先日は「元ブレア首相」なる珍妙なタイトルで長ったらしく書いたが、いつも通りなら「お然る」にもつなげて、とやるところだった。
しかし長すぎたので割愛した。その前の前の記事で詳しく書いたのもあるが。
彼の者はよく、「常識を疑え」だの「Youもまだ常識に捕らわれてるyo!」などと言っておったが、彼の者が疑ってもみない、つまりは「為にするもの」でしかなかったものを信仰箇条にしていたというわけである。
信仰箇条にしている時点で疑うべきものだったのだが、その点について話し合っていたことは見た覚えがなかった。
シゼンシゼン!と何か鳴いているかのように騒ぐのも計画であろう、ということを指摘するなら、色々とある計画のうちには、「人口を農村に移す」というのが実際に出ている。
知ってか知らずか、彼の者はその音頭を取っているというわけである。知っててやっているなら、亡国の徒というやつである。
幕末ならイシンのコウロウシャとして総理大臣にでもなれたわけだ。さすがガンジーを超えたとほざくだけのことはある。
ちなみにしつこいが、ガンジーもテロリストである。太田龍が翻訳した『300人委員会』に出ている。
奴隷は奴隷同士で如何に自分が優れた奴隷であるかを売り込んでいるようで実にコッケイである。
さて、話は代わる。
太田龍はアイクを批判していたそうだ。
アイク批判自体は書かれてなかろうが、彼は「家畜制度反対論」というのを出している。何に書いていたかはしらんが、聞き及んでいる方もいよう。
家畜というものを持つということは、上下の身分を生み出すというわけで、言ってしまえば白人の理屈はイケナイのだ、というわけだ。
アイクはそういうところに触れようとしない、彼にはもっと勉強して欲しいものだ、と語っていたという。
別に太田龍をけなそうというわけではないのだが、まるで共産主義のようだなとも感じる。それならば、全ての「所有」を否定するところまでいかねばならぬからだ。
全てを地球の持ち物にしてしまおう、という一種の全体主義に繋げようと思っていたかは知らぬが、やはり、地球は神様である、という観念があったからではないか、と思う。
この点については昔、ラヂヲで喋った覚えがあるが、そこはまあいいとして。
「地球のため」と言っているお偉い方々が実に邪悪な理想を説いているのならば、地球はなんなのか?という疑念がぬぐえない。
さて、長い話を別のページで読んでもらいたい。
こちらへ。
スプリングマイヤーというのは本国では詐欺師だ、というアマゾンのレビューを見たものだが、真偽の程は知らぬ。
体検者が語る驚くべきイルミナティの内部、と銘打たれた箇所の三つ目の区切りに、こうある。
ルシファーが神に反逆してから彼らは神から第九の天に住むことを許された。
高位の堕落天使は今でもそこに住んでいる。また、地獄は文字通り地球の深部にある。
そこは華氏二○○○度の深いピッチの中で地獄の火が燃えている。
かつて科学者たちがシベリアで地面を深く掘るプロジェクトを始めた。
地球の中心に向けて九マイル掘ったとき、
人のうめき苦しむ声が聞こえて来たので恐ろしくなって止めたという(デヴィルズホールという)。
地獄はサルファ(硫酸塩)の臭いがするという。悪霊もエイリアンもやはりサルファの匂いがするからすぐ分かるという。
この証言は、リンク先を上から読んでいってもらえればわかるのだが、元々イルミナティにいた、シスコ・ホイーラーという女性の証言である。
彼女とスプリングマイヤーは『多重人格はこうして作られる』という本を出版しているのだが、イルミナティのマインドコントロールから救出するために、セラピスト向けに書いたもので、日本で出版されると聞いた時に両人とも驚いたとのことだそうな。
それはともかく。
「地獄は文字通り地球の深部にある」という。
これが本当なら、地球はなんなのだろうか?我々は地獄の上でのうのうと過ごしているわけか?
イルミナティだとかいうのは、悪魔崇拝というのをやっているわけで、悪魔崇拝的理想に向けた具体的な案を何でか出しているものの一つに、例の「現代の十戒」がある。
その十番目に「地球の癌とならないように云々」とある。
悪魔崇拝者が地球万歳というのはなんなのか?地球とはつまり、悪魔そのものではないのか?となる。
地球のために、戦争を起こし、血を大地に捧げ、人々の怨嗟の声を満ち溢れさせ、血を大地に捧げ、地球という悪魔に奉仕しているのではないのかと。
もしくは、元々なかったところに地獄を安置した上で色々やってきた、ともいえるが、その辺りはワカラン。
話はまた代わる。上に関わることではあるが。
かつて、ベジタリアンだとかの話を渉猟してきた。
韓国では犬を食べるという話はご存知の方も多かろう。
の際、散々暴行してから殺すという。それを他の犬に見せながらやる。
科学的根拠とやらはあるのかはしらんが、そうするとアドレナリンが分泌されて美味いのだといわれている。
おっとまった!これは別に韓国人だけではない。
普段の食卓に上がる牛だとか豚だと鶏。こちらも同じ状態である。
本来ならば、ヒジンドウテキなので、電気ショックだとかで昏倒させてから解体するのが畜産業界でのお約束だそうだが、面倒なので嫌がる牛を引っ張ってきてそのままズドン!とやっているのが現状だそうな。
その事を書いていたとある記事にも、上記と同じく、「アドレナリン云々」と出ておった。
アドレナリンが分泌される状況というのは、生存本能が必死になっているわけで、言い換えれば「生命力が強く働いている」となる。
その手の話を久しぶりに聞いてから、ふと思ったのである。
トマトを美味く育てる方法というのをご存知だろうか?
トマトというのは本来、あまり水気のない生きるにはつらいところで生えていたそうで、栽培の際にあまり水をやらないようにすると、「生命力がよく働いて」、実にしっかりと栄養を蓄えるので、とても甘くなるという。普通の栽培は生命力がないのだと。
「」はわしがつけたが、このように書かれていた。
前述の家畜の状況と何が違うのか?わしにはさっぱり区別がつかなくなってしまった。
何が自然農法か!といいたくもなる。いや、変な農薬使わせたり遺伝子組み換えしてるキチガイどもを肯定して言っているわけではない。
家畜制度反対なら、植物の「家畜化」も否定しなくてはならないし、「自然の生命力が溢れる」というのは常に「韓国の犬食い」や「約束破りの」と同じではないかというわけである。
※ついでに、あの「お然る」は太田龍もアイクも超えた、と言っておった。あのラヂヲでわしが原稿通りに吹き込んだものである。
別にわしはお然るも太田龍もアイクも超えたとは思っておらん。そんな違いに意味はないと思っておることをお断りしておく。
いや、それはおかしい!果物や野菜を育てて食うのと、動物を殺して食うのでは訳が違う!と言われるだろうが、訳が違う訳を教えてもらいたい。
果物でも穀物でも構わないが、その実を奪って食らうことは、その種を根絶やしにするのが目的か?違うと答えるだろう。
ならば、動物を殺して食うことは、その種を根絶するのが目的なのか?そうだと言いたいだろうが、それなら世の牛は消えてなくなっているだろう。
まあ、「自然」に生きている形ではいなくなってはいるので、ある意味根絶かしらんが、それなら農園で生えてる植物はなんだ?
彼の物も必死になって次代に繋ごうとしているのに、かすめ取って食って「生命力が溢れて美味い」などというわけか?
見た目が違うだけで、畜産業者と何が違うというのか。
本の名前は忘れたが、「いじめっこというのは生命を大事にしている。それゆえ、己の生命力が弱っているのを感じて、他の者から奪っているのである」という理屈の本の話をしたものである。
釈迦が肉食うな、占いだとか懐妊法だとかやるな、と言っておった理由は、「生きることに執着することになるから」だという。
酒飲むなというのは、「頭おかしくなるから」といっておった。愚者は狂酔のために悪事をするとかなんとか。
肉を食うからなまぐさいのではない、とも言っておったので、どこからどこまでが釈迦の言葉かはよくワカランが、ともかく。
如何に彼の者たちが、いじめっこが、悪魔崇拝者というものが、「生命」に拘泥しているか。ぴたりと一致してこないだろうか?
生命というものに執着を抱くというのは、悪魔のささやきに耳を傾け、魂を奪われていることに他ならないのである。
彼我に差などなかったのである。ないのにある、というのは壮大な詐欺だったわけだ。
その疑念を乗り越えてなければ、我々はまた新たな「イルミナティ」を作るだけになるのである。
仮にプーチンがイルミナティだとか国際金融詐欺集団を潰したとしても、我々が地球というもしかしたら悪魔かもしれないものに魂を奪われ続けているのならば。
その代表例が「お然る」であるというわけだ。まあ、知ってか知らずか、悪魔崇拝主義者のお先棒を担いでしまい勝ちな現代人全般ともいえるが。
『スッタニパータ』の一説にこうある。
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
多くは言うまい。
先日は例の「ガイドストーン」を墓石にしようとか書いたが、地の底に返却すべきだと言える。王のものは王に、神のものは神のに。悪魔のものは悪魔に。
そのつもりがあったかどうかは定かではないが、こんな墓碑銘を書いた。
ガイドストーンを抱き彼の地の底深く沈む
墓石は別に用意するしかなくなったが、なくて構わん。石が可哀想である。
では、よき終末を。