になるだろうか。
(経済という幻想に振り回されること自体が愚かしい、という話は取り敢えず措いてもらうとして)


こういう理解があってこそ、この言葉が強く理解できる。日本語で言えば「腑に落ちる」のであろう。


情けは人のためならず





というわけで、分かる人には分かるのかもしれないが、これで先日のラヂヲの「ミッシングリンク」をようやく埋めれたかなと感じている。

しかし、この反道徳的な話からどう礼儀に繋がるのかを考えると、ちとラヂヲの話は心許ない。


道徳の発生とそれを成り立たせている根拠が実際は非道徳である、というのがニーチェの論である。


では、礼儀とはどうだったのか。


そもそもが自己愛に満ちた存在であるならば、自己の賞賛は所与のものであろう。もっと非道徳的に解釈するとしたら、「礼儀とは他人を貶している、もしくは跪かせようとしている」のかもしれないと。


礼儀というものがいつ取り沙汰されるかといえば、それはつまり「人と人が出会うとき」、挨拶の時が多いと感じられる。

礼儀も過ぎれば無礼となる。過ぎた礼儀が無礼と感じるのはやはり、上記の想像が多少当たっているのからなのかもしれない。


というわけである。せめてこれくらい考えてから話をすればよかったのだが、どうも最近違和感を覚えている。


それは、ラヂヲに対する姿勢である。いつも正坐だろう?ではなく。



ラヂヲは手段であって、こちらが喋りたくて喋ったことを公表するためのものである。


特に先日のラヂヲを収録している時は、「何かおかしい」と感じたのである。収録までの数日間、考えがまとまり難く、正坐が崩れていたかと考えたが、それだけでは説明がつき難くもあった。


テーマがあって話をすること自体は否定する気はない。でなければ「ゲームを辞めた理由」で喋る時にすでに躓いていただろう。

単純に雑談をしたとしても、勝手に思いついて何がしかの話を始めるには違いない。


為清さんの提案は「一回十五分くらいにして放送頻度を上げていく感じで」だった。

先日のラヂヲはそれを強く意識した。といっても二十分を切ろうと考えていたのだが、結局数分オーバーである。それがあの感じである。


ラヂヲのために喋っているのではなく、喋ったことがラヂヲになっているだけである、という意識をすっかり忘れていたというわけだ。


上からの話で言えば、「その環境」に流されてしまったと。



そこで、五回分のラヂヲを振り返りつつ雑談のラヂヲを出してみようかと考えているのだが、ゆっくり振り返りつつしかも雑談がメインになると、少なく見ても三十分は必至であろう。

その上、他愛のない雑談と振り返ったラヂヲの補足なんぞしたら「イージーリスニング」ではなくなる。特に五回目は上記の補足をしたい誘惑に駆られている。明日には忘れるかもしれないが。


Beyond 5 Sensesで掲載するラヂヲという性格上、そのラヂヲの内容に触れるのなら、ある程度掲載されるということを考える必要がある。

気がかりとしては、「勝手にそんなファンサービスみたいなことをやっていいのかな」である。

事後承諾、もしくは指摘されるまで黙っておくか、などとここで書いたらバレバレではあるが。


というわけで、こぼれた話がラヂヲを毀つ、そんな話でした。では、また。

ラヂヲ 五杯目

2012-06-14 | ラヂヲ
ちょっと悩みつつも完成したので、掲載。

今回のテーマは「礼儀とは何か、及び道徳について」

仰々しいテーマだが、これもいずれ触れるテーマだったのかもしれないと思う。

にしても、少し説教くさい。そもそもがリクエストしてきた視聴者に対する罵倒とも取れ得る。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 五杯目




先日、ラヂヲ内でも話した「権力への意志」という著作の中で、こういう言葉を見つけた。


「徳とはそもそも洗練された激情である」



この言葉でもって締めたかったのだが、やはりというか「正坐せよ」になってしまったそうな。


あまり書くと内容に触れすぎるので(若干触れてしまったし)こぼれ話に書く内容が減ってしまう。まあ、こぼれ話自体はなくてもいいのだが、少し解説が足りないところもあった。

激情を洗練できたかどうかは少し悩むところではあるが、同じ怒るにしても怒る先がまったく変わってしまった自分に驚きを覚えつつも、変な言い方だが、面白みを感じる。

細かい話はまた後日。では、また。

夢にて

2012-06-12 | 雑記
なんだか一日も置かずに何やら書きなぐっているのだが、以前から書こうと思って流れた妙な夢の話をしようと思う。

アレだ、「幻の桜」の真似事だと思ってくれればいい。



というわけで、見た次の日に書こうと思って忘れていた話のほうから。(それが丁度閉鎖騒ぎの時期だったのもあったので)


その場面の前の部分もあった気がするのだが、自分ともう一人(サンド○ィッチマンの目が細いほうみたいだった)が、木造の学校の保健室みたいなところで、何故か妊婦らしい人に輸血をしている。

お互い立ったままで、しかも針は使いまわし。交互に刺して輸血していると。


で、妊婦さんがまだまだ苦しんでいる。そしてサンド○ィッチマンは限界になって退場すると同時に、何故か窓際にある強力な輸血機器を女医(近所の歯医者の先生に似ていた)が引っ張り出してくる。

これがまた太い針だった。それを自分の腕に刺して、起動して血が抜け始めたと思ったところで目が覚めた。


わしとサンド○ィッチマンの相方の血で何をしようというのか。ちなみに、わしの血はO型。片方は知らない。


本当に妊婦相手に輸血していたとして、どんな子供が生まれるのやら。うーむ、想像できない。




さて、最近見たほうの夢。


これもその覚えている以前の部分があったことは判るのだが、内容を思い出せない。紆余曲折あって、何やらオカルト的な話していたようではあるが、不明。


そして何故か我がクソ兄貴(失礼)がこんな目にあったと語る。

なんでも、「将門の亡霊に出くわした」のだとか。


戦国時代の落ち武者の格好をした恐らく将門公が、手を自然に垂らし、兄から斜に向かって立っていた状態で、うつむき加減の顔を少し上げつついう。

「斬るための刀とお前をつかんでいる」


亡霊に会ってこう言われたんだ、と語ると同時に、映画やアニメのようにその風景に切り替わったので、将門公の姿を拝めたわけだが、将門公が戦国時代の落ち武者の格好?という気分である。

その絵が切り替わると同時くらいに目が覚めたと思う。



単純に言葉をそのまま捉えるならば、「お前を斬り殺す」と言っているわけだが、殺されるはずの兄貴が生きていて、それをわしに語る。

亡霊だから殺せなかった、というならば、将門公を舐めている。そして何故かこの話を書き始めたら、外で烏が一羽鳴き始めた。夜中なのに。


最初に「お前を」があったかによって違うのは当たり前なのだが、そこがはっきり思い出せない。多分、上記の通りだったと思う。


こちらを斬るつもりだったのか、それとも別の意図があって掴んでいたのか。そもそもその「お前」は兄を指していたのか。風景が切り替わったこと自体、ちと不自然であった。


何やら将門公に失礼があったのやもしれぬ。将門様、失礼を致しました。いずれ腹を掻っ捌いてお詫び致しますゆえ、今はどうか平に平に。

む。こりゃひどい冗談だ。これこそ失礼になりそうだ。申し訳ない。今はやらねばならないことでありながらやりたいことでもあることが控えておりますゆえ、ご容赦のほどを。では、また。


まだ残っていた灰

2012-06-11 | 雑記
先日、タバコ及びキセルの話をラヂヲでやったのもあり、パターンになりつつある「こぼれ話」を書いた。


書いててつい、「じじむさい」だのなんだのの話を思い出したら、うっかりデーモン小暮のネタになってしまったが、あれが書きたかったわけではない。


メンソールタバコについてである。


別に長く書くつもりではなかったし、一言だけ書けば済む話だったのだが、改めて。



さて、最近ここをお読みになり始めた方、特にラヂヲをBeyond 5 Sensesで紹介されているのを見たついでに読んでいる方の多くには「釈迦に説法」になろうが、日本のマスコミ、正確にはマスゴミを実質支配しているのが広告代理店で、そのトップが電通であると。

TV、新聞、ラジオ、雑誌、ネットの主だったポータルサイトなんかの広告も絡んでいるのかもしれないが、ネット以前からの広告媒体はほぼ彼らの傘下にあると。



要するに、何か売りつけたい流行らせたいといった意図で(TVなどで流される)大抵のものが世に送り出されているというわけだ。


そんなバカなというなら、例えば韓流が本当に流行っているのか身の回りでよくお確かめになったほうがよかろう。コンビニでキャンペーンやってた、とかいうのは意味がない。


電通云々ではないが、きみしぐれさんもご自身のブログで以前、アパレル業界に勤められていた時に、「流行っているからコレを作る」のではなく、「今度はコレを流行らせるからコレを作れ」という風な上(どこかの情報機関みたいなものだとか)からの命令があった、ということを述べられていた。


メンソールタバコの話に戻る。


ラヂヲで「未確認だが、東洋系の人間の遺伝子にだけ悪影響を与えて不妊を起こしているのではなかろうかという話がある」といった。


不妊云々は判らないが、世に多く出回るもののほとんどに「何がしかの意図(流行っているからではなく)」がある状況ならば、このことを指摘するだけで十分であろうといえる。




タバコ(というよりシガレットだが)は体に悪いと世は禁煙まっさかりである。

といいつつも、我らがJTは日夜、新商品を世に送り出してくる。ありがとうJT。もうこっちくるな。


仕事場にもタバコ(シガレット、てくどいか)の自販機がある。夜勤明けにぶらぶら仕事場で一服したり茶を飲んでいたりすると、JTの人間が新商品を持ってきたり、管轄の販売機のポップを交換するだとか、詰め替えはこちら(といっても日勤の仕事)がやるので納品に来たりする。


さて、外の自販機を見てみた。雷神の格好をしたデブが映ったポップが貼られている。刺激的なメンソールを謳っているので、雷神を使ったのであろう。どうでもよいことであるが。


ふと思い出したことがある。このポップが貼られる前は、フィルターにメンソールの粒があって、そのまま吸えばノンメンソール(もしくは弱い)、潰して吸えばメンソールタバコになる、といったのが貼られていた覚えがある。

その前もその前も。必ずメンソール、でもなかったかもしれないが、メンソールばかりだった覚えがある。


「何がしかの意図」と、いった。それが本当に東洋人を不妊にさせる狙いがあるのかは別としても、不自然さを感じてしかるべきである。

「メンソールタバコが流行っているからそればかり出る」といったしょうもない結論を微塵も疑わない人には考えようもなかろうが、その「何がしかの意図」は、表面だけ見ても「メンソールを吸引させたい」という狙いがあるといえる。

表面上とはいえ、不審な意図があるなら、それだけ(まさかメンソール吸わせたいが動機な訳がない)ではない他の何かを狙っていると考えるのが自然である。


メンソールが不妊の原因かをお知りになりたかった方には申し訳ない。その上、判る人には判る内容の話でもあった。冒頭で述べたとおり、「釈迦に説法」と相成ったわけである。では、また。

火皿からこぼれた話

2012-06-10 | 雑記
火皿とは、キセルのタバコを詰めるところ。文字通り火を点けるところである。


というわけで、先日のラヂヲのこぼれ話をやろうかと考えている。それならラヂヲを出した時の記事に書けばよかろうと思われても仕方ないが、仙人には仙人なりのふかあああぁい事情が・・・やっぱりなかった。



では、タバコの話とまったく別な方面から。


締めの音楽を「昔聞いていたJazzの名曲でやろうかと」と、ラヂヲを出す前に書いた。そして、予告どおり付け加えた。


それがこの曲。


Art Blakey and the Jazz Messengers - Ecaroh




あまりTVの話はしたくないのだが、某国営放送局で、先日お亡くなりになった谷 啓が司会をしていた「美の壺」という番組をご存知だろうか。


あれで始まりから流れる曲名は「Moanin'」というのだが、このArt Blakey and the Jazz Messengersの曲である。


本当は導入の部分(終わりのほうでも出てくるが)を入れたかったのだが、うまくいかないので、喋った時間と帳尻を合わせた形にした。


ちなみに、Ecarohというタイトルは、作曲したメンバーのピアニストの名前を逆さにしたものだそうな。


さて、キセルについてやっていこうかと。



タバコを吸おうと考えたのは、ラヂヲでも語ったとおり、Beyond 5 Sensesの影響である。

ただ、手巻きタバコを上手く巻ける自信がなかったのと(今ではさらりと巻いてしまうが)、剣道に茶道をやっていたのもあって、「やるならキセルがいいな」と思ったのである。

ただ、まだ固定観念が強かったのもあって、「勧められているシャグタバコ(手巻きタバコの葉っぱのこと)を吸うことは出来るのか否か」と悩んで、それが確か数日から一週間だった。


キセルで吸うなら専用の「刻みタバコ」であるべきだと思ったのだが、これは一応、悪名高いJT管轄(実際はタバコの葉っぱだけが管轄のようで、JT自体が製造、卸に直接係わってはいないようだ)。

で、気になって色々調べまわったのだが、無添加には違いないようだ。こういう繊細なタバコは保湿剤やらを入れてしまうと返って上手くいかないのかもしれないなと考えたが、湿度管理などの手間が掛かるというのがあるので、そういう面倒くささでもってタバコ(無添加の)から遠ざけようという意図があったのではなかろうか、などと想像している。まあ、そもそもキセルで吸う人自体が少ないので自然消滅するだろうと踏んでいたのだろう。


だが実際、キセルで吸う人は増えているという話である。猫も杓子もキセル、というほどではなかろうが、JTシガレットより美味いし安上がりだと、乗り換える人がいることはいるのである。


タバコはそれまで吸ったことがなかったのだが、刻みタバコ「小粋」を恐る恐る吸ってみたところ、これが美味い。

子供のころに体感した、「シガレット(=タバコと思っていた)は化学合成物質の塊である」というのはなくなっていたが、美味いと感じるとは思わなかった。


それ以来虜になって、たまに灰を吸い込んで(滅多にないが)苦しんだりしながら今にいたる。


キセルで吸うメリットとしては、通常のシガレットは葉の重量が厄、じゃなく約一g。手巻きは調整できるが、レギュラーサイズで巻いて大体0.7g程度になるという。キセルの場合はというと、葉の刻み具合にもよるのだが、大体0.16gだという。六回吸って大体レギュラー一本分になる。

参考はこちら。http://tsugeshinchak.jugem.jp/?eid=21

吸い方はシガレットの吸い方でいくと上手くいかない。例えるなら、スプーンで熱いスープをすする様に、という。


葉がかなり細かい「小粋」は二、三口で終わったりする。慣れると五分くらい持ったりするそうだ。

マニトウのようなシャグタバコを詰めた場合は、それほど意識しなくてもなかなか持つ。吸い終わって灰を掻き出したら五分以上経っていた、というのもざらである。ただ、詰めすぎると吸えなくなるので、落としどころをキセルの火皿に合わせてやりくりする必要がある。


吸い方自体(ある意味吸う以前)に意識、つまり集中力がいるというわけで、ラヂヲの話へと繋がるわけである。


さて、タバコを吸い始めたある日、近所の沖縄そば屋で飲んでいたら、現店主の母君がお店にやってきた。勿論、顔なじみである。


キセルで吸ってたらこういう。「あらぁ、じじむさくなって」と。

「はっはっは、どうせそのうち歳食って釣り合いが取れますよ」などと笑って返した。


我が父にも「老成している」などと評されたことがある。いわゆる世間的な栄達に関心がなかったので、父親としてはそういう所が歯がゆかったのだろう。知人がわしを見て「なかなかしっかりした感じがする」などと世辞を言うと決まってこういう。「いや、まだまだですよこいつは」等等。

父親のそういう「俗世に染まれ」という裏に潜む(裏でもないが)観念はずっと前から感知していたところである。上記の一連のやり取りを見ながら「我が父ながらつまらない男よ」と思ったり思わなかったりしたと、風の噂で聞く。他人事か!

俗世を超越した思想に寄り添っていると信じて憚らない父親が、何故か「俗世に染まれ」と言っているわけである。これほど滑稽な話はあるまい。

俗世を超越したとかいう思想でもって俗世に入り込んで俗世を彼らの思うがままにしていく、という意図もある。なんとか革命といいながら、根本的には何も変えないというわけである。



ずっと前にも同じことを言ったかもしれないが、いったいいくつなんだお前はと。


というわけで、冗談めかして人のセリフを拝借することにする。


子供のころ、デーモン小暮が何かの番組で彼の考えているところを滔々と語っているのを目にした。彼はちょっと笑いながら「デーモン小暮としての」年齢を言っていた。


「十万飛んで二十九歳」と。


まさかまったく同じ年齢になってそんなセリフを言うとは思いもよらなかった。十万飛んで二十九歳で決定。






来年はせっかちに十一万飛んで三十などといっているかもしれないが、一日も一万年も大して差はないのである。では、また。