ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

常無の神

2018-02-25 | 雑記
堅苦しい話ばかりしていては、何人いるかは判らないが、お読みの方々も肩が凝って仕方がないかと思われる。

そこで、今日は漫画の話をすることにした。勿論、罠である。


手塚治虫に、『ブラック・ジャック』というのがある。有名なので、どんな漫画なのかは言うまでもないだろう。


サブタイトルやらはすっかり忘れたが、こういう話があった。

とある会社のワンマン社長が、事故で植物人間になった。

役員は「社長があれではもうダメかもしれない」などとその社長の病室で語り合う。

すると、その社長は何やら息苦しそうにする。すぐさま医者が呼ばれ、容態を確認するのだが、異常は見当たらない。

度々起こるのに、容態に異常はまったくないというのが続くので、その病院にいた、ブラック・ジャック(略称BJ)の知り合いに、「ちょっと診てくれないか」と頼まれ、BJは見に行く。

植物人間状態はまったく治せる見込みがないのを確認した後、BJは、その社長の妙な呼吸を観察すると、何やら閃いた。

社長は、完全な植物人間ではなく、耳は聞こえているが、言語器官を使っての会話が出来ない状態だったので、呼吸をモールス信号の如く、何回吸って何回吐くで例えば「さ」という風に伝えようとしていたのである。

BJはその表を用意し、社長に語りかけると、異常と思われた呼吸で返事をし、その表と照らし合わせた通りに解読すると、きっちり会話がなりたっている。

「皆に伝えるんだな。まだ社長は健在だと」とかいう風な台詞で、その話は幕を下ろす。

めでたしめでたし。


もうここで終った方が発砲、じゃなくて八方丸く治まるのだろうと思うが、続ける。



実家は創価学会だと、もう嫌になるほど書いてきたものである。

宗教というからには、何やら救いだとかを求める人が集まるわけで、そういうものの方法だかをやっているわけだ。

具体的には、朝晩に仏壇の前で勤行。法華経の一部を抜粋したのを読誦し、その後は題目を唱える。「南無妙法蓮華経」というやつだ。この時間は任意。

何やら願掛けして、毎日一時間だとか三時間だとかやっている人もいる。

他には地域の定期的な集まりで報告しあったり、新聞の勧誘をやったり、選挙になったら公明党及び連立相手の自民党の候補を応援しに、なんでか県外まで出かけていったり電話をかけまくったりして、迷惑がられるという試練をがんばったり、創価学会の書籍を買って地域の本屋に貢献して、創価学会を表彰してもらったり、本当は最低限度額は決まってない(らしい)お布施の限度額を暗黙の了解で決めてたりと、幸せのためには持ってる金使え!という感じである。

我が父は「世の中は金で動くけど、創価学会は金で動かんから、皆こわいんや」などと言っておったが、上記の書籍を買って表彰は、冗談ではない。

家に転がっている、捨てるのも面倒だが、断るのはもっと面倒ななんたら新聞。ある日付の一面に、ワカヤマの本屋の協会から表彰された、なんていうのが載っていた。

本屋なんぞというのは昨今は都会ですら潰れたりするのに、人、特に若い人が少ない田舎で「書籍文化の振興に貢献した」なんぞという空々しい文句を、誰が信じられるというのか。

世の中は金で動いている。そして、創価学会は金で動かしている。知らぬは、否、考えぬは信者ばかりである。


おっと。別に親を愚弄したいわけではない。


上の「どういうことをやっているか」の部分だが、こういう修行をやっていって幸せになれるのだ、と言っているわけである。

もうここまで言えば判るだろう。

冒頭の漫画の話を思い出してもらおう。人として会話は成り立つが、それ以外は人としての機能は成り立たない状態である。

仏壇の前にも座れない。目も見えないし、声を出して勤行なんぞ出来ない。社長さんなんで、お布施は出来ようか。

彼らは言う。「これこれやらないと、幸せになれないのだ」と。

では、上記の社長を創価学会に勧誘して、「一緒に幸せになろう」なんぞとやりにいくのか?やらんと幸せにならんという項目はほぼ出来ない相手に?

精々、面と向かって言うかは知らんが「仏罰が当たったから植物状態なんだ」とやるのが関の山。

そんなものが真理か?一切衆生を救うとかいうのが目的ではないのか?

敢えて言うなら、その社長にいたかは知らんが、奥さんを勧誘して学会活動をやらせるといったところだろう。


さて。実は創価学会の批難をするのも目的ではない。そもそも、団体名と実践内容の名前を変えたら、どこでも同じになる。


以前書いたが、「身体不具の健康法提唱者はいない」とやったものである。

先日書いた、然る自然賛美者もそうだし、それが参考にしたフルータリアンのスポーツドクターとやらもそうである。

食って体を動かすのが健康だ、というのがそのスポーツドクターの趣旨である。フルータリアンをやっている上で、である。

これも書いたが、「五体不満足」の奴に、それやらんと不健康だ病気だなんぞと言うのか?

例の「五体不満足」の方は不埒な奴ではあるが、健康ではあろう。何せ、不倫できるくらいだから。

まるで「三食バランスよく毎日食わないと不健康になる」と宣伝しまくっている、日本の栄養学と同じである。

それは、いや、それらは、「我が姿こそが真理を体現している」とのたまっているが故なのである。

このような姿を人間らしいというのならば、それこそ冒頭の植物人間であれ「五体不満足」であれ、それらは人間ではないと断ずる、レイシストも裸足で逃げ出す差別主義者であり、まったくもって人道にもとる行為である。その上、無自覚である。

また一方で、そのような姿や行為を「人間を超えた」だとか言い出すというのならば、それこそ矮小で小賢しい人間の姿そのものであると言う外ないのである。

「真理を得た」とのたまう姿は、神様気取りであり、その神は、人の数だけ存在するといえる。まさに八百万の神状態である。

本当に人間を超えたかったら、己が内の神を超えなくてはなるまい。娑婆は神の巣窟である。

そういえば、神無月というのがあるが、あれは出雲では神有月という。その時、出雲には神様が集まっているからだとか。

ニーチェは「神は死んだ。我々が殺した」と述べた。その神は死んだ。しかし、あの神は健在である。

なぜならば、娑婆は年がら年中、神有月なのだから。


では、よき終末を。


脱臼が治らない

2018-02-22 | 雑記
拙の弟が病んでいる、という話を書いたかは忘れたが、ともかく病んでいる。

病状は欝。飲む、打つ、買うも常軌を逸しているなら病気といえなくもないが、そんな冗談は措く。

今年の頭に、働き口を見つけて働くことになったと言っていたのだが、今月の頭かそのぐらいに、弟から電話があった。

何事かと尋ねると、仕事がしんどいのだと言おうと思った、とのこと。

何やら喋り始めたところ、夜の八時過ぎだというのに来客があったらしく、慌しく切っていった。


その後、また電話があるかと思っていたが、中々来ない。親に電話して、こちらの休みも大体同じだから電話するならその時にしろと、遠まわしに伝えたら、案の定、母親に「メールしたらいいのに」と突っ込まれたものである。

言われるまでぼんやりとしたものだったが、そういう状態の奴に直接いう方が酷な気がしたからであるが、業を煮やしたので、後日メールはした。

それで一週間ほど経とうというのにしてこないので、こちらから電話することにしたら、案外あっさり電話に出たものだった。

その時は丁度、病院に行っていたという。まだ薬を貰っているのかと聞くと、そうだと答えた。

薬は飲むべきか飲まないべきか、というと、所謂陰謀論方面の話ならノーとなる。

一時期ここでも紹介した、キネシオロジーという、意識にアクセスして物事を判断できるとか言われている方法を実践している人の立場から言えば、イエス、となる。

では、拙の立場はというと、症状が死ぬほど辛いなら、飲んで動けるようにしたほうがよかろう、である。

体もまともに動けない状況では、精神も動けまい。そうしてから「何ゆえ己は病んだのか」を理解していかなければ、飲む飲まないのどっちが正しいともいえぬだろうと、弟が薬を飲んでいると聞いた時に、ふと思ったものである。

これが骨折なら、麻酔で痛みを紛らわして治った気になったら、間抜けであろう。足の骨折なら運んでもらうとして、腕の骨折なら、気絶してなければ自分で治しに行く。

そこでギプスなり整復して、治療に持っていくわけだが、治すのは自分の身体である。

動けないほど辛い場合なら、骨折の例えで言う、ギプスの役割ぐらいにはなろうというわけだ。

敢えてどちらの立場かというならば、飲むな、ではある。飲まないに越したことはない。

西洋医学は投薬をギプスとは思っていないからである。


風邪の話を持ち出すが、野口整体では、風邪は自然治癒の働きで、邪魔するのはよくないという。

体の偏りを正す働きなのだとか。両足でそれぞれ体重を量る仕掛けで風邪の前と風邪の時の体重を計ると、前後で重さの偏りが違うという。

その人が普段どのように身体を使っているかで、その偏りは変わる。そして、ある水準を超えると、風邪を引いて元に戻そうとするわけだ。

欝は心の風邪と呼ばれたりするだろう。

ならば、風邪と同じで、身体の偏りが起こっているといえる。身体と野口整体でいう場合は、心と体を両方併せ持った意味となる。仏教では心身一如と言っている。

欝の原因がストレスというならば、そのストレスをどう受けてどう反応しているのか?これを自身で理解していかなければ、いくら投薬しようとも無意味である。

むしろ、そういう意味では投薬は害悪となる。骨がくっついた箇所にギプスをはめ続けるのと同じである。


拙の知り合いで欝だった人は、同時に胃薬も貰っていたという。その方は胃の異常が欝の原因だったという。

欝は精神の病気ではなく、肉体の異常が、野口整体で言うところの偏り疲労が現れた、器質的障害なのだろう。

まあ、例えのつもりだったが、骨折と変わらんといえる。

骨折ならあれだが、脱臼ならわかり易いかもしれない。よく、脱臼は癖になると聞いたものだが、それはつまり、その人の不意の動きに現れる癖が、脱臼を呼び起こし、かつまたそれを理解しないから、同じ事をうっかりしでかして脱臼しているのだと。

心の風邪であり、心の脱臼というわけである。


欝だけでなく、我々は常に心の脱臼をしているようなものである。

それが例えば、神様気取りだったりするわけである。本人は気取ってないつもりだろうが、脱臼した己の似姿を神として投影しているという指摘は散々やってきた。

そして、外してはくっつけ、また外してはくっつけと馬鹿を繰り返し、くっつけただけなのに「脱臼は治った」と喚いているのである。

これがもっと大きくなると、民族や社会といったもののうちに潜む悪癖になり、これを司る現代社会に大きくのしかかっている存在についても、前回と前々回に触れておいた。


脱臼を治した後は、脱臼してしまうその癖をどうにかしないといけないのに、わざわざ脱臼しに行くというのが、脱臼自体ではない人間の宿痾なのだといえる。


悪人正機ならぬ、善人脱臼とでも呼ぶことにしよう。

悪人なほもて脱臼をとぐ。況や善人をや。元と入れ替わったのが悔しいが、よしとしよう。


では、よき終末を。


言葉は壁

2018-02-20 | 雑記
改めて、というほどではないが、前回の記事を振り返れば、結局いつも言っていることと変わりはない気がする。

要約すれば、枠組みから外れていないのに、まるで脱却出来たかのように思っている上に、その枠組み内で、否、むしろその枠組み内にいるからこそだが、こちらは正しい、あちらは間違っている、ということをやっているだけだという話である。

漸く、要約できたなぁ、などとふざけても仕方ないので、もう少し補足を。

何ゆえああいう風に考えるのかという所を詳しくいうならば、そもそも理解している人なら読んだら、というより既にわかっているだろうが、それはというと、「人間は素晴らしい」という既成概念である。

キリスト教は、神が自身に似せて人間を創ったから素晴らしいのだ、という。

あさりよしとおの漫画に『るくるく』という、宗教を扱った漫画がある。その中で、下級天使のキャラがいて、「神が創った人間は完璧なんだ」みたいなことを言って、まわりに馬鹿にされるというのがある。
二足歩行したせいで腰痛になったりするのに、どこが完璧なんだ、と吹きだしではない台詞で皮肉っていたものである。細かい台詞やらは本当に忘れたのだが、そういう内容である。

前回にも触れたが、現在の人類には原罪があるからよろしくない、ともキリスト教は言っているのかはしらんが、これも有名なところ。

それから振り返ってもらおう。神様と言っていないだけで、あれらの論理はまるっきり変わらないのだと。


オカルトやらスピリチュアル的な話になるがもう少し。あれらもかつて触れていた話なのだが、地球というのはロクデナシの魂が集まった、いわば監獄なのだという。

もしそうだとして、監獄としての地球に最初に収監されていた人類の祖先というのを神様と見なすというのは、ただのコンプレックスの裏返しでしかないのでは?となる。

そしてもう一つ。キリスト教は白人の宗教である。神に似せて創られた人間というのは、すなわち、白人を指している。

何ゆえそうなったのかは前回は触れてないのだが、そもそも、白人は黒人のアルビノの末裔である。

黒人に迫害されていた白人のコンプレックスの裏返しでもって出来上がったのが、キリスト教なのだといえる。

だから、キリスト教の神は白人である。ただ、大昔は大雑把にキリスト教などと言っても白人だけのものではなかったので、ある地域のマリアの肖像は肌が褐色だったりする。発生直後のキリスト教と、現代のものは完全に同じではないのかもしれないが、その辺りは余談になるので、上記の理解でよろしい。

「人間は素晴らしい」という思い込みは、その思い込みの基準からしたら「人間」らしくない存在は人間ではないという理屈とセットになる。
上記の白人のための白人によるキリスト教の歴史を紐解くまでもないが、つまりは選民思想になるというわけだ。

先ほども触れた、地球が牢獄というのから、考えてみよう。囚人同士が、「俺は一人しか殺してないから、三人殺したお前よりマシだ」などと罵り合っているようなもので、余りにもバカバカしいというのは想像がつくだろう。

こういう見方は、何も今に始まったわけではない。昔も触れたが『歎異抄』に、悪人正機というのがある。

善人なほもて往生をとぐ。況や悪人をや。という一説は、他でも聞いたことがあるだろう。

宗教学者のひろさちやが解説しているが、悪人というのは、この世に生きている人全部を指している。うっかり悪事を働いたり、人を傷つけてしまったりと、本来皆悪人なのだと。悪人といっても、大量殺人鬼だとかそういうことだけを指しているわけではない。
善人というのは、そういう人間の情けなさやバカバカしさを自分も持っているのに頬かむりしている、偽善者だという。

そんな悪人より救い難い善人ですら往生できるから、悪人が往生できて当然だ、という意味である。

地球を牢獄だと見立てた話で続ける。そこにいるのは「悪人」である。

「俺は一人しか殺してないから、三人殺したお前よりマシだ」などと言い合っているのを見たとして、どう思うか?

どっちも同じだろうと。


そのようなわけで、「人間は素晴らしい」とかいうつまらん思い込みは投げ捨てるに限るのである。

良いとか悪いとかというのは、上の囚人の罵りあいと変わらんのだと。

とはいえ、牢獄内で殺しを犯した、とかなれば、刑が重くなったり、死刑になったりはするので、そういう意味での良い悪いは当然ある。ご注意を。


本当は別の話をする予定だったが、長くなってしまった。が、続けてしまう。


先日、去年の六月ごろから再開していた、オンラインゲームにログインしなくなった。一週間近くなる。

そもそも始めた理由は、大っぴらには「家から出ないようにする理由作り」だった。

ここで触れたかは忘れたが、大っぴらでないほうは、自宅で書いてる妄想駄文のキャラに、そのゲームのプレイヤーキャラを使ったので、どんな顔だったか見に行こうと思った、というのもある。

なんのゲームかというと、S○GAのPS○2である。知っている人は知っている、キャラクターメイクが優秀なゲームなので、なかなか凝った姿を作れたりする。

あれの4つ目のシナリオの舞台が地球で、ゲームだと思ったら現実だった、という流れのものになっていたのもあって、つい書いてしまったのだが、そこは余談である。

さて、ある日のこと。

公式HPには、予定表がある。年次改革要望書、ではないが、この日の何時にこのイベントがある、と一週間書かれている。

その週だけのブースト企画で、敵を強くする代わりに手に入るかもしれないアイテムの出易さやらを調整したイベントがあった。

高級品は、わざわざ出現時に画面の真ん中へ「RARE DROP」などと表示し、最高、もしくはその一個手前なら、文字の色と効果音まで変えてお知らせしてくる。
現物だったり、種類だけは拾う時には判るが、どういうものかは鑑定にかけないと判らなかったりだが、最高級、もしくはその一個手前は虹色に光る。
今後のアップデートでさらに上のランクが出ていたら、今の説明はちょっとずれることになるが、気にしないで頂く。

というわけで、昔からの付き合いの仲間一人と出撃し、粛々とアイテムを拾い、鑑定を済ませた後、拙はいった。

「虹は雨上がりだ!宇宙にはない!」と。いい物が出なかったと、捻っていったわけだ。

虹については、長々と説明した上の件である。別にオリジナルの用語ではなく、界隈では略称で虹と呼ばれたりする。上記のブースト企画は、そういうのが出易くなるよう調整したものであった。

宇宙は、そのイベントの戦闘場所が宇宙空間だったからである。ゲーム内で設定されている地球やら他の惑星上ではない。天候の設定があって、場所によっては時間経過によって雨が降ったりする設定がある。

別に言ったことを全部理解してもらう必要もないので、「いいものが出なかったんだろうな」ぐらいで受け取ってもらえればいい話なのだが、何故か突っかかってきたのである。

「何の話かな?」と。これ自体は突っかかりとはいえないが。

そりゃ、さっきのイベントの話だと返し、上のような説明を簡単にした後、こう返してきた。

「もっと通じるように言葉を選んでもらえないかな」と。

今思えば、相方のその時のキャラがシャーロックホームズをパクった台詞をやっているキャラだったので、そう突っ込んできたのかもしれない。ロールプレイというやつである。平たく言えば、なりきり。

わからんのなら、ああそう、で流せばよかろうと返すと、そっちがそれでよければ、そうするけども、という。

そこで不思議に思ったので、いつもの壁(物陰から覗き見しているアスキーアート。相方は辞書に登録して、「かべ」を変換してだせるようにしてあった)がそういう意味ではなかったのか?と問うてみると、こういう。

「あれは突っ込み」だと。

そして意趣返しで、「言葉にしなければ通じないと思うがねぇ?」と嫌味たっぷりに返して、それから別れの挨拶をして終わり、それっきりという流れになったものである。
それを持って辞めた、というより、以前から上記の言い訳が無意味だと感じていたのを、そのやり取りが後押しして確信にした、というところか。
そのやり取り自体も不毛だったし、楽しんでいるならまだしも、そもそも楽しむのが目的で始めたわけではないという不毛な理由なのだから、不毛の二乗が功を奏してしまったようである。


拙の上記の突っ込みも辛辣であろうし、その日は何か嫌な気分がしていたので、そこはかとなくイライラしていたことも覚えている。通じにくい発言だけでああいうやり取りになったわけではなかったのだろう。
仙人などと呼ばれたりすることもあるが、飽くまで悪人であるゆえ、半ば八つ当たりをしたりするわけである。


そのやり取りの後日に思い出したが、その件のAA(アスキーアート)が突っ込みになっていなかったという件があった。

別の人物とのやり取りで、詳しい内容は知らんが、別のゲームかアニメだかのキャラの話をしていたのだろう。そこで壁の人(今思いつきでつけた)が、話に呆れたのか、件のAAを出した。

すると、「突っ込まれた」方は勘違いして「なんだ、興味あるんじゃないか」とやり取りしていたものである。

そのAAが突っ込みになっていた時もあるだろうが、万事が万事、ただの記号で出来るわけもなく、頭の中で思い描いたか何かで印象に残ったことをただ繰り返しているだけなのだろうと感じる。

これは、別にそのAAだけの話ではなく、我々が普段用いている言葉自体が、そのAAと同じことになっているのである。



言葉は壁かもしれない。そう考えてみるのもよかろうと、思うしだいである。


では、よき終末を。


崇拝と選民と有頂天、もしくは恥知らず

2018-02-18 | 雑記
久方ぶりにブログを開いてみたら、この一週間で、何故か二月十四日のアクセスが多かった。

何か書くのかと期待されたのかもしれないし、昔書いた話が検索に掛かったのかもしれないのだが、詳細は不明である。

前回の記事は十二月で、マグロの話をしていたらしい。何ゆえマグロなのかは、ひとえにいつものノリだという以外に思い当たらなかった。


さて、この件は書いたかどうかは忘れたのだが、記しておく。

猿、じゃなくて然る自然賛美者が、「どうやら無理なので肉も食います」と言い出して、やりだしたのだとか。

草だけ食った自然に沿った生き方をしているとかいう牛の肉を買って食ってるのだとか。それ以前の食事方法などは変わらずだが、付け加えられたというところだろう。

はて?かの者の伴侶は「世の中はどんどん付け加えていっておかしくなっていくけど、本物はシンプルなんだ。減らすべし」的なことを言っておったのだが、肉を食うことを付け足したことについて、どうお考えなのかは知らない。

口を極めて肉を食うのが常態化している世の中とそれに疑いを持たない一般人をゴイムなどと蔑んでいたのに、一般的な言葉で言えば、肉食は道義的に許されざる行為だと言っていたのに、何故こうなったのか?

別に難しい話を始めるわけではないのだが、かの者が自然賛美者の食生活として、フルータリアンというのを知り、その教義への理解と実践を深めていたころに、こう語っていた、ということを付け加えておく。

「わたしは、フルータリアンになるために、今まで色々やってきたんだ」

さて、そういう何か有頂天になって訳のわからないことを言った上にすぐ忘れるのは、何も彼だけでなく、人間の性である。そんな状態なのに、「人間やめます」などと(記憶が正確なら、その伴侶の発言)言うのだから、恥の上塗りであろう。

しかし、彼らは恥ずかしいとは思わないのである。そのことについて少々お話をしていく。

話は宗教と呼ばれるものの事になる。

キリスト教というものがある。その教典たる聖書には、「神は人間を自身の姿に似せて作られた」とある、というのは有名なところ。

そして、祖先が楽園から追放され、それらの子孫が現代人だというわけである。楽園から追放されたのは、罰せられたからであり、これを「原罪」と呼びなす。

つまり、人間というのは原罪というのがなければ、その素晴らしい神様と同等なのだ、といえる。

実際にそういう風な思想があり、異端とされたグノーシス派というのがあって、キリスト教では許されない、人間が神になるという考えを持ち、実践していたという。


それはともかく、キリスト教は神を崇めることによって、自身も神に近い存在になったと考える。

考えているかはともかく、歴史を紐解けば、西洋白人の非白人に対する態度は、相手を同じ人間だと思っていないというのをしこたま見かけるだろう。「キリスト教=白人に非ずんば人に非ず」といったところか。

これは、神が人間を創ったからではなく、人間が神を作ったがゆえの、選民思想なのである。

同じ「一神教」で括られるイスラム教などは、詳細は省くが、キリスト教のような血塗れの歴史は歩んでいない。まったく争いがなかったというものではなかろうが、一つ、決定的な違いを示しておく。

同一の信仰を持つか持たないかに関わらず、相手を攻撃するための教義やシステムがないという点である。

キリスト教にある、異端審問の如きは、宗派によってはあったりしたかもしれないが、本義ではない。

彼らは本当の意味で、神の元に生きているからなのである。


例の自然賛美、というより崇拝者の話に戻す。


大昔に生きていたであろう人類の生活を取り戻すことによって、地球を楽園にする。これが彼の教義である。

これは、実際に今も書いている。先日、HPを見に行った。

上記に示したキリスト教の教義に準えるならば、大昔の理想の生活をしていた人類は神、現代人はそれを忘れた、いわば原罪を背負わされた迷える子羊、となる。

そして何故か仏教気取りなのか、「それに気づかず、人類は繰り返している」などと言い出す。


そもそも、魔術の伝統では、物質化したことが一番の堕落という。

そして、仏陀は語っていた。「何度も人として生まれてきたが、もう生まれてくることはない」と。


己を神の生き写しだと見なし、自惚れるのは、輪廻に囚われているが故の迷妄なのである。

何故なら、そのような神もまた、輪廻のうちにあるものに過ぎないからである。

繰り返しているのは、彼らだけではないのだが、彼ら自身というわけだ。


無自覚なキリスト教にはご注意を。

これは現代社会全般に及んでいるが故に、判る人にしか伝えられないのである。



では、よき終末を。