ウィルヘルム・ライヒが、その著書『性の革命』冒頭で、こう書いていた、とは何度か述べたが、また書く。
曰く「政治家や軍人、大企業の社業などの権力者は皆だったり友人だったりするのだ」と。
オーガズム・インポテンスが人類の不幸の原因である、というのがライヒの研究の到達点である。
つまり、人類もしくはその他諸々を支配したがるというのは、本質的な満足(ライヒがいうところのオーガズム)が得られていない(インポテンス)からと。
医者の書くところだから(むしろ文学者の書くところだが)、上記の著書の記述は、比喩か何かかと思われそうだが、そーゆーわけでもなかった。
最近怪しくなってきた記憶で怪しく書くが、上記の「政治家や軍人云々」が比喩なんぞではない、という一端をご紹介しようかと思う。
それは・・・10年前のことであった・・・。いや、もっと遡って、第二次世界大戦のころである。
ヒトラーさんとこのアドルフが相当出世して、総統になって辣腕を振るっていたころぢゃ。
とあるアメリカの企業の社長が、ヒトラーと会見し、ビジネス提携を結んだそうな。
公式にヒトラーが会見した、唯一のアメリカ人であったという。
アメリカとドイツは戦争状態になっていたかそこからなるのか忘れたが、このビジネスはナチスが滅ぶまで続いていたようだ。
戦争相手の国にビジネスやるってのは商魂逞しい、と思われる。実にどーかしている。
どーかしている理由として、そのヒトラーに会ったアメリカ人は、アメリカ軍の大佐という高級な位にも就いていたからだ。
商売やるっていうことは、相手に便宜を図るわけである。図ってもらったら、こっちにも、となるわけだ。
とはいえ、軍の将校が戦争相手国とビジネスをやる。これほどワケノワカラン話があろうか?というわけである。
ワケノワカランついでに、戦後、その大佐は「アメリカの英雄」なんぞともてはやされたそーな。
一概に利敵行為をしていたとは言い切れないのかもしれないが、おかしな話である。
まあ、当時のスイスも、「永世中立国」なんぞといいながら、ドイツに物売っていたそうである。軍需品をな!
いやはや、ライヒの言うとおりであった。
世界はイルミナティに支配されている!全体主義が到来しようとしている!!と、のたまっていた上人が裏では「(彼奴らの理想にあるとおり)バカな人類を間引くのは賛成だ」などと、上記の大佐のようなダブルスタンダードっぷりを発揮している。
ああ、これはアレだ。「戦争」が終ったら英雄ともてはやされるための下準備だな?
惜しむらくは、決して社会的に高級な位などにはなく、むしろその社会を破壊したいだけというわけで、誰にももてはやされないのである。地球はブロマガを購入なんぞしてはくれまい。
『心でっかちな日本人』にあった話を少しする。
人間の心はコンピューターのようだ、と我々は漠然と感じている。人間をコンピューターに準えた話は、ロックフェラーでない方のデービッドもやっていた。
人工知能についての話があって、これが人間のようにはいかない。コンピューターと人間の違いとはなんなのか?
で、いくつかの失敗例を示しながら、ある解決策ができたことを言っていた。
ロボットに自力でエネルギーを補給させるという実験で、エネルギーがなくなったらバッテリーを取りかえる、という動きをさせる。
部屋には時限爆弾があって、バッテリーの入ったワゴンを引っ張り出したのはいいが、その上にあった爆弾を引っ張り出して爆発四散。
なんで爆発してしまったのかというと、そのロボットは自分の行動がどういう結果を生むかを考えられなかったから、というわけである。
じゃあ、問題を徹底的に考えるようにしよう!と組んでみたら、今度は無限大の可能性を導き出して動けなくなり、爆発四散。困った困った。
このような問題を「フレーム問題」というそうで、引用するとこうある。
この問題は簡単に要約すると、環境の中に無数にある情報のなかから意味のある情報をどうやって取り出すかという問題です。私たち人間は、この問題をいともたやすく解決しています。
人間は、あんまり意識しなくても、上のバッテリーを取り出すなんぞ簡単にやってのけるだろうが、コンピューターにはこれがとても難しいというわけである。
で、ロボットに与えられた解決方法はというと、上記の状況に当たったら、「まずはワゴンの上の爆弾を下ろしてからバッテリーを取り出すというプログラムを組み込む」、というものだそうな。
この人工知能の問題は、まだ定説を得られていないそうだが、著者が考えている方向に沿ったものであり、多くの賛同者も得ている理論、というわけで、これだけがあるわけではないそーだ。まあ、本筋には関係ない。
そこで簡単にいうと、人間はコンピューターのように最初から全部どうなるか考えて動いているわけではなく、ある問題についてはこうやって解決する、というプログラムがいくつか用意されていて、その地域だとか人種だとかで、その働かせ方の優先順位だとかが違う、というわけである。
中身は同じだが、プログラムの優先順位が変わっている、というわけである。モジュール、といってたかな。
筆者の山岸はその「心の道具箱」というアイデアを説明するにあたり、人工知能の話をしていた。そのアイデアの細かいところは読んでくれ。
思うに、アメリカで生まれ育った日本人がアメリカ人と見た目以外は同じになる理由でもある。
ん?中国人は変わらんぞ?と突っ込む奴は考え方が足りない!!
大体、中華街なんぞ作って向こうでも中国人生活をしているのが中国人である。(中国人だけじゃないが)
とはいえ、日本にいても、麻原みたいになったりする。
誰とは敢えて言わんが、鬱屈した環境で生まれ育つと、どーやらその環境に適応したモジュールばかりを働かせるらしい。
思うにそれは、森の中で猿だった時に直面した問題に対するモジュールであろう。
森以外は不当!というわけで森以外は破壊だ!というのは、かつて森でいやな目に遭ったからではなかろうか。
先日も言ったが、「生存競争の果てに森へ敗走したから」というのなら、なおさらである。
森、と書いたが、別に森ではない。上の誰かさんについては、「物理的な意味での森」ではあるが、それは見えている部分だけである。
「愛国心は悪党の最後の隠れ家」、というわけで、木が生い茂っている環境だけではないのである。
現代において日本文化万歳!と猛り狂っているのも、森に逃げ込んだ猿の時の心持と変わらない。
先日述べたように、「日本文化」というのは幻想である。少なくとも、日本文化は素晴らしいから続いていたというのは嘘である。
「ゴイムは滅ぼす」というとち狂ったユダヤ的妄想もまた同じである。狂信的ユダヤ教という隠れ家である。
現代文明こそ至宝!だとか、かつての文明の方が!というのも違いを探す気にすらならないレベルである。
「森」以外は排除だ!できたら破壊だ!というのは、決して森が好きだったわけではないのである。
そもそも、最初から好きで「森」に入ったわけでもなかったのだから。
ジンルイのゴセンゾは、生きてさまざまな問題に直面してきた。それ自体が我々の財産となっている。足かせになったりもしているが。
過去に何でもかんでも戻せばいいというのは、その財産を作ってきたこと自体を放棄するわけである。
森に入ることになったこと自体が問題だったわけならば、もう森には居られまい。
問題解決のために森に入るべし!とのたまうのならば、なお更である。
即刻、全てを灰燼に帰すべきである。己も森も地球も何もかも、である。
突き詰めたら全てを消す以外にないのに、半端な理解しかしない。
理解ならまだしも、かつて、同じような問題に直面したときに、そういう風に動けば大体上手く行ったから、というプログラムで動いているだけである。(前述の「心の道具箱」にあった話である)
だから、理解なんぞ実はしていない。
それだからせいぜい、「森」に立てこもるのが関の山である。
人類は皆(上記のようなレベルでの)兄弟である。
曰く「政治家や軍人、大企業の社業などの権力者は皆だったり友人だったりするのだ」と。
オーガズム・インポテンスが人類の不幸の原因である、というのがライヒの研究の到達点である。
つまり、人類もしくはその他諸々を支配したがるというのは、本質的な満足(ライヒがいうところのオーガズム)が得られていない(インポテンス)からと。
医者の書くところだから(むしろ文学者の書くところだが)、上記の著書の記述は、比喩か何かかと思われそうだが、そーゆーわけでもなかった。
最近怪しくなってきた記憶で怪しく書くが、上記の「政治家や軍人云々」が比喩なんぞではない、という一端をご紹介しようかと思う。
それは・・・10年前のことであった・・・。いや、もっと遡って、第二次世界大戦のころである。
ヒトラーさんとこのアドルフが相当出世して、総統になって辣腕を振るっていたころぢゃ。
とあるアメリカの企業の社長が、ヒトラーと会見し、ビジネス提携を結んだそうな。
公式にヒトラーが会見した、唯一のアメリカ人であったという。
アメリカとドイツは戦争状態になっていたかそこからなるのか忘れたが、このビジネスはナチスが滅ぶまで続いていたようだ。
戦争相手の国にビジネスやるってのは商魂逞しい、と思われる。実にどーかしている。
どーかしている理由として、そのヒトラーに会ったアメリカ人は、アメリカ軍の大佐という高級な位にも就いていたからだ。
商売やるっていうことは、相手に便宜を図るわけである。図ってもらったら、こっちにも、となるわけだ。
とはいえ、軍の将校が戦争相手国とビジネスをやる。これほどワケノワカラン話があろうか?というわけである。
ワケノワカランついでに、戦後、その大佐は「アメリカの英雄」なんぞともてはやされたそーな。
一概に利敵行為をしていたとは言い切れないのかもしれないが、おかしな話である。
まあ、当時のスイスも、「永世中立国」なんぞといいながら、ドイツに物売っていたそうである。軍需品をな!
いやはや、ライヒの言うとおりであった。
世界はイルミナティに支配されている!全体主義が到来しようとしている!!と、のたまっていた上人が裏では「(彼奴らの理想にあるとおり)バカな人類を間引くのは賛成だ」などと、上記の大佐のようなダブルスタンダードっぷりを発揮している。
ああ、これはアレだ。「戦争」が終ったら英雄ともてはやされるための下準備だな?
惜しむらくは、決して社会的に高級な位などにはなく、むしろその社会を破壊したいだけというわけで、誰にももてはやされないのである。地球はブロマガを購入なんぞしてはくれまい。
『心でっかちな日本人』にあった話を少しする。
人間の心はコンピューターのようだ、と我々は漠然と感じている。人間をコンピューターに準えた話は、ロックフェラーでない方のデービッドもやっていた。
人工知能についての話があって、これが人間のようにはいかない。コンピューターと人間の違いとはなんなのか?
で、いくつかの失敗例を示しながら、ある解決策ができたことを言っていた。
ロボットに自力でエネルギーを補給させるという実験で、エネルギーがなくなったらバッテリーを取りかえる、という動きをさせる。
部屋には時限爆弾があって、バッテリーの入ったワゴンを引っ張り出したのはいいが、その上にあった爆弾を引っ張り出して爆発四散。
なんで爆発してしまったのかというと、そのロボットは自分の行動がどういう結果を生むかを考えられなかったから、というわけである。
じゃあ、問題を徹底的に考えるようにしよう!と組んでみたら、今度は無限大の可能性を導き出して動けなくなり、爆発四散。困った困った。
このような問題を「フレーム問題」というそうで、引用するとこうある。
この問題は簡単に要約すると、環境の中に無数にある情報のなかから意味のある情報をどうやって取り出すかという問題です。私たち人間は、この問題をいともたやすく解決しています。
人間は、あんまり意識しなくても、上のバッテリーを取り出すなんぞ簡単にやってのけるだろうが、コンピューターにはこれがとても難しいというわけである。
で、ロボットに与えられた解決方法はというと、上記の状況に当たったら、「まずはワゴンの上の爆弾を下ろしてからバッテリーを取り出すというプログラムを組み込む」、というものだそうな。
この人工知能の問題は、まだ定説を得られていないそうだが、著者が考えている方向に沿ったものであり、多くの賛同者も得ている理論、というわけで、これだけがあるわけではないそーだ。まあ、本筋には関係ない。
そこで簡単にいうと、人間はコンピューターのように最初から全部どうなるか考えて動いているわけではなく、ある問題についてはこうやって解決する、というプログラムがいくつか用意されていて、その地域だとか人種だとかで、その働かせ方の優先順位だとかが違う、というわけである。
中身は同じだが、プログラムの優先順位が変わっている、というわけである。モジュール、といってたかな。
筆者の山岸はその「心の道具箱」というアイデアを説明するにあたり、人工知能の話をしていた。そのアイデアの細かいところは読んでくれ。
思うに、アメリカで生まれ育った日本人がアメリカ人と見た目以外は同じになる理由でもある。
ん?中国人は変わらんぞ?と突っ込む奴は考え方が足りない!!
大体、中華街なんぞ作って向こうでも中国人生活をしているのが中国人である。(中国人だけじゃないが)
とはいえ、日本にいても、麻原みたいになったりする。
誰とは敢えて言わんが、鬱屈した環境で生まれ育つと、どーやらその環境に適応したモジュールばかりを働かせるらしい。
思うにそれは、森の中で猿だった時に直面した問題に対するモジュールであろう。
森以外は不当!というわけで森以外は破壊だ!というのは、かつて森でいやな目に遭ったからではなかろうか。
先日も言ったが、「生存競争の果てに森へ敗走したから」というのなら、なおさらである。
森、と書いたが、別に森ではない。上の誰かさんについては、「物理的な意味での森」ではあるが、それは見えている部分だけである。
「愛国心は悪党の最後の隠れ家」、というわけで、木が生い茂っている環境だけではないのである。
現代において日本文化万歳!と猛り狂っているのも、森に逃げ込んだ猿の時の心持と変わらない。
先日述べたように、「日本文化」というのは幻想である。少なくとも、日本文化は素晴らしいから続いていたというのは嘘である。
「ゴイムは滅ぼす」というとち狂ったユダヤ的妄想もまた同じである。狂信的ユダヤ教という隠れ家である。
現代文明こそ至宝!だとか、かつての文明の方が!というのも違いを探す気にすらならないレベルである。
「森」以外は排除だ!できたら破壊だ!というのは、決して森が好きだったわけではないのである。
そもそも、最初から好きで「森」に入ったわけでもなかったのだから。
ジンルイのゴセンゾは、生きてさまざまな問題に直面してきた。それ自体が我々の財産となっている。足かせになったりもしているが。
過去に何でもかんでも戻せばいいというのは、その財産を作ってきたこと自体を放棄するわけである。
森に入ることになったこと自体が問題だったわけならば、もう森には居られまい。
問題解決のために森に入るべし!とのたまうのならば、なお更である。
即刻、全てを灰燼に帰すべきである。己も森も地球も何もかも、である。
突き詰めたら全てを消す以外にないのに、半端な理解しかしない。
理解ならまだしも、かつて、同じような問題に直面したときに、そういう風に動けば大体上手く行ったから、というプログラムで動いているだけである。(前述の「心の道具箱」にあった話である)
だから、理解なんぞ実はしていない。
それだからせいぜい、「森」に立てこもるのが関の山である。
人類は皆(上記のようなレベルでの)兄弟である。