猿、じゃなくて然る方がこうのたまっておった。
「植物が実は土が嫌いだったと知っておどろいた」云々と。
別に本に書いたとか講演したとかではないので、オフレコレベルではあるが、どこそのブログだか掲示板みたいなのところのプロフィールに書いていた。今も書いているかはしらん。
などという話から続けていこうかと思ったが、その前にご挨拶を。
お久しぶりである。以前の更新を見たら、八月が一番最近という有様。
忙しくなってしまったので、ダラダラと過ごしておった。ダラダラとブログを書くのもまたダラダラとしているような気もするが、とりあえず。
忙しいとか言いながらゲームやって寝る時間を削っていたりするので、やはり忙しいは言い訳であった!となる。
そしてゲームに忙しいなどと言いながら、ゲームの時間を削ってまで何か書こうとしている。やはり申し訳もなくなる。
さて、挨拶は措くとして。
冒頭の発言を見たときに思い浮かんだのが、夏前だかに何度か取り上げた、『心でっかちな日本人』という、心理学者が書いた本の話。
要点を示せば、民族だか人種の社会性だとかの心理は、必ずしも自然に発生した、不変のものではない、ということである。
こういうのを聞いたことがあるだろう。日本人は集団主義で、欧米人は個人主義として、それぞれの主義の利益を追求するのだと。
そしてその著作では社会学の実験や統計などからの推察で、必ずしもそうであるとは言えないことを示していた。
長くなるが平たく言うと、別に日本人は集団主義が好きだからやってるわけではなく、そうやらないと生きていけない状況などもあったがゆえに、それに適応してきた側面があると。
また、欧米人の個人主義は、別に集団のことを無視し続けることで出来上がっているわけでもないということである。
はい!久しぶりに書いても結局長くなる。最近はゲームはキーボードで動かす方ではなくなったので、指先が凝ってきた。
それと植物に何の関係が?と思われよう。別に学術的な話でそう思い至ったというわけでもないが、こうである。
植物が土から生えてくるのは、他に場所が無かっただけで、それはつまり、日本人が集団主義を好き好んでやってきただけではないのと同じことだ、と感じたのである。
生えようと思えば、水の上でも育つ。小学生の時にやった方もおられるだろう。球根の水生栽培とかいうのを。
どんぐりを水生栽培できるかはしらんが、千年間、水にどんぐりを落としてたら、どんぐりの木も学習して、できる種をまきだすかもしれん。
それは、地球に生きている人間を含めた動物も同じことではないのか?いや、地球などというのは欺瞞だな。地表だった。
地表に生きている存在も同じではないのか?かつての村社会のように、そこから出て行くことは死を意味するに等しいがゆえに、かつての日本人のように集団主義に適応するかの如くしてきたのではないのか?と。
日本人が生まれ持っているなどといわれてきた集団主義。これらの「自然」に立ち返ることが日本をよくする道だ、などというが本当だろうか?というのが、『心でっかちな日本人』の著者が冒頭に書いていた疑問である。
わたし一人がそう思った!などという書き方ではなく、「あー確かにそうかもしれないなぁと思いはするが、何か変な感じがしないか?」という風に書いていた。
さて、耳をすませてみよう。聞こえてこないだろうか。聞こえてきたらちょっと耳鼻科行きましょうか。
ではなく。このブログのかつての姿でもあるし、道を歩いてても聞こえてくるだろう。まあ、街中で聞こえてはこないか。
「行き過ぎた文明が自然を滅ぼし、人間をも滅ぼす!今こそ自然に立ち返るべきだ!」などと。
こーゆーのは所謂過激派というレベルではあるが、なに、冒頭のお然るさんも同じである。
さて、自然とはどこだ?
みなさーん、右手をごらんくださーい。外じゃありませんよあなたの右手でーす。
はい、それが自然でございまーす。
と、そんな感じだと思われる。
これでは訳がわからんので、話を戻す。
釈迦も野口晴哉も言っておったが、「動物は例えば犬なら人が育てても犬になるが、人間はそうはならないのである」と。
野口晴哉は、人間の「自然」と呼べるものは、放っておいて出来上がるものではない、と述べていた。
しかしこれ、人間だけじゃないようだ。
然る飼い犬が、猫と同じ行動パターンを取っている、という話を見たことがある。
ダンボールに入り込んだり、座るときも猫の香箱座りとか呼ばれる、脚を引っ込めた座り方をしたりする。
というのも、その家では、犬と猫を一緒に飼っていたそうで、詳しい話は忘れたが、猫に育てられた感じだったのだろう。
犬だけ飼ってても、冗談まじりで話題になることがあろう。「あいつは自分を人間だと思っている」などと。
言葉こそ話さないが、態度が人間である。
犬の犬らしさ、猫の猫らしさというのも、「放っておいて出来上がるもの」ではなかったのである。
自然といえば、木やら草が生えていること、として話をしよう。
東南アジアだとかで、その地域の生活と密着している、ヤシ。香具師ではない。
彼の物は、長年、人間が利用してきたがゆえに、人間が利用することを前提とした植生になっているとのことである。
「自然に帰せ!」と放ってやると、たちまち駆逐される、と思われる。
日本にも似た例はある。
「里山」というのがそうだ。
これは、勝手に山がそうなったわけではなく、人間が手入れをして、動物と人間が住む村との境目のところを作り上げたのである。
そのお陰で、鹿なんかはその辺りが過ごしやすくて村の中には入らず、狼だとかの捕食動物もその辺りでストップ。
明確だが、グラデーションのような境界なので、現代のように町の外は山、というわけでもないから、必要な品の調達も容易である。コンビニで買い物するよりは容易ではなかったろうが。
そしてそれが長らく「自然」だったのである。別に世界開闢からそうだったというわけではないが。
その「自然」は、人がいわゆる自然に手を入れ続けていたからこそ守られていたというわけである。
ああ、ついでに、里山の話は、冒頭のお然るさんが掲示板だかで昔紹介していたこともあった。
そんな話を紹介しておきながら、他方では「自然界は弱肉強食」などとのたまっていたので、いつものことながら、奴は中身をまともに読まないのだなァと、今になって思う。
放っておかれた里山は、単なる雑木林と化し、熊が民家に入ってきたりなどという事件をたまに聞くようになっただろうが、これは里山の機能が失われ、民家のあるところまでが野生動物のテリトリーになったが故である。
食べるのが目的でもないのに、駆逐するために猪やら鹿を撃たなくてはならないという、本末転倒なことをすることになったというわけである。
まあ、別に里山をどうこうしようという話ではなく、大体地表のことなのに「地球」だとか詐欺表記や呼称をしたり、単なる荒れた山を見ては「自然は素晴らしい」などというのは馬鹿馬鹿しいのでおやめいただきたいということである。
お然るさんがらりったかのように言っていたが、それとも引用だったか?今となっては詳らかではないが、「果物というのは人間のために用意されていたものかもしれない」などという。
ヤシが当初は人間に利用されることを前提としていなかったかもしれないが今となっては利用されないと生きていけない状態になっているのと同様に、最初から荒れ山だかの果物も、人間が食うことを前提として生えていなかったのかもしれない。
例えばトマト。あれは毒がある。「現代人は毒ばかり食ってる」と言うからには食べないのだろうが、お然るさんは食っている。
と、書くとデマになるので、本当のことを書くと、毒があることは本当である。
ただし、食べる部分である熟した実は「現代の品種」にはない(0かは忘れた)。未熟果と茎や葉には今も毒があるとのこと。
そしてわざわざ「」をつけたが、品種改良される前は熟した果実にもあったという。これが人間のために当初から用意されていた、などというのはお笑い種である。
かつての人類の食性を取り戻すこそが正しいのならば、トマトは毒があろうがなかろうが、かつては食べられなかったら、今も食ってはいけませんね、という皮肉は以前も書いたものである。
こうやって、お然るさんの農園からトマトが消えてたらこれまた傑作ではあるが、そもそもあるのかないのか、イルのかイナイのかはしらない。
「人間は賢くていらんものを作ったり工夫したりするので間抜けだ」などというのならば、パイナップルを割って食うなどという「賢い」ことはやらないほうがよろしかろう。あんなトゲトゲを食べようという「賢い」発想はしないほうが正しいのでは?と言える。
かつてのパイナップルはきっとロックミュージシャンもかくやといわんばかりにトゲトゲしかったに違いない。
お然るさんの農園に以下省略。
ヤシにしろ里山にしろトマトにしろ、言ってしまえば「里山化」したもののうちで、人類は過ごしているといえる。現代の里山化が、例えばトマトの品種改良というわけだ。人間の賢さが愚かしいのなら、里山も愚かしいゆえ、農園もお辞めになるのが正しかろう。
それはつまり、森に住んでいた人類の時点で文明だったのだから。
お然るさんのHPとやらがある。そこのバナーというやつだかに、「地球を極楽にしよう」などと書かれていた。
これは「日本人の美徳(例えば集団主義や勤勉さ)を取り戻して、美しい日本を復活させよう」などという、「心でっかち」な言葉となんら変わらないのである。
お然るさんの感想にある、「植物は実は土が嫌いだった」というのと同じく、日本人は別に日本が好きだから日本人らしくあるわけでもないのと同様、地表が好きだから地表の生き物は地表の生活をしているわけではないのである。
木を見て森を見ず、という。
お然るさんはさしずめ、「土を見て何も見ず」である。
冒頭のお然るさんのコメントのことから書き出して、途中で思い浮かんだことを書いて終ろうと思う。
植物は土が好きだろう、と思っていたからこそ出てきた感想なのだろうが、それならどうして土に埋まったままにならないのだろうか?と。
大抵の植物は土に根をしっかり張って、上に、そう、上に伸びる。あたかも土から離れようとせんばかりに。
我々の居るところは、地球の一部たる地表である。それを我々はうっかり「地球」などと詐術めいた言葉遣いでお互いをごまかす。
上記のもじりに付け加えるなら、こうしよう。
土を見て地球を見ず
まあ、わしも地球はおろか、地表のことも全部を知りおおせるわけではないゆえに。
では、よき終末を。
「植物が実は土が嫌いだったと知っておどろいた」云々と。
別に本に書いたとか講演したとかではないので、オフレコレベルではあるが、どこそのブログだか掲示板みたいなのところのプロフィールに書いていた。今も書いているかはしらん。
などという話から続けていこうかと思ったが、その前にご挨拶を。
お久しぶりである。以前の更新を見たら、八月が一番最近という有様。
忙しくなってしまったので、ダラダラと過ごしておった。ダラダラとブログを書くのもまたダラダラとしているような気もするが、とりあえず。
忙しいとか言いながらゲームやって寝る時間を削っていたりするので、やはり忙しいは言い訳であった!となる。
そしてゲームに忙しいなどと言いながら、ゲームの時間を削ってまで何か書こうとしている。やはり申し訳もなくなる。
さて、挨拶は措くとして。
冒頭の発言を見たときに思い浮かんだのが、夏前だかに何度か取り上げた、『心でっかちな日本人』という、心理学者が書いた本の話。
要点を示せば、民族だか人種の社会性だとかの心理は、必ずしも自然に発生した、不変のものではない、ということである。
こういうのを聞いたことがあるだろう。日本人は集団主義で、欧米人は個人主義として、それぞれの主義の利益を追求するのだと。
そしてその著作では社会学の実験や統計などからの推察で、必ずしもそうであるとは言えないことを示していた。
長くなるが平たく言うと、別に日本人は集団主義が好きだからやってるわけではなく、そうやらないと生きていけない状況などもあったがゆえに、それに適応してきた側面があると。
また、欧米人の個人主義は、別に集団のことを無視し続けることで出来上がっているわけでもないということである。
はい!久しぶりに書いても結局長くなる。最近はゲームはキーボードで動かす方ではなくなったので、指先が凝ってきた。
それと植物に何の関係が?と思われよう。別に学術的な話でそう思い至ったというわけでもないが、こうである。
植物が土から生えてくるのは、他に場所が無かっただけで、それはつまり、日本人が集団主義を好き好んでやってきただけではないのと同じことだ、と感じたのである。
生えようと思えば、水の上でも育つ。小学生の時にやった方もおられるだろう。球根の水生栽培とかいうのを。
どんぐりを水生栽培できるかはしらんが、千年間、水にどんぐりを落としてたら、どんぐりの木も学習して、できる種をまきだすかもしれん。
それは、地球に生きている人間を含めた動物も同じことではないのか?いや、地球などというのは欺瞞だな。地表だった。
地表に生きている存在も同じではないのか?かつての村社会のように、そこから出て行くことは死を意味するに等しいがゆえに、かつての日本人のように集団主義に適応するかの如くしてきたのではないのか?と。
日本人が生まれ持っているなどといわれてきた集団主義。これらの「自然」に立ち返ることが日本をよくする道だ、などというが本当だろうか?というのが、『心でっかちな日本人』の著者が冒頭に書いていた疑問である。
わたし一人がそう思った!などという書き方ではなく、「あー確かにそうかもしれないなぁと思いはするが、何か変な感じがしないか?」という風に書いていた。
さて、耳をすませてみよう。聞こえてこないだろうか。聞こえてきたらちょっと耳鼻科行きましょうか。
ではなく。このブログのかつての姿でもあるし、道を歩いてても聞こえてくるだろう。まあ、街中で聞こえてはこないか。
「行き過ぎた文明が自然を滅ぼし、人間をも滅ぼす!今こそ自然に立ち返るべきだ!」などと。
こーゆーのは所謂過激派というレベルではあるが、なに、冒頭のお然るさんも同じである。
さて、自然とはどこだ?
みなさーん、右手をごらんくださーい。外じゃありませんよあなたの右手でーす。
はい、それが自然でございまーす。
と、そんな感じだと思われる。
これでは訳がわからんので、話を戻す。
釈迦も野口晴哉も言っておったが、「動物は例えば犬なら人が育てても犬になるが、人間はそうはならないのである」と。
野口晴哉は、人間の「自然」と呼べるものは、放っておいて出来上がるものではない、と述べていた。
しかしこれ、人間だけじゃないようだ。
然る飼い犬が、猫と同じ行動パターンを取っている、という話を見たことがある。
ダンボールに入り込んだり、座るときも猫の香箱座りとか呼ばれる、脚を引っ込めた座り方をしたりする。
というのも、その家では、犬と猫を一緒に飼っていたそうで、詳しい話は忘れたが、猫に育てられた感じだったのだろう。
犬だけ飼ってても、冗談まじりで話題になることがあろう。「あいつは自分を人間だと思っている」などと。
言葉こそ話さないが、態度が人間である。
犬の犬らしさ、猫の猫らしさというのも、「放っておいて出来上がるもの」ではなかったのである。
自然といえば、木やら草が生えていること、として話をしよう。
東南アジアだとかで、その地域の生活と密着している、ヤシ。香具師ではない。
彼の物は、長年、人間が利用してきたがゆえに、人間が利用することを前提とした植生になっているとのことである。
「自然に帰せ!」と放ってやると、たちまち駆逐される、と思われる。
日本にも似た例はある。
「里山」というのがそうだ。
これは、勝手に山がそうなったわけではなく、人間が手入れをして、動物と人間が住む村との境目のところを作り上げたのである。
そのお陰で、鹿なんかはその辺りが過ごしやすくて村の中には入らず、狼だとかの捕食動物もその辺りでストップ。
明確だが、グラデーションのような境界なので、現代のように町の外は山、というわけでもないから、必要な品の調達も容易である。コンビニで買い物するよりは容易ではなかったろうが。
そしてそれが長らく「自然」だったのである。別に世界開闢からそうだったというわけではないが。
その「自然」は、人がいわゆる自然に手を入れ続けていたからこそ守られていたというわけである。
ああ、ついでに、里山の話は、冒頭のお然るさんが掲示板だかで昔紹介していたこともあった。
そんな話を紹介しておきながら、他方では「自然界は弱肉強食」などとのたまっていたので、いつものことながら、奴は中身をまともに読まないのだなァと、今になって思う。
放っておかれた里山は、単なる雑木林と化し、熊が民家に入ってきたりなどという事件をたまに聞くようになっただろうが、これは里山の機能が失われ、民家のあるところまでが野生動物のテリトリーになったが故である。
食べるのが目的でもないのに、駆逐するために猪やら鹿を撃たなくてはならないという、本末転倒なことをすることになったというわけである。
まあ、別に里山をどうこうしようという話ではなく、大体地表のことなのに「地球」だとか詐欺表記や呼称をしたり、単なる荒れた山を見ては「自然は素晴らしい」などというのは馬鹿馬鹿しいのでおやめいただきたいということである。
お然るさんがらりったかのように言っていたが、それとも引用だったか?今となっては詳らかではないが、「果物というのは人間のために用意されていたものかもしれない」などという。
ヤシが当初は人間に利用されることを前提としていなかったかもしれないが今となっては利用されないと生きていけない状態になっているのと同様に、最初から荒れ山だかの果物も、人間が食うことを前提として生えていなかったのかもしれない。
例えばトマト。あれは毒がある。「現代人は毒ばかり食ってる」と言うからには食べないのだろうが、お然るさんは食っている。
と、書くとデマになるので、本当のことを書くと、毒があることは本当である。
ただし、食べる部分である熟した実は「現代の品種」にはない(0かは忘れた)。未熟果と茎や葉には今も毒があるとのこと。
そしてわざわざ「」をつけたが、品種改良される前は熟した果実にもあったという。これが人間のために当初から用意されていた、などというのはお笑い種である。
かつての人類の食性を取り戻すこそが正しいのならば、トマトは毒があろうがなかろうが、かつては食べられなかったら、今も食ってはいけませんね、という皮肉は以前も書いたものである。
こうやって、お然るさんの農園からトマトが消えてたらこれまた傑作ではあるが、そもそもあるのかないのか、イルのかイナイのかはしらない。
「人間は賢くていらんものを作ったり工夫したりするので間抜けだ」などというのならば、パイナップルを割って食うなどという「賢い」ことはやらないほうがよろしかろう。あんなトゲトゲを食べようという「賢い」発想はしないほうが正しいのでは?と言える。
かつてのパイナップルはきっとロックミュージシャンもかくやといわんばかりにトゲトゲしかったに違いない。
お然るさんの農園に以下省略。
ヤシにしろ里山にしろトマトにしろ、言ってしまえば「里山化」したもののうちで、人類は過ごしているといえる。現代の里山化が、例えばトマトの品種改良というわけだ。人間の賢さが愚かしいのなら、里山も愚かしいゆえ、農園もお辞めになるのが正しかろう。
それはつまり、森に住んでいた人類の時点で文明だったのだから。
お然るさんのHPとやらがある。そこのバナーというやつだかに、「地球を極楽にしよう」などと書かれていた。
これは「日本人の美徳(例えば集団主義や勤勉さ)を取り戻して、美しい日本を復活させよう」などという、「心でっかち」な言葉となんら変わらないのである。
お然るさんの感想にある、「植物は実は土が嫌いだった」というのと同じく、日本人は別に日本が好きだから日本人らしくあるわけでもないのと同様、地表が好きだから地表の生き物は地表の生活をしているわけではないのである。
木を見て森を見ず、という。
お然るさんはさしずめ、「土を見て何も見ず」である。
冒頭のお然るさんのコメントのことから書き出して、途中で思い浮かんだことを書いて終ろうと思う。
植物は土が好きだろう、と思っていたからこそ出てきた感想なのだろうが、それならどうして土に埋まったままにならないのだろうか?と。
大抵の植物は土に根をしっかり張って、上に、そう、上に伸びる。あたかも土から離れようとせんばかりに。
我々の居るところは、地球の一部たる地表である。それを我々はうっかり「地球」などと詐術めいた言葉遣いでお互いをごまかす。
上記のもじりに付け加えるなら、こうしよう。
土を見て地球を見ず
まあ、わしも地球はおろか、地表のことも全部を知りおおせるわけではないゆえに。
では、よき終末を。