ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

世は如何にして悉皆兄弟となりし乎

2015-04-20 | 雑記
ウィルヘルム・ライヒが、その著書『性の革命』冒頭で、こう書いていた、とは何度か述べたが、また書く。

曰く「政治家や軍人、大企業の社業などの権力者は皆だったり友人だったりするのだ」と。

オーガズム・インポテンスが人類の不幸の原因である、というのがライヒの研究の到達点である。

つまり、人類もしくはその他諸々を支配したがるというのは、本質的な満足(ライヒがいうところのオーガズム)が得られていない(インポテンス)からと。

医者の書くところだから(むしろ文学者の書くところだが)、上記の著書の記述は、比喩か何かかと思われそうだが、そーゆーわけでもなかった。

最近怪しくなってきた記憶で怪しく書くが、上記の「政治家や軍人云々」が比喩なんぞではない、という一端をご紹介しようかと思う。


それは・・・10年前のことであった・・・。いや、もっと遡って、第二次世界大戦のころである。

ヒトラーさんとこのアドルフが相当出世して、総統になって辣腕を振るっていたころぢゃ。


とあるアメリカの企業の社長が、ヒトラーと会見し、ビジネス提携を結んだそうな。

公式にヒトラーが会見した、唯一のアメリカ人であったという。

アメリカとドイツは戦争状態になっていたかそこからなるのか忘れたが、このビジネスはナチスが滅ぶまで続いていたようだ。

戦争相手の国にビジネスやるってのは商魂逞しい、と思われる。実にどーかしている。

どーかしている理由として、そのヒトラーに会ったアメリカ人は、アメリカ軍の大佐という高級な位にも就いていたからだ。

商売やるっていうことは、相手に便宜を図るわけである。図ってもらったら、こっちにも、となるわけだ。

とはいえ、軍の将校が戦争相手国とビジネスをやる。これほどワケノワカラン話があろうか?というわけである。

ワケノワカランついでに、戦後、その大佐は「アメリカの英雄」なんぞともてはやされたそーな。

一概に利敵行為をしていたとは言い切れないのかもしれないが、おかしな話である。

まあ、当時のスイスも、「永世中立国」なんぞといいながら、ドイツに物売っていたそうである。軍需品をな!

いやはや、ライヒの言うとおりであった。


世界はイルミナティに支配されている!全体主義が到来しようとしている!!と、のたまっていた上人が裏では「(彼奴らの理想にあるとおり)バカな人類を間引くのは賛成だ」などと、上記の大佐のようなダブルスタンダードっぷりを発揮している。

ああ、これはアレだ。「戦争」が終ったら英雄ともてはやされるための下準備だな?


惜しむらくは、決して社会的に高級な位などにはなく、むしろその社会を破壊したいだけというわけで、誰にももてはやされないのである。地球はブロマガを購入なんぞしてはくれまい。


『心でっかちな日本人』にあった話を少しする。


人間の心はコンピューターのようだ、と我々は漠然と感じている。人間をコンピューターに準えた話は、ロックフェラーでない方のデービッドもやっていた。

人工知能についての話があって、これが人間のようにはいかない。コンピューターと人間の違いとはなんなのか?
で、いくつかの失敗例を示しながら、ある解決策ができたことを言っていた。

ロボットに自力でエネルギーを補給させるという実験で、エネルギーがなくなったらバッテリーを取りかえる、という動きをさせる。

部屋には時限爆弾があって、バッテリーの入ったワゴンを引っ張り出したのはいいが、その上にあった爆弾を引っ張り出して爆発四散。

なんで爆発してしまったのかというと、そのロボットは自分の行動がどういう結果を生むかを考えられなかったから、というわけである。

じゃあ、問題を徹底的に考えるようにしよう!と組んでみたら、今度は無限大の可能性を導き出して動けなくなり、爆発四散。困った困った。

このような問題を「フレーム問題」というそうで、引用するとこうある。

この問題は簡単に要約すると、環境の中に無数にある情報のなかから意味のある情報をどうやって取り出すかという問題です。私たち人間は、この問題をいともたやすく解決しています。


人間は、あんまり意識しなくても、上のバッテリーを取り出すなんぞ簡単にやってのけるだろうが、コンピューターにはこれがとても難しいというわけである。

で、ロボットに与えられた解決方法はというと、上記の状況に当たったら、「まずはワゴンの上の爆弾を下ろしてからバッテリーを取り出すというプログラムを組み込む」、というものだそうな。

この人工知能の問題は、まだ定説を得られていないそうだが、著者が考えている方向に沿ったものであり、多くの賛同者も得ている理論、というわけで、これだけがあるわけではないそーだ。まあ、本筋には関係ない。

そこで簡単にいうと、人間はコンピューターのように最初から全部どうなるか考えて動いているわけではなく、ある問題についてはこうやって解決する、というプログラムがいくつか用意されていて、その地域だとか人種だとかで、その働かせ方の優先順位だとかが違う、というわけである。
中身は同じだが、プログラムの優先順位が変わっている、というわけである。モジュール、といってたかな。

筆者の山岸はその「心の道具箱」というアイデアを説明するにあたり、人工知能の話をしていた。そのアイデアの細かいところは読んでくれ。

思うに、アメリカで生まれ育った日本人がアメリカ人と見た目以外は同じになる理由でもある。

ん?中国人は変わらんぞ?と突っ込む奴は考え方が足りない!!

大体、中華街なんぞ作って向こうでも中国人生活をしているのが中国人である。(中国人だけじゃないが)

とはいえ、日本にいても、麻原みたいになったりする。


誰とは敢えて言わんが、鬱屈した環境で生まれ育つと、どーやらその環境に適応したモジュールばかりを働かせるらしい。

思うにそれは、森の中で猿だった時に直面した問題に対するモジュールであろう。

森以外は不当!というわけで森以外は破壊だ!というのは、かつて森でいやな目に遭ったからではなかろうか。

先日も言ったが、「生存競争の果てに森へ敗走したから」というのなら、なおさらである。


森、と書いたが、別に森ではない。上の誰かさんについては、「物理的な意味での森」ではあるが、それは見えている部分だけである。

「愛国心は悪党の最後の隠れ家」、というわけで、木が生い茂っている環境だけではないのである。

現代において日本文化万歳!と猛り狂っているのも、森に逃げ込んだ猿の時の心持と変わらない。
先日述べたように、「日本文化」というのは幻想である。少なくとも、日本文化は素晴らしいから続いていたというのは嘘である。
「ゴイムは滅ぼす」というとち狂ったユダヤ的妄想もまた同じである。狂信的ユダヤ教という隠れ家である。
現代文明こそ至宝!だとか、かつての文明の方が!というのも違いを探す気にすらならないレベルである。

「森」以外は排除だ!できたら破壊だ!というのは、決して森が好きだったわけではないのである。
そもそも、最初から好きで「森」に入ったわけでもなかったのだから。


ジンルイのゴセンゾは、生きてさまざまな問題に直面してきた。それ自体が我々の財産となっている。足かせになったりもしているが。

過去に何でもかんでも戻せばいいというのは、その財産を作ってきたこと自体を放棄するわけである。

森に入ることになったこと自体が問題だったわけならば、もう森には居られまい。
問題解決のために森に入るべし!とのたまうのならば、なお更である。

即刻、全てを灰燼に帰すべきである。己も森も地球も何もかも、である。

突き詰めたら全てを消す以外にないのに、半端な理解しかしない。
理解ならまだしも、かつて、同じような問題に直面したときに、そういう風に動けば大体上手く行ったから、というプログラムで動いているだけである。(前述の「心の道具箱」にあった話である)
だから、理解なんぞ実はしていない。

それだからせいぜい、「森」に立てこもるのが関の山である。


人類は皆(上記のようなレベルでの)兄弟である。



人類を支配したいのなら

2015-04-17 | 雑記
先日、久しぶりにブログを更新した。

で、大体誰も感想を書かない(日に20人程度しか見に来ない弱小ブログにそのような人はおるまい)ので、知り合いに電話をして、足りないところをあーだこーだいったり、雑談に興じたりしたものであった。

その知り合いはすでにお読みになられていたので、電話口で改めて語ることもなく、実に助かったものである。


たしかに、前回の記事は記述不足である。が、全部引用して書くわけにもいかない(見ながら書くのは大変である)。

というわけで、また似たような違う話をしつつ、時折触れるような触れないような、そういう風にしていこうかと思う。

大体、来週になった忘れているであろうが、覚えている限りは忘れないでいてくれたまえ!



さて、「心でっかち」というのを紹介した。時折触れるんじゃなかったのか?というのはもう忘れた!それはともかく、「心でっかち」とは心理学者の山岸俊男の発案である、と前回の記事に。

頭でっかちが知識と行動のバランスがとれていないのと同様に、心と行動のバランスがとれていない状態をいう。


『心でっかちな日本人~集団主義文化という幻想~』というのが、その言葉とそれにまつわる研究についての著作の正式タイトルである。

前回はそれすら省略して『心でっかちな日本人』とだけ書いた。お詫びして訂正はしない!


まえがきの終わりの方にこうある。

筆者が本書でしようとしているのは、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取っていき、その裸の姿を明らかにする作業です。神話のベールを剥ぎ取った「裸の現実」を見ることこそが、「何をどのように変えればよいのか」を知るために、私たちが避けて通ることのできない路である―筆者はそう考えてこの本を書きました。

噛み砕いて話をすると、日本人には、「日本文化」というものがあって、そのうちの一つの集団主義というのは、集団で行動すること大事だからとか、居心地の良さを感じるだとか、そういう生まれつきがあるのだ、というような話はない、ということである。
集団主義がないわけではなく、それは覆せないものでも生まれつきでもなんでもない、あると思い込んでいただけの「日本文化」といわれる幻想であった、ということである。

逆に、メリケンだとかの個人主義というのも、個人が大好きだからやっている、というよくある理解も間違いであるという。

噛み砕いて噛んでたことすら忘れるほど砕いたので、後は読むなり考えるなりググルなりしてくれたらいいが、他の人の方がもっと詳しくやってると思われるので、あまり突っ込まないデ!



さて、こういう話を書くと、またいつものパターンである。今日は早いな!


筆者の山岸が主張するところによると、「文化は与えられるものではなく自分たちでつくるものだ」とある。上記の著作の終わり際に出てくる。そこから続いてこうある。

文化が相補均衡から成り立っているとういうところのいちばん重要な点は、「文化は、私たち自身の行動によって生み出され支えられている」という点なのです。私たち一人ひとりは、まわりの人たちの行動によってつくり出され維持されている社会的環境の中で行動しています。しかしそれと同時に、そうやって行動することで、社会的環境自体をつくり出すのに手をかしているのです。

相補均衡、という聞きなれない言葉が出てきたが、これも前述の著作で紹介されている概念である。

字解したら、相補ってバランスをとる、ということになるが、上記の引用箇所のことと同じであるかと思われる。単純にバランスが取れている、という一般の理解そのものではないのだが。

まあ、例えたらこうかもしれない。乱暴ものの旦那に暴力を振るわれる嫁さんがいるとして、殴られて辛いつらいという話をしてくるとする。
「分かれたほうがよい」とアドバイスすると、「でもあれであの人いいところが」あって、などと言い出すのも、相補均衡という奴であろう。

それはともかく。


日本人の集団主義は、別に好きだからやってたのではなく、そうやって回りにあわせたほうが生活しやすい(むしろできなかった)から続いてきただけであった、という話である。
集団主義で相補均衡がなっていたが、今は崩れてきたと。

メリケンの個人主義も、同じである。書かれている実験では、集団の状態と個人の状態でどういう動きをするかというのは、日米で大差がなかったそうである。
ちなみに、昔から言われている個人主義という文化も、行き詰まりを見せているそうである。



日本人の集団主義文化というのは幻想である、ここに着目をしたい。



かの為清上人は、フルータリアン的生活、というより食い物変えただけのニューエイジだと思うのだが、その先に真の日本文化があぁぁぁぁる!と絶叫はしてなかったが、ほざいていた。


トニー・ライトのレフトなんとか、という本だと、大昔、猿に近い状態だった人類は、森で果物食って以下略、だったわけだが、何ゆえ森に入ったかというと、他の動物に追われたりで、とあった気がする。

他の学者だかも似たり寄ったりのことはいっている。貧弱だったか他が強すぎたかで森に逃げ込んだと。


さて、森で果物を食っていた人類は、色々と力(力強い肉体や鋭い牙や爪ではなく)をつけてきた。

じゃあ、どうするか?森は広いといえど、そこで慣れて暮らしやすくなってきたら、人口(猿口?)が増えてくる。

森と人類の相補均衡が成り立っていた間は、森を出て行くこと自体が困難であったろう。出たらジャガーに食われるかもしれないし、食べ物も見つからないかもしれない。
それとは別に出ようとしたら、猿の喧嘩が勃発して、そこでリンチ食らったかもしれない。丁度、昔の日本の村八分のように。

森ではもう暮らせない!となって出て行く奴も増えていく。出て行っても生活できるようになってきた。そして、気候も変わり、森は日本の終身雇用制度のように、瓦解していった。

と、考えられる。


猿がやっていた(かもしれない)村八分が真の日本文化である!というなら、実に為清上人は正しいようですなぁ、と皮肉を言わざるを得ないのである。


もう少し。


何度か言ってきたことではあるが、仕方無しに森にいたかもしれないし、生存のために(村八分にされないために)居続けただけかもしれない森での生活を、「人類の本当の姿」といって憚らないのは、たまたま出来上がって続いてきただけのものを「日本文化」と言っているのとまったく同じである。


彼のものは、人類を村八分したいだけである。古く血なまぐさい習慣に乗っ取り、人類を支配したいだけである。

村、じゃなくて森での因習を素晴らしいと勘違いしていたいだけである。


と、いうのが結論であるが、タイトルの話に繋げてもう少し。



為清上人は、かつて運営していた会員制掲示板で「イルミナティの理想に皮肉な賛同をしつつ」とかなんとか、会則を掲げていた。

要するに、バカな人類を減らすのは賛成だ、というのである。


で、何やってたきたのか?

人類を統制する全体主義の動きを指摘したり、体によい食い物だとか習慣を提唱したりしていただけで、穴掘り(二つの意味で)以外はなーんにもしてない。

ほら、ちゃんと仕事しな?

本当に人類を減らしたいなら、「本当の人類の生活」以外の文明を全部破壊しなきゃならんでしょうが?

なら、アベ政権は戦争に行くように仕向けてる!とかよくキョーサントウあたりはいうが、その通りなら安倍政権を支持しまくって、戦争でも起こさねばならん。

イルミナティも度々どこかで戦争を起こしてきたのであろう?

ロックフェラーじゃない方のデービッドもいってたが、イルミナティの目的の一つが、現代文明の破壊であろう?

何故、何もしないのだ?社会運動を起こしたかった?冗談は寝ていうべきである。

人類を支配したいのなら、森で遊んでいる場合ではない!!


ところで、上人はアイクを批判していたが、わしも批判する。

だが、食い物ごときの話ではない。


それは「以前はよかったのに今は悪くなった」という点である。昔の暮らしはよかった、という風なことをアイクは書いていた。
それは陰謀で変えられてきたのだ!と書いている。陰謀の布石なのだ!!と。

そうすると、だ。

上人もまったく同じことを字面だけ変えて言っているので、同じである。


それはどちらも、古い血の衝動(シュタイナー)で物をしゃべり書いてきたから、と言えるのではなかろうか。

上記と前回を読んで多少考えてくれたらわかると思うが、実際は血でもなんでもない。

つまりは、血迷ったということである。おいおい!おかしいよ!でもまあ、血迷ったとしかいえん。


皆様も、血にはお気をつけくださいませ。

血迷うと「心でっかち」になって、心身の重心が上がり、地に足が着かない生活どころか、そのうちアセンションいたしますゆえ。

わしも地に足がついてるかと言われたら、全然着いてない、と答える。いやぁ、自信なんてありませんからねぇ!と自信満々にお答えするであろう。

とはいえ、仙人(らしい)には、ジンルイのリクツは通じないのかもしれない。では、よき終末を。



食事的アイデンティティー論

2015-04-13 | 雑記
世の中は朝、じゃなかった麻のように乱れ、人は恥じ入ることを知らぬ!

これは心がおかしくなったからだ!!!



とは耳にタコができるほど聞いてきたような話である。昔の人もよく聞いてきたことであろう。

それでラリって宗教やらを開いて成功したりもするのが、世の中の常でもある。宗教でなくても似たり寄ったりのことは、最早日常茶飯事である。


冒頭の台詞は、わしも子供のころからよく聞いてきた。わしの親父が言っていたからだ。その言動に影響を与えていたのは、ここでも何度も言ってきたが、某宗教団体だとかなんとか伏せて言ったりもしてる、創価学会である。
いわく、「創価は正しいことをやっているから、正しい心を持てる」という風な感じであった。
そうかそうか。創価は素晴らしいな!

会員同士で「金の貸し借りはしてはならぬ」と暗黙のルールだか会則にあるのだかはしらぬが、親戚に金を無心されるがままに貸し、法事の席で酔ってそのことで挑発して殴られそうになったりするほど正しい心が持てるそーだ。

いやぁ、世の中麻のように乱れておる。恥じ入ることも知りません。

これは心がおかしくなったからだ!!!


とは思わん。




親父は悪党でもないし、善良だが、バカだとは思う。それだけのことではある。



では、何がおかしいのか?特におかしいことはない。以前と変わってしまったことがあるとはいえる。

その「以前」というのが、目の前にいる人と人との関係性で変わるものなのか、それを作り上げている大本が「以前」と違ったり上手くかみ合わなくなっていたりするものなのか、という意味で分かれてくる。じゃあ同じかもしれんな。


それはともかく。目の前にいる人と人との関係性、というのを卑近な例で例えるなら、今日会った人物と数日後も会うとする。

いつもどおりのからかいでおしゃべりを今日は問題なくすごせた。よかったよかった。

はい、数日後。おなじようにしゃべったら相手が怒り出した。よくなかったよくなかった。

と、まあこんな感じである。

で、これを見て、冒頭の台詞のようなのはこういうのかな。

「心がおかしくなった!!!」と。不機嫌な人をからかう奴の神経を疑う必要もあるやもしれぬが、別に心なんぞおかしくなってはおるまいよ。

もしくはからかって怒られた方が上記の台詞をいうのかと。そーゆー感じではあるな。


ここで怒られないようにするには、からかう方をA、怒った方をBと書いていくが、AはBに先日行った、「いつものからかい」をしないようにするべきだったわけである。

Bもまた、「いつものからかい」であることを、不機嫌でも理解していたのだが、こっちはこっちで上手くいかなかったわけである。


心がおかしくなって(変わって)しまった論からいけば、Aは「いつものからかい」をしなくちゃならんし、Bもいつもどおり受け流すべきであったのだが、そうは問屋が卸さぬ、となった。

で、怒った方のやり取りは、Aだけがいつもどおりだったわけである。
Bは不機嫌で、いつものやり方が上手くいかない状態だった。

Aの心は変わってない!Bの心がおかしくなってしまった!こんな世の中は正さなければならぬ!!!となるわけだ。

なったら困るが、「心」が本質で原因ならそーいってそこらじゅうの人を説教してくれなければ、冒頭のキチガイは存在価値がない。説教するまでもなく、受け入れられてはいる話ではあるので、キチガイとすぐ判るのが沸かないだけではある。



社会的アイデンティティー論という、社会心理学の論がある。

なんでも、何がしかの共通項で集った集団というのは、他集団とは我々は違う!と感じて高揚感を得たりする、という風な結論を、実験で見出してきたとのことである。

人間はタコとは違う!我々は素晴らしい!と、総人類そうなってるのかな?と思ってしまうが、権威を持って流布されている論だそうな。

すぐ上の突っ込みは書きながら思いついたが、タコの心理学をやっている人は寡聞にして知らぬ。ゆえに、このような実験はないので立証は不可能であった。


肉を食わない我々は正しい!とか、果物を食っている我々は尊い!だとか、聞こえてきそうになるが、聞こえない。

逆に、肉を食わないなんておかしい、というのもやりあってるので、同じ穴の狢であるといえる。が、とりあえず措く。


この社会的アイデンティティー論というのは、集団は集団内の存在をひいきする、というわけで、他の集団は排斥したり、同じようにひいきにはしない、というところを調べたものである。

その結論が、共通項を持った集団内にいると、人はほっとしたり高揚感を得たりする、というわけである。


が、これはどうも間違えている。その辺りを指摘した学者の本を先日読んだ。

読んだのは先日だが、買ったのは何年も前だったりする。積読は仙人のたしなみゆえ。


山岸俊男という学者が書いた『心でっかちな日本人』という本で、上記の論を得た実験の不備を整理し、追試験をし、その論は間違っていると指摘している。

そもそも、社会的アイデンティティー論(打つの面倒くさいぞこれ)の結論を聞いただけで「おかしい」と指摘していたようだが、その理屈がタイトルにある「心でっかち」だそうな。

これは伝統的に言われている、「頭でっかち」をもじって作った言葉だという。

冒頭にいわく、

「心でっかち」というのは、~以下省略ではなく中略~心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態です。心の持ち方さえ変えればすべての問題が解決される、と考える「精神主義」がその極端な例です。


とのことである。

嗚呼!心にぐさぐさ来る!かつてのわしである!今もだ!!きっとそうだ!!わしの心はおかしいのだ!!!・・・はて?

冗談はさておき、その本の最初の方には、いじめのことについて、統計データを持っていじめを止めない子供は心が醜い、的な昨今の道徳家がほざく話を否定している。

別に、皆好きで加担しているわけではないが、それを止められる社会的状況がないゆえ、止めたくても止められないのである。
無論、幾許かは好きで加担している奴らもいる。

さあ、言うか?「心さえ変えれば一人でもいじめはすぐになくせる!!」と。本当に一人だと、次のいじめのターゲットになるのが常である。

じゃあどうやって止まっていったのか?というと、止めに入る人間の数が一定を越えたら、今まで止めようとしなかった子供たちも止めに入ってくる、という。

後から止めに入った子も、別に心が変わったわけではない。安心して止めに入れる状況になったから、である。

とまあ、ざっくり書いたがこういう話を書いてある本である。一度お読みいただきたいところであるが、好きにしたまえ!



さて、この「心でっかち」にとらわれるとどうなるか?いじめ問題などでよく言う奴が唱える、「心の荒廃」という題目なんぞそうである。
唱えすぎて幻を見るのである。少年犯罪が増加している!!と。実際は増えてない。半減どころではなく、何分の一というほどに減っている。
だが、彼らは唱え続ける・・・。「心がおかしい!」と。


巻末の解説は、別の学者が書いているのだが、こうある。

本書のおもな主張を一言で表せば、人間の「心」というものの「本質主義」の否定だと言えるだろう。本質主義とは、つまり、日本人の「心」~中略~、というとき、これらのカテゴリーの人々に固有の本質的な「心」があるという考えだ。そそして、もしも日本人の「心」が変わってしまったのなら、それは、日本人の本質が変わってしまったのだと考えるのである。


人間の「心」というものの「本質主義」の否定というのがとても気に入った。

さっそく置き換えてみよう。


さて、どこその上人と眷属は、「食い物がおかしくなったから、人はおかしくなった」という主張を繰り返していた。
ふーむ?何か聞こえてこないかね?どうだね?

かつて、そのおかしな食い物でおかしく暮らしてたはずなのに、恥知らずにもそういうのである。その主張が覆しようもないものというのなら、なお更おかしいのである。

いじめを止めに入るメカニズムをざっくり上に書いたが、その流れと同じで、別に本質なんぞ変わってないのである。

自分だけは変わらないけど、他の人間は変わっている!おかしい!という、ありもしない「心の荒廃」を唱える識者と何も変わらんのである。

これを名づけて、食事的アイデンティティーとでもしよう。
社会的アイデンティティー論の理屈を改めて書くが、「共通項のある集団に所属することで人は高揚感や安心感を得る」という。

彼らは食い物で高揚感や安心感を得るという、その理屈でもって生きているようだ。ついでに、名前には出ていないが、社会的、も包含されているわけである。

正式に書けば、食事及び社会的アイデンティティーというわけである。まあ、実際は社会的アイデンティティーであるな。

社会的なんとか論は「心でっかち」の理屈で過てる結論を導き出しているというのが、山岸の指摘。

上人たちの行動は、躓いている論たる社会的なんとか論の幻想に準えて、幻想であるというわけである。

食事的アイデンティティーというのはつまり、「心でっかち」な主張で物を食っている、上人たちをからかった言葉である。

似たような奴らの話はここでも出没したやつにも当てはまるが、馬鹿馬鹿しいのでそうほのめかすだけにとどめる。これだけ言えば誰かはわかるだろう。

これ以上は長くなるので、フェルマーみたいに放置しておく。では、また来世。