ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

叶うというのは

2017-09-29 | 雑記
どこで読んだかはっきりは思い出せないが、時折ここにも話を書いている、然るスピリチュアル系ブログが紹介していたものと覚えている。

とある宗教団体だかで、そこに来ていた人が語った内容を記していたと思う。

その宗教団体に来ていた人は、実は元創価学会で、ブログの人があれやこれやと尋ねて、それに答える。他愛のない話をしているうちに、というノリだったので、長くはなかった。

そして、本題はというと、こうである。

「創価学会では、願い事は叶わなかったのか?」と。

抜けてきたというのは、霊験のれの字もないので嫌になったのだろうと、想像がつくものだが、その元学会の人物は、正反対の答えを口にする。

「願い事は叶うんだけどね」

叶うのだったら、何が嫌になったのか?

そして、続ける。

内容はこうであった。

願い事は叶うのだが、叶うとそれに比例したかのように、交通事故に遭うだとか病気になるだとかで、却ってひどくなったり、内容はちょっと忘れてしまったのでなんともいえないが、その人物か周りの創価学会員だかが、人を呪うようなことをして、呪った対象だか呪いをかけていた方が死んでしまったとかいうので、怖くなったから抜けたという。


後は、変な競争を吹っかけられたそうな。これは上記の抜けてきた人物の方ではなく、それを聞き書きしていた方だったと思われる。


創価学会とそっち、どっちが正しいのか、20年後に私とあなたがどちらが幸せになっているかで証明しましょう!などと吹っかけられたそうだが、吹っかけた学会員は、志半ばで他界されたそうである。


当時読みつつ、納得がいったことを思い起こす。


何かにつけて、試練だからここが踏ん張り時などと言ってくる(創価学会だけではないともいえる)のが常なのだが、どうということはない。それは願いではなく、呪いである。その反動が事故だとか病気だとかの災難になって帰ってきて、それに対してもっと宗教やれ!と、脅す。

悪魔と契約すると、契約完了後に魂を持っていかれるというのがあるが、それと同じ理屈になると。

つまりは、マッチポンプなのだといえる。


カルト宗教が大きくなる理由は、その契約を末端信者に押し付けているからという訳である。この理屈は、何も宗教団体だけではないのだが、そこは割愛する。似たような話はずっとしてきたし、他でも書いている人は大勢いるだろうと思われるから。


仏陀は言ったものである。喜びの元だと思っているものは、そう思っているだけで、実際は苦痛の種なのだと。


この話はずっと昔にも書いたが、現代心理学でも同じ事を言っている。

ストレスというと、苦痛だとか悲しみといったものの事を指して人口に膾炙されている状況だが、実際は刺激という意味であり、脳やら心の反応は苦痛も快楽も同じストレスなのだという。

これは、普段の生活で一つ実証できる。

例えば、仕事で嫌なことがあって、酒をちょっと多めに呑んだとする。すると、酔っているときは気分がよくなるのだが、酔いがさめてくると、今度は呑む前より嫌な気分になってしまう。

酒で気分がよくなるというのは、快楽ではある。だが、上記の通り、快楽も「ストレス」なのだから、呑む前に受けていた「ストレス」自体が解消されていないのなら、余計に荷物を背負い込んだ状態になっているに過ぎないわけである。

最初のストレスが途方もなければ、悪循環に陥ってアルコール中毒になるともいえる。

げに恐ろしきは、酒か人の性か。


少々話題が逸れたが、もう一つ。


願い事について。


願いといい、祈りといい、それは人類開闢の時から行い、叶えてきたものである。地球開闢以前からの何かの願いが、今ある世界を作ったとも言われている。

宇宙だとかそんな話になると、こちらの手には負えないが、それらに纏わる話も紹介はしてきたので、軽く聞き流しておいていただこう。


それはともかく、上記の元創価学会員の体験談は、先ほどの酒の話と同じなのである。


何ゆえか?


酒で嫌な事を忘れようとするのと、日常におけるレベルでの祈願というのも、仏陀の言う、苦痛の種を理解していないからである。

そのような、アンビバレンツな状態のものを無理矢理どうにかすると、これまたひどい勢いで歪みを修正しようとして、手痛い目に合うのである。

あたかも、引っ張ったゴムが千切れて自身を打ち据えるかのように、である。

だから、そのような願い事は、悪魔の契約や、実行者に反動が来るという呪いと同じであるのだと。


さて、話は少々代わって。


現代物理学では、物質というのは確たる形のあるものではなく、世の中にあるものは等しく一つのものから発ち現れている、という結論に到ったという。

表現は色々あるのだが、エネルギーだとか波動だとか。ともかく、形のあるものではない一つの何かが、その表情を変えているだけなのだと。

それらは、石ころだとか水だとか肉だとか野菜だとか動物だとか人の区別なく、全てなのだという。

そして、人間の意識もそうなのだという。

つまり、どこかの誰かさんがHPでかつて引用だかしていた文句を借りて言うと、「わたしはあなた、あなたはわたし」となる。


バトラーの『魔法入門』(以前何度か『魔術入門』と書いたが、持っている本は『魔法~』だった)にはこうある。

 人間は大宇宙の中にある小宇宙であり、彼自身の中には宇宙の写しがある。~中略~魔法使いにとって※ヴィクトリア朝的な意味における死せる物体のごときものは存在しない。実際あらゆる物質が時間と空間の中に存在し(三文字に強調点)うるのは、ひとえにそれがすでに永遠なる生命の部分として生きている(五文字に強調点)からであるという見解をいだいている。われわれが金属の不活性の一塊として「ここに」見おろしているものは、魔法使いによれば、無数の回転する力の凝集点の物質的な現れにすぎず、それは目に見えない世界の平面をいくつも通り抜けて、万物の生ける心の奥にまで遡ることができる。「主の精霊は地上に満てり。」それゆえ真の魔法使いにとって何一つ卑俗であったり不明瞭であったりするものはない。なぜならすべてが目的達成に役立っており、すべては永遠者の生命の表現だからである。このことを秘伝を受けた導師は次の言葉で儀式の中で明らかにする。かれはこう叫ぶのである。「神々の部分でないものはわたくしの部分ではない。」

引用者注※ヴィクトリア朝的な意味:所謂現代人が「科学的ではない」といった反発をするときと同じ態度がこの時代に出来たと思えばよい。

長くなったが、こういえる。


あなたが、あなたの敵だと思うものを殺したいと願うというのは、あなた自身を殺したいと思っているのと同じ事になるのだと。

日常のレベルでの祈願と、ずっと上に書いたが、あなたがあなただと思っているものの幸せとやらを願うとき、それはあなた以外だと思っているものの不幸を願うのである。

だから、「呪われる」のである。あなたが呪っているのはあなた自身だったのだから。


とはいえ、北のミサイル国家の首長を好きになりなさい、とかいう話でもない。お断りする。

だったら、こう思えばいい。

「拙が現時点であのキンさんだったとしたならば、ミサイル飛ばして調子こいてたんだろうなぁ」などと。

彼の国がミサイル飛ばしているのも、政治的な意味以外での何某かの意味があろうというわけである。今の自分の代わりに飛ばしているだけかもしれないのだと。

陰謀論方面の話では、北は実は日本の子飼いで、内政への不満を逸らすための、外交に見せかけた内政処置だという話がある。

だったら、こう思えばいい。

「キンさんは粋がっているように見えるけど、ただの中間管理職なんだな」と。

あんなにぶくぶくなのは、ストレスで過食症なのだろう。グローバルスタンダードというものは、実にブラック企業である。


では、よき終末を。


たまたまたまには

2017-09-18 | 雑記
昨日だったかその前だったか。その辺りはよく覚えていないが、家に転がっている六月十日の新聞を拾い上げ、なんとなく社会面を読んでいた。

もちろん、某宗教団体のあの新聞である。そこはともかく。

六月九日に、天皇の退位に関する特例法が国会を通ったという記事だった。

来年の末を目処に退位するとのことらしい。天皇は上皇に、皇后は上皇后と呼ぶことになるそうだ。

退位と同時に、皇太子が天皇に即位というのもセットである。今さら知ったのか?といわれたら、「そうだ」と答える。


記事を一通り読み上げて、拙はこうつぶやいた。「カウントダウンが始まっていたのだな」と。


何がカウントダウンか、と思われるが、日本はそもそも始まっているのかしらんが、終わるのだろうなと。


話は変わるが、ここと同じgooブログで、皇室の惨状を書き綴っているブログがある。


そこで聞いた話を前提で書くなら、日本の皇室というのは、まともではないといえる。

昭和天皇の代については不明だが、皇后と皇太子妃については、真っ黒な人間がごり押しで入内しているという。

かつてここでもやっていた(今も0ではないといえるが)陰謀論では、明治天皇は摩り替わってるだのとあるし、昭和天皇はイルミナティの狗だとか言われている。

それはともかく。今上陛下も、戦後に洗脳を受けているとすらいう。何せ、自身の誕生日に「A級戦犯」などとと戦勝国の都合で犯罪者扱いされた日本の指導層の絞首刑を執行とかいう、本来ならトラウマものの出来事に感謝するような心理構造を作り上げられているようだ。

その洗脳を施したといわれる人物は、名前も記録されている。バイニングというそうだが、バイニングという洗脳の手法なのかと、一瞬勘違いした。ちょっとありそうな名前だったからである。

皇后についてはGHQ。皇太子妃については、我が実家の創価学会の手のものだとか。


拙の父親はよく、天皇がテレビに映ったときには、「あいつら金持ちで庶民のことなんか考えてないんだ」と非難すること仕切りだったものである。

裏を返せば「我らが創価学会という物は、庶民のためにある正義の団体なのだ」と言っているのだが、それがどうして皇室に食い込んでいるのだろうか。

これは父親の言葉通りである。すなわち「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。


ついでに、世の中についても、「普通の人達は金のことしか考えてない」とけなす。

だから、テレビや新聞は創価学会の偉業を報道しないのだ、などと言っていた。

創価学会は金では動かないのだ、とも言っていたので、それを踏まえた言である。

それで、その金のことしか考えてない普通の人達の集まりが製作するテレビで創価学会のCMが流れる理由はなんなのだろうか、とは考えられないのだろう。世の中が我々の思うように変わってきたからだ、などと思うのだったら、実にめでたいというしかない。

繰言になるが、「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。

さて、もう少し詳しく話すなら、テレビ局には、「外国人採用枠」があるという。TBSが最初に作らされたと聞いた。

創価学会には在日が多いと聞く。在日はすなわち、国籍としては「外国人」となる。その心は・・・?皆まで言わなくても判ろうか。

世の中が変わったのではなく、腐らされているの間違いである。この「外国人採用枠」の如きものが、例えば皇室にもあるというわけで、GHQの手先だったり創価学会の信者だったりが入内しているのである。「外国人採用枠」とは謳ってないが、中身はその状態であるというわけだ。スパイに国籍なんぞ関係なかろう?


この手の話を書いているブログがあると記した。

先ほど、ブログのアクセス数などを確認する際に、編集画面から確認できるgooブログランキングを見ると、そのブログらしいタイトルだが、違う名前になっているものがあった。


タイトルが変わっていたのは、ブログを凍結されたからだそうな。凍結される前に閉めようと思って整理していたのだそうだが、なんやかんやで始めたようだ。


冒頭の新聞記事で、今さらな報告を確認しなければ、思い出して見ることもなかったろうし、こういう流れでなければ、もしかしたら、そのブログ主が執筆を再開してなかったのかもしれないな、などと思う。


話は普段の珍妙な方面へ向かう。似た話は、以前にも書いたかもしれないが。


先日、夜の仕事上がりに、だらだらしないでさっさと帰ろうと、普段より早く仕事場を出て、電車に乗った。

十分早く出れば十分早くつくだろうというのは、当たり前のように思えるが、乗換えが集中するので、関係ないことが多い。

普段より早く出た場合は、その目論見通り、十分早くなるのだが、そこは余談である。

つり革に摑まり、入り口の方を向いていた。座席前に立つことも叶わぬ満員状態であったので、車両の真ん中あたりの広場のつり革に摑まっていた。

しばらくして、目の前で人が急に滑った。歩いているわけでもないのに。

拙が立っていた方とは反対方面の出入り口すぐの座席の壁にもたれていた女性が、急に滑り落ちたのである。

足元がぐらついて、体勢を整えるために足を踏み鳴らしたとかいうなら判るが、滑って転んでいる。

余りの勢いに、何が起こったのか、目の前の人も一瞬判らなかったかもしれないが、ともかく女性が倒れた。

その女性のすぐ側に立っていた男性が立ち上がらせたが、どうも尋常でない倒れ方であった。

とはいえ、「大丈夫です」と言って元の位置に立ったのだが、程なくして、同じ勢いで倒れた。

「車掌に報せるべきか」と考え、視界に車内電話でもないかと思ったが、ああいうのは連結部にしかない。

ただ、幸いなことに、すぐに駅に着いた。最初に立ち上がらせた男性ともう一人の男性が、到着後、ホームに担ぎ出していったものである。

その出入り口からすぐに、ガラス張りの待合室があったので、女性はそこに座り、両手で顔を覆っていた。その先どうなったかは判らないが、あの倒れ方は、使い古された言い方をするなら、「糸が切れたかのよう」だった。

「たまに体調不良者の介抱で電車が遅れるとかいうのがあるが、こういう感じなのかもなぁ」などと考えたが、その電車はアナウンスされるような遅れもなく、そのまま進んだ。

これは拙が早く帰ってみようと考え、その電車に乗り合わせたからこそのめぐり合わせなのかもしれぬ、などと思うのである。

何を世迷いごとを。たまたまだろうが。と言われるだろう。

何か起こるのも起こらないのも、意識しているかしていないかの違いなだけで、たまたまである。


良かった悪かったというのは、人間の浅慮である。実を言うと、たまたま、というのも同じ。


つまり。たまたまなどということもない、となる。


冒頭の新聞記事の話と、たまに見ていたブログの凍結からの再開、それを受けて記事の更新というのも、たまたまではないというわけである。

余り、たまたまと書いていると、目が変になりそうなので、この辺りで終わることにする。


では、よき終末を。


されど、韜晦す

2017-09-12 | 雑記
最近はそうでもないし、それにそもそも、人と話す機会が労働中ぐらいで、そんな時はそういう風に受け取られる話もないので、めっきりなくなったといえるが、物知りと言われることもあった。

芥川龍之介の話だったと思うが、何某の本の何項になんと書いてあると、見ずに喋るといった具合のレベルで流石にはないので、たまたま周囲の人間知らなかったことをたまたま言っているだけなのだろうと思われる。

それはさておき。

先日、『魔術入門』の再読が終った。電車で読みながら途中で本を取り落としてしまったものである。寝不足で。

その冒頭になんと書いてあるのかというのは、以前に何度か書いた。

魔法の定義を、著者のバトラーはこう記す。「己の意識に思うがままに変革を起こす技術」だと。

さて、そうすると意識とはどういうものなのか?冒頭の章ではこの定義を示してのち、続きの章は意識とはどういうものなのかを解説していくとして、締めている。

意識という言葉だけだと、ひどく多様である。バトラーは、ユングの心理学を援用し、説を展開していた。

大別すると、顕在意識と無意識の二種になり、無意識の中にはさらに階層がある。この辺りは、ユングの心理学をご存知の方には説明はいるまい。

顕在意識とは、普段の状態で物を考えたり仕事したり飯を食ったりしている意識である。

この件については、野口晴哉も同じ指摘をしている。ユングの影響なのは、確か本人も言っていた。

曰く、「何々さん、と呼ばれて返事するが、それはそもそも、何々さんと自分で思い込んでいるだけのことなのだ」と。

何々さんと思い込んで生きている意識は、人間の意識全体から考えると、一部でしかないのだと指摘している。

大部分は無意識が生命を司っていることを、我々は常々忘れがちなのだと。

目玉を捨てろ、意識から離れろ、そうやってこそ生命の本質が理解できるのだ、と述べていた。


話が横道に逸れているが、もう少々。

野口整体というのは、身体のゆがみをいじるのが目的ではなく(最終目的ではないというべきか?)、心理カウンセラーの如き診察で人の心身を見るという。

この話も昔書いたが、ある社長さんが不調で診察を受けた。診察したのは、野口の弟子で、道場を開いている方である。

その御仁は、スポーツやったりで身体はしっかりしている。しかし、なんとなく調子が悪い。

そして、うつぶせに寝てもらって背中を診察した時に、背骨に力がないと判った。

背骨に力がないというのは、自分の意思がないか、薄弱なのだという。それで、その整体師は社長さんに、その件を伝えた。

すると、悲しげな顔をしてこう述懐したという。「たしかに、色々やってきたと思うが、どれもこれも自分でやろうと思ったものではなかった」と。

彼の不調は、上記で野口が指摘したとおり、自分だと思い込んでいるもののせいだったといえる。

本当は、無意識では嫌だと思っていたけど、意識でやりたいことだと自身に無理矢理言い聞かせたりしていた、という風に考えられるだろう。

話を戻す。


魔法の理論というのは何なのか。こちらも専門家ではないので、バトラーの言を伝えるに留まる。

しかし、実は横道の話そのものである。

『魔術入門』にもそのままの話がある。社長さんの背骨の話ではないが。

そもそも、日常の顕在意識というのは、環境による偶発的なものであり、偽りなのだと。

この偽りの自己を自分自身だと見なすのが、人類の問題の全てだというのである。

そこで、意識というものを「建てなおす」のである。全部破壊して更地から建てなおすわけではないが、以前の意識という土台をある程度残しつつ、改築する。

そして、魔法の理論では守護天使や、オカルト系の言葉だと「高位の自己」と呼ばれるものにアクセスするというのである。

そのために魔法の理論や修行方法があるというのである。

ここは書いてなかったと思うが、偽りの自己がイキアタリバッタリでする願い事を叶えるための超自然現象ではないのである。

魔法というのは超自然的なことをする、もしくはしようとするのが目的ではないのか?と思われるだろうが、そうではない。

そもそも、偽りの自己とそれを全てだと思う普段の生活からは隠されているだけの話で、決して自然を超えているわけではない。

普段の我々が知っている自然とは違うだけのことである。そして、偽りの自己の小さな視点を全てだと思っているから、嘘っぱちだと決め付けているだけのこと。


普段、我々が思ってないだけで、色々なところに魔法の理論が残っていたり駆使されたりしている。

バトラーの著作では、キリスト教の儀式についての記述がある。キリスト教だけでなく、例えば式典などの儀式の効用などについても、魔法の理論からなっているのだと。

上記の整体の診察の話で出た背骨社長(思いつきで名付けた仮名)も、診察という、生贄の儀式じゃないが、そうともいえるような状況で、己の偽りを気付かされたものである。



すぐ上からこう言うと変ではあるが、魔法の本質とは、実に宗教的なものなのだと。本来の意味でのスピリチュアルなのだといえる。

スピリチュアルについては、簡単な説明が以前紹介したブログにある。こちら。もっと詳しく書いているのはこちら


くどいが、森で生活することが人類のゴールだという方々は、ただのカルト宗教である。

かといって、文明生活を維持し、例えば日本で言うと、少子高齢化社会やら、経済やら、隣国のミサイルやら、日本だけの話じゃなくなるが、秘密結社の陰謀やらを解決することも、ゴールではないのである。


これらは全て、一つから端を発したものであり、一つなのだと理解できるかどうかである。イルミナティがいるから世界は戦争だらけ、ではないのである。


宗教を否定していると言った御仁が、先達の宗教家と同じ事を言い出す。ならば、それは疑いようのない真実だから到達したと考えるべきである。

それなのに、その著作を翻訳した人物は、「昔から言われていることに過ぎない」とのたまい、微塵も理解を示そうとしなかった。


その反応こそが、偽りの自己が全てだと心底うぬぼれきった言動だと、彼の者が毎時非難していた、「一般人」そのものだということを理解しないのである。


バトラーの書いたとおり、偽りの自己に囚われていることが、人類最大の問題なのである。



では、よき終末を。