ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

飲めないお茶の話

2018-10-13 | 雑記
しばらくここを放置しては、思い出したかのように、いや、実際に思い出して書き始めてはまた止まる、ということがちょくちょくある。今回も例にもれず、というわけである。

久しぶりに文章を書こうというので、そもそも書けるのかどうか怪しい。そこで、ここしばらくの話で茶を濁そうと考えた。


数か月ほど前に、休止していたオンラインゲームを再開した。辞めていた理由もバカバカしいのと、その時書いた気がするので、改めて書くことはしないが、怒りにまかせて決めた事というのは、例えばそこから始めた習慣だとか決意だとかいうのは、何にもならんということが、改めて理解できたかもしれない。

何のゲームかというのを具体的には書いていないが、それは日本国内サービスで有数のID登録数を謡っている、昔はゲーム機を作っていたとある会社の、といえば、分かる人には分かる。

外で飲み食いしていると、金がかかるので、こっちの方がよかろうと思って始めたりしていたことはあるが、結果的にはそうともいえる状況である。

と思っていたら、先月、ついにPCが起動しなくなった。電源は動くが、システムにエラーが出たから修復しています、というような画面が出て、何時間たっても延々変わらない。

さすがに何年もパーツの更新をしてこなかったのもあり、マザーボードに至っては初期のもので、買った年月を後で調べると、十一年ほどとなっていた。

ならば、今やっているゲームをもっと快適に動かせるレベルのに変更しようと、修復画面から戻るかどうか徹夜でにらめっこしていたあと、新品を買ってきて、今に至る。


そこは余談である。


某オンラインゲームを久方ぶりにプレイしていながら、ふと思ったものである。

「こうやってゲームが出来てるってことは、実にありがたいことなんだろうな」と。

単純にゲームの会社が常々、プレイヤーのセーブデータを破損しないように保存して、尚且つ二十四時間いつでも接続したら、どちらかに異常がなければ問題なく(接続者数の集中などで動きが悪くなるなどというのはあるとして)プレイできるというのがある。ゲーム会社にサーバーがあるわけだが、つまりはその精密機器の塊をしっかり管理しているからというわけである。どれくらいしっかり管理しているのか、というのは専門外なのだが、まめに保守しないと、すぐ壊れるのだろうと思われる。

しばらく前に北海道で地震があり、停電が続いたりしていたが、電力会社の供給がなくなれば、上記は破綻する。ゲーム会社の方でなく、自分が住んでいる地域だけでも停電したら、アクセスは不可能と相成る。

無論、それだけではないのだが、話を広げると収拾がつかなくなるので、ここまでにする。

そんなものは今の世の中、当たり前ではないか?という声が普通に出てくるだろう。だが、普通のことというのは、本当に普通なのだろうか?

余談だが、こういうことを何となく感じながら再開して、昔からの知り合いとプレイしていたら、今までプレイしていても触れたことのなかった、高級アイテムが手に入ったりしたものであった。

それも、この数か月で立て続けに。プレイ時間の長さもあろうし、その手のアイテムの入手難度の緩和もあったとはいえ、拙より続けている(続け方は知らんが)他の知り合いには出ていないそうだ。


それはさておき。

そのゲームのことを、例えばプレイ日記を書いたり、ゲーム内容のここが良くないだとか、新しいアイテムやらシステムのことやら、発表された今後の追加要素だとかの事を書いているブログが多くある。

タイトルの略称から検索すると、すぐ見つかるあるブログは、何かにつけて、言ってしまえば「あいつら(端的に言えばゲーム会社)あほだ」と書いているブログは、コメント数が百だとかになっていたりするものである。

そういう人たちというのは、上記のような想像は、白痴のごとき無邪気さだと一笑に付するだろうと思われる。


別に、そのブログに群がっている人々を批判するために書いているわけではない。相手にする必要もないし、また、相手にされるような立場でもない。


さて、そうは言ったものの、もう少しその点を掘り下げるとする。


彼らは、サービスの内容に不満を持っていて、それについて怒っていたりする。後は、一緒に騒ぎたいだけのもいるが、内容については理解できるところもあれば、怒るために書いているとしか思えないような不見識も多々見られる。


腹が立つことがあるのは理解できるし、感情は鬱屈させるものではないだろうとはいえる。


いえるのだが、不見識についての御免状にはならない。ここは「免罪符」というのが一般的ではあるが、余談である。


その感情というものであるが、不思議なものである。

一般には、腹が立つから怒っているのだと思われるし、悲しいから悲しみの涙を流して泣いているのだと思われる。

そういうのは実際にあるので、そこは論を俟たないという奴である。

だが、何かを発散させるために感情を表現している、というのが往々にしてあるというのである。

正確かは分からないが、例えるとしたら、「疲れたから怒りの感情表現をする」という風になるという。

感情表現というのは、必ずしもその対象の感情を示してはいないということが指摘されている。


これが不見識に陥る理由の一つなのだろうと考えられる。そもそも、指摘していることが正しいかどうかは二の次になるからである。

怒るのが目的なら、そうなって当然である。


それともう一つ。


人間は感情の生き物だ、というような言い草がある。

感情があるのは当然ではある。あるから正しいとも言っていないが。

問題は、「感情を己自身だと思い込んで振り回されていること」なのである。

「疲れたから怒って発散する」というのは、例えとして書いたが、よくよく振り返ってみれば、そういうことが拙自身にも感じられたものだった。

感情は大事である。それは、職人にとっての道具と同じく大事である。しかし、津波で自宅ごと無くなってしまった場合は、職人は死ぬのだろうか?津波で一緒に流された、ではない。

世を儚んで自決する、というのはあり得る。職人としては廃業する、というのもあるし、再起する人もいる。

使い慣れた道具でなければダメだ、というのは思い込みではある。無論、職人としてはそういうのが尊ばれるというのもあるし、その経験に培われたものは称賛に値するであろうが、平たく言えば、既に書いたが、思い込みなのである。

ちょっとずれた例え話だが、少し。


しばらく前、仕事場の急須の注ぎ口が欠けており、これは危ないかもしれないと廃棄した。今は、余りない来客用に急須で茶をいれるという機会もないので、拙が使っていることがほとんどであった。

では、茶を飲むのをやめたのか?そうはならない。

その急須に付随していた茶こし網を取り出して取っておいて、カップを二つ使い、茶をいれている。これ以前にも急須がなくなったことがあって、その時は濾さずに飲んで、「トルコ式コーヒーみたい」などといわれたものである。

上記の疑問が浮かぶ時点で、先入観というものが起こっている。

それはつまり、急須があるから茶が出来たと思っているのである。実際は違うだろう。茶の飲み方の一つとして急須でいれることが付け加えられたのであって、茶の葉を加工したものを煎じて飲む行為自体は、そんなもの以前からある。


我々は、急須という道具を、茶だと思い込んでいるのである。

感情というのは、偶発的といえる経験が培った記憶による反応である。職人の手になじんだ道具と同義である。

それは、己を取り巻くものであり、かつ己自身の一つではあるが、それだけを取り出して、己自身とは言わない。

急須から茶を注ぐが、急須だけで茶は出てこない。急須は茶葉で出来ているわけではないのだから。
それと、お湯もお忘れなく。


では、よき終末を。