ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ラヂヲ 十六杯目十三口とヴァージニア

2013-01-31 | 雑記
ヴァージニアといえば、タバコの葉で、シガレットに主に使われている種類。

地名の由来は、確かエリザベス女王から来ているとかなんとか。今の方ではなく、昔の方である。


なんのことかはラヂヲをご覧戴こう。といっても、タバコもエリザベスも関係ない。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目十三口



久しぶりに、イヤホンではなく、スピーカーで音を出しながら編集していたのだが、なんというか、同じものを聞いているとは思えないような不思議な感覚に陥る。

暇と周囲に問題がない方は、是非ともスピーカーでお聞き願いたい。



声といえば、インタビューを特番として次の機会に出す予定だが、インタビューだけでなく、鼎談もある。普段のラヂヲと違い、内容の確認を取ってからの掲載なので、鼎談部分が乗るかは今のところ不明。

普段は自分の声だけしか流れない状況だったのに、他の人の声が入っているというのもまた、なにか不思議というか。



そして、キセルの時間。

野口晴哉の話の続き。

【ラヂヲ】キセルの時間 二服目




聞き比べると、やはりこちらはちょっと声が小さかった。
もう少し編集時に声を上げればよかったが、本編と雰囲気が違うというのを狙っていると思っていただければ幸いである。では、また。

酢豆腐

2013-01-31 | 雑記
落語に、「酢豆腐」なる噺がある。


うっかり豆腐を甕に入れっぱなしにして、酸っぱくなってしまった豆腐を、見栄っ張りの江戸っ子気質の隣人に食わせるというもの。多分、仕返しか何かだと思う。


「これはなんて言うか知ってるかい?」というノリで食わせ、食わされるほうも後に退けなくなって、食べる。

で、これは名物の酢豆腐というのだ、などと。食わせたほうは、「もう一口どうだい」というと、食ったほうは「酢豆腐は一口に限る」と言って終わる。



流石に酢豆腐なるものは現代に伝わってはいないが、現代にも伝わっているもので、江戸の人間の見栄で残っているものがある。


それは、「蒸篭の食後に蕎麦湯を飲む」というもの。


以下、某掲示板に合ったという話を引用する。



話が戻るが、蕎麦は端だけ付けて喰うには訳がある。

元々はつゆに付けたときに丁度良い濃さだったのが、どっぷり付けて啜っていくうちに、蕎麦についた水分でつゆが薄まり、最後にはなんとも寂しい食感になった。

気の短いので有名な江戸っ子はこれが気に入らず、半分も蕎麦をすすると

「親父! 替えのつゆだ!」

そこで一計を案じたある蕎麦屋が濃い目のつゆを作り、

「最初は半分程度つけておくんなまし。蕎麦の香りと出汁の効いたつゆが、なんとも言えないでしょ?」

と出した。見栄っ張りの江戸っ子は、「お、こりゃあ、うめーや。通はこうでなくちゃ」と気に入った。

元々濃い目のつゆに半分しか入れずに蕎麦をすするため、確かに最後まで濃いままで蕎麦をすすり終わった。(こりゃあ、良い方法を見つけたもんだ)蕎麦屋の亭主がほくそえんだ時、「うぇ! 親父! このつゆはしょっぱすぎるぜ!」と江戸っ子。

はて? と見てみると江戸っ子が蕎麦猪口の残ったつゆを飲もうとしている姿があった。慌てず主人が

「これは蕎麦で冷えた体にいいんですよ」
と勧めたのが蕎麦湯。

これが大受けして江戸っ子は、ざる蕎麦は端をつけ、最後に蕎麦湯で割ったつゆを煽るのが広まった。


このページで紹介されていた記事である。

そちらの引用元は、何故書かれていたのか判らないが、2chの軍事ネタを集めた「信じられないが、本当だ」というページの、食べ物に関する雑談から。


当時の蕎麦屋の思いつきから始ったわけで、実際に体を温めているのかどうかは実際のところ不明と言える。(湯で温まっただけではないかと)
血流を善くするといわれるルチンという成分も、実際は不溶性であり、茹で汁に溶けてはいないという。これはWikipediaにあった話。



酢豆腐でなくて実によかったと、今は安心している。



それはさておき。



蕎麦屋を医者だとかメディアだとか、その他なんでもいいので、現代にあるものへ置き換えてみるとどうだろう。


これは天然成分で体にいいんです、だとか、(多くの)研究者がこういっているので大丈夫なんです、だとか、ワクチンを接種して、罹るか罹らないか判らない、その上死ぬ率も低い病気を予防しましょう、だとか。
温暖化とやらの原因が二酸化炭素というのはまったくもって冗談としか言いようがないのに、二酸化炭素を削減して温暖化を防止しましょう、だとか。(「温暖化」の原因というなら太陽活動の周期だったり、水蒸気である)


実のところ、現代人も蕎麦屋の口上をそのまま見栄で受け取った江戸っ子も、さして変わらないのである。



この見栄というもの。別に剛毅でも意地っ張りでもない。他人と違うことを恐れるのもまた、見栄である。



エジソンが発明したトースターを売りつけるために、「三食摂るのが一番いい」と宣伝し、アメリカ人は真に受け、三食摂るようになったという。そいういう口上で宣伝したのは勿論、発明家として当時から名高かったエジソン自身。

その結果だけかは知らないが、肥満が増大して現代に至る。ちなみに、エジソン自身は三食はおろか、パンも食わないで、朝にフルーツを摂るだけだったという。


これまたアメリカで、肉をもっと売りたいからと、ベーコンは体にいいと医者に言わせ(お墨付きを与えるというわけだ)、売り上げを増大させたという。これは、以前、THINKERさんの記事から、ラヂヲで紹介もした、エドワード・バーネイという男の仕業である。


日本にも、諸説あるが、同じようなことをした人物がいる。


土用の丑の日にウナギを食べるという風習があるが、あれは、平賀源内の考案した話だという。


季節の変わり目に栄養価の高いウナギを食べるというのはあながち間違いでもないのかしらないが、ウナギの旬は夏ではなく、秋から冬だという。




伝わったのが酢豆腐でなくて本当にありがたかったと思う。いや、違う。




伝統だとか文化だとか、実際は思いつきで出来上がったものが多いのである。着物が日本の気候に合っている、というのももしかしたら思い込みかもしれないが、まあいいか。



上記で列挙してきたような小手先の考えではなく、身体を使って長年培ってきたものはまだ本物だといえる。全部とは言わないが。


人間、見栄を張るとろくでもない結果になるわけだ。そのろくでもない結果がまるで素晴らしいもののように現在にまで伝わり、「おかしい」とどこか感じつつも、「おかしいと思うほうがおかしい」とやり込められてきた。
それでも「おかしい」という声は暫くは聞こえていたのかもしれないが、それもいずれか消え果てた。

そろそろ見栄を張るのを止めないと、酢豆腐どころではなくなるだろう。



酢豆腐は一口に限る。では、また。

ラヂヲ 十六杯目十二口と新番組(仮)

2013-01-30 | ラヂヲ
新番組(仮)と書いたが、別になんてことはない。


その話はあとにして、まずは本編をどうぞ。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目十二口



気がつけば、この話だけで十二回も続いている。もう少しサッサと出せばこんなに期間ものびのびになることはなかったろうに、と思ったりはするが、考えても仕方ないので、これからものびのびとやりたい。(のびすぎのきらいはある)


今回の部分は、CIAの手口について。ただ、読み上げている記事の区切りというより、こちらのおしゃべりの区切りなので、実は区切りにしようと思っていた章の終わりの半分で止まっていたりする。それで十分ほどとは進める気がまるで感じられない!


内容のネタバレになるが、タバコについて触れている。いや、本編には関係ないのだが。

日ごろお世話になっているきみしぐれさんの記事を、この収録をしていた時期に見た上での話である。かなり旧聞に属するが、記事のリンクを掲載しておく。






本編がとても短くてつまらないかもしれないと思うので(細切れの弊害である・・・恐らく・・・)、新番組を企画。 いや、嘘である。元々やるつもりだっただけである。



以前、「キセルの時間」と称した回で、「野口晴哉とライヒの話を飲みながらうろ覚えでやろうかなと思っていた」と喋った。


忘れたわけじゃなく、タイミングが見つからなかったわけである。なんのタイミングかというと、飲みながら収録できるタイミングという、よく判らないタイミングである。


これまた長い時間喋っているので、細切れで掲載することにしたが、正直どちらが本編なのか判らなくなりそうである。どっちでもいい気がしてきた。

タイトルは簡単に「キセルの時間 何服目」とやることにした。CMも何もかも関係なく数を振っていき、「本編」と同じマイリストに収録する。

飽くまで本編ありきのオマケ、というつもりだが、好きなようにやるので好きなようにご視聴願う。


では、キセルの時間、初のナンバリングタイトルの始まり始まり。


【ラヂヲ】キセルの時間 一服目



背景は、ちょっと気分を変えて、色合いと明るさを落とした「本編」の背景を左右反転したものを使用。手抜きでもあるが、前のもしっくりこない気がするので、しばらくはこれで。



で、このオマケ。


狙った覚えはないが、冒頭で少しだけだがまたタバコの話をしている。その中でWHO、世界保健機構という奴の話で、あるブログからの記事をこれまたうろ覚えで拝借しているのだが、その記事を載せておく。

喫煙至上主義。 : 嫌煙運動の正体。 http://p.tl/J_9a


年代やらは間違えて喋ったが、内容は大体合っているはず。2003年と喋ったが、電磁波過敏症云々の話のことだった。(上記記事参照のこと)

喫煙というより、受動喫煙で癌になると明確にはなっていない、というところなので、「じゃあ喫煙はやっぱり!」と騒がないように。そうやって騒ぎたい人と一緒になって騒いでもアホらしいだろう。


それはほんの冗談として、読んでもらえれば(少々書き方がわざと荒い言葉の人だが)判ると思うが、温暖化と同じ理屈である。

科学的根拠が確立されていない論文だけを持ってきて、それのみを証拠として異論を排し、そして世論を誘導してしまうと。どこもかしこも詐欺だらけである。

次は何詐欺がでるのだろうか、と思ったが、もうこの世界とやらが詐欺なので、何が出てきても何番煎じとしか思わない。詐欺師の方々、お茶を濁すのも大概にしなされ。では、また。

ラヂヲ 十六杯目十一口とキセルとアブラボウズ

2013-01-26 | ラヂヲ
多分、早く出しやがれ!と思っている人が何人かいるかもしれないが、申し訳ない。

それと、こちらに書こうと思ってすっかり忘れていた気がするが、去る一月二十日。

THINKER講演in千葉に行ってきた。ラヂヲで喋ったりここで書いたりする話は、かなり一般的でないレベルの話もあったりなかったりだが、まったく陰謀論というものを知らない人に対して行う講演というのは初めて聞いた。

やはり衝撃を受ける人は多いようで、終了時の講演主催者挨拶で「正直驚いた」という風な発言が出ていた。さあ、五年後はどうなるかな。



それでは、いきなりだが本編を。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目十一口




戦後始ったテレビとその性格、そして誰が仕向けたか、というお話。あと、まったく関係ないようなこちらに先日あったお話(テレビという単語がかかっているだけ)。何を言っているかは聞いてのお楽しみに。



では、CMのキセルの時間へ。タイトルを変更して、独立して出すときは実にあっさりしたこのタイトルに絞ろうと考えている。

【ラヂヲ】キセルの時間




このラヂヲを投稿する前に、そのお店(割烹)についての記事も書いて置いた。というより、このために書いたのだが、お店のHPのリンクはそちらに掲載した。

割烹


しかし、どうしてポスター貼ってもらえたのか。未だに謎である。






※ここからは別の話。



昨日、親がこちらにやってきて、少し話をした。創価関係の話を始めたので、こちらはついに腹を立ててしまい、「そんな話するな!」と言って帰りかけた。

細かいことはまた書くかもしれないが、一つだけ。

怒ったとはいえ、「創価が正しいと決まっているわけではなかろう」と控え目に否定した。だが、何故だか父親は「まあそういうところもある」云々と。


年の功というやつかしらんが、冷静に物を見るような感覚があるのだろうといえないこともない。だが、単なる価値相対主義である。なら、創価にいる必要も無い。

こちらは創価がどうとかいう小さな話でものを考えているわけではない。しかし、両親にそんな話をしても理解するわけがない。石の上に立っていると思い込んでいるだけで、全部豆腐より脆いものの上にいるんだと。


それは措くとして、「そういう風に思っているとは知らなかった」と母親。

散々嫌がっていた子供の頃を見ていなかったのだろうか。そこまで耄碌しているとは知らなんだ。


あまり書くと止められなくなるか、長くなると疲れて途中で書くほうも読むほうもクタクタになるだろうから、ここまでにする。では、また。

割烹

2013-01-26 | 雑記
割烹。

割いたり煮たりすること。

つまり、料理という意味である。割烹はなんだか高級な、というイメージがあるが、実はなんてことはない。料理屋といっているだけである。


ただ、和食自体が戦後の影響もあり、作る人も食べる人も、比べるまでも無く少ない。そして、ファミレスだとかのファーストフードの影響もあるだろう。


細かいことはワカランが、ファミレスのごときものしか行かない者にとっては、遅いし高いしまずい(舌がおかしいことを棚に上げているのが大抵だろうが)で、店自体が消えるかファミレス化するか、高級化するしかなくなって今に至るのだろうと想像する。



さてさて。


駅前に、今で三代目か、それぐらい続く割烹がある。「大衆割烹」となっていたり「天ぷら」とも書かれていて、大学の後輩を連れて行ったら「どっちなんだ」と突っ込まれる、その割烹。


これを書いている日の夜には、落語家を呼んで寄席をやるという。二階は大宴会場になっている。


いい刺身が食えたりするので、ちょくちょく行っている。今の季節は自然薯も時々出てくる。店長自らが掘り出してくるのだそうな(確か、芋掘り名人と一緒に出かけてだった)。



そんなお店になんと、ポスターを貼ってもらえることになった。その話はラヂヲにしてあるので、後ほど公開する。その時の記事からこちらに舞い戻ってくるよう、リンクも貼るが、恐らく、これのすぐ上の記事なので、手間に差はない気がする。


細かいネタはラヂヲで(CMのくせに)延々と喋っている。正直、CMになっているのかどうか、前回の「和」のも含めて実にアヤシイが、近くの方はポスター見物と美味い酒、美味い肴を楽しんでいただければなと考えている。

お店のHPはこちら。仕入れたネタについてはfacebookで書いていることが多いそうだ。

JR西八王子駅北口「割烹 天麩羅 染井」

CM以外で何か書こうかと思ったのだが、編集が終わると何故だか妙に疲れてきた。燃え尽きたようである。仕事まで少し昼寝していようと思う。では、また。


ラヂヲ 十六杯目十口とキセルの時間

2013-01-19 | ラヂヲ
毎度ながら、本編が遅れたついでに、オマケを。

先日、市内のお店にポスターを貼ってもらえることになり、実際に貼ってもらっている。


二件あり、そのうち一つについては先日、記事にしておいた。リンクは後ほど。といっても、これの前の記事である。


というわけで、そのお店の宣伝のような、名状し難いCMで一本のラヂヲを。

それと、本編の二部構成である。


では、キセルの時間から。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目九口と十口の間



もっと手短に話すつもりが、(吹き込み自体も久しいので、長くならないだろうと思っていたのに)長くなってしまった。

これでお客さん増えてくれたらいいね!


それと本編。今日もどこかにたぬきが・・・。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目十口



内容は「戦中戦後の新聞の無責任さ」と、動画説明文に書いたが、無責任というより狙ってやっていると思える。




では、キセルの時間でしゃべったお店のことを書いた記事を下記に。

ポスターのある風景


もう一つのお店については、またキセルの時間を吹き込むときまでには書こうと考えている。では、また。


ポスターのある風景

2013-01-15 | 雑記
前々から、告知を行ってきては特に反応のないポスター。


自棄を起こし(たわけではないが)、馴染みの店に貼ってくることにした。



一枚は、確かラヂヲでも言ったような覚えがある。


昔はここにリンク(どこかのブログだったが)を貼ったりしていたり、店の名前を書くだけは書いたりしていたのだが、この際、どこにあるかをきっちり示そうと思う。

要するに宣伝である。



近所のその馴染みのお店の名前は、沖縄そば専門店「和(かず)」という。町の中心地ではない強みからか、なかなか大きなお店である。チェーンとかいう意味ではなく、敷地が。

別にベジタリアン向けというわけではなく、普通の沖縄そばである。

普通だが、高校の時に沖縄で食べたものより遥かに美味かった。ただし、味の素を入れる!ので、抜いてくださいと頼もう。


そばはもう店の名前からして売りでは有るし、紹介するまでも無い。

それ以外の、誰でも食べられる(好き嫌い抜きとして)もので、色々と実はいいものがあったりする。



上記はカウンターの写真だが、右側に水槽が見えると思う。よくこの前で飲んでいるのだが、この水槽の中には、沖縄名産の「海ぶどう」が沈んでいる。浮かんでいる?


水槽だけ写したものがこれ。

取り寄せる際にも、温度管理をされており、海水と同じ濃度の水を張ったこの水槽に入れてある。熱帯魚や金魚はいないが(時折、まぎれた海老が泳いでいる)、水を循環させている。

海ぶどうを飼っているかの様相である。

こちらも、店の兄さんも、海ぶどうというのはこういう味だと思っていたので、他の基準がよく判らなかったのだが、ある日、他のお客さんが帰り際、こう言っていた。

「コストコで買った海ぶどうは臭かったけど、ここのは美味しかった」と。

店の兄さん曰く、大体のお店のものはパウチだったりするので、いかんせん、鮮度が落ちるのだとのこと。

もずくなんかも、これまた粒が大きくて、一度食べてみるとよい。もずく酢となっているので、味はもうつけられているが、スーパーで売っているような馬鹿げた酸っぱいものではなく、もずくの味が判るものである。

スーパーでもずくを買うというようなことはもうないが、このもずくは別格である。沖縄のもずくは大きいようだ。

最近は日本酒に凝っていて、色々と取り寄せている。一緒に試飲したりしていた。熱燗もやりだしたそうな。

本当は客に見せるものじゃないがといって、取り寄せ可能な銘柄の一覧を見せてもらい、「これ入れよう」と提案して、入れてもらったりしたものである。

ちなみに、頼んだものがこの日には入るだろうと聞いて、その次の日に行ったら、半分以上なくなっていた。客にガンガン勧めたそうだが、皆美味いと言っていたそうな。

沖縄そば専門店というのは、店を作った親父さん(今は息子である現店長に継がせた)の意向だったそうで、実はお酒をメインに扱いたいのだとか。泡盛も数多く仕入れてある。

ちなみに、こちらが好みの泡盛は、泡盛が苦手な人にはまず飲めないタイプのものである。


店主はfacebookはやっているが、HPは持っていなかったと記憶している。

まいぷれ」という、地域情報サイトに乗っているので、そちらを紹介する。こちらへ。

見ると判るが、住所などの情報を。

193-0823 八王子市横川町105-77

営業時間は11:00から22:00 場合によっては早く閉めることもあるので、午後9時ごろなら、電話で確認するのが無難である。

定休日は水曜

電話番号 042-627-6755

ポスターはというと、カウンター向かって左奥にある。

店の写真を少々並べることにする。


まずは入ってすぐ。ここを左に行くとカウンター。右が座敷。



左を向いたところ。見えないが、左の窓側はテーブル席になっている。


で、このままずっと奥に行くと、トイレへの入り口があり、その手前で右を向くとある。




ここまでしつこく書くと、お店の宣伝なのかポスターの宣伝なのか判らなくなって来たが、ここの馴染みの人が何人か発見したりしている。

別のお店(そこでも常連さん)で会った時、突っ込まれたものである。

そんな縁もあってか、別に頼み込んだわけではないのだが、もう一つのお店にも貼ってもらえることになった。

そのお店に貼ったことについて、ある人に「よく貼ってもらえたね」と言われ、首を傾げてしまった。なぜだろう?自分でも判らない。


それは措くとして、沖縄そば専門店「和」に感謝である。ありがとうございました。


もう一つのお店については後日。では、また。

ヘビのスケール

2013-01-15 | 雑記
今年は巳の年。

去年は龍で、今年は蛇。スケールが小さくなった気がしないでもないが、色々聞くと、そうでもない気がする。

全世界に干支があるわけではなかろうが、2013年でヘビというのは、狙っていたんじゃないかと思ってしまう。


去年からよく行く市内のタバコ屋には犬がいて、というのは関係なく、年賀としてのライターにもヘビが描かれていた。


ヘビだらけだなぁと。


確か、正月の鏡餅の形も、ヘビがとぐろを巻いた姿をかたどっている、という説がある。


やっぱりヘビだらけなんだなぁと。



というわけで、ヘビのちょっと面白い話を少々。



ヘビは顎が外れるので、自身より大きなものを飲み込んで食べる。食べるというより飲み込む。実に胃腸は快調のようだ。何せ真っ直ぐだから。


アナコンダだとか、場合によっては人の身長よりも長くなる種類は、獲物に体を巻きつけ、締め上げて動けなくし、それから飲み込む。ゆっくりゆっくり。

これが現代人の忘れた、スローフードでホールフードのスタイルであろう。丸呑みは流石に真似できないが。

代わりに小さいヘビは、獲物によるだろうが、巻きつけないので、牙に仕込んだ毒で相手を動けなくし、飲み込む。ゆっくりゆっくり。

しかし、自分の撒いた毒で自爆しないのか?と思うだろうが、主成分がたんぱく質であり、丸呑み状態だと関係ないのだろう。

飽くまで傷口から入った場合に、神経や細胞組織を破壊する働きをするというわけで、焼いたり煮たりすると無害になるのだとか。いや、食べようという話ではない。

そうすると、胃にそのまま入った場合は、胃酸で無害化してしまうのだろう。もしくは、河豚と同じかもしれない。河豚には、河豚毒を無害化する酵素が体内にあり、仮に共食いしても河豚は死なないという。


余りに大きなものを食べて、体の真ん中がぼってりしてしまう姿を稀に見つけられ、それが「ツチノコ」と称された、などともいう。

自分の体のサイズを変えてしまうほどというのは、なんだか愛嬌がある。



さて、そのヘビが、かつて途轍もない戦いを挑み、相討ちをしたという。

ワニを飲み込むが破裂したニシキヘビQuirky!!ニュースレポート http://p.tl/gs7y

自然界ではないことのようだだが、ワニまで食べようとするとは。ちなみに、上記の記事では、ワニも死んだそうな。


さて、こちらはツチノコどころではなくなったヘビ。

実力以上に頑張るニシキヘビ。雌羊を飲み込む。Quirky!!ニュースレポート http://p.tl/gol4

頭の形が羊になっている。実にメンヨウな姿である。

こうなると動けなくなるので、捕まってしまったそうな。記事によると、動物園に保護するか放すか決めかねているとのこと。

クイーンサイズの電気毛布を飲み込んでしまったというのもあるそうで、手術したそうな。毛布が美味そうに見えたのか、誰か引っ張って動いたので反応したのか。そこは定かではない。


ヘビのエピソードとしてはちょっと違うが、『整体入門』で、「ハミに噛まれた」と言われ、「愉気やったらいい」と教えたら、大丈夫になったという。

で、野口師は「ハミってなんだっけ?」と思っていたそうだが、その地域にいる毒蛇の呼称だったと後で知り、少し驚いたそうだが、こういうのでも効果があるんだなぁと言っていたそうな。



ヘビはなんだか怖いイメージがある。生理的な恐怖というわけだが、それなのに、宗教のルーツを探ると、ヘビ信仰にたどり着くという。冒頭の鏡餅は氷山の一角である。



では、信仰するというのはなんなのかを考えてみよう。


祭り上げるということは、それが優れているから、というのは想像がつく。

しかし、優れているとは必ずしも(人間にとって)良いものというわけでもない。

良いとか悪いというのは一側面を切り取ったものでしかないので、総体的に見れば、どれもこれも良いといえる。別に言葉遊びでやっているわけではない。


エタとかヒニンという差別階級というのが、かつて日本にあったが、このエタというのはそもそも、「」と当てられたのは後になってからだという。

それまでは、畏敬と畏怖が混在した、ありがたい存在であったのだが、いつしか畏怖のみが取り残され、差別階級にされたという。

穢れという概念も、もしかしたら、汚いだとかいう感覚だけではなかったのかもしれない。(そもそもが物理的に汚いという意味ではない)


それが意図的になされたのか、それとも自然になったのかは判らない。ただ、そういう二面性のある存在を、意図的に分離してきたであろうというのは指摘できる。


ジョルジュ・バタイユが言うには、「聖なるもの」と現在考えられているものは、清く美しいことや正しいといったことと同義になっているが、本来はそれと正反対ともいえる、汚らわしく混沌とした荒々しいものをも持ち合わせていたという。
キリスト教はそれを分離し、前者の部分だけを聖なるものとし、それのみを信仰対象へと変えたと述べる。それ以外の部分は否定すべきものとなったわけだ。

これは、聖書の中でも伺えることで、所謂、旧約と新約に分かれている聖書だが、新約では悪魔が行った所業となっているところは、旧約では全て神の所業とされている。


つまり、神も悪魔も同じ存在であり、二面性をもった同一のものなのだと。


それがヘビ信仰とどう関係があるのかというと、こう考えられるのではなかろうか。


ヘビは毒を持っていたりして怖いけど、その毒の力はすさまじい。姿の見えない獲物を見つけ出す能力は人間では遥か及ばない、となる。

卑近な例だが、ネットなんかでちょっと凄いなというものに対してすぐ「神」と呼んだりしているのを見かけることが多いかもしれない。

日本人にとって、カミと呼ぶのは、尊敬できるところがある存在、という感覚であるといえる。

で、姿かたちは判らなくなっていったが、祀られたヘビに対する畏敬の念が、今の信仰に陰に陽に残されていると。

ヘビの姿は怖いが、能力は凄いので敬うべきであるとなったのではなかろうかと。形骸化の反対というべきか。成文化が近いようだが、なんだか違う気がするので、とりあえず。



ほとんど『ムーマトリックス』の巻末コラムから持ってきたようなもので申し訳ないが、もう少し続ける。



ヘビ信仰が爬虫類神に植えつけられたもの、という所から考えると、自分達(爬虫類神)を奉ってもらいたいが、本来の姿そのものを知られたままだと困る。何かの拍子に悪事が露見したら、ボイコットされるだろう。

というわけで、姿かたちはぼやかして、崇拝の念だけは向けさせると。氏神や道祖神を拝んでいるのだと思ったら、実はヘビを拝んでいたというわけである。まったく別物だとダメなので、象徴は残すと。

本来、何を対象にしていたのかが判らなくなって(させられて)いるのである。ヘビだと判って拝むならまだしも、詐欺である。


これまた『ムーンマトリックス』からだが、縄文土器にヘビを模ったモチーフが見られたり、土偶の顔がヘビだったりする。本来の信仰対象はヘビなんだというのをほのめかしているのだと言われている。

ほのめかしというにはあからさまな気がするのだが、当時のヘビさんたちはどう思ったのやら。「わしはもっと男前だ」と言ったり・・・はしないか。


ノストラダムスの予言というのがある。恐らく主流の解釈ではあろうが、予言に見立てた、当時の王侯貴族への批判だったという説がある。検閲逃れというわけだ。


縄文人や他の古代の人間がどう考えていたのかは分からないが、「ヘビって言うな。書くな」と言われて、冗談だが、こう思ったんじゃなかろうか。「えー、ヘビでいいのに。可愛いのに」とか。

仕方がないので、検閲に通るレベルで、そこはかとなく判る形で描いたというわけである(ヘビ成分0でもダメだから)。「ヘビのような顔をしていますが、ヘビではありません」というわけである。

「遺伝子組み換え作物が5%以下ほど混じってますが、遺伝子組み換え作物は使ってません」というのに似ている気がする。(加工食品などの原材料表記は実際そうなっているという)



こうして…世界は平和になったのである…。いや、違う。



じゃあ、ヘビって恐ろしくて陰険で、悪いやつなんだな。懲らしめよう!となるのはよろしくない。バタイユの言説を読み直していただこう。


「聖なるもの」を、単なる信仰箇条や対象というのではなく、もっと大きく見てもらいたい。大きく見るというより、区別しないで見るということである。

旧約聖書の神は、新約でいう悪魔の所業も行う。バタイユの言う、「聖なるもの」の本来の姿である。聖書自体がどうこう、というのは取り敢えず忘れてもらうとして。


つまり、善も悪もないのである。都合が良ければ善で、悪ければ悪、である。時々で解釈がころころ変わる。

変な例えだが、電車に乗り遅れると慌てて歩いているとしよう。ところが、石ころに躓いて電車に乗り遅れた。なんて邪魔な石だ!となるだろう。

しかし、その電車が事故になって、普段自分が乗っていた場所にいたら、死んでいたとなる。

その石は悪いのだろうか?いや、悪くない。しかし、別に善くもない。敢えて言うなら「躓かせてくれてありがとうございました」と感謝を述べるところである。

石は古来、石器に用いられたりする(人間の都合で)善いものでもあったが、路傍にあると(これまた人間の都合で)障碍となる。しかし、石には違いない。


別に死になさいと言っているわけではないが、石に躓くことなく電車に乗って事故に遭って死んでしまうのも、これまた善でも悪でもない。

狂った現代文明とやらに殺されたといえるので、善くない気はするが、生きていることは善で、死ぬことは悪というのも、都合である。



ヘビが悪いのでも石が悪いのでもない。聖なるものを分割すること自体が悪なのだといえる。分割といったが、つまりは真っ二つにしたわけだ。

本来、分かたれるものではないものを割ったのである。歪にならざるを得ないというわけだ。



はて、何の話だったか。ヘビの話だった。


ヘビを見て怖いと思うのは当たり前である。そう植えつけられたから。しかし、何故怖いのかを感じ取らずに、ただ怖いと言っているのでは、お互い可愛そうである。

だからといって、ヘビを可愛がれ!ハミに食われたら愉気だ!というわけでもないので悪しからず。ヘビもいきなり撫でられたら、毅然と対応するだろう。

可愛がるご趣味の方はどうぞそのまま末永く可愛がっていただきたい。



では、最後に。


大雑把な分類のようだが、爬虫類というのは変温動物と言って、環境の温度に合わせて体温が変わる。哺乳類などは恒温動物といって、基本的に一定に保っている。

ある程度温かくならないと体が動かないのである。人間にも、寒くなるとコタツに入りっぱなしという変温動物染みた人もいる。家にコタツはないが、寒い休みの日だと布団に入りっぱなしだったりする。


それ(コタツのことではない)のせいかは判らないが、「冷血動物」と言われたりするとかしないとか。人間の目からしたら恐ろしい生態のせいでもあろう。人間にも以下略。



そんな冷血なヘビは、とても愛情深いようである。


彼らの交尾は、一日以上に及ぶ。純粋に交尾している状態だけで24時間だとか。

その時、彼らは何を考え、何を感じているのだろうか。多分、「頭」を使うようになった現代人には想像がつかないだろう。勿論、こちらにも想像がつかない。


そんな愛情深さが、毒で仕留めたり、締め付けて意識をなくしたりしてからの丸呑みにあるのではなかろうかと。

ライオンなんかは丸呑みしないが、食べられるだけ食べたら、放っておいて、微生物なども含め、他のものに食べさせている。これも一種の丸呑みであろう。

恐らく押し付けられた宗教だろうが、その愛情がなんとなく感じられるので、至る所でヘビ信仰が存在し続けているのかもしれない。ことはそんな単純なものではないだろうが。


そう考えると、ヘビが怖いのは、「愛情でもって丸呑みにされる」ことを覚えているのだが、聖なるものは分かたれているので、その分離された善なる部分としての愛情以外を理解できなくなっているからではなかろうかと。

死んだらヘビに丸呑みにしてもらう、というのも面白いかもしれない。ヘビが嫌がるかもしれないし、そもそも日本にそんな大きなヘビはいなかった。単なる思い付きである。



子供の頃、用水路に落ちたヘビに石を投げていた。ヘビは上がろうとするのだが、上がれない。そして、自分たちが邪魔をする。


そうするうち、自分のか他の誰のかはわからないが(自分のだったと感じている)、石が命中し、ヘビは絶命した。


ヘビは怖いものだし、その壁を上がりきるとすぐ民家なので、そのまま川の方まで行ってもらおう(そのまま数十メートルほど流れていけば川に繋がっていた)と思ってはいた。だが、半分は殺す気だったのだろう。とはいえ、首が曲がり、血を流して動かなくなったヘビを見て、一同はお通夜のようにうなだれてしまった。


ただ単に怖いだけなら、排除完了でさっぱりしたものだったろう。どこか人のいないところに行ってもらおうという意図がある程度ありながら、殺す気でしかないような追い立てをした挙句に殺してしまったとはいうものの、何かひどく自分自身を傷つけたような、後味の悪いものを覚えた。


本当に怖かっただけなのだろうか?それなら、皆、思い切り狙って石を投げていたに違いない。記憶は定かではないが、川まで行ってもらおうと提案したか、されたように思う。


ヘビとは不思議な生き物である。子供の頃、犬が怖かったのだが、それとはまったく意味が違うところがあるなと、思い出話を書きながら感じたところである。



さて、結びが妙だが、長くなったので、ポスターを貼ってきた話は次の更新にする。今日中の予定である。では、また。


ラヂヲ 十六杯目九口 

2013-01-09 | 雑記
ちょっとおサボりが過ぎたので、本編だけで少し長めに。

単に話の区切りがいいところを探したら長くなった、というだけの話ではある。

記事の内容に関係ある話を次に持っていくのも考え物だなというわけである。


あまり関係ない話は放っておいて、本編をどうぞ。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目九口




















※以下はなるべくなら視聴後に。

本編に絡んだ補足を少し。


三面記事の話で、どう考えても三面記事の話ではないのだが、南京の話をした。

「当時、日本軍が占領して虐殺があったら、毛も蒋も非難してたろうに、しなかった」と。

ナチスのように計画的に虐殺した、というのはなかろうというのが現実的な解釈ではないかと述べた。


即日発禁処分を受けた、南京事件を記した『生きてゐる兵隊』の著者、石川達三は、死屍累々だったと戦後のインタービューで述べていたり、南京での出来事を別の戦線での出来事として書いた、と述べていたという。

のだが、逝去三ヶ月前、闘病中なので阿羅健一のインタビューを断りながら、こう返事をしたという。

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大虐殺の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終らないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」
Wikipediaより


石原慎太郎も、石川の生前に話を聞いたそうだ。すると、「あれはよくわからんなぁ・・・」と困ったように呟いたとかなんとか。


インタビューを受けたのは戦後すぐ。1946年である。別の戦線の出来事として書いた、というところは、インタビュー記事が出て数日後、国際検察局とやらの尋問を受けた際に述べたという。

極東軍事裁判というのは、あることないことでっち上げて、あたかも魔女狩りの如くであったともいわれる(戦勝国が敗戦国をつるし上げるのは当たり前、なんぞといわれるが)。

裁判になってようやく、南京事件だか南京大虐殺だか忘れたが、そういう表現が出てきたともいわれる。


その辺りは込み入るし、本編とは関係がないので割愛するが、戦後直後、石川は「言わされていた」可能性も考えられるというわけである。

戦後の情報操作は、我々が想像する以上に激しかった。笑い話のような例だが、進駐軍の兵士が日本国内で犯罪を犯したとき、米兵だとか言わずに「大きな人」と書かされた、などとある。笑えはしないが、新聞にそう書かれていたというのを想像すると、笑い話にしか聞こえない。

しかし、逝去前の言葉が真実だったとしても、その時点で四十年近く。GHQのプロパガンダは隅々まで広がっていたのである・・・。






と、ここまで書いたが、戦争なんぞはそもそも両陣営を裏から操る誰かさんの計画である。

ナチスだろうが連合国だろうが国共だろうが関東軍だろうが、アジェンダに則った「計画的虐殺」をやっていたわけだ。

それに乗らなかった人もいたが、日本の場合は天辺にいる奴がどうしようもなかった。その辺りはBeyond 5 Sensesの「2・26事件の全容を知り、天皇の呪縛を解こう」に詳しいので、ご一読、もしくはご一聞を。

その目くらましでナチスが取り上げられたり、南京事件が取り上げられたり、さらにその目くらましで原爆の話になったりしているだけである。

個々にドイツや日本やアメリカやロシアやイギリスをを非難しているだけで、根本的な解決に至っていない。

目を左か右に向けさせられているだけで、真ん中が見えていない。真ん中を見られたら困るからである。


新聞をお読みになるのならば、右や左を見てないで、真ん中を見ればよい。

広げた新聞の真ん中の閉じの部分は何も書いていないので、とても快適である。では、また。

フルコース

2013-01-08 | 雑記
先日、なにを調べていたのか判らなくなったのだが、とあるサイトで「禅病」なる言葉を見かけた。


色々エッセイ風に書いてあるサイトで、その禅病について詳述していたわけではなく、それに絡めて何かを書いていたのだと記憶しているが、そこは措く。



そんな言葉があるのか?と、気になるとつい調べるので、検索するとすぐに出てきた。


日本瞑想協会公式サイトにこうある。


禅病”という言葉を聞いたことはないだろうか? 禅病とは、禅宗から出た言葉で、禅の熱心な修行者に現れる病気のこと。
瞑想をしていると体の具合が悪くなった。瞑想を生活に取り入れたら、日常的に体の具合が悪くなった。という、経験があるとしたら、それが禅病だ。 瞑想の初心者でも、人によっては禅病に襲われることがある。

禅病の症状

禅病の症状は、
・頭痛
・喘息のように咳き込む
・胸痛
・心痛
・額に冷や汗をかく
・冷えのぼせ
・神経過敏
・幻覚
などがある。

瞑想の方法と禅病対策より


確かに、こういうものが毎度出てきたら実に病的であろう。

原因についてはこういうものがあるのではなかろうか、という推測が以下。

原因は、瞑想しているときに、
・「無心にならないといけない」
・「幻覚を感じてはいけない」
・「リラックスしないといけない」
・「イメージを出さないといけない」
・「○○できないといけない」
・「△△できてはいけない」
などの強い意志がストレスになって体が緊張し、心身に悪影響を及ぼすにではないか、と私は考えている。

上記ページより


どこかで見たような言葉が並んでいる。


お分かりだろうか。どれにも「いけない」がある。

まるで規則集のようである。

騒いではいけない。

約束は守らなくてはいけない(したのなら守ったほうがいいが)。

乞食役人に税金を払わなくてはいけない(罰則で邪魔するので、役人が滅ぶまではしぶしぶ払わざるを得ないかもしれない)。

肉を食べなくてはいけない(肉、は象徴だが、主流の栄養学に則らなくてはいけない、と)。

タバコを吸ってはいけない(嫌がる人の前ではやめておくと無駄な争いはなくなろうが)。

あー、だめだ。面倒になってきた。いけない!こんなことを考えてはいけない!と、いう風に考えてはいけない!と以下無限ループ。


逆に、ここでもよく書いてしゃべっていることを否定するわけではないが、勘違いしてしまう可能性があるので、敢えてひねくれて書く。

果物を食べなくてはいけない(食べたいと思うまで無理して食わなくてもよかろう。理解しなくては意味がない)。

肉を食べてはいけない(食わないのがいいが、理解しなければこれも意味がない)。

マネーカルトから脱却しなくてはいけない(最終的に目指したいところだが、今はそれで成り立っているところがあるので、しばらくは「必要悪」である)。

タバコを吸わなくてはいけない(無理に吸わなくてもいいが、無理にやめなくてもいい。タバコがなんなのか理解するところからである)。


と、なる。一度、()部分を無視して読んでから。


確かに、やめろ!といいたいものもある。TVを見るのをやめよ!と言ったところで、それがいかなる影響であなたの体を蝕んでいるとしても(例:電磁波)、理解しなければ意味がない。

引き合いに出した電磁波というなら、ケータイもゲームもPCも、街中も家もアウトである。いきなり山に放り出されたらそれはそれで困るので、しばらくは必要悪、というわけである。TVゲームなるものについては、「必要」がなくなったので、かつてのように「楽しまなくてはいけない」というのは消えた。

ここであまり宜しくない打ち明け話をしておく。去年の暮れである。

然る、自分と因縁のあるゲームのシリーズが気がつけば出ていたので、「もう今年のこれで最後になるだろう」と考え、しばらくプレイしていた。
なにが因縁かというと、実況プレイ動画を初めて出したゲームだった、というだけである。

評判どおり、面白くなっており、楽しかった。だが、やっぱりどうでもよくなっていた。

どんな「世界」を描いていても、突き詰めるまでもなくこの「錯覚の現実」とやらを超えることは無く、ただ補強するばかりである。

そのゲームでは、ジャングルを歩いていると、たまに虎に襲われたりする。場合によっては、皮革採集のために、こちらから襲ったりもする(逆襲されてちょっと痛かったりする)。

人類は「サバイバルをしなくてはいけない」と思い込んでいるのではなかろうかと、皮を剥ぐ操作キャラのしんどそうな声を聴きながら考えたりする。

やっている間、いつもそんなことを考えているわけではないが、これで楽しむというのは、普通には無理であろう。

敢えて言うなら「そういう突っ込みを楽しんでいる」といえそうだが、毎日やるほど暇ではない。暇だが、暇でなくなってしまう。時間の問題ではないのである。


それは措くとして、どれもこれも一つだけで問題が起こっているとはいえないのである。これだけを辞めれば、これだけをすれば大丈夫、というものはあまりない。


健康マニアによくある勘違いだが「これをやっていれば健康になる」とか「これを食べていれば健康になる」というのがある。

じゃあ、あれか?果物ばかり食えばいいというのはそのクチか?と、誰か突っ込んでくれたらここも盛り上がるが、意味が違う。

果物を食べて生きる、というのは「リンゴダイエット」の如きものではなく、科学的にも示されている人間の本来の主食は果物と葉野菜であるという、根本に立ち戻ろうと言う話である。

そういうと「今は違うだろう」と言われたものだが、人間の体は別にさして変わってない。変わったのは脳の大きさぐらいで、昔より縮んでいる。


そんな縮んだ脳みその、特に左側が言うのである。「これをしてはいけない」「あれをしなくてはいけない」



野口晴哉師が、天心についての指導だかで、「頭の中に次から次へと考えが浮かんできて、その状態にならない」と聞かれて、こういう風に答えていた。
確か、『整体入門』にあった話だと思う。

「押さえ込もうとするのではなく、次から次に浮かび上がってくるなら、それに任せてしまいなさい。そのうち消えてなくなる」とのこと。


直弟子で道場を開かれている人も「浮かび上がっては消えていくならいい。一つのことに囚われてなければ問題ない」という。




人類の考えからしたら、雑多で寧ろ混沌としているともいえるのが、自然であり、人間の頭の中である。

それを、何かの都合(金儲け+α)で切り取って、決まった形や順序にしてきた。

医療で例えたら、抗生物質を使って菌を殺し、疫病から人類を守ってきた、などというわけだが、しっぺ返しが継続中であり、このままいけばぺんぺん草一本も生えない荒地まで突き進むだろう。

そのしっぺ返しは・・・あなたのご想像にお任せしよう。去年の前半くらいまでとは、こちらも考えていることは変わってしまった。



瞑想にしろ天心にしろ、人の心身を解放することである。


順序や決まった形を作ろうとする左脳からしたら、訳の判らない状態になるのが常である。いわば、左脳は難癖をつける。

難癖をつけるのもつけられのも平常となっている現代にあっては、こうならざるを得ない。「難癖をつけなくてはいけない」と。

人の自然に則ってこそ人は正しく生きられる、というのならば、やはりこういってくる。「自然に生きなくてはいけない」と。

こうまでいけないづくしだと、そろそろこう言いたくなる。「生きていてはいけない」と。

こんなフルコースは御免蒙りたい。

そんなコースの最後に出てくるデザートはデザートでも砂漠のほうである。(発音はかなり違うが、綴りは一文字多いか少ないかである)



その思考の基底にあるもの。それは「善悪」である。もっと簡単に言えば「良いか悪いか」といえる。


人の、否、動物の天性に沿うのなら、「好悪」意外に価値観は存在し得ないのである。


それならば、現代を生きる人も「好悪」で生きているのでは?と思われるだろう。肉が好きなんだからと。


このあたりはニーチェが指摘していた。本来は「好悪」で判断していたところを、道徳に置き換えられてしまい、その道徳たる「善悪」から見て「好悪」を選び取っている、という風になっていると。


なにゆえか、ニーチェと同じようなことを、『幻の桜』で言っていたりする。特定の記事というより、散見されるので、気になる方は猫でも撫でながらお読みいただく。

いないなら酒でも茶でも飲みながら読む。



生き物の、もしかしたら生き物以前の状態もかもしれないが、命から出る「好悪」の価値判断で生きているからこその生命力である。野口整体で言えば、「気」となるだろう。ライヒの言う「オルゴン」かもしれない。


家畜は好き嫌いがあるだろうか。あっても選び取ることが出来ているだろうか。それは生きているといえるのだろうか。養殖の豚を屠って食らうのと、猪と対峙し捕らえ、これを屠って食らうのは同じだろうか。


あなた方は、養殖されたものを本当に「好き」で食べているのだろうか。養殖としかいえない農産物も含めて。



生命力あるものが、これまた生命力を持つものを「好き」だからこそ食らう。そこに「禅病」の様相は見受けられない。



ただ、自分で猪捕まえて食えるかとなると、多分無理なので、やりたい方だけ頑張って食べてもらう。



レプティリアンとやらは、人類を家畜にして、それを食べ(この世界の物理的に、または別次元の食べ方)ているという。


しかし、人類もレプティリアンも、家畜を食べ過ぎたのではないかと思う。食べたものの命に染まってしまうわけで、そろそろ共倒れしてしまうのではないかと心配している。

レプティリアンの思考回路は「生き残れないのではないか」という恐怖心であるという。R複合体といって、動物の脳にもあり、アイクが言うには、それを使って人類を操っているという。

生き残れないのではないか、は裏返せば「生き残らなくてはならない」なのだろう。



人類皆禅病なのは、レプティリアンが先か養殖された人類が先か、はたまた、養殖された人類を食べたレプティに感染して、そこから人類に蔓延したのか。



レプティリアンがいなくなっても多分困るので、レプティリアンさんにも禅病の人類さんにも、こう提案することにしたい。


「~しなくてはいけない、というような考えをしてもいいが、憑かれるのはよそう。疲れるから」と。



なんだか訳の判らない話になった。では、また。


ラヂヲ 十六杯目八口

2013-01-03 | ラヂヲ
辛捻厭けまして、お気の毒でございます。


ご哀殺の後は本編です。見捨てないで下さいね。


というのは、動画説明文に書いた話。バカバカしいのでつい書いてみた。(同じ字ではない)



というわけで、細かい話は抜きにして、本編を。


【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 十六杯目八口



なんでタヌキなのかというと、前に使った画像が気に入ったから。ついでに、また同じ歌を歌っている。
こんな調子だが、叛念もよろしく願いたいものである。では、また。

ご挨拶

2013-01-01 | 雑記
細菌の調子は、ノロだったりインフルエンザだったりと、いや、これはウイルスだった。

最近の調子だと、ついラヂヲの更新だけで終わってしまうので、とても残念に思っている。思っているが、対策はない。



というわけで、時期も時期なので、ご挨拶だけで終わりにする。



新年


明けまして


ご愁傷様で



めでたいじゃないのかって?何がめでたい?


先月に「忘年会」なんぞやったんだ。新年とやらの比較対象たる旧年なんぞ忘却したのであろう?

忘れたのではない。亡き者にした。こう書くべし。「亡燃悔」と。

それでもって今月は「新年会」であろう。新しいのではなく「何も判らない」の間違いである。

何も判らないのである。実に辛いであろう。「辛念戎」とでも書くがいい。何が辛いのかすら判らないのであろうが。

そしてこれから年賀状はこう書きたまえ。「旧年中は大きなお世話になりました」

ちなみに、こちらは子供の頃からまともに出したことも無く、今はまったくない。


これを境に、年賀状やらもすっぱりと辞めれば、年がら年中気も晴れ晴れとしたものである。それで晴れない方は、これからも「亡燃悔」と「辛念戒」を、計画的に続けるがよい。では、また。