ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

自分と知り合ってブログの相互ブックマークを入れている、特にゲーム上の知り合いの方々へ

2012-04-18 | 雑記
訳あって、このブログを閉鎖しようと考えている。

先日書いた時点でも決まってなかったが、すぐに消すかまだ続けるかは今も決まってはいない。


特に大きい理由はゲームに対する自分の状態。

そもそもこのブログの始まりは、某オンラインゲームで知り合った人との間で始まった冗談に起因するものだった。


そして、そのゲーム自体をもう辞める。


ゲーム上での知り合いなら、ゲームとの縁が切れると同時に消えてなくなるのが道理というもの。


敢えて口汚く言うなら、私はあなた方のお仲間ではなくなったのでもうこれまでだ、と。




ここしばらくの内容を逐一読んでいる人は近隣ではまったくいなかった。読んでいる人もいるのかもしれないが、反応がないので何かで間違って来てしまった人が大半だろう。


電磁波がどうだとか音の周波数がどうだとかゲーム自体の構造がどうとかそれがこの世界という構造の縮図でだとか、つらつら列挙し直しても仕方ないし、書いた本人も読み返すのが困難な量なので、一言で表す。



「人という存在にとってTVゲームは有害無益である」



一人でやろうが他人と共にやろうがそれは関係ない。一人でやるモノには一人での、また、他人と共にやるモノのにはそれでの、それぞれ害がある。




私のゲームに対する態度はそういうキチガイ染みたものになったのである。


他のお仲間方があなたのブックマーク一覧にあるこのブログを開いたときに、気分を害すること請け合いなのである。読まなかったらまあ、問題はないのだが。



キチガイにはキチガイなりの奥ゆかしさというものがあるので、あなた方がゲームを続けることを批難する気はさらさらない。まして、見下そうだとか考えてもいない。そう書くと嘘に聞こえるから書きたくなかったが、言わざるを得ない。嘘だと思ってくれても結構である。



過去、TVゲームは楽しいと思えるものだった。もっと正確に言えば、楽しいと思い込んでいたというところだろう。


では、未来にまた楽しいモノと思える時がやってくるのだろうか?その答えは否。


「前に楽しかったから」という枠組みを脱してしまい、今に至ったのである。「次になったらまた楽しいと思えるであろう」というのは予想ですらない幻想であり、また自分自身を枠組みに嵌めるだけの行いである。



あなた方とのお付き合いは、以上のようなことを書いておいては空々しく聞こえるだろうが、楽しいひと時だった。ありがとう。



だから、お互いを縛り続けるという有害な営為をもうここで止めようと思うのだ。



あなた方がこのキチガイを仲間だと思い続けることはそちらに何ら益することなく、また、こちらはこちらで、あなた方に「ゲーム仲間である」という認識をもたれている(有るのか無いのかしらんが)状況なら、それはとてもいい気分ではないのである。



ここまで書いたら、あるとは思わないが、ブラウザのお気に入りにだけ入れておくなどというのは別にお好きなようにしていただきたい。

このブログが続くとして、見に来るのも結構。「このキチガイ何言ってんだ!」と罵るのもご自由である。

以上をお読みになってこちらがそちらを罵っていないように聞こえたら、ちょっと人が良すぎる。


ブックマークの件、頼みましたよ。そちらのブックマークの削除を確認次第、こちらも消していくので。

このブログはトップに特定の記事を出し続ける、というのが出来ないようなのだが、力技?で月末まで放置してトップに残すことにする。続けるか続けないかはその時まで保留ということになる。では、さようなら。


呪縛

2012-04-17 | 雑記
どうも。人間のクズです。

と、先日どこぞの酔っ払いに絡まれて言われたのである。


普通なら、そして前の自分ならとても傷ついた言葉であったろうが、今では褒め言葉でしかない。



その日も普段どおり、あの格好で、新しく仕入れたという泡盛を飲んでいた。


すると、後のテーブル席の先客グループの一人のおっさんが近寄って、なんでそんな格好なのかと問いかけてきた。


「和」の兄さんはその人がトイレに行った瞬間、「大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねてきたのだが、その時は「いつもどおりですよ」と答えた。その時はまったくいつもどおりだった。



さて、もどってきたおっさんは自分の隣に席を占めた。


なにやら「どうしてこれこれの人はこういうことをやりたがるのか」などと曰まう。細かいことが聞き取れなかったので、その場しのぎの相槌と皮肉交じりの返答をしていた。


妙に神妙な顔つきになったかと思ったらこう切り出し始める。

「自分はどんだけ酔っ払って帰っても毎日般若心経を唱えているのだ」等等。


般若心経を五年ほどやってきたけど、なんか意味あるのかねぇ、などとなにやら引き込みたがっているようなことを言うので、ちと考える振りをしてこう答えた。

「意味なんてないんじゃないですか」と。

「意味を求めたくなるから苦しくなるんだよ」などと言うので、もう一つおまけに言っておいた。「意味がないという意味があるんですよ」などと。


もっと言ってしまえば、お経なんぞアホみたいに唱えたところで思考能力も感性も奪われると言ってやりたいところだったが、素面相手でも通じない内容なのでここは伏せた。



北のミサイルについてどう思う?と聞いてくる。「年中行事でしょう」と答えた。


順番はどっちか忘れたが、原発についてはと言う。そんなの簡単だ、電気をなるべく使わない生活をすればよい。と答えれば、何故みんなそんな風にしないのだろうかというので、そういう人は表に出られないし、利権が絡んでるからね、と応酬。


いつもこれをやると決めていることは?などと尋ねてくる。

私はこれをやると決めていることはないと答える。

この辺りでおっさんはわしのことを「何も考えていないクズ」と思い始めたのだろうか。

般若心経をやろうとは思わないのかね、という風に聞いてくる。

やろうとは思わないと答えると、何故だと問う。


そりゃ興味がないからだと。あなたは興味がないのに着物を毎日着たいですか?と。おっさんははっきり答えなかったが、般若心経と着物ごときを一緒にされたのが癪に障ったのであろうな。


たしかその後だったろうか。大事なものが死ぬとき、お前はどうするのだ、足掻かないのかと。

何も出来ないのに足掻いたところで意味がないと答える。おっさんさらにヒートアップ。


親や兄弟が死んだらどう思うのだという。「想像でしかないだろうし、その時にならんとわかりませんね」とやった。

いやそうじゃなくて、どう思うのだとしつこく聞いてくる。このセリフを聞けば「人間のクズ」は普通の人なら思うところであろう。

「葬式めんどくさいね」と答えた。


おっさんぶちぎれて「いっちゃわるいが、人間のクズだよ」という。

「ええ、人間のクズでかまいませんよ」と吐き捨ててやると、なんかしらんが立ち上がり、「そんな格好するんじゃねぇ」だとか「キセルやってえらっそうに」などと言いながら戻っていった。

そして、席についても上の話を何度もほざいている。「それで日本人か!」などと。


立ち上がるまでの間に、お仲間のおっさんが突っかかってきた。「あんた冷たいね」などと。勝手に暖かいなどと思うほうがどうかしてるので「たまに言われます」と答えておいた。

リーダー格の人というべきか、別の一人は何度か済まなそうに機嫌を尋ねて来た。


「和」兄さんが助け舟を出してくれて、座敷に避難することになったが、後でわめいているだけで話をしてもいないのに「お前逃げる気か!」などと叫ぶ。

代行の人も到着したので、引きずられるように帰って行った。


と、思ったら、カウンターに戻ってすぐぐらいに引き返してきた。なんか知らんが謝りに戻ってきたそうだ。機転を利かせて兄さんは外で対応して、お引取り願ったそうな。



私はとても悲しい。人間のクズと言われたことが、ではなく。


「大事なもの」が失われる、というのは悲しいことだ、というのは、我々自身を何かの枠組みに閉じ込めておくための詭弁でしかないのである。


彼自身もつまらない何かの枠組みにとらわれ続けた奴隷でしかなかった。言葉の端々、というか態度自体が私を奴隷にしようとする下らない思惑だったことがありありと見て取れた。



奴隷にされ続けた人間は、目下のものを見ると奴隷にしようとする。ちと抽象的な言葉なのでわかりやすい例をいうならば、いつぞやの相撲部屋の話を思い浮かべていただこうか。


「可愛がり」と称して暴行加えて新弟子が死んだ話があっただろう。ああいうのはその時偶発的に起こったものではないのである。

「可愛がり」とやらはずっと前から続いていた。新弟子はそれに耐え続け、そして翌年の新弟子が入門する。

するとどうだろう。喜び勇んで暴行し始めるのだそうな。「可愛がり」と称して。


こういう構造は別に相撲部屋だけでもなく、個人対個人でも、家庭でも、学校や職場でも日常茶飯事に起こりうる状態である。


人はその「可愛がり」を受け続けるだけでは生きる気力とでもいうべきものが枯渇してしまう。そこで、目下のものを見ると「可愛がり」をするのである。自身の生きるエネルギーを補給するために。

「可愛がり」をしてきた相手に反抗、もしくはそこから脱却できれば一番よいのだが、抜けられない状況が多く、そしてその状況にさらされ続けると、上記の状態に陥るのである。


それは、「躾」や「教育」と名をかえて、生まれたときから曝され得るのである。その心は、他人を操作したいという欲求であるそうな。


「子供のためだから」、などと正当化する。相撲部屋の「可愛がり」も、本人たちは「新弟子のため」と正当化するのだそうな。


これをこれ、「魂の呪縛」とでも言おうか。ハラスメントの連鎖構造といったほうがより正確だろうな。


それは、自分のすぐ上の親だけのせいではなく、そのまた親のまたさらに親の、という場合もあるし、社会がそれを助長、もしくは惹起する。


「子供のため」というのを愛情と本人たちも偽っている。偽っていることすら気づかないのがこの構造の陰湿なところである。


そして、我が父我が母もまったく同じであった。その影響を強く受けたであろう我が兄も同様である。


その「魂の呪縛」からまったく不自由な状態である肉親に愛情を感じることなど私には出来ないのである。彼らからは偽の愛情しか受け取れなかったのだから。

「魂の呪縛」の状況が人間であるというのなら、私への「人間のクズ」という言葉はまさしく僥倖である。


大事だと思えるから家族になるのであって、「家族という既成事実」があるから家族にならねばならぬ、というのは正に「魂の呪縛」である。


そして、我々を取り囲む常識だとか慣習だとか伝統だとか地域社会だとか宗教、国家、もっと大きく言えばこの世界という状況。これは惑星規模の呪縛だといえよう。



私はとても悲しく思う。彼の不自由さとそれに振り回されている姿を見て。そして、その不自由さを所与の物として押し付けてきたこの世界に、強い怒りを抱くのである。



私は誰も操りたいとは考えたくない。それは取りも直さず、自分を操られることになるのだから。では、また。

地の底から

2012-04-14 | 雑記
今年は桜をじっくり眺めることがなかったなぁと思い、先日は近所のカレー屋で飲んだ後、川沿いを歩いてみた。

歩道を覆うかのように枝垂れた桜のトンネルが出来上がっており、薄暗い街頭によって幽遠な趣を漂わせている。


ふと一本の桜の枝が、手を伸ばせば届きそうな位置にあった。


立ち止まりしばし眺めた後、これは触るべきではないと思い直し、そのまま帰途に。


そのすぐ近く、一応立ち入りするなとなっている広場で、おっさん達が発電機と照明を持ち込んで、花見をしていた。

騒がしいのは嫌いなので、バカバカしいと思いながら通り過ぎた。



さて、桜とは何か。


桜に纏わる話を古典を紐解いて、などとやれるほど学はない。


昔読んだマンガやらで覚えている、桜の話を少し書いてみよう。


『花の慶次~雲のかなたに~』で、ちと気障ともいえるような話と、花見といえば酒、というしかないような話がある。

戦から帰るといつも咲いてくれている(咲く時期の間にだが)山奥の桜に、お松を連れて行って見せる、なんつう話があったと思ったら、奥州の伊達政宗が花見の席で家臣を切り殺した際、使いで奥州に出向いていて、さらにその近くでこれまた花見をしていた慶次の杯に血がかかり、泥酔していたのもあって、伊達政宗を殴って気絶させるなんて話があった。


奇怪な話としては、諸星大二郎の『栞と紙魚子』という読みきり形式のマンガに一つ。

花見をしに行く話ではあるのだが、その桜が奇妙な桜。

ずっと咲かなかったのだが、ある事件を境にその翌年から決まった周期で咲くようになったという。

その事件とは、そこで首吊り自殺をした人物の命日と、その周忌だった。

いつの間にかいた怪しげな花見客に「もう少しすれば咲く」と言われ待つと、本当に咲き始めるのだが、やはり普通の桜ではなく、怨霊の花が咲き乱れ、荒れ狂う。

その桜は、平将門の残党の首塚の上に咲いたもので、怪しげな花見客は将門を討った平貞盛の武将の亡霊。彼らの百年に一度の花見に出くわしてしまった、という話。


原典があるのかは浅学ゆえにわからないのだが、その本編にこんなセリフがある。


「桜の木の下には死体が埋まっている」とはけだし有名な言葉だが・・・


桜の木の下に死体、といえば、とあるゲームの話で一つ。


東方妖々夢」という、同人のシューティングゲームがある。有名だが、知っている人ばかりがここを読んでいるとは思えない。のだが、細かい説明は省く。

そのラスボス(亡霊である)の邸宅の敷地内にずっと咲かない桜があり、その桜を咲かせようとし、それが原因で春になっても雪が降り続けるという事件が起きる。

そして主人公たちが解明に乗り出して懲らしめられるというわけなんだが、その桜の下には、その亡霊の生前の体、つまり遺体が埋まっており、その桜が咲けば実は成仏してしまうのだとか。成仏だけじゃなくて、その世界が引っくり返るようだが、その辺りはなんとかペディアとかで詳しく読みたい方はどうぞ。



さて、桜のあるところといえば公園だったり寺社仏閣の敷地だったりする。仕事の逝き返り、じゃなくて行き帰りに遠くの山を眺めたりしてみたが、山に桜が咲いている、というのは見えなかった。

あるのかもしれないが、そういえば、自生している桜というのはついぞ話にも聞いたことがない。


メディアで「桜の名所」などと紹介されるところは、やはりどこも何らかの造成された場所であることが多い。恐らく、それしかないだろう。


寺社仏閣は言うまでもないだろうが、なんとか公園と名のつくところ。文献に載っているのかどうかは知らないが、何もないところに記念碑的な何かをするとは到底考えられぬこと。

オカルトだとかスピリチュアルの方面の人の話だが、桜のある公園(公園自体だったか)というものは、そこで人が殺されて埋められた場所であるのだという。


本当は意味が違うが、一般的に言えば、桜を植えているのは「怨霊を鎮めるため」であると。


ならいいじゃないか、と思うだろう。だが、本当にそうだろうか。


「我々」が見える姿(生きた人の姿だったとき)に不当に苦しめられ、奪われ、そして殺された存在。

そして、「我々」が見えない存在(怨霊)となっても、「お前たちは鎮まっていろ」と命令され続ける。


花見とは、知ってか知らずか、殺した訳でもない相手を死後にも痛めつける行為の片棒を担いでいることなのだろう、と感じるのである。


花見から引き上げるときに寒気を感じたとしたら、それは酔いが醒めたせいなのだろうか。飲んでなくても感じたとしたら?はてさて、私には何も見えませんので。


というわけで、今回の話はここから来ている。

お昼寝ごろにゃん島「だんぼーるはうす」の、後半の記事、追伸とあるところから。


誰も面と向かって「元からおかしかったが、とうとうおかしくなったか」などと誰も言わないので、先に言っておく。三十年遅いと。

生まれて三十年掛かって、ようやく私は狂気に戻ったのである。狂気ついでにゲームも辞めようと、こうなったわけである。

今となっては、今まで普通にしてきたことが狂気の沙汰だった、そう感じずにはいられないのである。一体どっちなんだそりゃ。


狂気の沙汰ついでにもう一つ。そろそろこのブログを閉鎖しようかとも考え始めている。

某オンラインゲームの縁で始めたブログである。もうそちらに戻ることはないのだから、辞めるにはきっちりと折り目をつけようと考えているが、一時の気の迷いかもしれない。ブログの閉鎖自体がね。

このブログを消さなかったとしても、あちらのブログのブックマークからこちらに飛んで、てっきりゲーム仲間だと思ったら怨霊がどうとかインボーがなんだとか書いたかと思ったらまったく関係ない話をしたりする怪しげなブログに飛ばされた日には、そちらの感性が疑われること請け合いである。


というわけで、たぶん読んでなかろうが、もし読んでいたとしたら、頭の片隅に留める振りでも。該当はほぼ一ブログのみなので、名指しに近いが。(もう一つは完全な日記なので、別に気にならんだろうと勝手な基準)


私はもうTVゲーム全般を楽しむ気がないが、どうぞ、新しいのが始まったらご堪能ください。では、また。


昔話

2012-04-10 | 雑記
それは・・・いや、別に十年前でもない。


かつて、つまらん理由でケンカ別れすることになった、ネットゲーの知り合いの話である。


知り合いといってもゲーム上だけでの知り合いであるが、そんなことはどうでもよいだろう。



本人たちを折に触れて思い出しては罵倒しようというわけではなく、丁度いい例になるかと思って引き合いに出すだけである。他意はない。



AとBの二人のやり取りについてだ。



Aの性格を簡単にいうと、サバサバしたような所のある、姉御肌というか、もう少し限定的にいうとBの保護者的な立場という感じの存在である。

なんで姉御肌?というと、一応、AもBも女性だと聞き及んでいたからである。


そしてB。意思が弱いというか、ひどく悪口で書くと、グニャグニャしたところのある子、といえる。



さて、そのAとBの間柄は、別に悪くはないのだが、時折、妙な感じになる。

ケンカしたとかいうわけではないのだが、以下にやり取りの内容を思い出しながら書き出してみたいと思う。



先ほど紹介したとおり、AはBの保護者的存在である。

だから、Bのやることは基本的に反対しないし、また受け入れることを是としている。

別にBが女王様みたいにやっているわけではないことを付け加えておく。


じゃあ特に問題ないのではないか?と思うだろう。傍目に見ててもおかしくなることのほうが不思議であるのだが。


数年前まではかなり主流だったMMORPGというやつは、大抵、メンドクサイ手続きのオンパレードで、ちょっとしたプレイ上の不手際で一からやり直しになることもある。常に、とは言わないが、そういうことを強いられることがある。

その手続きが一人だけならまだしも、複数のプレイヤーと共に行う必要のあることなら、なお更面倒くささが倍増である。メンドクサイと思うからそうだといえばそうに違いないが、強いられている気分になること請け合いだろう。


ゲームのシステムだけでなく、プレイスタイルやら、初対面でしかない(対面してもないが)存在に対する異常なまでの礼儀への執心だとか、まあストレスになることの多いこと多いこと。

身に覚えのあることも多いので、あんまり思い出したくはない。が、一応繋がりのあるような話でもあるので、適当に覚えていただく。長い話でもないのだが。


さて、ある日のことだった。


ちょっとしたプレイの不手際をAがBに対して注意したのである。

そうしたらそうしたでBは一緒にいたこちらに対して、まるでこの世の終わりかのような調子で耳打ちしてくる。(実際耳打ちしているわけではない)

「Aさんは俺のこといらないんだ・・・」という風に。(キャラが男だから、俺と言っていたような気がするが、瑣末なことはどうでもよい)


間の顛末は措くとして、AはBにこう問いかけた。

「お前はどうしたいんだ」と。

Bが答えて曰く「Aさんと一緒にプレイしていたいです」と。

そして直後にこう付け加えた。「でも・・・それじゃBさんに迷惑がかかるし・・・」


自分が二人に出会う前にも、まったく同じやり取りをしていた、という証言をA自身から聞いた覚えがある。


Aは問いの前にこういっていた。その、目撃した件以外でも言ったのかは忘れたが。

「俺は(こっちも男キャラだから以下略)Bのやりたい事に全部付き合うから」と。


しかし、かみ合わない答えだった。傍で見ていたこちらとしては、つまらんマンガのギャグみたいにこの部分をリプレーされるのだろうかと考えてしまいそうだった。当時そう思っていたかは、今となっては分からん。


罵倒したいわけではないのだが、(ここに書く時点で罵倒かもしれんが)そのBのわけのわからんグニャグニャしたようなところへの嫌悪感が爆発したせいであろう、二人との繋がりは今となってはないのである。


その件については、問題の後、上のやり取りをもっと細かく書いた上で何やら上梓した覚えがある。


当時書いたものは単なる人格非難でしかなかった。今書いてもさして変わるモンではなかろうが、なんとなく見えてきたところもある。



Bは何を見ていたのか。


当時書いたことは、「如何に人にチヤホヤされるかしか考えていない」とやった。


書き方や現れている感情がおかしいだけで、どうも間違いだけ、とは思えない。



というのも、Aの問いかけに対するBの答え、の直後に付け加えられた言葉が全てを表している。


「でも、Bさんに迷惑がかかるから」


一般的には何の問題もない言葉に聞こえるだろう。ただ、そういう「一般的」だとか「常識」だとか「ルール」などという言葉自体が一つの罠である。



Aと楽しくゲームがしたいと単純に考えているのに、「プレイが上手くないから自分より上手いAとは一緒にプレイできない」という「固定観念」いわば「常識」に従おうとするがために、「迷惑がかかる」という言葉が口をついて出るのである。


Bが時折見せる、グニャグニャした妙な言動にこちらがなにを感じて、また、B自身の中でなにが起こっているのか、何故にその時の言動に少々やり場のない怒りを感じることがあったのか。ずっと疑問だった。


さて、話が少し変わるが聞いてもらおうか。


一般に、「良い子」と呼ばれる存在がある。子供のころにはたまに言われたが、都市伝説だと思っている。というか、生まれは山と海だらけの田舎である。


良い子とはつまり、常識があり大人の言うことにきっちり従いルールに則って善い事をして悪い事を憎むことを常にしている存在、といったところだろうか。約めていえば、「マニュアル人間」である。


最近のマスゴミがあげつらう話はどういうのがあるのかまったく知らないが、一時期、いじめ問題などと紙面やらTVを賑わせていたことがあっただろう。

そのいじめをやっていたのが「良い子」と呼ばれる存在だったなどということが明るみに出て、もっと命の大切さを云々と学者評論家がピーチクパーチクやっていたことだろうが、そこは話の筋に関係ない。


つまり、Bは「良い子」であろうとしたわけだ。


「良い子」とはいわば、自分自身には存在しない押し付けられたルールを自分自身だと錯覚し続けた、または錯覚しようとしている存在といえる。


昔「如何に人にチヤホヤされようかしか考えていない」と書いた。

チヤホヤ、かどうかはともかく、こう言い換えるべきであろう。

「如何に「良い子」であろうとするかしか考えていない」と。



如何に「良い子」であろうとするか、またあらねばならぬと締め付けられ続けた存在。それがBだったのかもしれない、と感じるのである。

せめてゲームの時ぐらいはつまらぬ世のルールなどかなぐり捨てて、と思ったのだが、あの手のオンラインゲームというのもまさしく「ルール」で出来上がった仮想「現実」である。



良い子であり続けるというのはどういうことなのであろうか。


それはつまり、自分自身の心、いわば魂と呼べるような存在のありように恐れを抱く、もしくは無視しようとし続ける態度である。

魂なんぞと怪しげな言葉を使いおって、というかもしれないが、ちょいとここを読んでいただこうか。愚樵空論


Aも自分も「Bは自信というものが持てないのだ」という風に、話していて結論したことがあった。

自信が持てないという理由は、どうも上に述べたように「良い子」であろうとしたからではないかと。


自信を持つということは、自身を持つ、といってもなんだか打ち間違いとはいえ、間違ってなさそうな気がする。


自身をその「良い子」という枠組みに当てはめようとして生きるのなら、他者と自身との繋がりはひどく機械的な、また一方的なものにならざるを得ない。

Bが見ているモノはAではなく、またB自身でもなくなっていく。


自身に自信を持っているのなら、前置きをされた(お前の提案に従うよ、というAの言葉)上でなお「でも迷惑がかかるから」という言葉がでることもなかっただろう。


そう感じたから、といったら今さら嘘くさいし、よく分からんが、そういう「良い子」であろうとする言動に苛立ちを募らせていたのだろうな、と言ってみる。


さて、結局Bについての心理分析紛いになってしまったが、これは飽くまで例である。無論、そういう事例が過去に自分が関わる場で起こったという意味では事実に基づいた内容ではある。


そして、一ついえることがある。このBは、決してBだけの問題ではないのである。AでBだから、じゃあCか?などというなよ。


世の誰しもがBである。話に出たAもありえるだろうし、自分もそうであろう。読んでいるか判らないが、これを読んでいるあなたもまたBで有り得る。


「良い子」であろうとするものはまた、他人を「良い子」であろうとする。あたかも吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になるかの如く。


結局、ああいう言動は他人のためを思っているようでいて、他と分断された状態での自分自身のためでしかなく、またその「自分自身」は偽りでしかないので、お互い破滅する、ということである。

さあ、あなたも自分の中の「B」を追い払いましょう。




さて、メンドクサイ話の後は面白い写真。猫とは素晴らしい。

直接写真を貼れないので、こちらのリンクへどうぞ。Thai Massage


あと、左のブックマークにアザラシがどうこうというのがあるだろうが、そちらの方はなんと、沖縄で猫の写真を撮り集めてもいるようだ。離島47踏破とか書いてた気がする。・・・すごい行動力だ。

というわけで、そのブログのリンク。「おきにゃわ♪


「良い子」であることが動物で例えるなら犬である。私は猫になりたいのである。ああ、あざらしもいいな。では、また。

マフィア

2012-04-06 | 雑記
はいどうも。


最近というかいつもというか。書いたと思ったら口の悪いことしか書かなかったので、今日は久しぶりに新しいものをご紹介。


以前からシガー(いわゆる葉巻)に興味があり、いつものお店はシガーも数多く取り揃えてある。


前々から気になりつつも見逃していたものがあった。


なんと、シガレットサイズで三本百二十円。ただし、完全なシガー状態ではなく、フィルター付の初心者向けの仕様。試供品みたいなのに売っちゃうんですよ、とは店のおばさんの言。


というわけでご紹介。





以前より写真が大きくなったかもしれないが、気のせいではない。いや、同じか?わからん。

ようやくケータイを交換することになり、ついでにSDカードも買ったので、これからはわざわざメールを送ってダウンロードして、などという手間を踏む必要がなくなった。



さて措き、この小さなシガリロ(という品種名というのか、そういう呼び名)。その名も「Al Capone」。

禁酒法時代のあのお方の名前でございます。


シガーなんてものはとてつもなく香りと味が濃くて、吸えないんじゃないかと考えていたのだが、いきなり煙管から始めた人間にとって、実はたいしたことがなかったのかもしれない。ものによるのだろうが。



なんというか、甘い。砂糖みたいな甘さではなく、まろやかな甘さである。フィルターのせいもあるのだろうが、口のなかでくどい感じもない。


これなら、十本入りのフィルターなしのを買えばよかったかと考えたが、次の楽しみにしたいと考えている。

しかしこれ、シガレットと同じ長さなのに、完全に吸いきろうとしたら、十分ぐらいかかった。


食後の一服に、はたまた憩いのひと時にティータイムのお供にいかがだろうか。いらんって?そいつぁ残念だ。

しかし、着物でこいつをふかしていると、ホント、何者か分からなくなるな。


もし訊ねられたら、そういう時にこう答えようかと思いついた。


「通りすがりの酔っ払いだ。覚えておけ。」



このネタは古い上に、周りでわかるやつぁあんまりいないようなので、忘れてくれたまえ。では、また。



パッケージ

2012-04-01 | 雑記
先日、ある人にこう尋ねられた。

「それも趣味でしょうが(和装していたから)、他に趣味はありますか?」と。

んー、としばらく考えて、「あまり他人に言える趣味はないかもしれませんねぇ」とお茶を濁すように喋った。蛇足として、「飲みに行くのは好きです」とは言った。


趣味といえばあの動画があるんじゃないか?といわれるだろうが、もう辞めようと思う。何回言ったこれ。


先日、数本ほどアップして、続きと別のおまけも出したところまでやりながら、やはり釈然としない。こちらが本音に聞こえるだろうし、そうとって構わないが、反響もない。あったところで白々しい。


前のシリーズのエンドロールで色々と警告をしたのだが、なんの反応もなかったことに憮然としたというかなんというか。日本語で語っているのに日本語を理解されなかったというわけだ。


当たり前のことだ。


あんなところであんなものを呆けた面して眺めているのだろう。思考能力も感性もないに等しい人間の集まりであってもおかしくはないし、元々自分もそんな存在だったろう。今も大差はない。



そういうわけで、動画のほうでは黙ってフェードアウトしようと考えている。


ハンドサインやら目玉、ピラミッドを模した象徴がなにを意味するのかわかるが、という風なコメントをしていた人がいたが、それは分かっているが解ってはいない。


それはあたかも数学の概念が存在しない世界で、この数式を解け、と迫るようなものであったろうか。


その「数学の概念」ともいうべきもの。それは想像力。別に人の事を貶してもしょうがないのだが、予想以上に、想像力のある人物というのは少ないのだな、と感じる。

少なくとも、自分と同等かそれ以上という意味であるが。まあ、そこまで会う人会う人に色々話してきたわけではないし、知り合いもあんまりいないので、下手なことはいっても仕方ない。




さて、趣味云々でちょっと話が逸れたが、自分は何かを決め付けることがあまり好きではない。決め付ける、といったら「あいつはいい奴だ」とか「駄目な奴」みたいなのも含まれるのだが、こっちはついしてしまうな。


例えば、「今、簡単な筋トレしてるんですよ」などと他人に話すと、次の日には辞めてしまったりする。

反対に例の動画は、辞める辞めると言ってて、酔った勢いで始めかけたりする。


~だからしなくてはならない、だとか、~が好きだから、みたいな、疑う余地の無さそうな思考回路。

これがどうやら負担になっている。ここでどこの誰か分からん人を罵倒しているブログを書いている仙人とか呼ばれたりする人だけでなくね。


というわけで、このブログの記事をご覧戴く。

ハッピー(吉田鍼灸指圧治療院から)というブログのこういう記事がある。「自己紹介は危険な行為?病気と戦争を引き起こす


そんなわけ、と思えるようなタイトルだが、実に示唆に富む内容である。長ったらしくて誰も読んでないのはいつものことだろうが、以前紹介した「ハラスメントは連鎖する~」の内容にも通じるところを感じる。

とりあえず、その連続レビューの第一回目と、引用紹介しているブログの連載一回目のリンクを貼っておく。

糖尿病を放置し慢性期に脳梗塞になった母の介護食記録

愚樵空論


話は戻って、その吉田さんは最近、「エックハルト・トール」なる人物のスピーチの動画を紹介、一部抜粋して記事を書かれていた。

いわゆるスピリチュアリズムというのか、そういう名前についてはどうでもよい。


内容を噛み砕きすぎて曲解するくらい簡単に言うと、「人の抱く恐れ(不安なども)というのは未来と過去に起因するものである。今に視点を向ければ別に怖いことなど何もないのだよ」というものである。

別に明日のことなんぞ考えなくて財布すっからかんになるまで飲んでても構わないのだ、恐れなどないのだから、などというわけではないが、何年か前に買った本の仏教学者の人も同じようなことを書いていた。というより仏陀が同じようなことを言ってたそうだ。

ちなみに、その仏教学者さんは今のようなことも「やりたきゃやりゃいいんだよ。ただ、後で責任取らないのは問題だし、かといって「後で金に困るからやるな」みたいな後で罰が来るから、という戒めは意味がない」などと言っておった。この辺りは読んでもらわないことにはなんともいえないが、そういう感じである。「」内は引用でなくて翻案。

だからT君。「楽しかった」ということに囚われているから、「今が楽しくない」という考えに取り憑かれているのだよ、っと、多分、話していた時に思いついて語ったところで、しかめっ面しながら「なんとなくわかります」と答えられるのだろう、と過去に囚われてみた次第である。では、また。