今コレを書いている日は、都知事やら都議やら衆議院だったかの投票日である。
だが、何故だか我が家に投票用紙が届いていなかったような気がする。もしかしてうっかり捨てたのか、見つけた瞬間破り捨てたのか、今となっては定かではない。
多分捨ててしまったか、いらん気を使ってポストに放り込まれるセーキョォ新聞の束に紛れて消えたのだろうと考えていたのだが、妙な話を小耳に挟む。
それは・・・早朝のことであった・・・。
その日最後の予約の四人グループがチェックインをしていた時である。
内一人がこう切り出した。以下、そのやり取りを掻い摘んで書く。
「明日は投票日だな」
「そうだなぁ」
「それで、何故か家に投票の紙が届いていないんだ」
「いけないね、文句言いに行ったほうがいい」
「でね、かみさんが文句言いに行ったんだよ」
「うんうん」
「そしたらこう言われたんだと。『あ、最近越して来られた方ですか?』って。いや、違うからって」
「おかしな話だねぇ」
大体このような話であった。
私の記憶が確かならば、我が家に投票用紙は届いていない・・・はず。
さて、先日。ラヂヲでタイムリーな話をやろうと、選挙について語った。
消化不良気味だと批判を頂戴したが、五、六分を三回録り直しつつ、「どうもしっくりこない」と思っていたので、仕方ないなと考えてもいた。
「何故、己が被選挙権を行使しないかを考えてみれば、理解が深まるはず」と、アドバイスも戴いた。光栄至極である。
さて、アイクも言っていることだが、民主主義だとかいうものは、実際に西洋世界でも確立されているものとは言えないという。
民主主義とは何なのか、までは踏み込めるかどうか怪しいが、少し考察をしてみたいと存じる。
民主主義の発端は、古代ギリシャあたりまで遡れる。
ポリス(警察じゃなくて都市国家)の統治でも選挙はあった。しかし、都知事になるだとか大統領になるだとかいうものではない。
僭主を追放するために、その可能性のある人物の名前を書き記したものを投票し、「当選」すると、ポリスからめでたく追放となる。
陶片もしくは貝殻(オストラコン)に書いて投票したため「オストラキスモス」と呼ぶ。英語で「オストラシズム」という言葉もある。
本来、民主主義は、寡頭政治の対義語として、民衆、つまりは数に任せた劣悪な政治体制を批判した言葉であったとも聞く。
片仮名で「デモクラチア」といったか、それが英語化し、「デモクラシー」となった。デモス(民衆)のクラチア(統治)という意味である。
デモクラシーの反対は、上記で寡頭政治と書いたが、貴族主義である。
このデモクラシーは、きっちり訳せば「民衆主義」というべきところであったという。意図的というのかなんというか。それでいけば「デモクラチア」に近い意味になるわけである。
チャーチルが確かこう言ったか。
「民主主義は最も劣悪な政治である。今まで試みられた民主主義以外の体制を除けば」
ある意味正しかったと言えるのかもしれない。
チャーチルが「最も劣悪」と言いつつも、どうして肯定的に受け止めているのかとなると、西洋の近代に焦点を合わせてみるしかないだろう。
それは恐らく、フランス革命の時代にあるのではなかろうか。
民主主義とやらにこれまた切れぬ縁のものと言えば、「人権」がある。
フランス革命以前から、人権に当たる概念の萌芽状態はあったとも言うが、明文化され、遍く流布されるようになったのはやはり、この時代を抜いてはなかろう。
この人権というものは、毎度ながらうろ覚えだが、以下のように定義されていたと記憶する。
それは、「あらゆる伝統、文化、環境、人種など、規定するものを除いた状態のまっさらな人間」を想定している。
マインドがこうつぶやくだろう。「それはありえない」と。ある意味そうと言える。
アメリカの「自由と民主主義の戦い」といった、馬鹿げたプロパガンダ(馬鹿げていないプロパガンダは少なかろうが)のように、フルスペクトラム・ドミナンスにも使えるが、あからさまに抑圧されている状態に抵抗するためにも使える、謂わば「諸刃の剣」である。
話が逸れたが、その「まっさらな人間」というものは、必ず正しい方向に向かうという、控え目に見ても信仰箇条としか言えないものも附帯している。
フランス革命の思想家は暢気にも「大人は間違えないのだ」と言っていたわけだ。子供については、「大きくなれば悟性に達する」と思っていたようである。
その民主主義とやらは、「まっさらな」、また「悟性に達しているので間違いに至らない」という人間が集まってやるから間違わないという、前提からしてひん曲がったありえないものだったというわけである。
そもそもが頭でっかちな「革命思想家」たちのでっち上げ。それに煽動される「まっさらな人間」達もまた、頭でっかちである。
浮世は右を向いても左を向いても、前を向いてすらも、頭でっかちだらけである。
頭が膨れすぎて「まっさら」になった人類を、これまた風船のように膨らんだ人類が「オストラキスモス」をやるわけである。
今の選挙は現代版のポリス追放をやっているのである。ただ、本来の意味での追放になっていないだけである。
風船に風船をくくりつければ、ぷかりぷかりと空に向かって浮き上がる。浮世を離れてどこへやら。実際に浮いているのは浮世そのものだろうか。
風船に風船を括りつける、この地道な作業は、浮世とやらを本当に浮き上がらせる、一世一代の大事業なのだろう。
全部の風船をまとめて飛ばし、月まで放り出せたら、民衆主義でも寡頭政治でもない、本来の民主主義的で、ある意味で貴族政治が出来上がるのではないかと考えている。
現今で選挙とやらに向かうというのは、誰かを選んでいるのではなく、実は己を追放するために己自身を選んでいたのだと。
己が被選挙権を行使したがらないというのは、もしかしたら「風船を括りつけられて飛ばされる」と感じていたのではないかと思う。
風船を全部飛ばしてしまえば、勇んで被選挙権を行使したいと秘かに計画している。ああ、言い過ぎた。これは行き当たりバッタリである。
風船といえば、どこかのネズミの国が、無料で配っていた風船を辞めたという話である。
なんでも、ヘリウムが足りないそうだ。このヘリウムとやらは、西洋医学では重要な地位を占めているという。風船を飛ばしたり声を変えるだけではなかったのである。
というわけで、一つ忠告をしておこうかと思う。
「テレビや新聞とか言うヘリウムを大量に吸い込んでいると、月まで飛んで行くのでご自愛を」
では、また。