ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

到る処青山あり

2017-03-30 | 雑記
今日は久しぶりに、家で米でも炊いて味噌汁も作ろう、などと思い立ち、ゼーキンを払うのをすっかり忘れたことにして、近所の米屋に向かう。

ようやく、『森のくまさん』が入荷したようで、いつもより少し高くはあったが、購入した。

なんせ、熊本の米である。地震があった、あの熊本である。

陰謀論的には起こされた、というべきである。震源地は何故か自衛隊の駐屯地だったとかいう話もあった。

そこは措く。名前が気に入っていたので、よく買っていたものをようやく購入できたわけだ。

スーパーに向かい、味噌汁の具として長ネギ、ほうれんそう、日本酒、何故か卵、さらに四個入りの砂肝なんぞも買い、自宅に戻り仕込み始めた。

ほうれんそうと砂肝は、食前の酒肴というやつで、米の浸水やら味噌汁の出汁を取るまでの時間つぶしでもある。


そのとき、不思議なことが起こった・・・。ブラックがRXになったわけではない。


ほうれんそうを御浸しにして、砂肝を焼いて、日本酒を熱燗にして、まずは一献と、日本酒を呑んだ。


味がおかしい・・・。腐っているわけではなく、妙に美味い。料理酒としても使ったりする程度の、純米酒とはいえ、パック入りの安めの奴である。

それが、例えるとおかしいのだが、天然酵母と無農薬栽培のぶどうで作った白ワインを呑んだように、やたらすっきりと呑める。

そういうのを呑んだことのある人には判るが、その手の酒というのは、体に障るようなものが少なく、水でも飲んでいるような具合の呑み心地だったりする。ワインアドバイザーの人がこだわって仕入れているお店でもかつて、同じ事を聞いた。

いきなり、スーパーの酒を天然酵母の無農薬米で丁寧に作り出した、というのは考えられない。だったらわざわざ書くのが今の流行り。

その酒が美味かったせいか、美味いと感じたせいだというべきか、飯が進みすぎて、ご飯と味噌汁と溶き卵だけで炊いておいた二合を食べきる有様だった。

ついでに、さすがに腹は一杯だったが、その前の日に買っておいた小さなケーキも食後に食べていた。

それでいて、近日の腹具合からした多少過ぎたかも、という程度で、気分は悪くなく、眠くもなかった。

食べようと思って食べれば、しっかり食えるらしい。とはいえ、丸一日ほどの間で、それまでに食べたのは、夜中に小さなカップケーキだったから、空腹だったというべきか。

「世の中美味いものだらけなんだなぁ」と、感慨に耽りつつ、それを忘れるかのようにコントローラーの設定でイライラしていたのは内緒である。


さて、無駄に長い余談が過ぎたが、タイトル通り、到る処青山あり、である。到る処美酒あり、でもいいや。

そんなはずはない!人間が骨を埋めるべき青山はそこだ!いやあそこだ!という声が一般的である。一般的かはしらんが、よくあると思われる。


かつて読んだ本で、その言葉、「人間到る処青山あり」の人間の読みと意味を聞いたものである。

ちなみに、このことわざは、「世の中、人が骨を埋めるところなんてそこら中にある」と、読んだままの意味ではそうなる。

この直前にネットで調べた場合は、「にんげん」であり、「じんかん」とも読むとなっていた。


「にんげん」の読みはかなり新しく、昔は「じんかん」だったそうな。

信長が好んだという、『敦盛』の一節で、「人間五十年云々」とあるのだが、あそこも当時は「じんかん」と読んでいたのだろうとのこと。

そして、「じんかん」というのは、世の中だとか世間という意味なのだとか。

同じ字を配して、微妙に意味の違う言葉になっているといえよう。

世の中、という意味の言葉ではあったのに、人のこと自体を指すことになった。

読みを変えて、違うようにはしているが、今は基本的に「にんげん」と読む。


以前、わしが定義した人類についての分類をおさらいする。似たような話は他でもあるかしらんが、とりあえず。

大別して三種類で、「人」と「ヒト」もしくは人でなし、後はその他諸々である。

三つじゃないぞ!とかいうこの流れは、以前もやった。突っ込みもないので、一人突込みである。


これは昔、人類の脳機能の分類に絡めてやった話でもあるのだが、そこからは大して変わってなかったものである。

それはともかく。脳の基底部が、無意識を司っており、息やら心臓の拍動やら、意識せずに肉体の調整を行っている。

R複合体という部分が、個体の最低限の生存を司っていて、アイクが言うには、レプティリアンはここをやたら刺激して、人類の認識を狭いものにしている、とはここで書くまでもなく知っている人もいるだろし、何度も書いてきた。

そして一番上の方に目を向けると、大脳新皮質だとか言われている表面の部分があり、そこから額に繋がって、額のところは前頭葉とか前頭前野とかいわれていて、ここが人を人たらしめている、最も進化した脳だという。

しかし、中間部分がある。

これは、動物的な脳と言われていて、レプティリアンが攻撃しているとかいう部分の上で、大脳新皮質だとかの上の部分から言うと、下にある。

人類は猿から進化したから、その時の脳だ、と言えなくもない。進化論は嘘っぱち、という話はここでも以前伝えたものであるが、その点は措く。進化論は嘘ではない、という意味でもないので、割愛である。

以前聞いた話では、元々地球にいた人類の先祖にあたる猿を、やってきた宇宙人が遺伝子改造して労働させていて、今の人類の全部かは不明だが、その末裔が我々だという。


その話からすると、ただ単に猿の時の名残なのかだろうか?と少々疑いたくある、というわけである。


遺伝子改造で生み出されたという人類は、レプティリアンの先祖の一つといわれているその宇宙人の命令に従って働くように作られた。

所謂「人間らしい」というのは、利他的である、ということは以前書いた。三つの分類の件である。
それが進化したという脳の部分が担っているのなら、これは他人、この場合は宇宙人の命令に従うようにした思考回路だといえる。

その逆に、動物全般持っている、個体の生存本能が、脳の基底部にあるわけで、不安を煽れば、生存本能といわれる思考回路通り動くことになる。

人類を作ったという宇宙人は、スナック感覚で人を食べていたそうだ。スナック感覚かはしらんが、「働かんと食うぞ!」と実際食ったりして脅せば、嫌々でも働かざるを得なかっただろう。

それなので、「人」も「人でなし」も、行動内容や表現が違うだけで、論理は変わらないというわけである。


「人」と「人でなし」の間という「じんかん」。これが、中間にある脳みそとなっているのだと考えている。

「人」でも「人でなし」でもない状態というのは一体如何なるものなのか?それはわしにもよくわからない。


ニーチェは、道徳として作り上げられるきっかけとなった行動を起こした人物は、例えば自己犠牲とも見受けられる英雄的な行動を行ったものは、道徳的に行ったのではなく、その当人の生命力から発した欲望から、それだけの事を起こしていたという。
そして、道徳的な結果から、「あの行いは道徳的だ。お前らも見習え」という流れで仕立てられてきた、という風に書いている。
自発的でない道徳的行いは、押し付けられたものの生命力を、「権力への意志」と書いていたと思うが、それを萎えさせるという。


進化した脳といわれるところも、生存のための脳も、宇宙人からのラジオ電波受信装置の名残か、今も続いているというのなら、我々は自身の「じんかん」を自覚せねばならないといえよう。

己自身の「じんかん」を探り、そこに「人」でも「人でなし」でもない「人間」という動物を見出す。

これが人間だ、という表現はつまり、出来ないといえる。ただ、人の姿を通しての表現の端々に感じられるだけだからだ。


しかし、重要なことを思い起こしていただきたい。

松果体という重要な、そしてとても小さな器官がある。

それが、人類の脳の真ん中に鎮座しているということを。


最も進化した脳にも、個体の最低限の保存のための部分にもなく、その間にある。これこそ、「人間」なのだろう。


それを少しでも実感できたならば、「人間到る処青山あり」となる。
そもそも、この世はホログラムなのだといわれているのだから。


では、よき終末を。


無名の妖怪タイピスト

2017-03-28 | 雑記
先日来、体のあちこちが妖怪やら化け物に取り付かれているなどと書いてきた。

例えば、胃には胃の中で遊んでいるのがいて、そういうのは世の中にいるのかは寡聞にして知らないので、胃の頭(イノカシラ)と名付けた。

次に、最近はなんだか、今まで見えなかったものが見える。目を凝らすと、物から靄が出ているのが見えて、湯気とは違って、風に煽られて吹き飛ばされることもない。

そのノリで、仕事場の待機状態のテレビ画面を眺めたら、波打つ様子が見られたりと、尋常ではない。

さらに、そうやって見ていると、一分でも二分でも、まぶたを動かすことがなく、その上目が乾いて痛いなどということもない。

これはきっと、目の化け物が取り付いたのだろう、著作権無視でBeholderと呼ぶことにした。カタカナでビホルダー。


最近は指にもいるらしい。特にこうやって文字を打っていると、本当に自分で文章を打っているのか判らないほどの勢いで文章を書き出す。

しばらく前に書いた「人間マイスター」と銘打った記事がある。特にあの時が顕著だったように思われる。


ある程度、こういう流れでこう書こうとは思っていたのだが、いざ書き出すと、作品のシナリオのうちで取り出しておきたい部分を的確に取り出しては書き綴り、しかも作品自体見たのはずっと前だというのに、まるでさっき見てきたかのように書いていく。

きっとタイピストの妖怪が手に取り付いたのだろうと思うことにした。名前はまだない。

しかし、妖怪がタイピストをやっていたなどとは夢にも思わなかった。


こんな妖怪に取り付かれまくった化け物だが、あくまで人間である。今後トモヨロシク・・・。




妖怪の朝は早いのか遅いのかしらないが、先日は日付が変わるか変わったか位に寝ようと布団にはいた。酒も呑んだので、眠れるはずだと。

眠るには眠ったが、目が覚めて時計を確認したら、午前三時だった。

ヌウ!鎧の弟は一人で眠れない夜を過ごしているというのに、こちらは寝ようとしても寝られない体になったのか!と嘆く気はないのだが、それとは別に、変わったこともある。

寝る前に飲んだのは赤ワイン。ポークステーキなんぞ食べたので、そのための赤ワイン。

ハーフボトルを一本を空にしたのだが、まったく頭痛がない。

ワインを飲むと頭痛が起きる理由は、馴染みのワインバーの店主が言っていたが、農薬だとか、防腐剤の影響だという。

一番の原因は防腐剤だといえるらしい。ただし、添加している防腐剤で、亜硫酸塩だとかいうのは、そもそも醸造中にある程度でてくるそうな。

天然物大好きっこの間で流行っていた言葉で、ファイトケミカルだかなんだかというのがあって、野菜が生存をかけて防衛しようとして湧く物質がどうたら、とかいうのがある。恐らく、その仲間だと思われる。

どうやら、わしの体はぶどうになったらしい。そのうちぶくぶく膨れてワインに化けるのだろう。

などと冗談を考えつつ、起きて茶をいれ、先ほどPCを起動し、記事を書こうとアクセスしたら、とんでもないプレビューになっていた。

一体どこを見ているのか。書いている内容なんて実際どれもほとんど同じだというのに。

とはいえ、これはこちらも他のブログでやったものである。何か興味が引かれる記事のあるブログを見つけると、遡って記事を漁るというのはよく行っていた。

そう。これはきっとその仕返しなのだと思うことにした。仕返しとかいうのはおかしな話だというのは忘れてもらおう。



特にしたかった話は、妖怪タイピストの話だったのだが、ついでに、弟が病んでいる話を書いておく。


先日、弟から連絡があり、病んだせいで離婚して実家に帰ることになったそうだ。

そんな電話を受けていたら、酔っ払ってどこかに放り投げたマフラーを見つけて、つい「見つかった。助かったぞ」などと口走った、と書いたものである。


馴染みの店でそんな話をしたら、そういう人は自分の知り合いでも多いと聞く。マフラーが見つかった、とかいう話ではない。

病んで離婚、一応形式としての離婚で、でも結局そのまま別れ別れになっているのがほとんどだとか言っておった。

環境を変えるのが、そういう病気では一番だと、お店の人は言っていたものである。


弟の病気は「適応障害」だとかいう。

何を隠そう、わしも適応障害である。普通のワイン飲んだら頭痛がするのが当たり前なのに、適応してないのだから。

まあ、冗談はいいとして。


うつもあったとかいっていた。今もうつかどうかはしらんが、あとは客の激しいパワハラなんかもあって、病んだという。

わしなんか、「苦しんで滅びろ」だったから、これも明らかなパワハラである。訴えたら勝てるかもしれん。

人並みに「ごめんなさい」の一言すら言えない動物に訴訟しても仕方ない。動物のほうがしっかり「ごめんなさい」を身体全体で表すので、動物未満であろうな。

ともかく、適応障害は精神系の病気だと聞いたので、瞑想やってみろというと、すでに弟の知り合いが本を渡していて、「これこれこうやる奴だろう」と、知らないわけではなかったようだ、とも書いた。

瞑想についての所見は、最近の「カキノキ・ゲージング」とかいう妙なタイトルの記事にも書いたが、やり方が問題ではないのである。

型は必要だが、それは感覚をつかめるかどうかであり、型どおりやったからなるとは言えないのである。

アイクがニューエイジだかの集まりで、一人膝が悪いので椅子に座って蓮華坐をしている集団の傍で見ていた。

そこで「蓮華坐できるかできないかで判るわけがなかろうに」などと、『ムーン・マトリックス』で書いていたものである。


太陽見て腐蝕、じゃなくて不食になった!太陽すごい!というのと、蓮華坐で瞑想して悟りを開けた!すごい!というのは同じだというわけである。

千葉のどこかの歯医者のおばさんは、サンゲージングしながら口あけて、歯にいいかもしれないから、などと言っておったそうな。

これにはお日様も苦笑い。いっそのこと口を日焼けにして、物を食べられなくして悟ってもらえればと、一生懸命照らすかもしれない。

そうなって、それでも太陽すごい!とか言うなら、もはや立派な太陽信仰である。その御仁は本当に『ムーン・マトリックス』を読んだのか?と改めて問いたいところだが、無駄であろうと思う。


人のいや、人類の悪口は措くとして。


さて、弟には「型はどうでもいい。寝食を忘れるほど没頭できるものを見つけてこい」と伝えたとは書いた。

そういうことをしてたら、わし自身も妖怪染みたと伝えた上での話である。


さて問題は、どういうものがよいのか、である。

寝食を忘れるほどTVゲームがいいか?まったく悪いとは言わないが、及ばない。

親にも「なんかしたがったら、手伝ってやってくれ」というと、ペーパードライバーの弟に車の運転でも教えようかと言っていたが、これも悪くはないが、やはり及ばない。

仕事場のシャイン氏に、イメージトレーニングというのを伝えて、わしも見ていたHPの記事を死霊、じゃなくて資料として一部渡しておいた。

その中に、「手にリンゴを持っているイメージをする」というのがある。こういうのが出来るようになれば締めたもの。

先日、夜勤を共にして話していたところ、シャイン氏も結構な、人並みというべきか助平なので、エロイ妄想をするのがいいかもしれないと、今度提案してみようと思う。


前者二つと、後者の違いは何か?並べて書けば、お気づきの方もおられるだろう。


前者二つは、外部からの刺激に反応して動いているだけで、寝食を忘れて没頭したとしても、根本的な物とはなりえないのである。


シャイン氏に資料として渡したHPの中にもあったが、創作なんかもよい、とあり、そこの管理人も趣味の一連の行動をイメージするということを行っているという。

瞑想と催眠術は、自分で行うか、人にかけてもらうかの違いで、暗示に掛かっている状態なのだという。


瞑想がいいか催眠術がいいかは得手不得手があるそうだが、リンゴを持っているイメージをする、というのはまさに、創作をしている暗示を掛けているわけである。



上のHPの話ではないが、人というのは、常に何がしかイメージをする。

何がしかの行動の前には常に、自覚できないほどのものだったりするのだが、イメージが先行していて、その通りになるというのである。

愛は化学物質だとかなんとか、あのおっさんが翻訳していた本があったが、化学物質は結果として促進剤として出てきたものであり、愛情の前には、自覚できないレベルだったりもする愛情のイメージが起こればこそ、体がそう動くのである。動作だけでなく、愛情を促進するホルモンの分泌なんかも含めて、一切合切である。

解剖学的見地で見た人体の動きは、なんの意味もないのである。実際は動いているものを見ていないので、死体を見ているのと同じである。


また悪口になったが、話を戻す。


上の二種類で話をするなら、ゲームをプレイするよりも、ゲームを作ることを考えるほうがよいわけである。

こういうアクションゲームを作るとか、作っているところをイメージをするとか。凄まじいプレイのイメージをするというのもありである。

車の運転なら、ダートラリーでもやっているイメージで、ここで思い切り曲がってコーナーを駆け抜けて、だとかを想像する。

音楽をやるなら、楽器の演奏をマスターするところからだが、曲を作るほうに切り替えていく。旋律はパクリになっていようが、自分の曲を作り上げていくのである。

そうやって自分の意識を掘り起こす作業をする。いつしか、意識の変革とでもいうべきことが起こるだろう。

そして、アイクは言っていただろう。全ては「コンシャスネス」が起こしているのだと。


変えるべき環境は外にはない。自分の内側である。自分の内側を見ないから、外のせいにして、それが内外の環境を悪くしていることに気づかず、「バカな人類は滅べ」などと言い出すのである。

環境が悪いとかいうなら、スーパーで売っているワインを飲んで頭痛がしない理由を明確に教えてもらいたいものである。

食後の紅茶が効いた、などというのは見当違いである。そんなことは昔からしていて、それでも頭痛がしていたのだから。



というわけで、特に不調があるわけでもない皆様方にも、何がしか創作を捜索して頂きたい。

我々が人の姿を取っているのは、あなた自身が創作すべきものを捜索するためなのだろうと、思うからである。

しかし、またダジャレか。わしはダジャレを捜索しているらしい。そこら中にあるので、創作の余地もないが。


では、よき終末を。


春の名勝負

2017-03-27 | 雑記
このgooブログとやらには、「お題に参加してみよう」などと謳った、カテゴリー記事があって、わしも一つ参加してみようと考えた。

なんせ、「春の勝負パンツは?」とかいう、桃色の空気が紛紛たるものだったからだ。

しかし、わしはパンツを穿いてなかった。なんせ、ふんどしだから。

などと思いながら、お題を検めてみたら、「春のセンバツの名勝負は?」だった。

春の陽気に中てられて、妖気が横溢していたのは、わしの方だったというわけである。


冗談はさておき、いつもさして変わらぬ本題へ参る。



以前、気持ちの悪いコメントをしてくる奴がいた、と書いた。

その態度の気持ち悪さを具体的に評し、それは「あなたを助けてあげているんです」という雰囲気だから、もう来るなとやったら、本当にそうだったという。

具体的には「仲間に引き入れようと思い、正しい知識を授けようとしていた」だったと白状したので、ほぼその通りだったというわけだ。


知識というのは情報を使いこなすことであって、情報に跪くことではないとは、後日さらに書いたものである。


そこでさらに問いを重ねてみようというわけである。


そもそも、正しい知識とかいうものは何か?言ってしまえばそんなものはない。

例えば、戦争が良いか悪いかという話は一度脇に置いて想像してもらう。
実際に戦争に入っている状態で、戦争反対を唱えることは、戦争自体は良くないのは当然としておいても、自他を危険にさらすことになりうるので、情報としては正しいが、知識としては間違えているとなる。

だからといって、「非国民だ!」と非難するのもまた、やりすぎでおかしな話であることは論を俟たない。

元々日本も他の国もぶち壊すために戦争を仕掛けている戦争屋と国々が共謀しているものだとはいえ、やりすぎたら破滅するのもまた事実であるからだ。

この場合は、戦争に入る前に、戦争はよろしくないというのが正しいといえる。戦争やっている最中にいうのが間違いとは言わんが、ヒステリーを起こしている人に向かって言うと捏造しだすので、気をつけるべし、といったところである。


情報を扱うということは、そういうことである。



あのおっさんも、正しい知識がどうこうとよく言っていた。俺はこのことを知らなかったが、知って正しくなった、と言っていたのである。

正しくなったおっさんの正しい言葉を改めてここに記す。

「バカな人類は滅びて当然だ」

実に正しい。それはあなたのことだからだ。


何ゆえか?それは実に単純である。

既に述べたが、情報に跪いただけだからだ。

偶像崇拝というが、知識という名の偶像を崇拝したというわけだ。仏像やら磔刑の石像だけが偶像ではないのである。


余人が知らないことを知ったということでうぬぼれた、というのはよくある話。

うぬぼれるということは、己が矮小な存在であると常々吹き込まれ、凝り固まっているからなのである。

それで、目の前のニンジンに飛びついて、それはただ単に釣り上げられたのだということを知らずに、自分は偉くなったと思い上がる。


我々人類は、バカになるように作り上げられたとはいえ、これが彼の者のいう、「バカな人類」の姿であり、それは正に、当人自身のことである。

自分自身のうちに跪きたくなる程のものの存在を感じえないのだから、あっちこっちで跪いては醜態をさらすというわけだ。

醜態をさらしていると憑かれて疲れるので、他人を跪かせて椅子に仕立てるわけである。

その椅子でふんぞり返っているうちに、二本の脚は萎えて使い物にならなくなるのである。


仲間とやらにするために、「正しい知識」を授けるというのは、上記のやり口でしかないのである。


敢えて気取った言い方をする。

わしは、自身のうちから人類共通の「人間」を見出したので、それ以外のでっち上げに跪くつもりは微塵もない。

仮にそれが思い違いだとしても、わしは「わし自身」に跪く以外に意味はないと信じているだけである。


では、よき終末を。


ハンモック

2017-03-25 | 雑記
麻の網状マフラーはきっと猫が持っていった、などと書いたものだが、ふと、ハンモックにしてるんじゃなかろうか、などと思いつつ仕事場に行くと、また仕事場の別のPCの壁紙が猫になっていた。

入ってすぐに目に入るところにあるものだったので、タイムカードを打つ前に唖然としてしまい、直後「また猫が増えてる・・・」と口走ってしまうほどだった。

ちなみに、猫は猫だが、サーバル・キャットの子供の写真だった。

猫のことだから、ハンモックをトランポリンだと勘違いして、ポンポン跳ねて落っこちやしないかと心配になるのだが、可愛いので破れても許そうと思っていたら、一昨日、見つかった。

まずはその顛末から書く。

見つかる前の日の夕方、弟から電話があった。仕事に入っている時間だったので、気づいたのは帰宅後だった。

メールの予約送信機能というのがあったはずだと、ケータイのメニューを調べると、予想通りあったので、次の日の起床予定ぐらいに設定しておいた。

とはいえ、起床予定よりは早く目が覚めて、無理して寝てちとしんどいか、ぐらいになったりするが、二度寝するくらいなら起きろというお達しだと思っている。

それはともかく。設定通りメールが届いたらしく、早速弟から電話があった。

布団から起き上がらずに電話を取り、話を聞く。そこには驚愕の事実が!来週も仙人と地獄に付き合ってもらう!


そんな懐かしい人は懐かしい煽りは放っておくとして、家庭の事情をちと話す。

掻い摘むと、弟は去年から体調が思わしくなく、休職と復職を繰り返したり、最近は転職もしていたそうだが、やはりもたなかったそうな。

それで、体調がよくなったらまた暮らそうということで、嫁に娘を渡し、一応は形式上の離婚という形をとったとのこと。

そうかぁ、そうだったのかぁ、と話を聞きつつ、ふと、普段はあまり見ないちゃぶ台の下を眺めると、見覚えのある素材の塊が見える。

そこにある見覚えがないので、不審に思い、よくよく見ると、件のマフラーだったというわけだ。

いつぞやは、多少酔っ払って、ちゃぶ台の裏側に投げ込んだらしい。そうでなければ、空気猫がそこに持ち込んだという事で、やはり猫の仕業だろう。

さらに余談になるが、仕事場のPCのサーバル・キャットは、万歳しているアザラシに交代してもらった。


弟からの電話を受けつつ、思いがけないことが起きたので、これは弟のお陰だろうと踏んだのか、つい「おお、見つかったぞ。助かった」などと言ったものである。

どうしてそういったのか、ということになるのかは知らんが、弟の病について記すと、「適応障害」とかいう病名らしい。

神経系か?精神系か?と聞くと、精神系だといっていた。うつもあった、とか言っていた気もするので、うつの発展だか派生ともいえるのだろうか。

家族には知らせようとなんとか電話してきたのだろう、それに打ちひしがられているわけだ。助けて欲しいと思っている。

一人になって辛くて、自分はいらん奴だと思わなくもないだろう。それで、つい「助かった」とこっちが言い出したのかもしれない。


また余談になるのだが、マフラーがもし見つかるなら、最近忙しくて顔を見せてない、ネパール料理屋の常連のお嬢さんにまた会える時だろう、などと妙な予想をしていた。

結果は、会えた人物、というより物事だが、予想通りになったといえる。

病んで離婚するまでに至った弟に出会う、会うとはつまり、認識したということである。弟が大変だという状況に出くわしたということだ。

世の中なんにせよ、思った通りにしか進んでないので、猫には申し訳ないが、ハンモックは諦めてもらおう。


さて、弟の病気、適応障害。精神系の病気だと聞いた。

それなら、瞑想やってみればよい、と言ってみたら、すでに知り合いから本を貰っていたそうで、「呼吸法と何も考えないようにする奴だろう?」と答えてきた。

「んなもんどうでもいい。瞑想の感覚というもんが判ればいい」と、最近妖怪染みてきたことと何をやったのかを伝えたところ、「某テレビ番組とかで紹介されてるような状態になったのか?」と聞いてきた。

「そういうこった。だから、実家に帰ったら、お前も寝食を忘れるくらい没頭できるものを見つけてこい」と教えておいた。
実家に帰るとは、電話で言っていたからだ。

四月末に連休が入っていたので、今日からその辺りまでは大体一ヶ月近くとなる。たまには親元に帰るのもありかと思いはするのだが、財布が心配である。しかし、つい二晩連続で呑んでしまっていた。

胃に取り付いた妖怪胃の頭は酒も平気らしく、これを書いている六時間前の二時過ぎに家に帰ってきてそれから風呂に入って四時か五時ぐらいに寝たのに、目が覚めたら七時で、そこからしばらくごろごろしてからこれを書きだす始末。妖怪は人には容赦がないようで、困る。妖怪だけに、人でなしか。

これからしばらくは、胃の頭には空気かまんじゅうより怖い茶で過ごしてもらうことにしよう、などと考えている。


瞑想というと、文字通りなら目をつぶって、となるのだが、先日書いたとおり、サンなんとかも同じ状態だろうと指摘しておいた。

目をつぶってもまぶたが被さっているだけで、元々人は何も見ていないのだから、一緒なのである。

それなら、目を開けて夢を見れば良いだけのこと。これは別になんの根拠もなく言っているわけではない。

瞑想の呼吸法云々だが、あれは瞑想状態になれば勝手にやっている。それを体から意識して導入しようというのが、瞑想というやり方である。

野口整体の操法と同じで、元来は意識せずに行っていたことが、時代を下るにつれて判らなくなったから、意識して体を動かして導こうという算段である。

これは悪用も出来る。瞑想状態に導いて、そこに例えば宗教のドグマを植え付ければ、奴隷の完成と相成る。

宗教、と書いたが、別に葬渦学会とかヒヨコ心理だとか、不幸の化学とかいうものだけではない。この社会全体というわけである。

物理学者までもが、この世はホログラフだと盛んに言い出している。いわば、所謂普通の状態は軽い瞑想状態ともいえる人間に、特定のホログラムを見るように誘導してきたというわけである。


だから、自分が見るべき夢を思い出して、それをしっかり見れば、病気なんぞなくなるのである。

先日書いた定義の「人」と「人でなし」がラリって見ている悪夢ではなく、「人間」としての夢であることをお断りしておく。


己の夢は己の内側にしかない。内側というべきかはしらんが、それは人類全体に共通してあるはずの、わしが定義して書いたところの「人間」に繋がっている。

アイクのいうコンシャスネス、ユングのいう集合的無意識というわけである。

人類というのは、「人間」が経験し、また表現するための仮の姿というわけだ。

それが判らないから、太陽に効果が!とか、このサプリがすごいといっているのとまったく変わらないレベルで食事がどうとか言い出すのである。

かつての人類の「人間」としての表現の残滓にすがる。これを物質崇拝、偶像崇拝といわずして、なんという。


だから、「これをやっているから自分は偉い」なんぞと言っている奴は、全員バカなのである。

それらは皆、あなた自身と他の皆も共通して持っているものが偉いのであって、おまえ自身が偉いわけではないのだと。


かつての人類の表現の先を見出し、それを感じ取り、そして己で表現してこその「人間」である。


剽窃を繰り返して人類を気取っていては、畜生にも劣る。ご先祖たる「人間」を侮辱しているのに他ならないのだから。


気取っただけの人類は、人間を超えただとかやめただのとぬかす。やめたのではなく、病めたの間違いでしかないのである。

病めた人類はもう辞めた方がよろしい。老婆心という奴だが、言わずには居られぬ。

しかし、ダジャレで締めるとはまったく締まらないが、これもまた表現というもの。笑覧でもって御免被る。



では、よき終末を。


カキノキ・ゲージング

2017-03-23 | 雑記
サン・ゲージングというものがある。

その名の通り、太陽を眺めるというものである。息子を眺めてSON・GAGINGといえなくもないが、カタカナだと同じ事になりうる。その場合はソン・ゲージングとでもいうべきか。

ダジャレはともかく、これがとても素晴らしい!と一時期評判になっていた。

例えば、どこの人とかは忘れたが、朝晩茶を飲みながら太陽を眺めているだけで、食事は一切無しで健康に暮らしている人がいるなどと紹介されていたり、サン・ゲージングを広めている行者だか正邪、じゃなくて聖者かしらんが、そんな人がいた。

後者は、怪しまれていて、実際にレストランに入っていく姿を目撃され、その事を質されると、こう返した。

「食べた振りをしていた」と。美味そうだったからとか、他に美味い、ではなく、上手い言い訳はなかったものだろうかと思う。


食事を取らずに生きていられる人を、ブリサリアンという。これは「空気を食べる人」となる。

実際に空気しか食ってないかの如く、何も食べない。ここでよく槍玉にあげているあのおっさんのHPでも紹介されていたが、その指導的立場という人かなにかのHPのリンクがあった。日本語版なので、よく読んで覚えている。

そこにあった定義によると、「食べないからブリサリアンではない」とある。

はて?と思うが、「食べたものから今まで通り栄養を取るという感覚や体の働きがないからであって、食べないからではない」という。

実際に、食べているブリサリアンの人もいるという。生命維持活動で食事をとるのではなく、楽しみで食べているのだとか。

食べることを趣味とは言語道断!と、恐らく、あのおっさん夫妻は言っていそうだが、自分で書いたり紹介したことを覚えてないくらいなので、紹介した時点で忘れていたことだろうと思われる。

それなので、上の行者だかは、そのことを知って伝えておけば、下手な言い訳やら神秘性を持たすためのくだらない策を弄することもなく、「美味そうだから食いに行った」と平然とやれるものだろうに、などと考えたものである。

しかし、食べてるんだから栄養を取っているはずだ、というだろうが、やはり、経験からして違っている。

かつて、断食をしたときは、言ってしまえばラマダンの如く、夜に少量取るだけのやり口で過ごしていたのだが、体は痩せ細るし力も出なくなる。

鏡の前で体の筋肉の具合を確かめるために力を込めると、死ぬかと思ったぐらいである。そこまでひどくはなかったが、それだけで疲労が激しかった。
便も出づらいし、ろくな状態ではない。

食べるのも辛くなっていたかもしれない。その辺りはよく覚えていないが、疲労感ばかりだったことは覚えている。



さて、最近はというと。

半日近くゴロゴロしていたとかいうのもあったとはいえ、二十四時間ほど、お茶と水以外口にせず仕事へ向かい、そこの夕食でようやく食べたという具合だったのだが、なんともない。空腹が激しいときに物を食べたときに起こる、痺れるような快感もない。

それだけならまだしも、さっき家に帰ってきて、また帰る前にラーメンを食べていたのだが、家でトイレに行くと、しっかりとした便が出た。

三十時間ほど前に食べたものはというと、ステーキだったりする。それと、ライ麦のトースト。きっとライ麦の食物繊維が!!と考えるのもバカらしいぐらいである。

食ったものに影響されるのではなく、これを食ったらこんな影響がある、と思い込む心身があるから、変になるのである。それは、体に悪いからという話だけではなく、これが健康によいのだ、というのも悪影響なのである。

こんな話がある。

あるおばあさんが、骨粗しょう症の予防のためだか、なりかけだかで、医者だか周りにか「カルシウム不足だからたくさん取りましょう」といわれ、せっせと取っていた。

そうするとどうなったか。見事骨粗しょう症になってしまったのである。

これは、栄養を取りすぎると体は勝手にいらない分を排出するように出来ているのと、「わたしはカルシウム不足なんだ」と思い込むことによって、本当にカルシウム不足の体を作り上げたというわけである。

体外にカルシウムを排出するために、骨中のリンだかが必要で、それで骨からカルシウムが抜けていくというのが、メカニズムだったかと思われるが、そこは専門家にでもどうぞ。


さて、余談が過ぎたが、サン・ゲージングの話に戻る。

別に、行者やらが間抜けだとかそういう話ではないのだが、うっかり騙されるものだという話である。

何がというと、太陽に素晴らしい効果がある!という流れが、である。

ここでまた、妖怪の、故 水木しげる爺の話をする。


売れっ子の漫画家として、家で漫画を描き続けている水木しげるは、どこか出かける暇もない。両手あっても大変な漫画描き。それを片腕でやっている。

忙しい合間の気晴らしがあったそうだが、それは・・・。

庭の柿ノ木をぼんやり眺めることだったそうな。


これは!!きっと柿ノ木を眺めることで素晴らしい力を得られるに違いない!

などと大騒ぎになった話は聞いたことがない。


後、朝晩太陽を見ながら茶を飲む以外は食事をしていない、という人の話で、「飲んでいる茶に多大な効果が!」という話も出ていない。

チャノキとある種のキノコに含まれるテアニンは、神経を穏やかにさせつつ、意識をすっきりさせるとという効果があるそうだが、それなら毎日飲んでいる人もいるので特に関係なさそうである。多少はあると考えているが、それは後述する。


太陽の紫外線に当たると、ビタミンDが作られ、しかもビタミンDは取り貯めがきくので、夏なんかはよく当たっておくのがよい、とはいう。

ナチュラルニュースの人が言っていたものである。しっかり日光浴してビタミンDを取っておけば、病気の80%は防げるだろうと。


しかし、ビタミンDで腹は膨れまい。なら、太陽光線を直視することで、なにやら覚醒効果が!?という話になっていく。

そうやって騒いでいたのをよく覚えている。


わしの最近の経験からいうに、これは恐らく、瞑想状態になっているのである。

強すぎないけど多少まぶしい太陽をぼんやり眺める。目を離さないように太陽を意識して眺め続けるというのは、瞑想のやり方そのままである。

現在のわしは、腹は鳴れども、食べなくては、という強迫観念がない。さらに、鳴るのさえ止めてしまおうと思えば、例えば、火を灯したローソクをじっと眺める。サン・ゲージングの如く、眺め続けるのである。

するとアラ不思議。寝起きの微妙な具合も、空腹感もなくなってしまうのである。

こっちはならんぞ!と言われても、いきなり瞑想できる人は少ない。こっちも多少練習してきたようなものではある。

以前から書いているが、瞑想のために小説を書き始めたら、妖怪染みたというわけだが、瞑想はあまりだったが、呼吸法なども調べて実践したりしてきた上での話しであることをお断りしておく。


だから、朝晩太陽を眺めつつ茶を飲んでいるというのは、呑んでいるのが何茶かはしらんが、瞑想の手段に太陽、そのお供にお茶、という具合だったといえる。

瞑想的になれる手段は、実はそこら中にある。

例えば風呂。熱い風呂に浸かると、つい「ふー」と息をつくだろう。あの長い呼気は、瞑想と共に実践される呼吸法の吐き方と同じ状態になっている。風呂が心地よい熱さなら、意識も風呂に浸かっている状態にしか向いていないので、あれも瞑想しているのと同じである。


座禅だとか太陽見るだとかは、あくまで切っ掛けであり、元々人に備わった能力を引き出しているに過ぎないのである。

太陽だから、とかいういい方は、現代人の「サプリメントがないと」などと、あれやこれや薬漬けになっているのと同じなのである。

果物食べてるから、とか、環境がよくない、とかも全部同じである。外ばかり見ているのである。


外ばかり見て、自分を顧みないでいると、庭のカキノキがそのうちジュボッコに化けて襲い掛かってくるかもしれないので、たまにはカキノキ・ゲージングでもするべきであろう。
※ジュボッコとは、水木しげるが考案した(らしい)、樹木型の妖怪である。元ネタと思しき昭和初期の本があるとかで、完全オリジナルではないと思われる。

では、よき終末を。


見下しの仕草に見える心理構造

2017-03-22 | 雑記
前回は「人をやめて妖怪になろう」という、前人未到でもないらしいが、理解不能な記事を書いた。

改めて具体的に書くと、人類には三つほどあって、「人」と、人でなしと音声では伝えざるを得ない「ヒト」と、後はその他諸々である。

何でその他諸々か!意味がわからんぞ!と言われても、こちらとしては困る。

前述二つに完全には当てはまらない存在が、妖怪だの魔法使いだのなんだのと呼ばれたりするだけのことなので、なんだかんだで一緒ではあるのだが、その他諸々としかできない。

それで、「人」と「ヒト」との間、人類の間という意味で、「人間」と呼称しようというわけである。

なら、人でいいじゃないかというが、これには問題がある。

ニーチェが『権力への意志』で書いていたかと思うが、「人間とは本質的に利他的な生き物だ」という。

この場合の人間は、わしが定義して書いた「人」に当てはまる。そういうわけで、他所でいきなりこの定義を持ち出して騒いだりしないこと。

騒いでいる人がいるかはしらんが。

この定義をいつまで使うかはしらんが、さしあたって、括弧をつけてない人とか人間は、人類と言っているのと同じだと理解していただければよろしい。


さて、前回の復讐、じゃなく復習として、ニーチェの言う人間は利他的というのが問題になる、と一つ書いておく。

「人」はつまり利他的で、悪く言えば自分がないので周りに流される。

それなので、「エナジー・ヴァンパイア」に吸われると、「利他的」に同調してしまうのだといえる。

エナジー・ヴァンパイアというのは、日本語だと「生霊」になるとかいう話も、ずっと昔に書いた覚えがある。「ラポール」と同じで、当たり前だから気にしてなかったとか、胡散臭いものだということで存在しないことにされたという流れなのだろう。

しかし、「自分をしっかり持て!」なんぞと頭に言いつけても出来やしない。そんな説教もしたくない。

それなので、ちょっとした姿勢の変更をしていただく。

よく、背筋が曲がっている奴は心も曲がっているといわれるだろう。そして「背筋を伸ばせ!」と続けて罵声が飛ぶのも日常だった。今はそう言っている人がどれだけいるのかはしらん。

そうして背筋を無理矢理伸ばすと、肩が凝る。疲れる。飯も喉を通り難い。息もしづらくなる。

すると、どんどん悪いほうになる。しっかり背筋を張っているはずなのに?と。


まずは、背中の力を抜いていただく。胡坐でも正坐でも椅子に座ってでもいい。椅子の場合は、足を地面にしっかりつけておくこと。

そして、腰を少し前に出す感じにする。尾てい骨の位置が変わるのがわかる動きである。するとアラ不思議。

勝手に背筋が伸びるじゃありませんか。肩も凝らない、息もすんなり通る、気持ちのよさを実感できれば出来ている。

肩の凝る凝らないは別としても、息の通り方やら上半身に無駄な力がない状態で姿勢を維持できるのはわかるかと思う。お試しあれ。

野口整体のいう、正坐というやつである。この状態で背骨呼吸のイメージでもって体全体で息をするようにやると、姿勢が悪い状態で無理矢理行う深呼吸は全然深くなかったことも理解できるであろう。人の体の癖によっては違いがあるので、必ずしもそうだとはいえないところではある。

吸うときは鼻、吐くときは口だそうな。忘れて両方鼻でやってるが、吐く時に口でやると違いがあるように思う。

この姿勢は、立って歩いているときでも有効である。腰というか尾てい骨の位置を意識して、少し前に出すような具合にするのである。

颯爽と歩く姿は異性の目を引くこと間違いなし。さあ!今すぐ外へ行くのだ!


さて、姿勢について話をしたついでに、心理構造的な話を追加で行う。

つまりは、タイトル通りの本題というわけだ。


「人を見下すことは、己を見下すこと」と、明記したかは実はよくわからんのだが、そういうものだと確信している。

そのいい振りからは少し外れるが、オカルト的に言えば、相手を見下すと、見下されたほうは嫌な気持ちになる。気持ち悪くなるわけだ。

そこで発生するネガティブな精神エネルギーを吸い取るのが、エナジー・ヴァンパイアの理屈だといえる。

されたほうはされたほうで、わけもわからずムシャクシャしたりして、ストレス解消と銘打っては何事かいらんことをして、さらにストレスを広げていく。
ほんの少しの積み重ねだったとしても、毎時毎日続いていくのなら、それは立派な吸血鬼になっていく修行の有様だといえよう。

ローマは一日にして成らず。吸血鬼は三日くらいで出来上がりそうなぐらい、日常茶飯事だというわけだ。

オカルト、と言ったが、真面目に心理学者が研究している話でもある。オカルトの界隈では当たり前のことを、さも新発見のように学者がやっているだけ、ともいえるが、そういう突っ込みは別のところがやっているので、ここでは割愛する。
ついでに、何度か書いたが、オカルトの原義はラテン語で「隠されたもの」であって、超常現象という意味は後々の認識の齟齬で付け加えられたものであることも、留意願いたい。知らなかっただけで、超常現象でもなんでもないのを、勝手にそう呼びつけたというわけだ。


タイトル通りの話に戻す。

その前に、昔話を一つ。

十年くらい前だろうか。買い物に出かけて、目的の場所のある通りを歩き始めたところ、向かいから二人組みがやってくる。

小柄な日本人と、西洋人らしい背丈の外国人が、スーツを着て歩いている。しかも横に並んでいて、邪魔臭いと思って歩道から出て避けていこうとした。

すると、西洋人のほうが、少し顎をしゃくるような仕草をした。顔もなんだか興味を持ったかのような具合で、言葉こそださなかったが、もし出していたら、「ほお?」とでも言いたげな具合である。

そして、二人してわしに話しかけてきた。さて、彼らの正体はというと・・・。

この話は実はかなり昔にやったものである。彼らはモルモン教だった。キリスト教のカルト宗派とも言われている。

なんやかんやで振り払ったものである。終わり際の西洋人はやたら熱意のこもった演説をしかけていたが、わしも熱っぽくなるとああなるのかもしれんと、戦々恐々としておる。わしもまだまだ修行が足りぬ身でのぉ・・・。

冗談はともかく。


彼らは勧誘しようとして歩いていたのだろう。そして、「正しいことを知らない一般人」を見つけて、ああいう態度を取ったというわけだ。

つまりはタイトル通り、「見下し」があったわけだが、その仕草から、何か奇妙なものを感じないだろうか?

比べようのないものを、例えば、地面を歩いている蟻を見て、顎をしゃくって下目に見るような仕草をする奴はいるだろうか?する奴もいるかしらんが、「蟻が行列してるな」ぐらいに見るだけだろう。

虫に興味のある子供なら、蟻の行列を見つけたら喜んでかけつけ、近くにしゃがみこむだろうが、見つけたときに上のようなことをするだろうか?

つまりは、自身がちっぽけだから、上に立ったような仕草をしないでは人を見下せないのである。別に、「人を見下せ」と言っているわけではないが、その内面は、自分が人の風下に常々立っているような寂寥感を抱いているから、と言える。

つまりは、己を見下しているからこそ、他人をことさらに見下す。己が何もないことを無意識に自覚しているからこその、自然極まりない動作による不自然な自身への見下しというわけである。

話は関連するが、少々違うことを。知識というのは、知、つまり情報を、識、扱うという意味である。

人に物を伝えたいからとか、自分がどう考えているかを伝えるために、「知識」がある。別にこれは思想だとか科学技術の話だとか陰謀論だとかに限らず、平生の言葉自体がすでに「知識」である。

正しい知識がおありなら、どんな言葉でどう伝えたらどう反応するのか、それぐらい判って、考えて当然であろうが、「知識」なんぞもともとないので、話になどならないのは当然なのである。
これは、情報にたぶらかされているだけで、情報に膝を屈しているアワレな子羊に自ら成り下がっているだけである。
上のモルモン教徒のことだけを言っているわけではない。


というわけで、あなたという存在を自身で理解するための一助として、姿勢についての「知識」を本題の前に書いた。


あなたは周りがあなたを理解しないと嘆いているかもしれない。まあ、無理に理解してもらう必要なんぞ端からないのだが。

それは実は、あなたがあなた自身を理解してないからかもしれないのである。というわけで、まずは己の姿勢についての「知識」から実践していってもらいたい。

あなたの、あなた自身への理解が深まれば、自然と周囲に対する理解も深まっていくものである。

それで、そうならなかったらどう責任取るんだ?なんぞと言い出すと、こういうしかない。

人にすがるのは「吸血鬼」のやり口なので、「汝自身を知れ」という言葉をかみ締めていただこう、と。


では、よき終末を。



全人類の妨害電波

2017-03-19 | 雑記
しばらく前から、妖怪に取り付かれたと書いてきた。

胃に取り付いて、特に悪さするでもなく、胃に入ってきたものと戦うとかいうのが趣味だという、変わった奴だった。

聞いたこともない妖怪なので、とり合えず、「胃の頭(いのかしら)」と名付けた。口癖は「まんじゅうこわい」だが、まんじゅうを食わせた覚えはない。

取り付かれたことに気づく前から、わしも少しずつ妖怪染みてきていたらしく、今思えば、そうだったのかと合点がいくことが多々ある。


そのうちの一つが、着物から出ている妨害電波のせいか、目がおかしくなったのだろうという話で、なんだか白い靄が見えると書いた。

しばらく前、駅のホームで、向かいのホームを眺めていたら、誰もいないところに白い靄が漂っているのが見えたものである。

見ようとすると見えて、目を離さずに見るのをやめると消える。湯気なら、見る気がなくても見えるし、駅のホームで無人の箇所を眺めて湯気も何もない。

ああ、こりゃきっと気のせいだと思うことにした。


我が家は、夜はローソクを立てて明かりにしている。ワンルームの夜の明かりをこれ全てで賄っているわけではないが、今もこれを書いているキーボードの傍らにはローソクが燈っている。

体から大体一メートルも離れてはいないが、五十cmほど離れているだろうか、それくらいのところで手をかざしていると、ローソクの炎が揺らめき始めたりする。

鼻で呼吸をしているので、口からの呼気が当たって揺れているとは考え難い。密室で体温が部屋の空気の滞留を変えたのだ、といえなくもないが、ローソクに意識を向けない限り、特に揺れていないので、そんな話は無理がある。

これもやっぱり気のせいだろう。


部屋にあるガジュマルの植木鉢を、夜の仕事に出かける前の夕方ごろ、日に当たるよう、机に移動しておくのだが、そのガジュマルに掌を近づけてみる。

なんだかひんやりする。氷を触っているかのような冷たさを覚えるのである。沖縄の夏がさして暑くないだのといわれるのは、こいつのせいなんだろうと思う。

沖縄の人がさして寒くない冬にコートを着ているのも、恐らくこのせいだろう。

などと、考えて遊んでいたりする。気のせいから妙な話を考えるのも面白いものである。



そして、胃の頭に取り付かれてから、あまり物を食べなくても平気になった、などと書いてきたが、体調の変化があった。

悪くなった、というのではなく、下っ腹が何も食べてないのに張っているような状態になっている。

ちょっと深く息を吸って、下っ腹に力を込めるようにすると、腹が鳴っていたのが消える。腹が鳴るから食う、という感覚は元から少なかったのだが、食べてないのに腹いっぱいのような変な感じがある。

ああ、気のせいが過ぎて、気が狂ったのかわしは。と思わなくもない。


そしてついに、行動が妖怪染みて来たことに思い当たったのである。食べてないだのなんだのは、言っても信用しないし、そも、してもらおうとも思わない。まったく食べてないわけではないし、まったく寝てないわけでもないからだ。

上に、湯気じゃないけど靄が見えるとか、ローソクに手をかざしたら云々と書いた。

それに連なる話で、ある夜の帰り、電車でつり革を掴みつつ、窓を見ていたのだが、驚愕の事実に行き当たったのである。

瞬きの間隔が、今までより遥かに長くなっている。瞬きを意識すると途端に始めるのだが、何かに見入っていると、まったくしていないらしい。

さすがに風のあるところだと、邪魔があって目に意識が行って、その時はしているのだが、なければずっとにらみ続けているらしい。

人に言われたとかいう話ではなく、自分でおかしいと思ったのである。

これはきっと、目玉の妖怪に取り付かれたか、わしが目玉の妖怪なのかもしれない。

著作権の都合で、他作品には出づらい名前の化け物がいる。名前を「ビホルダー」という。
つづりはBeholderで、「見る人」という意味になる。球体状の目玉の化け物である。

人じゃないか!というのは英語の表現の都合であって、見ているもの、というところか。

嗚呼!ついにわしは正真正銘の化け物になってしまったのかと、毎日わくわくしているのである。

次は裏ボス的妖怪になり、世界を牛耳ったりして、そして倒されるとかいうお話を展開するのだろう。実に楽しそうである。


さて、人が妖怪や悪魔や神といった、擬似的な生命を吹き込んで想像した、という話がある。

落雷を見ては、「ケルベロスの仕業」といったりして、そういう話が広がったというノリである。


神話の話になるが、バベルの塔についての話をご存知だろうか。

その当時の人類というのは、皆共通の言語を有しており、一緒に大きな塔を作っていたのだが、神とやらがそれを反逆ととらえ、その塔を破壊し、そして人類の言語をめちゃくちゃにして、散り散りにさせた、というお話である。全人類に妨害電波を中てたのだろう。実際に、おしゃべりをしている人達に特定の周波数の電波を照射し、お互い何をしゃべっているのか判らなくする、毒電波照射機を開発した日本人の学者がいるくらいである。

想像だが、当時の人類とやらは、英語だとか日本語だとかの今の認識で言うところの言語を使ってなかったのでは?ともとらえられる。

先日ちらっと書いた、「ラポール」の強化版で通じ合ってたのではないかと。テレパシーだとかに言い換えても問題ない。

同じ事をされたからといって、皆が皆同じ状態に一気に落ち込むわけでもなかったのだろう。だから、日本じゃ当たり前すぎて名前のなかった現象に、判らないから研究して、「ラポール」と名付けたとかいう状況になったりするわけである。


己と同程度の能力以上のことをする存在は、気味悪がられるものである。「全然瞬きしないあいつは、病気か宇宙人だ」とか言い出すのだろう。

アフリカの原野みたいなところで暮らしている人々なんか、ちょっと怪我したら肉の芽みたいに盛り上がってすぐ傷がふさがるとかいう。

「あれらは妖怪だ!溶解してやる!」とか、無能に成り下がっていただけの方が言い出した、と考えられる。

だから、全部が全部かはしらんが、人が人を妖怪に祭り上げてきた可能性も否定できないのである。

妖怪に祭り上げられ、嫌な気分になったところに、本当に妖怪がやってきたりして、負のスパイラルが巻き起こり、現代に至ったのかもしれないと。

さて、遠まわしな話はここまでにする。

陰謀論的な話をさらに続けて、上の話の理解への一助となれば幸甚である。


為替取引としてのマネー。金融市場とかいうもので扱われるもの。

これらの始まりについては、例えば「THINKER」さんのHPなどでも書かれているが、そもそもは金の取引であった。

その金を、延べ棒だとか細工だかにして預けておいて、必要な時に取り出して、取引に使っていたという。

引き出しに使うのが、預かり証文であり、これを預けてある場所に行って交換する。

そのうち、怠けて、取引をこの預かり証文の交換ですませるようになる。金を預けているところにはほぼ来なくなる。

そして、その仕事していたユダヤと呼ばれる人が思いついて、証文詐欺を始めて現代に至るのだと。

そこで一つ尋ねる。本当に悪いのはどちらか?

詐欺を始めたユダヤが悪い!というのが現代でもっとも優勢な声である。

確かにやっていることはひどいので、その罪業を攻め立てるのはもっともである。

あるのだが、詐欺をさせる隙を作ったのは誰だろうか?今いる我々自身ではないとしても、一体誰だろうか?

自分自身で管理できないほどの量の金を集め、人にまかせっきりにするという怠け具合を発揮したのは、一体誰なのだろうか?

妖怪みたいにこの問題をにらみ続けていると、この問題は我々自身の怠け具合への警告なのだろうと思い至ったのである。


さあ!あなたもあなた自身が妖怪になったつもりで世の中をにらんで見るのだ!

そのうち妖怪扱いされるかもしれないが、ただの人に甘んじているよりは面白いかもしれない。



何せ、妖怪胃の頭は何を食っても食いすぎなければ「うまいうまい」と真面目にやっているし、目に取り付いたらしいBeholder氏も靄やら何やらをじっと見つめて倦むことがない。

先日、夜勤で静かな時、テレビを見ていた。テレビ画面を見ていただけで、画面は真っ黒である。リモコンの電源を押せば映る状態である。

四、五メートルは離れていたと思う。靄が見出せる具合で見ていたら、なんと、画面がざわつき出し、うねうねしている。

「なんだこれは?」と思ったが、Beholder氏は冷静に答えた。

「テレビを見ていると気が狂うというのは、内容のことじゃなくて、このことなのだ」と。

妖怪は真面目である。怠ける、という言葉の意味を知らないようだ。



人のせいにする、というのは、つまり、人にすがっている。

先日書いた、「ヒト」に成り下がっているわけである。生命力の供給も他任せという怠けた奴なのである。

妖怪になってしまえば、人にすがるヒトになることもない。

わしはそれを、人とヒトとの間という事で、人間と呼ぶことにした。



さて、先ほど、人が妖怪やら悪魔やらを作った歴史がある、という風に書いた。

改めて、ここで書き述べてきた言葉で綴り直すとしよう。

妖怪やら悪魔やら神を作り上げたのは、怠けた「ヒト」なのだろうと。



では、よき終末を。


人とヒトとの間

2017-03-17 | 雑記
今日もまた、夜中上がりなので、帰りにラーメン屋に寄った。

お前そんなの食って大丈夫か?と、以前ここで書いていた話からしたらまるっきり違うことをやっているが、別に気にしていない。

仏典にも変毒為薬とかいう言葉があるくらいで、毒を薬に変えられるなら、世の中薬だらけなのである。あとは、先日も書いた、妖怪胃の頭の仕事である。

そんなバカなことをやっていると、病気になるぞ!と脅していた人にならっていたわけだが、その人はそういう精神毒とでもいうものを撒き散らしていただけだったというわけである。そういう話は例えを変えて何度もしているし、これからも何度もしようかと思う。

それはさておき。


今日はチャーシューメンにしよう、でも味玉もいいな、などと思いつつ、券を買って渡す。

替え玉が一回無料なので、柔らかめで頼んだところ、なかなかこない。

帰った客の席の片づけをしていた、替え玉を頼んだ店員に尋ねたところ、ギョッとして「すぐもってきます」と去った。

「忙しかったし、奥に伝わらなかったんだろうな」くらいに思っていた。頼んだことすら忘れていたわけではない反応だったからだ。実際に、その後来たのも頼んだとおりのものだった。

程なくして、替え玉が来たのだが、味玉が乗っている。「申し訳ない」と味玉をおまけしてもらえたというわけである。

「ああ、思った通りにしか世の中動いてないんだな」と、認識を深めたしだいである。めでたしめでたし。

昔も書いたがしらんが、国民的人気の長寿アニメと銘打たれている、家族アニメじゃなくて冒険アニメの方だが、その原作の単行本の著者近影のところにも、同じ事を書いていた。

「うまくいかないとみんながおもっていると、やっぱりうまくいかない。だから、おもったとおりになっているんだよ」と、軽い調子で書いていた。

MAGICA魔法入門カバラの人がいうには、売れっ子作家は魔術結社だとかで世界の真実を聞いているので、そこで習ったことをネタにして売れるシナリオを書いている、と指摘しているのだが、それに準じていうならば、これも世界の真実というわけだ。

それのどこが世界の真実か!とお怒りになられる方もおられよう。だが、ちょっと考えて欲しい。

腹の立つことを腹の立つように見ているから、世の中腹の立つことしか見えないのでは?

こういう、一見ありきたりな事を見逃しているから、「うまくいかない」と思った通りになっているのでは?というわけである。

その第一歩として、テレビは消そう。見てもいいけど、殺人事件だかのニュースを延々流し始めたら、消してしまおう。

言うまでもなく消したりしている人はいるが、上のように物を見ていない人も多いので、改めて言った。

消さないでいると、次に消すことになるのは、あなたの命です!とか脅かしてみるのもまた一興。


では、本題に入ろう。先日は、「吸血鬼には脳みそがない」という、ありきたりな話をした。

先日の記事を読んだ上でこう書かれたら、「そういう状態の人には脳みそがないってのか!」と怒られそうだが、怒るんなら、脳みそがないとしかいえない行動をする人を怒るべし。

それは何ゆえかという話を掻い摘んでやっていこうと思う。

知っている人も多いと思うが、伝承なんかで出てくる化け物は宇宙人だという話がある。

天使も悪魔も元は同じで、宇宙人の派閥違いだといわれている。悪魔の王だかといわれているサタンは、神に近いレベルの天使だった、ルシファーだとかルキフェルだとかいうのが、「お前クビ!」で落とされて、悪魔を率いだしただとか言われ、それと同一のもの考えられるようなった、という経緯があるそうな。

細かい話はお調べいただくとして、吸血鬼の話である。

改めて、伝承方面の吸血鬼の話を述べるとすると、人間より強大な力を持ち、その血を吸い取って長年生きながらえる。弱点も多いが、単純な力比べをすると、人間には分が悪い化け物である。

姿かたちも自由自在。霧になったり蝙蝠やら犬に化けるという。

人間より強いので、人間を見下しているのだが、お話では人間に倒されたりする。


血を吸う、姿を変える、人間を見下している。ああ、これはアレですな。アイクが広く知らしめた、爬虫類人ですな。

シェイプシフトで例えばイングランドのエリちゃんに見せかけてたり、インブリードによる憑依の強化で長年生きながらえ、実際に幼児やらをさらってその血肉を食らっている。幼児をさらって血肉を食らっている件は、かつてアイクも書いていた。

『ムーンマトリックス』に書いていたように思うのだが、血を飲むのは、人間の姿を保つ以外に、人間の血を飲むことで人間になれると思っている、なんぞとあった。神が創った人間に憧れているのだ、と言っていたのかもしれないが、この辺りはあやふやなので、余り気にしないこと。

その爬虫類人の人類支配というのは、彼奴らたちと同じ精神状態を人間に植え付けることによって行われている。

それは、猜疑心に満ちさせ、敵対心と憎悪を煽り、個体の生存本能を強く発揮させるというものである。彼奴らの精神状態がこれだと。

人間の脳にも、R複合体と呼ばれている箇所があり、最低限の生存に関わる機能を有している。脳の一番奥の辺りから首あたりにある部分だったか。ちなみに、Rは爬虫類人の英語、レプティリアンの頭文字である。正確に言えば、爬虫類の英語の頭文字。

人間が上記の状態に陥ると、そういう精神的磁場とでもいうものが惹起されるわけで、これが彼奴らの好物なのだとか。

先日書いた、「エナジー・ヴァンパイア」の理屈と同じ状態である。血も吸うし、なんだか見えないのまで吸う。吸いたい放題といえる。

こういうことを仕掛けるのは、人間を見下しているからというわけで、もしくは見下せる状態にしないと落ち着かないともいえる。

だから、人間の内輪もめ状態を維持したいわけで、色々吹っかけてくるといえる。伝承的吸血鬼が、強大な力を見せ付けて怯えさせるのと同じである。

出たついでに伝承的吸血鬼に話を少し戻す。

「吸血鬼に血を吸われた人間は、同じく吸血鬼になる」という。作品によっては同じ吸血鬼ではなく、劣った僕になったりだとか同じ状態になるには条件があったりするとかがあるが、人間ではなくなるという点では共通する。

エナジー・ヴァンパイアになる前提として、「他で吸われたから」とも書いたが、それに流されるまま、他人から奪い取って平衡を保とうという、生存本能による行動だというわけだ。

そういうことを、人類はされて、お互い繰り返してきて、そして現代に至ったといえる。ほうっておけば、この先も繰り返す予定である。

そこで、少し造語してみようと思う。同じ言葉を同じように繰り返しては、認識が混乱するからである。

吸血されていないのを漢字で書くほうとして、「人」とする。されればすぐ、「エナジー・ヴァンパイア」になる。

「エナジー・ヴァンパイア」として蠢いているほうを、カタカナで「ヒト」とする。音声で伝えるなら「人でなし」となる。

吸血されても相手にしない、他所から奪う必要もない、これらの間に立つものを「人間」と呼称しようと思う。


他所から奪う必要もない状態なんて嘘だ!人間は動物とか殺して奪っているじゃないか!とか、森に入っていった吸血鬼はのたまいそうだが、アレは以前こういっていた。

「ブリサリアンも何かに依存して生きているには違いないので、我々は森に依存することに正当性を見出している」とかなんとか。

それなら、動物殺して依存していることを否定する根拠なんぞないのである。アレの中での根拠は、「他のやつはバカだ」というだけだからだ。

ブリサリアンだとかが何かに依存しているというならば、それは物質以前のものである。

野口晴哉が『整体入門』で書いていたが、小さな種子が大きくなるのは、種子にそうなるものがあるからではなく、気がその種子が大きく育つように物質を集めてきたからだという。

鶏の実験で、卵のカルシウムは食べたものから取っているのかどうかと試したのがあって、カルシウム以外の栄養は同じになるように与えたそうだが、結局、卵は問題なく生み落とされたそうだ。母体も健康です。

だから、目の前にある物で生きてはいないのである。人間も動物も。

そして、食ったものになるというのなら、草食っている動物を食う肉食動物は、草を食っているのに等しいわけで、肉食動物の性格は上記の爬虫類人と同じような状態だというのだが、草を食う人間はそういう状態になるわけか?草食動物を食ったら草食動物になるなら、草食動物自体がそうなる。

そうではなく、元々そういう状態の「ヒト」だから、何を食ってもおかしくなっているだけに過ぎないのである。

動物から、植物から、そして他人から、命を奪いとるだけだったからだ。


そんな気の抜けた状態だから、吸血鬼と、爬虫類人と同じやり口をしている。吸血鬼に成り下がると、その脳みその中には思考回路しかなくなる。

くどいが、続ける。

アイクが詳しく語っているが、爬虫類人は人類を物質の次元に閉じ込めている。物質に依存しないといけないと思い込ませているから上手くいくやり口だと。

実際は、物理学者がこぞって語りだしているように、この世は見せ掛けなのだが、森やら地球という物質に依存するという形を堅持しないことには、「バカな人類」を見下せないので、アレはアイクを超えたと、これまた見下したわけである。

人をことさらに見下そうとするのは、実際は自分がその相手の風下にいると思っているからで、これはまさしく、腰抜けの理論というわけである。

吸血鬼も、その親玉の爬虫類人も、実際は腰抜けなのである。腰抜けにまともな脳みそはないので、吸血鬼に成り下がった「ヒト」には脳みそはないのである。

そして、思考回路しかないので、ショートして至高の思考回路になり、正に宇宙人との会話と相成る。以前紹介した、至高の思考回路も同じ流れであった。

我々は「人」でも「ヒト」でもない、「人間」を目指さねばならないのである。生れ落ちただけでは「人間」とはならないからだ。


「人間」を辞めるのは難しいといえるが、そもそも、「人間」になってなかったので、常識を超えるレベルだった。

その意味では、アレは常識を超えてはいたのだなと、感慨深くならざるを得ないのである。

では、よき終末を。


妖怪胃の頭 対 吸血鬼

2017-03-16 | 雑記
先日、気に入っていたマフラーをなくしたらしい。

らしい、というのは、どこでなくしたかすら判らず、部屋のどこかにもしかしたら、という可能性もありそうだという程度で、見当たるところにはななかった。

流石になくしたことに気づいた日はショックだった。そして、出かけようと思ってもいたので、立ち寄った店と道を辿り、夜勤明けで飲んだ店に忘れてないか確認するついでに飲みにいった。やはり、店にはなかった上に、帰りがけにしっかり首にかけていたとの証言も得て、やはり吹き飛ばされたか、家の中で煙の如く消えたか、と諦めている。

そして昨日、出勤時にふと、妙な話を思い出した。たいした話ではなく、水木しげるの漫画『猫楠』にあったものである。

和歌山の学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)の伝記で、その中でこんな話があった。

「特に理由もないのに手ぬぐいがなくなったりするでしょ?あれ、猫の仕業なんです」とかなんとか。

猫の仕業なら仕方ないな。包まったり網状のどうみても寒いマフラーなのだが、それに爪を引っ掛けて遊んでいるのだろう、などと思い出勤すると、仕事場の一部のPCの壁紙が猫の写真になっている。

「お前の仕業だったのか・・・」と思わざるを得なかった、というわけである。マフラーは進呈する。


さて、先日は、自分の胃の中に妖怪が住みついて、そのせいで自分も妖怪になってしまったらしい、とかいう驚愕の話を書いた。

妖怪の名前はとりあえず、「胃の頭(いのかしら)」と名付けておいた。

胃に取り付くくらいだから、暴食なのかと思ったらそうでもなく、こっちが食べようと思わなければ働かないらしい。

「何が食いたい?」と聞いたら「まんじゅうこわい」としか答えない。ならもっと怖い茶でも飲め!とやったら、怖い怖いといいながら飲み干す。

おかげで退治にならない。胃の中で遊んでいるだけのようなので、好きにさせることにした。

こちらが食べたい量だけなら存分に食べまわってくれるが、食べ過ぎると「まんじゅうこわくない」と言い出すので、そうなるとこちらも気が引けて、やめるようにしている。

しかし、最近まんじゅうは食べた覚えがないので、たまにはまんじゅうを食わせようかと思うが、近所の和菓子屋は店を閉めてしまった。

代わりに西洋まんじゅうでも食わせようと考えたが、それに当たるものが思いつかないので、馴染みのケーキ屋のケーキでも食わせることにする。

それでも「まんじゅうこわい」とか言いながら食べているのだろう。わけのわからん奴である。


何が嫌いか聞いてみたら、妙な返答をする。

「吸血鬼は嫌いだ」と。同じ化け物の仲間じゃないのかと思うのだが、そうでもないらしい。

胃の頭がのたまわく、彼奴らは他人頼みで面白くないからだそうな。人に飯をたかっている分際で何を言うか。

そう返すと、胃の頭は言った。

「俺は飯と遊び半分で戦っているだけだ。そのおかげでお前も元気になっている。だが、奴らは掠め取っているだけで、何もしない」

ふーむ?妖怪のいう事はよくわからん。

ただ、吸血鬼という名前に纏わる話なら知っている。そのことを書き綴ろう。


吸血鬼とは読んで名の如く、生き物の血をすすって己の命を永らえさせる、人外のことである。

吸い取るものの違いで、吸精鬼というのもある。サキュバスというのがいて、夜、寝ている男性に襲い掛かるそうな。

恐ろしいことに、それで集めた精液を、今度はインキュバスとう男性型に変身して、女性を襲って孕ませる、ということもしているといわれている。

個別のものとも上記のように同一のものが変身して行うとも言われている。余談はさておき。


吸血鬼も色々と変身している。人と変わらない能力と姿で、実際は吸血鬼だった、という話が実はある。

本当に血を吸うわけではないのだが、欧米で研究されている事柄がある。オカルトではなく、心理学だとかの方面である。心理学もオカルト、とかいう向きもあるかしらんが、オカルトの原義は以下略。

いじめの理屈で、それは自分が他から受けた虐待などで減らされた生命エネルギーを補給するために、自分より弱いものをいじめて補給しているのだと。

これを「エナジー・ヴァンパイア」と呼ぶそうだ。

今の日本ではあまりわからなくなったかもしれないが、茶が飲みたいと思ったら丁度もってきてくれて、「なんでわかった?」みたいな、気が通じ合うといった事柄がある。

野口晴哉が言うには、日本人にはこれが当たり前すぎて呼称なんぞしなかったが、フランスの学者がこの現象を不思議がって研究し、「ラポール」と名付けたとかいう。

感覚としてはわかりづらいからこそ、興味が出て研究しているといえる。当たり前すぎるのも困ったものかもしれない。


それはともかく、エナジー・ヴァンパイアの話をする。


今の作物は生命力が弱っており、それだから我々の体も生命力が弱っているのだ!という話は、誰かさんにならってここでもやっていたものである。

美味いトマトの作り方というのを、今一度書くと、何か気づかれるかもしれない。

本来トマトは、水気の少ない過酷なところで育ってきた。それなので、わざと水をあまりやらずに育てると、実に栄養をぎゅっとたくわえる。

そうして熟したトマトはとても甘いそうだ。

トマトは赤いので、本当に血を吸っているかのようだ、などと揶揄すると、お怒りになる向きもあろうかと思うが、考えてもらいたい。

やってることはエナジー・ヴァンパイアの理屈とまったく同じではないのか?と。

植物だからやっていいのか?植物だってのんびり伸びたいのではないのか?まあ、あんまりだらだら伸びても仕方がないが。


野口晴哉は、「何を食っているから健康なのではなく、健康だから何をやっても疲れないし、何を食っても美味く感じる」みたいなことを言っていた覚えがある。

整体というものも、肩が凝ったからもんであげます、腰をもみましょう、という意味ではなく、己の身体は己自身の生命力を発揮させて健康にさせていくことなのだ、と語っている。

そして、胃の頭に取り付かれてから、ある言葉を思い出した。

「生のものを食べるというのを実践している人がいるが、人は地に伏し、四足で生きるものではない。火を通したものを食え」という風なことを。

昔はよくわからなかったのだが、胃の頭の言葉に思い当たる節がある。

「飯と遊び半分で戦っているだけだ。そのおかげでお前も元気になっている」

奴は遊び半分と言ったが、そこは照れ隠しで、己の命を賭して飯と戦っているのである。そこには、対象のエネルギーを吸収するとかいう邪な気持ちなどない。つまりは、己の生命エネルギーを力強く発揮させる修行を、日夜、わしの胃の中で続けていたのである。その余波で、わしも元気になったというわけだ。

火を通したものを食え、というのは、生食が正しいという人達の理屈から言えば、死んでいるものである。つまり、取り入れるつもりの生命エネルギーがない。

掠め取るのが当たり前なので、己自身の生命エネルギーは枯渇している。あるとしても、出し方を忘れたか、出そうとしたらひどくくたびれて病気になるくらい、病気なのである。

吸い取った生命エネルギーで見せかけの健康を繕えても、例えば、至高の思考回路で「バカな日本人は滅びろ」などと、そのバカと罵る存在と同じ論理でバカにするという、病的なことを平然と行えるくらい、病気になるのである。

どこが同じ論理なのか、という点は度々書いてきたので、割愛する。今回ので書いた分でも想像がつく人もいるだろうが。


何もないと思い込んでいるところに、生命の本質がある。見た目に踊らされ、舞い上がっているようでは、人間失格である。

それは、頽落というのである。森に入って自給自足で人間やめたというのは本当である。吸血鬼になった、否、元々なっていたのだから。


ここからは想像を含めて、胃の頭に取り付かれたわしの感慨を込めて書く。


人間がこの地球に降り立ったとき、本当に裸んぼうで生まれたとして、あったのは森や山だけ。

アヌンナキに金掘れお前ら食わせろとやられていたりもしたかしらんが、そんな状態だったのだろう。

歩いて森に入り、そこで暮らし始める。初めて食べた果物が実は有毒だったかもしれないのだが、健康な人間にはなんともなかった。

原初の人間がそこで子を作り、子孫が増えていく。ご先祖が果物を食べられるという遺伝子を作り上げて、子に受け継がせたので、子孫も果物を食べていた。ただそれだけだった。

しかし、「ここで生きていくのが目的だったっけ?」という暢気な調子で疑問が沸き起こる。皆もなんとなく思っていたのかもしれない。

それでまた、テクテク歩いて森を出て行ったり、天災を起こされたりしたのか出て行く羽目になるのだが、その先でも単語違いの流れとなり、現代に至る。

ちなみに、原生林というのは本当に生き物を拒絶している状態である。アマゾンだとかで暮らしている人は、先祖が暮らしていたからこそ、先日書いたように、環境を変えてきたからこそ生活できているといえる。言い方は悪いが、惰性の生命力を発揮して生活をしているといえる。

人間は、己の生命力を発揮して生きていくことが目的であって、その結果で出来上がった文明にすがるために生きてはいないのである。

森も、ビルも、どちらも人間が作った文明に過ぎない。

自然に回帰したとか自慢しているのは、かつての惰性に回帰したのであって、生命の本質の上っ面を見ているだけである。


人間を辞めると、そういう風には考えることが出来ないのである。伝承の話ではあるが、吸血鬼に脳みそはないのだから。


では、よき終末を。


気取りと妖怪胃の頭

2017-03-15 | 雑記
先日は「人間は人間という名のガンダムに乗っているんだ、ガンキャノンでもガンタンクでもないんだ」とかいう、わけのわからない話を書いた。

まあ、別に乗っているのがガンタンクかザクレロかというのは問題ないので、とあるガンダムシリーズに出てきた用語と内容で色々と書いてみたわけである。

改めて書くと恥ずかしい感じもするのだが、敢えて言うと、「人の意思は環境を変える」ということである。

環境に影響されるのが人類であるはずだろう?と思われるだろうが、別の方面から一言付け加えてみよう。

それは、環境に流されることによって、あなた自身の環境を変えてしまって、環境の奴隷になっているのである、と。

環境、と書いたが、例えば状況だとか、場の空気だとか、実際の場面ではまったくつじつまの合わないことになっていたりする常識だとか、色々である。

知らず知らずに、それらの環境にご自身の環境を変貌させ、適合させてきたのが、人類である。環境を作り変えていることには違いないのである。

そんな自身の環境を変えていることを自覚しないでは、目の前のことは何一つ変わらないのである。「環境を変えたい」という望みだけはしっかり叶っているのだが。

と、説教臭い話になったが、そういう感情の動きが、自覚的にも無自覚的にも働いてしまって、世は動いている。


説教は終わりにして、こういう話がある。スペインの思想家のオルテガは、二十世紀の人物になるが、有名な命題を見出したという。

わたしとは、わたしとその環境である。というのもである。以後、二番目のわたしは「わたし」とこの記事内で書くことにするが、書くかどうかは今のところわからない。

これらにまつわる自分の体験を少し書いていこうと思う。


わしは、自分は格好悪いと思っていた。顔はぶさいくだと思っていた。

そういうことを言うと、会う人は「そんなわけないでしょうが」と一蹴してくるので、こちらもむきになって色々いう、なんてことはないが、前歯がゆがんでるだとかは言う。

言うが、相手は取り合わないのである。

そう思い込んでいた件については、昔も書いたが、兄の影響である。そのものの影響というより、その周りの、大体学校の兄の後輩でこちらの先輩にあたる人達のせいであった。

「兄と比べてなんだかなよなよしてる」だのなんだの、好き放題言われたものである。

人のせいにしてはいけない、という風なことを書いてきていうのもなんだが、そのせいでずっと思っていたわけである。

で、兄の存在とその影響が少ない環境に身を置いた(0ではない)ときに、不意に言われたものである。「あの人の弟さん?兄貴より格好いいね」と。

ああ、なんだ思い込みだったのか、と思い直したものである。

この件は別に深く追求するところではないので、ここまでとする。


着物を着て、妨害電波を発しては人心を誑かして遊んでいるわけだが(以前書いた冗談である)、着物を着だしたのは、日本人なら着物を着て当然だ、というわけではない。

その意図がまったくなかったわけではないが、着てて心地がよかったからである。見られて気持ちいいではなく、袴まできっちりつけていた時の自分の感覚が、少し違うことを覚えていて、それで着始めた。

着流しではあまりその感覚はないのだが、腹に詰め物をしたりしていれば、恐らく、着流しでも同じ感覚があったのだろうとは思う。

昔習ったところによると、下っ腹が出てないと見栄えが悪い、と言われていたのだが、会う人会う人「似合う」だの「カッコイイ」だのと言う。

「いやぁ、下っ腹に詰め物して腹出さないと、本当は見栄え悪いんで、似合ってないと思いますよ」なんぞと言っても「そんなの関係ないと思う」と返されるのが常であった。

これは着物の妨害電波のせいだろう、と思ったので、様相を変えて洋装にして出かけても、「似合う」だの「おしゃれ」だのといわれる。

鞄なんか、風呂敷を結んで肩掛けにして歩いているのに、店などで話をしたりすると、これまでもが「風呂敷ですか?おしゃれですねぇ」と言われる始末。

そして恐ろしいことに、市内のとある仏壇屋にロウソクとマッチを度々買いに行くのだが、毎度のように言われる。

「さっきテレビで流れてたけど風呂敷のかばんが流行っているんですって、あなたがやっているようなのが」などといわれる。

こりゃきっと妨害電波をまきすぎて、皆おかしくなったのだろうと、一人正気を保っているのが怖くなってきた具合である。

皆おかしくなった、というのは冗談だが、「えっ?」と聞き返したくなるようなことばかり起きている。


服装については、「人に気に入られるようなのを選んでるんだろう」と突っ込まれるだろうが、羽織袴で仕事でも行事でもないのに闊歩してる時点で、街行く人は「変な人」と思うので、気に入られているとは言い難い。なおかつ、冬場はマントまで着ているので、先日は道で出くわした知り合いに「怪人かと思った」といわれた。なるほど、わしは怪人黒マントというわけだ。

じゃあ、洋装は?となるだろうが、「これとこれを着たらこうなるか。面白そうだ」と別に奇抜さを目指す意味ではないが、そういう風に服を選んでいた。
馴染みのセレクトショップがあって、何度も買い物をしてると、こっちの好みもわかってくるので、そういうのを置いていてくれたりもする、というのもあるが、ある日、「ジャケットでも着てみるか」などと思ってその店にいったら、ブレザーだったが、色合いもサイズも丁度いいのを目にする、などということもあった。

ハットを被って和装も洋装もやっているのだが、ハットが似合うと思ってやっていたのではないのに、これも何故か褒められる。
「着物の時に何も被ってないのもどうだろうか?鬼平は編み笠かぶっとるし」と思って、とりあえずハットを被って、慣れるために普段から被っていたら、こうなった。

頭が小さいからハットがよく似合う、といわれて、「本当にそうなのかな?」と思わなくもないが、選んだものがたまたま自分が似合う状態だったのだろうと思う。


これは最近書いたことだが、最近、若い女性と出会って、色々と話し込むことがあった。オカルトな話も「寧ろ好き」と聞いてくれるという。

その女性に会うしばらく前に、「自分と話の合う、自分より年下の女性が欲しいな」とこうはっきり思ったことがあって、それからしばらくして、普段は余りいかない時間帯に馴染みの店に行ったら出くわした、と書いた。
「ファンになったので、サインください」とのたまった女性のことである。

練習で小説を書いている、と言ったら、見たがっていた。どういう内容か、どういう構想を盛り込んで書いているかを多少、ここで書いたのよりは詳しく話したら、もっと見たがっていた。

その話の後の別れ際に、「小説はもっと仲良くなったら見せてくれますね?」という風なことを言われ、後日、バックアップも取っておきたいのもあったので、USBメモリを購入してデータを入れておいたのだが、最近は忙しいらしく、会えなかったりしてはいる。


いかん、これでは惚気である。それはさておき。


これは、わしが無理矢理環境、つまり周囲にああしろこうしろと命令を下してなってきたわけではない、ということである。

それは簡単なことで、「わたし」に気取りをさせただけなのだ。

こういうことを「わたし」にしてもらおう、と思ってやったというわけだ。ちょっと気軽に格好つけてみてもらえんか?と。

人の前で落ち着かないような素振りは、わし自身が嫌なので、「わたし」に気取ってもらったのである。

そうすると、「いつも落ち着いている」などといわれる。実際、落ち着いているつもりなどないのだが、上記の気取りを実践していただけである。


そうして、気軽に気取りをやってもらっていたら、なんだか妖怪染みてきたわけである。無理に何時間も寝なくても平気になり、飯も食べたくなったら食べる。その間隔と感覚は一日一食でないとダメ、とか三食食うべし、というものですらなくなっている。気が向いたら三食近く食べることもある。

晩に飯を食べた後、次の日の夕方の勤務に入るまで、何も食わないというのは当たり前になったが、別にフラフラしない。

なおかつ、いきなり何を食べてもビクともしなくなった。出勤前に優雅に紅茶を飲んだりしているが、空腹で茶を飲むと胃が変になる、というのもまったくなく、まるで胃が「おお、餌だ餌だ。食うぞ食うぞ」としっかり働いてくれているような感覚である。お茶も餌にするとは、胃に妖怪が住んでいるのだろう。妖怪胃の頭(イノカシラ)と名付けよう。

今まで通りの量を食べても変に疲れず、仕事は最近大変な感じになっているのだが、他の奴がしんどそうに仕事をしているのを見ると「これのどこが大変なんだ?」と思うくらい、疲れなくなってしまった。
詰めている日数が違うだとかいうのがあるとしても、その日その時間にやっている仕事量は、別の日にこちらもこなしているわけで。

そのきっかけが、以前も書いたが、瞑想だと書いた。正確に言えば、寝食を忘れて没頭することである。そのための練習として小説を書いたら、こういう風になっていた、というわけである。
自身の肉体という環境を変えてしまったのである。

ついでに、どういう話を書くか考えてなかったのだが、書こうと思っていた矢先に、変な体験をして、そこから書き始めたとも述べたが、この流れもまた、先ほどまで書き綴ってきたことと同じなのだろう。


ただし。そうか!そういうことか!ならこうやってああやって!、と思って行動するのを止めようとは思わないのだが、少し気をつけてもらいたい。

あくまで「わたし」に気取ってもらうのであって、こちらが気負って「あれしれこれしろ、それじゃダメだ!」とやると、「わたし」が嫌になる。
あなた自身の「わたし」というのは、あなた自身と密接不可分なので、例えば不倫で有名な五体不満足の方に、「100メートル走をやりなさい」と気取らせることなど無意味なのである。二本の脚で走って100メートル走をやれ、という意味で、である。ないんだから。義足つけて云々は別としても。


あなた自身があくまで自然体で気取れることを「わたし」に気軽に頼むだけでいいのである。向こうも気軽に請合える内容なら、しっかり応えてくれるだろう。

気負いすぎると、先ほど、胃に妖怪がいるんじゃないかと書いたが、その妖怪胃の頭が、食べたものを餌としないで、あなた自身を餌にしかねない。ご留意のほどを。


では、よき終末を。


人間マイスター

2017-03-13 | 雑記
『機動戦士ガンダムOO(ダブルオー)』というアニメがある。

有名な機動戦士ガンダムのシリーズで、放映されたのは10年ほど前になる。

舞台は、それまでのガンダムでよくある宇宙ではなく、現状の世界情勢が形を変えて続いているような状態の地球が主になっている。

例えていえば、世界中でEUみたいなのができて、それらが現代と変わらないようにお互いを牽制しあっている状況なのである。

国家の境界線が今と変わっただけで、何も変わっていないと。

そこはともかく。戦争したがるのは変わってないので(陰謀論的にいえば、けしかけてる奴らがいるというのだが、それは措くとして)、兵器開発だの紛争なんかが当たり前になっている。

ある日、4機の人型兵器が、テロの現場を潰したり、試験運用していたある国家の人型兵器をあっさり倒したり、という同時多発テロが起きる。

その機体はガンダムと自称していて、それと同時に、ある人物が犯行声明を放映し、世界と対立する旨を述べる。あらゆる武力行動に、武力介入して潰す、というテロリズムの表明である。

組織の名は「ソレスタル・ビーイング」。天上の存在、という意味の言葉である。

犯行声明を語るその人物は、実は存命しておらず、高名な学者で、裏では世の中がこうなることを見越していて、100年だかそんな前から計画をしていた、化け物染みた人物だった。

物語の途中で、その人物の本当の目的は、武力介入で武力を消すのが目的ではなく、人類の意識を一つにまとめるのが目的だったことが明かされるのだが、実際に、「ソレスタル・ビーイング」に注目させることで、その通りに動いていく。

それすら実は最終目標の前段階であるのだが、それは後ほど語る。


「ソレスタル・ビーイング」所属のガンダムは全4機。それぞれの機体に専属のパイロットがおり、「ガンダムマイスター」と呼ばれている。

どれもこれも、一癖も二癖もある人物ぞろいで、一人に至ってはそもそも人間でない、という有様である。改造人間とかいうレベルですらないのだが、それは物語が進むと明かされる。

主人公のコードネーム「刹那・F・セイエイ」というのは、中東の紛争地域出身で、洗脳されて少年兵として、血みどろの戦いに身をおいていた。

ある時、周りが全滅して、終わりかと思ったときに、ガンダムに助けられる。これ自体も実は陰謀で、そのガンダムのパイロットが演出して引き込むためにやっていた。そいつがテレビ放映分での黒幕だったりする。

ガンダムに神を見出した刹那は、「ソレスタル・ビーイング」略称CBに入り、ガンダムマイスターとなった、という経緯がある。

物語の何話目かで、ある組織で少年兵としてテロをしていたことを知った別のマイスターが、刹那に詰め寄るというシーンがある。

その人物は、刹那の所属していた組織のテロで両親を殺されていたので、事と次第によっては殺す、と詰め寄るのである。

そして、刹那はマイスターになった経緯と覚悟を語る。上記の話はそこで語られたものである。

刹那は己の覚悟を、こう表明した。「俺がガンダムとなることだ。俺がガンダムだ」と。

ガンダムのことしか考えられないので、殺すなら好きにしろ、と返したのである。

余りの突き抜けっぷりに、毒気を抜かれた同僚は、今にも引き金を引きかねなかったその手を下ろし、「お前みたいなガンダムバカはみたことがない」と呆れる。

「ありがとう」と刹那は少し嬉しそうに言い、その同僚は「ほめてねぇ」と笑い出す。


刹那のガンダムバカっぷりはギャグにも見えるレベルで、物語後半のある出撃シーンで、皆それぞれの思い人のことを口走っているのだが(件の人間でないのも思い人ではないが、ある対象のことを言ってはいる)、刹那ただ一人はポツリと「ガンダム」とのたまうのである。

自分の出身国と近いところの、御輿として担ぎ上げられた王女様と仲良くなっているように見えなくもなかったのに、他はそういう人のことを口走っているのに、そこで「ガンダム」というほど、ガンダムのことしか考えていないのである。

他のシーンでは、CBのパトロン側から秘密裡に派遣された、別働隊のガンダムとそのマイスターと出会うのだが、彼らの態度ややり口に違和感を覚えたようで、「お前はガンダムではない」と言い残し、さっさと帰還する、というのもあった。

言われた別働隊の人物は「いや、ガンダムだろうが」みたいなことを言う。


そんな、ガンダムを駆使しているということはどういうことか、ガンダムとは何か、ということを年がら年中思い煩っていた彼は、人間離れした能力を開花させていく。

他のガンダムシリーズでいうところの、「ニュータイプ」と呼ばれるようなものに変貌していくのである。

この物語の中では、「イノベーター」と言っていたか、そんな能力を開花する。

そういう能力を既に作り上げられた存在もいて、そちらは「イノベイド」だとかいうのだが、さっきの別働隊を派遣させた黒幕がそういう存在だったり、刹那の同僚の一人もそれだったりする。

用語の詳しい中身は、今はうろ覚えで書いているので、気になる方はご自身でお調べいただく。


テレビ放映分では、その黒幕を倒して物語りは幕を閉じるのだが、劇場版が続きとして存在する。

CB創設者の故人が、人類の意識を統合するのが目的ではあるが、前段階だと書いた。

その理由が劇場版で明かされる。テレビ放映分の中で言っていたかは覚えてないのだが、「来るべき対話」と語られていた。

その相手は、人や物にくっついて侵食していく、金属生命体で、車にくっついて人を追い回したりだとか、人にくっついて人事不省に陥らせたりと、危ないことこの上ない。

仕方ないので人類は一丸となって戦うのだが、それに終止符を打つことができる存在が、刹那だったのである。

劇場版で刹那が駆るガンダムは、もはや武力を持たないのである。ないわけではないが、刹那の意思に反応して、人々の意思に影響を与えるフィールドを作り出すことに特化した、魔法染みた能力がメインの機体になっている。その能力を全開にすると、武器は捨てるしアーマーも減る。

テレビ放映分でも、本人の意識の変革に呼応するような仕掛けがガンダムにはあった、という風な話があったように思うが、それを完全に引き出す仕組みとそれができる当人が合わさったものなのである。

イノベイドの同僚と刹那は、その宇宙生物の巨大船団とでも言うべきものの中核に向かい、対話を始めると、今まで脅威だったものが退いて行く。

かくして、平和が訪れる。そして何十年か後、人類は本当の意味で一丸となり、建設的な未来を構築していく様子を見せるシーンに移る。

物語の序盤から登場していた王女様は、おばあさんになって、隠居していた。

その家に、ある人物が訪れる。元王女様はあまり目が見えなくなっていたのだが、その人物は王女様の名を呼ぶ。あの時の声で。

その人物とは刹那なのだが、姿かたちは当時のままで、なおかつ金属生命体になって現れる。メタル刹那、とからかわれているが、そんな状態になって王女様の前にやってきた。

そして語りかける。「あなたは間違っていなかった。それがわかった」という風に。

王女様は答える。「あなたも間違ってなかった」と。

お互いが理解し合え、抱きあったところで、物語は終了となる。乗ってきたガンダムが少し映り、エンドロールと相成る。


長々と書いたが、これは何を伝えたいのかというと、ガンダムが凄いというわけではない。

また、刹那が凄いというわけでもないのである。刹那自体がすごいことになってはいるが。

一人の人間の意識の変革が、自身の周りを変えてしまえる、ということを示している。刹那の機体の能力はそれをわかりやすく示しているに過ぎないのである。

この物語で示されるガンダムというのは、実は人間自体である。

アイクが言う話に沿って言えば、我々は映画を見ているような状態であるのだと。それに気づかず、放映内容を自身だと、真実だと見なしていると。

これを言い換えるならば、我々は「人間」というガンダムのコックピットに乗っているわけである。

すなわち、我々はガンダムマイスターならぬ、人間マイスターだというわけだ。


俺が人間となることだ、と決意し、俺が人間だ、と宣言するほどのバカにならねば、何も出来ないのである。

そのバカが突き抜ければ、世の中なんぞ変えてしまえるのである。コックピットでふんぞり返ってわかった気になってはいけない。

己という人間を死ぬほど思い煩えないものが、本質的に物事を思い煩えるわけがなかったのである。


人間マイスターであることを自覚し、人間というものを死ぬほど思い煩えば、その人間はひたすらに答えてくれるだろう。

その時、本当の意味で宣言できるはずである。「俺が人間だ」と。


魔法だの仙術だのというのは、人間マイスターのメソッドとでも言うべきものであり、本来は人間自体が持っている能力の開発方法と論理である。

物語の刹那は、所謂人間離れした「イノベーター」、日本語で変革者という意味、になるが、これは人間の持っている能力を開花させたというわけである。劇場版の終了間際にも、イノベーターになった人達が長い宇宙航行をする予定を描いている。


彼はガンダムバカであり、それは人間バカであったのだ。

我々は、彼にならって、人間バカにならねばならないのである。


繰り返しになるが、魔術だの仙術だのというのはある。それは人間の隠された一側面を見せ付けているのである。

「俺が人間だ」から出来るのである。「俺が人間となることだ」と決意すれば、自ずと至るのである。

別働隊のガンダムマイスターに向かって、「お前はガンダムではない」と刹那は言ったと書いたが、人間の表面上の機体性能にふんぞり返っていては、「お前は人間ではない」と、言われるのもやむなしである。


では、よき終末を。


妖怪フシアナと宇宙生物イキアタリバッタリー

2017-03-11 | 雑記
先日は、「人間をあなどることなかれ」という、マナティ、じゃなくて呪言(ジュゴン)を唱えるべしという教説を垂れた。

とはいえ、妖怪がコスプレしている例もかつて取り上げた。区別をする必要はあるといえよう。

人のことをブ○ーチのコスプレしてるとあざ笑うような存在は、人ではなく、妖怪フシアナが人間のコスプレをしているのだと。

だからといって、彼彼女、どっちでもいいが、それらが人間ではなかったわけでもないという話もしておく。

生まれた時は人間であったのだ。そして、妖怪から「あなたは妖怪フシアナ」と毎日教えられ、スクスク育っていく。

気がつけば、人間だったのに妖怪になってしまい、仕方ないので人間のコスプレをしているというわけである。

仕方なくしているという自覚がないし、人類と普段は見分けはつかないのだが、時折、ああやって地金を表す。


別の説で、彼らは宇宙生物だというのもある。もしくは、原初が宇宙生物、子孫が妖怪と呼ばれているのだろう。

それを示した漫画の話をする。

『寄生獣』という、有名な漫画がある。大学時代に読んだが、面白い漫画があったものだと感動したものである。

内容はというと、宇宙から飛んできたロイコクロリディウムのようなのが、他の生き物の体内に入り込んで乗っ取り、他の生物を捕食する生物、こちらから言えば化け物にしてしまうという話である。肉体まで改造してくれるので、ライ○ップは儲からなくなるだろう。

話の冒頭だと、それに乗っ取られたサラリーマンのおじさんにうっかり近づいた奥さんが、『The Thing』よろしく、顔をヤツメウナギのように広げたおじさんに頭をそっくり食われる、という印象的なシーンがあり、子供の情操教育に打ってつけである。

そして、ある夜、主人公にもその宇宙生物が入り込もうとするのだが、異変に気づいた主人公は、右掌辺りから侵入するそれを阻止してしまい、その個体は乗っ取りに失敗する。

個体ごとに違いがあったかは忘れたが、まったく知性と思しきものがないわけではない。次の日起きた主人公の高校生が、夢かと思っていたら、右手から話しかけられ、あれは夢ではなかったことを知り、その変な生き物との強制、じゃなくて共生が始まる。名前は右手だからミギーとつけらた。

物語の後半のほうだったか、同じように侵入を阻止された個体と人物が登場する。あごに取り付いているという、これまたインパクトのある状態だった。

ミギーは、主人公の部屋にあった本を読み漁り、知性的な感じになっていくのだが、アゴーとはいわれてないかしらんが、そっちはテレビばっかり見てたので、話しぶりが下品だった、などというのもある。

冒頭のサラリーマンのように完全の脳を掌握された個体は、事件が公になるにつれ、表立った行動をしなくなる。化け物とはいえ、殺せば死ぬからである。

脳をまるごと乗っ取った上で、人間と同じように暮らしていく、という個体も現れる。とはいえ、完全に人間らしいわけではなく、感情だとか寄生先の人間の記憶はない。

そういう個体の男女が子供を作ってみた、などという話も出てくる。その子供を守ろうとして、女性に寄生した個体が死んでいくシーンは、妙に考えさせられたものである。

それを読ませてくれた同期は、「人間って何?って思った」と、強く述べていた。


右手に取り付いてミギー。左に取り付いたらヒラリーならぬヒダリーか、などと思ったものだが、人間の額あたりに中途半端に取り付いたら、イキアタリバッタリーと呼ばれる。

何故イキアタリバッタリーなのか?

そうなると、何をやるにもイキアタリバッタリになるのである。

例えば、あなたは皿を洗っているとする。洗いながら頭では「明日の仕事めんどくさい」だとか「男が振り向いてくれない」だとか「金がない」だとか、つねにイキアタリバッタリの思考で乱れに乱れているのである。

それが他人に向くと、ブ○ーチのコスプレしてる、などとイキアタリバッタリのことを言い出したりするのである。

後は、昨日も書いた、至高の思考回路になったりもする。宇宙生物に取り付かれているとしか言いようがないのである。

つまり、我々は妖怪フシアナだったり、宇宙生物イキアタリバッタリーに取り付かれたりしている状態を、人間だと思い込んで生きてきたのである。

これはとても由々しき事態なのだが、「お前こそ妖怪だろう」と返せと、イキアタリバッタリーがしっかり活躍してくれているので、わしはあまり忙しくなくて、実は助かっている。

宇宙生物に取り付かれて正気を失っていても、人間はしっかり生きてこれた。だから、人間は素晴らしいのである。

うーむ?褒めてないな、これ。

それはともかく。頭に中途半端に取り付いた宇宙生物を駆逐できれば、怖いものなどなくなる。

妖怪や化け物よりパワフルなのが人間の正体なので、妖怪のほうが戦々恐々としているのが、世の真相なのである。


では、よき終末を。


手紙の件とあなどり難い話

2017-03-10 | 雑記
昨日は、スタッフの女性がなんとなく語った言葉から何か考えてもらおうと、その女性のロッカーに恋文をしかけておくか、と書いたものだが、書く暇がなかった。※恋文ではありません。

実を言うと迷っていたのと、タイムカードを打った後に書くにしても、夜勤が詰めているので書きにくいだろうとは予測していたから、そのとおりになったようだ。

後は、わけのわからん気迫で提案していた時に傍らにいたもう一人に言うかな、とは思っている。

あの日あの時、驚きのあまり、飯を食っていたのについ電話に出てしまった、と言っていた。申し訳ない。驚かせるつもりはなくて、自分のほうも驚いている。


さて、今日はあなどり難い話をする。別にあなどり難いわけではないのだが、ついそう書いた。


とあるおっさんが脱サラして、翻訳出版やらHPでも翻訳記事を載せる、ということをやっていた。誰とは知っていた人は知っているだろう。

そのおっさんが、海外の同じタイプの話をしている活動家というのか、その人物の本を出版した。

そのイギリス人の本を読み、彼がたどり着いた境地とでもいうものと、その理論や目的などに触れ、痛く感動したものである。

言ってしまえば、「人類に目覚めて欲しい」と感じ、それを己の使命として日夜励んでいるのだと理解したものである。

講演をやると、最初の時は0に近いくらいの人数しかこなかったので、キャンセルしたこともあったとか書いていた。

しかし、彼は別に講演で人を集めて人気者になるのが目的ではなかったので、ずっと講演を開いては本を書き、色々情報を集め回り、自身の神秘的とも言える体験や、出会いを通じて、今も現役で喋ったり書いたり講演している。


それを翻訳した日本人のおっさんは、毎日のように言っていた。「日本人はバカだ」と。滅んで当然だと言っていた。

講演を頼まれたこともあったそうだが、やりたいことがやれないのと、講演向けに喋るように喋ることは出来ないだとかで断ったとか言っていた。

はて?日本人に、海外で問題になっている、決して日本にも関係がないとは言えない話を翻訳してHPに載せていたのはなんだったのか?

その情報やらを知らしめるのが目的ではなかったのか?そのために色々やってきたのではなかったのか?どうやらそうではなかったようだ。

上記のイギリス人の著作を翻訳出版した当初は、絶賛していたものである。ただ、あとがきに奇妙な言葉があった覚えもある。

「彼はもう十分やった」という風な言葉があった気がする。もしくはHPだったか。HPは消えてなくなったので、そちらでは確認しようがないし、本も原著者には申し訳ないと思うが、捨ててしまった。


イギリス人の著者は、最新物理学の話などを引用し、我々が普段認識しているような確固たる物質世界はないと述べていた。

それを見せているのは、ユングでいえば集合的無意識とでもいうような、「コンシャスネス」だという。

細かい話は忘れてしまったが、我々の本質は、この見えてる肉体や自我ではなく、霊的なものなのだといえる。

我々は「人間という体験」をしているのだ、と。

「あなたは何をするために生まれてきましたか?、バスの運転手ですか?警察官ですか?」という風に質問を並べる箇所があったことを、この話を書こうと思ったときに思い出した。
彼がなんと言ったかはその言葉を忘れてしまったので、こちらの言葉で書くが、それはつまり、「人間として生きるということは何かを知らねばならない」と、そういうことを書いていたと思う。


そういう話を書いていた本を間近にし、翻訳していたおっさんは、「森に入って物質文明を捨てて、地球と共に暮らすことこそ至高」とのたまいだした。
よくもまあ、マスコミは人を洗脳するだのなんだのと書いていたのに、「自然は素晴らしい」とマスコミと同じ口ぶりで言えるものだと思う。

イギリス人活動家の上記の理論を簡単に言うと、我々は幻を見ているのだ、という。

彼の思いつきではなく、それを裏付ける話を持ってきた上での言である。


翻訳したおっさんは、その件を論破することもなく、「どちらにしてもこの肉体を持って生きていることは覆せないので、自給自足の自然に沿った生活をすべし」と述べた。

そして、「彼を超えた」と言い出したのである。


この二人の違いを述べる。


イギリス人活動家は、「物質に惑わされているだけで、これらは幻だと認識すれば、人間は本来無限の可能性のある存在なんだ」と、人間であることを、人間を素晴らしいと言っている。
野口晴哉も、「もしかしたら人間も羽が生えて飛べるようになるかもしれないじゃないですか」と、そこだけ聞いたら妙にも聞こえるが、人間に潜む、生命の無限の可能性を見出していたのだといえる。

表面上のバカさ加減だとかは意味がない。そもそも幻に惑わされて、自分が分からなくなっているだけだというわけだ。気づいてくれなきゃどうしようもないかもしれないが、それでも人間の本質というものを追求し、それを信念を持って語っている。


翻訳のおっさんは、さっきも書いたが、「日本人はバカだ」と言っていた。

講演を断ったのも、バカに話をしたくないからだろうと思う。そのための言い訳だったのだろう。

やる気の話とも言えなくもないのだが、そのおっさんはわしに、「やる気ありゃなんでもできるだろうが」みたいな説教をしてきたことを覚えている。
そっくりそのままお返ししておけばよかったなと、今は後悔してはいないが、それを言った時点でフォーラムから放逐だったろう。

イギリス人活動家は、人間をあなどらなかった。そもそも、あなどるところなどなかったのだから。

翻訳のおっさんは、人間をあなどった。表面上のくだらなさにたぶらかされ、人間をバカにし続けていたが、それはつまり、己をあなどっていたのである。己という人間の可能性をあなどったのだ。

HPで翻訳やら随筆やら書いていたのは、「バカな日本人に本当のことを知らしめれば動いて当然だ」というあなどりからやっていただけなのである。
「社会運動を起こしたかった」などと慨嘆していたが、人をあなどっている奴に動かせる社会など、そもそも存在しなかったのである。

イギリス人活動家の言にならって、「マインドの牢獄がどうこう」と言っていたが、自分がその牢獄の真っ只中にいることに気がつかなかったのである。

「人を呪わば穴二つ」と、古来より言う。日本人はバカだと呪い続けた結果は、本質を見抜く目を完全に曇らせただけだったのである。


人間とはあなどり難い存在なのである。


いい具合に来た、まったく当てはまる話をしておこう。


ずっと気持ちの悪いコメントをしてくる御仁がいた。コメントまで読んでいる人はいないかもしれないが、文からかもし出す雰囲気が気持ち悪かった。

「あなたを助けてあげてるんですよ」と迫ってくるような感じが当初からあったのだが、本当にそうだったようだ。

お仲間に引き入れたかったので、わしを「あなどって」、正しい知識を身に付けさせたかったらしい。

それで、どれほど正しい知識をお持ちだったのかというと、「これ以上言ってたらあのおっさんと同じといわれかねないので」などと、どう見ても小ばかにしてるようなことを言ってきたので、ふざけるなと言ったら、「あのおっさんを攻撃してたつもりだったんです」と、どう考えても生き物の思考回路とは思えないことをのたまっていた。

かつて、その御仁に「その考え方はあのおっさんと同じですよ」と、今まで書いたことを読んで覚えているなら分かるはずの流れで指摘したことがあったのだが、そういう返し方ををする。

ちなみに、何をこれ以上言ってたら、という話かというと、オススメの映画の推薦評の最後に言っていたのである。攻撃も何もないし、こちらの意図は何一つ伝わっていないのだろう。

正しい知識とやらをお持ちなら、まともな言葉を扱う正しい知識も持っていないと、伝えようも伝わりようもないのである。


わしに、人間をあなどらせないで欲しいものであるが、恐らく、至高の思考回路をお持ちなのだろう。人間の可能性とは素晴らしい。


さて、なんでこんな話をしたのかというと、自分でも感じるところがあったからである。

いつからかは分からないが、人間をあなどることは、人間の本質をあなどり、そして、己自身の本質をあなどる。そう感じ始めていた。

今ほどはっきりとそう感じてはいなかったのだが、かつて、そういう気持ちを捨てようと思いながら街を歩いたり店で人と喋ったりしていたら、こちらの身長が実測より高く見えるだとか、身なりがいいだとか、品がよいだとか、風呂敷結んで肩掛け鞄にしてたらおしゃれだとか、歳言ったら20代かと思ったとか言われたり、こっちとしては別に物を多く知ってる覚えはないのに、話の引き出しが多いだのといわれたり、不思議でならなかった。

仕事場ではあまり、そういうことはなかったと思う。おそらく、わしが人をあなどっていたからだろう。ブンピツカですか?と言ってきた新入アルバイトのおじさんには、同上で、もっと若いと思った、とは言われた。

そこまでなら、別によくある話とは言えるので、例えである。そんなつもりがないのに、そう見えるというのは不思議だな、と思ったと。


前に、とある女性に出会って、「サインくれ」といわれた、と書いた。今後、このブログの存在をその女性に知られると、どう思われるか分からんが、書きたいことを書く。まあ、後日ばらすに違いない。

出会うしばらく前のことだった。「自分と話の合う、年下の女性が欲しいな」と、こうはっきり思ったことがあった。

そして、練習で書いているという小説を書き始めたころに、その女性と会った。


その小説のヒロインは、自分より少し背の低い、髪の長い女の子である。ヒロインの一人、なのかもしれないが、ともかく。

本人の直接の問題でもないのに周囲から白眼視され、ねじくれたところがあり、生意気で高飛車というか傲慢というか、そういう性格という話である。話である、というのは借りてきたキャラだから。

そういう性格というのは、本来は素直な子だと思われる。周囲からあなどられれば、それに対抗するような性格になっていくわけだ。根が素直ならなおさらである。


例の女性に戻る。


二回目の、なんとなく「サインねだってるのかな」と考えながらその店に訪れたら、本当に現れた、という話も以前書いた。

仕事に行くときとは違う髪形で、なんと、ロングヘアーだったのである。前に見たときは束ねていたのである。


そして三回目。

わざわざ着物ででかけ、来るだろうと予測していったら本当に来たのだが、そこは措く。よく来る日をいっていたからだ。

夜の営業の閉店までしゃべって、終わり際に、わしが着物姿なので、皆で記念撮影しておこうとなった。前々から撮っておきたかったとも、店員の女性が言っていたのもあったので、承諾した。

その女性が立ち上がり、その後自分も立ち上がる。そして、背後からその女性の背丈を検めてみたところ、小説のイメージぐらいだったのである。

中では「頭一つ分くらい」と大雑把に書いたが、丸々一つ分ではない。だが、大体これくらいと考えていたのに近かったのだ。

それに気づいたとき、わしは自分の片てのひらを頭にあて、「なんだこれ?」と自分の目を疑いかけたほどである。

そのお店の女性店員は、例の女性とLINEだとかで馴染んでいるのもあり、例の女性を評して「素直ないい子」と言っていたと思う。

「素直でいい子だったのに」みたいな話なんかがニュースで流れたりするが、そんな冗談は忘れよう。


人が人をあなどってはならないのである。自らの無限の可能性を閉じるだけなのだから。

あなどっていると、至高の思考回路が宇宙人的言語を操り、人心を誑かすので、注意されたし。


では、よき終末を。


シャイン氏とポンコツ環境についての所見

2017-03-08 | 雑記
シャイン氏について、布団の中でゴロゴロしていながらふと、思ったことがあった。

シャイン氏そのものではなく、周りについてである。

本人については、仕事となると意識過剰になって、仕事に身を入れてるつもりが実際は入ってないのと同じ状況なのだろうと推測している。

だから、仕事中は何をやってもぎこちなくなると結論付けた。それで、意識の集中の仕方を変える方法を教えたわけだ。

「恋煩い」だのなんだのと冗談めかして書いたが、つまりは瞑想である。

瞑想状態の感覚が分かれば、何事を行うにも、日々是修行となる。

瞑想の状態というのは、ひとことに意識を集中させているのだが、それはゆるやかな集中である。意識がガタガタの人に、己の意識のあり方を知らせるにはいい方法である。
ただ、参考にしたところにも書いていたのだが、「寝食を忘れるほど没頭するものがある人には瞑想は不要」という。
座禅を組んで瞑目して、というのが瞑想というわけではないのである。そういう話とやり方を伝えた。

大脳生理学だか、脳神経学だか、精神科だかは忘れたが、瞑想には高い効能があるという。


さて、そこは本人の話。


ある日、仕事場で面白いことを言っている人がいた。スタッフの女性で、先日のアニソンとかをステージで歌っているのとは別人となる。

「体調の悪い人がいると、なんだかひきずられて自分も気分が落ち込む」といっていた。

ほお?と思い、「なら、元気な人がいたら、元気になるのかね?」と問うと、「そんな感じですねぇ」と答えていた。


その女性は穏やかな感じの人物なのだが、シャイン氏と仕事に入るたびに、いつもやきもきしていた。

ある日、余りにも腹が立ったのだろう、当人に向かってではなかったようだが、「あのポンコツ!」といっていたと聞く。

あの人がポンコツなどと罵るとは・・・という驚きもあったのだが、ポンコツなんて久しぶりに聞いたな、という方が大きかった気がする。


ポンコツ具合を毎日見ていたら、流石にそう思っても仕方がないとは思う。

しかし、先ほどの彼女の言を思い浮かべてもらいたい。

「体調が悪い人がいるとひきずられる」と。

これは別に彼女だけの特殊体質ではなく、感じように違いはあるのだが、皆持っているものである。

なんとなく、という雰囲気のように感じる人もいれば、彼女のようになる人もいる。

フランス語でいう、ラポールという奴だろう。なんとなく言わなくても言いたいことが分かった、というような通じ合いのことである。


毎日のようにポンコツ振りを見せ付けられて、「このポンコツ!」と思い続けているから、シャイン氏はさらにポンコツになっていくという悪循環。
そして、ポンコツが反射して、その女性のお顔もポンコツになりかねない。それは困る。

別に、その女性だけがポンコツだと思っているわけではなく、現場全員がそう思っているので、シャイン氏は包囲網にはまっているわけだ。

仕事自体はともかく、シャイン氏自体がポンコツではないことを先日は書いておいたが、そんな状況である。

それなので、上記のやり取りの件を含めた手紙でもロッカーに貼り付けておこうかと思う。提案と指摘である。

恋文と間違えられるとお互い困るが、そんな勘違いはしないように、※恋文ではありません などと書いてはおく。

「ポンコツと思いながら相手に接すると、本当にポンコツになってしまって、さらにあなたのお顔もポンコツになるので、それは困ります」とやら書くつもりはあるが、渡すのに躊躇しそうである。
効果が出てくるかは当人次第だが、本人の意識変革を促す手法も伝えたので、ポンコツと思いながら接するのはおやめいただきたい、という旨である。怪しげな言い方になるが、これはあなたのためでもあるのです、などと。
皆がどこまで思っているのかはわからないが、決してボケて脳機能がおかしくなっているわけではないことも伝える予定である。



上記で、「現場全員が思っている」と書いた。先日も、業を煮やした後輩バイトが、「社員全員無能だ!」と怒鳴り散らすということがあったそうな。

ポンコツなのは、実際に全員である。その件は先日にも書いた気がする。

そして、本当に全員なのである。「無能社員」と罵ったほうも、である。


こちらと同じ身長で、70kgだかになったとお嘆きであったその荒廃、じゃなくて後輩。

考えてみると無意味だったり、本来は社員の仕事と思しきことを押し付けられ、不満たらたらだった。状況はこちらも同じではある。

しかし、仕事中に「しんどい」などといいながらさっさと片付く仕事などなく。

人に無能という前に、己の無能さ加減をまずなんとかしないことには、悲しい遠吠えになる。何も考えていない状態よりはマシな奴ではあるが。

まあ、風邪引いて休んだりする奴には言われたくもなかろうが、その態度では風邪引いてるのと同じではあるといえる。周りに風邪じゃない風邪を移して回っているのだから。

シャイン氏に伝えた瞑想の話の流れで、自身の手法として小説を書いていると伝え、最近なんだか妖怪染みてきたことを言うと、「なりたくない」と言っていた。

妖怪染みたのはこちらとしても計算外としても、色々と変化があったという経験を語っただけではあったのだが、瞑想を勧めてもないのにそういう反応である。

さすがに妖怪染みたくはないとして、それをシャイン氏に伝えた理由や効能は?と何がしか興味を持てばよいのだろうが、無能だと言われたいらしい。


無能社員、といいたくはないのだが、その一人は、身長もある程度ある上でだが、でっぷりとしている。

上から物を押し付けられたりしていない時は、勤務中にサッカー見続けたり、『真田丸』なんかをこの間は見続けていた。

仕事を始めたかと思ったら、今度は船をこぎだす。優雅なことこの上ない人である。

こなしておく必要のある日常業務はこなすのだが、それ以上のことはやらずに上記である。上から命令されたら渋々動くので、舟をこぐことは少なくはなる。ただし、その時だけ。

さっさと仕事を片付けて、その分、日常業務以外のことをこなしてくれれば、後はまともな思考回路があれば、シャイン氏のことなども含めて、考えてくれそうなものだが、無能なのでやらない。
仕事の分量が多いから、はあまり意味がない。さっさと片付けて、少しでも空き時間を作れれば問題はないのだから。舟をこいでいる場合ではない。ほっとくと仮眠が朝までになるくらいなら、寝ないほうがマシである。色々と大変なのだろう、と思わなくもないが、言いたくもなくなる行動だらけなのではなお更である。
こっちは寝ずに食わずに行動できますが?と脅しをかければ、「お前がやれよ」と返すくらいに無能だろうと思う。


でっぷりつながりで二人を並べた。まあ、後輩の方は腹が相撲取りになってはいないが。


他にも色々あるのだが、人の粗探しをしたいのではなく、己のポンコツ具合を治そうとしなければ、シャイン氏のポンコツ具合を治すことなどできるはずもなく、ただ「あいつはポンコツだ」と自分に向かって言うだけになるのである。

そして、仕事場もポンコツだらけの共感反応で、いずれかは潰れようと思う。このままならば。


これは己の問題だろうと思った。シャイン氏の状況がかつての自分と近いと感じたので、やらざるを得なくなったと。


それで、シャイン氏以外の状況を考えたら、上記の女性スタッフとのやり取りに繋がったというところである。

わしも引きずられて、ポンコツだと思ったことは違いなかったのだから。


業務外業務はここまで、と先日書いたが、終りそうにない気がしてきた。特別手当を貰いたいところである。

物事を変えるには、人を変える以外にない。そういう強い確信が沸き起こってきたのもあるのだが、妖怪染みてしまったものの宿命なのかとも感じている。何を大げさな、とも思ってはいるが。


身近なことも、地球規模と思しきことやらも、違いがないのである。

この一つ前の記事でも言ったが、社会体制が変わっても、人がバカなら、同じことではめられるに決まっているのである。


「自分は無能ではない」と思えば思うほど、かえって無能という状態を意識して、悪循環する。だから、他人を無能と罵っているのである。

他人を無能と罵り、己を無能でないと考えるというのはつまり、無能のことしか考えていないのである。

人の意識の持ち方というのは、妙にこじれているのである。


では、よき終末を。


自然に沿って、ではなく環境に依存して

2017-03-08 | 雑記
昨今、世の中の支配体制がおかしいから、そこから抜け出すために自給自足を推進しよう、という動きがある。

前半の理屈は正しい。上の書き方がおかしい、というのは書いてて思い出したが、この社会は人類を支配するために作り上げられたという理論があって、それだから最初から「支配体制」と書いた。

では、後半は間違えているのか?というと、絶対に間違いだとはいわんが、本質的には解決とはならない。

平たく言えば、人自身が変わらなければ意味がない。

政治家がふざけてるから選挙して入れ替えだ!と言っているのと同じである。同じ事を繰り返しているだけになる。

それは何故か?

現代文明というのは、科学で作り上げられたもの。そこはいいとして。

人がいて、それを取り巻いているのが現代文明。見える形なら建物だし、目に見えるものではないが、その文明に則した約束事で出来上がった生活。

つまり、これは環境である。環境をよくしよう、というのはわかるが、環境をよくしたところで人がバカなら意味がないのである。

その例が、現代文明のうちなら、上の政治家が云々である。

環境に依存しているのである。要するに、人頼みである。物頼み、とかいってもいいだろう。

風邪を引いたから医者に行くだとかも同じである。

しょうもないニュース見て腹立てるのも同じ。


では、自給自足だとか自然に沿った生活はどうなるのか?

いつも同じ例えで申し訳なく、思ってはいないのだが、フルータリアンと自給自足を組み合わせてなにやら始めた御仁。

果物食って凡人では思いもよらないようなすっきりした感覚と体の状態!そして緑溢れて素晴らしい生活!などとやっているわけだ。

緑が溢れているから素晴らしい、は個人の好き嫌いの問題ではある。嫌いだから全部燃やせ、とかいうつもりもないし、なくなったらなくなったでこれも困る。

要するに、環境をよくしたことで己が素晴らしくなった、と言っているわけだ。

果物食って元気!とかいうのは、リ○イン飲んで二十四時間戦える!と思い込んでやってるのと差して変わらない。

つまり、自然と呼び習わしているに過ぎない環境に依存しているだけの話。

その御仁はかつて、デーヴィッド・アイクを翻訳し、わしは野口晴哉という存在を報せたものだが、どっちもまったく伝わってなかったのである。

野口晴哉は、環境よくする、例えば殺菌したりして綺麗にするだとか、そんなのでは意味がないのだと。人間の内側にある自然の力を発揮できるようにしなければ意味がない、と言っていた。

果物という自然の素晴らしいものを食べて素晴らしくなったのだから、意味がないわけないだろう、と言われるだろうが、ふざけてはいけない。

それは、そもそも人間に備わった力である。契機になったとはいえるかもしれないが、そんなものはその人しだいであり、元々皆持っているものを自慢するのは愚か者のやることである。無知であり無能である。

自分がここ一ヶ月ほど、あまり眠らず(横になっても意識が飛ぶ時間がほとんどない)、少なくとも栄養学が必要とするような栄養素と量をとってないのに、以前より疲れない状態になった、と書いてきた。脂肪が激減しているので、やつれてはいるが、他は異常ない。

そんな状態になったら、別にビル群が倒壊しようが、森がほとんど燃えてしまおうが、別に問題ないのである。利用はするが、依存などしようがなかったのだから。酸素を作る植物が全部消えたところで、すぐに酸素が消えてなくなるわけでもなかろう。
そうなろうがなるまいが、遅かれ早かれ死ぬのだから、慌てる必要もない。

環境に依存しているものが、別の環境に依存しているものをあざ笑う。情けなさ過ぎて笑う気も失せる。


環境は利用するものである。人間の内側にある自然を発揮して利用するものであり、環境によくしてもらおうなどというのは、森に居ようがビルに囲まれていようが、両者共通の甘ったれた考えである。

人間の内側にある自然を発揮せずに利用するというのが、現代文明の最悪な点であることはご承知おきのほどを。

己の自然を発揮した気になって自慢しているのが、森に入った奴らの多くだという点も、実に最悪である。
自然に沿った生活というものを志していることを否定する気はないし、そういう生活をしてきた人達もいるのだろうが、動機が不純だと、いずれ動悸を起こすだろう。

中身を根本的に変えてないのに、変わった気になるのが人間の習い性である。そしてうぬぼれる点も変わりなく。

最悪なままなのに最高の状態だと勘違いするのが現代社会全体の宇宙レベルのバカバカしさである。




もっとふざけた感じで書こうかと思ったのだが、全部吹っ飛んでしまった。長くなるし。


あれだけ激烈にコメントを返したのにまだ食いついてくる人に一言述べておく。

いちいち、「自分の未熟さを痛感した」だの、「人の意見を聞くことの大切さをかみ締めた」だの、そんなのは尋常の人間なら当たり前にやっていることで、いちいち書き述べるような話ではない。
努力や苦労なんぞは誰もしていない、という話を以前書いた上でいうのは変だが、そういう努力は皆当たり前にしているのである。しようとしない人もいるが、それはまた別の話である。
わざわざ書くということは、お前は皮肉を言っているのか?と怒られても仕方がない。「あなたのようなバカと話をして勉強できました」と言っているようなものだ。
しょうもない努力アピールはバカバカしさしか生まないことを以前書いたが、覚えていないのなら、その頭は空っぽである。もしくはゴミが詰まっている。
読んだ振りしてコメントするくらいなら、壁に文字を書いていてもらいたい。ここにメールもコメントもしないでいただこう。
そもそも、わしは誰かにどうにかしてもらいたい、とはもう思ってないので、変なおせっかいは勘弁願う。己が身は己でどうにかしようとしか思わん。
以上、しかと申し付けたので、肝に銘じておくように。

では、よき終末を。