ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ラヂヲ十二杯目一口

2012-09-29 | ラヂヲ
これまた遅くなったが、ラヂヲを。

今回は短めに区切って、数日ほどあけて続きを出すように編集中。


とはいうものの、余計な話を入れたのもあって、一発目から二十分弱ある。だが、時計を気にして喋るよりは遥かにマシではある。


今回は子宮頸がんワクチンの話。のはずだが、ここで喋っている分では触れてないような気がしないでもない。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十二杯目一口



後に出てくる分は別の話を妙な連想で接いだので、全体がワクチンの話ではない。何故か牛乳やら毛皮の話をしていたりする。ちょっとまとまりのない感じで、休憩を入れるまでの間の収録分でもちと不十分だなと思うところもある。きっと月のせいだろう、ということにしたい。

さらに、休憩後の収録部分がちと難ありと思うので、もしかしたらそこはやり直すかもしれないが、やり直しはすぎると泥沼になりそうな気もする。後日考えることにしたい。


では、また数日後に。

そっぽ

2012-09-28 | 雑記
吸っているタバコは、そこにしかないと思い込んでいたので、以前は隣県のお店まで買いに行っていた。

最近はご無沙汰である。ロングパイプモールがなくなった時や、キセルを新調する時、後はモールついでに他のシャグを試しに買っていた。中々気に入ったのもあるのだが、最近は針金で掃除するという荒業でモールの出番が減っている(よい子は真似するなよ!)。


このところは、仕事場の近くのデパートで葉巻を買ったり、住んでいる町の繁華街にあるお店に伺う。


シャグでさらにキセルだと、それほど減らないので(一日一箱なんぞ存在しない)、なくなりそうになったらストックを買うとか、ストックがあるなら、たまには葉巻をやろう、という具合である。



さて、家にまだ近いお店。シャグは何故だか、マニトウ・オーガニックとチェ・シャグが置いてある、という話は以前も書いた。


そろそろ買おうと通りかかったら、今日は犬がいた。比喩じゃなくて、四本足で歩く犬である。

前にも見かけた犬で、ずっと座り込んでいる。前に伺った時は暑かったが、その時は基本的に自宅の方に引っ込んでいるのだが、その日は珍しく出てきていたのだという。これも書いた気がするが忘れた。


ただ、今回は様子が違う。毛を逆立てて唸りを上げて・・・はいない。


撫でるとちょっと驚く。誰だか判らないのは仕方ないとして、少々神経質じゃないかと思ったら、顔もこちらから見て右を向いている。


店のおばさんが言うには、歳のせいもあって、以前罹った結膜炎の治りが遅いらしく、右目が悪いそうだ。


最近は食べる物も変えたそうで、ドッグフードは一切なし。キャベツ食べているとのことだ。他にも野菜ばかりを上げていた。

実家の死んだ犬もそうだったんですよ、等等、しばし話をしていた。



さて、話は前後したが、陳列ケースを見てみると、見たことがない、もしくはあっても気にしなかったのかは定かではないが、今まで触ったことのないシャグが置いてあった。

どうも、「無添加」と銘打たれているようなのは優先的に仕入れて並べているようだ。どんどんやって欲しい。


プエブロ・ナチュラルという、ドイツの銘柄だそうな。マニトウもドイツの銘柄であるが、同じところかは知らない。箱のポップには「老舗の」とかあったような気がするが、忘れた。

海の向こうで大人気だそうな。老舗云々は勘違いかもしれない。添加物は水だけ、だそうな。日本での発売は先月からのようだ。

リンクしたブログにもあったが、開けてみると刻みタバコかと思うほどだった。マニトウだとちょっと葉が大きいので、指先で摘むときに少々調節がいるが、これは「小粋」やら「宝船」を詰めるときと変わらない感覚である。


犬のいるタバコやは、中でも外でも吸える。さっそくベンチに腰を降ろし、開いてみたら、まず思ったのが「これは・・・刻みタバコ!」だったのである。


なかなかいい香りがする。マニトウ・オーガニックは青畳のような、と表現している人もいたりして、作りもオーガニックなんだろうな、と思わせるところである。他に表現が思いつかなかった。

このプエブロは、軽快な香りである。「仄かに甘い、草の香り」とは上記のブログ。アメリカン・スピリットと同じく、北米インディアンの手になるものらしい。


一服した感想は、「あっさりしている」というところか。鼻から抜けるのもくどくない。値段はマニトウとチェの間である。


マニトウ・オーガニックはともかく、チェは毎度吸うにはちと重いかも、と感じるところがある。

これも、タバコが嫌い(病気の原因の巣窟だと信じている人)な人は別として、なんとなく不快だと思う人には考えを改める切っ掛けになるやもしれない。無理に変えようとも思わないが。

こちらとしてはキセルに詰めやすいというのはなかなかいい。初心者にもいいかもしれない。


で、キセルで吸っていたら、おばさんが「キセルで吸っているのと見るとホッとする」等とおしゃべりして、その後犬を撫でていたというわけである。ついでに、足腰は元気で、階段も上り下りするそうだ。

帰り際、引き戸を閉めるくらいになったら、ようやくこっちを向いた。片目はほとんど瞑っている状態で、「やっぱり悪いんだな」と改めて思ったしだいである。




犬とタバコの話は措く。措くといいながらだが、犬の医者はこう言っていたそうだ。「ドッグフードは栄養がありすぎて内臓に負担がかかる」と。


野口晴哉師もおっしゃっていたが、「現代は栄養があると聞けばなんでも口にする」と。栄養がありすぎてそれを放り出している身体の働きを見ては「体を壊した」と言い、せっせと栄養を取り込み、挙句の果てには本当に壊すのだという。


江戸時代の話だそうだが、富士山から氷の塊を解けないうちに抱えて走って持ってきた、というそうな。

また、馬と競争するように口取りの人がついてきた、というのも、イザベラ・バードの著作だったと思うが、ある。


さぞかし、江戸時代は栄養が豊富な食べ物があったんだろうなぁ、と考える方はお待ちいただこうか。でなけりゃドッグフードの話はかかない。


あれは「現代と比べて遥かに栄養がなかった」からできたのである。


加熱食は負担になる。丁度、きみしぐれさんがグラハム博士の著作の話を出していたので、丸投げリンクを。「加熱食とは


現代の加熱食というのは「過熱」食だというのも大きいだろう。後はキチガイ沙汰の加工食品。これも加熱であり過熱である。



では、果物は栄養がないからか?そうではない。


負担なく必要な分がきっちり摂れる、というわけである。



加熱と過熱に大差はなかろうが、ワケのワカランほど煮沸消毒したり焼却処分もかくやといわんばかりのことをしなかった江戸の庶民は、まだ果物を食べるのに近いところがあったのだろうと思われる。

加熱と過熱の違いはこういう話があるので、参考までに。青菜の茹で方の、下のほう。

別のページで、「野菜は常温になると酵素が中のビタミンやらを壊すため、八十度ぐらいの温度で茹でて酵素の働きを止める」とある。


本当はそれくらい繊細なことをやるのが料理である。レンジで下ごしらえ、などと聞けば葬儀屋の手配をしたくなる。


そんな面倒なことを毎日神経使いながらやれるのは料理人くらいなものであろう。(判っている板前も少ないそうだが)



前回の記事にコメントを戴いた際に、「火で焼くこと自体が重要で、焼いたものを食べるのはオマケだったのではないか」という風にコメントを返した。


そろそろオマケにそっぽを向いてもいい頃合である。タバコ屋の犬のように。かく言う自分は、まだ「普通」と大差ないが、そっぽを向いて食べているのである。「こんなものでは殺されぬ」と。

そんなもんで死ななければ苦労はしなかろうが、野口晴哉が嘆いた「栄養を摂り過ぎる現代人」というのは、そっぽの向き方すら忘れてしまったと言うわけである。では、また。

サンセイの反対

2012-09-25 | 雑記
理科だとか化学の話で、酸性だとかアルカリ、その中間にそのまんまで中性だとかいう話を聞いたことがあるかと思う。


人間の、体内は大体弱アルカリで、皮膚については弱酸性。


ほれ、テレビでCMをやっておろう。なんとかママになろう、弱酸性なんとかと歌っているのが。

肌は弱酸性だから、弱酸性(石鹸はアルカリである)の洗剤で洗うのがお肌にヤサシイ、とのことである。その優しさに涙も枯れぬ。


細かいことはいわんが、肌が弱酸性なのは防御しているからであって、ヤサシサを求めているわけではない。


酸性の状態にくっ付くと、常在菌が迎撃するのかしらんが、増えすぎると厄介な菌は減ぜられる。


アルカリ性というのは、要するにミネラルのある状態。まあ、化合物の状態は違う。(例:塩化ナトリウム)

酸素に触れて結びつくのが酸化というわけで、肌は年中酸化しているというわけか。


そこで石鹸が触れたとする。アルカリも肌を少々溶かす。それでもって体表の垢などを取り除くわけだ。


じゃあ、やっぱり弱酸性ビなんとかで洗うほうがいいのではないか?となるが、世のステレオタイプとは実に失笑ものである。


アルカリで少々解けた皮膚がそのままになっているだろうか?あなたは爪や髪が伸びてこないのか?


アルカリに触れるから、その刺激に対して皮膚を酸性に保とうとする機能が働くわけで、「弱酸性で洗おう」というのは、自身の免疫能力を働かすのを忘れてクスリに頼るのと同じ理屈である。

恐らく、そんなもので子供の頃から洗われ続けている子供の皮膚は壊滅的になるだろう。まあ、食べ物も問題である。


というわけで、体の中についてはこういう話がある。

ちょっとこのブログをご覧戴こう。と、いうより、毎度ながらBeyond 5 Sensesで紹介されていた記事である。


まあ、中というより、虫歯との関連性である。


酸性は酸っぱいもの、というイメージを抱くだろうが、梅干なんかもアルカリ性食品になる。


理由はこうである。

「食品の酸性・アルカリ性は、食品そのものではなく食品に含まれるミネラルが酸性かアルカリ性かで判断します。
測定は、食品を燃やした灰を水中に入れて溶出成分を含む水溶液を調製し、その水溶液のpHを計測しているのです。
ですから、食品そのもののPHと酸度アルカリ度は全く別の尺度での話になります。」

普段口にするものが虫歯の原因である、というのは誰しもが思うところである。

果物なんかはアルカリである。そういえば、果物を多く摂っていると、あまり茶を飲まなかった時だけだが、歯の染まった部分の色が薄くなった覚えがある。


ただ、嘘か真か、アシドーシスの反対もあって、アルカリに偏り過ぎた状態もあるそうだ。


しかし、人の体を酸性にしているのは純粋に食べ物だけではない。農薬やら化学物質も影響するという話もある。



さて、食品を燃やした灰からの抽出液からpHを調べるとのこと。


以前、何かで読んだ話で、喘息を止めるのに「スルメを焼いてその煙を吸う」というのがある。昔、アグニホートラのページのどこかで見かけ、昨夜探していたのだが、見つからなかった。

曰く、「物を焼いた煙はミネラルを含んでいる」だそうな。

コンニャクを作るときには、かつては藁を焼いて作った灰汁を混ぜていたそうである。今もあるが、そこらで買えるのはナニカマゼタヨウダ、じゃなくて、凝固剤である。


肉類が酸性、というのはちょっとその手の話を聞いたことがある人は皆知っているところであろう。しかし、案外煙自体は問題ないのかもしれない。まあ、畜肉は化学物質で出来上がっているようなものだし、科学的根拠だけでなく別の方面からも、お控えになったほうがよろしかろう。


ちなみに、コンニャクの話を続けるが、読んだ先にあった話で、ある入院して弱っていた人がなにを食っていたかというと、コンニャクだったという。それも、灰汁で作った本来のコンニャクしか受け付けなかったという。体がね。

体が弱っているのは、ミネラルの欠乏状態であるということである。つまりは酸性になっているといえる。



さて、長々と書いたが、わしは毎日霞、じゃなくて煙を吸い込んでいる。

口元で毎日焚き火をしているわけだ。なんのことはない、喫煙である。


然る板前さんのブログで、「タバコを何十年と吸っててぴんぴんしている人もいるので、健康に悪いのか判断に困る」という風に、健康的な食生活について書いてあるところで何度か見かけたものである。

そちらの方も、ミネラルがどうこう、アシドーシスがどうこうと言っていた。アシドーシスの反対云々は、実はそのブログで読んだ話である。


タバコの煙もきっと酸性の反対なのであろう。


口内のpHに絡めて実体験を一つ。


実は、あまり歯を磨かない。そのせいだと思っていたが、子供の頃から虫歯に悩まされたものである。

茶をよく飲むのである程度はマシだったのかもしれないが(茶の中にもあるフッ素は役立たずどころか歯に悪いという)十年前に処置中で放置していたところが、五、六年前にひどく痛んで、歯医者に駆け込んだものである。
本当に階下にあるため、文字通り駆け込んだものであった。

さて、去年。食生活を変えた。元来、たらふく食いたくて肉を食べるという気持ちはそれほどなかったのと、食べるべきではないという理由を知ったので、すんなり移行していた。まあ、今は出鱈目である。申し訳ない。

食べる量も食べる物も変え、挙句の果てにタバコを吸うようになったのだが、以前、歯磨きは前と変わらず余りやっていなかった。


そして今。


そうなる以前、少し沁みるなと感じるある奥歯。指でいじれば違和があるが、それ以外は平常どおりである。いじらなければ気付かないし、いじっても前ほど感じない。

時折、酸性に傾いた食事が多かった場合、歯が少し痛くなることがあるが、詰め物が抜けたところもなんともない。

恐らくだが、タバコの有無が明暗を分けていたのではなかろうかと。


真似はしないほうがよい。たまたまそうなった所であるし、これからどうなるかは判らない。


歯磨きには賛成であるが、歯磨きだけで虫歯が予防できる、という考えには賛成の反対を示したいというわけである。では、また。

語り草のゴジラ

2012-09-22 | 雑記
先日、仕事場のある人がこう語る。

「休みに実家で寝ていたら、ダニが多かったせいか、噛まれて痒い」と、奥に引っ込んでクスリを塗りに行って戻ってきた時に。


「なら、掻けばいい」と笑いながらいえば、「それはない」と、向こうも笑いながらいう。


真面目なことを真面目に語らないのはこちらの癖であり、故山本夏彦の言い草が気に入っているからでもある。

曰く「真面目な顔をして真面目なことを語るのは失礼だ」と。ラジオはそのつもりでやろうとしているが、なっているかは判らない。とりあえず、文章を書くと、大体はその遺訓に背いている気がしてならないが、考えすぎたところで変わらないので、思いついたらにする。


さて、話を戻す。


何も冗談で「掻くがよい」と言ったわけではない。もっと冗談めかして言うならこうだろう。「この世界とやらのために、どんどん塗りなさい」などと。どこが冗談か判らない人のほうが多かろうが。


以前、ちえんてんさんのブログ「アレルギーからもらったもの」で、蚊の話をしていた。昔、彼女やその御母堂は、噛まれるとひどく痒くなり、長引いたりしていたそうだ。


そして、野口整体の師匠はこう語ったとある。そのまま引用してみよう。

「虫に刺されるのも刺される必要があるから。あなたの体の他でも無くまさにその場所を刺して、腫らせて、掻かせて、その場所にある不必要な体液を流させて身体のお掃除をさせる必要があるから、虫が刺してくれるんですよ」


しきりに虫刺され薬のCMは「掻くな」と連呼する。金儲けでやっている彼ら(製薬会社)の言い分が実に都合のいいところだけを取り出している、などと、最初から理解しない、ではなくしようともしないニンゲンに語り聞かせる気はないが、余りにも酷いのでなければ、わしは「掻くがよい」と申し述べることにする。


その蚊の話自体にも思うところがあったのだが、気になったのはその時のちえんてんさんの記事にしたコメント及び当時考えていたことだった。


ある農家の方が語るには、虫がついて作物の根を食べたり葉を齧ったりするのは、それらは「ニンゲンが食べてはいけないものだから、食べて浄化してくれているんだ」と。

上記の蚊は毒を出す切欠ではあろうが、何か似ている。第一、蚊は血を吸って持って帰るのだから。


となると、毒だらけの作物やら肉(肉がどう育てられてようが関係ない)を食らい続け、そしてこれまた毒だらけの生活(洗剤やら)を、理解せずに繰り返す存在。

そうか、「ニンゲンは羽虫だったのか」と、コメントをしてから思ったのであった。


我ながら非道なことを考えるナァ、と感慨に耽っていたら、その後、同じようなことをBeyond 5 Sensesに書かれていた。やはり、わしごときが考えるようなことは皆思い至るのだなぁ、などとこれまた感慨に耽りそうになったので、酒を飲んでは「羽虫」の気分を味わってみたりしたものだった。あちらは雑草についての話である。雑草の役目というのは、「地球の表面をきれいにするために」あるという。
その辺りは記事でご紹介されているリンク先のお話を聞くなどしていただくとする。


話は変わる。

子供の頃だったか、「わしぐらいが考えることは皆思いついたり辿ったり感じたりしているはずであろう」と、漠然と感じていた。

ライヒがいうところの神経症的な思考なのかどうかは不明だが、「そんなことも知らんのか?」という見下した考えが大きかったものではなかったと思う。


必ずしもそういうわけではないというのを、単純な知識などで「子供の頃の思い過ごしだったか」とは気付く機会はあったのだが、どことなく今もあった。


先日、すぐ近くの美容院で髪を切った。

よくいく沖縄ソバの常連さんがやっているお店で、奥さんの方と子供さんとは何度か店や他のイベントで会った事がある。


バカみたいに髪の毛が伸びていたが、切ろうとしなかった。理由は単純である。「切りたくない」である。

「切れ」と言われれば余計に切りたくなくなる。そこは野口晴哉を見習って上手いこと誘導しなくてはならないゾ!と、文句を言われながらそんな不敵なことを考えていた。

さすがに煩いから切ることにしたのだが、もう一つ、切りに行きたくない理由は、「髪を種々のものでいじられること」がある。

シャンプーもそうだし、整髪剤もだ。経皮毒って知ってるか?などといわんぞ。

ついでに、案外伸びた状態が似合っているのと、帽子で抑えて髪形作りやすいというのもあった。


ま、仕方ない。顔なじみにいじってもらうかと、出かけてきた。


髪を切るのは旦那さんのほうである。お店の名前は聞き慣れない言葉だと思ったら、沖縄の言葉だそうな。これはお店のブログで読んだ。



さて、旦那さん、時折咳がひどく出る。こちらは「調子が悪いんだな」と思ったので気にしなかったのだが、向こうが気にしているので、前もって断ってきた。


花粉症だそうな。へぇ、今はなんの花粉なんで?と聞けば、たしか「ブタクサ」と言っていた気がする。話の草には丁度よい。そもそも、会話は初めてだが、向こうはこちらが「着物でキセルの人」とは知っていた。


(TVで言ってた話をわざと)花粉症にゃ、ヨーグルトやら杜仲茶が効くみたい、だなどと。

ついでに、お勧めしないが、一週間断食という手もあるなんていうのも話した。

一週間断食はこちらは試していないが、別の目的で試していた人が「治った」という話がある。


そして極めつけというほどではないが、こちらの実体験も含めて、こう伝えた。

「肉減らせばいいですよ」と。


こちらも、なるべく食わないようにしていたら、数ヶ月で左手の甲の荒れは消えてなくなり、今も荒れることはなくなったし、今年も春先は花粉症の症状がでなかった。と。


すると旦那さん。

「いやぁ、聞く分にはいいんですけど、やるとなると・・・。肉食べたいし」と。

「まあしょうがないですねぇ」と、笑ってその話は終わることにした。


やはり、「わしが考えたり感じたりすることは皆すでに通ったものだった」というのは思い違いだったのだナァと、感慨も一入である。


ついでに。この夏はたまに噛まれるが、数回掻いたら忘れる。ダニもわんさかいそうな干していない茣蓙の上で寝ているが、ダニと共存しているのか、なんともなかった。

昼間寝転がって茣蓙の上を凝視すると、ダニらしい小さな虫がノソノソ歩いていく。可愛らしい。可愛らしい、じゃないが。

そういえば、幼少の頃にゴジラの玩具(塩ビの人形だろうか)を可愛がっていた女性の話を聞いたものである。首と尻尾にリボンをつけて、「可愛い」と言ってはいつも抱いていたそうな。

あのゴジラの顔もそういえば可愛らしいなぁと思うが、これはまったくもって余計な話である。


ゴジラは措くとして、じゃあ何を食えばいいのかと。


これがいいから食え、では理解は半端。というわけで、こちらを見ていただこう。


何の捻りもなくて申し訳ないが、きみしぐれさんが「大きなネズミ」のことを紹介している。

大きなネズミって「カピバラ」か?そんな暢気な話ではない。いや、カピバラは世界で最大級のネズミではあるが。「3ヶ月目と4ヶ月目の違い


ゴジラは核の影響で巨大化した爬虫類か何かという設定だったと記憶している。つまり、全身是腫瘍と化したわけである。

仙人もわざと「雑草」の生活をどっぷりと続けて、ゴジラになろうかと真剣に悩むところであるが、そうなったら暴れるだけ暴れて終わっったら(消えてなくなったら)マスコットになり、そしてリボンをつけられることになるだろう。
それもいいが、目指すところではない。「ゴジラ」は腹の中に仕込むだけにしておく。では、また。

秋の夜長を

2012-09-21 | 雑記
よく歩く商店街の園芸店をふと眺めてみたら、変わった草が置いてあった。


覗き込んでいたら、店のおばさんが笑いながら出てきてこういう。

「ほんとに光るか見てないからわかんないよ」と。

「へー、じゃあ試しに買ってみようかね」などと答えたら、ちょっとオマケするといって、八十円引いて五百万円と、懐かしいことを言っていた。



名前は「セラギネラ」。「ヒカリゴケ」と()で隣に書かれている。文字通り、暗いところで緑色に光る、と、タグに書いてある。


伊勢屋のおばちゃんに帰りに見せたら、「ニンジンの葉っぱに似てる」と言っていた。食べていいとは思えないが、多分、パセリの代わりにはなりそうもないだろう。


というわけで、我が家にやってきた緑色の怪しい奴をご覧戴く。





これから夜になって、光るかどうかを確認しようかと考えている。まあ、風呂場は電気を点けなければ暗いのだが、夜に見てこそである。そして伴奏は秋の虫のオーケストラ。





買ってから気付いたのだが(ほんのり酔っていたのはあまり関係ない)、「五百円」だと。値引きしてもらったとはいえ、なんだこの因縁めいた数字は。


そう!ついに仙人は愉気やら活元運動を共にする相手が見つからないことに業を煮やし、一足先に植物界へ旅立つ決意をしたのである・・・。



姿が見えなくなったと思ったら、実は道端の苔になっていたというわけである・・・。和装で酒を飲んでいる姿は仮のものだったわけだ。


これからはきっと人の姿をした苔が何事もなかったかのようにいつもの店で飲んでいる姿を目にするであろう。「よく光ってますね」といわれるわけだ。

その苔はきっとこう答えるのである。「ああ、よく言われるよ」と。


嗚呼、わたしは苔に・・・ならなくていいや。


苔をコケにしたわけではなく、ただ、部屋に何か植物を置いてみようと思ったら、ヒカリゴケなるものを見つけた、そういう話である。



さて先日。


八月の末、七面倒な健康診断に参り、そして昨日、その結果が届いていた。


きっと肝臓が・・・血もなにやら混じっているに違いない。少なくとも「ブルーブラッド」は混じってない。


と思ったら。


痩せすぎなのと、ちと貧血気味で要観察、と書かれてあった。要観察は、ちょっと危ういので半年くらいを目処に様子を見ようということだが、もうそれなら半年以上要観察状態ではなかろうか。

「バランスよく食え」とあった。確かに、バランスが悪いことは間違いない。ただし、一般的にではなく。


しかし、貧血気味だといわれてもよく判らない。


体が疲れているのかと、寝すぎたらしんどくて、却って寝ないほうが元気だったりする状態であるし、炎天下を小一時間歩いて自宅まで帰り、エアコンをかけてもない部屋で寝て(窓と玄関とカーテンまで開いている)、何事もなく起き上がってくるような人間の血は何で出来ているのやら。

きっと苔が混じっているのだろう。違いない。


こちらとしては西洋医学を盲信する輩はコケにしていく所存であるが、土俵が違いすぎるので、コケにされるのがオチである。では、また。

こぼれた話を拾い集める

2012-09-17 | 雑記
こぼれ話、と書いたらどういった意味なのかよく判らない。こぼれる、で、Windows7標準搭載の変換だと二つ出る。

まずは「毀れる」。毀誉褒貶の毀、である。壊すと同義である。

もう一つは「零れる」。水を零す、という風に使うほうである。溢すとも書く。


改めて我が家の字引を調べてみたら、零れ話、でいいようだ。


関連した話など、余話や余聞のことをいう。



いっそ「毀れ話」にしようか、という気はないが、昔と考え方が変わったというなら、去年の地震後からの自身の在り様を語る時点で、ある意味「毀れ話」でもある。


さて、零れ話の零れ話は措くとして、前回の話について軽く、足りなかった事を書いておこうかと思う。



ちょっと間が空いたので、次のラジオに入れてしまい、予告していなかった後編を出す、という形もあるかと思うが、書いておいてまた足りなかったらやるかもしれない。

アマノジャクなところがあるので、大体、いったことの反対をやることが多い。「いつものことだ」と鷹揚に構えておくのが大事である。なんのこっちゃ。




神経症というと、人口によく膾炙される「神経質」という言葉のように、何やらものの考え方が病的になるのかと、つい思いがちである。


実際にそういう側面もある。ラジオで語ったとおり、鬱屈したものの考え方を形成しもする。色々な症例があるが、その人の行動が余りにも病的な(嘘を嘘と本当に思わないなどもだろう)場合、重度の神経症、といえるだろう。


精神構造と呼べるようなものの変成もあれば、「見える」形で現れるものもある。ヒステリー、というのもそうだろう。

ヒステリーとは、古代ギリシャ辺りからも確認されていたものであるらしい。詳しくはうろ覚えで書いているので申し訳ないが、「子宮の病気」だといわれていた。女性特有と言われるくらいのものだったらしい。




さて、性的に開放的な社会では、子供に自慰が見られない、という話がある。自慰に向かう理由が社会の性的抑圧によるものであるからであり、一度抑圧が始れば自慰に向かうという。

そこで自慰まで抑制されればどうなるか。そうなると、現代人と変わらなくなる。

小さな子供に自慰の兆候が始るとする。それらを抑圧すると、子供らしさがどんどん失われていく。やがては醒めた子供になる。その様子は、ライヒ著の『性の革命』に載っていたと思う。


「醒めた子供」になるとはどういうことかと言うと、サディズム的傾向が強くなっていくのだという。


それが外へ向けば、権威的になり、感情が弱くなる。そして権威に服従しながら抵抗もするという、矛盾に満ちた状態になる。

そういう状態の人間の行動規範は、全て「外部」からの物に依存する。

「人間は自分の頭で考えて行動しているじゃないか」といわれるだろうが、その「頭」が「決まりごと」に沿っているか沿っていないかしか考えないというわけだ。それを「考えている」のだと我々はずっと信じていただけである。


それが内側に向けば、「自分はいらない存在なんだ」と思うような「コンプレックス」の塊になるといえよう。そして、それを払拭するかのような「善意」に満ちた言動をする。

「自分ひとりの命で世界が救われるなら」というような思考様式である。

どこまで行っても「外側」にしか基準がない。


では、オーガズムを得るに至り、神経症を克服していった人間はどうなるのか。

彼らの行動規範は「内部」に存する。縛るものがない、というと野獣のようになると想像されるだろうし、そういう風に教わってきている。

そういう風になると教わっているのは、上の「コンプレックス」がある状態だからである。サディズム全開というわけだ。


サディズム的傾向もなく、権威に諂う事もなく、また、神経症的に形成された性格(これも「コンプレックス」のことであろう)も弱まり、個性という感じのものがなくなったかのように見えてさえ来るそうだ。

そして、外部の規範、つまりは「決まりごと」やら道徳に従うこともなくなる。しかし、決して道徳がないわけではない。そして、個性も消えることはない。ただし、神経症的なもの、言い換えれば今まで当たり前だったものが消える。

行動規範が内部に存する。外部からのものは必要がなくなる。それは、自分がやりたいようにしかやらないということである。ちょっと違う気もするが「心の欲するところに従いて矩を踰えず」である。


そもそも人間は、徒に他人や自身を傷つける性質はなかったのである。そうではない現代は、トニー・ライトの言を借りれば皆「分裂症」であり、ライヒ流にいえば皆「神経症」である。



風邪を引いた時の咳は風邪の過程であり結果でもある。原因ではない。その咳を止めたら今度は肺炎になる、ということがある。何になるかはマチマチだが。


オーガズムを忘れたから、人はバカに、賢いつもりのバカ(神経症的社会と個人)になったのである。いい加減、対症療法はやめざるを得ないだろう。しかし、「賢い」方々にはそれが判らないので、お薬を飲んだり、大量の飯のようなものをせっせと食ったり、ゲームやパチンコやその他遊興に現を抜かすのである。まあ、酒をちと飲みすぎるのもその仲間には違いないが、こちらは「矩を踰えず」である、と自己弁護しておく。ゲェムもやってたりするが、これは弁護の余地はない。


と、長々と書いたが、結局「オーガズム」それ自体はよくわからんのである。ただ、色で表されているそうだ。一般に赤だと思われているが、本来の色は青だという。これだけじゃワカランかもしれないが、まずは前提にある思い込みを捨てるところから。


一種の瞑想状態でも有り得るし、それを引き出す瞑想方法もあるという。その辺りはBeyond 5 Sensesに譲るとして、こちらは仙人流で締めようと考える。


「オーガズムの一端を感じたくば正坐せよ」
 


では、また。



無茶をする

2012-09-12 | 雑記
こぼれ話はまた後日ということで、しかし、ある意味こぼれ話かもしれない話をやろうかと思う。


子供の頃、母親の手ほどきを受け、茶を飲むようになった。その後、紅茶の入れ方を勉強、というほどでもないが何かで読んで実践したり、烏龍茶を飲んだりもしていた。

そして、大学時代は茶をやっていた。茶自体、まあ、テレビだとかの話だが、体にいいという話を聞いていたし、高校時代には陳瞬臣の『茶の話』なる本を読んでいたりもしたからというのと、兄貴のいるビューグルバンドには近づきたくなかったからというのもある。単純に「日本人なら日本文化やれや」と思ったのは言うまでもない。おかげで着物で暮らす仙人にクラスチェンジしたわけである。なんのこっちゃ。


その『茶の話』の中に書かれていた話で、「支那の伝説上の皇帝が茶葉で傷を癒していた」という話をうろ覚えで覚えていて、喋ったり書いたりしたものである。


間違えてはいないのだが、「皇帝」は伝説上の存在ではなく、始皇帝から皇帝である。それ以前は皇帝とは呼んでいなかった・・・はず。


じゃあなんなのかと。大帝だとか帝王だとか、あとは天帝であろう。皇帝と天帝は意味は同じである。


陳氏が書いた話はもしかしたら別の話だったのか?と思うが、こういう内容を見つけた。

「神農が人にとってどの植物が大丈夫か日に七十二の草を自分で食べて調べ、茶を使い解毒していた」という話だという。

本当に解毒できたかは定かではないが、それほど効果が高いということが古来より言われているというわけだ。

『喫茶養生記』を記した栄西が、二日酔いで苦しんでいた源実朝に茶を献じただとかいう逸話もあるそうだが、詳しくは判らない。




で、話は変わるが、お茶も農薬塗れ。ならば将来は茶畑を作るか!と思って、茶の栽培についてちょっと調べていた。


なかなか栽培するのは難しいもののようである。まあ、採算ベースに乗せようと思えば、だが。簡単に見つかるところはそういう話しかない。

しかし、父方の祖父母の家は山の中にあり、農地もある。茶の木も生えていたのだが、そんな丁寧に作っているようには見えなかった。(ナニを持って「丁寧」かはのどかな農薬散布風景でもご想像いただくことにする)

商業として美味い茶を作ろうとしたら、実は本質的にはまずくて飲めたものじゃないのが今の茶なのかもしれない。

よし、わしは仙人を乗り越えて、神農になるか!なんてことはない。毎日茶で解毒するだけである。



話が脱線していくので軌道修正を施すことにする。


以前、Beyond 5 Sensesで掲載されていた、トニー・ライト著『レフト・イン・ザ・ダーク』の記事

これを解説するような記事を書き、その後ラヂヲでも喋った。再掲載しておくかね。

記事はこちら「レフト・イン・ザ・ライト
少々パロディをかましたタイトルで、右なのか左なのかなんなのか、英語にするとバレバレになるが、日本語ならうまくいく洒落だなぁと自負している。

お次は動画。

どこだったか探すのにお世話になっているサイトを探し回っていたのはナイショである。

http://blog.goo.ne.jp/baggage/e/c574f6ec0a4a251dcb343e163778ec44

ウシの話から始っている。食べるよりなでる方が好きです。ええ。ウシさんは賢いそうだ。人にされたことを覚えていたり、細やかな心配りをしたりするそうだ。
菜食を勧めているサイトの動画で、豚、鶏、牛の本来を紹介しているのだが、そこに映っている、のんびりと暮らしている牛が、牛のご飯たる干草の山の蔭で座り込んでいる子供に気付いたのか、後から覗き込んで顔を近づけているシーンがある。このまま動物達とは仲良く暮らせればと考えているが、わしはまだまだ因業なので、時間がかかるだろう。




さて、冗談と宣伝はさておき、またちょっと人間の脳と食べ物について復習しよう。


本来人間が食べるべきものは果物であった。消化器官の構造からしてそうなっている上に、脳の肥大化(肥大化、なんつうと変だが)には果物に含まれる化学物質との相乗作用が不可欠だったが、現代はそれが損なわれた食べ物ばかりになり、ついには縮小に転じ、「正常な状態だと思っていたものが実は異常だった」というところに至ったという。


相乗作用というのは、脳の成長に果物の化学物質自体がいるというのと、脳からも元から出されている物質がある。松果体から出てくるメラトニンなんかがそれである。細かいところは記事を呼んでいただくとして、メラトニンについては瞑想などでもある程度出すことは可能という話もある。

果物の化学物質といい、脳内で分泌されるそれといい、つまりは強烈な抗酸化物質である。

色々な病気の原因が酸化である、という話も出ている。要するに腐るわけだ。


老けるというのは、見た目なら皮膚やそれを形成している細胞の酸化が進んだ状態である。シールドがないのだから、病気にはかかるわすぐぼろぼろになるわ、と泣きっ面に蜂状態になるわけである。


果物の化学物質で特に有用として名前が挙がっていたのが、フラボノイドである。

メラトニンにしろそれにしろ、抗酸化物質として有名なビタミンCを遥かに凌ぐ能力であるそうな。ただ、フラボノイドはあまり摂れてないのが現状である。飽くまで「普通」の食事をしている場合だが。


少々うろ覚えだったが、緑茶にも入っていたような気がする、と書いたものだが、茶の成分を、栽培について調べていたら出てきたので、改めて眺めていた。茶の成分については、茶道の本か、前述の『茶の話』に載っていた気がするが、遠い昔である。

ここに載っている。http://p.tl/_i1i


水溶性成分に「フラボノール類」とある。

フラボノイドの仲間だそうな。ちなみに、リンク先のWikipediaでは、フラボノイドの一種に「カテキン」があがっている。

カテキンは農薬なんじゃないか、という話もあるが、その話は措く。


ところで、そのカテキンだが、茶の成分表のリンク先の下の方には、緑茶に含まれるカテキンの一種が、ビタミン類の数十倍の抗酸化作用があると判明した、などという話が出ている。


魏志倭人伝によると、倭の国は温暖なので、冬でも生野菜を食べている、とあるそうな。


時代が下るにつれて、果物はおろか生野菜すら食べなくなっていくのが日本の状態であったが(まあ、今みたいに杓子定規的に沸騰させたものでグラグラ煮立てるのを「下茹で」とは言ってなかろうが)、案外、この茶で助かったところがあったのかもしれない。生はなかったが、食べるもの自体もあるだろうとしても。

葉を選別して残った茎などの茶の場合は、沸騰したのに近い湯で煎れるのだが、葉の方は質が高いものになればなるほど温度を下げる。一般に煎茶で思い浮かべるであろう茶は大体80℃あたりで煎れる。玉露の如きは60℃という低温である。


湯の温度で出てくる物質も変わる。旨み成分といわれるテアニンなんかは低いほうがよく出るそうだ。


冬になったら仕方がない。お茶飲んで暮らすか・・・っていつものことだった。


メインは果物に野菜で、間を置いて(温かいお茶だったらか)茶を飲んでみる、というのもいいかもしれない。いやなに、使えそうなものは使い倒そうというだけの話である。


茶にそれだけ効能があるのならば!農薬なんぞ神農の如く解毒してくれよう!と息巻いてみたものの、無茶はしないほうがよろしいか。
そして、普通の食事を成されている方々も(こちらも片足突っ込んでいるが)努々「無茶」はなさらぬよう・・・。嗚呼、しかし、農薬が憎い。では、また。

ラヂヲ 十一杯目

2012-09-12 | ラヂヲ
忘れそうになって練習してみたら、とりあえず、調子が出たら大丈夫だろうと思ってまた放置して、と、サボタージュが過ぎてしまった。

今回のテーマは・・・よくわからない。えー、オーガズムと神経症の話、というところだが、ちょっと噛み砕きすぎた上に、なにやら色々こぼれているのは毎度のこと。


ところで、編集中、ホントにG氏がのそのそやってきたのである(本編参照)。こちらが動いたと思ったら何故かこちらに近寄ってくる。

仕方がないので、立ち止まったG氏をティッシュの塊で包み上げて以下略しておいた。


しかし何というか、露骨である。何が「一緒に実践してみませんか」だ。




今回のラヂヲは喋りながら、「こりゃダメだ」と最後の方に言ってしまっている。ダメだダメだ言いながら出すのもそういえば毎度だった気もするが、一月ぶりのリハビリテーションとしては、ちょっと難しいテーマだったのかもしれない。


まあ、BGM代わりにどうぞ。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十一杯目




今回は天然BGMがある。家の窓を開けていると、秋の虫たちが盛んに鳴く。今回の聴き所はそこということで。では、また。

遺産は食い潰される

2012-09-08 | 雑記
先月の下旬。両親が上京してきた。

兄は都合があわず(あってほしくなかったので良い)、出来ちゃった婚になったという弟とは、嫁とその親御さんたちと会うという。だから、その日はこちらは遠慮してもらうとのことで、両親と三人で会ったわけだ。

兄がいたら焼肉に連れて行かれるところだった。まあ、その日行った店も大同小異でしかないといえばそうなるが。


さて、その時にお土産を貰った。


なんでも、道場六三郎が監修した梅干・・・が置いてあるお店の別の梅干だという。


和歌山の梅か。気が向いたら摘んでみよう、と、しばらく冷蔵庫に眠らせておいた。



話は変わってある日のこと。

駅前にある割烹で、締めにお茶漬けなんかを食べていた。中々美味い。刺身もてんぷらも滅法美味い店である。何故かサラダもある。

HPを見たら、キノコなんかを自分で取りに行ったりするそうな。最近は無農薬野菜をどうこうと書いていた。どうだったか確認し直していない。


ところで、お茶漬けは意外と奥が深い。だから、ちょっと高いのである。そういうところのは出汁をかけたりするが、その出汁の正体までは判らない(例:アミノ酸等)。しかし、くどい味はしなかった。


こうなったら自分で作ろうかと考え、家に米が無いくせに作って食べていたりしたのである。嗚呼、ひどいひどい。何がひどいって、スーパーの惣菜コーナーに置いてあるご飯を買って来てやっていたからである。


そこも問題だし、根本から色々と危ういのは措きたくないが措くとして、醤油を塗した刺身と薬味を乗っけて、出汁ではなく、熱い茶をかけて食らうわけだ。


で、以前から残っていた梅干があった。冒頭で親から貰ったものではない。まだ米を買っていたころ、といってもしばらく前だが、いつもの米屋で売っていたものである。原材料は余分なものが一切入っていない。とりあえず、書いてある分では。

お茶漬けに載せたりして、これが無くなったら親から貰った奴を食べていく、そうやろうと思っていたのだが、親から貰った梅干の箱には原材料が書かれていない。どうやら中を見ないことには判らないようだ。


というわけで開けてみたのだが・・・。甘い梅干のようで、色々入っている。漬け原料に還元水あめなんぞ入っている。甘味料にステビアというのはよく見るものだ。良いか悪いかは判らない。そして何故か酸味料。梅干は酸っぱくないとダメだからな!

さあ、ここまでツラツラ示せばお分かりになろう。調味料、と銘打たれた項目である。アミノ酸等:小麦由来と書かれていた。

へー、由来を示しているのか。ところで、アミノ酸等という名前。名前になっていない。ナナシノゴンベエである。そのくせ、由来が小麦とは示されている。まさかコムギコを振りかけたわけでもあるまい。

少々、やる必要もないのだが、味見をした。嗚呼、やはりこの均質な味わいは・・・味のなんとか!と、アジをしたくなる。叫ぶわけにもいかないので、ここで書いて声を出す代わりにしておく。



和歌山も、いつぞやの世界遺産登録がどうとかで、年々観光地として整備が進んできている。過疎地に引っ越す人は補助金が出たりするとかで、家も増えている。そして、あの梅干はそういう煽りを受けた、土産物屋のような、梅干専門の店から来たものである。

マネー至上主義ここに極まれり。今の環境が一番だとは思ってはいないが、和歌山から飛び出してきたのは成り行きかと思ったが、必然だったと言ったり書いたりしてしまう。

仮に、帰郷して居つくことになるとしたら、無人の野になったころだろうな、とは考えている。やったことないが、釣りでもして暮らしていることだろう。

南方熊楠の家の周りは住宅街になっているが、海もすぐそこである。当時の面影はもうないが、偲んでみてもいいかもしれない。


しかし、この先は、もっと不毛になっているのだろうとも考えられる。人がいなくなるほど酷くなるから?自然破壊が過ぎればそうだろう。

それよりも、人が多くなっていくことのほうが遥かに不毛になるだろう。誰が好き好んで不毛な人付き合いをしようものか。そして自然破壊に拍車が掛かり、本当の不毛の半島(「北」のことではない)になるわけだ。


まったくの無人も困ろうが、ニンゲンをただ寄せ集めるのはもっといただけない。やはり無人島にでも行くしかないようである。まあ、流石に一人だけでは辛いかもしれないが。では、また。

猫を見る

2012-09-06 | 雑記
一週間ほど前になる。健康診断を受けてきた。

なにやらチェック項目を記す箇所があり、「生活を見直す気はありますか?」やら「直すとしたら指導を受けますか?」などとある。


病気は医者と製薬会社とその他もろもろ(多すぎて書くのが面倒である)が作っている。当然「変える気はない」と答えておいた。


ところで尿検査とやら。こいつはいただけない。朝一の尿を取って引っかからない可能性のほうが低い。何せ、早朝まで飲んでいたわけで、ここで寝て起きたら面倒なことになる。

そこで一計を案じ、茶を飲みまくって、二、三回目の(その頃には明るいので「朝一」ということだな)を放り込んだ。


しかし、体にたまった要らないものを放出しているのを見て、医者というのは「病気になっている」と曰まう。これが仕事だというのだから、大昔問題になったアホ臭い宗教もどきの「足裏診断」と変わらない。

何分、証拠を出してくるだけマシだとはいえるが、結果と原因が引っくり返っている。

野口晴哉師が言っていた話だと思うが、体には不要な栄養を外に出す機能があり、歳を食えば消化機能も衰えてくるため、昔同様にせっせと溜め込んでいたら体が壊れる故、糖尿などとして排出される。歳を食えば糖尿が出やすくなるともいえる。(人の老化というものの原因が何かは置いておくとして)

その体の正常な機能を見て、「体が壊れた」などと、せっせとまた栄養を取っては排出を繰り返し、挙句の果てに本当に壊れてしまうのだと。



そんな話は措くとして、そういう考えを知らなかった昔は、小便の臭いがおかしい時は「病気になったんじゃないか」とよく戦々恐々としていたが、今はなんとも思わない。

別の意味でなんとも思うに至っているが、ここに書くには長すぎるので書かない。(※フェルマーのもじりである)


というわけで、わざわざ休みの日に池袋まで繰り出すことになった。また千葉だったら喜んで行くところだが、その上少し寝たくらいで、徹夜に近い状態である。


血圧辺りが何か言われるかと思いつつ量ったが、ナニがいいのか悪いのか判らない。


とりあえず、学校なんかでもやる辺りの数値でも示しておくとしよう。


まず身長。162.9cmとでた。あんまり寝てなかったから、体が伸びてなかったようだ。約163ということになる。

次、体重。服を着ていたから、褌一丁状態よりは重くなる。47.7kgとなった。脱いだら恐らく46台であろう。

座高は、ない。ちなみに脚は短い。

視力。右が1.2で左が1.5だった。右はなんだかいつも自信がなくなって、最後が「判らない」というのである。恐らく、左より少し弱いのであろう。

血圧。116/68くらいだったと思う。

ちなみに、採血の時に医者から「血圧がいいね」といわれた。採血はあまりいい気分ではない。「以前、気分悪くなったことはあるか」と訊ねられても「やったことがないのでよくわからん」というしかない。

別に倒れることはなかったが、血を抜いていいのは蚊だけである、と確信したしだいである。起きているときは息を吹きかけて追い払うが、寝ているときはご自由に。

心電図やらレントゲンもやったが、その辺りは今度になるのだろう。尿も一計を案じたおかげで問題ない。しかし、おかしいと思わんのかねぇ?血液についても結果待ちだが、どうなるかは不明。


しかし、だ。

死んだモノ(別にわしが生きていないわけではなく)をああでもないこうでもないとやって、生きたモノが浮かび上がるだろうか?

体から抜けた血は、もはや単なる物質。体の中でどう動いていたか、またどう動いてきたか、そしてそれが生きた人間にどう影響を与えているのか。

血になにやら混ぜて、含まれている物質やらを調べたところで、生きた人間は浮かび上がることはないのである。


会場の近くにある公園を、行き帰りに通りかかった。猫がいたのである。

帰りは場所を移動していて、おっさんと、いや、おっさんがじゃれていた。


ああやって猫と遊んだり、または猫と遊ぼうと思えば遊べる状態がある。それこそ健康であり、診断とやらでどうこう言われる筋合いはないのだと、雑踏を足早に通り抜けながら思うのであった。では、また。

篭城戦のサボタージュ

2012-09-02 | 雑記
ラヂヲはこれから遅い盆休みだー、などと書いて、気がつけばもう九月。サボりすぎた。

ちなみに余談だが、サボるの元になった言葉はサボタージュ。フランス語だという。

労働者がチンアゲしてくれーだとかで、当時の靴(木靴=サボ)で工場の機械を蹴って壊(タージュし)、能率を下げて抗議したと言われている。

はて。わしはナニを抗議していたんだろうか?現代日本語での用法としては、「怠ける」になっているので、別に抗議はないが、抗議なら受け入れよう!


しばらくぶりに書いてみたらよくわからなくなってきたので、ちょっと前の話でも振りかえろうかと考えている。


八月は特に休みを申してなかったのだが、ちと連休があった。


それを利用して、ちょっとお出かけをしてきたりしたわけだ。しかも三泊も。


そこで『回想の野口晴哉』という本を読んでいた。しかも読み上げてしまった。持っていたならまだしも、見せてもらった本である。これこそサボタージュな気がしないでもないが、わしはナニも抗議は(以下略)


面白く、また野口晴哉師の人となりを窺い知れそうな話をしよう。



幼少の頃は、かなり苦労したそうだ。実家とも決して仲良くはなかったようである。ちなみに関係ない話だが、わしは家族を一方的に嫌っているだけであり、親はこちらを嫌っているというわけではないようだが、特に兄貴は相容れないと感じている。


若くして道場を持っていたころの話だったと思う。

会いたくない人には決して会おうとしなかったりする。会おうとする人にも、すぐに会う、ということもなかったそうな。


で、その会いたくない人がやってきて、玄関で訪ねるわけだ。「先生はいらっしゃいますか」と。

そうすると野口師本人がやってきて、こう曰まう「先生は留守です」。

「いらっしゃるじゃないですか」と返せば、

「いや、当人がいうんだから間違いない」と言ったという。

また、これは晩年の方だったと思うが、似たような話もある。


「先生に是非相談したいことが」という風に、来客があった。

すると先生、本を持って便所に篭ってしまう。ここで「早く出てくれ」といえば余計に出なくなる。いや、本人の話である。

かくして、篭城は幾時間を費やし、気焔万丈!と出てくれば、来客はそれまでに「先生はお忙しいようですので、本日はこれで」と退却していたそうな。

「人の休日の時にその時間を割いて話を聞いてもらおうと言うのに途中で帰るというのだから、その程度の話なんだ」という風なことを、奥さんが詰ったら答えたという。


別に、野口晴哉は怠けているわけではないのである。

治療したり整体指導するにも、人と会って話をするにも、常に全霊を込めて相対しようと心かげているのだそうな。

だから、休日なんかに急に会いに行ったら、篭城されるわけである。されると決まったもんではなかろうが。


常識的に言えば、失礼極まりないと思われよう。だが常識こそ、お互いのうちに押し付けられたレールのようなものであり、そのような「レール上で自動的に」相対することなんぞ、ベルトコンベアで作られた食べ物とさして変わらない。そして、そんなものを「きっちりしている」だとか「美味い」だとか言い合っているのだ。ベルトコンベアの食い物が美味いと言っている奴がどれほどいるかしらんが。


常に全霊を込めて。野口整体が常々言う、「己の裡にあるもの」というわけだ。


よし、見習おう。と考えたかは定かではないが、ラヂヲも全霊を込めようと唸っていたら、半月以上サボタージュしてしまった。


まだまだ全霊を込められていないようなので、もうしばらく篭城してからになるであろう。お楽しみにされている方は、これまた全霊を込めて、次のラヂヲが出てきた後一週間ぐらいしてからご覧下さい。

もしくは暇つぶしにブログでも振り返る、という手もあるが、これまた全霊を込めてからでどうぞ。込めていたら読むのを忘れていた、でも構わない。


さて、今日はここまでにするが、たまには昔を思い出して、次回は何やら飲んできた話でも書こうかと考えている。ラヂヲに回す手もあるが、そうすると何のラヂヲか思い出せなくなりそうなので、未定である。では、また。