ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

帰ってきた丑の刻参り

2021-05-30 | 雑記
共産党宣言、じゃなくて緊急事態宣言がまた延長に、という発表が先日あった。

そして先ほど見かけたのが、「最後の延長」と。

じゃあ次は「帰ってきた延長」とか「延長よ永遠なれ」とか言い出すかもしれぬ。というのは冗談だが、とある映画シリーズだとかにそんなタイトルのがあった覚えがあったりする。バ〇トマンだとか。ウル〇ラマンも「帰ってきた」はあったが、こっちの方が馴染み深いか。

本当にそんなことを言って延長してきたら、この世は映画を見ているような状態というのが定着してしまうな、というのもまた冗談ではある。が、その話をまたやろうというわけではない。


Twitter発の小説とか漫画がちょくちょく書籍化されて話題に上るというのがある。いや、反対か。

最近では、件の緊急事態宣言に関わる感染症についての4コマ漫画が話題になり、そして出版された。

『コロナは概念』というタイトルで、風刺漫画である。以前からWeb上で見ていたもので、中々に考えさせてくれる上に笑える。ものによっては笑えるが、ため息が出そうな話もある。冗談で描いているようなことが現実になってるなという具合である。別に暗い話でもないし、気が向いたらどうぞ。

さて。何故「コロナは概念」としているのか?新型コロナウイルスの存在が確認されていないからだと。

その根拠になる話はある。都や厚生労働省に開示請求したら、「存在を示す論文を保持していない」と書かれていただとか、その書類の写真だとかが出回っている。

後は、以前にもここで取り上げた、徳島大学の名誉教授の大橋眞氏の、「コッホの四原則」のどれにもかかっていないという指摘もある。

ただ、コッホの四原則は古典レベルの話ではある。二百年近く前だったか?

こちらも専門家でもなんでもないので、詳しいことは書けないが、近ごろはウイルスの全長が分かればそれで特定できるとのことで、その長さの違いで人由来かそうでないかを調べるということを行っており、コッホの四原則はそれほど重視されていないという。

となると、一応存在するということになる。では、何故厚生労働省だとかに存在を示す論文がないのか?と思われるだろうが、上記からすれば、特定は出来ているが論文は書いていないから文書を保持出来ていない、ということになるのだろう。

ではやはり、危険なのだな、と思うかどうかはまた別ではある。ただ、一つだけ例を書いておく。実は人の話の丸パクリだ!
沖縄の最近までの死亡者数を日にちで割ると、一日辺り0.3人ほどの割合で、やはり高齢者が多いという。
ちなみに沖縄の感染者やら死亡者数は日本でワースト2位だとか言っていた気がする。ちょくちょく、緊急事態をやっていた覚えがおありかと思われるが、中身はそんな状態だといえる。


感染症というのは、パスツールが発表した病菌原因説が根拠として現代にいたるのだが、これが実は他の学者の説を使っただけでなく、パスツール自身は検証もしていないという話もあるそうな。
パスツール自身は晩年、反対意見の同僚と死の間際まで続けた討論の最後に自説を撤回した、というのは以前にも書いた。つまりは仮説のまま、定説のように扱われていたという可能性がある。

「コロナは概念」どころか、「感染症は概念」とすら言えなくもない。病は氣から。

凡そ病気と呼ばれるものが全て感染しないとは思えないが、常識とされていることは、ただの思い込みや盲信ではないかと考えてみる必要があるだろう。

人体実験になるので誰も試すことは恐らく出来ないが、ガン細胞を患者から取り出して他人に移植すると、恐らくガンになるとして、それでもガンは感染症、とはならない。

狂犬病の犬に噛まれたりで、その体液が体に侵入し、狂犬病に罹患する。これは感染症となる。

ふと思ったが、ガンの患者に噛まれたら、ガンになったりしないだろうか?まあ、これはただの空想である。
もしそうなったら、ガンも感染症となるのだろうか。

しかし、鬱病が伝染するというような例がある。飽くまで感染症という意味ではないが、鬱病の人と親身に接している人が、鬱病になってしまったという話は何かで聞いたものである。

これも以前書いたが、野口晴哉は、風邪を経過させる(身体の正常な反応なので治すとは言わない)時には、リラックスして静かにするため、子供が近づかないように、うつりはしないが「うつるから寝てる部屋へは入らないように」と言っておく、と述べていた。

感染症の原因とされているウイルスは、実は病的症状を起こした細胞からの排出物ではないか、という説も実際にある。エクソソームという名称だそうな。

つまり、ウイルスがあるから病気になったのではなく、病気になったからウイルスが出てきたと。

そうだとすると、ウイルス兵器は意味があるのか?と思えてくる。


ここからは拙の本領発揮である!というのは冗談だが、以前にも同じことは書いた。

『金枝篇』という人類学の古典がある。その中で紹介されているものに、「共感呪術」という概念がある。ちなみに検索をかけてみたら、大枠が「共感呪術」でそのうちに「感染呪術」と「類感呪術」があったが、「共感呪術」で書いていく。

とある部族の呪術で、呪いたい相手の影に木の枝だとかを刺す。足に刺したら動けなくなるだとか、胸に刺したら心臓発作で死んだりすると信じられている。

日本で例えるなら、「丑の刻参り」だろう。藁人形に相手の体の一部を仕込んで、神社の御神木の幹に五寸釘で打ち止めると、相手を呪い殺せるという奴である。

影や相手の体の一部(毛髪など)は、言ってしまえばその相手そのものではない。だが、効力があるとされてきた。

ウイルスがエクソソームだとするならば、ウイルス兵器はまるで共感呪術ではないか?と書いた訳である。

対象を苦しめるために熱心にウイルスを弄繰り回すわけで、丑の刻参りのようだと。

なお、詳細は不明だが、未だかつてウイルスや細菌が病気の原因だと特定された事例がない、という話もある。流言飛語の可能性もあるが、とりあえず。


とある迷信がその地域で何故信じられてきたかというと、その地域では事実だという共通認識を持っているからだというのがある。こういうものも共感呪術と呼ぶのかどうかは分からないが、通じるものがある。

ウイルス兵器が共感呪術だとすれば、現代社会は・・・。これ以上はご想像にお任せする。

「コロナは概念」から「感染症は概念」と上記でもじってみた。なら、「呪術は概念」となるか。

上述したものからもお分かりかと思うが、「呪術は概念」というのは一般的に理解されているところである。言い換えれば、呪術は迷信と。
しかし、実際のところは「概念は呪術」である。

「病は氣から」の別解といえなくもない。狂った概念は氣を侵し、それにつれて心身を病むに至るからである。

では、よき終末を。


今日も拙拙と

2021-05-23 | 雑記
先日、Twitterのアカウントを開設したと書いた。特にここのリンクを貼ったりはしていない。

勢いで開いたもので、何をしたものかと途方に暮れているので、ここと同じくらいの妙な話をちょっと書いたぐらいである。

というわけで、今朝、Twitterに書いた話でも書いておく。


半ば冗談でこのブログ内の自称を「拙(せつ)」とやってきた。とあるゲームの忍者キャラの自称らしいが、本当かまでは確かめていなかった。
武士なら「拙者」というのは時代劇などのイメージで広まっている。僧侶なら「拙僧(せっそう)」というのもあるし、現代でも自著のことを示す際に「拙著(せっちょ)」と言ったり、自身に纏わることを人に伝える時にへりくだって使う言葉である。

さて先日。漫画の『美味しんぼ』を見ていたら、アメリカ人の落語家というキャラが「拙」と自称していた。

故なき言葉ではなかったのだなと安心したものである。別に不安だったわけでもないが。

しかし妙ではある。『忍者ハットリくん』の自称は拙者。そして前述のゲームの忍者キャラは拙。
以前にも書いたが、実は古文書に「拙者」と書かれていても「せっしゃ」と読まなかったのではないか?と推測したものである。

かつて、江戸時代の終わりまでは、文章を書くときは漢文調というのが日本の決まりだった。

もっと時代を遡れば、朝廷の公式文書は漢文だったりする。江戸の時代も漢籍は必須科目であったから、武士同士がやり取りする手紙も漢文調と相成る。

勿論、中国語で読んでいたわけではなく、現代の学校でも習ったことのある人は思い浮かぶであろう、「訓読」をするわけである。レ点だとかを着けて行きつ戻りつする読み方である。

拙者という言葉が漢籍にあるのかどうかまでは知らないが、この訓読で実は~者と書いてあるのを「~ハ」と訓読する例がいくつかある。まあ、見た覚えがあるという程度で、具体例は挙げられないが。

学者だとか賢者といった言葉は、この「者」がついてようやく人を指す言葉かのように思われる。
実際にそういう風に定着しているわけで、別にこれを否定しようという話ではない。
とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、「者」はないのにどちらも人を指している。

日本語の漢字言葉の癖というのか、同じ意味を重ねるというのがある。漢語的だとありがたく聞こえるからだという風に、文学者の高島俊男氏がかつて書いていた気がする。

例えば、「皮膚」というのは、どちらの字も実際は「かわ」を指す。

かわ科、では極まりが悪いので、皮膚となっていると。同じ意味の漢字を並べているというのは枚挙に暇がなく、趣旨とは違うのでここまでとする。

拙何某と漢文調で書かれていたとしたら、別に意味が通じないわけではない。そもそも中国語でもない。

分かりにくいだろうから、英語に置き換えると変だというのがわかる。 I am 何某となるところが、I 何某となって片言になるのである。

翻って、上述した「~者」を訓読の際に「~ハ」としていた例があるというのを思い出していただく。

丁度、英語でいう is や am に当たるのである。

拙者何某を訓読するならば、「拙ハ何某」となる。申、だとかくっ付けたりしてあれば、「拙ハ何某ト申ス」となるわけだ。


さて。そうなると「拙僧」だとかどうなるのか?そういう疑問が沸く。

わざわざ「私は何某という僧侶です」などと名乗らなければならない状況というのは、日常的とは言えない。

僧侶然とした格好で相手も僧侶だと判っている状態で「わたしは僧侶です」と名乗るのは奇妙である。

ただし、武士に向かって手紙を書く際には、「拙僧」と書いたであろう。知己でもない相手に送るなら、身分を伝える必要があるだろうから。

「拙僧」があるなら、「拙士」とか「拙侍」という風な言い方があってもおかしくないが、そういう言葉があるかはわからない。

ただし、江戸時代は武士の時代である。大小二本を腰に差していれば、誰が見ても武士だと判るわけで、武士が武士に手紙を書くときに「拙侍」のような言葉を使うというのも考えにくい。

かようなわけで、「拙者」というのは別に侍だけの言葉ではなかったのではなかろうかと。

拙僧何某なら、「拙ハ何某トイウ僧」となる。ハが勝手に入って来たのは訓読にはよくある奴ということで。
もしくは拙僧者何某か。

とはいえ、拙者も拙僧も、一々こう読んでいたら七面倒くさい。定型文化し、そして口語化していったものと思われる。

「拙者」における拙と者、「拙僧」における拙と僧は、文脈毎にだが、同じことを指しているわけで、上記した「皮膚」の例と同じ具合といえる。


本当は武士は「セッシャ」と言わなかったのではなかろうか?という辺りから考えていたのだが、「拙者」を多用する武士は「セッシャ」、「拙僧」を多用する僧侶は「セッソウ」と訓読ではなく音読したものを口語で使うようになったのだろうと。

長々と書いたが、拙者は「わたしは~といいます」で、拙僧は「わたしは~という僧です」の略した読み方だったのだというわけである。


なんだろうこれは。何かのレポートか?ともかく、以上である。


では、よき終末を。


諦めぬいてDistiny

2021-05-17 | 雑記
死ぬほど暇になって、そろそろ死んでしまうかもしれないと疑ってみたりしている今日この頃、十年越しにTwitterなるもののアカウントを取得してみた。

死ぬほど暇なのは昔からといえなくもないが、追撃を食らったのである。とはいえ、望んだ通りかもしれない。

それはさておき。

拙はよく、酒を食らいながらオンラインゲームをしていたものである。

先々月ほど前に、久しぶりに勢いでログインして喋っていたら、「ログがにぎやかになっている」などと言われる始末。

普段は閑散としたチャットログなのかと否が応でも感じるところだが、氣にしてはいけない。

そんな拙はちょくちょく、文字チャットなのに歌っていることがある。替え歌することが多いが、親父ギャグと言われるようなノリだと思ってくれれば結構。


というわけで、さっきTwitterに書いた替え歌をここで改めて披露する。


街を包む PCRtest
誇大な distance 動き出せば
それは紛れもなくヤツさ

コロナ Leaving me blue
コロナ Missing you true
コロナ Only few memories after you

背中にまといつく翳りは
コノヨという名の ものがたり
許されるはずもない Peace & Love

はい!

はい!は歌詞にはない。終わりの合いの手という奴なので無視してもらう。Twitterにもない。

寝ようとしたけど眠れないからネタを考えていたら不意に思いついて動いてしまった。反省しようはない。


この元の歌は何よ?と聞いてくる人はいるかは分からないが、まあ有名どころである。ヒュー!

気が向いたらTwitterのアカウントを貼っておこうかと思うが、何せ酔った勢いで開設したもので、どうするかはまったくもって未定である。

かなり前からブログはオワコンとか言われている。そのうちSNSもオワコンで、これからはテレパシーだ!とか言われかねないが、拙は年寄りからしたら若いが子供からしたら年寄りという、どうしようもない立ち位置である。
とはいえ、そもそもそういう具合で生きてきたので、それでいいのかもしれない。

というわけで一つ小咄を。

一休さんとして親しまれているアニメがある。小坊主が主人公のアニメであるが、一休という名の僧侶が実際にいたという。

そんな一休さんは、修行を頑張って見たけどこんな中途半端な自分じゃ悟りを開くなんて無理だ!一休みします!と住職に伝えた。

すると住職は「でかした!それこそが悟りぢゃ!お主はこれから一休と名乗るがよい」と言われたという。


この前の記事に「SNS断ち」という話を書いたものだが、別にそれだけではない。その個別例をあげつらうのは浮世離れしてるように思われるしそんな氣もする拙には大変だし挙げ切ると世、じゃなくて夜が明ける。

上述の一休宗純(一休さんの元ネタの実在僧侶)の話を聞いて、「ああ、そういうことか」と思って頂ければ幸甚である。


思えば、釈迦も苦行をやり続けてもう無理だと諦めたら悟りを開いたという風に仏典にある。

諦めないで諦めるという矛盾した言葉が思い浮かびそうだが、この諦めるという言葉は、元は違う。

現代では放り出すというような意味で使われているが、「明らかにする」という意味だったそうな。

上記の二つから照らし合わせて書くならば、「これ以上の苦行は無意味だ」と「明らかにした」となるのである。

その結果部分だけみて、諦めるは放り出すという意味に使われているのだろうと思われる。

だからあなたも諦めぬいて!とかいうと怒られるなこれ。

とはいえ、諦める前に諦めるのは、人の性だがちょくちょくある。

だからあなたも諦めぬいて!先っちょだけだから!とか下ネタをつい書いてしまったのは、飲み過ぎたせいである。

思えば、一休宗純は飲み過ぎで渇水病、今でいう糖尿病にかかっていたと言われている。

そうとはいうものの、人には既に諦めざることがある。

嫌でも死ぬ。悟りを開いたという釈迦も死んでいる。


人の身は有限である。釈迦は施された食べ物で死に、一休は酒の飲み過ぎで病んで恐らくそれで死んだ。

これが毒だあれが薬だと選り好みするのは、悟りから離れた姿ではあるまいか?
実際に釈迦の時代からの托鉢(托鉢自体は別宗派からあったようだが、詳細は忘れた)は、条件はあるものの、肉を托鉢されても断らずに食べていた。


薬を飲もうが毒を食らおうが、人の身はいずれから滅ぶ。

人の身が全てだと思いなすのならば、それは一つの悟りと言える。そこからすれば死は無意味であるが、その先を見ようとも考えようともしないのは悟りたり得るだろうか?

その先があるのかないのか「諦める」ために、拙は酒を食らっているのである。

この言い方は語弊があるのでもう一つ言っておくが、釈迦が弟子に向かって言っていたことはこうである。

「死後の世界があるかどうかを考えるのではなく、今をしっかり生きなさい」と。


人類が意識というものを持ってから、このような問いかけは幾多も行われてきたのであろう。

しかし、これらを現代社会で例えると、「オンラインゲームの状態」と例えるのが実にしっくりくるというのは、分かり易くていいのか卑俗になったと悲しむべきかは何とも言えない。

仏教の思想が量子力学と親和性があるとかいう話もあった気がするが、紀元前のインドと現代では表現できる語彙の量が違うので、思ったほど恐ろしいことをしてばかりでもなかったのかもしれない。

昔の滝行の如き修行は、今だとジェットコースターのようなものだったのかもしれないなと。

などと妄言を述べ・・・。

そういえば仏教の戒律に妄言を吐くなというのがあったな。

だとすると、拙は成仏には程遠いというわけである。


では、よき終末を。


3密加持

2021-05-16 | 雑記
ちょうど一週間前のこと。

家のすぐ近くの池のある公園に行った。天気が良かったので少し日光浴がてら本でも読もうと思ったのである。

池の淵まで降りられるようになっていて、そこには御影石が正方形に切り出されたものが置かれており、天面は磨き上げられている。

公園は小さいので池の脇に生えている大樹に遮られた部分以外はすぐ視界に入るほどの小ささゆえ、公園に入った瞬間から、池を上から一望できる欄干に二人ほど人がいて、一人はカメラを構えているのが見えた。

何かと思い、その視線の先を辿ると、去年から住み着いていると思しき鴨を追っている。

そして鴨の周りには黄色がかった小さいのが十ほどだか纏わりついていたのである。


とまあ、要するに近所の池の鴨がヒナを産んだという話である。


しかし、次の日。整備業者が公園の周囲の草刈りだとかをして休憩しているのを尻目に池を覗き込むと、親鴨しかいなかった。

以来、子鴨たちの行方はしれない。

先日、京都の寺の池でも鴨が子供を産んだので鴨川に引っ越しさせたとかいうニュースがあった。

段ボールで誘導しました、という話とその写真が掲載されていたものだが、鴨の雛を見たその次の日、上述の雛が居なくなっていた日だが、池に段ボールが水没していたことを思い出したものである。

とはいえ、親だけいるのもおかしいので、雛たちは(いろいろな意味で)隔離されているのだろう。
それは隔離とは言わないのでは?といった辺りのことは各人のご想像にお任せする。


さて。いささか話題が古いが、以前、とある医師が新型なんとかの話でこういうことを述べていたという。これは先月の話だったかと思う。

曰く「1密、2密でも感染する恐れがあるので、一人の時でもマスクをするのが望ましい」云々と。

今はしらないが、例えばアメリカのある州では、家でも常にマスク着用を義務付けるという話が出ていたもので、特に目新しい話ではない。

それはともかくとして、この1密だとか2密だとか何を言っているのだ?と揶揄されていたのを見かけたものである。

実際におかしい。何がおかしいのか?


3密を避けよ、と去年からやかましく言われてきたわけだが、3密3密と繰り返されたが故に、言っている方も聞いている方も混乱している。

そもそも内容空疎なキャッチコピーなわけで、中身などどうでもよく、「お題目」という奴ではある。

一応内容を振り返ると、密集、密閉、密接の3種を避けよと。

人ごみと締め切った部屋と人と近距離で喋る状況となる。

余談だが、3密は分かりにくいから集、近、閉と並べてシューキンペイにしよう!というネタがあった。発生元の国のトップに準えてである。然る物理学者がそんなネタを書いていた。

これらを纏めて3密と言っていたわけだが、元々、それぞれの状況が感染を広める可能性があるから避けよという話ではなかったか?ということである。

密が三つそろって役になる。花札の猪鹿蝶やらスロットで当たり目が出るかの如くという話だったのかと。

1密2密などと日本語がおかしいぞと笑っていたのだが、そもそも3密自体がおかしい。おかしいけどおかしくはないのだが、まるで密が常に3個セットになっているかのように認識していることがおかしかったのである。今なら3個セットでお得!

その医者も一々3密に準えて喋るからバカバカしくなるのだが、密が常に3種そろっているかの如く思ってしまうのもまた、乗せられて来た故なのである。

これが上記の集近閉なら、件の医師も「集だけでも近閉だけでも感染の恐れがあるので云々」と。言わんとするところは変わらない。元々ハッピーセットならぬ3個セットだという先入観で話しているし聞いてきたからである。もっと伝わりやすくなったかはわからないが、日本語読みとはいえ某国の元首の名前を連呼するのも如何なものかと思われる。寝ても覚めても集近閉!

密にかけて以前、三密加持について書いたものである。内容を改めて書くことはしないが、仏教及び密教において、三種の密をしっかり制御しなさいという意味である。無論、どれか一つでもないがしろにしてはいけない。
相撲では心技体というのがある。これらが揃ってこそ真の関取なのだという風な話があるが、それと似ている。

三という数は洋の東西を問わず、重要視される。キリスト教然り。仏教然り。

3密のように3種の大事なものを上記の両方とも掲げていて、そのどれもをないがしろにしてはならないと言っている。

と、世の中そういう風に教育されてきたので、3密などと言われると、セットになっているのだと思いがちなのである。


とはいえ。三密加持ならぬ3密回避もまったく無意味とは言わない。

いわゆる科学的な話ではなくなるが、そもそも人の体調が悪くなるというのはどういうものか?である。

楽しそうに過ごしている人の近くにいると、なんだか楽しくなる、というのを聞いたり体験したりしたことがあるだろう。
そして、また逆も然り。機嫌の悪い人に近づくと、部屋の空氣が重いだとか言ったり言われたりする。

人というのは、菌だとかウイルスという目に見える(現代科学において物理的に見えるという意味での)ものだけではなく、目に見えていないものに左右される。


古来より、大都市で疫病が流行ることがあった。理由として挙げられるのは、人口密集による公衆衛生の悪化と言われている。後は飢饉や貧困が追い打ちをかける。

身も蓋もない言い方をすれば、汚らしくゴミゴミしている所はみな、嫌な氣分で過ごすことになりかねない。

そこまではまだ良かったとしても、飢饉や戦乱などによる治安の悪化が重なれば、嫌な氣分で過ごす人はさらに増える。嫌な氣分の度合いも上がろう。

そこで何か流行り病が出たとなれば、僕も私も!となっていく可能性は高い。流行り病だと言われたから流行った、となる。
江戸時代に江戸の町で流行った脚気は、「江戸の流行り病」と言われた。田舎に戻ると治ってしまうというのも、それを裏付ける話となっていたものである。明治時代においても日本の陸軍は「細菌による伝染病」と言っていた。実際は偏った食事による栄養不足が原因と分かったのは大正時代に入ってからである。

鬱病の人と親しく付き合い続けると、鬱病がうつったかのようになるという話がある。特に家族だとか親しい間柄で起こるという。鬱病はウイルス性の感染症ではないのにである。

世にある感染症と呼ばれるものを全て否定出来る根拠は持ち合わせていないが、当時の西洋医学も深く勉強したという野口晴哉は、身近な感染症の代表格であるはずの風邪について「風邪はうつらない」と『整体入門』だったか『風邪の効用』で言っていたものである。


病は氣からという。ウイルスや細菌は顕微鏡で見えるが、氣に至っては存在証明が不可能である。例のアレもされたのかどうかはよくわからないが。

目に見えない恐怖!などというが、そもそも目に見えない何かに動かされているのが人間である。

顕微鏡では菌やウイルスは見えるのだから、見えるものは信じられて怖くないはず。

それならば、目に見えず信じられない氣を怖がって3密を回避するのがもっともだと言える。それは信じてないか?と突っ込まれそうだが、氣にしないでもらう。


病んだ氣には迂闊に近寄らない。これが3密回避の本質であり、マスク着用の有無を確認する以上に機敏に察知できる(はず)の日本人が得意とする氣についての感覚があればこそである!
と、高らかにぶち上げてみたが、冗談染みてはいるが冗談だけでもない。

だがそんなものわからないと、そう言われるだろうから、取りあえずお伝えしておく。

よくあるリフレッシュ法として言われているものの内に、「SNS断ち」というのがある。

別に金輪際するな!というものではないが、時折、テレビや新聞なども含めた外部情報媒体に触れることを一時的に止めるという奴である。普段から滅多に触ってないとかいうレベルの人は氣にしなくてもよいが、毎日テレビを見ているなら、それも止める。
例えば土日の休みに行うだとか、月一で旅行に出かけるとかいう人なら、その時に行うといった具合に。


そうすると、手持無沙汰になってしまって、何か焦ってくる。スマホをいじろうとしたり、PCの電源を入れようとしたりするだろう。

そういうのを無視して、例えばゴロゴロするとか散歩に行くだとか、こうしてみようと思ったことをするのである。

そうしてしばらく過ごした後、顔本だとか青い鳥の奴とかを開いてみる。

すると、楽しくやっていたと思っていたのに、実は何か追われていたかのような感覚だったことに氣付いたりするという。面白いと思っているわけでもないのに何となくしてしまう、というのも同じである。

そういう、何かに氣付くというのが文字通りでおかしいが、氣付きである。氣が付くのである。

というわけで、そんな感覚がないわけではなく、普段は離れてしまっているのが現代社会なのだと言える。氣付くの反対で、氣離れとでも呼ぼうか。まあ、氣を逸らしてるというのだろうが。

氣だとかなんだを常に意識しなくてもいいが、階段をのぼる時にたまには一段飛ばしをしてみようか、ぐらいの感覚でよろしかろうと。


金は天下の回り物という。氣は宇宙の回り物とでも言えそうだが、その回り物は自身にもある。ある、という言い方は語弊のあるところだが、それはともかくとして、己自身に氣が付かないのならば、世の中にも氣が付けなくなるのは道理なのだと。


目に見えるとされていることは本当は見えなくて、目に見えないとされていることが実は見えていることなのかもしれない。


では、よき終末を。