ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

マグロの話

2017-12-10 | 雑記
近頃はゲームばかりやっていて、ブログに何か書くというのを怠っている。

というのも、人に向かって何か言うような能力も資質もない気がするからである。

だからといって、人を捕まえて何やら語るというのは、恐らく、もっとバカバカしいことになると感じているので、それならば、ここに何か書くほうがマシなのかもしれないとも思う。


少々愚痴めいてしまった。では、何やらつらつらと書くことにする。



キリスト教の異端に、グノーシスというのがあるという。この手の話題に詳しい方には言うまでもないが、彼らの考え方というのは、物質は悪であり、つまり肉体も悪だとのこと。

こういう思想は、それらの時代より古いものへと遡ると、プラトンあたりに行き当たる。そして、現代に到ると、ニューエイジだとかスピリチュアルだとかの思想に繋がっている。

じゃあ、お前もそうだな?と言われそうである。確かに、ここしばらく、そういう風な状態ではあった。

とはいうものの、物事に良いも悪いも本来はないのだという事も、頭にあったり、述べたりはしている。わざわざ書くと言い訳臭いが、我慢していただく。

例えばストレスについて。

大脳生理学だか心理学だかは忘れたが、ストレスというのは刺激という意味合いでしかなく(物理学用語だったか)、喜びも悲しみもストレスとして受け取っているのだとか。

もっと大昔に、このことを指摘しているというべきかは知らねども、釈迦も言っている。喜びだと思っているものは、さらなる苦痛を呼び起こすものなのだと。

ストレス発散で酒を飲むと余計にストレスになるので、さらに飲んで・・・という理由といえよう。


さて、グノーシスの話だったか。ずっと昔からここを読んでいる人が何人いるのか判らないが、思い当たるところはないだろうか?

上に書かなかったが、物質が悪ならば、それに対をなす善を設定しているはず。

それが、霊だとか魂だとか精神だというのが、グノーシスの主張という。

陰謀論と十把ひとからげにされているものの中で目立つ名称に「イルミナティ」というのがあり、それは悪たる物質を減らすために肉体の総数を減らす、つまり人類を削減しようとしている、という話を、ここでもよく書いたものである。

「イルミナティ」という名前の組織は実際にはあった。フランスの革命前後の時代に実際に作り上げられたが、ユダヤ人が作ったわけでもないし、黒幕とよく名指しされているロスチャイルドが出資したという話もなく(実際は敵対勢力側にいた)、上記のグノーシス的なカルト的な思想とは正反対のものだったという。

拙の与太話ではなく、ドイツ語の文献に当たって研究された本が出版されていて、そこに書かれている、信憑性の高い話である。

そして、「イルミナティ」というのが、世の中を破壊しようとしているだとか悪魔崇拝しているだとか言う話を広めたのが、当時の「イルミナティ」と敵対していたイエズス会の神父で、現代もその話が流布されたままになっている、というのが現状なのだとか。

この件については、日本語版のWikipediaにはないが、英語版には書かれているそうだ。

つまり、「何でもかんでもイルミナティ」というのは勘違いだと。

そもそも、どこまで本当のことを言っているのか怪しいアイクなんぞも「イルミナティは組織ではなくネットワーク」と述べている。

ネットワークというと判りづらいが、輪郭ぐらいは伝わるカナという表現だと思われる。

では、そのネットワーク内では、何が伝達されているのか?と考えるならば、悪たる物質を減らすという思想だといえる。

ネットワークに思想。これだけではよく判らないので、会社というもので考えてみよう。なんたら重工でも神扉製鋼でもなんでもいい。


会社を会社たらしめているものは何か?社長や管理職か?下っ端の従業員か?社屋か?それとも登記に名を記していることか?

不正を犯したとして、従業員が独自にやったといえるのか?社長だけでやれるのか?まさか登記簿が不正を犯したとでも?

そのどれでもない。企業を企業たしめているのは、思想であり、その思想が働く様が企業と名付けられているのである。現象というべきだろう。

思想に感情が入り込む余地はない。下っ端の従業員は、個々人では良くない事だと思っていても、また、上も上で不正だと判っていても、思想の流れのままに働いていたのだといえる。

野口晴哉は、心は気の流れるように動くといっていた。気というのも思想というのも、感じ取れないものには無いものと同じだが、確実に動かされてしまうのだと。


気を感じるのも思想を読み取るのも、少々訓練がいるという点で、似ている。

気なんてよく判らんものは理解できなくて当然だから、思想なら理解できる、とは思わないほうがいい。


拙はちょくちょく立ち寄る馴染みのネパール料理屋に置いてある本を、料理を待つ間に飲みながら読んでいることがある。

インドやネパールの薬草についての英語の論文である。全部の単語を知っていて読んでいるわけではないが、読んでいる。

「よく判らんナァ」などと言いながら読んでいると、ネパール人の店主に「読めるって事は判るんですよ」と言われたものだが、拙は「読んでいるだけですよ」と答えたものである。

何が言いたいのかというと、あなたは拙と同じ事が出来ますか?と。無論、こちらよりもっとすらすら読んで理解できる人もいるのは当然のこと。

そして、また逆も然りである。


あなたをあなたたらしめている現象というものを、深く観察することが出来るかどうか。これを「内観」という。

深く追求したところに、あなたを縛り付けている思想が見えてくるかもしれない。

そしてそれが、実は日本中で、はたまた世界規模で蔓延している病根ではないかと気付くだろう。


などと、おどろおどろしく書いてみたが、なんということはない。ある程度は本当であるが、気付けるかどうかは、釈迦も言うとおり、気をつけていくしかない。出来るかどうかは保証しない。


現代の日本人の思想というと、なんだか小難しい話に聞こえようが、噛み砕いて話をする。


時間厳守、勤勉、といった行動様式がいつ美徳とされ、日本中に広まったかといえば、それで十分、でない人もいるが、とりあえず。

明治維新の後である。以上!

それはさておき、現代の戒律染みたマナーのような何かは、江戸時代には無かった話である。

小林よしのりなんかは、それらが広まったお陰で日本は列強とやらに肩を並べられたのだと賛美していたものである。


そんな思想を吹き込んだのは何か?言うまでもなく、キリスト教という思想を持ったモノドモだったというわけである。

敵と見なした対象を殺戮するか懐柔して骨抜きにしつくさないでは生きていられないという、泳いでいないと死んでしまうマグロのごとき思想である。決してマグロの悪口ではなく。

日本的なものだと思っていたら、実は見せ掛けだけで、中身はマグロだったというのが、日本の文化に多岐にわたって神道、もとい、浸透している。つまり、マグロが我々の行動様式を無自覚に縛り上げているのである。上のマグロの例えからであり、マグロの悪口ではないことを再度お断りしておく。


ちょっとおどけた感じだが、もう少し。


本来、人も物も、良い悪いだけではありえないのである。もう少し正確に言えば、良くもあるし、悪くもある。

なのに、太った身体を憎み、己が身についた脂肪を悪と見なし、徹底的に殲滅する。

そして、痩せたら喜び舞い踊る。舞い踊っているかは知らんが。

痩せた彼の者は言っていた。「日本人は馬鹿だから救いようがない」と。そして「人間を辞める」と続けていた。

上記の流れのまま(痩せて欣喜雀躍)でそう発言したというのならば、そのままお返しいたそう。

「馬鹿だから救いようがない」のだと。

彼の者にとっては、己が身に植え付けられただけの「マグロ」を最高級品だと信じて疑うことはないのである。

余のマグロは大間のマグロぞ!といったノリであろうか。なら、脂が乗っていたときの方がよろしかろうに。

現代日本ではマグロはご馳走だが、江戸時代では猫もまたいで無視するものだった。

どうにもこうにも、かつて猫にまたがれたのが怨み骨髄だったようである。


では、よき終末を。