ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

見識という名の不健康

2018-03-30 | 雑記
先日は、「花粉症を治す方法」を提案してみたのだが、アクセスが下がっていた。

週の中ごろにかけては見に来る人も少ない可能性が高いだろうし、前からだが、特に説教臭くはなっている。後、危なっかしいネタもある。

ヴィクトル・フランクルは歯槽膿漏が治って、こちらは花粉症の影響がほぼなくなった。そして、元手はタダである。煙草については、吸っていない人には出費になるが、市販の薬よりは安い。喫煙は無理には勧めないので、断食でもするとよかろう。二日ほど食うなとかそういうレベルではなく、半日食わないとか、そういうノリでやればよい。

そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?

そちらにとっても云々は、某ロボアクションゲームに登場する、ミッション仲介役のなんだか気障な感じのキャラが内容説明を終えた後に最後にいう、いわば決め台詞というやつで、気にしないで貰う。


さて、記憶を掘り起こすと、これまた説教臭い話になるのだが、思い出したことがあった。

あったが、そんな話から始めると退屈だろうし、寧ろ余談をするほうが退屈になるであろうという狙いの元、昨日あった話を少し書こうと思う。


昨日、夕方から出勤で、仕事場に着いて着替えて事務所に入ると、女性スタッフの一人が尋ねて来た。

「安生さん。女の人とメールしましたか?」

なんのこっちゃ?と問い返すと、聞いてきたほうも「この聞き方はおかしいな」と、自身でも不思議がっている。

仕事場への問い合わせのメールに返信することはあるわけで、後は余りいないが母親以外でもメールする相手はいる。仕事場での話しなので、個人のことではないのは確かである。

「この人に覚えはないですか?」と、予約カードの一つを指し示す。指し示したと思ったら、男性スタッフから訂正が入った。

「いや、この人ですよ」と。すでにチェックインした、とある人のカードを示した。

手書きの予約カードで、こういうのは電話で受け付けた予約である。字の癖と署名で、拙が受けたものだというのはわかった。

さて。何があったのかと言うと・・・。

なんでも、そのお客さんがさきほどのチェックインの際に、拙のことを尋ねたのだとか。

まさか・・・。刺客!?ではなく、予約の際の電話対応でとても親切にしてもらったとのことで、それで一言お礼を伝えたかったという。

「そんな優しく対応したつもりはないんだがなぁ」と、某パンメーカーのキャンペーンのポイントシールを貼り付けていると、「そんなこと言いながら優しく貼ってるじゃないですか」などと、冒頭の女性スタッフがからかってきたものである。

「これは習慣ぢゃ」と返しておいた。某パンメーカーのキャンペーンは、拙が集めているわけではなく、その女性スタッフである。

優しくした覚えが特にないので、きっと一目惚れでもしたのだろう、と冗談をいったら、訂正を入れてきた男性スタッフが「電話でですか」と笑っていた。確かに、一目ではない。

一目惚れ、という言葉を拙が言った時に、ただの冗談に聞こえていないかもしれない人物が一人いたが、彼からは特に何もなかった。ここでは書いていないナイショ話を以前、伝えてあるからである。

そして、いきなりそういう持って回った話をしても、読者は置いてけぼりである。各々の想像力にお任せするが、こんな風に書けばなんとなく想像はつくであろう。

昨日は起きてからなんだかだるかった。寝すぎたせいだと思っていたら、もしかしたら・・・そのお客さんが原因だったのかもしれない、などと想像を逞しくしている。

一目惚れは冗談としても、よほど印象が強かったのだろう。カードの打刻を見ると、二十と数日ほど前の予約である。恐らく、拙の声は悪魔の囁きに違いない。電話越しに人を洗脳する!

さあ、皆のもの!目を閉じよ!耳を塞げ!心を強く保て!拙という存在は人心を撹乱する!!と、いいなぁ。


とはいえ、撹乱されたのはこちらであり、まるでファウスト博士の魂を奪いそびれたメフィスト・フェレスの気分である。これはゲーテ版の話ではあるが。


さて、そんなメフィストもどきが過去の記憶を掘り起こして何か言い出そうとしていたわけである。ここで引き返すのが得策である。


拙はかつて、Webラジオのようなものをやっていたわけだが、それの宣伝やらもかねて、Facebookもやっていた。今もアカウントは生きているが、見てはいない。

その中でいいね!をくれた人だかのページを見た時だったか。こんなことが書かれていた覚えがある。

「風邪についてのユニークな見解」云々と。こういう書き方ではないが、こういう表現だった。ユニーク、とあったのは覚えている。


拙の風邪についての見解は(釈迦が言っている見解とは別と思ってもらおう)、そもそも風邪は普段の生活で偏る身体の状態を戻すものだという、野口晴哉と野口整体の見識に基づいたものである。

話を読んだだけでそういったわけではなく、実際に自分で試して、野口晴哉の言っていた通りになっていたからである。

風邪気味の時に、身体が赤くなるくらいの温度で風呂に入ると、実際に両足の赤さが揃わない。

こういう場合は、赤くない方をもう少し温度を上げた湯に五分から十分弱つけて、それから足を拭いて寝る。

そうすると、寝汗がたっぷり出て、次の日起きたら風邪が抜けていたり、というわけである。

先日も夜勤で帰ってきて夕方風呂に入って寝たら、気付いてなかったが、多少風邪気味だったのだろう。床に染み出るくらいの寝汗をかいて、次の日目が覚めたら、普通だった。

ユニットバスに湯を溜めて入っているので、浴槽の中で立ち上がって上半身を拭いて、それから片足ずつ拭いて出るとやっているので、勝手に追加の足湯になっていたわけだ。

ついでに、上記のように入ってからすぐには寝ないこと。入浴で上がった体温が下がってから寝ること。そこは間違えないように。あと、この前風邪で寝込んだときに、風呂に入ってから買い物に出たら、風邪が長引いてしまった。そういう基本的なことは外さないように。


前も書いたが、野口晴哉は、両足からの体重をそれぞれ量る器材を作って、風邪の前後で人の体重を量ると、風邪になってくるとどちらか(人による)に体重が偏っていき、それがある程度になると風邪を引いて、風邪が治るとその偏った体重が分散される、というのを観察したそうだ。


何が言いたいかというと、「生きている人間の身体をしっかり観察して見極めたもの」だから、別に拙独自のユニークな話なんぞではないのである。


死んだ体だけ見ている西洋医学、もしくはそれに準じた物差しでしか考えていないから、拙の話を「ユニーク」だなどと評するのである。

見識があるつもりでただの不見識というわけである。


そういう不見識が一般的だから、断食して花粉症が治ったと聞いても眉唾だと最初から不見識で決めてかかるし、煙草についてもそうだ。


ただし、前回の話からになるが、普段の生活の付け足しとしての喫煙は勧められないことをお断りしておく。

ついでに、バカスカ食うための体にするために断食するのも勧めない。食うなというわけでもないが。


唯の心理学者が収容所で死に掛けてたら、歯槽膿漏が治ったのである。

唯の人間を自認しているあなたも、当然できるだろう。唯の人間なのだから。

森に入って生の物を食って「自然だ」などという必要なんぞないのである。

自然というのは、外にある環境のことではない。人間自身にあるものである。

それが出てきたら、勝手に健康になっていくのである。


自然は人間自身にある。しかし、不見識がそれを押さえ込んでいるだけなのである。

己の不見識を破るために、たまには風邪を引いても薬やら飲まずに寝るのがよかろう。

花粉症?ならばもう言った。断食でもしたらどうかと。唯の人間ならできることだ。

そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?



では、よき終末を。


空きっ腹のウヰスキー

2018-03-28 | 雑記
それは・・・十年前のことであった・・・。というわけではないが、それぐらい昔のことだった。

大体毎年のように、一月から二月にかけて風邪を引いて寝込んだあと、ずっと鼻水やらくしゃみが止まらない。目も痒かったかもしれないが、そこは忘れた。

風邪が長引いているのか。それにしても長いし妙だと思っていたものだが、どうやら花粉症というやつだったらしい。

他の時期の風邪を引いた時は、起き上がってからもティッシュをつまみ続けて山を築く、というのはなかったものである。

それがある年を境にして、ほとんどなくなった。鼻にティッシュで栓をしたくなるというのもないし、花粉があったりなかったりするこの時期に外をうろついて、目が痒くなって兎のようになることもなくなった。

まったく影響がないわけではないが、埃っぽいところで過ごすとなるような程度であり、花粉症等と病名をつけられるような状態ではなくなった。

ところで、余りあてにしなくていいが、花粉症の人は、ある種のガンに罹る率が下がるとかいう話があるそうな。


では、どうしてそうなったのかを少し書く。

まず始めたのは煙草。先日も久しぶりにチラッと書いたが、症状が軽くなったとかいう証言は実際に出ているし、煙草の薬効は医者も認めている。

昨今はニコチン製剤を認可しようなどという動きも出ているそうで、その薬効は抗うつ剤が裸足で逃げ出すくらいの勢いでうつに効くというほどだとか。

というのは昔したことのある話である。だから喫煙を勧めるのだ、とは実はもう思ってない。薬効があるから、では勧めない。

ついでにいうと、ニコチン製剤もどうでもいい。西洋医学の徒のいう事は眉唾と思うくらいが丁度いい。

物事の結果を原因と見なすのでは、いつまでたっても本質にはたどり着かない。効かないのに売れているサプリメントと同じである。ああいう詐欺まがい、いや、詐欺になるに決まっている。

この話は措くとして、他は何をしていたかに話を戻す。


後は、断食が体にいいからたまにやるといいというので、(寝てる時間も含めてだが)半日以上食べないというのを意識してやったりしていた。

これについても、指導の元やった人が、花粉症ではなくなったと証言していたりする。

そういうわけで、半日以上ろくな物を食べないというのが日常化している。ところで、先日は久しぶりに風邪を引いて四日ほど寝込んだのだとその状態を知っている知り合いに言うと、こう返された。

「普段余り食べないから、免疫落ちたんだよ」と。

免疫が落ちて感染症に抵抗力がないのなら、毎日風邪を引かねばならないし、そのうち結核だとか重篤な感染症になってこの世からおさらばすることになりかねないのだが、未だその気配はない。

煙草に殺菌効果があるから、というのは余り意味がない。そもそも、パスツールの学説は、死の間際まで続いた論争で、パスツール自身が敗北宣言を出しているのである。

ついでにいうと、体が健康なら罹らないという理屈でパスツールと争っていた方も間違いともいえる。煙草吸ってたら、ビタミンCやら破壊されて、免疫は落ちていることになる。

これらの話は後で改めて触れることになるかは判らないが、とりあえず、意識して行った覚えのあることは、喫煙を始めたこと、一日に食べる量を減らしたこと、である。


さあ、花粉症でお悩みの皆様方。お試しになりますか?煙草も嫌だが、断食はもっと嫌、という日本人は多いので勧めようがないし、拙は勧める気もない。
釈迦は、聞く耳持たない奴に法は説けないと本当に言っていたものである。


ところで、最近たまたま、精神科医のヴィクトル・フランクルの話を耳にした。

ナチス政権下のドイツにいた、ドイツ系ユダヤ人というのだろうか、アウシュビッツに放り込まれて生き残った人物である。

その時の話を『夜と霧』という本にして出版していて、日本語訳も出ているので、知っている方もいるだろう。

実は持っていたのだが、どこか行ったか、本棚の二列目にあるのか、別のエッセイ論文的なのしか、ここからは見えない。

彼は収容された当初、歯槽膿漏だったそうだが、収容所で過ごしているうちに治ってしまったそうだ。

実にナチスの収容所は人絹ならぬ人権に配慮した収容所だったのだろう、果物を毎日ふんだんに食わせてくれたので、歯槽膿漏も治ったに違いない。

何を馬鹿なことを、という方は正しい。ナチスがそんなことをしたとはフランクル自身も言ってない。

ということはつまり・・・あの場所に何か凄い力があって、新鮮な果物なんぞないのに、歯槽膿漏を治すような何か(ビタミンCがいるらしい)があったのだ!!

よくわからないけど、きっとそう!さあ、皆でナチスの収容所跡へパワースポット巡りだ!!

何ぞとふざけたことを書いていると怒られるので、これくらいにしておく。

これを引き合いに出せば、何が言いたいかは多少理解していただけたかと思われる。


先ほども書いたが、一般に馴染みのある話で、喫煙は体内のビタミンCを破壊するというのがある。口内炎の原因に挙がったりするのがビタミンCの欠乏だったりするので、喫煙者にも多かろうと想像がつく。

で、お前はどうなのだ?と聞いてくれ!頼むから聞いてくれ!というと、おかしな人の如くだが、喫煙を初めて口内炎が増えたかというと、まったくない。

元々多い性質ではなかったと思うが、ここ数年は口内炎というと、人がかかっている話しか聞いていない。軽くかかった覚えがあるが、すぐ治った。

ついでにいうと、かつてはどこかの自然賛美者、否、物質崇拝者の影響で、果物を主食にするというのを実践しかけたが、今はまったく食わない。

それでいて、口内炎なんぞほとんどなったことがない。空きっ腹でウヰスキー飲んでなんともない。いや、酔っ払うが。

なら、ウヰスキーに絶大な効果があるのだろう。スコッチを毎日少しずつ飲むべし!お酒は成人してからというより、聖人になってからの方がよろしかろうと思われる。


花粉症に話を戻す。


巷で言われているのが、「免疫が落ちてるから、免疫がつくものを食べましょう」である。そしてその上お薬たっぷりである。

恐らく大抵の人は拙を基準にしたとしたら、食事量は多い。一食一食が少なくても、日に何度か口にしているはず。一日三食が基準であると思っているだろうから。

そういう一般的な基準で生活している人が、薬飲んで免疫つくだとか効果のある何かを食べたりで治ったかというと、いないどころか周りの花粉症の人々は、年々ひどくなっている。なっていなかった人まで罹りだした。


以前に書いたが、野口晴哉の糖尿病についての言もそうであるし、骨粗しょう症の話もそうだ。

フランクルの話もそうだが、一般的にはこれを欠乏したからだと指摘する。造血作用の如く、身体が何かやりだして、不具合を解消したと。

野口整体が指摘している上記の話の場合だと、これは取り過ぎだからとなる。悪銭身につかず、というが、望外の臨時収入で浮き足立って、余計に金を使いすぎるのと同じである。


そこで、拙はフランクルの場合を欠乏などとは言わない。


これはそもそも、人間には足りていないものなどなかったのだ、ということを示しているのである。

だから、彼は果物なんてない環境で歯槽膿漏が治った。


拙のことを引き合いに出したくはないが、気が見えるなどと気の狂ったやつがこうなりましたと申したのなら、まあ判らないでもない。
どこか特殊(狂っているの別名という意味で)なのだから、で片付く話には出来よう。気が見えるなどと、声を大にして言いふらしたい話ではないし、そもそも大したことではないからである。
世の中には木しか見えない人もいるので、気にしないでもらいたいものである。

フランクルはただの精神科医、つまりは学問以外は特殊なことはない、どこにでもいる人である。ユングの如く、オカルトの家系出身だったとかはあるかもしれんが、知らぬ。

その彼がああなったのである。


敢えて言うなら、「欠乏」させるべし。
そのための喫煙であり、断食であり、余計な意識を削ぐ瞑想であり、そして「欠乏」の本質を見出せないのなら、それらはいくらやっても意味がないのである。

さらに、足りないと思って上記を行うのなら、まず確実にあなたを損なうことであろう。それらは付け足すためのものではないからである。

何故なら、先ほども言ったが、そもそも人間は足りていないものなどなかったからである。

とはいえ、先ほど悪銭身につかずを引き合いに出したが、その例に倣って言えば、現状の人間は欠乏している状態ではある。努々注意を怠ることなかれ。


そういうわけで、花粉症やらにお悩みならば、空きっ腹にウヰスキーを流し込むのも悪くはなかろう。


では、よき終末を。


滅法くどい神の仏法

2018-03-12 | 雑記
先日、たぶん、風邪から起き上がって仕事に行った日だったかと思うが、駅前で新聞のようなものを持った女性が、通行人の傍らを着いていきながら、「ねえ?すごいでしょ!?」としきりに喋っているのを見た。

その通行人は向かいから来てすれ違っていく形になったので、すぐその二人は視界から消えたが、今度は警官が前にいた。

どうも道行く人々を付回して気味悪がられたのか、通報されたらしい。警官に注意を受けていた。

しばらく前からこの駅前で活動をしているのは知っていた。当初はエホバの証人かと思っていたが違った。

その女性達が手にしていた新聞のようなものに目をやると、「日蓮大聖人の仏法」と、大きな文字を振ってある。新聞の一面の見出し程度である。

そして、記事の冒頭には著者近影よろしく、爺さんの写真が写っている。見たことはない爺さんだが、見たことのある内容である。読まなくても判る。

組織名は判らんが、恐らく、日蓮正宗系の団体である。ちなみに、日蓮宗全体だか一部だけかはしらんが、日蓮上人とは言わないで、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と呼ぶのである。

顕正会という、正宗系の組織があって、創価学会は彼らをカルトだのと呼んでいる。とはいえ、かつて自身らがやっていたことをやっているだけなので、ふざけた話ではある。駅前にいたのがそれかは不明だが。

それに、日蓮というのはソクラテスよろしく、辻説法というのをやっていた。道でああやって凄さを説いて回る、それはそれはとてもありがた迷惑で、わざわざ自分から迫害を呼びおこしては、「法華経に書いてあるとおりだ」と法悦境に耽るという、マゾヒストであったので、彼らこそ伝統に則っている。

というのも、その法華経とやらには、「この法を保つ者には苦難がやってくる」とあり、正しいから迫害受けるのだ、というわけだが、実際、世の中にあるカルト教団は皆同じ理屈なので、昔から人は変わらないと思わざるを得ないのである。

少々長くなってきたが、仏法とはなんぞや?という話を続けておく。

拙も近年まで勘違いしていたのだが、これを解いてもらおう。

釈迦は仏陀だが、では、仏陀は釈迦のことを指している。○か×か。

正解はキリスト!ではなく、ノーである。厳密に言えば、完全なノーでもない。

以前にも書いたことがあるが、仏陀というのは称号であり、「目覚めた人」という意味である。

釈迦は個人名である。釈迦という人が悟って仏陀になったので、釈迦は仏陀だというわけである。

つまり、仏陀は一人ではなく、色んな所に出て来得るというわけである。

そんな目覚めた人の、つまり仏陀の法理を「仏法」と呼ぶわけである。

では、日蓮は仏陀か?というと、イスラム!ではなく、やはりノーである。

釈迦は言っている。「自分が見出した法というのは、己以前の人々も見出したし、また、自分の後の人々も見出していくものなのだ」という風に。

日蓮以前にあのようなことを言い出した人はおらず、そして日蓮にしか見出せなかったというのなら、そんなものは「仏法」とは呼ばないのである。

釈迦はこれを「己の見解を真理だとみなしている」と指摘している。

己の見解を真理とみなすというのを、現代語に置き換えれば、それは「宗教」となる。

この言葉は比較的新しく、広まったのは明治あたりだったと聞いた覚えがある。「仏教」と呼ぶのが一般化していったのも、このあたりからだという。

日本がキリスト教という「宗教」に染め上げられていくのと足並みがそろっているのは、偶然ではない。

うろ覚えで続けるが、『荘子』だかの一説で「これをわたしの教えの宗(むね)としよう」というところから来ている。

つまり、何かの教義や思想、つまり見解を奉るということである。

釈迦はその反対を目指していた。それは、諸々の真理と見なされているだけの見解を乗り越えたところを目指す、つまりは「脱宗教」の理論と実践が仏法の本懐なのである。

それはとりもなおさず、世の中を破壊してしまう恐れがあったので、釈迦は悟った時は、広めないようにしようと思ったのだとか。

しかし、神の帝釈天に、「どうか広めてください」と頼み込まれて、重い腰を上げたとのことである。

神といったが、神というのは普通の人より少々優れたところ、例えば長生きだったりだとか、不思議な力があるだとかだが、輪廻の内に生きる存在なので、輪廻から解脱した仏陀たる釈迦に懇願したのである。

輪廻の内にある存在は、諸々の見解に捕らわれている状態なので、諸々の見解を乗り越えた仏陀は神なんぞより上ということになるのである。

これを踏まえて上の話を順に読めば、現代社会の問題点が多少見えてくるかもしれない。


それはさておき。


キリスト教は、神が自身に似せて白人を創ったとのたまっている。「見解」に過ぎないので、場当たり次第で何でも言う。だから今はこう言っていないだとかは当てにならない。先日の進化論しかりである。

それらの世界で研鑽されてきた学問というのも、それらの「見解」に彩られている。

例えば数学はどういうものかというと、何かで読んだのだが、あれは「神が存在するかどうかを証明するため」というところから発展してきたという。胡散臭い、と呼ばれるジャンルの本ではなく、一般レベルの書籍にあった話である。

物理学というのも、恐らくそういう性格のものではなかったろうかと考えている。物理学が、というより科学が、かもしれないが。

ニーチェは、「科学者は原因と結果をひっくり返している」と批難していた。西洋科学の見解は、物質を原因として物を見ているというのは言うまでもないところである。

何ゆえ何か見える形の、見えるといっても顕微鏡で見たりだが、確たる何かがあるという見解で物を言うのだろうか?と考えたのだが、これも恐らく、数学が神の存在証明のために発展したというのと同じなのだろうといえる。

神が人を創り人のために世界を作ったのだから、それらは神聖なものだ、神にも等しいはずだ、という見解で、物体を細かくしていって物質を取り出して行き、確たる神を見出そうとした。こういう流れなのだと思われる。神が創ったはずの我々は素晴らしいはずだ、という見解である。

ヴィクトリア朝時代には、この世には物質しか存在しないという、物質至上主義というか、そんな観念が流行ったそうだが、そんな態度を取ったのも、神探しが理由だったからだろうと思われる。

西洋のキリスト教社会の表立っての思想は、そういうものから来ている。とはいえ、洋の東西を問わず、神秘行と呼ばれる、西洋なら魔術、インドなら多分ヨガだとか、東洋なら仙道と呼ばれていることを実践している人々の見解は、ほぼ共通していて、物質以前のものが物質を作り上げていると、言っている。

釈迦も似たようなことを言っている。この世はカラーパ(パーリ語でこれ以上分解できないもの、という意味だそうな)という粒で出来ていて、これらが集まって形作られている。そして、それらは生成と消滅を繰り返しているのだと。

アインシュタインは相対性理論で、物質とエネルギーというのは同質なのだということを説いている。仙道ではそれを気と呼ぶ。


これこれの栄養(物質の形違いである)を取り込んでいるから健康だとか、毒物(右に同じ)を取り込んでいるから頭がおかしいだとか、こういう実践をしてきているからわたしは尊い存在になったのだとかなりつつあるのだとか言うのは(脳内の化学物質がみせる「見解」である)、上記に示した西洋科学の見解を押し戴いたものであるといえる。

地球の自然環境は麗しいだのというのもまた見解であり、それは頭でっかちが脳内で作り上げた自前の神様とやらを崇め奉っているだけに過ぎないのである。別に、汚いから燃やせと言っているわけではない。

だから、次から次へと新しい「見解」を見出しては乗り換えたり付け加えたりしていく。周りを口汚く断罪していたのを、今度は見せびらかす形に変えただけで、その思考回路は断罪している対象と何ら変わらないのである。

どこかの誰かのことではなく、これが頭でっかちの現代社会であり、その人々の姿である。何を食っているからとか森に入ったからよくなるとかいうのは、どこにもないのである。



そうそう。頭でっかちの例をもう少し挙げておこう。


現代社会の農産物は栄養が足りなくなっている!!という話を聞いたことがあるかもしれないが、それなら何故アメリカ人はデブが多いのか?日本も増えているが。

牛乳をたっぷり飲む彼らは、骨粗しょう症に悩まされているという。野口整体の話を引用して度々書いたが、改めて書いて、さらに追記する。


あるおばあさんが骨折して、医者に「カルシウム不足だから、よく取りなさい」と言われ、その後せっせと摂取しておったそうだが、また折れた。

そして検査したら、見事骨粗しょう症になっておったそうな。折れる折れないは、読んだ話でそうだったかは、うろ覚えである。

野口晴哉も、「取りすぎた栄養は糖尿とかにして排出したりしてて、そうやってるのは体がまともな証拠なのに、糖尿になったとか言ってはまたせっせと栄養を取って体を壊し、本当に糖尿病にしてしまう」と言っていたが、上記の婆さんも同じ事をやらかしていたわけである。

森に入った方々(かつての拙も含むが)は、以前から「栄養が足りない」と言っておったような気がする。それで、色々正しい食い物を集めては食ってとやっておったわけだが、どうやら栄養が足りない体を作り上げてしまったようで、おつむに栄養が回らなくなったらしい。というより、回っていなかったのである。

頭でっかちが頭でっかちの思想を押し戴くのは、当然の理だったというわけである。


別の例だが、頭でっかちの話をもう一つあげつらっておく。


以前、拙のブログで妙なコメントをしてくる奴がいた。態度も妙だし、突っかかってくるだけで、ろくな反論もないという、よくいるレベルの奴である。

コメントを見返してないのでうろ覚えで書くが、「そんなことは腰が抜けてもいえません」などという。

腰が抜けたというのは、驚いたりの恐慌状態で、まとも状態ではないことを指す。ドラマや映画のワンシーンで、通行人が道端に倒れている人を見て近寄ったら、殺された人だったと気付いて驚いてしりもちをつき、そのまま後ずさりしてからようやく立ち上がって「わー!」と逃げ出す、というのがあるが、ああいう状態のことをいうのである。

指摘したら、「一本取られましたね」などと答える。己の頭の鈍さを理解しようともしていない。その癖、後々、「お前の目的はなんだ?」と問うと、「あなたに正しい知識を授けたかった」とのことである。何かは知らんが仲間に引き入れたかったからという。そのやりとりはコメントに残っている。

そういう言葉を辞書で引いたり、また人から聞いていなくても、想像したらすぐ判ることである。もしくは疑問に思って調べる。疑問に思うことすらしない。そうなっているのは、頭でっかち、野口整体で言うところの身体を使って生きてはいないからである。


頭を使って生きるのではなく、頭で生きているうちは、娑婆から出ることはままならないのである。体も動かしてます、とかいう意味ではない。

己の脳内の神という獄を抱いて服役し続けるがよろしい。


では、よき終末を。


語るは上質 騙るは本物

2018-03-06 | 雑記
しばらく風邪で寝込んでいたので、アクセス数なんかはちゃんと見てなかった。記事を書こうと、先ほど、改めて確認してみたら、何故か三月三日のアクセスが多い。

そういえば、先月は二月の十四日のアクセスが飛びぬけていた。これは・・・陰謀!

という冗談は措く。

春らしくなってくると、去年なんかも風邪を引いていた。その時と比べれば、今年のは軽いものではあったのだが、背中と腰の痛みがひどかった。

一昨日に仕事へ行こうと電車の座席に座っていたら、これはもう立ち上がれなくなるのではないかといわんばかりになった。立ち上がれて歩けたので、とり合えず、仕事には行けた。

気が上がりすぎているのだろうと、ひざまづいてみたり、雑巾掛けのごとく腰を落として床に手をつけるなどとしていると、痛みは楽にはなったものである。

とはいえ、対症療法である。原因は寝込んでいたせいではないことは、その前日に起こった、というか報された出来事のおかげでよく判った。

その出来事やらのことの詳細は省くが、その出来事とそれに対する自身についてあれやこれやと考えていたら、痛みが消えていった。

拙自身のつまらぬこだわりが今回の腰痛や背中の痛みだったらしく、件の報せの直後、知人とその報せの件を交えた何気ない会話の中で既に答えを述べていたのに実感していなかったが故の強烈な痛みだったようである。

つまり、既に述べていたという答えを改めて認識し、実感すると、痛みが消え去ったというわけである。

詳細を記していない出来事の内容を前提にして書くと判り難いのだが、言いたいことではないので、我慢してもらう。もうすぐ春ですねぇ。


陽気ならぬ腰気な話はここまでにして、いつもの話にする。


拙は喫煙者である、というのは別に知っている人は知っている話である。煙管でぷかぷかやっておるわけだが、煙草の葉は無添加系の物を使用している。

タバコと聞いて一般の多くが思い浮かべる、自販機でも買えるシガレットはやらない。が、例外もある。

ナチュラルアメリカンスピリットと銘打たれたシリーズの中で、水色のような青のパッケージのがある。

キチガイアメリカの恐らくキチガイ染みた認証規定のオーガニック認証を通っているという代物。その葉だけで作られたシガレットである。

シガレットはこれだけは買う。煙管用のタバコが買えなかった時は、これを買ってほぐしたり、そのまま喫煙している。

ちょっと高いが、これの手巻きタバコ用のパッケージもあり、たまに買っている。ただ、葉が大きいので、本来は煙管には向かない。

仕事場の煙草飲みなんかが言っておったが、「アメスピは美味くない」とのこと。それから思い出したことと、直接それとは関係ない話で、だがそれにも関係してくる話をする。


拙が煙草を始めたのは、猿、ではなく然る自然崇拝者がかつて開設していたHPの影響である、ということを知っている人が何人読んでいるかは不明だが、そこからである。

吸う前は、春先はティッシュが手放せないような状態になっていたのだが、今はなんともない。食生活を改めたせいかとも思ったが、それなら今は元に戻ったので、煙草の影響であろうと考えている。

思い込みではなく、効果があるというのは、色々なところで語られている。ニコチンは毒だと毒づくのが世の習いだが、毒は薄めれば薬で、薬は濃くすれば毒薬になる。

西洋医学の医者は患者に薬を飲ませまくり、いらぬ薬は毒薬と化し、体を蝕み、手放せない体へと変貌させる。さながら医者はシャブのバイニンといったところである。


さて、なんのめぐり合わせか、その然る人物と連絡を取り合うことになったのだが、その時発売された、無添加を売りにしているタバコを教えて差し上げたものである。

今ではその銘柄は無添加を謳わなくなった(「無添加」とわざわざ書いていた)のだが、当時、その然る人物は、その煙草が美味い美味いと言っていた。

それだけなら別にいいのだが、さらにこういう風に言っていた。

「アメスピもやってみたが、痩せ枯れたアメリカで育った煙草は美味くない。こっちの方が味がしっかりしている」と。

教えて差し上げた煙草は、安くて保存料だとかの添加物がないだけのものであり、アメリカンスピリットのほうが遥かに上質なものである。

いわば本物の煙草であるのだが、常々「本物とは」と語る人物はそのような言い草をしていたものである。


話は代わり、最近の話である。

馴染みの喫茶店があり、たまに茶を飲んでいる。一杯五百円とか六百円とかするのだが、色々な茶があり、また、自身が認識している茶とは別格というか別物に思える茶を味わえたりする。

こちらも話好きなせいか、他に客がいないと、あれやこれやと聞いたり教えてもらったりする。先日も二時間ぐらい座っていた。

その中で、有機栽培の茶の味について聞いたものである。一般の茶は、肥料をよく使うので、パンチの効いた味がするのだが、無農薬の無肥料で育てた茶は、ひどくあっさりするのだとか。

どれぐらい差が出るのかという例えを、店主の感想だったと思うが聞いたものである。

それなりに味のある一般的な栽培で作った煎茶と、自然栽培の如く育てた玉露の味が近いくらいになる、とのこと。

いわば、現代は肥料で味を強く出したものに慣れてしまっているといえる。


煙草の話に戻そう。


通称アメスピの栽培方法は、無農薬は勿論だが、虫除けにヒマワリを植えたりして、生物多様性を守るような形をとり、土壌も継続していけるような流れを守っているという。入れ物にわざわざこういう風にやってます、と豆知識風に書いてある。ナンバーが振られているので、買うたびに違う話が書いてある。

現代アメリカの農地がメチャクチャになっている理由として(アメリカだけじゃなかろうが)、大量の肥料投入があげられる。そうして土壌の豊かさがやられていくわけだ。

アメスピはその逆をやっているのだろう。土壌を継続していけるようにやるなら、大量の肥料投入もしないと考えられる。

そして、それは味に現れている。舌が肥料で肥えた我々は、それを「不味い」と呼ぶ。

「本物」を語り追求していたはずの自然賛美者も、「不味い」と言った。


本物を語っているつもりが、それは上質を指していただけであり、本物を騙って語るに落ちていたというわけである。


件の自然賛美者は、今は「地上天国はもうすぐ」などとほざいて、神様気取りだといったが、訂正する。

その口ぶりは、預言者気取りである。ありもしないことを吹聴して人心をたぶらかす偽預言者はそこら中に出てくるから無視しなさい、とは聖書にも書かれていることである。

それを知ってか知らずか、ひねったつもりで面白くもない「地上天国」なんぞという言葉をひりだしている。

無自覚なキリスト教徒としか言いようがない。もしくは天国が空を指しているからという思い込みしかないのだろうし、それなら「浄土」やら「極楽」とでも言えばいいのに、わざわざ天国を使う。

日本にある言葉を使わないあたりが、彼の者の偽ぶりをさらしているのである。長くなるが、もう少しそのあたりを記す。


「進化論」というのがある。今となっては正しいのか正しくないのか、どちらでもよいのだが、「進化」という言葉自体への言及で持って、疑義を呈することとする。

進化論では、白人が一番進化している、という説を取っている。表立っては取っていた、ということになるのかしらないが、進化論が出てきた時代は、わざわざ比較図を作って、白人が人間で、色の順に猿に近づいていって、一番黒い黒人は猿と変わらない、というのを実際に語っていた。

こういう、政治的というかドグマ、すなわち、神が自身の姿に似せて創ったという白人だから尊いのである、という理屈を肯定するために出来ているのである。

しかし、以前書いた。

白人は黒人のアルビノの末裔であり、黒人なら平気な環境ではすぐにやられてしまう虚弱体質であり、なおかつ黒人に差別されたが故に、アルビノ同士で逃げて寄り集まって生きざるを得なくなっていただけなのだと。

マイケル・ジャクソンを思い出して欲しい。彼は黒人だが、色素が薄くなる病気で、肌が真っ白になった。

子供のころの彼は真っ黒で、確かに黒人だったが、白くなった顔しか知らなかった拙は、白人だと思っていたぐらいである。

上記の進化論の話からしたら、黒人から白人に進化した、というところか?

そんな馬鹿げた話はない。MJは進化したのではなく、肌が白く変化しただけである。

アルビノに変化して生まれただけなのを迫害されたのは災難であったが、それを進化したなどと自惚れるのは、言うまでもなく、コンプレックスの裏返しである。

進化している、という思想というよりは先入観がはびこった上での「学説」やら「考古学的発見」だとか「証明」で成り立ったものは、論理破綻を起こさざるを得ないのではないか。

森に入って人は進化した、というのもまた、同じだといえる。


彼の預言者気取りだけではないのだが、聞きたい。「進化」を前提にしているのなら、森に入る前の人類はなんだったのか?何をしていた?猿だったのか?

森を出たら退化したというのなら、森にいたころは三本脚で暮らしてたのか?今でも森で暮らしている人々と、その預言者気取りはまるっきり変わらないのに、何かすごくなっているのか?

目が見えない人の気配察知能力が凄いというのと、どこが違うのか?目が見えなくなってそうなった人は「進化」したとでもいうのか?

脳が退化した?落ちこぼれの西洋人の思想にどっぷり嵌っていることにすら気付かない脳みそなのだから、「進化」しても大差あるまいて。

森に入る前に猿だったら、出てきたらまた猿に戻った、というべきだろう。脳が退化して猿になっているのに、すごいことが判るのか?であるなら、動物に戻ったのなら、誰でも判ってしまうということになる。それでいて、己のようなものしか理解できなかったというのか?動物は素晴らしいとほめるが、猿に退化したという現代人は動物ではないらしい。己もそうだったのではないのか?

ならば、森に入ろうが入るまいが、何も進化していないというわけである。環境に合わせて変化しただけのことを、何か大層なことに祭り上げてきただけである。

それともう一つ。

森に入って本当の生命力が出てくるのだ、とかいう話なのだが、無人の森に入り込んだ当初は現代人のように弱々しかったというわけか?彼らはひ弱な現代人なら出来ないだろうという風なことを語っていたものである。

それなら、森の中で祖先に当たる存在はくたばって土に返っていただろう。ひ弱な猿が、何故出来た?

そのようなものは関係なく、人間は生きてきただけである。

現代人は文明を取り払ったら死に絶える脆弱な存在だ、などとけなすなら、己らは森が焼き払われたら死に絶える脆弱な存在だと、己をあざ笑っていることに気付くべきである。


本物を語る奴は、上質を示して騙っているだけである。進化論しかり、「不味い」煙草しかりである。


本物は語れない。上質に本物の片鱗を感じ取るだけである。進化論が上質かは知らぬ。


「本物」ではない物質が原因だと考える西洋の思想を本尊とするが故に、あのようになるのである。


本物を騙って語る、偽預言者にはご用心。



では、よき終末を。