ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ダルマさんは転ばない

2014-07-27 | 雑記
以前からよくこう言っていた。

「カースト制度というが、あれは実は「ダルマ」といった方がいい云々」と。


実は、半分間違いというか、取り違えていた。実際は「ヴァルナ」だそうな。


何ゆえ「ダルマ」と取り違えたかというと、その後にこうあった。掻い摘んで書く。


カーストというのは、僧侶の階級やら軍人の階級やら庶民の階級という風に分かれていて、それぞれにダルマが決まっている。
ダルマのことは、生き方という風な意味なんだとか。

で、釈迦は「人のダルマは一つである!」という主張で持って、ダルマのことを「真理」という意味にしたとかなんとか。
それを混同していたのである。
つらつら読んでたら、行き当たった。恥ずかしいのでワタシはダルマになりたい。もう手も足も出ないので。


ところで、千葉在住のソープ通いで有名だった麻原そっくりのおっさんが、かつて、「人類とは生きる次元が違うのだと認識した」などと、のたまっておられた。

なるほど、もてないからソープに通っていると次元が変わってしまうのダナァと、感心せずにはおられない。
いや、もてないからソープに通うような次元だから、なんだろうが。

もてないからソープ通い?実はこれ、タレコミがありましてね。「まろん」とうハンドルネームで思い当たったら、もうそれで十分である。
これらに纏わる話は出してくれて構わない、とのことだったが、まあ、いいかな。いいですか?

それはさて措き。

生きる次元とかいうダルマは一つなんだが、どうなのかね?次元が変わったんじゃなくて、人間性がなくなったの間違いではないのかと思うのだが、獣に言葉は通じないので、虚しく響くだけである。

ニワトリだって虚仮虚仮鳴いてくれて、世の中が仮初でしかないことをしっかりと認識させてくれる。

獣のほうが言葉が通じるんじゃないかと、悲しくなるのである。


そこで、ソープ通いで有名の、正確には有名だった麻原もどきの話をもうちょっとして、このブログを終了する予定である。

最終回はありまぁす!と、ナントカ細胞の人っぽく叫ぶのである。最終回かどうかは知らん。



かつて尊師は申された・・・。


師のHPで「ノグソフィア」なる話が出ておられたことをご存知だろうか。別に糞便愛好家というわけではないし、紹介していた話には首肯できるところもあろう。

さて、師の言の葉に戻ろう・・・。


「余は、糞便を水洗便所に流すことに、罪悪感を覚える」云々と。


まあ、こんなふざけたしゃべりはしてなかったが、そう言っていた。野糞が気持ちよかったのと、エイヨーがちきゅーに回らないのでボクはわるいことをしていたんだ!というやつである。


これの後か先か、今となってはわからんが、『トランサーフィン』という、いわゆる成功の法則の話が、豚人、じゃなかった、暇人会館という、尊師が運営なされていた会員制掲示板に出た。わざと伏せて言ってきたりもした、某掲示板、というやつである。決して2ちゃんねるではない。


その一説で、罪悪感についての話があった。ちと、然るHPから引用してこようと思う。



「罪悪感」というコンプレックスは、人生をひどく害することがある。

もしあなた自身が罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。

しかし、あなた自身が自分を裁判にかけたがために、他人はあなたを裁くことになる。


もしあなたに「罪がある」のであれば、あなたは罰を受けることに潜在的に同意していて、それ故にあなたは恐れるだろう。

もし、あなたが「罪悪感」を覚えるならば、略奪者やならず者にあなたを襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがためにあなたは恐怖するだろう。


劣等感を抱くそもそもの原因とは「罪悪感」である。

最初からあなたは、とにかく自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っていて、自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つことを容認している。

他者にその権利を渡し、他者があなたよりもましだと考えることを容認したのは、あなた自身であることに気づいていただきたい。


あなたを説教したり操ったりしようとする人たちの欲求は、他人を低く見ることで、自分の立場を確かなものにしたいという願望から生じている。

彼らは心がつねに疑惑や自信のなさに苛まれているため、他人を犠牲にすることで自己肯定へ向かおうとする。


もしあなたが誰にも害を与えていないのなら、たとえ何に対してであれ、誰もあなたを裁く権利は持っていないことを肝に銘じるべきだ。


宇宙一のそもそも論~あなたが生まれた世界のしくみ~の「リアリティ・トランサーフィン」備忘録より


引用がちと長いが、本を読むよりは短い。我輩の文章はこれよりひどく長ったらしいので、本を買って読んだ方が実に有意義であることは論を俟たない!


それはともかく。


この場合の他人は、「地球」とやらになろう。で、地球は誰かを裁いてきたのだろうか?そんなもん、誰かがこじつけたに決まってるんじゃなかろうか?

そーは思わない!と謳うのは、上記の内容の通り、「最初からあなたは、とにかく自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っていて、自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つことを容認している」からではないのか?

地球を恐れてるだけではないのか?だから、ことさらに何かの前提条件を踏まえてだが、「素晴らしい!」と、ニワトリとは比べ物にならないひどい声で鳴くのではないか?ああ、豚か。


地球は人間の影響を受けている。自然、などといわれているものは、人間が影響を与えてきた結果だったりもする。

人間が改変した自然によって、人間の自然までが変わったりして、それが自然になったりする。どこまでが天然で、どこからが人工なのかがわからないのが自然である。
獣道は「自然」とはいえまいて。


さて、そんな人間(だけではないとはいえ)の影響を受けた自然。

尊師を突き動かしている自然と地球は、こういうものでなかろうか?

「あなたを説教したり操ったりしようとする人たちの欲求は、他人を低く見ることで、自分の立場を確かなものにしたいという願望から生じている。

彼らは心がつねに疑惑や自信のなさに苛まれているため、他人を犠牲にすることで自己肯定へ向かおうとする。」


で、この後、上記の引用にはこう続いているのだが。
「もしあなたが誰にも害を与えていないのなら、たとえ何に対してであれ、誰もあなたを裁く権利は持っていないことを肝に銘じるべきだ。」

こう返ってくるのは予想している。

地球に害を与えてきたんだ!と。回りまわって余の体に害が来ている!!と。

尊師はお疲れのご様子。


回りまわってやってきた害がソープ通いをさせたのなら、実に毒が回ってしまったのダナァと、言わざるを得ない。


今の状況になるまでに色々な試練がおありだったそうだが、ソープ通いは実に大変であったろうと存じます。心中お察し申し上げまする。


いやぁ、我輩も尊師のような、ヂンルイとは違う次元になるためには、ソープに通わなければならんのですなぁ、いやぁ困った困った。



さて、冗談染みた書き方はここまでにして、もう少し。


その尊師に、わしはかつて「ソープに行って来い」などといわれたものである。

だが、どーにも行きたくない。そーゆー所にいったことがないのもあるが、なんだか嫌な上に、当時は今より金もなかった。あっても行こうと思わなかったから、金は建前ではある。


尊師はいう。

「性欲というのは、良いか悪いかは別として、人間の原動力だと思っている」云々と。


その、人間の原動力たる性欲というもんがこじれて出来上がったのが文明(ライヒが言うには)だというのに、その文明の粋のようなフーゾクに行けというのはキチガイ染みた理屈でしかない、と、その当時は理屈にはなってなかったが、わしは感じていたのだと思う。だから行かなかった。


こじれた性欲が罪悪感、つまりは劣等感を産み、もてないとかいうしょーもない理由でソープに通い、どーみてもタチの「悪い」ものを発露したといえる。

そんな、本能などという、自分自身でない何かに振り回された結果、チンポコに振り回された結果、バカ女と結婚離婚を二回ほど繰り返したのではないのか?

これこそ人類の次元ではないのか?豚という人類の。シオニストとやらがいう、ゴイムの。


尊師の言葉は道徳である。「必要だから悪いことではない」というわけで、ご自身もソープにお通いになられ、そして、我輩にもお勧めになられた。ありがたやありがたや。

と、思うか?


道徳というものは、人間の生存に最低限必要なレベルでの本能が美辞麗句を纏ったもの、とつい最近思い至った。

「若い奴を見ていると態度や言葉遣いが云々」から来ているのだが、猿のハーレムを追い出されそうになる、歳食ったボス猿の本能である。若い奴らは、自分を追い落とす脅威になるからである。

インドのある猿は、歳食ったボス猿を追い出してボスになった後何をするかというと、前のボスがハーレムで生ませた子供をかみ殺すそうだ。
何ゆえかというと、子育てしているメス猿は発情しないので、殺してすぐに発情させるためなのだとか。そして、自分の子供を産ませる。
わしが猿なら、例の尊師を追い落として子供を殺して、とやることになるが、残念ながらわしは猿ではない。

本能で生きているというわけである。それを糊塗したのが、上記の「若い奴」である。
これは生きているとは呼びたくない。生命維持活動でしかない。動く植物人間である。
植物人間というのは不適切なので、ゾンビである。
そう!このゾンビ云々も、某掲示板の中でよく口の端にのぼせたものである。

このような手垢にまみれた下らない、人類が万年繰り返して来た馬鹿馬鹿しいものを、地球なんぞを持ち出して飾り立てたに過ぎない。

尊師はお疲れのご様子。森という中二階に潜んだまま即身成仏するがよい。


マイペースという名のユアペース

2014-07-19 | 雑記
さてさて。今日もちょっと噛み付いてみようかと思う。


前回のラヂヲで、「マイペースじゃだめなんですか?」という話に言及しておいた。
ブログのコメント欄にあった話である。


ラヂヲで言ったことをそのまま書いておく。


マイペースじゃダメか?と聞くのは、マイペースとやらで居たいからだろう?
良いか悪いかじゃなくて、居たいか居たくないかではないのか?と。


もう一つ言っておく。


いちいち人にお伺いを立てないと、自分のことも判断できないのか?




と、まあ、コメント欄で返信したことからしたら、実に変心したといわざるを得ないようなことに思い至った。


仮に、わしが神様だったとしても、そんなことを判断するのはわしの役目ではないのである。

なんせこの世界というのは、「あなたが望んだ通りに過ごす」ためにあるそーだ。

何をどう望んでいるかは、実際は忘れがちだそーな。そのあたりは、どこぞのトランなんとかでも読んでくれ。さして時間はトランから。



ところで。


マイペースじゃダメなんですか、という質問は、やはりおかしい。


そのことは以前触れたので、繰言になるが、もう一度考えてみよう。



ダメだ、と答えたとしよう。質問された方は、「そうかダメか」と心を入れ替えて、社会運動とやらに身を投じることになったとしよう。
(質問の元が、社会運動がどうのこうの、というところから来ている。)

そーやって社会運動頑張っているあなたの「ペース」は何ペースなのか?

マイペースじゃないというのか?確かに、ダメだといったが、どうして心を入れ替えて動き始めたのだ?

嫌々やっていたのか?嫌々やっていたのなら、それはマイペースとは呼べそうにないが、無心に働いていたとしたら、それはなんだ?


次に、よい、と答えたとしよう。質問された方は「じゃあマイペースで」となるわけだが、一つ待って欲しい。

マイペースとやらが、どうしてわしの言に左右されるのか?それはマイペースなのか?

マイペースって言葉が大体、非難がましい意味で使われているので、その意味から敢えて言えば、マイペースという言葉を盾に、怠けたいから言っているのではないのか?と。
ただし、別に怠けたいのを否定しているわけではない。



前にも書いたかしゃべったかしたが、マイペースの反対に位置するものは、他人のマイペースでしかない。人なのか、レプティリアン脳とやらを刺激された集団ヒステリーといった、場合によってはひどく危険になり得るものなのかは知らぬ。



人間というのは、実際は他人でしかない意識で認識している状態を、自分自身だと勘違いしている。
マイペースだとかなんとかいうのも、その意識とやらの話でしかないのである。
マイペースだと思っているのも、「他人」のペースだというわけである。

マイペースだとかなんとかいう、しょうもない言葉は、一度かなぐり捨ててみては如何だろうか。

余談だが、「わたしはなるべく本音でいうようにしてきました」とどこかの誰かさんが言っていたが、本音だと思い込んでるだけなんじゃないか?と、今となってはそう思うものである。どこの誰とは敢えて言わんがな。



で、改めて以前にも言った事を。

だからといって社会運動をしろ、という意味ではない。


判らんか?



あなたのしたいことを、したいようにすればよい。自分で判断して、な。



わしは何度も言ったが、社会運動なんぞ無意味だと感じているので、推奨なんぞしたこともない。
あったかもしれんが、少なくとも、今はそんな気持ちは無い。

ただ、質問された方は、何にせよ「社会運動とは必要なのだ」と思っているからこそ、聞いて来たのだとも言える。
そう思う理由は、大体、何かに吹き込まれただけだとは思うが、これ以上は冗長に過ぎるので、やめておく。


もう一度言う。

マイペースだとかなんだとか、邪魔な言葉は一度かなぐり捨てて、何がしたいのかを考えよ。


そうやってから、ようやく本当の意味での「マイペース」が現れてくるんじゃないかと思う。


さて、もう一つ思い出したので、付け加えておく。


マイペースで居たい理由が怠けたいからだったとしよう。ただ、それを否定しているわけではないとも書いた。
これ(マイペースじゃダメなのか)は、己のやることに正当性を与えなければ何も出来ないという、現代人の脆弱性そのものである。

正当性がない、もしくは与えられていないものには罪悪感を感じるというこれは、悪循環をただただ広めるだけであるが、これについては後日改めて書こうと思っている。これでも予定オーバーなのでな。



で、そうやって散々えらそうなことを言っているお前はどうなんだ?と、絶対に思うだろうが、こうとしかいえぬ。


手前にもわかりませぬ



では、また来世。

梅雨のラヂヲ

2014-07-06 | ラヂヲ
何か言うことがあったような?なんだったっけなぁと思っていたら、季節が変わろうとしていた。

これではいけない。さっさとやって最終回にしなければと思い立ち、ようやく録音したのはいいが、次は一週間以上放置して月が変わっていた。

夜勤明けで疲れたので、書く事は忘れてしまったが、一言だけ。


今回もメチャクチャである。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 ストレート二杯目




なんというか・・・言いたいことを途中で忘れているようなそんな気がしないでもない。


というわけで、また来世。