ウヰスキーのある風景

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割れ箱のとじ蓋

2020-02-15 | 雑記
およそ一か月前、弟と一悶着があったことを書いたと思うが、その数日後にこちらも激怒して、ゴミ箱のことについて怒った。

ゴミ箱を解体してゴミ袋に詰め、それから気分転換に夜出かけてその帰宅の道すがら、もう日付も変わろうというところまで来たというのに、ゴミ箱のことについて一言もなく、家にたどり着いたら寝ているのかと思ったら起きていて、顔を合わせたら・・・となった。

あまりの剣幕に、何をされるか判らないと感じた弟は、次の日がこちらは夜に出かける予定があったので、いなかったその夜は近所の交番に赴き、シェルターはないかと尋ねたとのこと。この辺りは先に母親に聞き、本人からも後日聞いた。

こっちが感じたことは、何にせよ同じように感じてしまうのだなと、笑いそうにはなったが、それはともかく。

怒鳴りつけた数日後にともかく話し合う機会を持とうと思い、色々と噛み合わなかった所やら弟の勘違いを諫めたりしたものである。

人のことは言えんが癇癪持ちならこれを飲めと、某仙人推奨の生薬配合の薬を試供品として渡した。続けるならそこからは自分で買えよとは言ったが、飲み切った後は恐らく追加してはいないだろう。

それはさておき。

弟には金の支払いの件で「失礼なことをするな」と怒鳴られたと、前回に記したと思う。

書いたかどうかはしっかり確認していないので追記すると、そう言われたわけだが、それからしばらく考えた結果、ずっと失礼だったのは誰なのかな?となったわけである。

元妻にそっけない態度を取られたが故の癇癪でゴミ箱と拙が以前の家から使っていたザル(百円均一のだが)を破壊および粉砕し、弁償したのはたかが百円のだからだろうと、ザルのみ。

これが去年の春ぐらいの話で、それが半年以上続いていたのである。

弟へ怒鳴りつけた、と書いたが、そのことを含めた話をしたとはいえ、理解していたかは判らない。理屈ではなくて通じていたのは怒っていたことだけだったと思われるので、話し合いの際に改めて伝えたと。

それは何かというと、壊れて元の機能が不全になり、不便になったものの使用を拙に強要させ続けたことと、同じく思っているはずなのに弟が弟自身にそれを強要させ続けたことは余りにも失礼だと。

ついでに、そのゴミ箱を買ったのは通販ではなく、拙の友人と遊ぶついでの流れでホームセンターに車を出してもらったものだったので、拙の後輩にも失礼だと。

怒鳴りつけた時すでに、まるまるこの内容を伝えてはいた。

そういう卑屈な態度を延々取り続けていたことが、最初の弟の癇癪を引き起こした拙の態度に繋がったのだろうとも伝えたが、こういう理屈を理解しているかは判らないし、判っていたとしても恐らく骨身にしみて理解しているわけではないのかもしれない。

壊れたゴミ箱の上に鍋やらフライパンを乗せて不便さを強調させれば、いずれか弟はいい加減提案してくるだろうと踏んでいたが何もなく、それで半年以上なんとなく我慢してしまったことが噴出してしまったというわけである。

ちなみに、弟は度々「上にものを乗せるなと言ったのに何度も乗せてくるのには訳があるに違いないと思ったが、その意図までは判らなかった」とのこと。


笑う門には福来るといい、富めるものはますます富むというし、マイナスの意味合いで同じ流れの言葉に、泣きっ面に蜂というのはよく聞くものである。

己自身に失礼な態度を取り続けていると、他者からも失礼な態度を取られるものである。

拙の若い頃の話を引き合いに出すと、中学の時にどこか華やかだったのだろう兄と比較され、兄を知る学校の人間からは「お前は兄貴と比べてカッコ悪い」と散々言われたものである。

中高の時がピークで、長らく引きずったものである。

大昔にその認識が正反対になったことを書いたものだが、それ以来、着物を着ていてもマフィアみたいな服装の取り合わせでも、カッコイイとしか言われなくなってしまったものである。

昔はその反対だったことを伝えても、相手は信じないという典型的な話も含めて、である。

おしゃれな男になろうと並々ならぬ努力をしていたかというと、実は何もしていない。

肌が綺麗だとこれも散々言われるが、植物油脂のみで作った石鹸で洗っているだけで、手入れらしいこともしたことがない。

が、そう言われるのは、上記で触れた、「認識が正反対になった」だけなのである。

ナルシストの誹り、というのはバカバカしいのだが(これは後述する)、そのからかいをちょくちょく受けることもあるとはいえ、その時以来、鏡を見た時にこう思うことが増えた。

「ああ、わしってカッコイイんだな」と。

言ってすぐに笑いだしたり、何を言っているんだと内心おかしく思ったりはするが、嫌な気持にはならなかったものである。

で、そんなこんなで今も言われるのである。もう四十に近いというのに。

ナルシスト云々は、つい先日に弟に言われた。他にも言われたが、それは措く。

「家に姿見を置きたいといっていたな?気持ちが落ち着かない時は自分の姿を確認するのがいい。あれは一種の邪気払いだというんで、それで旅館の玄関先に姿見があったりするんだと。わしは道のカーブミラーとか止まっている車で確認している」などと言うと、「ナルシストか?」とからかってきたものである。

さて、改めて言うが、自分で自分を褒めていたら、周りからも褒められているというのが拙の状況。

己を貶めていた弟は何かというと、逆ナルシストをしていたにすぎないというわけである。

拙が言いたいことは実に明瞭である。

己が己自身を見限らない限りは、世の誰もお前を見限ることはないのである。己という世の中の誰かが見限っていないのだから。

どのような人もこの理屈から離れて存在はしていないので、人はそれぞれ見える形が違うだけのナルシストということになる。

だったら、自分が楽しいと思う方を選べばよい。合理的な判断である。


いきなり顔かたちが変わるだとかは恐らくないだろうとしても、少なくとも、「己自身」という世の誰かに失礼なことをし続けることは辞めるべきであろう。

辞めなければ、周囲の「己自身」が失礼なことを吹っ掛け続けてくることは明白である。

拙の弟が何をし続けていたかを改めて読むまでもなく、お分かりいただけるだろう。


では、よき終末を。