ウヰスキーのある風景

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他者の怒り

2021-10-08 | 雑記
ツイッターもブログもサボっているが、今も何とか生きている。

拙は生きているが、先ほど、とある人の訃報を聞いた。

顔見知りではないし、その方のブログをよく読んでいただけではある。

そのブログもツイッターも更新がピタッと止んだのが今から二カ月ほど前。

ツイッターの方は余り日を置かずに更新されていたのでおかしいなと思ったが、余り氣にしていなかった。
きっと忙しいのだろうと。

ご冥福をお祈りする。


さて。話を変えて、身近なことを少々。

ある人物の不興を買ってしまった。ついでに昨日は弟にも怒られたものである。

不興を買ってしまったというのは、勿論、拙の行動が問題だった。
単純な話で、謝罪すべきところで謝罪しなかった、というのが続いたのである。

酷い奴だと思われるだろう。それだけならば。

以来、その方は拙を視界に入れるのも嫌なようで、他の人達との態度の差が歴然としている。

つまり、「あいつ(拙のこと)はまともな人間じゃないからまともに扱わない」と。こういう態度である。


そこで少々思い出したことがある。


改めて書くと、その人物というのは今の仕事場の人間である。

丁度二カ月前にそこへ初出勤した。その日だったかは思い出せない。初対面の時だと思われるが、何をどう見て考えたのか、恐らく予防線でも張ろうとしたのだろう。簡単な作業をしつつ他の人たちも交えた雑談の最中、いきなりこう言われたものである。
「あなたを男性と思ってないから」と。続けて、「わたし、結婚してるから」と言っていたかもしれないが、その辺りははっきりとは思い出せない。

拙は背が低く、筋骨隆々といった男らしさが横溢しているような容姿ではない。
昨今話題のLGBTだとかにも当てはまらない。

昔のとある有名漫画みたいに「おれは男だ」と一々確かめながら暮らしているわけではないが、己を構成するものに、男性というものがあり、それが極度に自己との同一性が乖離していない状態である。

この同一性の乖離が著しく、病的なほどの場合を、「自己同一性障害」という。
男の姿で生まれたが、実際は女性なのだとか、またその逆の場合も同様。

一昔前から、ジェンダーフリーという思想が吹聴されているし、昨今はLGBTと頭文字を並べて、非多数派の性愛者に権利を、というのはお聞きになった方は多いだろう。

それの良し悪しはともかくとして、権利を認めるか認めないかもここでは語らないし、そういう話題ではない。

世の中は男性と女性が必ず存在するわけである。先日、「中性」と言っているモデルだかの話題があったのを見たものだが、それも男性と女性があるから中間の性と表現できる。

とまあ、ややこしく話を続けても仕方がない。

中身が女性の男性に向かって、「男性とは思わない」と告げた場合、それは「女性だと認めてくれた」と受け取られてもおかしくない。

では。中身も外見も男性に向かって「男性とは思わない」と告げた場合。これはどうなるか。

前者の場合、女性という人格を認められたといえる。

翻って、後者はというと。

これは人格の否定である。つまりは侮辱である。

ありのままのものを何かの意図でもって削り取り、捨て去る、というと何か物騒な響きだが、意味は変わらない。

別に女性の真似をしているだとか制服を女性の物を着ているだとか、そういうものは一切ないのに、己の都合でありのままを無視するというのは、つまりはその対象を、この場合は男性たる人物の人格を蔑ろにすると宣言しているのである。

当人にそんな意識なんぞなかったろうが、このことを何人かにどう思うかと尋ねたら、ある一人はこう返してきた。
「何かしたのか?」と。
拙がその女性を口説こうとして振られた言葉だとしたら、あり得るだろうが、何もしていない。

当時は新しい環境で緊張していたのもあるし、自分が何を感じていたかは分からなかった。

しかし、昔にもこういう事があった。書いたこともあったかもしれないが、簡単に述べておく。

大学時代、とあるクラブにいた。文化系のクラブだが、だからといって重労働が無いわけではない。

同期のかしましい女性達、というと語弊がある。目立ってたのは一人で、後はその取り巻きとでもいうか。

女性でも三人集まって物を運べば、男性一人よりは効率があがろうもの。

それをこう、自らで評していた。拙に向かって直接言って詰る、というような具合ではなかったが。
「わたしたち、ここの男組だからねぇ」などと。

目の前の男性一人よりも女性の集まりのほう力が出ている、と言っているわけである。

とても空しい言葉である。徒に男性を傷付けるだけで、いくら集まっていようが女性は女性でしかなく、そんな言葉を吐いたところで男性になるわけでもない。寧ろ一人だと非力です、というアピールをしていることになる。

あのような言葉を紡いだのは、やはり男性にコンプレックスがあるからだろうとは、その後に思ったものである。

個人の事なので細かくは言えないが、幼少の頃に「男性に傷付けられた」という過去を持っていたからである。

傷付けられたからといって傷付けて良いわけではないのは言うまでもないが。


話が長くなった。

どうして特にその件の人物について無礼を重ねることになったのか。まるで狙ったかのように状況が重なった。
広い職場ではないとはいえ、共有で使うものとはいえ、あちらが使おうと準備しかけていたものをこちらが先に使ってしまったりだとか、一方的にこちらが迷惑をかけている状態ではあるのだが、謝罪しなかったり、できない状態になっていたりと、少し思い出せる限りで、まるで冗談のように重なっていた。

人の意識の九割ほどが無意識という。心臓の鼓動だとか胃腸での消化、目に何か飛び込んできた時に目を閉じようとするといった分かり易い例も含まれる。

その無意識に働きかける事によって物事を好転させよう、というのが引き寄せの法則というわけだが、まるで引き寄せたかのようであった。

何せ、当人がどう思っているかは知らないが、いきなり「人間扱いしない」と宣言したわけである。
それで、そう感じたとおり拙が人間扱いされないような動きになっていき、ご覧の結果となったと。
その態度を見ていて思ったものである。

あれはもしかしたら、拙が取る可能性があった態度ではなかろうかと。

人によってはなんてことはない言葉かもしれない。が、説明すれば理解は出来るだろうし、簡単な具体例を対比として述べておいた。
心の奥底に沈めていたが、とんでもなく怒っていたのだろう。大学時代の話を思い出して喋ったり書くだけでも嫌な氣分があった。
そこで不甲斐ない顕在意識に代わって、無意識がこういう事態を引き起こしたのかもしれないな、などと。


ついでに弟に怒られた話もしておく。

こう怒られた。
「頼んだこともちゃんとしてくれず、こっちへの頼み事ばかりでちゃんとしてなかったら怒って物を壊すし、上から目線で偉そうに物を言うし、やってあげたことにありがとうもない。二人よれば社会だろう。ふざけるな」と。
こんな具合であった。

怒って物を壊したのは数日前にあった。些細な理由ではある。その事を踏まえての話である。

しかし思うのである。恩着せがましいなぁ、などと。

弟のトイレの後に便器にこびりついた糞便をこすり落としたことは一度や二度ではないし、部屋の掃除は毎日ではないとはいえ、台所や玄関、風呂場の脱衣洗面所に至っては髪の毛が目立って落ちており、掃除は拙がやっているが、それにお礼を言われたことは無い。無い、は語弊ありだが、氣付いた時に、もしくはしておいた、といった時だけである。トイレについては、糞便のこびりつきにそもそも氣付いてないか、時間が経っていて向こうには経緯不明という奴だろう。最近は余り見かけることはないので、自分でも行っているのかもしれない。
これも毎日ではないが、水場に設置してある手拭きタオルは、拙の洗濯の際に交換しているが、その事についてお礼はない。日常と化したので氣にしていないからである。
くれという気もないが、してあげたことに云々なら、まったくもってお互い様である。
怒って物を壊す、という点なら昔に書いたが、ゴミ箱とザルの粉砕の件は拙自身とは関係のない八つ当たりだった。関係あれば壊していい、ではないが。なんだか先ほども似たような断りを書いた氣がする。
などと、言えなくもない。

ガミガミ怒れば怒るほど墓穴を掘っているような気もする。そして先ほどの件で触れたが、その態度は自身が取り得るものだったのかもしれないと。
というのはつまり。相手の不満は、自身の不満の投影なのだろうと。自覚しているかしていないかはあるが。
冗談みたいな言い草に聞こえるが、昨日怒られた件も踏まえて、相手が怒っているのは、拙の代わりに怒っているのかもなぁ、などと思う。どちらの件も、先に拙が怒りだしてもおかしくない話だからである。
上記のようにあげつらえば腹も立ってくるが、立たせる腹の意味がないとなる。
切っ掛けがあって怒るのではなく、怒っているから切っ掛けが来るのである。
怒っているなと自覚できれば、切っ掛けは切っ掛けとはならずに素通りするのだろう。

もう既に腹は立てた。ただ、主語がないだけである。

だが、あっても変わらない。「わたし」が腹を立てたのだから。


では、よき終末を。