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ラヂヲこぼれ話 覆水盆に返らず

2012-06-15 | 雑記
※少し修正しました。
というわけで、恒例になりつつあるようなこぼれ話。


こぼれた話があったというより今回は、話全体がこぼれてしまった気がしないでもない。

ともかく、こぼれた話が重要だったとも思えるので、重大さにリテイクをすべきか悩んだものの、そうなると三十分を越えることになったと思われる。そもそも思い出したのがアップして掲載されてからだというのだから、始末に負えない。

時間は関係ないが、どちらにしろ恐らく結論は大差ないことには違いない。仕方がないので、ここで書くか、次でしゃべるかのどちらか、もしくは両方になる。


さて、先日のラヂヲの内容を振り返る。


「礼儀とは何か、及び道徳について」というテーマだった。


砕けて言えば、礼儀のなってないコメントに噛み付いたというわけだ。大人気ない。


別にコメントした人間自身にいわゆる「道徳的」な反省を促してもらおうと考えていたわけではないのは、ラヂヲを聞いた人にはご理解いただけたかと思われる。



しかし、何故そうなるか多分理解できない、もしくはしづらい部分が、特に反応はされていないのだが、意外と重要な部分を何故か端折ってしまったのである。



礼儀=道徳というわけで、道徳の発生と定式化の流れを、ニーチェの論旨に拠って少々喋った。

正直、いきなりニーチェなんぞ話して大丈夫かと思っていた(自分がやるというのが大それたものだとちょっと思っていた)のもあったが、道徳の発生とそれが定式化していく際に起こったこと(動機と結果の入れ替わり)については述べた。


しかし、そこで話が終わってしまったのである。


単にそれだけだと道徳批判にはならない。積極的に肯定してはいないが、否定もしていないといえる。


改めて単純に何を言ったかを示す。



道徳の発生と思しき行いが、いわゆる強者の行動によるものだったと。

その動機は、ほぼ全てが、いわゆる「利己的」なものだったとすらいえる。

しかし結果として「善良な行い」として写り、その強者の「善良な行い」は「善良な心」から発生したのであると、誤解、もしくは曲解されたのである。


そうか、じゃあ別に問題無さそうだ、となりそうだが、違う。


利己的だとか利他的という観念自体がそもそも人間の理解を損なっている。


スペインの思想家、オルテガ・イ・ガセットが、「わたし」についての有名な命題を述べている。

曰く 「わたし」とは「わたし」と「その環境」である、と。


利他的に見える利己的な行為とはつまり、「その環境」を己にとって都合良くしようとしているだけの「利己的」な行為であるといえる。

ニーチェ自身も、客観的に純粋な利他主義などないと断じていた。


つまり、自分自身がこうしてやりたい、と思ったところによる行為が延いては周りを良くしているのだと。


「わたし」から「その環境」を変えていくという能動的な営為であるといえる。


さて、この価値観が入れ替わったらどうなるだろうか。



道徳とやらはこう言うだろう。

「その環境」を良くしないと「あなた」(「わたし」のこと)は「善人」でなく愚かしい「利己的」な存在となるだろう、と。

もしくは

「その環境」(この場合は道徳そのものと言える)はこの上なく善良であるのにどうしては「あなた」は「その環境」に沿って「善人」たろうとしないのか、等と。

「環境」に振り回されなさい、というわけである。

さらにもう少し話をすると、キリスト教の思想に「原罪」というのがある。人は生まれながらにして罪深き存在であるという認識である。

つまり、生きているだけで悪どいというわけなので、「善人」になろうとしなければならぬ、という土壌がそもそも出来上がっているというわけだ。

これが道徳の言い草ならば何のことはない。奴隷を作るために価値観を摩り替えたのである、と断じてよいものである。


生き生きとした「わたし」に拠って「その環境」を変えていくのが人間の営みである。

本来生き生きとした「わたし」を改変された「その環境」によって「改善」されるのが奴隷の生である。


さて、ラヂヲでも言おうか言うまいかと録音前に考えていて、そもそも上記で話をしたことが出なかったので言えなかったのだが、前から似たことを言っている人がいる。


先日、夢の話をした時、「どこそこの真似事だ」とやった。

Beyond 5 Sensesでもたまに出てくることがあるので、ご存知の方も多いだろうし、かなり有名である。そう、「幻の桜」である。


記事が多く、最近は結界がどうとかおばばが何だとか、ぬしさんが、とやっているので、どこが?と思われるかもしれない。

凡そ三年前のものだが、グーグルで「幻の桜」を検索したときに結果一覧に出てくる、こういう記事がある。「自己愛についての補足


本来の意味による自己愛から出る「利己的」な行為は、回りまわって自身とその周りを良くしてしまうのである、という。


自己愛。それはニーチェのいう卓越したものだとか強者だとかが抱いているものと同じだと考えている。つまりは自己を強く肯定している存在であると。


さて、それならば能力の有無(物理的精神的を問わず)、頑張ればいいのじゃなかろうか?と考えがちである。


マザーテレサの言葉を解釈している別記事があって、単純ながら唸ってしまった話がある。まあ、こちらが単純なだけとしても。

マザーテレサ曰く「貧しいもの同士分け合うのです」云々と。


単純にお金を上げると考えるならば、大金持ちが貧乏人に恵んだ場合、金持ちは全財産投げ出すのでなければ、貧乏人は困窮の底から這い上がれ、その上金持ち自身も感謝される。デメリットは存在しない。


では、貧しいもの同士で分け合うならどうか。


それは、さらなる貧困の増大でしかないのである。貧困が貧困を生み続けるならば、怨嗟の声遍く広がるのみである。貧乏人が貧乏人に、お互いさらに貧しくなった上で感謝しあえる状況になるだろうか。
(経済という幻想に振り回されること自体が愚かしい、という話は取り敢えず措いてもらうとして)


こういう理解があってこそ、この言葉が強く理解できる。日本語で言えば「腑に落ちる」のであろう。


情けは人のためならず





というわけで、分かる人には分かるのかもしれないが、これで先日のラヂヲの「ミッシングリンク」をようやく埋めれたかなと感じている。

しかし、この反道徳的な話からどう礼儀に繋がるのかを考えると、ちとラヂヲの話は心許ない。


道徳の発生とそれを成り立たせている根拠が実際は非道徳である、というのがニーチェの論である。


では、礼儀とはどうだったのか。


そもそもが自己愛に満ちた存在であるならば、自己の賞賛は所与のものであろう。もっと非道徳的に解釈するとしたら、「礼儀とは他人を貶している、もしくは跪かせようとしている」のかもしれないと。


礼儀というものがいつ取り沙汰されるかといえば、それはつまり「人と人が出会うとき」、挨拶の時が多いと感じられる。

礼儀も過ぎれば無礼となる。過ぎた礼儀が無礼と感じるのはやはり、上記の想像が多少当たっているのからなのかもしれない。


というわけである。せめてこれくらい考えてから話をすればよかったのだが、どうも最近違和感を覚えている。


それは、ラヂヲに対する姿勢である。いつも正坐だろう?ではなく。



ラヂヲは手段であって、こちらが喋りたくて喋ったことを公表するためのものである。


特に先日のラヂヲを収録している時は、「何かおかしい」と感じたのである。収録までの数日間、考えがまとまり難く、正坐が崩れていたかと考えたが、それだけでは説明がつき難くもあった。


テーマがあって話をすること自体は否定する気はない。でなければ「ゲームを辞めた理由」で喋る時にすでに躓いていただろう。

単純に雑談をしたとしても、勝手に思いついて何がしかの話を始めるには違いない。


為清さんの提案は「一回十五分くらいにして放送頻度を上げていく感じで」だった。

先日のラヂヲはそれを強く意識した。といっても二十分を切ろうと考えていたのだが、結局数分オーバーである。それがあの感じである。


ラヂヲのために喋っているのではなく、喋ったことがラヂヲになっているだけである、という意識をすっかり忘れていたというわけだ。


上からの話で言えば、「その環境」に流されてしまったと。



そこで、五回分のラヂヲを振り返りつつ雑談のラヂヲを出してみようかと考えているのだが、ゆっくり振り返りつつしかも雑談がメインになると、少なく見ても三十分は必至であろう。

その上、他愛のない雑談と振り返ったラヂヲの補足なんぞしたら「イージーリスニング」ではなくなる。特に五回目は上記の補足をしたい誘惑に駆られている。明日には忘れるかもしれないが。


Beyond 5 Sensesで掲載するラヂヲという性格上、そのラヂヲの内容に触れるのなら、ある程度掲載されるということを考える必要がある。

気がかりとしては、「勝手にそんなファンサービスみたいなことをやっていいのかな」である。

事後承諾、もしくは指摘されるまで黙っておくか、などとここで書いたらバレバレではあるが。


というわけで、こぼれた話がラヂヲを毀つ、そんな話でした。では、また。