ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

龍可愛がり

2018-05-25 | 雑記
「皆さん、龍を見たことがありますか?わたしはあります」と、ブータン国王が来日の折、福島の被災者の子供達の前で述べたそうな。

YouTubeにその映像があるそうな。そして、続きはというと、「全ての人の心には龍が宿っています。龍は経験を食べて大きくなります。震災の経験で大きく成長していますよ。日本の皆さんが大きく成長されることを、外国の私たちは信頼し、信用しています」とのことだそうな。

ブータン国王恐るべし。いや、怖いわけではないが。

龍がどうたらこうたら、というとある方面が色めきだつ。かつての拙もどっこいどっこいではあるが。

レプティリアンがどうこうという、あれである。


話は代わるが、前回の話は「地球が神様」と主張してやまない人々にだけ向けていると思われそうだが、そういうものでもない。

ことあるごとに「地球ガー」とやかましいのが現代社会である。二酸化炭素で温暖カー!と、何やら気合い込めて騒いでいるのが昨今である。

アイクが著作で述べていたが、若いころに「あと四十年で石油は枯渇する」と聞いたそうだが、現代になっても「あと四十年で枯渇」とやっている。

そして、オバマが大統領をやっていた時に、シェールガスとかいう、従来の石油の掘削法ではないもので取り出した石油が出てきて、結局まだ大丈夫とやっている。

温暖化が本当にどうしようもないところにあるというのなら、色々あるがとりあえず、移動は歩けるところか公共の交通機関に強制するぐらいにしていくぐらいにしたら?といいたくもなる。排出権取引なんぞやっているのは周知のところであろう。

何が言いたいのかというと、そういう目くらまし染みた話にすぐ乗っかるように我々は教育されているので、重々気をつけましょうというだけのことである。

どこ向いても「地球ガー」と言っているから、拙は「ガイア教」なんぞと名付けた。
そして、「子供も大人もお姉さんも」という昔あったキャッチコピーのようになっているので、アイクの主張のイルミナティがネットワークであるという説に準えて「暁の」とかっこよくというか中二病なんぞと言われそうな具合の名前にしたというわけである。それは読んだらその通りに書いているわけだが、復習である。

と書けば、「お前は地球さんが大事じゃ(怖く)ないのか?」という言説が湧き出す。上の主張だけでどうして「地球を破壊せよ」と言っていることになるのかは判らないが、そういう可能性は大であるので、「そんなことはいっとらん」とも書いてはある。

断りを入れようが入れまいが、何も突込みがないので、毎度毎度、自分で突込みをせざるを得ない。

話を戻す。


冒頭のブータン国王のスピーチを紹介していた人が、龍にまつわる話をしている。

さて、またまじないというかオカルトというか、そういう具合の話になるのだが、龍を呼び出して自身に一時的に宿す、というのがある。

宿してどうするのかというと、自身のネガティブな感情やらエネルギーやら、どっちも同じといえるが、それを食べてもらって、それから送り返すという。

食べて元気になった龍に何やら一仕事してもらう、というのも書いてあった気がするが、そこは詳しくは忘れた。

教えた人に「会社みたいな複合体的なものには効き辛い」と注意してあったにも関わらず、その聞いた人は親の会社に試したら、なんと翌日に倒産してしまったのだとか。

良くしようと試したら、あっさり倒産するとかいう(予兆もないのに)ぐらい、何にせよ効き目があるとのことである。

龍さんはちゃんと制御してしかるべきところで使わないと、やりすぎるとのことだそうな。


それはともかく、その話でもあったが、龍は人のネガティブな物が好きらしい。それを好んで食べてくれるという。

そうすることで、上記のように一時的に宿して足枷になっているネガティブを消して、本来の活力を取り戻すとでもいうか、そういうことをする。

古代の、文明も何もなかった時に人類が見出した秘儀なのだと、その人は言っていた。


さて、レプティリアンとか呼ばれている、トカゲの仲間の話はというと、アイクの話が広まっているのでご存知の方も多かろう。

彼らも人間の負の感情が好物なのだと。それで、地球を養豚場の如きにしている!というのがアイクの主張である。


大昔は人類の数が少なかった。そして年々増えて、七十億を超えたとかなんとか。

飼育されている牛や豚や鶏の数も凄まじい。が、食べるので増えすぎて家の中にまで侵入された、という話は聞かない。熊に侵入された、ならあるが。


これはアイクとは正反対の話になるので、そういうことを期待された方には申し訳ないとは思わないが続ける。


人間のネガティブ大好きドラゴンさんが地球にやってきて、ネガティブをパクパク食べてくれていたと。

それでもって古代の人類は色々頑張ってこれて、現代に繋がった。

とはいえ、ネガティブを知らず知らずに食べてくれてただけで、大抵の人間は自身がネガティブを出し続けていることを理解しない。

ネガティブが出てくるから食べてるドラゴンさんに、「お前がいるからネガティブが出てくるのだ!」と逆切れの如き主張をしているのが現代ではなかろうかと、拙はふと思った。


何ゆえそう思ったのかというと、実に単純である。


地球が人類の放つネガティブなもので埋め尽くされ、それが消えることなく増え続けるのなら、とっくの昔に地球から人類は、もしくは地球自体が滅んでいたのではなかろうかと。



ついでに、別の流れから考えたもう一つの理由が、拙の弟のことである。


何やら仕事をサボり始めたそうだ。鬱病がどうこうとは以前も書いたが、それで辛くなって休んでいるという具合らしい。


鬱病だけではない。弟は昔から何やらあるとすぐ病む。


弟は小学生のころ、野球をやっていたのだが、何やらしんどいと言い出した。それで病院に連れて行ってもらって検査すると、尿に何やら出たとかで、結局辞めた。

拙が同級生のファミコンを持っている家の友人の家に遊びに行くとき、「お前も行くか?」と言った後「でもダメだ」なんぞとからかったら、後で家に乗り込んできて、帽子で拙の頭を何度も殴って、それから帰っていくという奇行の如きをしてきたものである。

とあるゲームソフトを、弟の誕生日の時に購入したのだが、元々納得していなかったのか、別の理由をこじつけたのかは判らんが、一通りやった後、「そんな話は知らん!」と売り飛ばしてしまった。

というのも、子供のころ、拙の家は貧乏で、ゲームソフトはそれぞれの誕生日に一本買うとか、お年玉を集めて買うとか、そういう具合だったので、割を食っていたのかもしれんが、何にせよ、そういう癇癪持ちであったといえる。


野口晴哉が『整体入門』か『風邪の効用』で書いていたが、風邪を引いたと親御さんが子供を連れて道場にやってくる。

それで野口晴哉はグィっとやって治す。ああ、治った治ったと帰っていくのだが、それからまた何日かして、また引いたと連れてこられる。

そうそう何度も引くのは、体が硬いまま無茶する大人ならありえるが、柔軟な子供がなるのはおかしく、これは親の気を引こうとする依存の心理状態から来ている風邪なのだと。

親と子の生活環境とそれに起因する心理状態が影響しているので、表面上の風邪をいくら治してもすぐ引き直すのだという。


そうそう。思い出した。

車酔いの処置法というのが書いてあったのだが、野口晴哉はいきなりこう言っていた。「まともな人は酔わない」と。

何がまともであるかないのかというと、これも上記の如しで、言ってしまえば甘えん坊がかかる。

拙の弟も、親の運転する車で遠くの親戚の家だとかに行ったりすると、しばらくすれば気分が悪いなんぞと言い出すものであった。


そういうわけで、もうこれから弟に電話をこちらからかけることはしないことに決めた。
電話してきても、詰まらん話をするようなら、すぐに切ろうと思う。甘ったれに手を貸す道理はない。


話が逸れた。


己の不遇を宇宙人だとか陰謀働いている何かのせいにして、己を顧みないのは、拙の弟と何ら変わりがない。

己の糞は己で踏ん張る以外にないのである。


冒頭のブータン国王の言を思い出そう。

あなたの心にも龍がいて、経験を食べて成長しているのだと。

とするならば、地球にも地球の龍がいて、地球の経験を食べているのかもしれない。

健やかに成長しているかもしれないその龍に向かって、「お前が悪い!」と罵るというのは、つまり、あなたの成長を阻害しているのである。

そんな甘ったれの馬鹿に誰が手を貸すというのか?
どこかの宇宙人が助けに来る?
そんな馬鹿をどうして助けてくれるというのか?
甘い話にホイホイ乗る馬鹿とどこが違う?


先ほど拙がこうかもしれないと言った通りとするなら、とっくに滅んでいるはずの地球や人類が今もあるのは、龍のお陰かもしれない。

こうして現代があって、拙やあなたが生きているのは、ネガティブを食べる存在がいるからといえる。


そう思えば、龍だとかレプティリアンというのは実に可愛らしいものなのかもしれないと、たまには猫可愛がりならぬ、龍可愛がりでもして差し上げてはいかがだろうか。

とはいえ、どう可愛がればいいかはよく判らないだろうから、よくやった!とでも伝えるべし。



では、よき終末を。


暁のガイア教団

2018-05-22 | 雑記
拙が小学生のころとなると、二昔より前となる。

そのころは、ドラクエの会社とFFの会社は別々の会社で、テレビゲームと言えば任天堂のゲーム機だった。他にもあるにはあったが、シェアや知名度に差がある上に、拙の田舎は山野のようなところだったので、知りようもなかったともいえる。

それはともかく、当時「ドラクエの会社」としか思ってなかった会社から、あるテーマに基づいたゲームのシリーズがいくつか出ていた。

シリーズとして企画されていたわけではないのだろうが、テーマが被っていたので、「天地創造三部作」などと評されたりしていた。

一つ目が『アクトレイザー』というアクションゲーム。この話は前にも書いたが、部下の天使がプレイヤーに対して任意の名前で呼びかけてくる。

その主人公は神様という訳で、~さま、と呼びかけてくるのだが、大学時代に当時の友人が「き」と一文字入力するというのを教えてくれたもので、馬鹿受けしてしまったものである。

天使が神様に向かって「きさま」と呼びかけてくる様は、笑うなという方が無理であった。

ゲームの内容は、アクションゲームのパートと、箱庭をいじるパートがある。人類の発展を促して信仰を集めて、能力を上げ、それぞれの地域にはびこる邪悪な存在を打ち破っていくという二種類のパートを交互に繰り返すというものであった。

これ単体でタイトルに「2」をつけた続編も出たが、こちらはただのアクションゲームになってしまい、受けが悪かったらしい。

次は『ガイア幻想紀』というもので、こちらは神様が主人公ではなく、とある少年が主人公で、その武器は笛だった。

記憶を辿ると、シナリオ中に、不思議な石像の前にやってくる。すると何やら語りかけられて、その能力を使えるようになる。

一番目は甲冑にマントを羽織った金髪の剣士だった。後は忘れたが、主人公の笛やらそういう能力を駆使して、攻略していく。

流石に内容はさっぱり覚えていないのだが、ヒロインと漂流するというシーンがあって、お腹を空かせたその子のために魚をとるのだが、跳ねて泳いでいく魚を笛で叩くとその魚がイカダに打上げられていく、というシーンは覚えている。

主人公の生まれに何かあったのか、流れでそうなったのかは覚えていないのだが、これもまた「天地創造三部作」と呼ばれるだけあって、そういう内容だったのだろうと思われる。

何ゆえ余り覚えてないのか少し気になって調べてみたら、「欝ゲー」と評される内容だったようだ。が、軽くレビューしていたブログを見ると、最後はすっきりと終るといっていた。

というより、拙はクリアしたのかどうかすら判らなくなった。

ネタバレレビューによると、「過去が全部なかったことになる」と最後の方にあったのだが、そういう意味での「天地創造」だったのだろうかと思われる。


さて、三つ目はというと、『天地創造』というそのままなタイトルのアクションRPGとなる。上記の『ガイア幻想紀』もステータスの上昇はあるのだが、いわゆる経験値制ではなく、記憶違いでなければ、こちらは経験値を稼いでレベルアップという、スタンダードなシステムだったと思われる。

さてもさてとて、こちらも内容はさっぱり覚えていない。ただ、エンディングを最後まで見た覚えはあるので、クリアしたことだけは覚えている。

上記の『ガイア~』は、ピラミッドやらインカの遺跡やらを冒険したり、何やら違う進化をしてきた種族やらが存在していたりと、陰謀論者が色めき立ちそうな内容である。

『天地創造』の方も、そういう冒険譚だったような気がするが、思い出せない。エンディングを最後まで見て、なんだかうっとりしたというか、嬉しいとも悲しいともいえない、不思議な気分だった覚えがある。苦労したからその達成感だった、のかもしれないが、そこはよしとしよう。


長々と書いたが、これ自体は思い出話(殆ど欠けている)なので、書こうと思った話とは関係がなかったりする。


二つ目のゲームのタイトルの「ガイア」というのは、ギリシャ神話の女神の名で、大地の意だったり、「ガイア理論」という言葉でもって、地球を指すという。

この辺りは今調べたらさくっと出た話であり、目新しい話でもない。

というわけで、今回の記事のタイトルをご確認。

漫画やらライトノベルやらの敵組織の名前か何かか、と思いそうだが、特に意味はない。

あとは、『女神転生』シリーズで、ガイア教というのがあるが、これもタイトルを思いついてから思い出したところなので、こちらも関係ない。


さて、話を一度変えてしまうが、ラクダ'sのHPが跡形も無く消え去った。

以前も中途半端に消えていたことを報告したが、キャッシュすら確認できない状態で、これは書いていなかったのだが、レンタルサーバーの期限が五月のいつぞやまでだったというのがあり、それが先日来たのだろう。ドメインは消えてないので、検索一覧で記事があるかのように見えるが、HP自体は消え去っている。

何があったかなどというのは判らぬ。何も無かったのかもしれないが、この世をさげずむことは己をさげずむことでしかないのを理解していなかった御仁であったことを何度も言って来たものである。

彼らに問題が起こって閉鎖と相成ったというのなら、自然の道理だったと言わざるを得ない。

彼らの思考はこうだと書いた。すなわち「地球が神様」なのだと。

それとかけて、「ガイア教団」なんぞとタイトルにすえようと思ったしだいである。


とはいえ、この「ガイア教団」なる存在は、陰に陽に地上に広まっている。上記の『女神転生』シリーズで出てくるのとは違う意味なので、勘違いしないこと。

細かい理論は個々で違うだろうが、共通することは、「神たる地球の毛づくろいに専念すれば、人類は幸福を享受できる」である。

そういうことを理解しない人類は無知蒙昧なのだという選民思想も一緒にくっついている。挙句の果てには「そんな馬鹿は滅んで当然」と言い出したりする。

こういう思想が同時多発的に全世界で、といっても全世界を遍く見てきたわけではないので言い切れないが、「地球は神様」という具合では大同小異に広まってきている。

もしくは人類開闢からずっとあるが、流行の周期がやってきたのだろうと思われる。


これはきっと、拙が冗談で思った「ガイア教団」なるものが実在していて、裏で手ぐすねを引いているに違いない!!

でなければ、かように同時多発的に広まるはずがない!

・・・というのは冗談だが、冗談とも思えない話は、あるといえばある。


スピ系陰謀論というのかスピ系と評せばいいのか判りづらい、デーヴィッド・アイクが言っている。

曰く、「イルミナティは組織名ではなく、ロスチャイルド・シオニストが使っているネットワークだ」と。

イルミナティという名前の組織は、実在したものもある。アダム・ヴァイスハウプトが創設したというのは、教科書には載らないが、史料に残っている。

ついでに、そのイルミナティが世の秩序をひっくり返して乗っ取ろうとしているというのは、敵対したキリスト教の司祭が流したプロパガンダだったというのも書いた。

現在でも、何かでそう名乗っている組織がいないともいえないのだが、イルミナティというのは何県何市の何番地にある組織です、というものではないのだと、アイクは言う。

では、ネットワークとは何か?インターネットか何かなのか?多分、そういう見える形のものではないと思われる。インターネットというものが目に見えるかというと、ややこしくなるが。

アイク自身が書いているが、全ては意識だという。意識と簡単に書くと妙に聞こえるが、こうやって書いているのもそちらが読んでいるのも、それぞれ意識となるのだが、それらも含めて、根本的には同じなのだという訳である。ついでに、物体も同じく意識である。全ては文字通り全てである。意識とかいうものの強弱だとか具合であったりなかったり、硬かったり柔らかかったりするとなる。見た目は違っていても、別の意識だというわけではなく、一つの同じ物が姿を変えているだけなのだと。

アインシュタインは相対性理論の中で、「物質とエネルギーは同質である」と説いているそうな。

エネルギーとは何ぞや、となると、いわゆるオカルトの話で、以前も書いたが、気だとかオドだとかプラーナだとか、洋の東西で表現は変わるが、そういったものになる。

仙道では、全ては気から成っていると説く。この話も以前に。

アイク自身が著作で触れた最先端の物理学が、オカルトと呼ばれるものと同じ事を言っているのである。そして、気だとかいったものは、人の意識で動かせる。

物質は人間が意識するとそのように動きうる、というのも、アイクの著作に触れられている話で、その見解にまつわる実験の話が、YouTubeで解説動画が出ている。リンクは貼らないが、日本語の音声のがある。



とはいえ、アイクは触れない。魔術だとかには。触れちゃならん理由があるのだろうとはよく言われている。


よく判らない話になってきた感が否めないが、もう少し続ける。


つまり。イルミナティがネットワークだというのは、別にそのロス何たらが作り上げた特殊な電波か何かで世界中に指令を送信して人心をたぶらかしている、なんていう話ではないのでは?と。

というのも、その「イルミナティ」みたいなものは、全人類が出来る、もしくは出来うるからである。

でなければ、「ガイア教団」があちこちで創設されるわけがない!もしくは自覚、無自覚の「ガイア教徒」がわんさか出てくるはずもない!


さて、また話を「ガイア教」に戻そうと思う。

地球様の毛づくろいをして、皆ハッピー!が彼らの競技、ではなくて教義だと書いた。

別にそれをするなと言っているわけではない。しかし、その前に気がつくべきであった。

そんな汚れた手で毛づくろいをしていては、お互い汚れるだけではないのかね?と。


それに、不思議だとは思わないか。

森で暮らす猿(動物園にいる方の仲間)がキーキーやっても地球はびくともしない。象が走り回っても多分、なんともない。

それなのに、人類がなにやらやっていたら、地軸がずれたり(原水爆の実験でずれて来たという話があった気がする)、天候が変わったり、ヨガナンダは壁の向こうにリンゴや腕を通して握手したり、電磁波が危険だー!とかいう割には、携帯電話やスマフォを使っている人が皆病気になるわけでもないし、煙草の煙や匂いでこれみよがしにヒステリーを起こす癖に、都会で平然と暮らしていたり、健康のために菜食してる割には胃がんで死んだりする。

後半、地球と関係ない話になっていたが、森の猿が頑張ってもMr.マリックやらブルース・リーにはなれそうもないことは判るかと思う。


以前、元ヒーラーだとかなんだとかいう人が述べていたという話で、3つの究極の原則というのを載せた。

そのうちの一つで、我とこの世は同じだが、この世は我と同じではなく、上なのは我だというのがある。


別に現代の人類がそのままで尊いので、そのままどうぞというつもりは微塵もない。

地球を神様と祭り上げるのは、卑屈に過ぎるのだと言いたいのである。

その無自覚な卑屈さが、他人を屈従させたいという思考に繋がっているのである。

そんな汚れた状態で、地球が綺麗になるわけがなかろう。


というわけで、そういう「ガイア教徒」は「イルミナティ」と相成る。
アイクが述べるイルミナティが邪悪なネットワークであるというのなら、その文脈でのイルミナティと言っても差し支えあるまい。

恐らく、大多数は似たり寄ったりなので、「暁のガイア教団」と名付けた。
暁は夜明け。闇夜たる蒙昧を啓く鶏鳴、ではなくて啓明である。外国語で言うとイルミナティ。
いわゆる陰謀論的に、ぴったりな組み合わせだと自負している。
とはいえ、既に何かでありそうな名前なので、被っていたら申し訳ない。

それが今回の題名の由来である。


上述した根本的な意識というものには、人の世で善と悪に分けられるものが一体となっている。

この世の物差しで邪悪とやらを糾弾するのは、己を糾弾していることになり、また汚れていることを自覚しないまま己の毛づくろいをするというのは、ただ汚れを広げるだけに等しい。

進んで邪悪なことをやりなさい、と言っているのではないことぐらい、言わなくても判るであろうが、敢えて書いておく。



この世は、この世の物差しだけで出来上がっているのではないのである。


では、よき終末を。


玄関閉めたら

2018-05-10 | 雑記
今回は夢の話をしようと考えた。

この話は、以前からしたためようとしていたのだが、書く機会を逸していた。己の不徳の致すところである。


というわけで、夢の内容を語る。


それは、ある日の夕方。夜勤明けで帰ってきて、仮眠していた。その後、出かける用事があったからなのだが、もしかしたら、その用事のせいかもしれない。

さて、仮眠をしていると、我がワンルームのドアノブをガチャガチャ回される音で目が覚めた。

それで起こされるのはいいとして、いきなりドアノブをガチャガチャされるというのは尋常ではない。

起こされた瞬間に想起したのは、こういうことだった。「ドアの鍵かけたっけ?」

反応がおかしいが、そう思っていた。

そして、玄関まで向かい、ドアの状況を暢気に確認すると、やはり鍵が開いている。そこでさらに妙なことを思った。

「どうして鍵が開いているのに、入ってこないんだ?」

そして覗き穴から外を確認すると、異様な光景が広がっている。

拙の部屋の向かいは通路の壁になっている。その壁に、確か、四人ほど背丈がバラバラの女性と思しき人々が並んでいる。

覗いた瞬間に、ドアノブを回していたと思しき人物は見当たらなかったのだが、さらに左から同じ顔と服装をした女性が三人ほどスキップしながら通り過ぎていく。
大学時代の同期の女性の顔に似てるような感じだが、それと同じ顔ともいえない。どこかで見たような気がするが、見たと断言も出来ない感じであった。

覗き穴から離れ、即座にドアの鍵をかけ、部屋の奥に戻った拙は、やはり妙なことを考え出した。

「押入れに隠れてもダメだな。上の納戸は物が詰まっている」などと。

そもそも、鍵をかけてないのに入ってこないというのに、鍵をかけた途端に侵入されるという発想がおかしいのだが、その後の行動はまるで映画か何かである。

ベランダに向かい手すりをよじのぼり、手すりから覗き込んで下を見ないと判らない状態にぶらさがった。

そしておかしいことに、そうしたと同時に部屋に入ってくる女性。覗き穴から見えた女性の中で一人メガネをかけた、その中では一番背の高かったと覚えのある人物が、ベランダまで出てきたのである。

夢の光景なので、自分自身からの視点ではなく、その光景を第三者から見る視点になった状態があったのだが、こちらを探しているようではあるのだが、ベランダからの景色を見ている風でもあった。

そして拙はそのまま隣に伝っていき、見えない位置まで行ってから今度は屋上目指して上っていく。クライミングの経験なんぞないし、第一現実に住んでいる部屋で隣のベランダの手すりの下を伝わっていけるとも思えないのだが、そうしていた。

屋上まで上り切ると、これまた実際に住んでいるアパートの光景とは思えないのだが、屋上は広場になっているらしく、ガラス戸の出入り口なんかも見えた。

上がりかけたところ、その広場に一人の男性が立って煙草を吸っている。歳は五十から六十といったところか。

その男性に見つかっては行けない、と訳もなく思ったところで、夢は覚めたのであった。



夢占いというのがある。真偽の程は定かではないのだが、先日気になって調べてみたところ、玄関の前に異性が居るのは、恋愛運上昇という話があるらしい。

恋愛運上昇というより、女難の相じゃないのかと、拙は思うしだいである。


これをどう解釈するかというと、そういうことは考えていない。上記の通り、女難の相かもしれんナという程度である。


では、よき終末を。


きみはきみが悪い

2018-05-08 | 雑記
前回の記事はいつにもまして、気味が悪かったと思われる。

何せ、言っている本人すら、「酔っているのだろう」と評したくなるところではある。

といっても、一人でそう考えたというより、あれを書くきっかけになった出来事(内容は直接的ではないが)があったからである。

詳細は省くが、数ヶ月前に、とある女性に一目惚れされた云々と書いたかもしれない。

結局その話は梨のつぶてという奴で、一目惚れの後にもう一度面会したっきりとなっている。

「一目惚れした人が知り合いに現れた」と伝えてきた人物がいるのだが、上記の面会の終了後、拙は連絡先を教えていなかったことを思い出し、面会の日にもいたその仲介役に、その女性に電話番号を伝えておいてくれと頼んだ。

人づてにするというのはなんともいえないが、何せ、仲介役の連絡先は知らないので、面会をセッティングした馴染みの店の店主に連絡をして、「頼んでおいてくれ」とやった。

それから二週間経って、知らない電話番号から電話が来た。掛け返したが、出ない。夜勤中に掛けられていたので、こちらは朝に掛け返したのだが、それは仕方ない。掛け返しておけば、何がしかの反応があるだろうと見越してである。

のだが、一向にない。そもそもこの電話番号は誰のものか、と思って、馴染みの店に帰りに寄って聞いてみたら、件の仲介役の電話番号だった。

すれ違いで、直接会って話する機会をこちらも逃してしまったりというのもあったのだが、拙が聞きたかったのは簡単なことである。

「電話番号を伝えたのかどうか」と。

こうやってとんぼ返りしてきたということは、無しになったというのは想像もつく。馴染みの店主もそう評していた。

のだが、それならメールアドレスは知らなくてもショートメールを打てるだろうし、その件で拙も度々店を訪れているのだから、店主に言伝でもしておけばよかろう。

「ダメだった」と。これだけで済む。ダメでなければ、その女性が続ける気があるなら電話してくる可能性がどれくらいあるかしらんが、少しはある。だから、引っ張る理由が判らない。


そしてまた日が経ち、かつて、麻原もどきのおっさんの元でラヂヲをやっていた時に作ったFacebookに、友達申請が舞い込んできた。


例の面会の日に、持っていることは持っている、とはしゃべったので、それを覚えていたか、数少ない友達リストに馴染みの店主もいるので、聞いたのかもしれないが、ともかく、例の仲介役からだった。

Facebookのメッセンジャーとやらは、他人から見られるのかどうかはよく判らないので、といっても、エシュロンが世界中のメールを調べまくってるとか言う話なので、心配する意味がないのだが、そやつに具体的な内容を伏せつつ問うてみたところ、ただ一言だけ返ってきた。

「ですね。そういう話でした」

拙も大人気ないので、「一言で済む話を何故ここまで引っ張った?」と怒ったものだが、一週間ほど経っても弁明も何もないので、友達申請をクーリングオフすることにしたものである。


ここからがまたオカルトな話になる。


そやつは、オーラが見えるのだとか言っておった。

ただ、拙と今はその店にいない店員のオーラをどちらも「黒っぽい色」だと述べていた。ここは記憶違いの可能性が高いが、馴染みの店主も黒と評していた気がする。

オーラとかいうもので検索してみると、そういうセミナーだとかがあって、そういうサイトで書かれていた話があった。これもかなりうろ覚え。

人によって同じものや人を見ても、見える色がまちまちになったりする。というのも、その人が見たい色を見出していたりするからというのである。

いわゆるオーラというのは、言ってしまえば水のようなもので、水に色のついた何かが混じればその色になる。評される色は全て溶け込んでいるわけで、人によって何が出るか出ないかはまちまちなだけである。

見出す方もまた、同じだといえる。よくあるオーラの色で性格だとか状態を評するところで見るのは、黒は調子が悪いときというものである。それだけではないが、そういう時が多いとは聞く。

そやつがいうには、職人気質な人の悪い意味の黒ではないとは言っておったが、実際は、そやつがくすんでおるだけではないのか?というのが拙の推測である。

そうではなく、そやつの言うとおりだとしたら、彼奴はインディーズのミュージシャンであり、だから黒ばかり見えるのだという話である。


こういった内容(すぐ上のは今回初めて書いた)を含んだ経緯を知り合いにメールでお知らせしたら、反応がなかった。そのメールを書いた後に前回の記事を書いたので、「こりゃきっと気味悪く思われたんだろうナァ」と考えた次第である。

そんなノリで書いたから、前回の記事も気味悪いものであろう、というところである。


とはいうものの、拙に言わせれば、この世がある、この世にいるという事自体がもはや「気味が悪い」のだと考えている。

かつての陰謀論者の端くれだった意味合いで言っているのでもなく、あとはスピ系陰謀論者がいうような、「魔術で世の中支配している奴らがどうこう」という意味もない。

魔術云々で、悪党のように言われている有名人がいる。善人とも評せないが、評するなら「途轍もない人物」といえる、アレイスター・クロウリーという魔術師である。

彼はこういう風に言っていたそうだ。

「人が思考し考えて行動するというのは、魔術なのだ」と。思考し考えて、というのは読んだところでそう書いていた。何せ記述するために書かれたものではないので、そうなっていたようだが、意味はおかしくなってはいないだろう。


前回の記事の冒頭で、「信じるものは云々」と始め、人が生きるというのは、信じる力が故、という風に書いた。

これはその時考えたわけではなく、かなり昔から思っていたことである。

人が生きるというのは、何かの宗教団体に所属することではない意味での宗教なのだと。信じる力が故というのに準えるならば、信仰が故なのだと。

かつて読んだ魔術のHPでも、気というのは信じてなければ判らないとあった。逆に言えば、無いと信じるのが一般の通念なので、無いことになっているとも言える。

人が考えて行動するというのはつまり、生きることである。結局、同じようなことに思い至ってしまったといえる。



拙はこういう話をもう何年も書き連ねてきたわけだが、実を言うと、己自身でも変に思っている。こういう話をどう感じるかという意味である。

こういう話を読んだり考えたり実践しながら、常々思っている。「気味が悪い」と。こうやって書いている言葉でなければ、「ばかくせぇ」とちょくちょく頭の中で響いてくるものである。


いわゆるオカルト染みた話を信じてもらおうとは思わない。まあ、信じてくれたら少しは嬉しいかもしれないが、拙のことは拙自身が判ればそれでよい。


気味が悪いのは君が悪いのだろうなどという冗談のような話が真実になりえるのが、さっきも書いた、この世にあること自体が「気味が悪い」の所以である。

「気味が悪い」と書いているが、別に文字通りの意味ではないことをお断りしておく。記事やメールを気味悪がられていただろうな、というところから引っ掛けた話である。


改めて問う。

気味が悪いと君は思うとして、それは何ゆえか?拙の話を頭から信じろという意味ではなく、何事に対してもである。

それは、君が君自身だと思いなしている偏頗な存在にしがみついているからではないか?

君が君自身だと思いなしているものからすれば、全ては気味が悪いだろう。そもそも、全てを判りはしないのだから。

気味が悪いのは君が悪い。だからこそ、この「気味が悪い」世は気味が悪いのである。


などと書くと、いやはや。気味が悪い。
この言いようは何様のつもりだ?と問われれば、お陰様で、と返すことにする。



「気味が悪い」ではなく気味が悪いと思いなせば、この世はそう動いてしまう。

どちらにしても、「気味が悪い」のだなと、思わざるを得ないのである。



では、よき終末を。


ヒーラー社員

2018-05-01 | 雑記
信じるものは救われる、とはいうが、救われるかどうかも含めて、実際、人間の行動の理由というか原動力というのは「信じられるかどうか」にあるという。

数年来、拙は物やら空間やら自身の体から、靄のようなものが出てくるのを見れるようになったと書いてきた。

これに色がついて見えれば、オーラといい、東洋では気と呼び習わす存在である。

見えると思わなければ見えず、感じないと思えば感じることはないという、一行目の話そのものではある。

昨今は、右手のひらを上に向けてなんとなく見ると、手のひらの中心が熱くなってくる。人差し指と中指と親指だけ伸ばして、何か指し示すような具合にしてみると、揃えた二本の指先が熱くなる始末。

今も、見た時は揺れてなかったロウソクの炎に向かってその指を向けてみたら、数秒後には揺れ始めた。

信じるか信じないかは好きにしてもらうとする。信じてくれとは書いてもいない。


とはいえ、一人では判りづらいので、先日、人に試してみた。


この手の話をするまでは、ただの北海道出身の人だと思っていたのだが、実はイタコの家系で、姉上に到っては何やら見えるような性質だったと語っており、ご子息なんかも、気功の如く気を練る動作をして、それを痛む肩に乗せてもらったら、何やら感じて痛みが取れるだのという人がいる。

ふむ。では、と、上記の如く手のひらの中心が熱くなったのを確認してから、お互いの手を近づけてみると、驚いた後、こういわれた。

「息子にそうしてもらったときと同じような感じがする」と。

その時は手のひらだけかと思っていたのだが、その方がいうには、指先だけ向けてみても、同じように伝わってくるとのことである。

こちらは特に自分が何か出ている以外は感じないとは伝えたが、実はその方からは、何やらじわじわしたような感じが伝わっていたことを記しておく。

子供のころ、近所のその手の人によく、「また何か背負い込んできて」などといわれていたそうで、もしかしたらこの感じは、そういうのを引き寄せ易い性質というやつなのかと思ったものである。


そして、さらにこういわれた。

「ヒーラーになるといい」と。

ずっと昔。とあるオンラインRPGで、一キャラ一ジョブのシステムの奴を始めた時、「ヒーラーは必要だよなぁ」などと思って頑張った覚えがあるが、苦しかったのでもうやりたくないものである。

いや、違う。

その方にも語ったが、自分でどこか痛いところが出てくると、手をそこに当ててしばらくすれば、痛みが引いたり楽になったりする。

だからこそ、そんなことを言われたのだが、別に特殊能力でもなんでもない。野口晴哉は、「誰でも出来ることです」と語っているのである。

引き合いに出す人物が極端かもしれないが、出来るのだからそうなのだろうとしか、こちらもいえぬ。というより、よく引き合いに出しているが。

野口整体では「愉気」というのだが、これを宗教臭いのに回帰したのが、名前は忘れたが日本にある教団だったり、海外製のレイキだったりするのだろう。レイキの方はよく知らないが、たまに見かける名前である。


仕方ないので、「こちとらヒーラー社員だ」などと冗談を言ったら、妙に受けて、余計困ったものである。


よく顔を合わせる人物から、ゲーム以外の意味で「ヒーラー」という単語が飛び出したのは、恐らく人生初だろうと思われる。


のだが、このヒーラーについて、ある人物が語っていたことがあったため、実はそういうのに興味がない。

スピリチュアル系の話題にもあるそうだが、「癒されていないヒーラー」なんぞというのがあるくらいで、実は問題を抱えているのだろう。

そういう言葉を使ってはいなかったが、かつてヒーラーだった人物が語っていたという話を、いつもの如くうろ覚えの引用先も示さないやり口で乗せておく。


その人物が若かったころ。丁度阪神大震災の折で、彼は被災地でヒーラーの仕事をしていた。

そういうのは正確に言うと、ボランティアですらない。そして、苦しんでる爺さんだかを癒して「よくなったね」などと声をかけたりしていたのだが、彼らは地震や火事で、寝るところもない。

しかし自分は東京に帰って普通に暮らしている。

これは自分が特別なことを出来るというのを確認するためにやっている、他者依存のヒーラーだと。そう感じて辞めたそうな。

例えていうなら、上から目線とでもいうところか。癒してやっている、という感覚なのだろう。

それで、愛だとか調和だとかいった言葉を使いたがるヒーラーには手厳しくなった、とのことである。


というわけで、拙がヒーラーになるのだったら、目標はもっと大きく掲げるべし、とそう考えた。

拙が癒したいのは目の前の人なんぞではなく、それらも含めた全宇宙だ!とでもしておく。


大きく出たナァと思うが、実は大きくもない。いや、普通の感覚では計りづらいという意味では大きくなる。


上記の元ヒーラーの方が言っていた話をさらに書いておく。


この世の全ての文化には、共通した、究極の三つの原則があるという。

一つは、この宇宙は意識のエネルギーで出来ている、これらは意志を持って生きているとすらいえるということ。

『魔術入門』を紐解くまでもなく、似たようなことはアイクなども言っているので、馴染みの方もおられるだろう。

二つは、人間には宇宙が内包されている。宇宙のすべてがあるのだと。宇宙のあらゆるところに影響を与えられるのだと。
人間の意識一つで宇宙を変えられる。アイクだと、どうも地球どまりの話ばかりだったと記憶している。

そして三つ。我は世界と同じ。だが、世界は我と同じではない。

それは、我の方が偉い、とのことである。


かつてヒーラーで爺さん癒してた時に感じていたことを、爺さんが下でその方が上とするならば、こっちの我とあっちの我に貴賎の区別などないのである。そもそも区別すらない。


ならば、我が癒すべきは我である。これで地球も宇宙も癒されるのである。


簡単な話ではないか。


というわけで、拙がヒーラーとやらになるのだったら、そういう夢みたいな話をするだけになる。被災地に飛んでいったりはしない。


卑俗な言い方をするならば、こうなる。

ヒーラー気取りで悦に入るぐらいなら、近所で酒飲んで馬鹿話してるほうが遥かにいい。

とはいえ、ヒーラー社員は懐が寂しいのである。あ、社員ですらなかったな。

次はヒーラー社長とかヒーラー大臣とかよく判らない感じになろうか。


では、よき終末を。