ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

プラトンのマネキン

2015-06-17 | 雑記
同じことを何度も書いてきている。

ここ一年は、どこぞの上人についての悪口雑言重箱の隅といった具合であることは言うまでも無い。

わしはそろそろ新しいことを書こうかと思ったが、諦めることにした。

というのも先日、野口晴哉のエピソードをたまたま目にしたからだ。


こういう話だった。

何度か指導を受けていて、ある日、野口にこう尋ねた。

「先生、何か新しい話はないですか?」といった具合に。

すると野口は

「では、あなたは私と同じように出来るようになったのかね?」と返したら、聞いた人は黙ってしまったそうな。


読んだところの続きでは、「例えば会社の上司が部下に「一度しか言わないからよく覚えろ!」みたいなのはおかしいんですよ」という風な話を書かれていた。

何度も同じことをするにしても、本当は完全に同じことなどなく、新たな視点を見出したりするものである、という話であった。


ま、ここにはそんな大層なものは無いので、読まなかったことにして新しいことでも探しに行かれる方がよろしかろう。



さて、前置きはここまでにして、本題へ。



古代ギリシャの時代に、ソクラテスという哲学者がいた。

その弟子に当たる人に、こちらも高名な、プラトンという人がいる。

プラトンも師匠の衣鉢を継いで、後輩指導をするわけである。

そんなある日。

人間とは、という題での講義をしていた。

「人間とは、二本足で歩く動物である」とプラトンは述べた。

近くで覗いていた、ディオゲネスという、乞食みたいな奴が思いついて、そこに鶏を投げ込んでこう言った。

「これも人間かね?」

プラトンは鶏を焼いて食って、改めて言った。

「人間とは、羽毛のない、二本足で歩く動物である」

さて、またディオゲネスは、鶏を放り込んだ。今度は羽毛を毟って丸裸の鶏である。

「これが人間だってさ!」

余談だが、焼いて食った、は冗談である。


プラトンとディオゲネスのこの手の喧嘩はほかにもあったかは忘れたが、プラトンは腹を立てて、ディオゲネスをこう罵ったそうである。

「狂ったソクラテス」と。


ディオゲネス、という名前は他にも該当があるのだが、キニコスだったか、そういうものの始祖にあたる人物である。

英語のシニカル(cynical)の語源になる。

ちなみに、日本語でそのキニコスだかの学派の和訳は、ひどく皮肉で、犬儒派、というらしい。

野良犬みたいな汚らしい儒者のことだかを犬儒、というのだそうだが、この二名をどちらが儒者といったら、プラトンが該当しそうなものだが、そんな訳を当てられているのだとか。

「狂ったソクラテス」というのもまた、「犬儒」の言葉だったのかもしれないなぁ、などとワケノワカランことを考えて、夜もぐっすりである。


さて、別にギリシャ哲学やらの話をしようというわけではない。そもそも、専門でもないし、アカデミックな脳みそなんぞ持ち合わせておらぬ。

どちらかといえば、こちらの見た目はディオゲネスかもしれんので、ディオゲネスらしく、犬みたいに吠えようと思っただけである。クゥーン

プラトンの講義について、こちらも鶏を放り込もうというわけである。まずは捕まえてこないとならないが、近所にはいない!


ギリシャ哲学、だとか言われたりするし、例えば宗教なんかもそうだが、別に最初から今で言うオカルトだとかスピリチュアルものという設定ではなかった。

変な話だと思うかもしれないが、ああいうのは当時の最先端の科学、というべきものだったりするのである。


話が横道に入るが、インドにジャイナ教という宗教がある。

彼らが歩くときは、専用の箒のようなもので、自分の前を掃きながら歩く。

これは別に道が汚いからではなく、そのまま歩いた場合、自分の先祖だったものが生まれ変わって地を這う虫になっていた場合、それを踏み殺してしまう可能性があるので、その箒でどかしているのだそうな。

名前は聞いたことがなくても、そういう宗教があるとは耳にしたことがあるだろう。


こりゃなんだというと、成立時のインド(今もかしらんが)では、輪廻するというのが当然の認識であり、彼らはその「科学」的な根拠を突き詰めたものを行っていた、というわけである。

科学というからには、電子顕微鏡だとか実験で云々と思い浮かべそうだが、そーゆーもんである。

しかし、その箒でうっかり殺したりしないのかな?とはいつも思う。



話を戻して、現代の世にも「プラトン」がイッパイいる。

ああ、また上人のことですね?といえばそうである。プラトン上人とでも呼ぼうか。

もう少し正確に言えば、上人は飽くまで具体例である、とは何度も書いた。が、そこは措く。


そのプラトン上人は、前々から、「世の中はおかしい、具体的には生き物が食べるべきものを食べなくなったから皆おかしくなっているんだ」と言っておった。

で、人間も生まれた状態で自然に手を伸ばすもの以外を口にしているとおかしくなる、とおかしくなったように言っておったわけだ。


人間は猿と近いから、果物と葉っぱを生で食うのが体に一番いい!健康だ!穴掘って木を登り、とても正しい!というわけで、農地を買ってそこで自給自足をしようと、去年だか始めた。これも前々から書いたことである。

それの根拠の一つとして、アメリカのスポーツドクター、ダグラス・グラハムの本を読んで、「これだ!」と言い出したわけである。

内容は、すぐ上に書いたことと同じである。その中身はジャイナ教徒が歩くときと同じように面倒極まりないが。

最近は自分に柔軟性があることをアピールしたいのか、発酵食品も食べます、と始めたというのも書いた話。


彼らは言う。「これこそが人間だ」と。

ちんちくりんのプラトン上人と、スポーツドクターで現役で競技出たりするグラハムには共通点がある!!

それは・・・五体満足だということ。


何を馬鹿な・・・と、思うわな。


だが待って欲しい。


世に健康法を謳う者はゴマンといる。わしも別にその全員の姿を知るわけではないとはいえ、敢えて言うが、その中に五体不満足な奴はいるだろうか?

小指がケッソンしている、という奴がいるかもしれんが、そこは冗談である。

いや、そこではなく。


以前皮肉めいて書いた話で、グラハムの如き(如き、というのはそういう手合い、という程度の意味である)の脳内は、ナチスが称揚していた、麗しき社会そのまんまだとやった。

しつこいが、別にDr.グラハムだけの脳内ではない。上記にも書いたように、具体例である。


ははぁん、お前は上記の二人の講義を覗き込んで、「人間とはこれこれこうである」とやってたら、「五体不満足」の人を放り込んでやるんだな?

と、思われるだろうが、ちょっと違う。


プラトン上人がそれをやっていると仮定して、わしならこうやる。

等身大のプラトン上人そっくりのマネキンを放り込んで言うのだ。

「これ以外は人間ではないのですね?」と。

訂正してきたら、次は「五体不満足」を放り込んでいう。

「これは人間ではないのですね?」と。


グラハムの如きの場合も、ほぼ同じである。



人間が生まれた野性に立ち返る、とかいっている。この手の人たちは。


生まれた時ってなんだ?と考えたら、母親の乳房に吸い付いていた時か?

ああ、これは人間ではございませんねぇ。五体を満足に動かせませんからねぇ。

じゃあ、ハイハイしだしたら?

やっぱり人間じゃございませんねぇ。木に登れないし、穴掘りも出来ないので。

体を健康に鍛え上げて、これが人間です!といったら?

ああ、ちょっと体重計乗って。はい、だめー!昨日より筋肉の量が減ってます。昨日言った人間の枠から外れてますよ!

「二本足で歩く動物」か?

脚が片方折れて、車椅子乗ってます?ああ、いけないいけない。あなたは人間ではありません!



プラトン上人の理屈に正直に付き合っていたら、赤ん坊も人間ではなくなる。



プラトンが当時どういうことを思って、「人間とは~」とやったかは知らんが、それを見て鶏を放り込んだディオゲネスの気持ちはなんとなく、こうじゃないかと思うところがある。

そもそもプラトンの師匠たるソクラテスは、「自分が何も知らないことを知っている」という一種のアイロニーでもって、知の巨人たるに至った。

それに引き換え、プラトンは、人前に立って、言ってしまえば「わたしは人間が何たるかを知っている」と公言していたわけである。

鶏染みた人間がいるかもしれないわけで、ソクラテスならそういう風には言わなかったんじゃないのかね?という皮肉だったのかなと。

本当は知らないのに、知っていることにして無知をひけらかしているのではないか?と。


少々持って回った言い方をした。


話を戻すとして、わしはこう思う。


五体満足の人間が想像し、説く理想の姿というのは、五体満足の物から外れることはないだろう。

それ即ち、己自身を神と崇め奉り、有頂天に至った、痛々しい姿ではないのかね?



こういえば、「わしならこうやる」と言った所が理解できるかと思う。

すぐ上で、「プラトンが当時どう思っていったかは判らないが」と断ったのは、この点である。

生きている人間についても多分に推測があるとはいえ、死んだ人間なら余計に推測の域を出ぬからな。




ところで、プラトン上人たちはかつて、「精製された塩分は毒だ!ミネラルは生の食べ物からとるだけでいい!」と、グラハムの理屈に則り、やっていた。

グラハムの本に書いていたかは忘れたが、果物だけではミネラルが不足するので、葉野菜を食うというのである。ここは書いている。

そこではなく、野生動物は、時折、地表に湧出するミネラルを含んだ土を食ったりなめたりして補給する、というくだりが、あったかどうかは忘れた。なかったかな?どっちでもいい。

もしグラハムが書いてないとしたら、これはグラハムの無知である。書いていたら、そこは「人間らしく」知恵を働かせて、葉野菜を食うとやっているわけである。

そこを突っ込むわけではなく、プラトン上人のほうに話を戻していく。ミネラル摂取、という点である。


動物は感覚がするどいので、食うべきものと食うべきでないものを、自ずから区別している。人間にはその感覚がないか弱いので、精製した塩分なんぞという毒を平気で食うのだ、と述べていた。

申し訳ないが、地表に湧出した塩分は、自然とやらが精製した「食塩」ではないのか?自然だろうとなんだろうと、精製されたものだ。

「動物」ならそんなもの毒だとして食わない、という理屈はなりたってないようなのだが?


野口晴哉がこんな風に言っていた。

人間は、頭で判って無くても、体が受け付けないものは吐いたりして、自然に健康を保つように出来ている。
なのに、赤ん坊が乳を吐いたのは体を壊したからだの、腹が壊れたから下痢をしただのと、馬鹿なことをいって何かいらん工夫をして、本当に体を壊していく、と。

飽くまで、人間が自身の自然の流れに逆らっていらんことをするから、という意味であって、何もしなければいい、といった野放図の自然ではないことをお断りしておく。

そうすると、土を食ったら後で吐いているかもしれないな、野生動物は。


ジャイナ教徒は、掟に従い、歩くときには目の前を箒で掃く。これによって、殺生していない、と思うわけである。

これで正しいのだ!となる。実際は、その箒で虫を大量虐殺しているかもしれないことは無視されるとしても。

ま、現代科学的視点に立てば、料理したら野菜やら牛乳(彼らは乳は問題ないそうだ)の中にいる、「ゴセンゾだったかもしれない微生物」を殺してるんではないか?という突っ込みをしたくてたまらないが、ジャイナ教成立時の「科学」になかったことなので、誰も気にしていない。


プラトン上人は、自然の流れに沿った生活が健康になれるのだ、という宗旨のもと、山篭りしている。

その宗旨たるや、ジャイナ教徒の箒と大差ないのではないか?
※今さらで申し訳ないが、別にジャイナ教を非難しようというわけではない。


彼らは言う。「健康だからこそ人間だ」と。健康でないものは人間ではない、とすら言い出す。

ほう。じゃあ、彼らの「健康」の理想たる、野生動物らしく、土でもなめるのか?といったら、やらない。

人間のご先祖とやらは森にいたというのにか?森で土食わなかったのか?退化したものだな。退化した、とはプラトン上人がいってたが。



改めて、彼らが講義をしていた(と仮定した)ところの話をする。

中心に立って、かのプラトン上人は言う。「人間とは、健康な状態であって初めて人間である」と。

そこで等身大のマネキンを放り込んで言う。

「これこそ、病気にもならない、完全な人間ですな」と。

訂正がこう来たとしよう。

「人間とは、血が通っていて健康な状態であるのが人間である」と。

さっきは「五体不満足」とやったが、こうした方がいいだろう。

マネキンを改造して、ポンプを取り付け、赤いインクでも流れるようにしておいたのを放り込む。

「これは人間ですね?」

もちろん、プラトン上人そっくりのマネキンである。

さらに訂正がこう来たとする。

「人間はマネキンではなく、健康で生きている状態である」と。

そこで初めて「五体不満足」を投入する。

「マネキンでもなく、健康にご存命でございます」と。

彼らはギョッとするかもしれない。なんせ、「五体不満足」な状態の存在については一切考えておらず、考えていたとしてもそれらは、彼らの定義からしたら、「健康ではない」からだ。

やけっぱちになってこう言ってきたらしめたもの。

「人間とは五体満足でないと健康とは呼べないのだ!」と。

そうしたら、今度は何も放り込まない。かのものを指差してこういう。

「五体満足たるあなた以外は人間ではない、といいたいのですね?」と。


かくして、講義の聴衆からもわしは抗議を受け、野良犬の如くたたき出される。そして嗤いながら外を駆け回り、こう叫ぶのだ。

「知りもしないで、知った口をきく。まるでしゃべるマネキンだ!」と。



かつて、斯様な事を申す者共、つまり、上記で言うプラトン上人らが目指す健康とやらは、マネキンになることだ、と書いた。


繰言になるが、彼らは、彼ら自身の姿を理想といっているだけで、それは、例えば昔のキリスト教が異教を撃ち滅ぼす時の理屈と変わらない。

もう少し近い時代でいうならば、ナチスと思考回路が同じだというわけである。

健康的な肉体万歳!伝統的な秩序による生活こそ至高!アーリア的美風は正義!というやつである。

それでもって何をしたかというと、心身障害者を収容所に放り込んで殺した。
「ドイツの健康のために邪魔だから」と。

その理屈で行くなら、プラトン上人はおろか、グラハムですら、恐らく、かつての「偉大なる正しい野生の人類」に適う所がないことになるので、収容所送りになっても致し方なかろう。
「人類の健康のために邪魔だから」と。


体をマネキンのように健康にしたいのなら、それはそれで結構。

その結果、脳みそまでマネキンになる。

かくして、しゃべるマネキンの出来上がりというわけである。



プラトンは言った。「人間は二本足で歩く動物だ」と。

もじってこう言おう。

「マネキンは五体満足以外は人間でないと断ずる動物だ」と。


では、よき終末を。

汎痴性

2015-06-16 | 雑記
先日はなんだかよくワカラナイ内容になった。書いているこっちも何の話だったか思い出せないほどである。


その先日のゲームについては、また運営から次のアップデートやらを公開する放送を断片的に聞いたところ、大きな問題についてのてこ入れもしていくつもりがあり、一定の効果を認められるものを提示していたようである。

思っていた以上に、あちらはユーザーの立場を考えていたようではあるが、なかなか決定打を出せずにいたのだろう。

ただまあ、それでも妙な認識を(わしの仲間にいるやつは)していたようだった。

前の例え話でまたいうとしたら、こういう感じだろうか。

「キャッチボールで甲子園での優勝気分は味わえるようになっているが、どこまでいってもそれは優勝気分に近いものでしかないのだぞ?」と。

その上、「自分が想像している優勝気分」にならないから、という前提があるからだと思われるが、それ以上はどうでもいい。


さて、反知性、及び反知性主義というのがある。

先日、本屋を眺めていたら、新刊のコーナーにそんな本が目立った。

ほほーと思って読もうとしたら、待ち合わせの呼び出しがあったので、読もうと思ったところは読めなかったが、読んで字の如くである。


そして今日、部屋の整理をしていたら、買ったけど読んだかわからない本が出てきて、これもその「反知性」というものについて書かれていた本だった。


簡単に言うと、「物事は簡単に決められる何かがあるので、それに乗っ取ればいい!それ以外は断罪だ!」的なものの考え方、といえばいいか。


立ち読みした本の箇所は「陰謀論」における反知性というものを書いていた。

すぐ上に書いた内容と見せる品が違うだけで、同じ指摘である。


有名な漫画の決め台詞が有る。探偵物の有名なやつ、と言えばわかる人もいるだろう。


「真実はいつも一つ!」というやつである。


大雑把に言えば、これが反知性というやつである。


まあ、探偵は犯罪者を追い詰めるという点ではそれで構わないのだが、なんで犯罪を犯すことになったのか、だとかそういうことは基本抜けているのが、単純な漫画の常なので、仕方ないとはいえ、読んでると知性がなくなるかもしれない。

そういう意味では、漫画ばっかり読んでるとアホになる、というのはありえる。


話が逸れた。



物事には、単純に善悪決め付けて簡単に済む話はないし、そもそも絶対の真理たる答えはない。

あるが、それに到達が必ず出来る、という代物ではない。

「これが答えでこの通りになるし、なるからこれ以外は嘘だ!」という風な、紋切り型の考えは、考えとはいえないのである。

知性というものの否定。つまり、反知性的行動である。


別にこう書いているわしが、つねにそうならないというわけでもない。なんだか書いていると勘違いする人がたまにいるのでワザと言っておく。


では、卑近な例に戻す。


反知性的といえる状態といえば、昨今の人々の行動によく現れている。

例えば、すぐに「どうすればいいか」をネットで調べたりして、その通りにする、だとか。

テレビの放送で、何かの犯罪の責任者やら容疑者が映ると、テレビもそうやって悪者に仕立てて映すからといって、すぐ「悪者は懲らしめろ」となったり。


口が悪いので、またわしの身近にあった例を取り出しておく。


件のコメントである。


「社会運動をしたほうがいいですか?」

これである。



こういうのはなんだと。いや、反知性、っていったでしょ?いやいや、そこではない。


自分で考えることを放棄している、ということだそうな。

常識を疑わない、と。

上の、テレビの例だと、この場合の「常識」は、テレビに映った犯罪者は断罪すべきもの、というテレビが流す常識を一切疑わないということである。


常識というのは、これは覆しようの無い真理でもなく、ある一定のあつまりでかもし出される空気である。

テレビが作り出す空気を真理だ!と、当人達は言い出さないが、つい考えずにそう思ってしまうわけである。

ネットで騒がれているから、これは真実だ、も然り。まあ、そういうとわしも心当たりが無いわけでもないので、苦しいな!へっへっへ。


無論、所謂常識に乗っ取った方が適切である、というのはあるので、常識を否定すればいいという話ではない。これもまた反知性である。

常識を否定するのではなく、疑う。

自分が見聞きしたことを否定するのではなく、疑う。


これをするためには、自分で考えることをしなくてはならないのである。



AとBという選択肢がある。


さて、出すとすぐに「Aだ」「いやBだ」と人は簡単に決めたがる。決めたらいいものは決めたらいいが、決めづらいものにまで簡単に決められる何かがあると思いがちである。


何か答えがあって、そこから紋切り型に物事を裁定していく最低の行動が反知性だとずっと上に書いたが(そこまでは言ってない)、何がしか理由をつけて「Aは正しい」だとか「Bこそ正しい」とやるのが目に浮かぶだろう。

その理由が、真理だと思っている、例えばかもし出されただけの空気が正体な常識という信仰箇条だったりするわけである。


このことについて、面白い例えがある。こういう質問だそうな。

「あるクラスに、男子は十二人、女子は十三人います。担任の先生は何歳ですか?」というもの。


で、大体「25歳」だとかいう答えが飛んでくる。それか、それ以外の年齢を言う。


答えはというと、いくつでもない。そもそも、年齢を推定できるものは一切書かれていないからである。


どうして年齢を推定できるものが無いのに「25歳」と言い出すのかというと、物事には答えが必ずあるという信仰から、というわけである。


そもそも答えはない。テストなら模範解答というのはあるが、全ては答え合わせ出来るもので出来上がってはいない。


この手の行動は、どこぞの上人がそのまんまであることは、言うまでも無いだろう。

「私は馬鹿ではない。一般人は馬鹿ばかりだ」とのたまっていたのに、その一般人と同じ思考回路で生きているので、笑い話にもならないのである。

もう少し面白い話を作れないのか?と思ったが、面白くない奴に面白い話を作り上げてもらおうというのが無茶である。



さて、話はここで終らない。


過日、見覚えのある電話の着信があった。

そして数日前、何ゆえか、スカイプからメールが着ており、「あなたを登録したがっている人がいます」とあった。




ああ、この電話にスカイプ。スカイプについては、ある個人と使っていた。

スカイプは公開したことがなく、そいつとしか使ったことが無いので、なら決まっている。


電話してみたら、やはりそいつであった。


どいつか?オーストリアではない。


関連があるので、昔、ここに書いた件を簡単に述べる。


これもまた、あるオンラインゲームで、ある日仲間内で揉め事があった。


わしとその電話の主はスカイプで話しながらだったのだが、他は文字チャットのみである。

そいつとかこいつじゃ面倒なので、スカイプの略でS、他は揉め事の首魁をA、被害者の残りをBとCと書く。


Aがどーにも頓珍漢で(二回前に話の脇に書いた人物でもある)、BとCがかなり不快な目にあっていた。

Aも別にいじめようという意志でやっていたわけではないが、子供というのは無邪気である。成人してはいるが。


それで、オンラインの文字チャットを、上記のメンバー共通のものとは別のチャンネルを作り、Aを隔離して、とりあえず気持ちが静まるまでBとCの話し相手をして、落ち着かせようとした。

ゲーム内の話だとわかりづらいが、敢えて書くと、キャラクターも人があまり来ない場所に移し、友人登録してあれば見えるはずのオンライン状態も伏せる機能があるので(その日は二人ともそれでログインしていた)、Aに話しかけない限りはワカラナイ状態だった。

さて、しばらくすると、Sがメンバー共通のチャットで「ここに怖い二人がいるー」などと、言い出した。

Aに聞こえるものへわざと書いたわけである。するとどうなったか。わしとSがいるところは、BとCもいる場所であったのだが、そこに移動し始めていた。

わしはとっさに「Sのアホがばらしおった!逃げろ!」とまくしたて、二人は逃げていった。

騒動が治まってからだったが、BとCのうち片方が「怖い二人ってなんだよ」と、これまた不快感を顕にしていたのはまた別の話。


直に何があってこうしている、という説明は、スカイプごしにもしてはいなかったとはいえ、何か妙な状態になっていることは判るはず、と思っていた。しかし、知ってかしらずか、Sはばらすようなことをした。


頭に来たので怒鳴りつけた。するとこう返ってきた。

「何があったか興味もないし、関係ないから」と。このようなことをのたまった。その声色は、子供がすねながら言うのと同じだった。

「興味ないのにするんか!?」とさらに怒鳴りつけ、「もういい。ゲーム辞めろ」「二人に挨拶して出て行け」とやり、Sは挨拶して出て行った。

そして、二人をなだめつつ、スカイプを切った。


怒り心頭だったので、スカイプをアンインストールし、電話番号も削除。フリーメールのアドレスも削除した。


もう二度と話をする価値の無いやつだ、そう判断したのである。



そして、今更電話してきたのである。相も変わらずの、ふざけた声色としゃべりだった。


こう返して切った。「もう二度と連絡してくるな」


とはいうものの、これでは止めを刺せないから、後でこちらからまた電話してみたが、出なかった。

なんと言って止めを刺そうと思ったのかというと、以下に。

「貴様は状況を考えもせず、怒られた理由も考えないし問わない上に、自分の機嫌を損ねたからとふざけた態度をとる、クソガキだ」と。


電話の当初のやりとりを思い出して書く。


「今更なんの用だ?」

とご挨拶をすれば、

「いや、すまん。連絡しなくて」と来る。


Sは勘違いをしている、というのをこの一言で判断した。


わしは、Sが連絡をしなかったことを怒っているのではなく、そしてそもそもSに対して怒ることが主眼にはない。


頭が空っぽの馬鹿と付き合ってるとこちらも馬鹿になるから、もう付き合わない。そう思っただけだ。


日蓮が言っていたそうだが、「悪知識を遠ざけ、善知識に近づけ」という風なことを。

某宗教団体の解説だか例え話だと、「知識」とは友人のことで、簡単に言えばいい友人を持て、ということになる。


Sにとってはちっぽけでつまらんことにこだわるわしは「悪知識」である。

そして、Sはわしにとって上記の事件から推し量るに、「悪知識」である。


お互い、日蓮とやらの教えに乗っ取って、「悪知識」を遠ざけるべきであろう?

という皮肉は昔考えた。



状況を考えず、自分の感情を正当化して物を言う。まあ、まったくわしにそういうのがないとは言わんが、上記の件だけでなく、Sには目立つ。


記憶違いで有る可能性が高いが、「俺は空気読まないんだ」というようなことをなんだか自慢げにほざいていた。


空気を読まないのではない。何も考えずにただ感情に任せて場当たり的なことをしでかすだけのクソガキなだけである。


少しは頭を使うことを覚えるべきであろう。

空気を読まないとう反知性はつまり、別にカッコイイわけでもなんでもない、ボケて条件反射だけで動くヒトガタ動物に成り下がっているだけである。


反知性が過ぎれば、「汎痴性」に至る。この「汎痴性」というのはわしが語呂合わせで作ったもの(つまりダジャレ)なので、調べないように。

それはともく。

「汎痴性」が自慢だとは嘆かわしい男である。嘆く必要はないが、こんな男の嫁はアワレだし、後は授かったかどうかはしらんが、その子供というのはまた嘆かわしい、「汎痴性」の申し子となること請け合いである。


「汎痴性」万歳!「汎痴性」よ、長しえなれ!


嫁と子供(いるかしらんが)をけなしたくはないが、知性のないものが知性を授けることなどできぬ相談。

せいぜい、「汎痴性」を称揚し続けるがいい。


お前なんぞ「興味も無いし、関係ないから」な?


では、よき終末を。


キャッチボールの甲子園

2015-06-13 | 雑記
今日も今日とて、よくわからない話を、わかりにくい感じでやっていこうかと思う。


ではまず、早速小ネタを。


陰謀論というやつに纏わる話で、「悪魔崇拝」というのがある。

別に現代だけに限った話ではなく、大昔からあるのだが、そこは興味があればお調べいただければ結構。なかったらなかったで問題ない。


ま、具体的なところを言えば、例えば人をカミ(この場合は悪魔となるが)に生贄として捧げるというもの。

サバトだとかの悪魔を呼ぶ儀式だとか、ああいうやつである。

で、生贄に捧げた生き物を参列者だとか、神官だとか巫女にあたる人たちがむさぼり食うという流れだったりする。

ジョルジュ・バタイユの著作などの、供儀(くぎ)についての記述にも同じことが書かれており、悪魔崇拝の儀式とは流れを一としているようである。

そのあたりの話を細かくしたら、そもそも小ネタじゃないので、さっさと本題へ。

さて、その現代でも裏で「悪魔崇拝」の儀式をやっていると指摘されている方々。世界の支配者といわれているよーなお方や、そのお仲間方。

悪魔崇拝で最も捧げるとよい、というのが子供だったりするそーだが、それを貪り食うところまでやっている、といわれている。

そこは好きにしてくれ。好きにして欲しくは無いが、わしにどうこうすることは出来ぬ。

じゃあ何が問題だと。

それは・・・普段はベジタリアンだとかやってるくせに、供儀の肉はむさぼり食うんだとか。


以前に何度も書いたが、チンパンジーも、まるで生贄の儀式でもやって狂乱状態になったかのように、他の哺乳類を捕まえて貪り食うことがある。

ゴリラやオラウータンといった、他の霊長類にも確認されていることだそーな。


悪魔ってなんですかねぇ?魔女の見分け方とかは、異端審問の時代にあったそーだが、言ってしまえば「普通の人と違うことをしている」ではある。

これ以上言うと蛇足だが、笑える話ではないかな。



そういえば、わしに「アヤワスカの儀式を日本でやる予定なので参加しないか」などとたわけたことを言ってきた奴がいた。

ああ、これもきっと悪魔に違いない!

それはともかく、それを聞いて思ったのは、一つのダジャレだった。

アホデスカ



さて、この手の話は最近なーんにも調べていない。時折、わしより詳しい人に雑談交じりに聞くだけであるので、終わりである。

そもそも小ネタといったしな。


オンラインゲームをやっている、と書いた。大昔のこのブログにも、なんちゅーゲームで、ゲーム内でこれこれが手に入ったぜ!みたいなことをやっていたものである。


ゲームっていうとワカラナイと言われるので、たとえを交えつつやるが、オリンピックで一位になると、金メダルがもらえるだろう。

もしくは、公式大会で記録を更新すると、名前が載るだとか。

オンラインゲームというのは、それに近いものがある。オンラインでなくてもゲーム自体にそういう大会もあったりするので、まあ、なんでも一緒ではある。


ゲーム内のほうに話をもっていって例えていくとすると、ゲーム内のとある場所に珍しいアイテムがある。

行くのも大変というのもあれば、繰り返しやるのは簡単だが、必ず出るものではないので何度もやらねばならない可能性がひどく高い、といった具合である。


行くまでの、いってしまえば資格を手に入れるのが大変だったりする。甲子園に行くには、地方予選を勝ち抜かなければならない、というのと同じである。

オンラインゲームというのは、運営がデータを配布して、新MAPだとかアイテムだとか、システム拡張をしていく。

全世界のゲームを見て知っているわけではないので、今やっているもので言うが、大体、目玉というのは、「甲子園で優勝を目指す」ようなところにあるものを示してくる。

甲子園で優勝を目指すとしたら何をするか?

毎日野球の練習をするわけである。で、試合をやって勝ち上がってとなる。

試合、と書いたが、例えである。「行くのが大変な場所を進んでいく」というのと同じである。

同じく、繰り返しは簡単だが、必ずしも出ない(勝てない)ので、繰り返すだとか。

甲子園を目指して頑張ったからといって、皆が優勝するわけではない。当たり前のことをなぜ?と思われるが、重要である。

オンラインゲームの「甲子園」というのは、春だとか夏の期間に開かれる、といった類のものではない。そういうのもあるが、言ってしまえばいつでも甲子園を目指せるというわけである。


さて、野球をやっている人間は、皆、甲子園だとかプロ野球を目指すものなのか?

違う。目指して挫折したやつもいるが、草野球チームで野球自体をしている人もいる。

甲子園に行くやつらや、プロ野球以外は野球ではないのか?そんなわけないだろう。


そこで、だ。


今やっているオンラインゲームで、期間限定のイベントが始まった。

「甲子園での優勝」には劣るが、それなりの報酬がもらえますよ、皆さん奮ってご参加ください!というわけである。

それこそ、キャッチボールとティーバッティングしかやってない人でも優勝に近い状態になれます!というノリである。


で、いざ始まったらどうなったか。


毎日キャッチボールを何回かやっていけば、期間の終わりくらいにはもしかしたら「優勝もどき」が出来ますよ、という流れですら無理だ、と文句が出て、難易度を緩和することになった。

その緩和自体は、予想通りといったらおかしいが、推測していた状態よりも厳しい状態ではあったものを提示されていたので、むべなるかなとは思う。

キャッチボール何回かで済んでいたものを、さらに走りこみもやらないと駄目です、などといきなり出されては困るといえば困る。
以前には、走りこみしない分をキャッチボールの回数上乗せで、みたいなことをしたのに、なくなっていたからだ。

それ以前のいつでもいける「甲子園」を目指していた人には、元々しんどくはないレベルではあったが。

この辺りは匙加減が微妙である。とはいえ、本当に「キャッチボール数回で優勝」なんぞとやられたら、どう思うか。そう望むとどうなるのか。

緩和とは言うものの、上に書いた「走りこみが足りてない分を、キャッチボールの回数で上乗せ」という、前のものに戻っただけではある。
大差ない緩和といえばそうだが、緩和には違いない。


そこで思うのである。


普段、走りこみもノックも受けてないようなやつが、「甲子園の優勝」なんぞというものを味わってどうするのだと。


そもそも、いつから皆が皆「甲子園で優勝」できると錯覚していた?



とまあ、わかりにくい例え話で続けると、こちらも面倒になってきた。



運営は「本式の甲子園ほどではないですが、頑張れば優勝できますよ」といった。

するとどうなったか。普段、キャッチボールしかやらない奴まで「キャッチボールだけで優勝できる!」と乗り込んできて、実はそんなわけないのに「ひどいノルマだ!」と騒いだり、騒いでなくても文句を言ったりする。

キャッチボールを頑張っている人は、キャッチボールをやればいいのである。キャッチボールの甲子園があるかしらんが、そこを目指せばよい。



ああ、結局わけのわからん例えだった。


はい、気を取り直して。



痩せる薬です!効果がありますよ!などと実際に書けば、取り締まられたりするのだが、そういい切ってはないが、そういっている様に聞こえるところで宣伝するものである。
テレビの通販の下の方に、「※個人の感想です。効果には個人差があります」と小さく出ているだろう。
あれをでかでかとやって人が欲しがるわけがないのである。


普段、楽しくキャッチボールして野球を楽しんでいるのに、いざ「甲子園での優勝気分に近いものが味わえる」などと言われたら、飛びつく。

甲子園に行くまでに、何があるかお忘れか?わからんわけじゃないだろう。



わしは別に、「甲子園に行けるよう努力しろ!」などというつもりではない。そーいいたいように聞こえるだろうが、違う。


楽しくやってるキャッチボールがお前の「甲子園」だろうに、なんで他の「甲子園」の定義に馴染めないからと文句を言うのか?


場合によっては、そのキャッチボールすら、満足に出来ない人もいるのである。「甲子園」どころじゃない。


つまり。

幻想に踊らされているだけである。「人によっては痩せます薬」を買って、痩せなかったと文句を言うのと同じである。

キャッチボールすら満足に出来ない状態の人は、練習場に来るだけでも大変である。

お前のキャッチボールをうらやましく見ているかもしれないと言うのにな?


キャッチボールで実は満足していないのにずっとやっているのか?

だとして、キャッチボール数回で優勝したら、本当に満足か?

したいのは優勝か?キャッチボールか?キャッチボールの片手間で得られるものでは満足していないのに、キャッチボールに甘んじているのか?
なら、キャッチボールを止めてしまえ。止めたくないのなら、本気でキャッチボールを楽しめ。ありもしない「甲子園の優勝疑似体験」なんぞに耳を貸すな。

本当の満足は、どこぞの誰かが言う「甲子園」には存在しない。


優勝したから嬉しいのではない。優勝するまでの道のりを振り返ったら嬉しくなった、である。

優勝の円陣に飛び入り参加したら嬉しいのか?そういうんだったら別に文句は無い。

されば永遠に幻想に振り回され続ければよい。「キャッチボール数回で優勝の甲子園」の夢でも見るがよい。

人によっては、その「キャッチボール数回」すら、夢のまた夢であるがな。






と、まあこういう風なことを感じたわけである。某オンラインゲームのイベントの緩和についてみただけでは、わざわざ書くことも無かったが、「満足してないのにキャッチボールやら球磨きに甘んじている奴」が目の前にいたので、つい書いた。


キャッチボールや球磨きに充実しているのなら、わしも何も思わないし、寧ろ「満足されているようで何より」と感じることしきりである。

そういうやつこそ「甲子園」送りにしたいものである。いや、イジメじゃないゾ!



わしの方が欲の皮突っ張ったように「甲子園」目指してアホみたいになってやっているように見えるし、実際そうだとしか思わん。

わしにとっては、「甲子園」に行くのが「キャッチボール」なだけである。


そんなもんよりよっぽど欲の皮が突っ張っているのが、己の「キャッチボール」を嫌々してるくせにどうしようともせず、「甲子園の優勝」を夢見るだけのやつである。


禅問答で、「暗い道を歩くにはどうしたらいいか」というのに、こう答える。

「看脚下」つまり、足元を見よと。


キャッチボールを楽しむにはどうしたらいいか?と聞かれれば、こう答えることにしよう。

「看掌球」つまり、手のボールを見よと。


ボール見ずに「甲子園の優勝」とかいうものを見てるなら、楽しいわけがない。


キャッチボールを楽しくすることも考えず、もしくはそれを止めて別のことをするでもなく、渋々やってるキャッチボールで優勝する夢を見る。

キャッチボールを楽しむことも改善する気も無いやつが、優勝したところで心の底から嬉しくなれるわけが無いのである。

そもそも、何をやっても楽しくないから、出来ること自体が実はありがたい、キャッチボールすら楽しくないのである。

次から次へと文句だけは生まれる。それは、キャッチボールの回数を凌駕することであろう。

キャッチボールをするかの如くに文句が生まれるのである。

文句を言うためにキャッチボールをしてるなら、野球を止める方が身のためである。





運営も、「甲子園の優勝気分」を宣伝する以外に人を集める手段がないのは、商売のつねではあるとはいえ、そもそもの「甲子園」がガタガタなのを無視している。
そこを指摘しないではいられないが、ともかく。


そもそも、「甲子園」は優勝気分を味わいに行くための場所ではなく、野球場である。(そもそも野球の話じゃないが)

野球をやりたくない、もしくは気が進まないというような奴が、「甲子園で優勝すること」に喜びを見出す方がどうかしているのである。

野球をやれ!野球を!キャッチボールをしろ!野球やりたくないのに野球で優勝したいなんぞ、アホである。(そもそも野球以下略)




あーもうなんだ。一生分くらい甲子園と書いた気がする。


書きながら読み直しているが、なんの話かよく判らなくなってしまった。


ゲームにしろ陰謀論にしろ、わしが気になるのは人の心とやらがどこを向いているか?である。

だから、ゲーム仲間の中傷が目的ではないし、例えで書いたのだが、野球の話にしか見えなくなってしまった。



最後に。


皆が皆優勝するわけではない、と、甲子園の例で書いた。

優勝が野球の目的でそれが唯一の喜びなら、この世界に何人が味わっているのだろうか?

唯一の目的であるなら、どうして味わった存在は野球を止めないのだろうか?

優勝という結果だけを見たなら、とても喜ばしく見えることであろう。だが、そんなものはまやかしである。

幻想を振り払うためにも、別にゲームだけでなく、野球のことだけでもないのだが、「看掌球」をしてもらいたいものである。

では、よき終末を。


何をやったらいいのか、という問いかけ

2015-06-01 | 雑記
このブログは何のブログか?と問われれば、別に修行していたわけでもないのに仙人呼ばわりされる、どこにでもいる変わり者なありきたりの人類が何やら書いているところである。

長ったらしいので言い換えると、何かを伝えるのが目的ではなく、伝えること自体が目的である。理由があって書いているわけではなく、書くのが理由である、と言えばいいか。


と、妙な前置きをした。


つまり、別に健康のことを言うのが目的ではないし、どこぞの真理教の教祖と見まごうほどのコウゴウシイお方の偉業を書き連ねる場所でもない。


というわけで、ゲームの話でもしようと思う。


ああ、その前に。


ラヂヲはもうやらん。あれは近所迷惑である。では、近所迷惑でない状況になったらやるのか?というと、それもまたノーである。

あんなあほらしい話を毎度毎度やってたら、わしの近所たるわしの精神に迷惑がかかる。だからやらん。まだ文章にした方がマシだから、ここへ代わりに書いてきた。



では、昔話的でもある、ゲームの話をする。といっても、昨今のゲーム業界の話だとか、最新のゲームの話だとか、今やっているゲームの宣伝やら勧誘でもない。



さて、このブログを始めたのは、とあるゲームをプレイしていたことがきっかけとなっていた。そのゲームがどこの会社のなんというゲームで、というのは関係がないので省略する。

オンラインゲームというもので、同じ時間、同じ舞台を、ネットを介して他の人と共有するというものである。

生放送のテレビを皆同時に見ていることになるのと同じといえば同じである。それが放送を見ているのか、ゲームとなっているのか、の違いでしかない。

まあ、昨今のテレビのデータ放送なるものだったか、「放送終了後にキーワードを書いてはがきを云々」というのに代わって、リアルタイムにリモコンで投票したりだとか出来るので、オンラインゲームというのはあれの拡大版であるといえば良い。違う気もするが、仕組みとしては大して変わらん。


それはさておき、今も現役でオンラインゲームをやっているわけである。このブログのきっかけとなったもののシリーズというわけで、その当時に知り合った仲間と、以前よりは数が減ったが、何人かとプレイしている。


飽きたりだとか、ゲームについていけない(ゲームの内容だけでなかったりもするが)だとか、まあその他の理由でこなくなったり、また戻って来たりする奴もいる。

わしもその口ではあった。理由はラヂヲ、とやらに関わる、コウゴウシイお方の偉業にまつわる話である。

その辺りは関係が無いので省く。


そのゲームが正式に稼動しはじめて、今年で三年を迎える。わしは実は、開始当初にちょっとだけやっていた。だが、その仲間全員の前には当時現れなかった。ゲームはやめるつもりだったからである。

ただ、一人に連絡だけはつけておいた。それで、およそ一年ほど本当にそのゲームはやらなかったのである。(とかいいつつ、別のオンラインではないゲームをやったりはしたが)

で、結局、コウゴウシイお方は単なる脂肪の塊でしかなかったので、くたばりぞこないに止めを刺してやろうと、色々とここで公表してきたわけである。

脂肪確認はしたが、まだご存命である。とある漫画のネタで、死亡確認!といわれた奴は実は生きていて後で助けに来るというのがあるが、上手いこと冗談につなげられないので、ここでやめておく。


ゲームやってようが肉を食おうが、イルミナティに脳みそをおかしくさせられていようが、変わらんのである。それは、例の死亡、じゃなくて脂肪の塊についての話をしてきた時に書いたりしゃべったことである。


別に嫌いになって縁切ったわけでもないので、またゲームの仲間と遊ぼうと思って再開して、今に至るというわけである。

もう戻りえないような縁もあった気がするが、それもまた縁である。


さて、やり始めたらびょーきのようにゲームをするのが、仙人の仕事である。仙人とはいったい・・・。

そんなこんなでやりまくってたら、一年のブランクは物の数ではなく、仲間内で最前線になったようである。

で、もう少し本題に近づける。


仕事で出張だったり、やる気がなかったりで休止したりだろうか(仕事以外での理由は聞いていないし、聞くのは野暮であろう)、メンバーの一人がしばらく振りに戻ってきた。

ゲーム内のたくわえがまったくないわけではないが(わしより一年以上長くいたわけではあるから)、PCのパーツのサイクルよろしく、古くなってしまっていた。

強いアイテムでたらそれ使う予定、とはいうものの、強いアイテムを探しに行くための道のりがさらに険しい状態になったままにし続けていた。

ゲーム内で出来ることはいくつかあるし、実際に色々とお知らせがゲーム内で流れるのだが、ぼんやりしてるのか、普段触るところに追加された項目すらまったく見ていない有様であった。

あちらの環境がどういうものかはまったくわからない(時折、飼い猫がキーボードを乗っ取って、意味不明な言語を垂れ流すことがあることは知っている)ので、なんともいえないが、やる気の欠片もないように見えた。

武具の改造と、簡単に書いておくが、ゲーム内で出来ることの一つで、本当は上級者向けのプレイ項目だが必須になってしまったことも、「よくわからん」で片付けてしまうのであった。


実際はどの武具がいいものかも把握していないようだったので、こちらが出来るとっておきの武具の改造を施してやろうと思い、ある日提案したら、転寝していたのか目を離していたかで、読んでいなかった。

そのままログは他の仲間との話で進んでいった。


さてそのことから数時間ほどして、ある高難易度のステージに行ってみるかと、そこまで本気ではなかったのだが、誘ってみたのである。どういう反応するかと思ったくらいではあったが、提案をなし崩しとはいえ無視されていたのも引っかかっていたのだろう。


こう返ってきた。「この装備だと、さらされるんじゃないかな。」と。


わしは何でかしらんが、ひどく腹が立った。腹が立ったからと言って、上のコウゴウシイ脂肪の塊のように、罵ったりはしなかったが、感じたことをなるべく伝えられるように、しかし、腹が立っていることは確実に伝わるような具合で書いた。
最初に言ったのは「だったら、武具の強化をしたらどうだ?」と。


ああ、そもそも「さらされる」とは何なのかということを。

プレイも頭も煮詰まった人達というのはいるわけである。「ここにパーティ組んでいくなら、最低この水準の装備と動きが無いやつは来るな」といった具合は言葉遣い以外は普通として、それとは違い、某掲示板にキャラクター情報を載せて、「こいつはキチガイだ」みたいにさらしものにしたりする。

ただし。

実際にわざとキチガイな行動で他人の邪魔をするやつもいることはいる。

そして、しょーもない怨恨で、非難されるようなことをしていないやつを「キチガイ」として触れまわったりしていることもある。

どちらにしても、褒められた話ではない。


話を元に戻す。


わしはこう感じていたらしい。

「やる気のかけらもこちらには見せないのに、まったく見ず知らずの相手の目は気にするのか?」と。

「この水準」というようなものは、こっちもある程度やってる以上、見えてくるのでそれになっていてくれるには越したことはない。

まあ、こっちもさらに上級な人から見たらてんで低い水準では有るので、怒ってもしょうがないのではある。そもそも、わしの目指しているものは、典型的な最高ではなかったのもあるが。

例えるなら、昨日始めた人間に数ヶ月やりこんだ状態でないと出来ないものを要求するのはおかしい話である。ゲーム内で表示される、プレイ時間だけでは計れない「時間」がある。

理想どおりのものが揃わなくて、でも少しずつ改善していっているだとか、今までやったことのなかった、上記のこちらが提案した「武具の改造」とは違う、通常だれでも出来るそれを調べ始めたところだ、とか、自分でこれがやりたい、というものが見えてこなかった。

一通り怒ったようなことを書いてから、最後の方にこう書いて伝えた。

「装備がどうとかでさらされるからじゃなくて、自分がどうしたいかしかないんだよ」と。

なんぞと書いてたら、同じくログインしていた他のメンバーまで黙ってしまった。

怒っているとはいえ、その怒りの理由が実はそのメンバー自体ではないというのがあるので、書きながらひどく困ったのだが、遅れてやってきた一人のおかげで事なきを得た。


このゲーム自体にも問題がある。とある会社の経営体制というやつでもあるし、その点のことを書くとキリがない。そもそも、なんというゲームかとは話をしていないし、皆が皆知っていてここを呼んでいるわけでもないので、そこには触れない。

とはいえ、その場で出来ることがあるのに、ゲーム内を(全然広くない街中を)見ることもなく、目の前でチャットしているメンバーにも聞かず、こちらの話も聞かない。

では、何ゆえ「さらし」の目を気にするのだ!?こちらの目は無いも同然に扱っているのにか!?である。


さて、これは別に提案を無視されたことから出たわけでもない。怒りの理由が「そのメンバー自体ではない」といったが、それは後述する。


同じゲームを延々やっていると飽きてくる。たまにはステーキを食べたくなったりするのは人情というやつであろう。

で、そのメンバーは先日、別の会社のオンラインゲームが始まるんで、それが正式稼動したら一緒にやろう、などと言って回っていた。

わしは「ここがメインなんで、完全に引越しはしない」と言った。そのつもりであることは勿論だが、結局上記のような流れになるのが目に見えているから、無駄だと思ったのである。

舞台が変わっても同じことをやるのであろう?と思っていたわけである。

別に、睡眠時間やお金を削りまくってつぎ込め、なんぞとは言わん。言わんが、「目」を気にしてもらいたいものである。さらしの目を気にするのだから、な?


怒ったからといって、そのメンバーを無視したりだとかし始めたわけではなく、改めて後日提案をし、武具の改造を施した次第である。


手伝いはここまでである。この先は自分で、といいたいところだが、まだ先は長そうである。これで多少なりとも何か感じてくれればありがたいところである。

何ゆえ、ゲームの引越しについて、完全には首を縦に振らなかったのか、とか。



さて、ここまではそのメンバー一人だけに端を発する話である。


同じようなことをしている奴が二人いる。もう一人別のメンバーと、あともう一人はわし自身である。

今のわしが現在進行形でやっている、というわけではないが、まあ、過去の話である。

昔話は長くなる。というか、もう今回はかなり長くなっている。辛抱が続く限り、お付き合いを願う。



別のゲームをやっていたときのことである。上のメンバーもやっていたが、交流が出来ないところでデータをお互いもってしまったので、こちらはとりあえず、向こう側にキャラを作ってしゃべりに時折ログインしていた。

していたのはいいのだが、ゲーム自体をやる気になれなくなったので、あちら側に言っては酔っ払ってしゃべっていたことがほとんどになっていた。

誘われても断るくせに、そこで居座ってしゃべっているのである。


上で書いた、メンバー自体に対するものとは違う怒りの原因は、これが念頭にあった。怒ってはいるのだが、当惑していた。

やってることは変わらん。やる気ないのに(実際にはあったかもしれないが)やってきて、ろくすっぽ見てない聞いてない。おまけに断る(通常の武具改造が「わからないから」と言ったり)。

ああ、これはわしが昔やったことをやり返されてるようだなぁ、と思ったのである。

そのゲームでわしがしゃべっていただけの時に、上で怒ったメンバーがいたかは、実ははっきりとは覚えていないが、いたような気がする。


もう一人は改めて何やったかを書く必要はない。内容が被っているからである。

ただ、はっきりと覚えていることがある。

「このゲームで何をやったらいいのか判らない」とのこと。

ちなみに、大きなアップデート(要するにゲーム内容の追加があったとき)の時にだけ顔を出して(それ以外で顔を出していることもあったようではある)、ここ何回かそのたびに言っていた。

先日は「来るたびに言ってる気がするけど」と、前置きして言っていたものである。


わしも大人気ないので、ムッとしたものである。しかし、こちらは戦闘中だったので、怒って何か言い連ねることはなかった。

次にまた言うようなら、こう言い返すつもりである。

「ログインしたんなら、次にやることは決まっている。ログアウトだ」と。

それもあって、上のほうのメンバーに言ったのだろう。「自分がどうしたいか。それだけなんだ」と。

ちなみに、こっちの相手には不機嫌な感じで、「やることがあるからといって、それをやるかどうかはまた別の話だ」と、一言伝えておいた。


このゲームの構造は、ゲーム以前の問題も含めて、色々と酷いとはいえ、そんなしょーもない言葉聞いているこちらは、「これをやろう、あれをやろう」と思ってやっているのである。

ちったぁ、相手を見てものを言うことを覚えたらどうだ?


そいつは漫画書きである。職業ではなく副業的な、いわゆる同人作家である。現在進行形かは不明である。

その後、こういうことを思いついていたので、ここに書き記しておく。今もここを読んでいるかは知らんが。

「お前は、真っ白にしろ書きかけにしろ、原稿用紙を前にして、「何を書いたらいいのかワカリマセン」なんぞといつも言っているのか?」と。

そうだったら別にかまわん。好きにしてくれ。



さて、結局人を罵るようなことを書いたが、わしも大してこの二人と変わらん。まあ、同じである。



わしは、ただ、皆と楽しくゲームをやろうと思っていただけなのである。

このゲーム自体が、ユーザーから金を如何に毟り取るかにご執心でそれが露骨だとは言え、舞台は舞台である。

相撲取りが髷ゆってマワシを締めて土俵で相撲を取るのと同じで、ひどい舞台ならひどい舞台なりにも必要なものがある。

そして、もう書いてしまったが、上の二人に共通して欠けていたものがある。

「何をやったらいいのかわからない」という問いがそれを表している。

問い、と言ったが、要するにイイワケである。


このイイワケは、遠くを見て目の前を見ないから出てくるのである。


目の前の人の目は気にしていないのに、遠くの「さらし」の目を気にする。

何をしたらいいかわからないといいつつ、言われずともログアウトすることをわかっている。


わからないわけではないだろう。言われずともわかっているはず。それを唆したのは自分ではないのか?と。



さて、とりあえずは、前者については一応問題は解決した。

もう一人には、例の皮肉をぶつけてやろうかと考えているが、さてさて。

では、また来年。