ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

複雑怪綺

2021-07-17 | 雑記
先日、とある事が切っ掛けとなり、「己は何をしたいのか」を考えていた。

要するに仕事の話である。何を隠そう無職になって三カ月ほど経っている。

結論からまず書くと、このような事に思い至った。

「何かを綺麗にしたい」と。

そのように至った理由のような物を少し書いていく。


拙の前職はホテルのフロント勤務だった。規模の大きなホテルではないので、接客業としては難度の高いものではなかったと思う。
フロントでの応対や事務所での仕事以外に、ちょっとした肉体労働があった。
昼間に休憩で貸した部屋を掃除して夜に売れるようにする、というものがある。ベッドメイクである。
経営方針やら景気の具合でまちまちではあったが、拙が詰めている日はこれの多い日が多数を占めていた。

かつての上司から聞いたものだが、ホテル勤務に憧れて入社したものの、望んだ形と違うと言ってすぐ辞めていく、という人が結構いたという。他のホテルの話だが。
石ノ森章太郎の『ホテル』のような華やかな仕事を夢見たものの、実は雑用だらけで絶望したと。

かくいう拙はというと、まったく興味がなかった。接客なんぞやりたくなかったが、兄にそこのバイトを辞めるから代わりに入れと言われて入り、四苦八苦しながら働いていたのである。

時は流れ。四、五年ほど前だったか。事務所の改装が行われ、今まで手狭で混みあった具合から広々とした事務所になった。この話は直接関係はないが、一応。

それから一年ほど経ったぐらいで、週一に昼間のシフトに入っていたご老人が変な具合で辞めていった。
少し精神的に不安定だったようにも思えるが、今年か去年ぐらいに、恐らく亡くなったらしいと聞いた。
身体が悪くなってきていたのを感じていたのかもしれない。

話を戻す。

そのご老人は若い頃からの習慣だったのだろう。一時間以上も早く出勤して着替え、事務所内の電話やらフロントのカウンターを拭いていた。毎回見ていたわけではないが、掃除する箇所は決まっていたように思う。

当たり前の話というのもなんだが、そのご老人が辞めてからというもの、そういった掃除をする人間はいなかった。
清掃業者による床やフロントロビーの掃除はあるが、事務所の備品などは触れることは出来ないので、そういったところはずっと手付かずであった。

事務所内ならまだよしとしよう。しかし、カウンターの記帳に使うタブレットPCの台座(冷却用の台座である)の下にホコリが溜まっているのまで誰も気にしていなかった。

自分などは昔から嫌々していた仕事だったし、他の人も似たり寄ったりだったり、他の仕事に追われていたりもする。
しかし、これで接客するのか?と疑問が沸いた。ネット予約の宿泊プランの値段やオマケの具合を考えるのは必要だろうが、これが客を迎える態度かと感じた。

人に命令する立場でもないし、向こうもされる道理がない。清掃業者が手を回さない箇所の清掃は業務内容には存在しない。
ならば、いなくなったご老人がやっていたように自発的に掃除を始めようと考え、時間のある時(夜勤は夜中暇な時間も多い)にホコリをはたいて机の脚まで拭いたりしていたものである。

その時は業績が落ち込んでいたが、たまたま上り調子だったのだろうとはいえ、掃除を始めたころから毎月伸びていった覚えがある。掃除すると開運するだとかは何かで聞くし、そういうことも念頭にあるにはあった。

「Aさん(前述のご老人)の後継者だ」などと、先輩アルバイトの女性が微笑みながら言っていた。
「皆後継者になってもらいたいものだ」とは思ったがそれは口に出さず、やんわりと掃除の必要性は訴えたかもしれないが、そこはもう覚えていない。

そしてコロナ禍。望んだ形には臨めなかったが、周りのスタッフも掃除の真似事をし始め、「皆始めてくれて嬉しいなァ」などとおどけながら言ったものである。
言うまでもないのだろうが、自発的な部分は一切ないもので、ケチって使い始めた手指消毒アルコールを撒いて拭くというとんでもない事態になっていった。
おかげで記帳のタブレットPCには綺麗な弧が描かれていたものである。そしてそれを拙が拭き取るという。

もうそろそろ辞めるか。無意味にマスクさせられながら仕事を続けるのはバカバカしさの極みだと感じていたころ、ある夜勤の日、電話があり、次の日の明けに本社に来るように言われ、そしてクビを言い渡された。

すまないが受け入れてもらえるか?という風に尋ねられたが、上記のように感じていたので、「そろそろ辞めようかと思っていたので、なんだか不思議です」などと答え、晴れて退社となった。クビを晴れというのはおかしいが。


長々とクビになるまでの経緯を書いただけになったが、何を感じたのかというと、己は何かを綺麗にすることを望んでいたのだなと、業務としてのベッドメイクも、自発的に始めた掃除も、ここで大した内容でもないが何やら書いてきたのも含めて。
それが冒頭の「何かを綺麗にしたい」なのだと。

というわけで、清掃関係の仕事を探すことにした。十七年ほど続けたホテルのフロントという稼業には微塵も興味を持てなくなった。
そもそも、さっきも書いたが嫌々始めたものだった。役に立つ部分はあるが、仕事にするかどうかはまた別である。


このように感じ始めていたせいなのか、少し前からTwitterの方は滅茶苦茶な話を始めて、今まで見に来ていいね!をたまにしていく人も離れていったようである。

ワクチンは危険だから反対!というのは安全でむしろ身体をよくするなら打つと言っているようなものだ、などと言われていい顔をする人がいるわけがない。
全員がそう考えているのかは分からないが、西洋医療の利権構造や危険性を指摘しつつそう訴えるのなら矛盾も甚だしい。その立場から言うのなら効こうが効くまいが無用、である。

添加物などの毒をなるべく排除した食べ物で身体の調子が良くなったことを健康だなどと宣うのは、二日酔いが治ってスッキリしたのを最大級の健康を手に入れたと騒いでいるのと変わらない、などと言われて喜ぶ御仁が居たらお会いしたいものである。

絶滅収容所に放り込まれたフランクルのような極限状況に身を置けとは言わないが、人には生きようとする力が備わっている。
あれがあるからないからというのは、その力を自分から眠らせているのである。
例えが特殊な具合になるが、物理学者の湯川秀樹は『老子』や『荘子』を愛読書としていたから画期的な発見が出来た、という風に語られることがあるが、湯川だから出来たのであって物理学者が皆それらを読んだからといって画期的な発見が出来るわけではない。

十年ほど前にも出くわしたこの手の話。「正しいものを食べれば正しくなる」と表現してきたが、このように拙の前で言い出したのはとある御仁であることは昔から書いてきたものである。
「バラモンは生まれによってではなく、その行いによってバラモンとみなされる」という風に仏典にあるが、正しい行いをすれば正しくなるとは言っていないことに注意してもらいたい。

ところで、世界規模の大金持ち(例:ロスなんたら)は前述の様な毒の少ない「正しいもの」を食べているそうだが、陰謀論界隈では大悪党として散々非難されているのはどういうことだろうか?世界支配が本当として、彼らのその仕事は「正しい」ということにならないのか?


複雑な幾何学模様は美しく見えるだろう。これを分解して一本の線に作り直すのは綺麗と言えるだろうか?
その模様が歪んだ場合、それを整えるのを綺麗にすると呼ぶべきである。

一口に「綺麗」と言っても様々である。ただただ短絡な思考に絡めとることだけを綺麗だと言い張るのなら、汚くて結構である。

では、よき終末を。


怨舞に奪己

2021-07-10 | 雑記
ここしばらく、毎度のように野口晴哉がいわくとやっていて大半の人は飽き飽きしていることだろうが、まだ続ける。

子供の頃から例えば味の素や、本来なくても良かったはずの食品添加物だとかが気になっていた。
影響の一つに漫画の『美味しんぼ』もあっただろう。小学校か中学校でそういった教育があったように思う。
そこでコーラで骨が溶けるとか、とある着色料は何かの虫からとっている、というのは見た覚えがある。

風邪に付いても、小林よしのりがコラム漫画『新ゴーマニズム宣言』で、自身の風邪の処置について、森鴎外の言葉を引用しつつ述べていたのを見、「風邪は寝て治すもの」と思ったものである。
つまりは風邪を引いたからと薬を飲んでいては、自身の免疫が落ちていくだけだと思い、以来、風邪を引いても市販薬は薬局などで売られている「葛根湯」と銘打った顆粒状の薬を飲んだことが何度かあったぐらいで、もう二十年近く飲んだ覚えはない。

医者にかかったのはこれも十数年ほど前に、腕と顔がアトピーのような症状になり腫れ上がったのを診てもらい、その時貰った薬を塗って治って以来、再発もなく、医者にかかった記憶もそれ以降ない。

医者にかかるかからないはともかくとして、なるべくそうしてきた。

顔と腕が腫れた時とどちらが先だったかは忘れたが、これまた十数年前のある日立ち寄った本屋で野口晴哉の『整体入門』と『風邪の効用』というものを見つける。

その時の本の帯に「身体への信頼感があがる」とかいう読者の声が書かれていたように覚えている。

専門書でもないのに整体入門と書かれているのがひどく気になったのと、帯にあった『風邪の効用』と一緒に読めば身体への理解がもっと深まる!という煽り文句も気になり、両方買って帰った。

風邪の症状や身体の状態によって効果的な対処が違ったりはするようだが、自分が思ったことは間違っていなかったのだなと、読んでやたら感動したものである。
風邪は身体の調整作用であって病気ではないというのも、他では聞いたことの無い話であった。

『整体入門』の最初の方に「氣」(現在売られている文庫では「気」)について話しているのだが、氣については野口晴哉のオリジナルではないだろうが、こう具体的に語るものも読んだことがなかった。

ただ、気功で人を治療するという意味合いではなく、氣を操作して自身の身体を健康にしていくというのが目的だという。そのための色々なコツが書かれていたり、ちょっとしたからかうような引き合いに出した話が笑えたりと、読み物としても面白かったりする。


思い出話を長々と書いたが、冒頭の最後にこのように語っていた。

ある作家の方が整体協会に入会したら、作家仲間から「お前も野蛮人の仲間入りか」と言われたそうですが、わたしたちが求めているのは文明生活の中で野蛮人の力を発揮できるようにしていくことです。

見て書いてるわけではないが、こういう風だった。

つまり、人が健康に生きていくというのは、身体の中で眠っている力を引き出してこそ、ということなのだと。

整体入門の終わりの方には、病状と依存の関連性について語っている。

ある子供が風邪を引いたというので野口晴哉の所に連れてこられる。
まるで手品みたいな話だが、野口はぐいっとやって風邪をあっという間に治してしまう。
そして親子は帰っていくのだが、また何日かするとまた風邪を引いたと連れてこられる。

どうやらその子供は、母親に構ってもらいたかったようで、風邪を引けば構ってもらえるからまた風邪を引く、という風になっていたという。

こんな感じで、病気になったからと人に世話をしてもらって当然だと思っている人を治すのは難しいという。
口では治りたいと言うが、本心ではそう思っていないというわけで、治るものも治らない。

現代でもメンタル・ブロックという言葉があるが、こういう風な心理が語られている。
わたしは不細工だからもてない、としよう。別にそうでもないのだが「不細工だから」という建前にしがみつき、もてないことを僻むのに、もてないこと自体をどうしようもせずに言い訳に終始するというものである。
言葉はそれぞれ違うが、人はこういう心理状態にはまっていたりする。
ちょくちょく自身の内の言葉に耳を傾けると、そういう動きがあるのに気付く人もいるだろう。
つまり、建前に依存しているのである。病気同様、否定したいはずなのにそれに安住してしまうと。

こういう話を聞いていたりしたものだが、結局理解が半端だったのか、後年「~が悪い」という話ばかりする人と付き合うことになってしまった。その件は昔からちょくちょく書いてきた。
ま、類は友を呼ぶという奴か。

そこで先ほどTwitterで「添加物を目の敵にしているが、それは食べ過ぎのせいではないか」という趣旨の一文を書き上げた。反応はない。

どうして添加物が使われるのかを考える必要がある。

それは国民の健康を損なうため・・・というのが陰謀論という奴だが、結局は周り周って国民の要望である。

いつでもどこでも安心して綺麗な色をした食べ物をたらふく食いたいというのがあるから、腐りにくくしたり色鮮やかにしたり、味も再現する。
昔は戦後の飢餓の時代を生きてきた人が多かった。その要望に応えざるを得なかったはず。
そしてその当初の理由は忘れて、食べ物がふんだんにある社会を維持するためになっていったわけだ。

しかし疑問に思う。国が認可を出した添加物を疑うなとは言わないが、国は添加物を入れたものを毎日食べなさい、とは言っていないはず。
三食食べるというのは大昔に根付いた習慣だというが、農民にしろ武士に江戸の町の商人や職人しろ、現代より動き回る事が多いので食わねばならなかったところが大きいなら、現代の実態にはそぐわない。食べるなという話でもないが。
栄養学を根拠に三食をというのが現代にも続いているが、三食食わないと罰せられるというわけでもない。

それを入れた方が推進した方が悪い、というのはいったいどういう了見なのかと疑問に思う。
政府や企業の思惑というものが全く無いわけでもないが。

Twitterで書いた意見を改めてここにも示しておく。

添加物は確かに物によっては毒だろうが、それなら栄養も毒となり得るものがある。日常の量では遥かに及ばないが、それでも大量に摂ればその分身体に負担がかかるといえる。
そんな風に身体を疲れさせてるところに添加物を解毒せよと来れば、さらに疲弊する。
そして栄養が摂れてないからとさらに食べる。
それなら普段から摂取している毒も節制しなさい。

と、このように書いた。その後しばらくしてからまた別の話を持ち出した。

腹が減って食べたいと思った時に、例えばコンビニ弁当を平らげる。
さして食べたいと思わないが、栄養が不足するからと例えば薬膳料理を無理に食べる。
どちらが健康的か?食事に付いては後者とはいえる。
現代は後者の方が多く、これは頭で物を食べている。
己の健康を発揮しようとしているのではなく、食べ物に健康にしてもらおうとしている。
人の身体はそんな小賢しさを悠々と超えていく力があるのだ。

と書いて最後にはちゃんとフォローもしている。

だからといって、毒だけ選んで食え、ということではない。


添加物の危険性を指摘するのはおかしなことではない。
それを避けるのもおかしなことではない。
そもそも毎日ふんだんに食えとは国も言っていないし、守られているのか本当に大丈夫なのかは分からないとしても、ある程度の基準を設けてはいる。

そういうものなのに、認めた国が悪い入れる企業が悪いという風に話を持っていくというのは、国やらが最初から最後まで自分を守ってくれることを前提にしている、依存の態度ではないのかと考える。

食べ物に健康にしてもらおうというのも、国に保護してもらおうというのも、行き過ぎればただの「おんぶにだっこ」である。「おんぶにだっこ」が日常となれば、もはや自分の脚で歩くことも叶わなくなる。

では、よき終末を。


叫び声が氣になる

2021-07-09 | 雑記
昨日、ちょっと遠出をして馴染みのカフェに行った。

少々飲み過ぎたが、久しぶりの顔なじみや店主とでわいわい喋って過ごしていた。

それはさておき。

これを書いている日の未明。はたと目が覚めると、叫び声のような物が聞こえている。

酔っぱらってPCを付けたままだったせいというわけでもなく、外から聞こえる。
カーテンを避けて見てみると、目の前の一軒家も不審に思ったのか、明かりを付けた。

しばし外の様子を伺ってみたが、収まる様子がない。もし人だったら警察を呼ぶべきかとも思い、捜索することにした。

家が密集しているという程ではないが、二車線の道路分くらいの土地を挟んで向かいにアパートもあり、部屋から見える一軒家も部屋から見ていうと、向かいのアパートの右にある。
そのアパートと一軒家の間から公園の一部が見える。よく近所の少年野球が週末に練習しているような、遊具のない公園である。

どうもそちらから聞こえているような?と感じ、耳を澄ましながら公園の方に向かった。

しかし、公園に付くどころか、すぐに声の方向が分からなくなった。向かいの道に行ってみたが違うと悟り、また公園の方に引き返すと、歩道わきの排水溝から声がする。

ここから声がするにしても、部屋まで真っすぐに聞こえてくるとは思いづらかったが、声は続く。

どうしようもないので引き返そうと思ったら、今度は窓から見た時に聞こえてきた方面から声がする。

恐る恐る近づくと、先ほど書いたアパートと一軒家の間は公園の敷地で、区切りの金網が貼られている。

金網のすぐ裏側に排水溝があった。声はそこから聞こえているようだ。

恐らく、何かの小動物が落っこちたのだろうとは思うが、悲痛な声が続く。

別の排水溝から声が響いた理由と、原因が特定出来たのはいいが、どうしようもない。
声は大きくなったり小さくなったりをしばらく繰り返していたが、少し小さくなったようだと思い、部屋に戻った。

気になったのでメモ帳(物理)に書き記す。一時間もしないうちに、声はかなり小さくなり、そして消えたのを確認して、横になった。

消えないようなら後で警察に連絡しようかと思ったが、その心配はいらないようである。
人が襲われているのではないのは幸いだったが、そこに落っこちたと思われる小動物には災難だったろう。


また冒頭の話に戻る。

たまたまワクチン接種の話になって、店主はこう語る。

「危なそうなのにどうして皆打ちたがるんでしょうね」と。

店主がワクチンのことについてどういった見解を持っているかまでは分からないが、こういう反応が普通だと言える。

こちらは別に学者でもないが、話のネタとして、今回とそれまでのワクチンの違いについて簡単に説明した。


既にご存知の方には釈迦に説法という奴だが、どちらにしても体内に抗体を作らせるという点では同じである。

血清と言う、蛇の毒などにやられた時の治療薬があるが、これはかつては馬に弱めた毒を注入し、死の間際まで抵抗させて抗体を作らせ、その血を抜き取って精製するというものだった。現在は合成である。
今までのワクチンは、丁度この馬のと同じ流れだった。死んでしまうような毒ではないが。

だから人によって抗体の出来が違うから安定しない、というのが医者の理屈である。

そこで騒ぎになっている今回のワクチン。

ウイルスの遺伝子の一部を取り、それを書き換えたものを入れている。
細かい理屈は忘れたが、それが特定の細胞に取り付き抗体を作らせ続ける仕組みだと、どこかで読んだ。
mRNAと言ってたか。mはメッセンジャーの頭文字である。
だから効果が段違いだ、ということだそうな。
これが遺伝子を書き換えてしまう恐れがあるので危ないという指摘もあるが、動物実験でも騒がれているような問題が出ていないだとかは聞く。
どちらが本当かまでは分からないが、結構な割合で死者や重篤な反応が出ていることは、メインのメディア以外とはいえ、よく目にする。直後に死亡したというニュースもメインメディアで出るくらいでもあるし、厚労省のHPにも死者数や副反応のデータが載せられているという。

mRNAワクチンの話で騒がれている、遺伝子が書き換えられてしまうから人間じゃなくされる、という風な話も出ているとは伝えたが、別に打てとも打つなともいう話ではなく、それから店主が「ワクチンを考え出した人はどうやって思いついたのかな」と素朴な疑問を返してきた。

昔読んだか子供の頃の解説漫画で読んだかの、天然痘対策が始まりだったようだ、と色々喋っていた。
天然痘という病気があるが、牛にも牛痘という同じ症状の物がある。発症した牛の体液だかを取ってナイフで肩や腕に傷つけて塗り込むというものだったとか。
定かではないが、どこかの部族が行っていた風習を、然る貴族が真似したとも聞く。

ワクチンはまじないみたいなものかもしれんな、などと笑い話にしておいた。

話は前後するが、抗体も身体の一部なら機能がまともな場合に有効になると思う、例えば身体が弱っている人に抗体だけ作らせたところで防げるとは思えない、という自説も付け加えておいた。


とはいえ、この辺りは一般的な理論に則った話ではある。


野口晴哉が「風邪はうつらない」と語っていた事を度々書いているが、ではどうして風邪やインフルエンザがうつっているのだ?と尋ねられる。コメントではなく、人と話した時のことだが。

風邪が流行る時期に風邪を引かないというのは身体の反応が鈍いので、そういう人は時季外れに引いて重くなったりする、という話も言っていたか。つまり、時期に合わせて身体がそう動くのが大半だからうつったように見えるといえる。
普段から滅多に風邪を引かない人が風邪を引くと症状が重くなる。もしくは後々大きな病気になってぽっくり逝くことが多いとも。コロナが重症になった人は、そういう人なのかもしれないと推測している。
重症患者が普段から風邪を引いてなかったかどうかを調べている医者は恐らくいないので調べようがないが。

風邪という観念が人にうつすという事も言える。野口晴哉のいう所の「氣」である。
よく、楽しそうな人の近くにいると、こちらも楽しくなるというのがある。
反対に辛そうな人の場合は、こちらも辛くなったりというのがある。
感情が伝播しているのである。
風邪を引いているという感情が他者に風邪を引き起こしているということも考えられる。


急に話を変えるが、去年の三月ごろに見た記事で、アメリカで三週間ほど夫とも顔をあわせない自主隔離生活を続けた女性がコロナに罹ったという話があった。
あの時期のコロナは肺が苦しくなって、という報告が多かった。今もあるのだろうが、それはともかく、自主隔離前に買い出しでドラッグストアの店員とのやり取り、後は夫とも離れているので、食事の宅配サービスなどを受け取った時に人と話したぐらいだったとか。

こんな話を聞くと、怖いと感じるだろう。そうすると、コロナの事で頭が一杯になり、テレビでも散々流すし、そういう記事も追いかける。人を見たらコロナだと思うようになる。

野口晴哉が言うには、「氣の動くように心が動く」と。後、読み返してみたら氣は心そのものではないとも。

氣は感情で操作することができるという。つまり、コロナが怖いという感情を持てば、氣は自然とコロナの恐ろしさばかり追いかけ、報告されている罹った場合の恐ろしさを見るあまりに、本当にそのような状態を作り上げてしまう。厚労省はマスクを年中しろとは言っていないらしいが、年中マスクしたりさせたり、ワクチンが出ましたと聞けば何を置いてもすぐに打ちにいったり、半ば強制的に打たせようという道理も理屈も無視する空氣の理由でもある。

3密回避はこの意味では対策と言えなくもない。近くよりは離れた方が他人の氣による影響は減るだろうから。
ただし、多くの人がテレビや大手新聞系列の情報を見ているという点で、無意味に近い。

テレビを捨てて似たり寄ったりの報道をする新聞やそれに沿ったネットのニュースを排除すれば、否が応でもなくなるとはいえる。捨てるのが無理なら報道が無くなればだが、一度乗った勢いは行き着くところまで行かないと止まらないだろう。

ただ、もう一つ懸念はある。

コロナは嘘だとか、ワクチンは危険だ、というのは結局コロナ騒動から離れてはいない。
これらはネットを介した媒体で盛んである。
現状、この騒動をまったく無視するのも無理なので、致し方ないところではある。
それらの主張の正否は関係ない。

前述した話からしたら、感染症すべてが嘘だともいえるようなわけで、ことさらにコロナだけが嘘っぱちと言う意味もない。

と分かればそもそもワクチンなんぞ必要なく、危険か安全か、効果の有無なども無意味となる。
だが、現代の多くの人にこのような観点を伝えても理解されないだろうとは思う。
胡散臭い話という奴だからだ。

マスクしてワクチン打って隔離していればコロナはなくなると思っている人は、そういう氣の下で動いている。
正反対の氣をぶつけても反発を起こすだけで、頭で言葉を理解しても心に響かないので本当には理解しない。
氣が合わないというが、そういう人とは話が噛み合わないだろう。現状は正にそうだと言える。皆が皆そうだとは思わないが、確実に凝り固まっている人はいる。

文字通り氣付かない限りは、話を聞かせても無駄である。
自身の感情が如何なる理由で動いているのかを本人が自覚しない限りは。
別に「氣」を知りなさい、という意味ではない。

こう言うと反発されるとは思うが、コロナは嘘だとかワクチンは陰謀で危険だとかというのは、却ってこの騒動を補強するのではないかと考えている。
陰謀と言われるような物はないという訳ではない。

メインメディアでも陰謀論がどうとか言い出すほどで、それを切っ掛けにして中途半端に知り得た人が怒りの余りに騒ぎ出し、そして事態は悪化すると言えなくもない。
今まで書いたことを踏まえてまた言うならば、結局コロナとワクチンで頭が一杯であり、立場が違うだけの現代で大多数の人がそうであると推測される状況と変わらない。コロナとワクチンという概念を補強している。

Twitterで余りコロナが如何に嘘かだとかワクチンが危険だという風な話を直接的に持ち出さないのは、こういう理由である。寧ろ当初は正反対の事を言ってもいた。その時は少し迷ってもいたし、ここまで確信してなかったからだ。とはいえ、人気はないので影響力はほぼない。ボ〇ムズ次回予告パロディは空振りである。

現代医療が正しいか正しくないか、ワクチンは良いか悪いかといった二項対立は、結局現代医療を前提にして考えられている。
拙が上記に示したような観点で病氣を見る人は多くはいない。
風邪になったらすぐ医者に行ったり、薬を飲むとかいう人が件のワクチンについて騒いでいたとしたら、ワクチンに問題がなく効果があれば打つつもりだと言っているようなもの。

己の身体は己がどうにかするのが基本である、ということを忘れてはいけない。
現代はどこまでも行っても「どの医者に頼ろうか」という具合なのである。

では、よき終末を。


ドし難い話

2021-07-05 | 雑記
フランスの作家だったか、オノレ・ド・バルザックという人がいる。
いきなり話が逸れるが、同じくフランスはスタンダールの小説『赤と黒』の主人公の名をジュリアン・ソレルというのだが、途中で貴族に成り上がって、ジュリアン・ド・ソレルと名乗るようになる。
貴族になったらド、が付くから、王や皇帝になったら超ド級か、などという分かりにくい冗談は措くとして、バルザックのド、は貴族でもないのに勝手に名乗っていたという。おのれバルザック!

そのバルザックの著作に『役人の生理学』というものがある。生理学、と銘打たれているが学術的なものではなく、風刺である。生理学という言葉が流行った時期があったそうで、なんとかの生理学、と題された学術書ではないものが多く出版されていたという。
『役人の生理学』もその流行に乗ったものの一つで、バルザックの目でもって役人の生活振りを風刺したものである。

そこで拙もそんな話を書こうか、などと思ったが、そんなに体系立ててまとめる力量はない。
というわけで、昔話の絵本のような語り口で書こうかと思った。
当初はTwitterでやろうと考えていたが、TLとやらを汚しまくっても仕方あるまいと、思い直した。

お話の題目は『陰謀論者の生理学』と、冒頭で触れた話から付けようと思ったが、単純に『インボーロンジャのオジサン』で行こうと思う。ではでは、行き当たりばったりで書いていくが、ご覧あれ。

インボーロンジャのオジサン


むかーしむかし。あるところに。インボーロンジャのオジサンが住んでおりました。長いのでこれからはオジサンにします。
オジサンが若い頃大学で書いた卒業論文は、キョウサンシュギだかキョウサントーが世界を牛耳っているというものだったそうな。
その論文で出した図解を見せながら「キョウサントーをイルミナティに入れ替えれば、ゲンダイにも通じる」とかなんとかと、語っておったとか。

そんなオジサンは、商社勤め時代の食事の影響で、ブーチョッチョとなり果ててしまいます。
これではいけない、と一念発起してダイエットに励みます。調べていくうちに、これは魔女の呪い、ではなく食べ物も既にインボーまみれなのだと思い至ったそうな。

それからオジサンはベジタリアンだとかヴィーガンだとかを試していきました。
如何に肉を食べることが酷いことであるかという事も知り、その事に気付かない普通の人々を蛇蝎の如く嫌うようにもなりました。
努力の甲斐あって、見事ブーチョッチョからちょいブーチョッチョかもう少しぐらい痩せて、自慢しておったそうな。

オジサンの頭の中では、こんな閃きがあったのです。
「人は正しいものを食べなければならない」と。
そして「正しいものを食べれば人は正しくなる」とも感じたようです。

普通の人々は正しいことに気付いていないので、HPで周知したり、見込みのありそうな人を会員制掲示板に引き込んでは「気付かない愚かな民衆は滅んで当然だ」などと当たり散らしておりました。

そんなある日。その「正しさ」に沿った理論と実践に出会います。
それはアメリカのスポーツドクターが提唱した、果物と葉野菜を主食とする、フルータリアンダイエットというものでした。
感動の余りオジサンは叫びました。叫んだかどうかはわかりませんが。
「わたしはフルータリアンになるために生きてきたのかもしれない」とかなんとか。

それからなんやかんやで農地を手に入れ、一番の理解者である奥方と共に自給自足のフルータリアン生活を始めるとのことで、HPや掲示板も閉鎖しました。

月日は流れ。人の考えというのは良くも悪くも変わるものです。

オジサンが「このために生きてきた」と叫んだこと自体は変わってはなかったのですが、ただ一つ、大きく変わった点が増えておりました。
なんと、放牧で育った牛を食べているのです。
かつて「動物の死体を食う奴は死んでしまえ」とすら言っていたのはどこ吹く風。

さっき出てきたスポーツドクターはこう言っていたそうな。
「肉が美味いと感じるのは習慣に過ぎない」と。
肉を食うようになってオジサンは言いました。
「肉を食べるのは身体が喜ぶから」とか。

オジサンは別に棄教したわけでも転向したわけでもないのです。

ただ、人より正しいと思うことを実践しているから正しいと思う人なだけだったのです。

お釈迦様はこうおっしゃられました。
「バラモンと呼ばれるというのは、バラモンの家に生まれたからとかではなく、行いによるのです」と。

オジサンはこれからも正しい物を食べて、正しく生きていくのでした。

めでたしめでたし。



うむ。Twitterじゃ収まらないな。

では解説へ。というほどの事ではないが。

詳しくは昔にも書いたが、「人は正しい食べ物を食べなくてはならない」や恐らくそこから導き出されるだろう「正しいものを食べれば正しくなれる」という理屈について。

後者はありきたりなものである。「これを拝めば幸せになれますよ」と変わらない。

少し遡って考えてみよう。

「正しい」ことに気付くまでは、「正しいもの」を食べていない、「正しくない」心身であったと。そこから「正しくないものを食べてるから大衆は気付かないし滅んで当然」となる。

では。どうしてその「正しい」ことを「正しくない」はずの人間が気付くのだ?となる。
オノレ、ではなく己は気付けて大多数は気付かないのは何なのだと。洗脳されているから?だったらかつてのあなたは?となる。

以上から導き出した答えはこうなる。散々書いてきたが。

「如何に己が他人より優れているかを示すための正しさを求めているだけの選民思想」だと。

とはいえ。人のことは言えない。身に覚えありという奴ではある。


個別具体的なものごとに関して言えば正不正はあるだろうが、問答無用でこれが正しいとは一概に言えない。上記の「オジサン」の如くである。
インボーロンジャのオジサンが~♪

それこそ真理だとかと言われるようなもの以外は常にこのようになるだろう。

力強く生きようと、またはそう生きた人類の後塵を拝すだけでは正しいとは言えない。
それこそ「これを拝めば幸せになれますよ」と言っているのと変わらないからだ。

思うに、人は己の生命を存分に働かせることが正しいのであって、理屈を捏ね上げて作った正しさというのは小賢しさにすぎず、風の前の塵と同じである。

それが過去の人類の足跡と軌を一にするか、それとも現代社会を破壊したりもしくは発展させるようなことになっていくのか。そこは未知数である。


では、よき終末を。