ウヰスキーのある風景

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すずめのお宿へ

2012-06-03 | 雑記
ちょくちょくこちらもコメントしたり、またコメントを戴いている、「おデブ脱出計画♪」のきみしぐれさん。


先日は「すずめのお宿」と題された、のどかな記事を書かれていた。


こちらも楽しくなったので「一泊ご予約」とコメントしたり。


そのコメントをしたのが夜明けごろ。


さて寝ようか、と横になったくらいですずめ達が鳴き始める。


いつものことである、と思っていたのだが、普段より騒がしい。


楽しそうに囀っているのだが、いつもより賑やかな気がする。


きっと「すずめのお宿」を予約したので、バスツアーか何かと勘違いして我が家の前に集まってきたのかもしれない。


「ここはきみしぐれさんの宿じゃないぞ!ずっと南だ!」と心で呼びかけながら、また、すずめの鳴き声に聞き入りながら眠りに落ちた。


そして、向かいのスーパーの駐車場から聞こえる、宝くじ売り場の声に苛まれるのである。だが、わしはその程度では動じない。日毎に「消え去るがよい」と念じておる。




さて、のどかな記事ばかりでもない。


あなたがあなたの「日常」とやらを揺るがせにしたくないのなら、ご覧にならないほうがよい。






だが、敢えて言う。それはあなた自身を忽せ(ゆるがせ)にしているのであると。



古来、大陸では、即ち支那のことだが、世にも恐ろしい刑罰があった。


その名を「人豚(じんとん)」という。


ある皇帝の后が、もしくは側室だったか。皇帝に一番可愛がられていた女性を蹴落とし、寵愛を得るに至った。

皇帝がある日、豚小屋の前を通りかかった。なにやら人のうめき声がする。気になって開けてみた。

そこには、前の后が手足を斬りおとされ、目を潰され、掃き溜めのようなところ(豚小屋である)で辛うじて生きていたという。

豚は生来、綺麗好きである。我々がその様な境遇に追いやったが故の、我々が認識している「豚らしさ」でしかない。



さて、豚を蹴る人間は、手足をもがれても目を潰されてもいない。


だがしかし、彼らのどこか機械のような乾いた笑いには、「人豚」のように掃き溜めの中で、己が生きているのかすらわからないまま生命活動を維持しているかのような惨たらしさを覚える。


人間は「人豚」にされてきたが故に、豚を蹴ることで「私は人豚ではない」と言い聞かせているのだろうといえる。我々は己が四肢と眼球を取り戻さねばならないのである。では、また。