ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

カンセイは法則によりて

2016-02-27 | 雑記
前回は没ラヂヲの書き起こしネタをやっていたが、まだなんだか足りなかったような気がする。

簡単にいってしまえば、「本能に閉じこもってるんじゃあ何も見えないのだ」というだけではある。



さて、自分でも持て余す内容ともいえたので、今回は別方面から。


いきなりイルんだかの奴の話だとかしても困ろうし、わかっとる人はここで勉強なんぞしないので、言うまでもないことではある。

ならば、身近な話を身近なレベルで伝えてみようというわけである。



先日、とあるアイドルグループのファン数人の記念撮影写真を見た。

どんなポーズしてたか、というと何かすぐ判るだろうが、名前はまあご想像にお任せする。そのアイドルだけが問題でもないのだから。


さて、三名並んだその写真。みなこちらに向かって指をさしている。一人は写りの都合で左手になっているが、意味は変わらないだろう。


正直言って、気持ち悪い。何が気持ち悪いのだろう?と考えて、ふと思い至った。

その記念撮影のポーズ自体は、その某アイドルグループと同じものである。彼女らは何かにつけて、カメラに向かって指をさし、満面の笑みを浮かべている。

家に転がっていた新聞の文化面に、丁度彼女らが映っているのがあって、それを見た覚えがある。上に書いたとおりの写真である。

感じないだろうか?感じないならもう結構。帰るべし。


普通の神経なら、指をさしながら笑っているというのは何か判るだろう。

それは、「対象を嘲るとき」である。

彼女らは、不特定多数に向かって姿をさらす際に、意識してかせずかはしらぬが、「嘲り」のポーズをしているのである。

何ゆえか?「お前らはどうしようもないバカだ」とやっているのだ。ファンだとかファンでないとか関係なく。

人をバカにしているやつらを持ち上げるなんぞ、テレビといいメディアといい、腐っているのである。


と、そういう話を試しに人に振ってみたのだが、「ファンに向けたアピールだろう」などと、予想通りの答えだった。

その質問をする前に、「人に指さすのは不快にさせる行為だと習わなかったのだろうか」とも言っておいた上での答えである。

要するに、「テレビで流れていることは問題がないからやっていることなのだ」と頭から信じ込んでいるのである。

ファンと名づけられた狂信者になると、当たり前のことが判らなくなる。それは、テレビに対してこの様に無意識に感じてしまいやすい現代の我々とて同じである。


さて、あの指をさす行為。特定の誰がやっていた、とかは思い出せないのだが、例えば音楽番組で歌手が歌っているとき、同じことをやっていたなぁ、などと思い出す。

白痴のような笑みで人を嘲るポーズを取る気持ちの悪い彼女らの源流は、忘れていたが前からあったわけである。

忘れてはいないか?己の感性を。忘れているというより、そもそも知らないのか?わしにはあんたのことなんぞワカラン。


これをカンセイの法則と名づける。ボールを投げると、推進力自体がなくなってもその動きを維持しようとするが、我々は感性を留められているのにその感性が生きていると勘違いしながら、失速したボールのようになっているのである。

そして、カンセイを失って地に落ちるというわけだ。


そういうところから思い出していくべきである。長らく忘れているのだから。本当に忘れているだけならば。


完全に忘れてしまうか無視仕切るところまで行くと、己を神だのなんだのと、他人と比べて如何に優れているかしか理屈がないのに言い出したりするわけである。
つまりは、上記の如く「非常識」なことを平然とやれるようになる。

神ならば人を超えているのだから、人と比べて優れていたところで意味がなかろうというのに、そんなことも判らなくなるのである。
どうしようもないほど自分が人であるということをアピールしていることに気づかないのである。敢えて誰とは申さないがな。

まあ、どこその誰かさんは、神とは名乗らなかったが、「誰々を越えた」と盛んに言っておった。神とはいわなくても同上である。

努々カンセイの法則を忘るることなかれ。地は歩むものであってその頭を打ち付ける所にはあらず。


では、よき終末を。

木乃伊盗りが木乃伊だった話

2016-02-24 | 雑記
先日録音したラヂヲは没にする、と昨日書いた。

で、一言文句を書いたりして終ろうと思ったら、内容を話しを変えてやってしまった。

ならばと、その内容を思い出しながら何か書くことにしようかと思う。


収録自体が久しかったのもあって、このラヂヲが始まった経緯を復讐、ではなく復習してみたり、結局はその手の人達(も含めて)は何なのか、という話をやっていたらしい。

別にわしにはたいした学識も勉強もしてないので、そんな話してもとぼけた話にしかならんのだが、詰まるところ、「人間とはなんなのか」という疑問である。

そのとぼけ具合がやばいかもしれぬ、とのことで、潔く没にしたわけである。いやはや、世の中大変だ。


文章で雑談をやるとひどく長くなるのだが、書こうかラヂヲにしてしまおうか悩んで、結局は吹き込んでは没にした話を始める。


人間というか動物には本能というのがあって、これを司るのが一番古い脳といわれている、奥まったところにある部分である。小脳あたりの首とかにあたるかな。

別名、爬虫類脳ともいう。

いざ生存の危機!となると、脈拍あげたりだとか、呼吸を荒くして、必死にさせる。でないと死んでしまうというわけで。
必死なのに死なないようにするとは妙な表現だが、そういうところである。

平時は、呼吸や鼓動を止めないようにずっと動いている。だから、この部分が死ぬと、個体の死となる。

で、アイクがよく言っているように、この部分を刺激して不安を煽って人をろくでもないほうに誘導しているのが例えばイルミナティだとか、それを操ってるレプティリアンだとか、そういうことをいっている。

刺激するってなんだ?念力でも送るのか?と、これだけだと妙な気もするが、別になんだっていい。宣伝でもかまわんわけで。

後は薬品。薬品と書いたが、これも色々ある。普段から脳を混乱させてあれば、たいしたことない不安を、針小棒大にしてしまえるというわけである。

ま、その辺りの話は他の先駆者の方々が詳しいので、ご自分でお調べいただきたい。電磁波でも味の素でもアスパルテームでも洗脳でもなんでも。キーワードがテキトーすぎるが、色々あって並べるのは大変である。


では、不安とは何か?となる。大雑把に言えば、生存が脅かされていると感じることと言える。

そうすると、生存とは何か?となる。

確かに、変な物を食わされて頭がおかしくなってるだとか、文明的なもののせいで、例えば高圧伝染、じゃなくて電線の近くで住んでいた人が健康被害を訴えが起きたりだとかある。

これらの問題は一つを解決することで終わるものとはいえないが、生存、つまり本能の要は簡単に「食う、寝る、やる」である。


そこでタメキヨというのは思った。「食べ物を正しくしないと!」と。

それは間違いではなく、正しいとはいえる。だが、それだけで全て解決すると言い出したのはやはり妙である。

必要条件であるが、十分ではない。


と、さっそく長ったらしくなってきた。


かつて、ベジタリアンのブログだとかを見て回っていた。

さるブログの自己紹介に「ベジタリアンの視点で世の中を斬っていきます!」などと書いているブログがあった。

ちなみに、四、五年前の時点で更新は止まっていたと思う。

その人は、街中を歩いててド○ールだかの看板に、期間限定のヘルシーメニューだかなんだかを見つけて、入ってみたそうな。

で、食べてみたら肉が入っていた。こんなのヘルシーじゃない!こんな世の中は間違えている!許せない!という文章を書いておった。

世の中を憎むのはお好きにしたらいいのだが、ヒトラーのSSよりも秘密な親衛隊というのがありまして、特異な能力以外の入隊条件として、「既存の社会に対する激しい憎悪を抱いている」というのがあるそうな。余談である。

とまあ、そういう人達にとっては、現在の世の中は不安を掻き立てるものばかりで、二進も三進もいかないであろう。

つまり、いつも不安で怯えてるが故に、「ヘルシー」だとか書いているのを見てつい飛び込んでしまった、というわけである。

アイクの示す、PRSという奴である。この場合はノープロブレム、となるかな。NPRS?


さて、その人がベジタリアンを始めたのはどういうわけだったのか?そこはもうワカラン。

では、何ゆえ物を食べるのであろうか?それは生きるためではなかったか?

これでは、生きるために本能が働いてるのではなく、本能のために生きているようなものである。

生きるために不安を解消しようとするのだが、不安を解消するために生きている状態だといえる。


不安というのは本能(を司る脳)が刺激されて出てくる、という風にいった。

ということは、本能が働くところに不安は常に付き纏う、ということである。対症療法では永遠に解消できぬ、言わば無間地獄である。


長いがまた話を逸らしていく。関連する話であるが。


長らくゲームをやってきた。テレビゲームというやつである。

RPGとかいう奴で、雑魚にゾンビなんていうのがいる。映画でも有名な、あのゾンビ。

昔のゲームは、今も変わらんといえるのだが措くとして、同じ絵の色を変えて上位の敵として配置したりする。

ゾンビの次はグール、その次はレブナントてな具合で並んでいた。

ゾンビは説明不要!グールも不要!となったら話にならんので、グールをとりあえず。

日本語で食屍鬼とか言われる、死体を食べる化け物、ということで、必ずしもゾンビの親戚とはいえない存在だそうな。

死体を食べる以外に生きる方法がなくなった(カタコンベとかに閉じ込められたとか?)人が、グールという化け物になる、とかいう表現は、ラブクラフトの作品からだそうで、本来はアラビアだかの砂漠に現れる悪霊だとかだそうな。


タメキヨらは「現代人は脳が死んでるゾンビだよねー」とかほざいていたが、グールというべきかもしれん。別にグールだといいたいわけではなく、前者に対する皮肉である。


レブナントというのが、ゾンビに近いといえる。フランス語が元で、その言葉の名詞形だかが、レブナント、という。日本語で言えば「帰還者」という感じだろうか。

死んだ人がその状態で起き上がってくるというのである。ああ、死亡診断間違えてたか?ではなく、魔術で起き上がってきたものだとか。

ああ、おかえりなさい、と暢気に言ってる場合ではなく、彼の者は明確な破壊衝動でもって活動を始めるという。

そして、その知能はゾンビのように生き物にだらしなく襲い掛かるごときものではなく、生前と同じ状態だという。

とても危険といえる、とのことだ。



順序が名前の並びではないが、ゾンビについて。

知っている人は知っていようが、ゾンビとはあの墓場から出てきた腐った奴の名前ではないそうな。

ゾンビとはそもそも、ブードゥー教の蛇神の名前で、あの腐った奴らはそれの奴隷ということだそうな。

そのブードゥー教の刑罰で、ゾンビの奴隷を作るというのがある。

刑罰者の靴に、毒を仕込む。フグの毒と同じ成分、テトロドトキシンというのを含んだ粉で、これをゾンビパウダーという。

それが皮膚から浸透していって、心頭に達すると。ダジャレは無視して、毒が回ると刑罰者は死んでしまう。

心配機能が停止して、本当に一時期死んでしまうのだが、しばらくすると起き上がってくる。

起き上がってくるのだが、上手いこと脳の一部分が死んでしまって、自らの意志を失ってしまうのだという。

そうなると、命令に従うだけの奴隷となるというわけである。

脳というのは、酸素が送られなくなると、大脳新皮質だとかの新しい脳から死んでいく。

個体の生存のためには、前述のレプティリアン脳が死んではダメなので、そうなるわけだが、よもや奴隷を使役する神が蛇である、というのは偶然ではないというところか。


そのゾンビの奴隷というのは、意志はないが、意識はあるということか。つまり本能はあるということになる。


アイクは言う。レプティリアンというのは、常に不安で怯えているが故に、人類を攻撃しているのだと。己たちという種を存続させるために人類を奴隷化しようとしていると。
己の生存を脅かされると思っているというわけだ。

本能しかない、というわけである。一応人の形と脳の形を持っているとしたら、本能しか働いていないといえる。


レプティリアンだとかそれに連なっている存在というのは、「我々こそがこの世の支配者であり、それ以外の種はいらぬ」といって憚っているけど憚らないと。


どこぞのフルータリアンだかは「フルータリアン以外は死んで当然だ」とのたまう。上と変わらん。今ものたまっているかはしらんが。



フルータリアンというのが木を拝んでいるかはしらんが、木を拝んでいるんじゃなくて、木に巻きついて睨みを利かせている蛇を拝んでいるのではなかろうかと、思わざるを得ないのである。


でなけりゃ、さっきの某ベジタリアンの如き憎しみの塊のような言動をする理由が思いつかない。くどいが、世のそういう人が全員かはしらんぞ。



その脳は腐っておらず、健全に活動していると思われる。だがしかし、「明確な破壊衝動」としか形容できないものに突き動かされている。

まるでレブナントである。ゾンビの奴隷レブナント、とでもいうか。


不安に彩られているからこそ、妙な美辞麗句で飾り立てているのだろうな、と感じるしだいである。

地球を極楽にしよう!だとかなんとかいっておった。


不安を「美辞麗句」で払拭するのは、いたずらに不安を増大させているに過ぎないのである。

不安を解消するために生きているが故に、いずれは不安そのものになるわけだ。

その根本が蛇だというわけで(脳みそと指定して言うならレプティリアン脳)、まるで蛇に睨まれた蛙という訳である。


タメキヨの如きは、木乃伊盗りが木乃伊になったのだろうか、などと思ったが、なんのことはなく、そもそも木乃伊だったということである。

カエルだけにケロッっとしてる、ということもないのである。もうお家にケーロケーロ。


では、よき終末を。


白状な薄情

2016-02-23 | 雑記
ことあるごとに「ブログ更新やらん。ラヂヲ(ラジヲでもラジオでもないぞ)はもうやらん」と何度言ったか思い出せぬが、ブログの更新は細々と続いてきた。

そして何を血迷ったか、先日マイクを取り出して何やら吹き込んでいたりしたものである。


きっかけは先日着ていたコメント。ついでにその話をしておく。


さて、その内容はというと、ラヂヲ(ラジヲでもラry)を撮ってくれという嘆願コメントであるが、こちらも返答に困る。

どういっていたか。

話す内容はなんでもいい、あんたの話は暇人を集わせる力があって、それが好きだから、撮ってくれたら真剣に聞く、とのこと。


わしは以前言っていた。しゃべるのが目的であって、伝えるのは二の次だと。

そういう気持ちもないではないが、何か、もしくは誰かに語りかける以上は、何事かを伝えようとしている。こうやって書くこともそうである。


大体、内容はなんでもよくて、わしが喋っているだけでいいのなら、前に公開したのを聞くのがよかろう。


テレビに出ているような評論家のような月並みな言い方はしたくないが、ネットの共有幻想とでもいうやつではないかな。

己と似たようなことを喋っている人がいて、他にもそれを聞いている人がいる、自分は一人じゃない、寂しくないんだ!というような論説だったか、そういう状態ではないか?と

人をアイドルにしたて上げるのは、望んだ相手だけにしてもらいたいものである。偶像崇拝という危ないと聞く道もあるよーなんで、お好きなよーに。


さて、ラヂヲについてだが、没にした。没にしてなければ、上のことが最初に吹き込まれていた。書き起こすことになるとは思わなんだが。


まだデータ自身はこれを書いている時点では残っているが、どちらにしても出す予定はなくなった。やり直すかもしれんが、すぐにはやらないだろう。


没の理由としては、「出来が悪い」からである。


まあ、元々出来の悪いやつの下手糞な仕事ではあるので、さもありなんではある。


もうちょっと踏み込んで、何が「出来が悪い」のか、少々書こうと思う。



以前引用したりしたこともある、シュタイナーという人物。


どこかのナチスやヒトラーのことを書いてあるサイトで紹介されていた。

度々引っ張り出したりしてたのが、「光の霊たちは云々」と語った講演の一節である。

ヒトラーの出現を予見してただとか、ヒトラーが本当に殺したかった相手だとかなんとか言われているこの人物。


何か妙だ、と実はあまり思ってなかったが(そもそも著作を読み漁ったわけでもない)、ばかばかしい繋がりが浮き上がったので、ご紹介しておく。


シュタイナーは人智学という学問を設立したのだが、その直前は何をしていたかというと、神智学協会というところにいて、そこで講演したりしていた。

まんま『神智学』というタイトルの本も出ている。Wikiにも神智学協会と仲良くなって、講演したり会員になったとかちゃんとあるので、気になったらGo!


さて、その神智学だとかいうの。つまるところ、オカルトである。Wikiだと、神智学と<神智学>と分けて書いてあり、似てるところはあるけど別物、という説明がされている。

どれくらいオカルトかというと、ニューエイジ、その後に続くスピリチュアリズム、これらの源流であるそうだ。




ニューエイジのグルとでもいうような人物達が国連に名を連ねていたりする。と、こう書けば、詳しい人にはこれ以上説明をする必要はないレベルである。


その神智学、Wikiどおりにいったら神智学協会というのは、それの思想の中核を担うような人物の文章だかを紐解くと、正体が見えてくるだろう。

例えば、ブラヴァツキー夫人だとブラヴァッキーだとかいう人。設立に関係していたのだが、「実は神が悪魔でルシファーが神なんです!」てな内容を書き連ねている。

で、「神をぶったおせ!」となる。


長くなるので簡単に示したが、これでちと悩んだわけである。悩むといっても、フロイトが自説をユダヤの戒律故に捻じ曲げざるを得なくなって三日ほど固まった、というのにはまったく及んでないので、ご安心を。


となると、この文章も違って聞こえてくる。

 「〈光の霊たち〉は今、人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている。

それに対して〈闇の霊たち〉は人種的、民族的な関連、血に根ざした古い衝動を現代に甦らせようとしている。人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません。」



そもそも、イルミナティってのは、火だか光をかかげるもの、という。イルミネーション、というであろう。

安易に光だの闇だのというのはおかしいな、というわけである。


そして、ジョルジュ・ヴァタイユの言うとおりなら、神といい聖なるものというのは本来、清いものという側面だけでなく、おどろおどろしいとでもいうような悪魔的とでもいうような側面も同時に持つものだったというではないか。


そういう話をしてきてて、これではなぁ、となったわけだ。いやはや、何も喋りたくもなくなる。


というわけで、人種、民族、血統の理想をフルータリアン的にはびこらせるのはきっと正しいのですナァ、などとほざいておくことにする。

ぬう、実に白々しい書き方だ。



喋っても書いても上手くいく気がしないが、ともかく書くことにする。



例えば、日本人が英語を理解するにはどうするか?

この日本語は英語だとどういうのか?とか、この英語は日本語だとなんというのか?となる。

日本語の表現ですぐれているところもあれば、英語にしか出来ないようなすぐれた表現もあったりするだろう。

そういう理解や考え方の下地になっているのは、日本人の場合は日本語だというわけだ。

微妙なところを無視して「日本語がすばらしい!」と世の中いってたりもするが、好みである。

日本語って妙な意味ですごいなぁと思わなくもないが、それが優れているかどうかは別問題である。


これを言語じゃなくて、人種とか民族とか血統とかにしてみよう。


日本人は日本に住んでてそれに適応した生活をしている(らしい)と。

西洋人は西洋に住んでてそにれ適応した生活をしている(らしい)と。

人間はそもそも暖かいところに住んでいて果物を食っていた(らしい)と。

だから人間は果物を食べるべきなんですぅ、というわけだそうだ。


この言い草がシュタイナーの言う闇の霊だかなんだか、そういうのは抜きにしても、変だなといいたいわけである。


つまり、日本人が英語を理解する手段として日本語を使うのと同様で、人種だとか民族だとか血統というのも、認識のための手段に過ぎない。

地球は今もって寒冷期という話すらある。寒い環境で生きる手段を講じてやってきたのが今に繋がっている。

その当時の手段だったものを理想とのたまうのは、英語の勉強をするのが目的なのに日本語の優れた点を称揚するようなものだといえる。


日本人だとかアメリカ人という表現だとわかりにくいので、言い換える。

現代を生きている人というのは、現代人という人種だとか民族だといえる。

現代に起こっていることは、現代人としての立場から理解して対処していく以外に出来ないのである。

成人した日本人が英語を勉強していくようにだ。

英語を勉強するのに、いかに日本語が優れているのかを確認する作業に徹してどうしようというのか、である。

果物を食っていたのは当時の「現代」である。現代ではない。

そこを忘れると、その当時の「現代」を称揚しているつもりが、現代を賛美しているだけになるのである。口でいくら罵っていようが、である。

英語の勉強をしていたはずなのに、日本語や日本人がいかに優れているか、という妄想に耽溺するように。

地球が暖かくなってどこにいっても果物が生えてて、とかいうようになったらしらんが、明日なるもんでもない。恐らく。

未来に生きているらしいが、未来にあなたは生きてはいない。現代しかないのである。


とはいえ、現代。これまた難解である。


何度も書いたが、英語の勉強しながら、母国語が、母国が世界に冠たる!となりやすい現状である。


何か突拍子もないような話を聞いたとして、「常識と違う」といって詳しく聞こうとも考えようともしない状態というのが、まさに上に書いた「英語の勉強から逸れる」話である。


現代に耽溺してはいけない。それもまた、「英語」を勉強する時の手段となっている「日本語」なのだから。「日本語」がいかに優れているかなどというのは、宗教団体の集会ででもやりなされ。


つまり、生きているというのは、常々「英語の勉強」をしているようなものと言えなくもないというわけである。それはまた、年がら年中逸れ易いという危うさの伴ったものである。



とまあ、喋るつもりだった内容をもう少しまとめて、まったく違う展開にして書き上げてみた。

ラヂヲのほうでは「頭を使って考えろ」などと言っておったが、こういう風にしたほうがよいかな。


ベンヤミンという学者はシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」とのことだそうな。1920年代である。


前近代というのを無意味な物と思うのもまた、上記の如しかもしれぬとしつつも、その台詞だけは頂いておく。

現代人における血統の理想を称揚するのは、「前近代への願望でしかない」のだと。

タメキヨだとかその手の人たちの理想というのが実になるべきものだというのなら、それはそれでよかろう。

だが、その当時の「現代」を称揚することによって現代を賛美している理屈から離れているようには見えないのである。

それが行き着く先は、「自然を装ったNWO」じゃなかろうか、と考えている。「理想を追求していったらイルミナティになるしかないだろう?」などと言っていただけのことはある。

彼の物がイルミナティに理想を抱いてそういったかは、今となってはわからぬ。例え話の解答のようなものだったから。しかし、もしかしたら、「我こそが理想のイルミナティ」と思っているかもしれないな。

状況に流されて果物を食っていた(らしい)過去の人類の立場から、同じく状況に流されて生きている現代の人類を嗤いたがる。どちらも大差無し、と思わざるを得ないのである。


では、よき終末を。


地球狂の詩 外典

2016-02-01 | 雑記
辛撚あけましておめでとうございます。

今年も辛くてねじれた徒死になりますように。

書いてて面白くなかったが、このままでいく。そもそも、もう二月である。


さて、ラヂヲはもうやらん、と言ったとおり本当にやらなかった。恐らくここの更新もやらんだろうと思ったが、思い始めたらまた書いて、という感じではあったのだが、今回までは久々に長い間書かなかった。

こんなもん書くくらいならゲームやってるわい、とのことで、書く気などなかったのである。


まあ、ゲームのやりすぎだ落ち着けよ、といわれそうな記事を書いたりはしたものである。むしゃくしゃしてやったが反省はしない。事実は事実である。


書かなかった理由のもう一つとしては、人に何か伝えようなどというのではなく、何か見て思いついたら、そこで自身がわかれば十分だと感じたのもあった。


とはいえ、前から書いてみようかと思ったこともあったので、リハビリついでに何か書こうと思い立ったのである。最近、記憶が曖昧になってきてのぉ。歳でのぅ。徒死しそうぢゃわい。


さて、このブログのおさらいをする。


何ゆえ!?いや、意味はない。


かつては付き合いで始めた、ゲームのブログ。ゲームだけじゃないが、始まりはそういうものだった。

で、数年前の出来事についての裏事情を暴露する記事を乱発、ラヂヲ(喋ったのを動画サイトにアップしたもの)もわけのわからん時間収録したのを発表などなど。

その縁で、「被害者の会」を設立したのである。設立した覚えは無いが、わしともう一人のささやかな会が出来たらしい。おさらいはまあ、このあたりで。

猿、じゃなくて然る人物達からの被害の会である。特定個人の名前をつけてもいいが、わしはこのことは既に個人そのものではないとの認識なので、「お然るさん」がやってた陰謀論からとって、名付けることにした。

「無自覚イルミナティ被害者の会」と。

あの「お然るさん」が自覚しているのかしていないのか、そもそもイルのかイナイのかわからんその存在と変わらん思考及び嗜好と言動なので、こういうことにした。

Beyondなんとか被害者の会でもいいっちゃいいが、あの手の思考回路は別に陰謀論とやらをやってるから出てきているわけではないと認識したがゆえ、である。


そのことに関わる断片的な話は常々書いてきたり、もしくはしゃべってきたかと思う。見直して復讐、ではなく復習すべし、とはいわんが、覚えてたら、『あれかこれか』とやってくれればよい。


余談というやつになるが、被害者の会(仮)のもう一人は、とある宗教団体に迷惑を被っておられ、色々大変だったりするようだ。

で、本当の被害者の会のほうに顔を出したりしておるそうで、そのメンバーの一人が過日、告発本というのか、宗教団体からの洗脳を解いたことについての酒気、じゃなくて手記を出版なされたとのこと。

タイトルは『解毒』という。表紙に黒髪の女性が正面から写っているのが目印である。アマゾンのノンフィクションのカテゴリにあるとのことだ。



さて、話を戻す。


洗脳というが、その手法について伺った。まさに宗教団体の主砲とでもいうべきか!?いや、違うか。

二種類である。三種類あるかはしらんが、分けようがなかろうな。

まずは情報を徹底的に遮断して孤立させる方法。これは例えば、山の中で遭難しているだとか無人島に流れ着いただとか、あとは外界から孤立している山奥の集落だとか、こういう状態でもあり得る。

もう一つは、情報を氾濫させ、受容する側を麻痺状態にして自在にしてしまうというもの。テレビで宣伝しまくって、「これないとダメなんだ!」と不安を煽って買わせるのも同じである。


後で繋ごうと思った話だったのについ言ったが、別に現代生活でも同じなのである。


洗脳とやらは別に宗教団体だとかイルミナティだとか軍隊だとかの国家の機密レベルに関わっている存在だけのものではないのである。


具体的にわかり易いのは、上記の「つい言った」例えの話である。



ではそれと我が「被害者の会」となんの関わりが?となろう。


その話をするには、十年の時を待たねばならぬ・・・。捲土重来を期待してぐっと堪えていただきたい・・・。


冗談はさておき。


度々、アリス・ミラーのことを書いた。

カンタンに書くと、親が子供を虐待するのは、その親もまたその親や地域などを含めた社会による虐待の被害者であるという。

アル中の家で育った娘が、結婚してその旦那をついいびってしまってアル中にしたてる、というのがあるが、同じリクツである。

心の傷、とやらを自覚できずに、その疼きに突き動かされ、自他を傷つけるのである。かさぶたが痒いからと引っかいてまた出血する間抜け、というわけである。

病気を作るのは病人である、というわけだ。


おお、つい乱暴なことをいったが、人間はそういう間抜けである。


じゃあお前はなんだ?と食って掛かってくる奴もいるかもしれんからいうが、こういうことを書く間抜けな人間である。存分に罵るが良い。


さて、話を続ける。

「お然るさん」達はいう。

「地球のために生きるのが自分たち生き物にとって正しく気持ちの良いことなのだ!」と。


ここに大きな嘘が隠れている。無自覚イルミナティの無自覚たる由縁である。さあ、皆で考えよう!横取り40萬!


解釈の次第ではあるが、わしの念頭にあること以外も嘘だとは言えるが、そのことは書く余裕があればお伝えするつもりである。



さて、消えない疑問がずっとある。このもの達がのたまう「地球」とはなんなのか?


空を見てください!青くて美しい!鳥が鳴いてる!素晴らしい!!

>>ああ、本日は曇天なり。空ってのはなんだ?空間ではないか?鳥は地球だったか?聞いたことがないな。青が美しいかは個人の美的感覚というやつで。


母なる地球を森を傷つけるのは許さない!

>>掘り返して石油を吸いだしたりするのを傷つけているというならそれはそうだし、木を切ったりするのも確かに傷つけているには違いないが、どう考えても地球の地殻の上のほんの一部である。
そして、木自体は地球ではない。木が根を張ることについては、傷をつけることにはならないないのだろうか?


つまり。

地球と言っているが、人間やらの動物が生きている生活環境と空間のことを「地球」と偽っているに過ぎぬ、のである。


地球というのがどうできてどうやって今に至ったのかは、アイクやらが言ってるのも含めて、仮説の域を出ないとはいえる。


そしてアイクも含め常々こういっている。「過去の地球は素晴らしかった」と。年数やら論拠の違いだけである。


だから、地球はなんなんだ?と。惑星というのは岩石の塊ではなかったのか?と。

惑星の本質が空気だとか水だとか、表面にあるものだというのか?

男性が女装したらまごうかたなき女性になるとでもいうのか?

犬が人間の服を着たら人間か?そんなわけないと、人は言うだろう。


だから、わしは言うのである。そんなわけない、と。


だが、彼らはそうだと、「彼ら」の範疇に特に無いもの達もつられていう。


アリス・ミラーのいう虐待する親の幼少時に身に付けたトラウマというものは、別に人が人に対してのもの、つまり社会だけではない。

自然災害も原因になる。

自然災害とはなんなのかというと、洪水だとか山火事だとか台風だとかを思いつくが、裸で生まれた時にまぶしい太陽にいきなりさらされるとか、原始人が隠れていた洞窟のようにじめじめして空気の悪いところだとか、その子を産んだ親達はなんとも思っていない環境自体が、すでに「自然災害」となり得る。


過去の地球、否、「地球」が素晴らしかったというのは、肯定する以外に選択の余地がない洗脳だったというべきである。

ミラーの記すように、幼い子供はそれが異常なことだったとしても、生命を維持するために従わざるを得なかった。それがトラウマとなって、長じては子を虐待する。

その虐待は社会的に肯定及び推奨されていた。「その子を産んだ親達はなんとも思っていない」ように、当たり前だったのである。冬は寒いのが当たり前、というわけだ。



大雑把にいえば、思い込みである。地球はスバラシイとかいうのは思い込みだと。


するとこう来るだろう。「本来の人間は暖かいところに住んでいたので、寒いところにいるのを好んだりするのは思い込みだ」と。


その個人の好みは措くとして、寒いところにいたという先祖は別に好んだわけでもなかったろうが、上記のミラーの如くである。


体にも洗脳のようなものがあるといえるのか、長らく暮らしていると、例えば性的な話だが、夫婦の営みのことだが、性器の大きさがお互いにフィットするように変わってくるというのがある。


日本人は手足が短い。言われるまでもないが、これは何かというと、寒い地域に適応した結果だとのこと。以前、正反対のことを聞いていたのだが、で、西洋人のように手足が長い方が暖かいところにいたとのことだ。


そんなどこからどうみて純粋な日本人が、本来は西洋人が適している温暖の生活こそ至高!とのたまうのである。それはまさに思い込みである。


彼らの子孫だとかがそうなっていって、地球、いや「地球」がそうなっていった時はそれはそれで構わない。そうなっただけであるから。


本当にその「洗脳」を現時点でお解きになりたいのでしたら、手足を長く、頭を小さく作り変えるべきでありましょう。そのままではさぞお苦しいことでありましょう、と皮肉をいっておく。見苦しいのでな。



さて、わしの立場を改めていっておく。


地球だとか自然だとかを礼賛している「お然るさん」を虚仮にしているが、別に「森を焼き払え!」なぞとは思わない。

文明とやらがその「地球」とやらを汚しているというのは、それはその通りですなぁ、とは思うが、「地球」であって地球ではないと申し述べた。

つまり、現代文明を礼賛するつもりも毛頭ない。現状では便利だったりもするが、面倒である。物質的にも社会的にもだ。


かさぶたが痒いからと引っかいてまた出血するかの如く、元々人間は間抜けゆえに人間であるから、どちらに転んでも間抜けであると思っているだけである。

間抜けゆえにどちらかに転ぼうとするのだろうというわけだ。


とはいえ、転びたくなくても、子供が急に走り出して訳もわからず転ぶのと同じで、こう思うのである。

「間抜けゆえ致し方なし」と。こういっているわしが転んでないというわけではないことを申し述べておく。




自然に培われた本能、などという。

これもまた、「自然災害」だとかによるトラウマなのかもしれない。

本能というのを、自身の生きている環境を保持しようとすること、と言い換えられるだろうか。

いいかわるいかなんぞ最早わからず、「洗脳」されているだけなのかもしれない。

ミラーの記した虐待家庭で育った子供のように、生きるために肯定せざるを得なかったと。


本能という洗脳を一度疑ってみなくては、毒気深入失本心故となること請け合いである。

なにせ、彼らもいっていた。「異常なのが当たり前なので気づかない」と。


まあ、すぐ上に書いたとおりなら、我も彼も毒気深入失本心故、である。


では、よき終末を。