ウヰスキーのある風景

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火皿からこぼれた話

2012-06-10 | 雑記
火皿とは、キセルのタバコを詰めるところ。文字通り火を点けるところである。


というわけで、先日のラヂヲのこぼれ話をやろうかと考えている。それならラヂヲを出した時の記事に書けばよかろうと思われても仕方ないが、仙人には仙人なりのふかあああぁい事情が・・・やっぱりなかった。



では、タバコの話とまったく別な方面から。


締めの音楽を「昔聞いていたJazzの名曲でやろうかと」と、ラヂヲを出す前に書いた。そして、予告どおり付け加えた。


それがこの曲。


Art Blakey and the Jazz Messengers - Ecaroh




あまりTVの話はしたくないのだが、某国営放送局で、先日お亡くなりになった谷 啓が司会をしていた「美の壺」という番組をご存知だろうか。


あれで始まりから流れる曲名は「Moanin'」というのだが、このArt Blakey and the Jazz Messengersの曲である。


本当は導入の部分(終わりのほうでも出てくるが)を入れたかったのだが、うまくいかないので、喋った時間と帳尻を合わせた形にした。


ちなみに、Ecarohというタイトルは、作曲したメンバーのピアニストの名前を逆さにしたものだそうな。


さて、キセルについてやっていこうかと。



タバコを吸おうと考えたのは、ラヂヲでも語ったとおり、Beyond 5 Sensesの影響である。

ただ、手巻きタバコを上手く巻ける自信がなかったのと(今ではさらりと巻いてしまうが)、剣道に茶道をやっていたのもあって、「やるならキセルがいいな」と思ったのである。

ただ、まだ固定観念が強かったのもあって、「勧められているシャグタバコ(手巻きタバコの葉っぱのこと)を吸うことは出来るのか否か」と悩んで、それが確か数日から一週間だった。


キセルで吸うなら専用の「刻みタバコ」であるべきだと思ったのだが、これは一応、悪名高いJT管轄(実際はタバコの葉っぱだけが管轄のようで、JT自体が製造、卸に直接係わってはいないようだ)。

で、気になって色々調べまわったのだが、無添加には違いないようだ。こういう繊細なタバコは保湿剤やらを入れてしまうと返って上手くいかないのかもしれないなと考えたが、湿度管理などの手間が掛かるというのがあるので、そういう面倒くささでもってタバコ(無添加の)から遠ざけようという意図があったのではなかろうか、などと想像している。まあ、そもそもキセルで吸う人自体が少ないので自然消滅するだろうと踏んでいたのだろう。


だが実際、キセルで吸う人は増えているという話である。猫も杓子もキセル、というほどではなかろうが、JTシガレットより美味いし安上がりだと、乗り換える人がいることはいるのである。


タバコはそれまで吸ったことがなかったのだが、刻みタバコ「小粋」を恐る恐る吸ってみたところ、これが美味い。

子供のころに体感した、「シガレット(=タバコと思っていた)は化学合成物質の塊である」というのはなくなっていたが、美味いと感じるとは思わなかった。


それ以来虜になって、たまに灰を吸い込んで(滅多にないが)苦しんだりしながら今にいたる。


キセルで吸うメリットとしては、通常のシガレットは葉の重量が厄、じゃなく約一g。手巻きは調整できるが、レギュラーサイズで巻いて大体0.7g程度になるという。キセルの場合はというと、葉の刻み具合にもよるのだが、大体0.16gだという。六回吸って大体レギュラー一本分になる。

参考はこちら。http://tsugeshinchak.jugem.jp/?eid=21

吸い方はシガレットの吸い方でいくと上手くいかない。例えるなら、スプーンで熱いスープをすする様に、という。


葉がかなり細かい「小粋」は二、三口で終わったりする。慣れると五分くらい持ったりするそうだ。

マニトウのようなシャグタバコを詰めた場合は、それほど意識しなくてもなかなか持つ。吸い終わって灰を掻き出したら五分以上経っていた、というのもざらである。ただ、詰めすぎると吸えなくなるので、落としどころをキセルの火皿に合わせてやりくりする必要がある。


吸い方自体(ある意味吸う以前)に意識、つまり集中力がいるというわけで、ラヂヲの話へと繋がるわけである。


さて、タバコを吸い始めたある日、近所の沖縄そば屋で飲んでいたら、現店主の母君がお店にやってきた。勿論、顔なじみである。


キセルで吸ってたらこういう。「あらぁ、じじむさくなって」と。

「はっはっは、どうせそのうち歳食って釣り合いが取れますよ」などと笑って返した。


我が父にも「老成している」などと評されたことがある。いわゆる世間的な栄達に関心がなかったので、父親としてはそういう所が歯がゆかったのだろう。知人がわしを見て「なかなかしっかりした感じがする」などと世辞を言うと決まってこういう。「いや、まだまだですよこいつは」等等。

父親のそういう「俗世に染まれ」という裏に潜む(裏でもないが)観念はずっと前から感知していたところである。上記の一連のやり取りを見ながら「我が父ながらつまらない男よ」と思ったり思わなかったりしたと、風の噂で聞く。他人事か!

俗世を超越した思想に寄り添っていると信じて憚らない父親が、何故か「俗世に染まれ」と言っているわけである。これほど滑稽な話はあるまい。

俗世を超越したとかいう思想でもって俗世に入り込んで俗世を彼らの思うがままにしていく、という意図もある。なんとか革命といいながら、根本的には何も変えないというわけである。



ずっと前にも同じことを言ったかもしれないが、いったいいくつなんだお前はと。


というわけで、冗談めかして人のセリフを拝借することにする。


子供のころ、デーモン小暮が何かの番組で彼の考えているところを滔々と語っているのを目にした。彼はちょっと笑いながら「デーモン小暮としての」年齢を言っていた。


「十万飛んで二十九歳」と。


まさかまったく同じ年齢になってそんなセリフを言うとは思いもよらなかった。十万飛んで二十九歳で決定。






来年はせっかちに十一万飛んで三十などといっているかもしれないが、一日も一万年も大して差はないのである。では、また。