ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

境界

2012-02-18 | 雑記
先日、仕事帰りにいつもの伊勢屋に寄って、ちょっとおしゃべりしていた。

曹洞宗の永平寺の偉い坊さんがこんなこといってた、という話だった。


約めて言うと、こうだ。

「人間は生まれたときに寿命が決まってて、歳食って病気で死ぬのも、生まれてすぐ死んでしまうのも決まっているのだ。でも、人間歯それを知ることが出来ないのだ。」と。


もう何十年もタバコを吸ってきたおじさんだが、医者にどれだけ吸うのか聞かれて、大体シガレット一箱分くらいだと答えると、「それくらいが丁度いい」と太鼓判を押されたそうな。


病気らしい病気もほとんどないそうだ。その日はちと風邪気味だったけど。


それで未だに問題なくやってるのは、その坊さんが言う寿命がまだ来てないからかねぇ、という風に笑っていた。


その上で、何事もほどほどに、という。


ただ、大抵の「ほどほど」が少なすぎる、タバコなら上記の量程度吸うのがベストになるのだが、人によっては吸いすぎたり、吸わなさすぎたりすると。

酒にしても何にしてもそうだ。インスタントが良くないだとかなんだといっても、そればっかり食って、節度を保たないのがダメなんだと。

一月は、仕事場に備蓄されていたカップラーメンやらカレーやら食べて過ごしてたら、そのせいか、体がアレルギーみたいになって、かゆくてたまらなかった、という話を受けてのものだった。



(ちなみに、今はなんともない。カップラーメンを夜勤の夜食で食べたり(本当はもう食べないなどと宣言していたが)、たまには食べて地獄へ行こうぜ!などと近くのコンビニへ買いに行ったりして食べていたが、特に問題なく過ごしている。)




生まれたときの寿命が決まっているとはいえ(真偽のほどなど計り様もないのだ)、好き勝手やりすぎるのはその寿命を縮めてしまうのかもしれないし、良くて、いや最悪、病院でマカロニになることだろうな。


帰り道、ふと思い浮かんだ言葉がある。

恐らく『論語』の一説か、実は『荘子』なのかもしれないのだが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」


多すぎることは、却って少なすぎるのと同じことなのだよ、と、弟子を嗜めた言葉だそうな。何の多寡かというと、弟子たちのケンカの原因は知識の量の話だったが。


節制と聞けば、とことん切り詰めることだ、そう考える節がある。自分だけでなく一般的にもそう思うのが多いだろう。


どうやらそういうことではなく、限界以上にやらないこと、だといえそうだ。別の言葉で言い換えれば「中庸」というべきか。


何で聞いたか忘れたが、過剰な禁欲は快楽と同じになる、などと。釈迦も断食やるだけやったらすっぱり苦行はやめてしまったし、初期仏教自体はそういう苦行を伴う修行は否定したとも記憶している。


だから、肉も食べていいのかな、などとも感じたが、四足はやはり避けた方がよろしかろう。そもそも共食いなのだから。


食べるにしても、今の世界の状態を知れば、食べ物だとは思えないだろう。知ってて食べる自分もどうかしているが、なに、こっちは仙人(とあだ名されただけだが)。仙人は仙人の思惑があるのだ。



本当はもうちと込み入った話をするつもりだったのだが、ここからどう繋げるかは考えてなかったので、お仕舞いにする。じゃあ、別の話。



さて、夜はロウソクの明かりで過ごしている。といっても、六畳間の蛍光灯だけ点けないでいるだけだが。

こういう風景が毎夜繰り広げられている。



ロウソクの後に見える皿は、香立てが乗っかっている。それと、今まで焚いた香の灰。途中まで燃えてきたら、灰の上に寝かせている。香を焚きながらタバコをふかし、茶を飲むというわけだ。


ぼんやりと、香とタバコと茶の香りを楽しむ。アホみたいにゲームやったりアホみたいに働いて社会の奴隷としてのバカになるくらいなら、こういうバカのほうがとてもいい。

ゲームやることのどこが社会の奴隷か、と思われる人が大半だろうが、あれもこの世界の仕組みの粋である。そういう話は長くなるし、前にもちらっと書いたが、バカの話は誰も読まないし聞かないし、改めて書いたとしても読まれはしない。

乞われたら書くかもしれないが、そんなバカな人はあまりいない。実にバカバカしい話でございます。


では、バカバカしいついでに、バカバカしいゲームのバカバカしい自作動画を掲載して終了とする。


ブログの更新をサボっている間に、四本ほど出来上がってしまった。


三十四着目


自前ナレーションによるあらすじ着き。しかし、感想はニコ割についてのみ。ついでに、アイキャッチも着けた。アニメによくある、CM前後のやつ。


三十五着目


三十四を引き継いでなので、アイキャッチから始まる。三十四とは違う編集をしてあるのだが、やっぱり突っ込まれない。



三十六着目


アイキャッチの間に、専用ニコ割をつけてみる。といってもまあ、キャラの顔のアップを貼っただけのもんだが。アイキャッチも別物を用意したが、やはり以下略。


三十七着目



以上四本分をまとめて撮影してあったので、アイキャッチで繋ぐという風にやってみた。あと、あっさりした予告。


というわけで、バカバカしいことをバカバカしくやってるのに、バカバカしく突っ込まれなくてとてもバカバカしい気分になりましたとさ。では、また。

ノラや

2012-02-10 | 雑記
以前にも書いたかもしれないが、近所の川原に猫がいる。

首輪も無いが、人懐っこく、脅かさない限り逃げようとしない。

先日、撫でようと腰を下ろす際にちょっと跳ねて離れたが、また座り込んだ。何故驚いたかというと、纏っていたマントの裾に驚いたためだった。


それくらい人を避けないのと、首輪もないので、てっきり猫に好かれる性質なのかと得意になりかけたが、さもありなん。


よくいくこれまた近所で、その川に架かる橋のすぐそばにある和菓子屋、「伊勢屋」。


通うようになるまでは、夜中帰りの時に前を通りがかると、通りから見えるお稲荷さんのところに猫がたむろしているのを何度か目撃したものである。


おばさんがいうには、世話をしていたらしい。


つまり、その猫はその時の猫の忘れ形見で、近所の神主さんの家で飼われているのだった。

名を「チロ」という。写真も見せて確認を取った。


では、ご尊顔をどうぞ。




「こっちむいて」とカメラを向けると、本当にシャッターを落とすくらいにこっちを向いてくれた。やはり猫には好かれるようだな。


近づくと、向こうからも近寄ってくる。足の周りをぐるぐる数周したかと思ったら座り込む。



以後、このまま動かなくなる。撫でるのを辞めるまで動かない。首から尻尾にかけての背中を撫でると、撫でるたびに尻尾を振るわせる。

逃げようとしないので、別に嫌がってはないのだろう。ちなみに、首をくすぐると、ゴロゴロなっている。子供の時に何かで読んだ話の通りなら、喜んでいる証拠だと。



久方ぶりでこんな話程度で終わるが、最後に動画を掲載する。


三十三着目



ニコニコ動画にログインして見ている人にしか分からないが、再生画面の上に広告やらニュースが流れるのがニコニコ動画。

これを自分で作ったものを掲載してしまう、ということが何年か前からあるのだが、ちょっとやってみた。とりあえず、どういうものが流れるかを載せておくことにする。



これが、再生している枠の上のところで最後まで流れるように仕込んだというわけだ。もっと工夫したかったが、専用の編集ソフトから仕上げたものでないと出来ないという仕組みなので、簡単に作った。

動画の再生時間に合わせて、流すものを三種類まで設定できるので、動画と連動した内容のものを流したり、今までの動画のリンクを貼った広告をしたてて、定期的に上のと交互に流すなどということも出来る。

いろいろ出来るようだが、ま、ニコニコ動画視聴者にしか意味がないので、一種のお遊びである。

そして、ここで見ている人はあんまりいないので、そういうこともあるのか、という程度の認識でよろしい。では、また。


好きか嫌いか

2012-02-01 | 雑記
お前は何が好きなんだ、などと問われると、結構悩んでしまうのである。

でも嫌いはあるかもしれない。が、それもよくわからない。


と、思わせぶりな話で始めてみたが、ブログだけ眺めた場合はさっぱりな話になる予定である。


更新をサボっている間に、二本ほど動画を追加しておいた。それに関わる話であるといえばそうだといえそうな気がする。


とりあえず、一本目。

三十一着目


とりあえず、なんということは無いいつもの動画。


三十二着目


というわけで、問題はこっち。


大昔のTVアニメのキャッチコピーのようなセリフのようなのと、その主題歌の一部を諳んじたりしてたら、

「あんたはブ○イガーすきなのかー」と来た。


話は遡ること十年前・・・よりもっと遡る。


古いアニソンがコレクションされていたカセットテープを拾った(拾った時代からしたら古かったと)。

その中で、件のアニメの主題歌があって、なんだか妙に印象に残ったものだった。

最近になって、こういうアニメで、こういうセリフがあって、というのを知る機会を得て(お呼びとあらば即参上!というやつ)、某仮面○イダーのセリフと混ぜてネタにしたりしてたのだ。

内容は判る人だけご覧になって確認願う。まあ、コメント自体はチャンポンネタの前だったので、仕方ないと言えなくもない。


しかし、ネタの比率としては、その二番目の動画の冒頭は、これまた某○イダーのあらすじを流用したものだったり、上記のとおり、混ぜてネタにしてたり。まあ、主題歌の一部喋ったりしてたから、半々としても。


実際、そのアニメはまったく見たことが無い。何せ、生まれたころかその前くらいに放映していたようだから。好きか嫌いかと言われたらこう答えるしかない。「しらん」と。

歌はまあ、好きだったかもしれないが、歌以上の印象が皆無であった。


ちょっと話がわかりにくくなったので簡単に言うと、人の癖やらを見て、「あなた、○○な人でしょう?」という決め付け。こういうのが嫌いだなと。


それにしても、何が好きか?と聞かれるとやはり答えに窮してしまう可能性が高いのである。最近の所感は、「これが好きだ」などと答えると、なんか知らんがしばらく興味を失っていることがある。

後に旧に復することもあるのだが、そう答えてから時間が経つごとに熱意が醒めていく。


変な話かもしれんが、そういう質問や断定をする人間は、そうやって他人の過剰に意識しない熱意やら興味を奪う、一種の洗脳をやっているのだろう、などと考え至るのである。

それと、自分で宣言してしまうのも、その洗脳に自分から嵌ってしまうのだと。皆が皆そうかしらんが、よく感じる。


だから

私は「無意識に他者の精神的な風上に立とうとする存在と、それが自他共に当たり前になっている一般的な思考回路が嫌いだ」というわけだ。



ほう。すると、君は人間が嫌いだと?


それは半分は正解で、半分は間違いである。


上記に示した思考様式をするモノは、単純に常識の、世間の、社会の、延いては世界の奴隷であって、人間とは呼びたくないものである。


常識とやらは、ひっくるめて世界というのは、自然のごく一部を切り出すことである。切り出した上で歪な形に作り変える、改悪そのものといえる。

そういう生活やら歴史やら伝統やら文化やら文明やらに浸り続けて今に至っているのが、我が身を含めた昨今の奴隷の姿なのである。


だから、こう答えて締めることにする。私は「人間」が嫌いだ、と。では、また。