ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

密を散じる

2020-06-28 | 雑記
コロナ、とだけ書くのはおかしいので武漢から発生した例のウイルスの影響で、非常事態宣言が発令されたころというべきだろうか。コロナという言葉の本義については、個々人でお調べいただく。

「サンミツがどうこう」と、池の百合というより沼の徒花の都知事やらが言っているという。

拙はサンミツと聞いて首を傾げた。

「何故仏教修行の話をしているのか?」と。

サンでミツなら、三で三つ。幼子の言い方をまねして「僕みっちゅ!」とか言いたいところだが、これは新たな風評被害かとも指摘できなくもない。先に言い出したのが総理だったとしたら、こちらもデマを流していることになるので、先に謝っておく。ソーリー。

色々と怪しげな人物であるので、その言葉が何をさしているのかご存じでないか、穿った物言いをすれば、敢えてこういう表現をして日本を貶めているとも考えられる。

三密加持で検索をすれば、Wikipediaにも乗っているぐらいの言葉で、政府やらの言い方と反対の意味になる。

とはいえ、あっちは3密。こちらは三密であるので、似て非なるものではあるが、発音するのが言葉の本来の姿。混同させているとしか言えない。

三密の方の話に戻るが、これらは3密と同じく、みっちゅ、ではなく三つに分類される事柄をまとめたものである。

それぞれ身密(しんみつ)、口密(こうみつ)、意密(いみつ)となる。三つの密で三密である。

大雑把に言うと、立ち居振る舞い(身密)に言葉遣い(口密)、感情や精神の状態(意密)の三つを正しなさい(加持)というスローガンである。

サンミツから離れなさい、というと、伝統的にはこの逆をやれとそそのかしていることになる。確かに、今は乱痴気騒ぎである。


とはいえ、ある意味は正しいのかもしれない。前回に「毒力」なんぞと書いたのもあって、以前から触れようと思っていたこの件を改めて思い出せたわけでもある。


その人の本来を捻じ曲げさせるのが現代社会である。それは度々指摘されているが、「でもそれじゃ世の中が回らない」とすぐ行き止まりの思考回路になるのもセットである。

満員電車は都心部だけの話ではあるが、日本の人口の大半が集中しているともいえるので、やはり現代日本の多くの人が関わっていることと前提して書くが、やりたくてやっているわけじゃないと、よく聞くだろうし、思っている人もいるだろう。

そしてあなたはそう思っても、すぐに行き止まりの思考回路に足を踏み入れる。

三密を思い出してもらいたい。決して3密ではない。

嫌々満員電車に揺られて仕事に行っているその状態は、決して三密加持ではないだろうと。言わば逆三密加持である。3密ではなく三密から離れていたのである。


さて。武漢のウイルスで色々と生活が変わった人が多いであろう。収入が激減して困っている人が多かろうが、それは措くとして。

テレワークの推進だとかなんとかで、やってみたらこれで済むものも多くあった、などという。名前を思い出せないが、日本有数の会社の役員までもが、「今までなんだったんだ?」と思い至ったという。年に何十日も出張するようなのはおかしかったのだと。

逆三密状態が続いてきて、これの正邪はともかくとして当然だった時には思い至らなかった。

今回、武漢のウイルスは毒をばらまいたわけだが、その毒の力のおかげで、独力では至らなかったことに気付くきっかけになった人もいるだろう。

独力の努力ではどうしようもない時は「毒力」に頼むのもよかろう、と前回書いたが、書いている途中では「どくりょく」のダジャレのつもりではあった。前回同様、「どりょく」と読んでもらうことにする。

逆三密加持の努力ではどうしようもなかったので、今回は天の采配とかいうと怒られそうだが、武漢のウイルスの「毒力」がきっかけとなって、「(逆)サンミツから離れなさい」という言葉が飛び出したのかもしれない。

「コロナのおかげでよくなっただと!?」と怒る方もおられるかもしれない。海外ではまるで中世のペストのように猛威を振るっているし、そんな話を煽るかのように今日の罹患者は何人だの先日より増えただのとやっている。

マスコミは恐怖を煽るのが、これまた好きでやっているのかは拙には分からないが、仕事である。これもまた、逆三密加持の故かもしれぬので、気にしないのがよろしい。

身近に罹患して亡くなったという人もいるかもしれないし、その場合はわかるとして、例えば「海外で一杯亡くなっているぞ!」という風に言い出している場合。この件については、以前申し述べておいた。


拙の母方の祖父は、晩年自殺した。日本の年間自殺者数は三万人を超えているという。小泉政権時代ですでに言われていたという。まあ、本当に自殺かは怪しいのもあるが面倒なので自殺!と片づけているという指摘もあるので、正確ではないとしてもだ。

拙はしばらく、「何故自殺したのだろうか?」と考えたものである。親は「考えると引きずられるぞ」という風に言って、考えないようにしろと諭してきたものである。

何が言いたいのかというと、「普段気にもしたことないことを煽られたままに振舞うのは三密加持ではない」ということである。


逆三密加持の時代は少しは緩和されたのかもしれないが、長年の習性は一朝一夕では変わりがたい。とはいえ、千里の道も一歩よりという。何故か予測変換ではこう出た。

三密は加持して逆の三密、丁度いいので3密からは離れるべきであろうと。3密と見たり聞いたりしたら「逆の三密だな」と考えて頂ければ幸甚である。


では、よき終末を。


毒力

2020-06-17 | 雑記
夕べは酔っぱらってゲームの途中で寝てしまい、目的が一つ果たせずじまいだった。

それは気にしていないが、家でゴロゴロしててもよく飲むのは健康の証なのだろうとしておく。

どこかの研究機関だかの報告で、アルコールは百害あって一利なし、といったとかなんとか。世の中、毒物だと思わされてないだけで毒だらけなので、色々と調査してもらいたいものだというのが正直な感想である。

酒なら分かり易い。ちょっと飲んでも反応が早い人はすぐ出るし、出ない人でもずっと飲んでたら尋常ではないことを起こしたりするのだから、日常、容易に手に入れられるからといって、尋常の物だと思う方がおかしいとはいえる。

余談に余談が重なるが、毒物なのに毒物として言われていない、日常にありふれているものの話を思い出した。

それは、酢酸。つまり「お酢」である。

健康によい、と盛んに言われているお酢だが、その健康によい理由にこういう一説があると昔、聞いたことがある。

簡単な話で、実は人体にとっては毒物なので、それを追い出そうと人体の代謝を亢進させているのを、健康増進している、もしくはしているように見えるのだとか。

昔の小説で、毒も薬だ、毒薬と書くからな、などというのがあった。実際にその毒薬は暗殺のために使われかけたというのはご愛敬。


先日、結構な熱が出て、仕事を休んだ。家にいたら夜勤の開始時間ぐらいにはぐらぐらして、少し寝てしまうぐらいに、久々にやられた具合だった。

昨今話題の、などとひどい言い草だが、コロナで仕事が減っているため、長い休みになってしまったのもあって、まるで自粛期間のように家で過ごしていたものである。

兎にも角にも元気になったようで、夕べのように鯨飲したりしてもケロッとしているというわけだ。変な寝方と飲み過ぎも相まって、腰が痛い気もしたが、すぐ晴れた。

普段ならゲームしてたりでなかなか寝ようとしないのもあって、毒がいい薬になったのだと言える。言えるかどうかはご自由に解釈を。

そして普段では起きようとしない時間に目が覚めたので、何事か書かんとして、久々の更新に踏み切ったのである。


然る人物にからかい半分であることを言うと、「俺は努力したんだ。お前みたいに何もしてない奴に羨ましがられる道理はない」と宣った、というのは昔書いたものである。

考えてみないと分からないし、これまた毒なのに日常にありふれているがゆえに気づかないことだが、つまりは「努力すれば報われる」である。

こういう理屈は、現代社会の病理なのだと、識者だとか色々な人が異口同音に指摘したりしている。

この「努力すれば報われる」は、「努力しないと報われない」とセットである。

努力すればするほど、実は延々報われないという状態に陥りやすい、言わば「毒」である。

上記の然る人物もまた、この大多数の日本人が大なり小なり当たり前だと思っていることをそのまま宣っていた、というわけである。

これまたしつこく言うが、現代人は馬鹿だと罵っていた上でこれだったとも付け加えておく。

つまり、「馬鹿な日本人」は目の前で自己紹介してくれていたのだと。


努力。この言葉は昔から美辞麗句の一つとして扱われている。前述の理屈を是として考えて頂くとして一考してもらうが、冒頭の余談の如く、毒なのに毒として認められていないといえる。

毒が薬なら、薬もまた毒といえる。毒を排除しようと、昨今のコロナ事情を鑑みるに現代社会は「努力」しているようだが果たして、努力は報われるかというと、以前からあったものが余計に酷くなるだけといえるだろう。

消毒でコロナだけが死ぬわけではない。これだけは言っておく。


所謂陰謀論という奴で、コロナウイルスの蔓延に対処するために経済を壊す覚悟で都市封鎖を敢行したのは、経済を壊すのが本当の目的だった、というのはある。

この方面で有名なビル・ゲイツ氏も、本当にそう喋ったのかはこちらもしかと見聞きしたわけではないが、「ワクチンで人口を抑制する」と公に語っていたという。

それが本当のことと一応決めておくとして、これもまた「努力」なのかもしれない。努力すればするほど報われないという矛盾に陥るのでは?と。


世の中に陰謀なんぞないと決めるのは簡単である。が、それでは人間の間抜けさを理解できない。

日常程度の簡単な例を申し上げるならば、「これはあなたのためにしているのですよ」と言いながら実際は相手のことは一顧だにせず、己の利益のためだけに働くのならば、それは詐欺と呼ばれるだろう。

詐欺だと摘発されない限り、上記の謳い文句を語り続けるのならこれは陰謀と相成る。

個々人間でも起こり得るのである。人間が集まればそのような「陰謀」を企てる存在も集まり、大きくなる可能性は高かろう。


風邪の菌もインフルエンザのウイルスも撲滅されたことはないのだが、コロナは駆逐できると本気で考えているのなら、その努力は病的であると言わざるを得ない。

所謂陰謀論通りなら、本当は人類を駆逐したいのだろうという話になるところではあるが、それは措くとする。


独力で努力するのは結構だが、努力が過ぎれば「毒力」になろう。「どりょく」と読んでもらう。

そうなった時に、風邪で寝込んだかの如くに気づいたりするのが、人生の節目というわけである。気づかないことも多々あるとはいえ。

それゆえに、たまには努力するのは辞めて、「毒力」してみるのも一興かもしれない。努力は報われないことはあるが、死なない程度の毒ならいつかは消える。

それに、毒もまた薬なのだから。


では、よき終末を。