今年は巳の年。
去年は龍で、今年は蛇。スケールが小さくなった気がしないでもないが、色々聞くと、そうでもない気がする。
全世界に干支があるわけではなかろうが、2013年でヘビというのは、狙っていたんじゃないかと思ってしまう。
去年からよく行く市内のタバコ屋には犬がいて、というのは関係なく、年賀としてのライターにもヘビが描かれていた。
ヘビだらけだなぁと。
確か、正月の鏡餅の形も、ヘビがとぐろを巻いた姿をかたどっている、という説がある。
やっぱりヘビだらけなんだなぁと。
というわけで、ヘビのちょっと面白い話を少々。
ヘビは顎が外れるので、自身より大きなものを飲み込んで食べる。食べるというより飲み込む。実に胃腸は快調のようだ。何せ真っ直ぐだから。
アナコンダだとか、場合によっては人の身長よりも長くなる種類は、獲物に体を巻きつけ、締め上げて動けなくし、それから飲み込む。ゆっくりゆっくり。
これが現代人の忘れた、スローフードでホールフードのスタイルであろう。丸呑みは流石に真似できないが。
代わりに小さいヘビは、獲物によるだろうが、巻きつけないので、牙に仕込んだ毒で相手を動けなくし、飲み込む。ゆっくりゆっくり。
しかし、自分の撒いた毒で自爆しないのか?と思うだろうが、主成分がたんぱく質であり、丸呑み状態だと関係ないのだろう。
飽くまで傷口から入った場合に、神経や細胞組織を破壊する働きをするというわけで、焼いたり煮たりすると無害になるのだとか。いや、食べようという話ではない。
そうすると、胃にそのまま入った場合は、胃酸で無害化してしまうのだろう。もしくは、河豚と同じかもしれない。河豚には、河豚毒を無害化する酵素が体内にあり、仮に共食いしても河豚は死なないという。
余りに大きなものを食べて、体の真ん中がぼってりしてしまう姿を稀に見つけられ、それが「ツチノコ」と称された、などともいう。
自分の体のサイズを変えてしまうほどというのは、なんだか愛嬌がある。
さて、そのヘビが、かつて途轍もない戦いを挑み、相討ちをしたという。
ワニを飲み込むが破裂したニシキヘビQuirky!!ニュースレポート
http://p.tl/gs7y
自然界ではないことのようだだが、ワニまで食べようとするとは。ちなみに、上記の記事では、ワニも死んだそうな。
さて、こちらはツチノコどころではなくなったヘビ。
実力以上に頑張るニシキヘビ。雌羊を飲み込む。Quirky!!ニュースレポート
http://p.tl/gol4
頭の形が羊になっている。実にメンヨウな姿である。
こうなると動けなくなるので、捕まってしまったそうな。記事によると、動物園に保護するか放すか決めかねているとのこと。
クイーンサイズの電気毛布を飲み込んでしまったというのもあるそうで、手術したそうな。毛布が美味そうに見えたのか、誰か引っ張って動いたので反応したのか。そこは定かではない。
ヘビのエピソードとしてはちょっと違うが、『整体入門』で、「ハミに噛まれた」と言われ、「愉気やったらいい」と教えたら、大丈夫になったという。
で、野口師は「ハミってなんだっけ?」と思っていたそうだが、その地域にいる毒蛇の呼称だったと後で知り、少し驚いたそうだが、こういうのでも効果があるんだなぁと言っていたそうな。
ヘビはなんだか怖いイメージがある。生理的な恐怖というわけだが、それなのに、宗教のルーツを探ると、ヘビ信仰にたどり着くという。冒頭の鏡餅は氷山の一角である。
では、信仰するというのはなんなのかを考えてみよう。
祭り上げるということは、それが優れているから、というのは想像がつく。
しかし、優れているとは必ずしも(人間にとって)良いものというわけでもない。
良いとか悪いというのは一側面を切り取ったものでしかないので、総体的に見れば、どれもこれも良いといえる。別に言葉遊びでやっているわけではない。
エタとかヒニンという差別階級というのが、かつて日本にあったが、このエタというのはそもそも、「」と当てられたのは後になってからだという。
それまでは、畏敬と畏怖が混在した、ありがたい存在であったのだが、いつしか畏怖のみが取り残され、差別階級にされたという。
穢れという概念も、もしかしたら、汚いだとかいう感覚だけではなかったのかもしれない。(そもそもが物理的に汚いという意味ではない)
それが意図的になされたのか、それとも自然になったのかは判らない。ただ、そういう二面性のある存在を、意図的に分離してきたであろうというのは指摘できる。
ジョルジュ・バタイユが言うには、「聖なるもの」と現在考えられているものは、清く美しいことや正しいといったことと同義になっているが、本来はそれと正反対ともいえる、汚らわしく混沌とした荒々しいものをも持ち合わせていたという。
キリスト教はそれを分離し、前者の部分だけを聖なるものとし、それのみを信仰対象へと変えたと述べる。それ以外の部分は否定すべきものとなったわけだ。
これは、聖書の中でも伺えることで、所謂、旧約と新約に分かれている聖書だが、新約では悪魔が行った所業となっているところは、旧約では全て神の所業とされている。
つまり、神も悪魔も同じ存在であり、二面性をもった同一のものなのだと。
それがヘビ信仰とどう関係があるのかというと、こう考えられるのではなかろうか。
ヘビは毒を持っていたりして怖いけど、その毒の力はすさまじい。姿の見えない獲物を見つけ出す能力は人間では遥か及ばない、となる。
卑近な例だが、ネットなんかでちょっと凄いなというものに対してすぐ「神」と呼んだりしているのを見かけることが多いかもしれない。
日本人にとって、カミと呼ぶのは、尊敬できるところがある存在、という感覚であるといえる。
で、姿かたちは判らなくなっていったが、祀られたヘビに対する畏敬の念が、今の信仰に陰に陽に残されていると。
ヘビの姿は怖いが、能力は凄いので敬うべきであるとなったのではなかろうかと。形骸化の反対というべきか。成文化が近いようだが、なんだか違う気がするので、とりあえず。
ほとんど『
ムーマトリックス』の巻末コラムから持ってきたようなもので申し訳ないが、もう少し続ける。
ヘビ信仰が爬虫類神に植えつけられたもの、という所から考えると、自分達(爬虫類神)を奉ってもらいたいが、本来の姿そのものを知られたままだと困る。何かの拍子に悪事が露見したら、ボイコットされるだろう。
というわけで、姿かたちはぼやかして、崇拝の念だけは向けさせると。氏神や道祖神を拝んでいるのだと思ったら、実はヘビを拝んでいたというわけである。まったく別物だとダメなので、象徴は残すと。
本来、何を対象にしていたのかが判らなくなって(させられて)いるのである。ヘビだと判って拝むならまだしも、詐欺である。
これまた『ムーンマトリックス』からだが、縄文土器にヘビを模ったモチーフが見られたり、土偶の顔がヘビだったりする。本来の信仰対象はヘビなんだというのをほのめかしているのだと言われている。
ほのめかしというにはあからさまな気がするのだが、当時のヘビさんたちはどう思ったのやら。「わしはもっと男前だ」と言ったり・・・はしないか。
ノストラダムスの予言というのがある。恐らく主流の解釈ではあろうが、予言に見立てた、当時の王侯貴族への批判だったという説がある。検閲逃れというわけだ。
縄文人や他の古代の人間がどう考えていたのかは分からないが、「ヘビって言うな。書くな」と言われて、冗談だが、こう思ったんじゃなかろうか。「えー、ヘビでいいのに。可愛いのに」とか。
仕方がないので、検閲に通るレベルで、そこはかとなく判る形で描いたというわけである(ヘビ成分0でもダメだから)。「ヘビのような顔をしていますが、ヘビではありません」というわけである。
「遺伝子組み換え作物が5%以下ほど混じってますが、遺伝子組み換え作物は使ってません」というのに似ている気がする。(加工食品などの原材料表記は実際そうなっているという)
こうして…世界は平和になったのである…。いや、違う。
じゃあ、ヘビって恐ろしくて陰険で、悪いやつなんだな。懲らしめよう!となるのはよろしくない。バタイユの言説を読み直していただこう。
「聖なるもの」を、単なる信仰箇条や対象というのではなく、もっと大きく見てもらいたい。大きく見るというより、区別しないで見るということである。
旧約聖書の神は、新約でいう悪魔の所業も行う。バタイユの言う、「聖なるもの」の本来の姿である。聖書自体がどうこう、というのは取り敢えず忘れてもらうとして。
つまり、善も悪もないのである。都合が良ければ善で、悪ければ悪、である。時々で解釈がころころ変わる。
変な例えだが、電車に乗り遅れると慌てて歩いているとしよう。ところが、石ころに躓いて電車に乗り遅れた。なんて邪魔な石だ!となるだろう。
しかし、その電車が事故になって、普段自分が乗っていた場所にいたら、死んでいたとなる。
その石は悪いのだろうか?いや、悪くない。しかし、別に善くもない。敢えて言うなら「躓かせてくれてありがとうございました」と感謝を述べるところである。
石は古来、石器に用いられたりする(人間の都合で)善いものでもあったが、路傍にあると(これまた人間の都合で)障碍となる。しかし、石には違いない。
別に死になさいと言っているわけではないが、石に躓くことなく電車に乗って事故に遭って死んでしまうのも、これまた善でも悪でもない。
狂った現代文明とやらに殺されたといえるので、善くない気はするが、生きていることは善で、死ぬことは悪というのも、都合である。
ヘビが悪いのでも石が悪いのでもない。聖なるものを分割すること自体が悪なのだといえる。分割といったが、つまりは真っ二つにしたわけだ。
本来、分かたれるものではないものを割ったのである。歪にならざるを得ないというわけだ。
はて、何の話だったか。ヘビの話だった。
ヘビを見て怖いと思うのは当たり前である。そう植えつけられたから。しかし、何故怖いのかを感じ取らずに、ただ怖いと言っているのでは、お互い可愛そうである。
だからといって、ヘビを可愛がれ!ハミに食われたら愉気だ!というわけでもないので悪しからず。ヘビもいきなり撫でられたら、毅然と対応するだろう。
可愛がるご趣味の方はどうぞそのまま末永く可愛がっていただきたい。
では、最後に。
大雑把な分類のようだが、爬虫類というのは変温動物と言って、環境の温度に合わせて体温が変わる。哺乳類などは恒温動物といって、基本的に一定に保っている。
ある程度温かくならないと体が動かないのである。人間にも、寒くなるとコタツに入りっぱなしという変温動物染みた人もいる。家にコタツはないが、寒い休みの日だと布団に入りっぱなしだったりする。
それ(コタツのことではない)のせいかは判らないが、「冷血動物」と言われたりするとかしないとか。人間の目からしたら恐ろしい生態のせいでもあろう。人間にも以下略。
そんな冷血なヘビは、とても愛情深いようである。
彼らの交尾は、一日以上に及ぶ。純粋に交尾している状態だけで24時間だとか。
その時、彼らは何を考え、何を感じているのだろうか。多分、「頭」を使うようになった現代人には想像がつかないだろう。勿論、こちらにも想像がつかない。
そんな愛情深さが、毒で仕留めたり、締め付けて意識をなくしたりしてからの丸呑みにあるのではなかろうかと。
ライオンなんかは丸呑みしないが、食べられるだけ食べたら、放っておいて、微生物なども含め、他のものに食べさせている。これも一種の丸呑みであろう。
恐らく押し付けられた宗教だろうが、その愛情がなんとなく感じられるので、至る所でヘビ信仰が存在し続けているのかもしれない。ことはそんな単純なものではないだろうが。
そう考えると、ヘビが怖いのは、「愛情でもって丸呑みにされる」ことを覚えているのだが、聖なるものは分かたれているので、その分離された善なる部分としての愛情以外を理解できなくなっているからではなかろうかと。
死んだらヘビに丸呑みにしてもらう、というのも面白いかもしれない。ヘビが嫌がるかもしれないし、そもそも日本にそんな大きなヘビはいなかった。単なる思い付きである。
子供の頃、用水路に落ちたヘビに石を投げていた。ヘビは上がろうとするのだが、上がれない。そして、自分たちが邪魔をする。
そうするうち、自分のか他の誰のかはわからないが(自分のだったと感じている)、石が命中し、ヘビは絶命した。
ヘビは怖いものだし、その壁を上がりきるとすぐ民家なので、そのまま川の方まで行ってもらおう(そのまま数十メートルほど流れていけば川に繋がっていた)と思ってはいた。だが、半分は殺す気だったのだろう。とはいえ、首が曲がり、血を流して動かなくなったヘビを見て、一同はお通夜のようにうなだれてしまった。
ただ単に怖いだけなら、排除完了でさっぱりしたものだったろう。どこか人のいないところに行ってもらおうという意図がある程度ありながら、殺す気でしかないような追い立てをした挙句に殺してしまったとはいうものの、何かひどく自分自身を傷つけたような、後味の悪いものを覚えた。
本当に怖かっただけなのだろうか?それなら、皆、思い切り狙って石を投げていたに違いない。記憶は定かではないが、川まで行ってもらおうと提案したか、されたように思う。
ヘビとは不思議な生き物である。子供の頃、犬が怖かったのだが、それとはまったく意味が違うところがあるなと、思い出話を書きながら感じたところである。
さて、結びが妙だが、長くなったので、ポスターを貼ってきた話は次の更新にする。今日中の予定である。では、また。