ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

その視線

2018-11-24 | 雑記
先日のことであった。いつもの通勤で通り過ぎる、小さな公園がある。帰宅は一定しないが、帰宅時にも通ることは多い。

そこは住宅街の一角で、道路に面している。横断歩道で車が来ていないか確認していると、公園で遊んでいる親子がいた。

よちよち歩きという具合の小さな子と、その母親と思しき女性が戯れている。

歩道を渡り、公園の敷地に一歩踏み込んだその刹那だった。


母親と遊んでいたその子供が、こちらを見出したと同時に、動かなくなった。発作だとか躓いただとかいう話ではない。

動かなくなってこちらを見ているというのは、公園に足を踏み入れたと同時に分かったことだったので、どうしたのだろうかと思いつつ、その近くを歩いていく。

というのも、急に先ほどまで遊んでいたのが固まってしまったので、母親が柔らかそうなそのほっぺに風船(に見えた)をあてがいつつ、「ほら、ボール」と語りかけているのに、微動だにしない。

かなり近づくまで、こちらも視線をそらさなかったので、こちらを見ているというのは理解していた。母親は子の方を見て、上記の行動をしている。

こちらも立ち止まったり、見つめ続けると不審がられるかと思い、視線を進行方向に合わせ、そのまますれ違うことにしたのであった。母親と思しき女性が、その子にボールをあてがいつつ名を呼んでいたのが記憶違いでなければ、女の子だったと思われるので、余計に気を遣ったのである。


これは以前、たまにニュースだとかになった、「事案」の逆だなと思いつつ、仕事に向かうのであった。



仕事場について着替え、ふと思い出し、仕事場にいた、そういうネタを言ったり言われたりする女性スタッフ(人妻)に、「さっきこういうことがあってな」と語ると、こう返ってきた。

「ああ、きっと宇宙人を見たんですよ」と。

つまりは、単純に、拙のことを宇宙人だと言っているのである。

宇宙人なら、知っている人だけのネタになるが、カバンからアイスクリームを取り出したりしなければならないと思うのだが、そんなことは出来ないのに何故か、拙は宇宙人扱いらしい。

肌は浅黒いので、最近やっている松本零士原作のアニメの登場人物の宇宙人にも見えないというのに、困ったことである。


自ら宇宙人だなどと名乗った覚えはないのに、それに近い話もあった。


夜勤スタッフの一人が、先日風邪を引いていて、声がおかしい。「風邪か?」と問えば、「熱は下がったけど、咳が止まらない」とのこと。

すると、当日のチーフが言う。「気でも送って治してあげなさい」などと。

その人物に直接、気が見える、という話をした覚えはない、というのは、前にも何度か書いたものである。いきなりこんな話を見た人には申し訳ないが、そういう話を書き綴っている、訳のわからないところだとご理解願う。

出来ません、というのも何なので、「他人にやったことないので、効くかどうかはわかりません」と返すと、「やっぱりできるんじゃないか」と答えた。

何故そういう話になるのかとさらに問うと、件の人物はこう答えてきたものである。

「出来そうに見えるから」と。


ふむ。そうなると、拙は宇宙人に見えないこともない可能性があり得るので、少々訓練を積んで、カバン(拙のカバンは結んだ風呂敷だが)からアイスクリームを取り出せるようにならなければならないと、思わなくもなかった。


作家のひろさちやが言っていたものだが、世の中を見る時に、他の人と同様に見ていては仕方がない。そうしていると、ウンコ地獄(実際そう書いている)から抜け出した視点を持てないから、例えば宇宙人になったつもりでこの世を見てみるのはどうか、などと。

人というのは無限の可能性であると言えなくもない。ならばどうするか。

そうであるならば、この世に起こることを、全て珍奇なものと捉えれば、毎日が不思議なものでしかないのだと思えるだろう。

今もやっているのか知らないが、トミー・リー・ジョーンズが出演している、某缶コーヒーのCMの如きである。


我々は、地球へ調査にやってきた宇宙人なのだ、などと思えば、この世は摩訶不思議で、何が起こっても腹が立つというより面白いことなのだと、毎日が楽しくなるか、面白すぎてストレスになるかのどちらかになってしまうかもしれない。


では、よき終末を。


理解できないから?

2018-11-07 | 雑記
今年の夏から再開している、某オンラインゲーム。

去年の夏ごろから続いていたシナリオが終結を迎え、その終わりと同時に、次のシナリオへと続く形を示して幕切れとなった。

もちろん、打ち切りではなく、来年のアップデートで新章が始まるという意味である。

漫画の終わりでいうと、敵を倒したー!と思ったらもっと強敵が出てきたー!続く!である。週刊漫画なら休載でもなければ来週になるが、こちらは何か月か待つこととなる。


その某オンラインゲームのシナリオの評判は、どちらかというと悪い。

具体的な内容をあげつらうつもりもないし、それにシナリオの批評をやるつもりもないが、何にでも当てはまる難点をいくつか挙げれば、設定の矛盾だとか、演出が悪いだとかはある。

もっと詳しい非難もある。シナリオライターが、かつての自身の小説の設定を流用して、その某オンラインゲームのシナリオに使っているだとか、読んだこともない人間にしたら、「よくぞそこまで調べたものだ」と思わなくもない。

思わなくもないが、実際にその点は危うくもある。シナリオライターが運営会社の財産を私物化している状態になるのでは?という指摘なのだが、そこまでいくと、シナリオの良し悪しに対する直接的な非難とはいえない。

古くはラヴクラフトが始めた小説のごとく、シェアワールド的なノリを、オンラインゲームのシナリオで展開しようという試みだったのかもしれないが、推測の域を出ない。しかも、ただの思い付きの推測である。


ここでたとえ話をする。


「桃太郎」と呼ばれるおとぎ話がある、などというと、馬鹿にしているのか?となるが、とりあえず。

始まりはこうだ、というまでもないが、改めて。

おばあさんが川へ洗濯に行くと、大きな桃がどんぶらこと流れてきて、じいさんと食べようと思い持って帰り、柴刈りから戻ってきたじいさんと共に切ろうとしたら、中から子供が出てきたと。

また、「竹取物語」だと、竹の中からこれまた子供が出てくるというのもお馴染みであろう。

馬鹿な!人がそんなところかから生まれるはずがない!こんな話は出鱈目だ!と非難するのを聞いたことはない。されているのかもしれないが、知らぬ。

ちなみに、「桃太郎」は実は改変されていて、川から桃が流れてくる点は同じなのだが、老夫婦がその桃を食べると若返り、そこから子作りをして生まれたのが桃太郎の主人公という流れだとか。

ああ、それなら…。いや!桃を食って若返って子作りなんぞあり得ない!こんな話は以下略!という非難の向きも聞いたことはないが、子供に子作り云々と直に言うのは近代社会ではタブー視されるので、現代に流布している形への改変となったようではある。

だが、こういう話はずっと昔から受け継がれてきた。なぜだろうか?こんな破綻した設定のシナリオがどうして?と思わないだろうか?


話を戻す。

某オンラインゲームのシナリオのジャンルは、「SF」である。SFは和製英語らしく、サイエンス・フィクションだとか言われたりしているが、厳密な定義はよくわからない。

とある漫画家だったかは、「少し不思議の略」だと申していたそうな。記憶が確かなら、藤子不二雄のどちらかだったかと記憶しているが、曖昧である。

話が出たついでに、藤子不二雄の漫画、厳密には藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の話でも思ってもらうとよかろう。

ダメな小学生ののび太のもとに、未来から猫には見えない猫型ロボットがやってきた。目的は、過去を改変するためである。

のび太がこのままでは未来の子孫が困ってしまうので、送られてきたという話だったはず。

こう書くと、映画の「ターミネーター」を思い出す。ロボットが助けに来るのは「2」の方だったが。

よくある考察だと、「ドラえもん」の流れでいけば、そも未来はもともとののび太がそのまま過ごした先にあるわけで、このままだったらダメになってしまう状態なら、その未来は生まれてこないはず。

なのに、ないはずの未来があって、そこから過去ののび太を助けるという矛盾が起こっているとなる。

「ドラえもん」を見ながら「なんだこの矛盾は!」と憤りながら見ている人は、寡聞にして知らない。怒らなくても、おかしいと思っているせいで仏頂面になりながら見ている人は、いるのかもしれないが、全国にアンケートを取って調べているわけでもないので、知りようはない。

未来が過去を助けるというこの理屈は、実は、時間が不可逆的なものではないという論理の元では当たり前の話となる。

いきなりなんだそれは?となるが、別にタイムマシンで飛んで行って助けてくるというのが当たり前だと言っているのではない。


あなたの過去にひどく辛いことがあったとしよう。ないという人もいるが、ともかく。

それを延々引きずっていて、今も辛いと。しかし、ある時、それに纏わる、当時はわからなかった事情を知ったりして、トラウマになっていた過去に対する評価が逆転してしまい、今ではむしろそのことに感謝するくらいで、今は快適だという話があるだろう。

実は、この理屈である。タイムマシンだとかはたとえである。実際にそのような物が未来に出てくるかは、拙には何とも言えないが。

トラウマの原因が実は、掛け替えのない物だった、などというのは、それが陰惨な事件だったりしたら、ひどいシナリオだと言われそうだが、そんなものである。


ある、名前は忘れたが、海外の文芸評論家が言っていた。「我々は批評家になりすぎている。作品をもっと楽しむべきなのだ」という具合の事を。楽しむこと自体に没頭するべきだ、だったか。


某オンラインゲームの、去年から先日まで続いていたシナリオは、言わば夢物語の世界を探索するというものだった。

「お話の世界」である。その結末の方では、実際に何でもありな状況が起こり、主人公の助けになっていき、結末を迎える。

こんな都合のいい流れなんぞあるか!だとか、めちゃくちゃで話が頭に入ってこない!という風な非難の向きがある。

「お話の世界」はなんでもありである。あなたが決め付けている、既定路線の外にもお話はある。


上記のたとえ話をもう一度。

トラウマの原因だった過去の事件が、例えば、目の前で親を殺されたことだったとして、実はその親が自分を殺そうとしていたのを、たまたま忍び込んだ泥棒が仏心を出して、止めるために殺してしまった、というのを知ったとしたら、どうなるだろうか?

その親がどうして殺そうとしてきたのかは、もはやわからないとしても、殺そうとしていたのも覆らない事実だったとしての上記の流れなら、感謝一辺倒にはならないかもしれないが、殺した相手を憎むだけにもなるまい。

めちゃくちゃな話ではある。



彼らは、彼ら自身の「お話の世界」を楽しむことができない。だから、シナリオをけなす。

自分の知識や感覚や想像力がなまくらだったりすることは、思いもしないことがほとんどである。

持って回った言い方をしてきたが、別にさっきから書いている、創作上の話のことだけを指しているのではない。

あなたは、我々は、もっと「己というお話の世界」を楽しむべきなのだと。


「お話の世界」はなんでもありなのだから。


では、よき終末を。


鳩が飛ぶ

2018-11-04 | 雑記
先日、毎週金曜と土曜を予約して来店する常連の方が、キャンセルの電話を入れてきたという。今回は土曜のみの予約だったが、木曜に電話を入れてきた。

高齢ではあるが、よぼよぼとは言えない、しっかりしている方なのだが、たまに、今までで数えるほどしかなかったが、体調を崩したりでキャンセルするということはあった。体調不良以外でのキャンセルもあるが、キャンセル自体が珍しい。

だが、今回は毛色が違った。

手術をするという。その時に応対に出たスタッフは今朝も出勤だったので、改めて話を聞くと、死にそうな声でどうなったか、何の手術をするのか、日程はと語るのを聞いていたら、泣きそうになってきたほどだったと答える。

余談だが、そのスタッフ(女性)は、感受性が強いというのか、日本人にやたら多いという、エンパス的なところがあるようで、何かでそういう風に思われることを語っていたものである。エンパスとは何ぞや?というのは、この世には便利なものがあるので、ここでは書かない。

とはいえ、たびたび会う機会があり、たまにお土産を貰ったりする相手が、電話口で死にそうな声で語っているというのでは、恐らく、拙でも同様に動揺するだろう、などとダジャレを言っている場合ではなかった。

話を戻すとして、心臓が悪く、鼻血が止まらないと言っていたとか。心臓で鼻血?と少々疑問に思ったが、スタッフに問い返しても意味がないので、「不思議だな?」とは口に出すにとどめた。後は、上京の理由が仕事のこと以外では趣味で来られている方で、それが体を動かすものなのに、来店時や退店時に、ひどく辛そうな具合の時があったのを思い出したので、あれは今回の手術に至ったものの兆候だったのでは?と所見を述べておいた。

書きながら思ったが、心臓が悪いの種類が違うのだろう。当初思ったのは、心臓の動きが弱っているのだと考えた。
しかし、異常に拍動するのもまた、心臓が悪いとなる。それなら、気血の巡りが激しすぎたりで、鼻血になるのだろうと。

そして、手術をこの日に行うとも言っていたという。それが実は、本日なのである。

その客がキャンセルしていたというのは、金曜の夜には知っていたのだが、その時は体調不良としか聞いておらず、あまり気に留めていなかった。

それとは関係なく、「最近、お参りしてなかったから、帰りは近所の神社に寄っていこう」などと、なんとなく考えていたら、上記の話に行き当たったというわけである。

帰り際、例の電話に出たスタッフに、「じゃあ、最近行ってなかったから、帰りにお参りしてくるわ」と言い残し、帰途に就いた。

そして、その神社に行ったのはいいものの、電車を降りると雨が降っている。

雨は問題なかった。最近、空気が乾燥していたので、唇が渇いたりで、少々うんざりしていたからだ。

問題、というほどではなかったのだが、神社に着くと、着飾った親子が集まってきている。

なんと、今日は七五三だったのである。そういう行事に疎い生まれなので、こういう日にあるとは知らなかった。

拝殿に人が集まって出入りしているので、「辞めた方がよかろうか」とも考える。

とはいえ、時間を空ければよかろうと思い、近所の店で昼食を摂り、引き返したが、やはりまだ人はいる。

「七五三なんで、今日は貸し切りです」というのは、普通のお店ならあり得るだろうが、ここは神社。

そんな神様がいるか!と考え(そこまで乱暴な言葉で考えてはいないが)、意を決して鳥居をくぐった。

話は前後するが、先ほどあきらめかけて通り過ぎた時は聞こえなかったと記憶していたのだが、戻ってくると、境内の木々から小鳥の鳴き声がしきりにしていた。先ほどは聞こえてなかっただけなのかもしれないとはいえ、妙に聞こえる。

念のため、拝殿のすぐ脇にある、お守りやらを売っているところに人がいたので、「お参りしてもいいですよね?」と尋ね(残念ですが、というような答えはなかった)、しばらく振りのお参りを済ませ、先ほどお尋ねをした神社の方に軽く会釈しつつ、階段を下りた。

五、六段ほどの階段を降り切ったと同時に、左手から鳩が十はいなかったと思うが、何羽か飛び立った。すぐ近くに一羽がいたりで驚いたからとは思えなかったのだが、計ったように飛び立ち、こちらの頭上の少し上を飛び越して、鳥居から拝殿に続く道を斜めに横切り、境内の大きな木が植えられている、土のところに全羽が降り立った。

こう書きながらその光景を思い浮かべると、まるで映画か何かのようだなと思うのだが、その時も、実は同じことを思っていた。

さて、帰宅し、ポストを確認すると、これまた予想通り、宅配の不在通知が入っていた。その差は十分未満といったところ。

そして現在進行形だが、この上の行を書いていると、再配達を頼んだ宅配が丁度やってきた。冗談のようである。

ここからはあまり冗談にしたくないというか、少し気分の良くない話である。


再配達を頼んでから、ゲームをしていた。オンラインゲームというのは、物にもよるが、決まった時間に起こるイベントがある。

それに出撃していたのだが、少々調子が悪いなと思っていた。夜勤明けでゲームをやるものではない、というのは忘れてもらおう。

その時間制のイベントが終わって後始末をしていると、ドアをノックする音がしたので、頼んだ宅配が予定より(電話口では、早くて二時から四時の間と言っていた)早く来たのかと思い、確認せずにドアを開けると、見知っている人物がいた。

何のことはない。近所のなんとかインの人である。ビョウインとかオクノインではない。


開口一番、その人の口癖なのだろうが、「忙しいところごめんね」か「ごめんね」という。

こちらは煙草を詰めて火をつける前だった煙管を咥えたままドアを開け、その人が何事かを言ったのを確認した後、こう言ってドアを閉めた。

「ああ、どうも。では、さようなら」

向こうもあっけに取られたかと思うが、五分もしないうちにノックをしてきた。

こういう、あからさまに相手にする気がないような態度を取っているというのに、理解してくれないのが癪に触ってしまったのだろう。以前から言いたかったことを吐き出してしまった。

「もう僕は、創価学会の相手をしたくないんです」と。

いつも困ったような顔をしているその人は(理由の一つとしては、こちらがまったくその方面の公に顔を出さないからだろうともいえるが、そこまでは知らない)、戸惑ったような声で(表情のせいかもしれないが)、「何かあったの?」と聞く。「元から嫌なんです。辞めたいぐらいです」と言って、ドアを閉めた。辞めたいぐらい、となったのは、実家のしがらみがどうこうと続く予定ではあったのだが、そんなことを延々話しても仕方がないので、それ以上は語らないことにしたのである。


ドアを閉めてからは少々落ち着かなかったが、腰を下ろして、ふと思った。

「新聞を止めてもらうように言えばよかったな」と。

感情的になるのは、いい結果を招かないものである。それで、少々やり過ぎたかと考えたのだが、何がそこまで嫌だったのかをもう少し考えると、拙は、その毎度尋ねてくる人物があまり好きではなかったようである。

ドアを開けたり電話を取るごとに「ごめんね」では、あたかも罰してもらいたいかのようである。

陰気が伝わるので、どんどん嫌になってきたのだろうと思える。なら、その創価学会についてはどうなのか?と思う向きもあるだろう。

この話を次に回してもいいが、次がいつになるのかは分からないので、手短に書いて終わることとする。


拙は、宗教を否定する気はない。だったら、お参りなんぞしない。市内のとあるお寺の喫煙所でたびたび休憩していたら、先日は、買い物帰りのお坊さんが「こんにちは」と声をかけてきたぐらいである。その人は声をかける人で、他の人は会釈だけだった、というのかもしれないが。

宗教は、いや、宗教だけでなく、人として生きていること自体を、人は乗り越えていく存在なのであり、そのことを知ろうとしなければ、どのような煌びやかさを示そうとも、世界中で信者が増えてますだと言っても、意味がないのである。
宗教を宗教で完結させている以上、それはもはや物理的な人の世界のうちで終始する、幻でしかないのである。

以前に何度も書いたが、釈迦は宗教を作っていない。イエスもキリスト教を作ったのではない。

人という枠組みを知って、それを乗り越える足掛かりとなるか、それとも足枷となるか。

宗教としての宗教は、決して前者には導かない。足枷となるからだ。

また、それに気づくのは、個々人のみであり、教えたからといって、同じようになるものでもないのである。

釈迦は別に、自分の説法を聞けば解脱できます、なんぞとは言ってないし、イエスはなんと言ったかは知らんが、「この中で罪のないものだけが石を投げよ」と語ったように、自分で考えないと意味がないよ、とでもいう風なことを述べている。

一世を風靡した?スピリチュアルネタでいうと、全世界同時アセンション、てな具合の話があっただろう。

言っていることやっていることは、昔からある宗教としての宗教(宗教を宗教で完結している、と同義と思ってもらう)の焼き増しである。

釈迦か仏陀という別人かははっきりしないのだが、「七回生まれ変わってようやく悟ったから、もう人間に生まれてくることはない」という言葉を残しているという。

その人が気づくかどうかというのは、個体の年齢や経験といったものだけでないとするのなら、全世界が同時に平和になったりアセンションするというのは、ただの冗談というものである。

そういうことを無視して語っているのだから、どれだけ善意を、いや、むしろ善意を込めれば込めるほど、禍々しいと形容したくもなろうというものである。


足枷がなければ、足枷が邪魔だということは理解出来ないとはいえ、足枷の不自由さを自由だと思い込むのまた、人間の可能性といえるのである。


だから、そんな可能性はいらぬと考え、「相手にしたくない」と言ったというわけである。上のことを一瞬で考えて言ったというわけではない。


こうやって、怒ったように書くことになるから、あの時、鳩が驚いて飛んだのかもしれないなと、笑覧頂ければ幸いである。

では、よき終末を。