ウヰスキーのある風景

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内乱会

2020-08-10 | 雑記
夜勤明けで日没くらいから寝ていたら、日付が変わっていたので遅くなったが、昨日は日本史上で大きな出来事のあった日である。

改めて書くまでもないが、昭和二十年のその日、長崎に原爆が落とされた日である。


何故か?それは戦争だったから、と大雑把に言われるところである。

では戦争とは何か?とは詳しくは語られない気がしないでもないが、少々書いてみようと思う。


戦争とは国家間の交渉が決裂した際の最終手段である。世界大戦と二つ名前が付いている時期の物までは、戦地以外は基本的に平常である。

無論、戦地は酸鼻を極める、というのは単純に過ぎるが、例えていえば、十年近く前の東北大震災を思い浮かべて頂ければよかろう。

被害が甚大だったところから離れている地域、東京の如きもビルが倒壊するだとか電車が脱線するだとかの混乱はなかったのに被災地認定だとかいう話は脇に置く。

東京でも(23区以外は)計画停電だ福島の原発の放射性物質がどうこうという混乱はあったが、被災地以外はショックを受けて鬱になったとか肉親やらが亡くなった、という人以外は、その日以前の日常とはいえなくても、過ごしていただろう。あの日を境に生活が変わったという人も多かろうが、それもまた日常である。

沸き起こる感情の違いはあれど、状況は似ているといえる。

戦争の際は、お互い自国領土内を戦地にしたくないと思うのは当然なので、攻めたり攻められたり別の所で軍事衝突が起きたりとなる。

それはさておき。第二次世界大戦はこう呼ばれている。というよりアメリカの主張だったか。

民主主義と全体主義の戦いだと。

これについて、西尾幹二が「戦争の際に全体主義にならないわけはない」という風な指摘をしていたと記憶する。

日本もドイツも民主的な流れの上に成り立つ戦時体制には違いない。ドイツについては、ヒトラーは「国民投票」で総統に就任し、日本は内閣が辞職して入れ替わっていたりする。

ヒトラーについては、戦争末期に自殺するまで体制が続いていたというのはあるが。


戦争とプロパガンダは切っても切り離せない。憎悪を煽って戦争に持っていくのが常である。

ヨーロッパの具体的な国名や時期は忘れたが、「某国が自国の捕虜を殺して石鹸を作っている」という風説が流され、戦争に至ったという話もある。

ついでにいうと、上記のアメリカだかのスローガンと同じく、中身がない、つまり嘘だったとのこと。


広島と長崎に落とされた原爆についても、嘘がまかり通っている。

曰く、「対日戦争の終結を急ぐため」と。

しかし、落とした側のアメリカは「ソ連への威嚇だった」と、実際に言い残している。その後の米ソの流れは世界を巻き込んで、さらなる被害を長年広げ続けたのは言うまでもない。

話が前後するが、日本との戦争に参戦するのを決めたルーズベルトは、実際本人はしたかったのに世論が傾かないので、日本の真珠湾攻撃時の不手際を利用して対日憎悪を盛り上げ、合法的に参戦したというのは、有名な話である。戦時体制を築くにしろ戦争を始めるにしろ、日本もドイツも、またアメリカも同じといえる。

我々は被害者なのだと訴えて邪な願いを叶えるというのは、世の中にありふれているので枚挙に暇がないほどであろう。


話が長くなってきたので、少し変える。


国の支配者、単純に政治家だけではなく、というのは国際的に繋がっていて、とある価値観で動いている、というのは所謂陰謀論というので言われている所である。

ただ、拙が知り始めた時代とは異なり、当時は知る人ぞ知る言葉だったものが一般に扱われだしているという。「NWO」やら「世界政府」や「イルミナティ」などなど。

先日何かで見たところ、「イルミナティ」と呼ばれていたものはまた別の名前になっているようだ。その辺りは割愛するが、「世界政府」については、英国の元首相が実際に口にしていたという。


彼ら、つまりそういう支配者層はどうしたいのかというと、地上全てを支配したいというわけである。

見える形では戦争、見えづらい形では文化や経済侵略。

これらのことで一番被害を受ける対象は何かというと、言うまでもなく一般人である。


駒だと思っている政治家が愛国者だと邪魔になる。それも邪魔だが、一般市民が頭が良くても邪魔になるし、そういう人々が多い国に強大な軍事力があると手も足も出なくなる。

軍事力も永久機関ではないし、映画のヒーローが集結しているわけでもないので、例えば内乱を起こせばその力を削ぐことが出来る。例えになっていないのだが・・・。

国土の荒廃は人心の荒廃を招く。反抗する気力も物理的な力も奪えば、悠々と支配を広げられる。

後はそれをどんどん推し進めていくだけとなる。



さて、あまり話が変わってなかったが、もう少し続ける。


人が自然と呼ばれるものと寄り添うというか共生するというか、こういう生活こそが正しい。という主張や行動がある。

異論はない。ただし、それは未来においてだ。それは上記までの流れから考えて調べて頂ければお分かりかと。

今現時点の日本で、皆が皆自給自足だー、政府やら関係ねー!といきなり生活を切り替えたとする。

自衛隊も解体された。米軍も帰っていった。するとどうなるだろうか?

拳法、じゃなくて憲法九条があるので平和になりました、とか言い出したら、その先にある平和は日本語で語られてはいないだろう。



つらつらと述べてきた上記のような歴史的経緯を知りながら、上記で「未来において」と拙が但し書きを付けたものを今すぐ皆がやるべし!と主張する。

誰でも知るレベルではなかったとはいえ、公に向かって発言をしていたこともあるその御仁は、外患誘致を疑われても仕方ない。

「彼ら」の手口を語りながら、その手口に知ってか知らずか乗っているというのは、我が身可愛さしかないからであろうと、拙は思う。

その御仁が「彼ら」の話をしていたHPを閉める間際に残したセリフは「誰も反応しないし、こんな危険なことを続けてられるか!」であった。


命は宝という。宝は大事にしまい込んでいるものだが、何故しまい込んでいるのかを、今一度考えるべきだと言える。



では、よき終末を。


嗤うものは

2020-08-04 | 雑記
七月のある日、とある若い芸能人が自宅で首を括って亡くなったというニュースを、仕事場に着いたときに聞かされた。

とはいえ、拙はテレビを見ないし映画も見に行かないという、現代社会のメインから外れた暮らしなもので、名前も顔も知らないほどだった。

ゲームはしているので、決して外れ切っているわけでもないが、それは措くとする。


その事件の後、しばらく忘れていたのだが、先ほどとあるサイトで紹介されていたので思い出すところとなった。

というよりも、人が死んだのにその死をお祝いする旨の常軌を逸した動画の紹介していたというのに引っかかった。


過日、志村けんが新型コロナウイルスで亡くなったという話は、まだ記憶に新しいところである。

その時も、同じことが行われていたというのを聞いたものである。


人が人の死を喜ぶ。これが人というのなら、人を辞めたくなるところである。


さて、そのことで思い出した第二次世界大戦中の話を一つ。


大東亜戦争、GHQが押し付けた呼称は太平洋戦争だが、その最中、当時のアメリカ大統領のルーズベルトが死去した。

敵対国であるドイツやソ連は、その死を喜んでいたという。そういう声明を発していたりする。

翻って、実際に干戈を交えていた日本はというと、お悔やみを申し上げたという。

国家の存亡を賭けた戦いにおいても、相手方に憎しみをぶちまけるというような見苦しい真似はしなかったのである。

ちなみに、鬼畜米英だなどと煽っていたのは軍部ではなく、マスコミであったことを付け加えておく。
開戦前は開戦やむなし!と散々煽っていたのである。軍部は最大限、戦争をしない方向で調節を続けていたともいう。一枚岩ではなかったが、ギリギリまでそうしていたという。


どちらが人間らしいかというのは言うまでもないだろう。

人間が人間らしさを忘れると、動物ですらないと拙は思う所である。


この人でなし!は日本人にとっては最大の侮辱だったと聞く。最近はそういう感覚が無くなって、いや、亡くなってしまったのかもしれない。

戦前はその人でなし国家に囲まれて奮戦したのも今は昔、などと語るのは悲しいことである。


これも昔書いたが、上記と同様の流れなので付記する。


もう二、三年前か。ロックフェラーの総帥が死去した。

ロックフェラー、という名前が出ると、いわゆる陰謀論者が色めきだつ。

その時もそうだった。死んだことを喜ぶ声が界隈では飛び交っていた。


陰謀論に片足を突っ込んでいた拙はどうだったかというと、悲しいという気持ちはなかった。知り合いでもないのだから。

だからといって、人の死を喜ぶ気にはならない。彼が陰謀論界隈で言われているような存在(文字通りの意味での「人でなし」)だったとしても、一時代をどういうやり口かはどうとも言えないが作り上げ、世界を動かしてきた人物であることには違いない。

良い悪いはともかくとして、一つの時代の終焉を感じ、「色々あったかとは思いますが、お疲れ様」と思っていた気がする。


彼がオカルト系陰謀論に見られるような「人でなし」の存在、つまりは悪霊だとか宇宙人に憑りつかれていたとしても、物事には人の一面的な見方では判らないことがあるものである。


彼は生前、『回顧録』というのを著わしていた。

その一節にこういった物がある。有名なのでご存知の方も多かろう。とはいえ、記憶で書くのでこんな感じ、というのをご承知願う。

「私のしてきたことを多くの人は非道だと思うだろうが、人類の将来のためになるのだと自負している」といった具合の言葉であった。


陰謀論だと非難ごうごうである。人類がどこを指しているのかによるからだ。

仮に、特定の人類の将来のために行ってきたとしても、それがその通りになるかは判らないともいえる。

そうなっていったが故に、結果的に全人類に福音をもたらすことになる可能性もあり得る。


どうなるかは判らない。それはこれから起こること。


最後に、手塚治虫が語った言葉を述べておく。

「過去はすでに起きた未来。未来はこれから起きる過去」


では、よき終末を。


かの死に寄せて

2020-08-03 | 雑記
夏が来れば思い出す、というわけではないが、色々と復習するところがあり、振り返ることがあった。

さて。かなり前だが、シャインさんがどうこうと書いたことがあったのを覚えておられるだろうか。

異動で拙が働いている仕事場にやってきた、結構な歳の御仁である。しかも夜勤をやらされている。


そこはいいのだが、ある日、夜勤の折に色々と話をする機会を得て、話を伺ったものである。

住まいも拙と同じ地域でもあるのと、気楽に話しかけてもくる人であるというのが大きい。


さて、何の因果か某日本のクオリティ・ペーパーを自称している新聞を取って読んでいるという。

地域が地域だけに、某宗教団体の新聞も取っているという。嫌な気分で取っているわけではないそうだ。

そこで気になったので、北朝鮮の拉致被害者の会の故横田滋の訃報について、その新聞に書いていたかと質問すると、ギョッとした顔で「書いてなかった気がする」と答えたのである。

その御仁は特に政治的信条があるわけではないので、件の新聞の傾向を実例を挙げて説明申し上げたところ、先日から「逆のことを書いてるから、逆を推測して読むのが面白くなった」と語っていたものである。

件の新聞がかねてから何をしていたのかは、ここで改めて語るまでもないが、判る人には一言で分かる。実に「赤い」のだと。

この「赤い」ことが、日本に遍く覆いかぶさっているのだということを、今度は歴史的具体例を挙げて話すると、「どうしてそんなに詳しいんですか!?」となったものであった。

そして「赤い」尖兵として知ってか知らずか、一般の善良な下部組織員は別としても、そういう働きを担っているのが、近所づきあいで取っている新聞を発行している某宗教団体であるとも伝えておいた。


知ってか知らずか。こう書いたが、大抵は知らないし考えない上に知ろうともしない。そんな具体例を思い出したというわけである。上記の御仁のことではない。


拙が某大学の一年だか二年のある日。同じ学部の同期の女子と話をしていた。

どうしてそうなったかは思い出せないが、「日韓併合」の話をしていた。

ご存知の方も多かろうが、当時の政界の重鎮、伊藤博文を朝鮮人の青年、安重根がこれを射殺。それで一気に併合に傾いたというものである。

何故傾いたかというところだが、実を言うと、伊藤博文自身は、併合については「拙速だ」とのことで、反対派のトップだったのである。

それを殺してしまうとどうなるか。考えなくても判る。かくして、日韓併合の論争は併合を進める方向に傾いていった。

と、一通り語ったところ、その女子はこう語った。

「でもわたし、安重根好きよ」と。

拙は耳を疑ったが、聞き間違いでもなく、理由を語っていたかは思い出せぬが、今でもその言葉は覚えている。


少なくとも、政界の重鎮を外国人が殺害する。これは国際問題であり、戦争になってもおかしくない。

上記の場合は日本の政治を混乱させる意図があるとしか言えず、処断されて当然となる。実際に安重根は死刑になった。

韓国側ならばその「好きよ」も判る。あちらでは救国の英雄だなどと祭り上げられていると伝え聞く。伊藤博文が主張は無視される形であり、またその後の経緯もである。


どのような教育を受ければ、自国の政治家を殺したただのテロリストを「好きだ」などと思えるようになるのか。信念があるだのないだの、そんなのは関係がない。思い出したが、好きな理由は信念がどうたらだった。

その信念も祭り上げられたが故の後付けだったと思われる。韓国が死にそうなので併合を急いで欲しいがための犯行だったというのを先日読んだものである。

仮に言われているような信念通りだったとして、実際は反対派の重鎮を殺害したことによって併合が促進されたのであり、語られている通りの救国の英雄とは呼べまい。併合が反故になったのなら判るが、併合は伊藤博文一人で決めている話ではない。

併合反対の信念通りなら、伊藤の政敵に凶刃を向けねばなるまい。知らずに殺害したというのなら、それこそ狂犬と変わらない。そのような物は信念という名の言い訳である。


学校で習って好きになったのか、何かで読んで染まったのかは知らぬが、経緯と道理の話をしているのに、感情で一蹴する。文字通り話にならなかった。

拙は虚無感に苛まれたものである。

ついでにいうと、その女子からは別の意味で嫌な目にあったものである。気取ってるようとも思える具合だったが、色々と不幸な目にあった奴だったようだ。

とはいえ、頭が不幸な奴、と評する以外に言葉は浮かばない。


それはさておき。件の一般新聞などがこういった「教育」を、某宗教団体だけではないが、諸々の個人や組織がその「教育」に則った「教育活動」を推し進めるといった共同体制が、現代社会である。

上記の女子が特別に馬鹿だからだとか頭がお花畑の某宗教団体の一般会員だからというわけではない。

教育が全てとは言わないが、洗脳としか言えないこのようなねじの外れた思考回路モドキを作ることもまた、教育である。



もうすぐ夏のあの日がやって来る。


今一度、己の中に巣食う、思考回路モドキを「教育」してみる時ではないかと、拙は思う。


では、よき終末を。