ウヰスキーのある風景

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炎上する世界とその薪

2019-10-25 | 雑記
前回、「ガシャドクロが世界を燃やし尽くす」などと書いた。

こう書くとまったくもって意味不明になるが、そこは気にしない。

しないと言いつつ、敢えて要約すると、「世の中が急に変わると、殿上人だけでなく、下々も困るかもしれない」というだけの話である。

真逆と書いてまさか、と本当に振るのかは知らないが、まさか人を騙くらかして良いはずがない!と義憤の声かは分からねど、そういう声が多く聞こえてくる世の中ではある。


その点については、冗談めかして前回にいくつか書いた。別に参照してもらう必要はない。


所謂陰謀論という立場の寒天、ではなく観点から述べるとすると、政府やらそれらを操る悪辣な存在は、一般大衆には知らせていない秘密を握っていて、世の中を恣にしているのだ、と読みにくい漢字を書いたので改めて、ほしいままにしているのだと。


ほしいままに出来ているのかどうかはともかくとして、何故秘密にするのか?を少し考えてみよう。

一つ。分かり易いところだと、悪行の隠蔽。
よく言われる話ではある。個人でも悪事が露見しそうになったら誤魔化そうとするものである。わたしはしない!とかいう話は水掛け論である。

二つ。例えばになるが、軍事機密などは秘密にする。
単純な強みは見えるようにするとしても、弱みは見せるわけにはいかないだろう。
裏表のない友人関係ならばともかく、魑魅魍魎跋扈する世の中は、今も昔も続いているのだから。

三つ。二つ目に被る部分もあるが、広まってしまうと収拾がつかなくなる恐れがあるからというもの。
オカルト方面からの陰謀論などでは、魔術を使って世の中を操作している、という具合の話をしている。
それで、魔術というものは全て悪辣なものだ、という、まるで中世の魔女狩り時代と同じ論法で語られていることも多い。
これが時代の最先端だと、その方面ではない陰謀論者が自慢していたような気がするが、それはともかく実際は時代錯誤である。

拙としては、どれもこれも有るだろうと思っている。三つしか出さなかったというより、パッと思い浮かばなかっただけだが、他にもあるだろう。


前々からここをお読みの方には言うまでもないところだが、そういった悪行三昧の存在として、陰謀論方面から親の仇のように非難されている人物の言葉を書いておく。

「人が意識して行うことは全て魔術なのだ」と。

その人物の名は、アレイスター・クロウリーである。

善人であるかは別として、高名を馳せた稀代の魔術師である。


これはつまり、魔術師という存在にとっては、魔術師だからというのもあるが、この世の中で人を動かしているということ全ては魔術なのだと。

魔術師だから、と書いたが、例えば日本語では犬というが、英語ではDogになるのと同じだと思えばいいとしても、他の概念に思い当たる節がない。

ないが、秘教的なものや、種々の宗教の究極なども、同じようなことを言っていたりはする。

東洋だと万物の根源は気である、つまりは気で出来ていて、修行によってそれを扱えるようになるとしている。

万物の根源を自由に扱えるというと、つまりは奇跡のようなことを起こせたりするとなる。

論理は違うが、魔術と呼ばれているものも、同じような道筋を辿っている。


釈迦も物質については、似たような事を発見している。

物質はカラーパという、これ以上小さく出来ない粒からなっていて、この粒は生成と消滅を繰り返しているという。

意味と言い方が似てるから、日本語のこれこれは海外のこの言葉から来ている、というような説が一時期出回っていたが、からっぽの元かもしれない、などと思ったものである。


こういうのは、そういう突き詰めた人だけが出来ているので、関係ないと思われるだろうが、出来ないと思っている時点で、もう出来ないのである。

これもまた、「意識して行」った結果だからである。とはいえ、意識したら目の前に飯がいきなり出てくるとはならないのが、この物理世界ではある。


一口に意識と言っても、色々ある。奇跡を瞬時に引き起こすほどのものもあれば、単なる偶然のように思われる程度のものまで、千差万別とはいえるが、それはつまり、力の大小や働かせ方の違いなどしかない、同じものから来ているのである。

同じと言えるが、区分はある。ユングの心理学辺りが有名で、分かり易いだろう。大雑把に三種類に分かれている。興味のある方は、お調べいただく。


さて、話が飛んでいるように聞こえるだろうが、こういう結論を下す。

政府やら秘密組織が悪辣な陰謀を働いているというのを口汚く罵るというのは、実はその対象と自身を同化してしまっているのである。

何故なら、世界というものは、あなた無しには存在していないからである。あなたは、あなたという世界を罵倒するという、つまりは天に唾する行為を繰り返していたに過ぎないのである。


ガシャドクロを公表するかどうかで世の中がひっくり返るかどうかは判らないが、それが紛うかたなきものだとするならば、単純に学術的な話だけでも、権威が権威に胡坐をかいていただけなのがバレる可能性は高い。

学者によっては席を失うだろうし、公的教育機関も相次いで混乱するのは目に見えている。

隠すのは当座しのぎという奴でしかないとしても、これを隠すなと、隠す奴は泥棒だと口を極めて罵ったとすると、それが文字通り口火となって、ガシャドクロは炎のガシャドクロへと変貌するであろう。

ガシャドクロに火をつけてしまったあなたともども、「世界」を焼き尽くすことになるのやもしれぬ。

前回は隠そう(焼こう)としたら燃えて、大変なことになるだろうという意味合いで書いたが、上記は向きが違っている点をご了承願う。



言うのもバカバカしくはあるのだが、魔術だのガシャドクロだの政府やら権威に胡坐かいてるだのと、ある程度具体的な言葉を示したのだが、これらに纏わることを非難するな、という意味ではないことをお断りしておく。

また、褒め称えよ!末代まで崇め奉れ!というわけでもない。

魔術と聞いていい顔をする人はまず少ないし、また逆に学者が言っていたといって不審な顔をする人も多くはないだろう。

ガシャドクロと聞いたら、江戸時代の浮世絵を思い浮かべるのは結構である。


あなたという世界を炎上させる薪は、地下に埋まっているガシャドクロだけではない、ということをご理解いただければ、それでよろしいかと存じる。


では、よき終末を。


ガシャドクロは荼毘に付せられるか

2019-10-21 | 雑記
先日、「いつもの話で詰まらないから、昔のゲーム実況動画でもどうぞ」と書いたら、そのページにアクセスしている方が少々おられたようである。

といっても、某元陰謀論者と共謀したラヂオ(という名称)の方であった。

ご注意を。真実を具体的に語るというのは、事実どまりであって相対的なものに過ぎないことを。

語り部の良心の有無すら関係なく、まがい物に堕する危険性を常にはらんでいる。


などと脅かしておいて、続けることにする。


以前、日本のどこかでガシャドクロが見つかったようだ。

しかし、機能停止状態で土に埋まっていたので、ごく一部を除いて危険性はなかった。崖から崩れてきて潰されるとかいう現場での危険は別として。

ガシャドクロってなんだ?というと、古来から語られている大きな人の骸骨の姿をした妖怪のことで、ついにその存在が確認されたのである!!


とまあ、一部本当の話で、ガシャドクロの証拠ではないが、ご存知の方もいるかもしれないとはいえ、一連の流れを記す。


3.11の後かそれとももう少し近年の大雨の時だったか、とある地域の崖がごっそり削れて落ちたという事件があった。

直後のテレビニュースの報道で、その崩れた崖をヘリから映した映像を流していたのだが、そこにとんでもないものが映っていたという。

それは巨大な人骨で、人が立っていても豆粒のような距離になる具合でありながら、詳細に形が見て取れるという代物であった。

どうしてそこで何も引っかからずに、というのも、放送する時は嫌な言い方をすると「検閲」をしてから映像を流すのに、生放送でもなかったようだが、そんなものが映りこんでいたのだとか。

後日、これはいけないと現場も思ったのか、同じ上空から改めて映した映像には、巨大人骨のあった場所に、これまた大きな青いビニールシートが被せられていたという。


それでちょっとした騒ぎになっていたことがあった。ありゃなんだ?と。しかもわざわざビニールシートなんぞ被せ直してるのは余計に変だと。ただの崩れた崖に無意味にかけるものではない。

後にマスコミ側が、ネットに拡散されたその映像に対して述べた見解はというと、「個人がいたずらでつけたもの」であった。

世の中に、ジョーク画像というのはあるが、そういうのはただの切り貼りであり、実際にニュースを見た人や録画で気づいた人も多数いたと思われる。

その上合成としてもただの切り貼りではない具合な上に、合成するにしても個人で作るにしては手間のかかる代物で、尚且つジョークで出すにしても悪趣味であり、紹介された理由も冗談のためではなかった。

あれは妖怪ガシャドクロです、なんぞと現代人が言ったり信じたりはしないだろうから、マスコミがそういうわけにもいかず、「個人のいたずら」ということにされている。


さて、話をガシャドクロとか言って書きだしたところに戻る。

「一部を除いて危険はなかった」と書いた。

だが、これは嘘である。場合によっては皆々の生活にとても影響が出る恐れがある!!


何故ならば・・・真実が広まるというのは、決していいことばかりではないからである・・・。


思想家の呉智英が昔出した著作の「はじめに」に当たる部分で、中学生のころだかに修学旅行で広島に行った話を書いていた。

原爆資料館の入り口に、「心臓が悪い方や妊産婦の方など、負担がかかると危険な方はご遠慮ください」という、よくある注意書きをあまり気にせず読んで、原爆被害の生々しさを堪能してきたそうな。

しかし、後年(その著作を書く前に)思い出して、はたと考え至ったのが、原爆資料館の入り口で読んだ注意書きであった。

それはつまり、皆が皆、真実を受け取ることは出来ないのだということに思い至ったという具合の内容である。


馬鹿な!真実を隠しているなんて既得権益がどうたらこうたら!という意見は確かにそういえるが、ならば、その既得権益は、例えば上記のマスコミだとか、地下から出てきた古い物なら、考古学の分野になるだろうし、いわゆる陰謀論なら政府がとか、なんたらの陰謀だとかになるが、果たして、そこにしかないのだろうか、と考える。


まずはテレビの話にしてみよう。

崩れた崖からガシャドクロが見つかったと。ガシャドクロは仮名だが、面白いのでこれで行く。

上記のニュースから派生して「世紀の発見だ!」とテレビや新聞や雑誌も騒ぎ立てたとしよう。

では、今まで某国営放送でドキュメンタリーだとか教育番組で流していた内容はどうなるのか?

彼らや我々が学校で習っていたことは無意味だったとなる。なら、無意味なことを信じ込ませていた彼らはどうなるのか?

もはやその権威は地に堕ち、新聞は売れず、テレビは総スカンを食らい、広告料ももらえず相次ぎ倒産となる。

日本の意見を代表していないのに代表していると標榜している新聞なんかが無くなるわけだ。ついでに別の新聞もなくなるし、新聞社が抱えていたテレビ局もなくなる。

すると、それらに関係している業者も全て潰れる。輪転機(新聞を刷る機械)は、某宗教団体が回してくれるとしても、あれらもマスコミを抱えているので、影響がないわけではない。

今まで羽振りがよかったお客様がこぞって消えていったので、お店も閑古鳥が鳴く。

世の中恐慌状態に陥り、ますます某宗教団体だけでなく、魑魅魍魎跋扈する新興宗教界隈から百鬼夜行が起こるであろう。恐ろしや恐ろしや。



テレビ、といいつつ付随した話にもなったが、テレビというよりマスコミからの影響という点になった。

次は地下に埋もれていたという点で、考古学だとか歴史学の方にしてみよう。


いわゆる「心ある」学者が、ガシャドクロの考古学的歴史学的重要さをアピールし、大々的に研究を始めた。当初は乗り気でなかった学会も、研究が進むにつれて、ことの重大さに気づき始める。

というのは、今まで胡坐をかいていた権威が、ガシャドクロが見つかった崖のように崩れるからである。

もし、今までの業績が全て覆されたら、今までヘコヘコと権威に従ってきてようやく成ることが出来た教授や学部長の地位も危うくなり、尚且つ恩師の業績に泥を塗ることになる・・・!

これは消さねばならぬ!ということで、その「心ある」学者が派閥でないことを奇貨とし、八方手を尽くして闇に葬るのである。派閥だったとしても、恐らく関係なく。

恩師の業績云々は、人並みの良心と情状酌量しておくとして、闇に葬られなかった場合、これらは教育界にも波及する。

教科書は全部書き換え。現代ならネットで先に広まってしまうので、すぐに切り替わらない学校教育は、教師は下手をすると子供から馬鹿にされて、学級崩壊が加速すること間違いなしである。

すると、ストレス発散に激辛カレーで同僚後輩をいじめる輩が増えて、もはや教育界の権威は地に堕ちるどころか見つかる前のガシャドクロの如くに埋もれるであろう。

まあ、そのようなものは後年見つかっても、誰も見向きもしないだろうが。

学校が潰れれば、これまたそこに教科書を卸していた出版業界にも多大な影響が出て、歴史学や考古学で著名な大学は振るわなくなる。

進学率は下がり、低収入の人が溢れかえり、お店も閑古鳥が鳴く。

すると、「これを祈れば幸せになれるよ。一緒に頑張ろう」と誘いに来る人も誘いに行く人も増える。恐ろしや恐ろしや。


このノリで政府については、と書こうと思ったが、流石に呆れてきた。飽きたというより呆れた。少し短くして書く。


お店は閑古鳥が鳴くので、税収が下がる。仕方ないので消費税アップ。腰が重いのが取り柄の政府は古今を問わず抜本的な対策を取らないか取れないので、仕方なく(財務省は喜び勇んで)消費税やら酒税やらタバコ税を上げていくしかないのである。

時の総理は思い悩み、血迷ったのか、ガシャドクロの公表に至る。すると、ガシャドクロ特需とでも言うべきフィーバー状態になり、一躍時の人となった。もしくは炎上。

ガシャドクロが好評だったのでと、別のものを公表しようとすると、二匹目のドジョウならぬガシャドクロはいなかったようで、世間は何事もなかったかのように忘れていった。


これはいったい、何を書いているのか?それはともかく。


海外でもガシャドクロが見つかっており、彼の大英博物館にもいたらしい。

といっても、前述の如く、機能停止状態だったので、バラバラにして収蔵していた。

実際に出土して博物館の収蔵品として、公開されることはなかったが、倉庫にしまわれていたそれを公表するわけにもいかず、なんと捨て始めていたという。

それで、当時働いてたある学芸員が捨てられる前に一部を秘匿し、訴えを起こしたという。数年前にそんな話が出ていたようだ。

その報のまた聞きという奴だが、報が出ていた次の年に判決が下る予定と聞いた。続報は知らないが、お店に閑古鳥が鳴くと困るので、その学芸員の訴えは退けられたと思われる。


閑古鳥は恐ろしい。真実なんぞ覆してしまうのだから。


さて。冗談めかした話だけでは飽きてくるだろうし、既に飽きているだろうが、少しだけ丁寧に話を続ける。


今から何十年も前。南米のペルーのイカという場所で、奇妙な石が見つかった。

様々な大きさの石に、何やら彫り込まれていて、ある医者は診療に行った際、お土産にいくつか貰ったという。

よくよく見ると、現代考古学ではあり得ない事柄が記録されており、話題になったのだが、当時は新聞にこう書かれた。

「あれは地元民が作った、意味のない偽物」と、それを作ったという地元民の証言も載せた。

のだが、実は軍まで動き出して、隠蔽していたというのが、その石を貰い、奇妙なことに気づいて研究し始めた医者のインタビューやら取材で発覚したという。

とはいえ、無駄に騒ぎになって混乱しないように、という配慮だったようだが、詳細は忘れた。

そのドキュメンタリー本の翻訳版が、引っ越し前まで家にあった。

少しだけ読んだが、前半でそういう話が出てきたものである。

イカの石というものと、そういうことがあったと認識出来ただけで充分と思ったのもあり、全部は読まずに翻訳者のあとがきを読んだのだが、翻訳者は頭痛がずっと止まらなかったと述べていた。

今まで当たり前だと思っていたことが全部崩れていったからだという。そして、翻訳作業の足しになればと、海外の考古学界隈についての暴露本を読んだら、これまた頭痛が酷くなったという。

今となってはタイトルを思い出せないが、その当時は何かでタイトルを見たことがあるその書籍は、海外の考古学が権威の維持のために、真っ当な研究を潰していたことを書いていたという。

やはり、洋の東西を問わず、閑古鳥には勝てなかったようである。

格好をつけようとしてカッコウに鳴かれてしまっては、形無しである。(カッコウは閑古鳥の別名)



権威に座する神々は、ガシャドクロを燃やしてしまおうとしているようだが、それはラグナロクの始まりかもしれない。

その炎は世界を焼き尽くすことになり得るだろうから。

それから後に聞こえてくる閑古鳥の鳴き声は、今まで植え付けられてきたイメージと比べるまでもなく、心地のよいものかもしれないが。


では、よき終末を。


ナショナリズムは国境を越えて

2019-10-11 | 雑記
先月、何かの拍子にジョージ・オーウェルの『ナショナリズムについて』という短編を読んだ。

たまたまたどり着いたサイトで翻訳文を読んでいたのだが、サイト運営者が書いているにしては時間が古いのに当時のように語っていておかしいと思い、ページのトップに戻ってみたら、「ジョージ・オーウェル」の名と著作名が書かれていたのに改めて気づいた。

そういえば、岩波文庫か何かの巻末の既刊一覧で、このタイトルがあったような気がする。それなので、仕事が終わっていたのもあって、読んでいた。


誰の発言だったか思い出せないが、「ナショナリズム」という言葉は少し翻訳しづらいという。

国粋主義とよく訳されているのだが、それも面倒になったのか当てはまらないのか、上記の著作名はカタカナである。


一般に国粋主義とするなら別に問題ないだろうが、読んでみると、上記の著作では実際に無理があるなと言える。


なにせ、オーウェルが指摘している作家や政治家は、イギリスの人間でありながらイギリスのことを無視して、その人物が理想としている他の国への「ナショナリズム」だったからである。

これを「国粋主義」と訳するのは無理があるだろうと。

例えば、その中に挙げられたある人物の言動は、何で読んだか思い出せないが、同じことを指摘していたことを思い出したものである。

誰で何の話だったかは忘れたが、端的に言うとこうなる。

イギリスが戦争か何かで常軌を逸した行いをしていたのを糾弾していながら、その人物が心の中で忠誠を誓っている(らしい)国がまったく同じようなことをしているのを聞いても、無視するという。

そのナショナリズムの分類を示して考察していたり、上記の話なんかは人物や出来事が違うだけで、現代にも当てはまるという点で、実に面白いものであった。

現代日本なら、直近は日韓関係が当てはまる。もっと前で現代にも続いているが、日中関係というのもある。別にそのことを詳しく語る気はないが、一昔前の「韓流ブーム」や、慰安婦問題で日本を糾弾する癖に、ヴェトナムで韓国軍が何をしてきたかは報道しない(海外で人権団体が問題提起しているのに)といった流れは、もしかしたら「ナショナリズム」のなせる業ではなかろうか、などと考えたものである。文字通りのナショナリズムを持った他国人の影響だけにしては妙だと。

慰安婦問題が完全に向こう側の主張通りで反論の余地もないのであれば、ヴェトナム戦争時の韓国軍の蛮行について指弾するというのは不毛だろうとしても、国内はともかくとして、韓国国内でもその主張がおかしいことを発表している学者が現れている状況である。

丁度この記事を書く前に、その韓国の学者が言っていたことを読んでいた。

彼が言うには、韓国の独立は独力によるものではなかった(この辺りは周知の事実ではあるが)ゆえに、その心のスキマを埋めるために神話を作るしかなかったのだという。

そして、それを制する知性と器量を持った政党は今のところ韓国にはない。しかし、三十年もすれば変わるだろうとのことである。

後は自虐かもしれないが、「その時まで韓国が存続していれば」と。


三十年。日本の法律などでも成人は二十歳ということになっているが、生まれた子供が大人になるまでの時間がかかるようである。



この、「独力で為せなかったことの埋め合わせに神話をでっち上げる」というのは、実に興味深い。

小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で指摘していた、現代日本の精神構造にも当てはまるものである。

よくある「今の若者は」という言い草の代物ではあるが、現代日本の場合は高度経済成長期と、達成された後にそっくり受け取ることになった現代の若年層、という括りである。

新興宗教だとか市民運動にハマっていく原因だといっていた。


韓国の学者も小林も同じ言葉を使っていたが、アイデンティテイが脆弱だとか、それに空白があるという。


何にせよ「埋め合わせに神話をでっち上げ」ているといえる。


神話、というと妙に聞こえるので、現代的な言葉に置き換えるとすると、フィクションとなる。

それで、翻訳すると?と聞かれる前に答えるならば、作り話である。


ここでよく語っている言い草に則るならば、現代社会というのは作り話である、というところであろう。


ネット上で本名を晒すのはよろしくないというので、「作り話」で示すが、拙の名前は「山田太郎」であるとする。

だが、これは本質的に「作り話」である。例えで出した仮名だからというわけではない。

あなたは「山田太郎」という名前とそれに付随する経験や記憶に対する解釈を施した、「山田太郎」という「作り話」を生きているのである。

そういう意味では、「山田太郎」という人物は実在しない。

存在はする。しかし、同姓同名の「山田太郎」は、同一人物ではないだろう。百人百様の「山田太郎」が存在することになる。

わたしは「わたし」という「作り話」が無ければ生きていることはないのだが、この「作り話」が全てではないのである。

こういう話は初期仏教が散々語ってきたことなので、特に目新しい話でもない。えー、現代的に言いますとぉ、スピリチュアルとでもいいますかぁ。


そして、前回も語ったのだが、「作り話」は頭の中の話だけではなく、物質自体もだったということである。冗談めかしていうなら、これもまた「作り話」となるか。


パッと「現代社会は作り話」と先ほど書いたが、これは場所や生活様式といった狭義の意味ではないことを、ご理解いただけるかと思われる。

そして、種々の現代社会に存在しうる物事に拘泥することや、あまつさえ忠誠心を抱くなどというのは、オーウェルの指摘していた「ナショナリズム」と大差ないことも認識できるだろう。

具体例は常々書いてきたが、ご自身の経験や記憶に当てはめて類推するのが最も理解しやすいかと思われる。

人は「ナショナリズム」という「作り話」に拘泥していてはならないのである。


「作り話」の向こうがあるなら、それこそ「神話」といえるだろう。

そして、「ナショナリズム」は容易に国境の如きを越えることは出来るが、この「神話」を越えることは出来ない。

何せ越える国境がないので、己で国境を引いては越えて、引いては越えてを繰り返すだけなのだから。


では、よき終末を。


中性の秋

2019-10-08 | 雑記
今朝、仕事の交代をしながら、直接ではなく他の人のやり取りを聞いていたら、「今朝は寒いが、昼間は暑くなる」とのことだった。
まるで夏と秋が同居しているようだなぁと述べると、それを聞いていた相手は「ホントにそうですねぇ」と答えていた。

ただ、曇っているので現時点(昼の二時半ごろ)では涼しくはない、という具合である。家が熱のこもりやすい構造なのもあるので、外の方が涼しいのかもしれないが。


というわけで、今だに折々に触れて繰り返している話をまたやろうと考えている。


サル、ではなく然る翻訳家がどうこうという話である。

彼の人物は、今はその相棒が表立って更新しているHPはあれども、本人は恐らく登場していないようで、農業専念しているようである。

その話をものすごくかいつまんで喋る機会を得てしまい、少々書き散らそうというわけなので、見飽きた人はずっと昔のゲームの実況プレイ動画でもご覧いただいた方が楽しいであろう。ブログをずっと遡れば埋め込みで入れてある。このブログのリニューアルで使えなくなったとかがない限りは見れるだろう。

それはともかく。拙が何を言っているのか、もしくは考えているかの復習となり得ると思うので、しばしのお付き合い願う。


然る翻訳家が翻訳した、海外の活動家の啓蒙本というのがある。

その主張を掻い摘んで言うと、「物質は幻で、普通の感覚ではつかみどころのない潜在だとかの意識が人間の本体だ」というものである。

物質が幻?御冗談を。という方も多いだろうから、その本にあった内容も併せて書いておこう。

まず、その本には無かったと思うが、かのアインシュタインは『相対性理論』において、こう主張している。

「物質とエネルギーは同質である」と。

申し訳ないが直に読んだわけではない。とはいえ、この手の話を書いているところで、そう引用されていた。

エネルギーと形容される状態というのは、物質とは言えないだろう。

石ころが転がるとき、その転がる力は何かの物質と言えるだろうか?何かの物質が原因だとしても、転がり続ける理由になるだろうか?

火あぶりにされて驚いて動いたとかいうメルヘンな理由があったとしても、火から離れればもはや関係はない。

案外、本当に火あぶりに驚いたのかもしれないが、それは措くとする。

そして、上記の啓蒙本の話では、最先端の物理学の見解を引用していて、ほぼ同上となる。

物質というものを細かくしていくと、行き着いた先はモヤのようなもので、確たる形のない状態だったという。

そして、このモヤのようなものは、人の意識でもって動きうるというのが、物理学の見解なのだと述べていた。

完全に制御できる、とは言っていないが、それが出来たら出来たで、色々と困るだろう。

それ故に、例の海外の活動家は、人の本質は物質にはなく、意識なのだと言っている。

これが、その著作の主張である。


ただし。それらのことを理解するには心身の感覚が健全でなければならないのだが、それらを阻害する働きの物質(例:アスパルテーム、グルタミン酸ナトリウム)だとか設備(例:WiFiなどの電波や特定の周波数に調律されたテレビやラジオから流れる音)を広めて人類を牢獄に閉じ込めているのだという。

この部分は陰謀論と括られる部分だが、人間の本質についての論はスピリチュアルだとか精神世界というカテゴリになるだろう。


一読しただけでも、すぐ上記からさらに上記の内容に繋げて論を展開しているというのは判るものだった。


のだが、何を思ったのか、然る翻訳者は、本質に向かうために気付いてほしいこと(前述の人類を牢獄に云々の箇所)が全てだと主張しだしたのである。

そしてさらに、「彼の言っていることは昔から言われてきたことに過ぎない」とまで切って捨てた。

(何かの基準や戒律などによる)正しい食事と生活をすれば、人は正しく生きられる、というのもまた、昔から言われてきたことに過ぎないのだが、そこには思い至らなかったらしい。

こういえば勘違いされることが世の中多いのだろうが、そういう生活は無駄だから辞めろと言っているわけではない。

乱雑で投げやりな生活をするものに、慎重さを求めるのは無理だというのは言うまでもなかろう。


例の啓蒙本の話から例えるなら、こうなる。

「有害な食品添加物や電波や周波数を避ける生活を志すというのはよろしいが、それが出来たことと本質に到達するのは別なのだ」と。

件の活動家は、ニューエイジャーに世界の危険さを伝えに行ったそうだが、「そんなネガティブなことを聞かせるな」と、まったく相手にされなかったそうで、こう述べている。

「健康だからといって、判るわけではないのだ」と。


物質を覆すことは出来ない、というのは常識のようだが、実際はこれ自体が思い込みというものである。

だったら今すぐ金塊でも出して見せろ!というのもまた、常識的な反応であるが、物質界隈のみが全てだと思い込んでいるからそういう反応になるというわけである。

もうこの時点で受け付けない人は受け付けないだろうが、構わず進める。


我々の人体は数多の細胞で構成されており、その細胞もまたアミノ酸だとか炭素だとかの細かい物質で出来上がっている。

さて、既に述べたが、物質の本質はモヤのようなものだと。

例えばナトリウムなら、空気に触れると激しい酸化反応を起こして、量によっては爆発する。

これがナトリウムの本質となるが、それもまた本質ではないことになる。

ナトリウムをナトリウムたらしめているのは何か?人を人ならしめているのは何か?

もっと具体的に言えば、そのモヤをこねてこの世を作り上げたのは何か?という問いかけが必要なのである。


判らないから問いかけるのが、人に必要なことである。それは、判ろうとしているからである。

そのモヤをこねてこの世を作ったのが神だというのなら、我々は神とは何なのかを判ろうとすべきである。

判ろうとするというのは、その対象と同じになるということなのだ、というのを何かで読んで、以前にもここで書いたものである。


話が少し戻るが、物質が意識で動くというのなら、金塊でも出せるのか?というと、実は出ているのだそうな。

どこに出るのかというと、一般でいう「あの世」には出ていると、とある専門家が語っていた。

「あの世」には出ているのだが、物質化するには時間や砕けた言い方だと気合が欲しかったりと、一筋縄では行かないのであるという。

それをどうしていくか、というのをセミナーを開催して教えている人が、そのとある専門家なのだが、これは余談である。


判ろうとするのを辞めた時、それは堕落の始まりである。

鰯の頭も信心からというが、つまりは堕落しているといえよう。から、なので、その先を含めている言い方ではあるが。

鰯の頭を拝めば万事解決!などとやっていたら、鰯の頭も困って頭を垂れてしまうというもの。



人もこの世にも、本質的な善も悪もないという。ただ、バランスを欠いているのだという。

酸性でもアルカリ性でもない、中性がよろしかろう。

丁度、夏と秋が混在するような天気である。『中世の秋』ならぬ、「中性の秋」とでも名付けよう。

葉の色が変わりかけている木々でも眺めながら、思い起こして戴ければ幸いである。


では、よき終末を。