ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

血で血を洗う抗争はぬぐい難い

2021-02-09 | 雑記
毎度のことだが、何を書くかまとめてから書き始めているわけではないので、よくわからない話になる。

とはいえ、これを書こうと考えていることがあったりはする。そして酒を呑み過ぎたりで忘れてしばらくしてから思い出したり忘れたりという具合である。

マーク・トウェインだったかが友人にあてて長々と書いた手紙の最後に「時間があったらもっと短くしていた」というのを先日目にしたが、それと比べたら恐らく短いので、このままでいく。


実は子供のころから気になっていたことがあった。それはッ!この世は嘘偽りでしかないッ!!ということではなく(無いわけではないが)、昔も触れたこともある、夜横になって目を閉じると、瞼の裏で光が見えるという現象である。

子供のころはそれが面白くてまるで万華鏡のように思え、面白がって見ているうちに眠りに落ちるという風だったように思う。

数年前に、改めてその現象を思い出す機会があったのだが、ある日を境に万華鏡のような具合ではなく、光の靄が蠢く形が主になった。何か模様を繰り返し表現しているようだったり、色も一定、もしくは数種類だったり、それが形を変えながらグラデーションするように変色していったりという具合である。

たまにあったのが、電子機器の基盤のような模様が見えたりしたものである。幾何学的な、某空中に浮かぶ城のアニメ映画の終盤の主人公と悪役の最終決戦の場面などに見られる黒い石の模様のようだったりといった具合であった。
それが天井の方に見えたと思ったら雪のような物が降ってきて、という話がその数年前となる。リンクは貼らないが、横道に過ぎるのでそういう話があったと言うに留める。

そして先月かそれくらいだったのだが、この現象のことを調べていたわけではないが、行きあたった。

丹光というそうな。読みは「たんこう」もしくは「たんみつ」というそうだが、パッと検索して出てきた以前読んだサイトだと、Web上の読みは「たんみつ」、スピ界隈では「たんこう」だそうな。

サイトによって見える人の特徴の数や表現が違うが、その内の一つに子供がよく見るとか子供のような心を持っている人が見えるとある。

気功の世界では、それが見えると「地に足のついた状態になっている」と評されるようだが、今の状態はどうなのかはよくわからない。

見えるものの形や色とその状態(綺麗かすすけてるか)で何を示しているかが違うという。たまに見ていたと書いた幾何学模様だとか象形文字のような物が見えるというのもあった。

長々と書いたが、子供のころから気になっていた現象は独自のものではなかったというので、人に説明しやすくなったなと思った次第である。

そう。思い出した。

このことを知る前からあったのだが、丹光と思しきものが見えているとき、なんとなく部屋が見えることがあった。見える人には起こることだという。試しに目をつぶっている目の前で手をかざしたりすると、見えているように思える。

思える、と自信なさげに書いたのは、体の感覚が勘違いさせているのでは?といえなくもないからである。しかし、手についてはそうなるのだが、部屋がうっすら見えるのは寝る前に記憶したとも言いづらい。部屋の様子なんぞ一々細かく覚えているとは言えまい。それが自宅ならまだしも仕事柄自宅以外で寝る機会もあって、その時ですら起こっていたからだ。

というわけで、色々気になったり疑問に思ったり試してみたりしたことがつながっているのだなと感動したという話であった。


謎の感動をしつつ、よくわからない話を続ける。


しばらく前に、とあるところで厚生労働省のHPの画像だったかリンクを見たものである。

IDESコラムvol.9とあって、タイトルが「ゾンビ・アポカリプスに備える」となっている。
気になって検索してみたら、しっかり出てきた。

厚生労働省はホラー映画の見過ぎか?と思わなくもない。拙も色々と聞いてこないまま見ていたら、というより見た時点で色々と調べ始めそうだが、そんな話を書いている。

このvol.9だけでなく、IDESコラムの他のナンバーも検索一覧にゾンビ云々と書かれているのが出ている。

厚生労働省だけでなく、アメリカでもゾンビ対策の話をやっている、というのも同時に見たものである。いや、同時にだったかは忘れた。その辺りは曖昧である。

記憶が曖昧になったのは、拙がゾンビになりかけて・・・とかいう訳ではないが、これに纏わる事件をずっと前に耳にしていたからで、アメリカでゾンビ対策云々もその時聞いたような?といったところである。

凡そ十年ほど前に見た、とあるサイトで紹介されていたアメリカでの事件である。厚生労働省の話を紹介していたところでも載せていた。

件の先日見たところに書かれていたのは覚えていたのと同じ事件で、ある夜、通行人がいきなりホームレスに襲い掛かって、その顔をかじり始めたという。
ちょっとやそっと殴ってもビクともせず、仕方ないから射殺しようと撃ち込んだのはいいが、絶命するまでかじり続けたという。ホームレスの男性は顔の半分を失ったが、命は助かったとのこと。撃ち込まれた銃弾は四発だったか。普通の状態なら一発で致命傷とならなくても、行動を抑止するには十分となるはず。

しかし、数発撃ち込まれて絶命するまで止まらなかった。

昔見た方の所に同じく書かれていたのは、同じくアメリカのとある家庭で、母親が娘を殺害して食べていた、とかいう話もあった。食べて殺したのかもしれないが、その辺りは忘れた。

上の事件の内容だけでも衝撃的だが、問題は二つ目の事件の方で、容疑者の顔写真が載っていた。

骨格は人の形をしているが、少なくとも凶悪犯だとかそういう意味ではないところでの、人の顔をしていなかったのである。

先に厚生労働省のHPに書かれている話をしてしまったのでそのままだが、行動といい体力といい顔の人外ぶりといい、正しくゾンビと言わざるを得なかった。


時折、こういった事件が起こっているようだ。時折なのは、余り表ざたになっていないだけという可能性もあるだろうが、そこまではわからない。

そこで何故こういう事件が起こるのか?ということを考えてみよう。

いきなりだが、ご存じだろうか。臓器移植で人格が変わったという事例が多々報告されているということを。

臓器ではないが輸血で変わった、というのは詳しく見ていないのでわからないが、あり得ない話でもないかもしれない。
例えば、ユダヤ教徒は定められた工程で血抜きされた肉を食べる。血を呑んではいけないと(旧約)聖書には書かれている。
エホバの証人は輸血をしてはいけないという。日本でも話題になり、ビートたけし主演のドキュメンタリードラマがあったと記憶している。

後は、熊は基本的に人を好んで食べる動物ではない。
というのも、何かの拍子に人の味を覚えた熊が人を襲うのだという。
北海道の開拓時代にあった有名な事件を調べ・・・ない方がいいが、人ばかり襲われて食われている。
余り気分のいい話ではないので、閲覧注意である。

とはいえ、すでに「アポカリプス」しておいたので続ける。
アフリカのとある部族だったか、その部族出身の人物が昔聞いたという話では、食糧問題による部族間抗争で敵対部族の人を食べる時は「徹底的に煮た」という。そうしないと危ないからだと言い伝えられていたとのだとか。

パプアニューギニアにはクールー病という風土病があるが、これもまた人肉食から来ている。
Wikipediaによれば、理屈は狂牛病と同じようである。クールー病で亡くなった人を葬儀で食べるという習慣があったとのことである。
この場合は、ゾンビになるのとはちょっと違う気がするが、参考までに。

さて、話が前後するが、アメリカのゾンビ事件で上に書いた二つとは別の件だが、その当事者の前後のやり取りが書かれていた。

「変なものを食べてしまった」
「何を?」
「人だ」

人は熊ではないとはいえ、人を食うと人を食うようになるのかもしれない。


何故このような話を書いたのかというと、実は歴史上でも詳しく調べないと出てこなかったり証拠自体消されたりしているので追えなかったりするというが、昔からあったという。

なら、今はないのか?とはならないだろう。上記の如くである。

大量の奴隷を輸入していた国々がある。火葬の習慣がない国で大量の死人が出る可能性があるのにである。

また、現代のアメリカでは子供がよくいなくなる。日本でも報道されるのは氷山の一角とはいえ、結構な数の子供が行方不明になっているという。

熊に食われたか?アメリカの一部地域ならワニの可能性もある。が、ちょっと無理がある。


既にこの手の話をご存知の方には言うまでもない話だったが、ちょっと視点を変えた関連のある話にする。


去年から続くコロナ騒ぎ。

実態はかなり嘘としか言いようのない話だというのは聞き及んでいる方も多いだろう。

そういう話を知らない人がここを見ている可能性もあるが、そんな人は途中で挫折していると思われる。

話を戻すが、厚生労働省のお達しに「死因は何であれコロナにしておくように」と書かれていたという話も去年の早い段階で出回っていた。

風邪の一種でマスクは症状のない人が無理して付けていると却って健康を害する可能性があるとすら書いているという状況だが、マスコミは「マスクして怖がって家にいろ!」とやり続けている。

生活を自粛させて経済を停滞させて空きテナントに外国を入れていく、某国からの亡国のエージェントとして活動している政治屋が!と腹を立てる向きがあるし、実際にそういうのもあると言える。

ところで、去年。トランプ氏は「コロナの99%は無害」と述べていたという。

そして、マスクは絶対にしないわけでもなかった。人ごみの中ではする?そういうわけでもない。

この言葉の意味はというと「残りの1%は危険」だというのである。

そのトランプ氏がとある施設で視察中の動画を見たことがあるが、その時はマスクをしていた。それを見た時はこの話を聞く前だったので妙に思ったものだが、「残りの1%」の危険性がある場所ではマスクをしていたという話らしい。

それが、上のゾンビの話に関係があるという。

コロナウイルスはTウイルス(某有名ホラーゲームのゾンビ化ウイルス)か!?と思うが、そうはならないのでご安心を。


実は、上記の事件のような状態の人が各国で増えているという。

それで尋常とは言えない厳戒態勢で搬送されたり、人死にの出た事件として発表されているのだとか。

処分されずに捕まった状態のゾンビのような人は、狂犬病と同じ反応を示すという。
一例として水に過敏に反応するというのが、狂犬病にかかった人及び犬にある。この話をしていた人の考察によれば、狂犬病の犬というのは墓場で人の死体を食べたのでは?と。
そしてそのゾンビ状態の人からは、狂犬病と同じく唾液で感染する恐れがあるという。飛沫感染の可能性という、コロナで散々言われていた事と重なるだろう。
トランプ氏がマスク着用で視察した施設というのは、そういう所だったのだろうと言われている。


政治家やマスコミがコロナを怖がってくれと頼んでくるのは、実際はもっと危ないものがあるので夜は出歩くなという話を、恐怖で収拾が付かなくならないように隠しているところもあるという。
とはいえ、そういうことが起り得るのは色々と危ない「残りの1%」の場所だけではある。あからさまにおかしな人物(前述の如く)が見当たらないなら、別にマスクも怖がる必要もなく、普通に過ごして構わないとのことだとか。
つまり、風邪の症状としてのコロナは余り強くないが、煙幕(目に見えないが)として撒かれたものなのである。

ゾンビといいグール(食人鬼と訳される)といい、夜な夜な人を襲って「食事」をする。
だから飲食店の夜間営業を抑えろということなのかもしれない。
万が一紛れ込んでいた場合、コロナのクラスターどころではない。
無症状が無症状をうつすというのは「Tウイルス」のキャリアかもしれないからといえようか。
「ゾンビ・アポカリプスに備える」というのは戯言ではないとなる。

ところで、その「コロナ」だが。

有名人や政治家や王侯貴族ばかり罹っているのは気のせいだろうか?

この件についてはご存知の方も多いかもしれないから今までとわざと触れなかったが、人を支配する立場の存在というのは「人を食ったような」奴が多い気がしないでもない。

そのような方々は「食わせもの」だったりもする。ほのめかすような言い方だが、後は各自お調べのほどを。

そういえば、ミンチから人の歯が出たり、血液が足りないからと自衛隊員から献血をしているそうな。

世の中「食わせもの」が多い。一杯食わされたのだろう。

では、よき終末を。


ここは隣の村ぢゃよ

2021-02-05 | 雑記
一昨日のことであった。少々現金が必要だったので駅前に向かった。夕方の4時過ぎだったか。

タバコを買ったりして、カフェに行こうかどうしようか考えたが、少々寒い。

カフェは少し離れている。では近くで軽く吞んでしまおうと、馴染みのネパール料理屋を覗いてみたら、ディナータイム開始直前だったが、入れてくれた。

しばらく呑んでから外で一服していると、女性が入口に立った。看板が準備中なのに気付いて引き返しかけたが、「僕もここで呑んでる途中なんで大丈夫ですよ」と入店を促したところ、何を呑んでるのかと雑談になり、その女性客もラム酒を二杯ほど飲んだりしたものだった。

そんなわけで陽気な気分になったので、ついオンラインゲームにログインして、おしゃべりをしてくるという有様であった。

ゲーム辞めたんじゃないのか?と問われそうだが、辞めなくてはならないものでもないし、やらなければならないものでもない。それぐらいである。
とはいえ、雑談だけで終わってしまったが。


さて。前回は題名に「遊びは地球よりも古い」とやったが、これは最後の方に引っ張り出してきた『ホモ・ルーデンス』の出だしのもじりである。

当初は「宇宙よりも古い」にする予定だったが、我慢した。我慢の子である。

何故そんな言い草をと?疑問に思われるかもしれないが、その事は後回しにする。


ご存知の方もおられるだろうが、「テレビなどの通信網を乗っ取って世の中の真相を暴露する放送が行われる」という話が数年前からあるという。

世の中の真相、というとどういうところまでなのか。その主体はアメリカだというが、他の国についてはどうなるのか?と色々と不思議に思えるところもある。何年か前にアマゾンで他の部族とまったく交流がない新発見された部族がいたというが、そういう人達にはなんと話したものか?などと冗談っぽく思ったものである。あるとして、その意義を疑っているというわけではない。

ただ、ある種の緊急放送が行われた国がある。先日、軍事政権になったミャンマーである。
内容は上記のように期待されているものではなく、何故軍事政権に移行することになったかを放送していたという。ミャンマー限定の話だと。
とはいえ、そういうことはやろうと思えば出来るのが現代といえなくもない。

世の中の真相というが、ひた隠しにされてきた話というものはかなりグロテスクである。所謂陰謀論といわれるものであるが、全てが正しいかはともかくとして、受け入れがたいからなのか大手の情報で流れないから事実無根なのか、デマだと言う向きもある。証拠を示しても前提が違うせいで受け入れようとしない、というのは普段でも起こり得る話ではある。

では、それまでの前提をどうして金科玉条とするのか?

おどろおどろしい言い方をすれば、洗脳である。そして、洗脳されている状態の人間は洗脳の自覚がない、というのは、別に某カルト宗教団体などに限った話ではない。

その前提を覆そうと他者に試みるのはよした方がよかろう。相手から聞きに来るなら対応すべし、とは思う。

こういう話は冗談だと思ってもらえる方がこちらとしてもありがたいので、以下に冗談をいくつか並べてみようと思う。

大手マスコミは本当のことしか流さないし、学校教育は生きていくのに必要で、それらから醸成された認識、つまり常識は疑うべからざるものであり、ニュートンから始まった古典物理はアインシュタインらが覆したが、覆した本人たちが疑義を呈しているから古典物理は本当で、医者は自身や家族にワクなんたらを打たないけど健康には問題がないので一般人には打つし、マスクはウイルスなんぞ突き抜けるけど何故か例のホラウイルスは防げるらしく、恐ろしい頻度で取り換えるのでもなければ着けっぱなしでは不衛生な上に酸欠で健康が阻害される恐れがひどく高いのだが健康上必要であり、某OS会社の創設者はワクなんたらに出資しているが専門家ではないのにニュース番組でその安全性を尋ねられたりしているし、目に見えないものは存在しないから訳の分からないものは無いのである。

と、途中で冗談が混じってしまったが、冗談である。

世の中の方が冗談染みているのは気のせいだろう。恐らく。


思想家の呉智英が言っていたと昔書いた話だが、科学というのは宗教だという話があった。

何故か?ある現象に対して「それは科学的ではない」と、何かの折に口にすることがあるかと思う。

しかし、その科学的という前提が科学的なのかどうかは考えた事が無い。そうだと教わってきただけなのである。

ガリレオが地動説を科学的に調べて主張した時、教会は何と言ったか?
「教義に反する」と、異端扱いにして葬ったものである。

「それは科学的ではない」という時、実は科学的な見解ではなく、「教義」を述べているに過ぎなかったのである。

世の非科学的と言われるもの全てに当てはめる必要はないが、そうなり得ることは往々にしてある。

この世は冗談がきついものである。

冗談を続けよう。


世の中には悪辣な人物や存在が必ずいるものだが、何故存在することになったのか?
どうしてそのような存在やそれに纏わる問題を目の当たりにすることになるのか?

この世はオンラインゲームと同じような状態だと先日書いた。
ゲームによるのだが、所属する陣営を選んで始める、というものがある。
敵対陣営の他のプレイヤーとは話すことが出来ないだとか、敵対陣営の領地に入るとNPC(ノンプレイヤーキャラ。例えるならドラクエの町や村の人)に攻撃されたりする。

さて。敵対陣営のプレイヤーの操作キャラたちとは戦うことになるのだが、敵対しているから相手は悪党でプレイヤーも人間じゃないのだ、とはならないだろう。それぐらい嵌り込むというのもあり得る話ではあるが、敵対していることは事実であっても、その中の話でしかないのである。

我々が生きている三次元の物理世界も、同じことだという。

では、どうして嫌な目に会ったりするのかというと、これがまたゲームの企画という奴である。
先日も書いたが、お化け屋敷は人を驚かせる場所であり、驚いたり怖がったりするのを楽しむのである。
いくら怖かったからといって、家に戻って晩飯を食べながら思い出して怖がり続けているのは異常であろう。

つまり。感情を醸成し体験するゲームが、我々が生きている世界なのだと言える。

体験であって、持ち物ではない。「ゲーム」内での通貨やアイテムが「現実」では使えないのと同じである。お化け屋敷の恐怖体験を自宅まで持ち帰るのは異常だとも既に書いた。

また、喜ばしいとされる体験も然りである。

これが大昔の宇宙の遥か彼方から現代の地球上に至るまで繰り返されてきたことなのだと。

遊びは地球より古いではなく、宇宙より古い、と書きかけた理由である。


冗談にしか聞こえないし、確認のしようもないが、世の真相というのは自分で感じ考えたものだけである。誰かが言っていた、何かに書いていた、というのは後付けと言えなくもない。ただし、大昔から続く感情育成のゲームだというのは、人から聞いた話だと言うのは白状しておく。

目に見えるものしか存在しないというのなら、鏡などの映るものが無ければあなたの顔は存在しないことになる。目で見る以外の方法で確認しているに過ぎない。
皮肉めいた自己矛盾であるが、矛盾を矛盾と感じないのも、というのはもうよろしいか。

唯物教からするとこの話は異端審問ものだろうが、「それでも遊びは宇宙よりも古い」とガリレオの如く述べるつもりである。

では、よき終末を。


遊びは地球よりも古い

2021-02-03 | 雑記
同じような題材を繰り返し取り上げては似たような事を書き上げる、というのを延々続けてきた気がするが、恐らく今回もそうなる。

というわけで、昨日の話でもしよう。

昨日は朝から目が覚めており、雨だから洗濯もしづらいかと思っていたら、日が高くなったころには晴れていた。

そこは気にしていないが、朝も早くから上空で唸る音がする。午前中は曇っていたので、何が飛んでいたかはわからないが、見えなくてもわかる。米軍基地からか、米軍基地へ飛んでいる軍用機である。

飛行機が飛んでいると思ったらその後にはヘリコプターまで飛ぶという状態で、ここ数年、時折飛んでいくのを見かけることはあったが、ここまで激しく飛び交うのは初めてである。

まるで戦争でも起こっているか、起こりそうなのでその準備をしているのか。などと言うと呑気に過ぎるが、実際に今は戦争中である。

安倍が去年、まだ総理だった時に田原総一朗に向かって、このようなことを述べたという。
「コロナ禍は第三次大戦」と。これは検索するとネットの普通のニュースに出てくる話である。

現代の戦争は、以前の物とは違う様相を呈している。軍同士の白兵戦による武力衝突は主なものではなくなった。

戦争とはいささか趣が違うが、先日、ミャンマーが軍事政権になった。空港も閉鎖され、首都はネットなどが繋がらなくなったという。選挙の不正があったとかで、アウン・サン・スー・チーらを拘束したという。経済アナリストの藤原直哉は「この流れ、どこかで見たような?」ととぼけた調子でツイートしていたものである。

その人物(スー・チー)については、『週刊新潮』の毒舌コラム、「変見自在」で昔、彼女はミャンマーの人間というよりイギリス人だ、という風なことを書いていたが、今回の件でその事が浮き彫りになったといえよう。

現代は情報戦が主となっている。とはいえ、人間が直接行う工作がなくなったわけではない。
その辺りはお調べ頂ければと存じる。取りあえず豆知識を一つ。
情報という言葉はそもそもが軍事用語だったそうな。敵情報告だったか、そのままの意味の言葉の略である。

軍事政権になるというと、似たような意味合いの言葉で独裁政権という物を連想されるかと思われる。
どちらもいいイメージがないというのが、拙も含めた現代人の認識であろう。
しかし、民主主義を標榜しながら裏で不正な手続きで政治を壟断しているのは、見た目が違うだけで独裁政治とは言えないだろうか。少なくとも、軍人は政治家と比べるまでもなく、国という物に対して真摯な態度で臨んでいるのだろう。実際に命懸けで国という物に奉仕しているのだから。
軍自体が実は外国勢力に乗っ取られていたり、または分断工作をされていたりでこうなった、という推測も出来なくはないが、そんな間抜けな軍が防衛の振りをしている国はとっくに別の国になっている。

と、別に国際情勢の話をしたかったわけではなく、昨日の話を軍用機云々で始めたせいなだけであった。

挙句の果てに、「コロナ禍は第三次大戦」という発言まで持ち出してしまったので、後には退けぬ。
などというのはないので、いつも通りよくわからない話に戻るとする。


昔、物理学者の二大陣営というのか、とある論争があった。決着したとかそういう続報は探してもいないので知らないが、こういう話である。
この世はホログラムだと主張するのと、この世はシミュレーションだと主張する学者たちが集まって議論したというのである。

知らない人には何のことだかさっぱりわからない話だが、掻い摘んで説明する。

まずはシミュレーションだという話をすると、この世は人類が持っているのとは別次元の能力を有したコンピューターで世界を一瞬一瞬シミュレートして作り上げているのだ、という説である。宇宙規模のコンピューターならそれが可能だろうという。
書いているこっちも訳がわからないが、そういう話だったと記憶している。

そしてもう一つの、ここでもよく触れてきた、ホログラムだとする説。
量子力学という奴で、何回か前にも触れた、アインシュタインとヨギの対談における、ヨギの発言である。
「我々が月を見ていない時は月は存在しない」という発言に集約されている。

ホログラム説の方は量子力学の解説などでもよく触れられるので聞き及んでいる方も多いかと思う。シミュレーション説の方も量子力学の一派なのかどうかは申し訳ないが調べていないのでわからない。

ただ、この議論だか論争の話を聞いたときに思ったものである。

「なら、シミュレートされたホログラムなんじゃないのか?」と。


この世はホログラムである、という話をまともに聞いたのは、実はデーヴィッド・アイクの著作からだったのだが、彼はこの三次元物理世界はまやかしで「映画を見ているような状態」と説明していた。

また、とある動画で例えられていたのが、3Dのゲームだった。操作キャラが入り込んでいない場所は、実際は描画されておらず、遠くの山にバズーカを打ち込んでからそこを見に行っても何もなっていないという風な説明をしていた。例えば地図に目的地のビルがあるとしても、その場所に近づかなければキャラが触れられる形で描かれていないというわけである。

例え話の方がわかりにくくなってきたので改めるが、物質と呼ばれるものは、人間が認識していないと、つまり見ていないと全く別な状態だったり違う動きをしているという。見ていないとモヤみたいになっているが、一たび見るとシャキッとするのか、確認されている動きや形になっているという。

月の話も3Dゲームもここを聞いているとわかる、のかもしれないが、そういう話を今の物理学者はやっている。

ネットの掲示板で見たのは、「オンラインゲーム」と例えていたが、恐らくこれが一番しっくりくるだろう。今時のゲームは大抵CGによる3Dになっているので、わざわざ3Dのゲームという必要もなくなっている。

何がどうしっくり来るのかというと、アイクの話に、である。

ちょっと説明が煩雑になるが、ゲームでキャラを操作して壁にぶつかるとする。実際に壁があるわけではなく、ゲーム内の規定の速度や角度で触れる時、壁としての約束事が出てきて、壁にぶつかってその先には行けなくなる。
実際には壁ではない。ただのCGで描かれた絵である。その約束事(プログラム)が無い状態の開発環境だと、自由にすり抜けることが可能である。絵を描いてから「この範囲に入ると進めなくする」と設定するからである。ただ、そうされていてもプログラムのミスや想定外の方法(バグなど)ですり抜けることもある。

そこはともかくとして。少なくとも映画をただ見ているというよりは、オンラインゲームでアバター(ゲーム内の自キャラ)を操作している状態という方が現実世界の説明に近い気がしたのである。

アイクは「映画を見ていることを忘れている」と説いていた。映画の登場人物に感情移入してしまって、現実との区別が付かない状態なのだと、所謂現実からしたら非現実な話に聞こえるが、そう述べている。

オンラインゲームのキャラは自身が操作して他のプレイヤーとやり取りをしたりしているが、決して現実の存在ではない。が、もし、そのキャラに人格があるとするならば、画面の向こう側で操作している存在に、普通は気が付くことはない。

つまり。我々はとあるオンラインゲームの操作キャラなのかもしれない、となる。実際にそういうゲームがあるとかいう話ではなく。

アイクが言うにはその映画を見ている、後は拙が付けたした「オンラインゲームのプレイヤー」としての存在が人の本体で、それをアイクは「意識」と説明している。原著では「Consciousness」と頭文字を大文字にしたりして、強調して書いているようだ。我々が普通に認識できるような形での存在ではないと。

これがアイクだとかスピ系の話ならそれで終わろうが、それを示すような話を物理学者がしているというのが昨今なのである。アイクも著作で「最先端の物理学では云々」とやっていた。

相対性理論には、「物質とエネルギーは同じもの」と書かれているという。
エネルギーと呼ばれるものに元素記号はないのだが、これが物質を作り上げているという。
そして、物質を規定するのは人が認識した時。それはすなわち意識である。意識はエネルギーと相成るとのことだそうな。思考は脳の中での伝達物質の反応と言われるが、思考するからそう脳が動いたとなるだろう。


なんだか妙な話になったので、意識を変えよう。


この世は幻というのは、量子力学の話を持ち出すまでもなく、古来から語られている所である。

そういうものの内で、神道、仏教、そしてキリスト教のイエスが共通して語っていることがあるという。

それは、「今に集中せよ」である。

神道では「中今」。仏教では「只今」。イエスは「明日の事を思い煩うな」と語っている。

と、やはり変な話になってきた。ここはもう一言で区切ろうと思う。

世は幻かもしれないが、少なくともその今は現実である。その今を放棄した場合は、幻に振り回されるというわけである。明日を思い煩うことになる。


幻だとかなんとかいうから妙な話になっているので、簡単に言えば、この世はお化け屋敷なのである。死ぬほど怖がらせに来るが、実際には死なない。アバターは死ぬとしても。


当初書こうと思っていた話をようやく持ってこれる気がする。もう少々お付き合いのほどを。


オランダの歴史学者で、ホイジンガという人物がいた。

『中世の秋』という著作が有名で、アカデミックな功績を積み重ねていたのだが、晩年、その功績を投げ捨てるつもりで書いた著作があった。
『ホモ・ルーデンス』という著作で、これもまた有名である。
ホモなんたら、という言葉から想像できる通り、この言葉の意味は「遊ぶ人」である。遊び人ではない。

人間の文化は「遊び」によって発展した、という文化史の考察である。

その「遊び」の定義はちょっと忘れた。過年自殺した(らしい)西部邁が書いていたが、流石に全部は覚えていない。
厳格なルールがあること。非日常的であること。とか書いていた気がする。後は宗教の話にも触れているので、神聖さを感じられるなどか。

久しぶりにホイジンガの話を思い出してサラっと調べてみたら、大雑把な言い方をすれば「全部遊び」と言っているようにも聞こえる。

それはともかくとして、言いたいことは簡単である。

この世というオンラインゲームに我々は「遊び」に来ているのだと。

子供じみた感覚で物事を眺めては、色々な「遊び」をして楽しんでいる。所謂楽しいというものではないものも含めてである。お化け屋敷は怖がって楽しむものである。

そうした「遊び」に没頭するうちに、この世というオンラインゲームの大型アップデートに繋がるのかもしれないなと。


現代はホイジンガの言う「遊び」の精神が廃れていると言える。
ホイジンガがそういう指摘や考察を『ホモ・ルーデンス』でしていたようだ。

己はオンラインゲームのアバターだ、という「遊び」をしてみるのもまた一興かもしれない。
少なくとも、徒に環境を怖がるだけの、余裕がない状態よりは良くなるだろう。


では、よき終末を。


ゐきている子供

2021-02-02 | 雑記
先日は、かつて関係のあった人物の言動の変遷について書いた。
こちらが振り回されたことについては大昔の記事にあるが、特に関係はない。

陰謀論者のダイエットジプシーというよくある?組み合わせだと一言で表現出来てしまって情けなくなってきたが、この二つが常にくっついているのが当たり前というわけでもない。

というのも、所謂陰謀論者であるとかダイエットジプシーであるかは関係なくその行動心理というのを考えればよいのである。そうすると、共通項が出てくる。

物事を類型化することによって、例えば神話だとかの共通項を調べたりする、というのはレヴィ・ストロースが始めた構造主義という奴だが、人間の行動心理やパターンといったところにも応用が利く。そもそも神話を書いたのは人間なのだから。

彼の人物のかつて存在したHPで、如何に努力して来たかを書いていた。当時はヴィーガンにたどり着いた、となっていたものである。

大雑把に言えば、食べているものが悪い!となって、素材の良し悪しやらジャンクであるか無いか、挙句の果てには畜産は動物を殺すのでその怨念が・・・というのを言い出す。
怨念云々は否定しない。ないと断定出来るものではない。

無論、そういったことを調べていくうちに、自然環境やら政治経済の仕組みの矛盾や酷いところに氣付いていって、所謂陰謀論というところにたどり着く人も多い。

今回は陰謀云々は省いて、ダイエットについて書こうと思う。ダイエットのやり方ではないので、ジプシーはまた放浪していただこう。


実際に調べたわけではないが、外来語の「ダイエット」という言葉には、計画という意味があると聞いた。

なら、これからは流行りの言葉で「アジェンダ」に言い換えてみるか、などと昔も書いた気がする。

どこかのOS会社の創設者は、お注射で一割ぐらい人口を減らせて調整できるだろう、などとフォーラムでしゃべっていたという。所謂陰謀論界隈のブログやらで言われるほど、おどろおどろしい言い方ではないようだが、ともかく、そう言っていたという。アジェンダ二千なんたらとか、そういう計画のプレゼン会での話である。

人体の脂肪を減らすのがダイエットという計画ならば、人口を死亡させて減らすのがアジェンダという計画と言えようか。言わなくてもいいが。

似たような言葉については、先日触れた、アメリカのフルータリアンダイエットの提唱者のインタビューにもあった。

単純な話で、人口は食糧供給で上がり下がりするだけなので、減ったらその分減るだけだ、という話である。

いつの人かは忘れたが、戦前より前の時代の著名な欧米の学者も、「今の食糧事情では何億人が限度」という言葉を述べていたが、今現在人口がその予測を遥かに超えて増えているのは、実に簡単な話で、食糧がその分を賄ってこれたからである。偏りがあるのは、そもそもの経済が「経世済民」になっていないからだが、ここでは扱わない。

余談が過ぎた。

というわけで、人にこういうと怒る人は怒るだろうが、敢えて言う。

太るのがそんなに嫌か?と。毎日ではないとはいえ、夜勤をやっている癖にまったくはた目からは太ってない寧ろ前より痩せた、などと散々言われる拙が言うと嫌味にしか聞こえないだろうが、ランナーが関取みたいになったのならまだしも、顔が少し膨らんだとか、腰回りが前よりきつくなった、とかで痩せよう!と言い出すのは如何なものかと考える。

病的に膨らんで病気になってしまった、とかいうのならばわかるが、大抵の人は病的な状態をどうしようという話ではないのに、痩せようとする。

痩せたら痩せたで、また太った、リバウンドだと、今度は別のダイエットに飛びつく。

そういうわけで、何故太るのかを考えてみよう。

食い物が悪い!
間違いではない。脂肪と炭水化物の塊ばかり食べていては確実に太る。
砂糖は特に刺激が強く、精神病の原因だと指摘されてもいるほどである。

味なんたらや人工甘味料が神経をおかしくて過食を引き起こしているからだ!
というのは実際報告されている。大手メディアには乗らないが、そういう研究報告はある。
テレビだかで味なんたらの毒性のことを述べたら、当の会社の部長だかが家にやってきて、撤回を求められたとかいう話があると、先日、どこかで見たものである。


ここからはいつも通り怪しげな話にしようか。

痩せたい人はまず、何を考えているか。

太ったのが嫌だから痩せたい。そう考えているのが大半だろう。

その視点は、「太っていること」についてのみ向かっている。
つまり、太っていることについてで頭が一杯なのである。

当人は瘦せようと考えているが、その頭の中は太っていることを年がら年中探し回って、自身にダメ出しを繰り返す。
そうすると、無意識のうちに「ああ、わたしは太っているのだな」と考え、どんどん太るのである。

当の本人は「痩せろ痩せろ」と命令しているつもりが、実のところは「太ります太ります」と身体は理解しているのである。

この齟齬が無くならない限りは、ダイエットジプシーではなく、ファットジプシーになり続けるだろう。追い求めているのは実は脂肪なのだと。


ちょっと違う話になるが、関連のある話を。
著名な矢作直樹という方がおられる。ご存知の方も多いだろう。

六十を過ぎているのに、ひどく若々しく見える。が、十年近く前ぐらいだったか、その当時は髪の毛が真っ白だったという。改めて検索して出てきた写真は髪が真っ黒である。

とある講演でしゃべっていたのだが、昔は白くて今はどうして黒くなったのかということについて、こういう風に言っていた。
曰く「体に感謝した」と。

続けていると、どんどん髪の毛が黒くなっていったのだとか。

矢作氏は所謂スピリチュアルな話を書いて出している人ではあるが、実体験としてそう述べていた。

体が余分な栄養を蓄えて将来に備えていることについて腹を立てるのは、生きている身体、つまり命を罵っていることになる。

罵られて喜ぶ人間は普通はおるまい。計略に嵌った相手が負け犬の遠吠えで罵ってきたというのならば、「我が意を得たり」とほくそ笑むところであろうが。


所謂陰謀論とレッテルを貼られた情報群がある。

無論、全部が正しいわけではない。荒唐無稽なだけの与太話もあるし、表面上しか準えていないものも多い。

数年前に耳にし、また最近はよく広まってきた言葉に、ディープ・ステート略称DSというものがある。一昔前はイルミナティと呼ばれていたものとほぼ同じ、らしい。

これは最近公になったというわけではない。こういう言葉が広まったのは最近なのだが、戦前の日本の新聞では、大統領選挙の裏にユダヤ資本家の暗躍とか堂々と書いていたという。その記事の見出し部分には「地底政府」というキャッチもついていた。井戸端会議で主婦の方々が国際金融についておしゃべりしていたぐらいこういう話は広まっていたという。

さて。これらは時代が下り、所謂グローバリズムという流れで大金持ちが多国籍に渡って陰に陽に支配する現代になると、ぱったりと出なくなっている。その話をすると、陰謀論だとなる。

2011年のあの地震が来る何年か前、もしくはもっと前までは、人工地震の実験がどうたらという記事も新聞に載っていたという。その何年か前にぱったり消え、今は陰謀論である。

とはいえ、さらに巧妙な話もある。行動予測プログラミングという心理学のテクニックがあって、例えば上記なら人工地震の話を事前に広めておいて、人々の間で不和を起こしやすい方向に持っていくというのもあるにはある。だからといって、人工地震が嘘だという話でもないというのが巧妙である。

話が横道に入ったので戻すが、我々の普段の生活においても、「陰謀論」がまかり通っていないだろうかと。

常識を疑うと白い目で見られる、というのはまさに上記に示したのと同じ流れになってはいないだろうかと。


成功するには努力がいる、とはよく言われてきたところである。
しかし、痩せる努力をし続けている人が痩せられたかというと、余りなさそうである。
でなければ、ちょっと検索するだけでとんでもない数のダイエット関連の情報が出てくるこの状況を説明する言葉が見当たらない。

努力はいるが、努力の向け方が間違っていた、と考えるべきだろう。

矢作氏のように「体に感謝した」というだけで髪が黒くなってきたというのは端から相手にしない割には、高価なダイエット食品を買ったり、わざわざ苦痛を身体に与えたりするというのは、生命というものに対して唯物的な判断しか下せないからといえる。

努力はいらない、とは言わないが、それは内面的な方に対して必要なのであり、外面的な事は結果といえる。


では。意識を変える方法とは?となる。

言うは易く行うは難し、といったところになるが、単純なことである。

「己の直感に従うこと」である。

所謂常識というのは、別にあなたが決めたものでもない。それを語る相手が決めたわけでもない。
振りかざして相手を抑えつけようという意図の下で行使されることがほとんどである。

今ある常識を全部かなぐり捨てて己の感性に従うのだ!とやるのは突飛に過ぎるが、身体は正直なもので、己のやりたくないことや触れたくないものについては、拒絶感を絶えず供給している。

子供が学校に行きたくない、登校日に腹が痛くなって動きたがらない、というのもそうだし、仕事を続けていたら鬱的状態がひどくなったり、ひどい腰痛やらガンになったりするというのは、そういう心の声を無視してきた結果という話もある。仕事をしていてそうなった、というのは、別に仕事だけが原因とはいえないところもあるので、個々人によるだろう。

それはさておき。話は代わる。

ある日の夜。帰宅した時に弟が拙にこう言ってきた。

ネットのとある診断で中等度のHSPと出た。だから兄貴がいつも言っている「自分らしく生きろ」ってのはと言いかけたので、「わしもその診断で同じ結果だったわ」と一蹴しておいた。

HSPというのは、ハイリー・センシティブ・パーソンの略で、けったいな言い方をすると酷く神経質な人ということになる。飽くまででわざとけったいな言い方をしただけで、こういう診断だとかは若い頃はともかく、今となっては西洋医学的な話は真に受けないことにしている。

これを足かせとして認定してどうにかしようというノリが下らないと、たまたま見かけた話を目の当たりにしてバカバカしく思ったのである。実際はどうかはわからないが、世の平均にはめ込もうとしているようで氣味が悪い。

Wikiにはこうある。
生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味、と。気質の後に「を」がいるような気がするが、原文ママという奴である。

それはつまり。自身の危機察知能力が強いというわけである。他の人が不覚にも嵌り込んでしまうような所を上手く回避できる可能性が高いというわけである。

これは一つの強みではないかと。平均的労働者としてはすぐダメになる奴と言われるだろうが、知ったことではない。


そんな拙が昔から何を考えて生きてきたかは、何度か書いたかもしれない。

何故生まれ、生きているのか。である。

これもかつて書いたが、中央公論の紅白の表紙の古典シリーズのうちの『大衆の反逆』の前書きにこんな話があった。

曰く、生きるために考えるというが、考えるために生きるという部分もあるのではなかろうか、と。
考えるために拙が生きていると決定したわけではないが、今でもこれは覚えている。

そういう訳で、前回書いた人物の言動をバカバカしく思ってしまうのは必然であった。

ただでさえ鈍った感性をさらに鈍らせる現代社会の弊害から一歩も抜け出してはなかったのだと。

自慢話のようになってくるので、この話はここまでとする。


話が長くなったが、あなたがはっきりと自覚していない兆候というのは、あなたに対する警告であったり、反対に瑞兆だったりする。

そのシグナルは様々である。耳鳴りのスピリチュアル的意味とは?みたいなものに深く首を突っ込む必要はないが、長らく蓄積されてきた統計ではあるので、モノによっては参考にしてみるのもいいだろう。分かり易いのは体の痛みである。鬱屈した感情が体の各部位に痛みとなって出てくるという。


あなたの顕在意識というのは、言わば大人である。大人ぶっているというべきかもしれない。

そんなあなたの身体というのは、子供と同じである。ダメな子だと叱り続けられた子は、ダメな子に育つのは有名なところである。

自分の直感に従うというのがよくわからないという場合、手っ取り早いのが、普段こうしなくてはああしなくては、と思いがちなのを一度取りやめて、自身の身体という子供を褒めそやし甘やかせばよろしい。

子供というのは目を見張る存在である。驚異的ともいえる。
そしてまた、所謂大人となった存在もかつてはそんな子供であった。
生まれたての子供は泣いて乳をせがむだけなのに、褒めそやされるものである。

そんな生まれたままの子供が、自身の中にいるわけである。
生まれて尚且つ今も生きていることを喜ぶのが道理であろう。

道理が捻じ曲げられているのだから、狂氣と病氣が蔓延するのもまた、道理である。


では、よき終末を。