ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

反響

2012-06-04 | 雑記
さて、ラジオの連載を持つことになって大体一週間くらいになっただろうか。

連載と言っても一回目から順に出したと言うわけではなく、一回目と二回目は同時にBeyond 5 Sensesで公開された。

そのおかげで、ブログのアクセスも鰻登りになった。書いたものは見てもらいたいと考えるのは人の性。願ったり叶ったりである。改めて御礼を申し上げたいと思う。ありがとうございます。



なにやらメールやコメントは来たりしないだろうかと(あってもなくてもいいやとは考えているが)見てみたところ、アクセス人数(IP)と閲覧回数(PV)に大きな開きが出ていた。どちらもかなり増えている。

色々と読んでくれているようである。仕事場の人間にはほぼ辞めたとしか伝えてないが、以前載せていた習字を見に来てパラパラ見ていただけかもしれない、というのもあろうが。それだけの増加でないのは論を俟たない。

増えたといっても、いきなりランキング一位だとかいうところまではいかない。いったとしたらこちらの心臓が止まる。

具体的に数字をいうと、250人(IP)のアクセスでランキングは3000位ちょっとになっていた。gooブログ全体のブログ数は170万ほど。上位の方々の訪問者数は如何程かは判らねど、下のほうになれば平均して似たり寄ったりのアクセスになるといえる。ちょっとの差で飛び出してくるといえそうだ。



ところで、第一回目には「寝る前に聞くとよく眠れます」という風にうたい文句が付けられている。


流石に五十分近くも聞いてばかりいると眠くなるであろうから、さもありなんと思うのだが、先日、その一回目の動画内でコメントが来ていた。



「勉強の為ループして聞いてます」




まさかループしてまで聞いてもらえるとは夢にも思わなかった。


ついでに、ニコニコ動画は現在、音楽のDLも行えるようになった。i-podなどに入れて落語を聴くつもりで毎日勉強してもらえれば幸いである。うっかり電車の中で寝てしまわぬようお気を付けていただきたい。


しかし、「勉強の為」というと、どっちなんだと。

「試験勉強してるからループで流している」のか「内容が傾聴に価するので何度も聞いている」のか。


少なくとも前者ではないだろうとは自負している。そもそも、試験に出てこない話である。



こちらとしては、あの内容を暗記することではなく、「物事を考える」きっかけになれればと考えている。


もし、動画をループして聞かれているという方がここをお読みになっているというならば、マイリストからもう一つと、さらには今朝出したばかりの方へと足を運んでもらいたい。


二つ目は一回目でテーマがずれるから脇に置いた話を持ってきたものではあるが、三つ目は勉強する際の姿勢について参考になると思われる。勉強だけではないが。


「物事を考える」ということを、身体、すなわち心と体が一体の状態で理解することが出来れば、こちらが望んでいる通りというもの。



それがまさか正坐ごときで、と思ってしまうのが現代の我々が陥っている状態である。


個別具体例をあげつらって良いか悪いか(決して蔑ろにしていいわけではない)だけで物事を見続けても、それは結局「教科書どおり」の生き方、いや、動かされ方になる。

具体的にいえば、法律を犯すことはこの社会において悪である。法律で殺人は禁じられているが、目の前で理不尽に殺されようとしている人間を目の当たりにし、あなたは手近にあった角材で殺人鬼を撲殺したとする。法律でいえばこれも犯罪であり、刑罰をもらうことになるのである。しかし、そのまま殺人鬼を放置していれば、無慈悲に、そして、理不尽に殺害されていたであろう。どの状況も、善でもあり悪でもありうる(殺人鬼が善だといっているわけでもないが)。「個別具体例をあげつらうことに終始する」とはつまり、我々の意識で作り上げた狭い価値観の中でのた打ち回ることである。


太極ありて後に陰陽生まれる。


意識とそれに動かされる体が陽とするなら、無意識の部分が陰である。


「教科書どおりの生き方」とは陰陽を二つに区切ることであり、「物事を考える」とは太極に至る道である、と感じるのである。


太極とはなんぞ、と言われそうだが、陰陽に絡んで出てきた言葉で、中国の世界観である。

いのちそのものだとか、地球だとか、宇宙という風な言葉だと考えていただきたい。もっとうまい表現もあろうが、それもまた考えてみるのもよかろう。



正坐により丹田(体の中心)に気を凝らすというのは、己の身体に太極を見出すこと、とも捉えられる。


「まずは正坐して聴く」はまさに打って付けの謳い文句であろうと、今回の分を出してから強く思うところである。


論より証拠である。その証拠をあなた自身で確かめることが出来るのである。「正坐せよ」は窮屈に仕向けているのではなく、人間を解放させているのである。


「まずは正坐して聴く」ところから始めて、「物事を考える」ことの理解を深めていただければ、幸いである。では、また。


ラヂオ三杯目

2012-06-04 | ラヂヲ
ラヂオ三杯目、入りました。

今回は正坐について。ちょっとしどろもどろな所が多く、もう少し整理しておけばよかったなと。

冒頭に前回言い忘れていた話をやったのもあって、二十七分に。申し訳ない。


【ラヂオ】ウヰスキーの時間 三杯目




朗読が多いので、睡眠学習には宜しいかと。では、また。