飲んで帰ってきて、目が覚めたらまだ家の目の前のスーパーも開いていない時間だった。
開いてたら買い物行って、久しぶりに麻婆豆腐でも作ろう、などと考えていたわけではなく、茶でも飲んで寝なおそうかと思ったが、いや、うそ付いた。
眠くなるまでゲームでもやろうかと考えていた。
それはともかく。
先日出した、5時間弱のラヂヲ。
50回再生などいくまい、と踏んでたら、やはり行ってはいなかったので、予想通り。
だがしかし、誰か熱心に聴いてくれたのか、コメントがたくさん入っていた。予想外。
まさか、あの量をどう(まとめてなのか分割してなのか)聞いていたのかは判らねども、最後まで聞いていようとは・・・。恐ろしい子!
コメントの一覧を見ると、「もともと期待していない」とあったので、わしはショックを受けた!ソンガイバイショウを請求する!!
そこで、訴状を作成するために、何についてのコメントか、ついでに他のところも飛ばし飛ばし確認していたら、なんてことはなかった。
「陰謀だとか健康マニアだとか道徳の言葉をわしからは期待するな」ということについてだった。
ありがたい。それが伝わっているというか、それが判っている人がいるだけで十分である。もう思い残すことはないので、お酒を飲んで寝ることにする。いや、まだ朝である。
それはさておき、訂正が。ソンガイバイショウを請求される!!
先日のラヂヲでいった、元きみしぐれのおばはんが現在やっているブログのタイトルを間違えていた。いちいち確認したくなどない、というツンデレとかいうあれで結構だが、確認したらこうだった。
「そらとことりと森のうた」だった。ソンガイバイショウはお断りする。
これもしんくろにしちぃとかいうのか、ついでに開いたら、負彦のおっさんの翻訳の宣伝をしていた。もうずっと見ていないので、ダーリンを勝彦さんとしっかり呼んでいるかは未確認である。
なにがしんくろないずどうんたらかんたらか、というのは、去年、ある翻訳をやっているという話があり、それが出版されるのは今年(2014年)の春くらいだというのを思い出し、そういえば出たかなと不意に考えてみたら、やはり出ていた、という程度の話である。
去年、某掲示板(2ちゃんねるではない)に在籍していたときに、一部だか全部だかを翻訳したのを見せてもらったものである。
今は捨てたので、細かく内容を語ることは出来ないし、仮に書いたら出版妨害なので、ソンガイバイショウを請求されかねない。そんなつまらんことはしたくないので、もっとつまならないお話をいたそう。
しかし、細かくでなければ、妨害ではなく宣伝でしかないので、触れる。触れないことには話しが進まない。
人間の愛情というのは、脳内の化学物質に左右されていて、それは習慣やら訓練でどうにかなる、という話である。その物質を、オキシトシンだとかなんとか。幸せホルモン、などと呼ばれたりする。
育ち方で、それの分泌の具合などが悪くなったりするけど、なんとかなるんであんたは幸せになれるのだ、という話だといえばいいだろう。そんな感じに違いない。
よし、宣伝料をせしめよう。いや、いらん。
先日のラヂヲでも言ったような気がするし、過去にも言ったが、わしは特に女性に対する態度はあやふやなところがある。というより、物事を白黒つけることに別に重大な意義を感じていないので、態度が曖昧なのである。
バタイユの言うとおりなら、物事を白黒に分けるというのは、キリスト教じみているので無意味だと。そういう意味では態度ははっきりしている。
物事を善と悪に分けて、そしてその道徳に絡め取られる柔弱な存在が、たとえば、形骸化したマナーにうるさいジジババだったり、「健康」だとか「地球」だとか騒ぐ間抜けだったり、しつこいが負彦のおっさんのごときだったりする。
と、余談のつもりではないが、長くなってきた。そのことについては後ほど触れるか、忘れたころにラヂヲでやるかもしれない。
さて、「わしの態度は曖昧」という話に戻る。
ちと仲良くなりかけた女子が以前いた。今は死んではいないが、わしの中では死んだも同然なので、死んでいるとしておこう。こらこら。
で、例の掲示板で、「どういう風に向こうが出てくるか、ちと成り行きを見守るつもりです」という風なことを書いていたら、おっさんは言ってきた。
「はっきりさせないといけない。お前が女性に対して曖昧なのは、恐らく化学物質の影響だ」云々と。
化学物質!なんと甘美な響きか。
トニー・ライトの「レフト・イン・ザ・ダーク」というのが、「負彦教」の思想的バックボーンの一つであるが、以下のようにあったと存じている。
曰く「果物に含まれているフラボノイドなどの化学物質が脳を保護し、容積を増大させてきた」と。
アスパルテームも味の素も化学物質である。酸素も水も太陽光も化学物質である。
「化学物質の影響」というなら、わしより歳を食ってるおっさんのごときは、表面的でしかなかろうが、近年に規制されるまでの大量の化学物質の影響を受けてきている。
我が母親の述懐だったか、はっきりと覚えていないが、こんな話を覚えている。
「添加物とかは、わたしらが子供のときは激しかったから、わたしらの年代はあんまり長生きできないかもしれない」などと。
はっきりとした年齢は忘れたが(わしは非道徳的なんでな!)、六十は過ぎていたはず。和歌山からいきなりこっちに着たから、多摩動物公園なんぞへ連れまわしてみたが、元気だった。
夜勤明けで、勤務中の仮眠と、電車で寝たか?ぐらいのわしは、ひどく疲れたが、酒を飲んだのでなんともなかった。(誇張アリ)
おお、アルコールも化学物質だ。
しゃべる方がいい気がしてきたが、もう少し書く。
スピリチュアルだとかニューエイジだとかいうのか、まあ、ベジタリアンだとかフルータリアンの方々がのたまう。
曰く、「肉を食うと悪魔になる」云々。または、「肉食動物と同じになる」と。
肉食動物というのは猜疑心が強くて陰険で、といった風な話を、ちょっと調べれば見かけるかと思う。
微量の化学物質が、人の精神に影響を及ぼすのだー!という。
逆に犬に野菜を食わすと、穏やかになるという。人間と暮らしてきたから、食性も野菜食うのにまったく向いていないわけではないのが家畜化した犬なので、問題はないそうだ。
野菜やら果物で生活すると、人間らしい穏やかで調和の取れた存在になるのだー!という。
さて、ここまで書いたらお分かりだろう。
どーして、あのおっさんは、あのように悪魔や肉食動物のように猜疑心が強く攻撃的なのか?
そして、教条主義的ベジタリアンやフルータリアン、他にも健康至上主義者というのでもなんでもそうだが、肉を食わない人にだけ限定していう。
どーして、肉を食ったら悪魔になる!と、狂ったように攻撃するのか?もちろん、全員ではないだろーが。
かつて、とあるベジタリアンを自称する人物のブログを見た。
プロフィールにこういう風にあった。
「ベジタリアンの視点で、世の中を斬っていきます!」とかなんとか。
その中であった話を簡単に。
どこかのファーストフード店を通りかかったらしく、そこで「ヘルシー」を謳うキャンペーン品を食べてみたそうだ。
すると、肉が入ってた!なんだこれは!ヘルシーを謳うのに肉が入っている!こんな世の中は許せない!
と、ほんとうにこんなノリだった。
長くなっているが、反証を示そう!野菜を食えばやさしくなれること請け合いだ!!
よくあるマウスの実験である。ミッキーではない。
片方は野菜食わす。片方は肉食わす。さあこうなった。
野菜チームは、皆穏やかに過ごしていた。
お肉チームはというと、共食いを始めた。で、数がかなり減ったそうだ。
あなおそろしやあなおそろしや。プーチンの国はロシヤ。
ネズミってのは雑食である。肉も食う。
しかし、草しか食わないと思われている動物も、肉を食っていることがあるともいう。
鹿は、時々小鳥を捕まえて食う、という話もあるらしい。
チンパンジーにいたっては、他の哺乳類(猿のほかに、人間も)をとっ捕まえて、生きたまま食う。
あなおそろしやあなおそろしや。セーターはカシミヤ。
ミッキーに話を戻そう。
なんでも食うネズミが、むしろ肉食なんだが、肉ばかりを食う状況というのは何か。
それはあんた、他に食うものがないからじゃないか。
縄文時代の貝塚から人骨が出ている。これは共食いの証拠だ、と、明治期に日本で調査したモースだったか、外国の学者が指摘していたそうだが、共食いして数を減らし、食糧の需給の釣り合いをとっているだけじゃないかと。
肉食たるネズミが野菜食って「調和」してたのは、疲れて動かなかったのかもしれない。飽くまで、いや、悪魔の推論とでもしておこうか。
肉ばかり食わされて、ネズミたちは感じた!
この状況は食糧危機に攻撃されている可能性があるッ!と
さあ大変だ!種を根絶やしにしてはならぬ!というわけで、傍から見ている人間には理解不能だが、何事か約束して、「わしは食われる役、あんた食う役」と割り振って、見事その働きをなしとげた。
かくして、ネズミは絶滅の危機を乗り越えたのである・・・。めでたしめでたし。
まあ、実験の籠ごとゴミ箱に捨てられるので、やむなし、である。
ビオスとゾーエー、という言葉がある。確か、心理学の言葉だと記憶している。ギリシャ語で、どちらも「生命」を指す言葉である。
ビオスというのは、英語で言えば、BIOSとなるのだろう。個人の経歴だとかをBIOSという。つまり、個体の生命をいう。
ゾーエーというのは、Zooの語源で、種の生命という風にいわれている。
動物も人間も、どっちも動物には違いない。
違いないんだが、ミッキーの例からすれば、ゾーエーが強く働いて、ビオスを減らした。ということである。
ミッキーの行動はゾーエーに強く突き動かされた結果、といえる。
どっちが善で悪か、なんて区別に意味はあるだろうか?
生きたいと願っているネズミの行動を悪だというならば、生命自体が悪である。
では、ベジタリアンの話に戻ろうか。
生命自体を悪だと思っているから、そして、生命をビオスだけでしか推し量らないから、生きようとするネズミのゾーエーを見て、悪だと罵る。
アイクは言う。
「アスパルテームなどの化学物質や、電磁波その他もろもろで、我々はマインドに閉じ込められている」と。
また、負彦のおっさんの翻訳で、「訓練すれば、オキシトシン(化学物質である)の分泌や受容を正常化し、他者を愛し、また愛されることが出来る」という風にあった。
個体の生命というは、それはそれで大事であろう。ないがしろにしたら、わしは酒もたばこもやれなくなる。
それはともかく。
バタイユは、キリスト教は、いわゆる善悪渾然となっていた聖なるものを、清くて善なるものを「聖なるもの」とし、汚くて俗的なものを「悪なるもの」へと分けた、という。
動物は、善悪を勘案しないが、人間は考える。動物は考えないだけで、人間が決め付けるものとしての、善悪の行動を常々行ってはいるだろう。ミッキーの例を先ほど示した。
聖なるものだけが目指すべきものであり、悪なるものは弾劾すべし!というのが道徳というわけだが、これはここでやる話ではない。
動物は、ビオスとゾーエーが渾然としており、おそらく、ゾーエーが強いから、先ほどのネズミのようになる、としておこう。
化学物質などによって、人間はマインドに閉じ込められている、とアイクの言葉を用いた。
じゃあ、やっぱりネズミさんは、おにくのかがくぶっしつでおかしくなってるんだね!とはならない。
ビオス、つまりはアイクの言うマインドからの信号を、敏速にキャッチしたからこそのネズミの(ゾーエーの)行動である。生命活動である。
生命体の反応でいえば、脊髄反射の如くに。肉の化学物質が、というのは後付の理屈である。
われわれは、善と悪を分けることによって、人間になった。元生まれた自然を否定して、なおかつそれを否定していく人間世界に生きている、とバタイユはいう。
そしてこう続く。しかし、「それは元の自然に帰っていくわけではないのだ」と。
ここまで持ってくるのにちと苦労してしまったが、結論である。
自身が分裂していることを感じていない、もしくはよく理解していないがゆえに、生命の本質に触れた途端、それを悪と、マインドで否定する。当人はアイクのいうハートのつもりで、だ。
それは、生命を憎んでいるゆえに出る。愛ゆえに、ともいえるが。
それはまさしく、化学物質(の乱調)のせいである。負彦のおっさんの近刊の話では、愛情とやらは訓練で正常になれるそうだとあるが、つまりは訓練不足である。
化学物質のせいだとか、世の中が悪いというのは確かにあるが、それのせいだけにするというのは、そういうことである。
だから、敢えていう。
果物ばかり食べていると、悪魔になるぞ!と。
余談だが、オキシトシンを摂取すると愛国心が強くなる、という研究報告がある。つまりは偏狭になるということである。正確には、エスノセントリック(自民族中心主義)の傾向が増すという。
肉食ってるやつは死んでしまえ!というのは、わしも言った覚えはあるが、負彦のおっさんとその不愉快な仲間も共有していた感情である。
フルータリアン万歳!フルータリアン以外は苦しんで滅びろ!!
エスノセントリズムですな。
化学物質に左右される!危険だ!といったその口から、乗り越えられるといい、そして乗り越えていないままのトンチンカンな言葉が出てくる。まさに、善悪渾然である。
元の自然に戻っているわけではないのに、戻っていると勘違いをする。こういうの、ドイツ語で「フェアシュティーゲンハイト」という。心理学などで用いられる言葉である。
訳は平たくいうと、「思い上がる」という。逐語訳にすると、「登りそこなう」だそうな。重々しい心理学用語では「頽落(たいらく)」とあてられている。
猿も木を「登りそこなう」のは自然の摂理である。世は真に太平である。
開いてたら買い物行って、久しぶりに麻婆豆腐でも作ろう、などと考えていたわけではなく、茶でも飲んで寝なおそうかと思ったが、いや、うそ付いた。
眠くなるまでゲームでもやろうかと考えていた。
それはともかく。
先日出した、5時間弱のラヂヲ。
50回再生などいくまい、と踏んでたら、やはり行ってはいなかったので、予想通り。
だがしかし、誰か熱心に聴いてくれたのか、コメントがたくさん入っていた。予想外。
まさか、あの量をどう(まとめてなのか分割してなのか)聞いていたのかは判らねども、最後まで聞いていようとは・・・。恐ろしい子!
コメントの一覧を見ると、「もともと期待していない」とあったので、わしはショックを受けた!ソンガイバイショウを請求する!!
そこで、訴状を作成するために、何についてのコメントか、ついでに他のところも飛ばし飛ばし確認していたら、なんてことはなかった。
「陰謀だとか健康マニアだとか道徳の言葉をわしからは期待するな」ということについてだった。
ありがたい。それが伝わっているというか、それが判っている人がいるだけで十分である。もう思い残すことはないので、お酒を飲んで寝ることにする。いや、まだ朝である。
それはさておき、訂正が。ソンガイバイショウを請求される!!
先日のラヂヲでいった、元きみしぐれのおばはんが現在やっているブログのタイトルを間違えていた。いちいち確認したくなどない、というツンデレとかいうあれで結構だが、確認したらこうだった。
「そらとことりと森のうた」だった。ソンガイバイショウはお断りする。
これもしんくろにしちぃとかいうのか、ついでに開いたら、負彦のおっさんの翻訳の宣伝をしていた。もうずっと見ていないので、ダーリンを勝彦さんとしっかり呼んでいるかは未確認である。
なにがしんくろないずどうんたらかんたらか、というのは、去年、ある翻訳をやっているという話があり、それが出版されるのは今年(2014年)の春くらいだというのを思い出し、そういえば出たかなと不意に考えてみたら、やはり出ていた、という程度の話である。
去年、某掲示板(2ちゃんねるではない)に在籍していたときに、一部だか全部だかを翻訳したのを見せてもらったものである。
今は捨てたので、細かく内容を語ることは出来ないし、仮に書いたら出版妨害なので、ソンガイバイショウを請求されかねない。そんなつまらんことはしたくないので、もっとつまならないお話をいたそう。
しかし、細かくでなければ、妨害ではなく宣伝でしかないので、触れる。触れないことには話しが進まない。
人間の愛情というのは、脳内の化学物質に左右されていて、それは習慣やら訓練でどうにかなる、という話である。その物質を、オキシトシンだとかなんとか。幸せホルモン、などと呼ばれたりする。
育ち方で、それの分泌の具合などが悪くなったりするけど、なんとかなるんであんたは幸せになれるのだ、という話だといえばいいだろう。そんな感じに違いない。
よし、宣伝料をせしめよう。いや、いらん。
先日のラヂヲでも言ったような気がするし、過去にも言ったが、わしは特に女性に対する態度はあやふやなところがある。というより、物事を白黒つけることに別に重大な意義を感じていないので、態度が曖昧なのである。
バタイユの言うとおりなら、物事を白黒に分けるというのは、キリスト教じみているので無意味だと。そういう意味では態度ははっきりしている。
物事を善と悪に分けて、そしてその道徳に絡め取られる柔弱な存在が、たとえば、形骸化したマナーにうるさいジジババだったり、「健康」だとか「地球」だとか騒ぐ間抜けだったり、しつこいが負彦のおっさんのごときだったりする。
と、余談のつもりではないが、長くなってきた。そのことについては後ほど触れるか、忘れたころにラヂヲでやるかもしれない。
さて、「わしの態度は曖昧」という話に戻る。
ちと仲良くなりかけた女子が以前いた。今は死んではいないが、わしの中では死んだも同然なので、死んでいるとしておこう。こらこら。
で、例の掲示板で、「どういう風に向こうが出てくるか、ちと成り行きを見守るつもりです」という風なことを書いていたら、おっさんは言ってきた。
「はっきりさせないといけない。お前が女性に対して曖昧なのは、恐らく化学物質の影響だ」云々と。
化学物質!なんと甘美な響きか。
トニー・ライトの「レフト・イン・ザ・ダーク」というのが、「負彦教」の思想的バックボーンの一つであるが、以下のようにあったと存じている。
曰く「果物に含まれているフラボノイドなどの化学物質が脳を保護し、容積を増大させてきた」と。
アスパルテームも味の素も化学物質である。酸素も水も太陽光も化学物質である。
「化学物質の影響」というなら、わしより歳を食ってるおっさんのごときは、表面的でしかなかろうが、近年に規制されるまでの大量の化学物質の影響を受けてきている。
我が母親の述懐だったか、はっきりと覚えていないが、こんな話を覚えている。
「添加物とかは、わたしらが子供のときは激しかったから、わたしらの年代はあんまり長生きできないかもしれない」などと。
はっきりとした年齢は忘れたが(わしは非道徳的なんでな!)、六十は過ぎていたはず。和歌山からいきなりこっちに着たから、多摩動物公園なんぞへ連れまわしてみたが、元気だった。
夜勤明けで、勤務中の仮眠と、電車で寝たか?ぐらいのわしは、ひどく疲れたが、酒を飲んだのでなんともなかった。(誇張アリ)
おお、アルコールも化学物質だ。
しゃべる方がいい気がしてきたが、もう少し書く。
スピリチュアルだとかニューエイジだとかいうのか、まあ、ベジタリアンだとかフルータリアンの方々がのたまう。
曰く、「肉を食うと悪魔になる」云々。または、「肉食動物と同じになる」と。
肉食動物というのは猜疑心が強くて陰険で、といった風な話を、ちょっと調べれば見かけるかと思う。
微量の化学物質が、人の精神に影響を及ぼすのだー!という。
逆に犬に野菜を食わすと、穏やかになるという。人間と暮らしてきたから、食性も野菜食うのにまったく向いていないわけではないのが家畜化した犬なので、問題はないそうだ。
野菜やら果物で生活すると、人間らしい穏やかで調和の取れた存在になるのだー!という。
さて、ここまで書いたらお分かりだろう。
どーして、あのおっさんは、あのように悪魔や肉食動物のように猜疑心が強く攻撃的なのか?
そして、教条主義的ベジタリアンやフルータリアン、他にも健康至上主義者というのでもなんでもそうだが、肉を食わない人にだけ限定していう。
どーして、肉を食ったら悪魔になる!と、狂ったように攻撃するのか?もちろん、全員ではないだろーが。
かつて、とあるベジタリアンを自称する人物のブログを見た。
プロフィールにこういう風にあった。
「ベジタリアンの視点で、世の中を斬っていきます!」とかなんとか。
その中であった話を簡単に。
どこかのファーストフード店を通りかかったらしく、そこで「ヘルシー」を謳うキャンペーン品を食べてみたそうだ。
すると、肉が入ってた!なんだこれは!ヘルシーを謳うのに肉が入っている!こんな世の中は許せない!
と、ほんとうにこんなノリだった。
長くなっているが、反証を示そう!野菜を食えばやさしくなれること請け合いだ!!
よくあるマウスの実験である。ミッキーではない。
片方は野菜食わす。片方は肉食わす。さあこうなった。
野菜チームは、皆穏やかに過ごしていた。
お肉チームはというと、共食いを始めた。で、数がかなり減ったそうだ。
あなおそろしやあなおそろしや。プーチンの国はロシヤ。
ネズミってのは雑食である。肉も食う。
しかし、草しか食わないと思われている動物も、肉を食っていることがあるともいう。
鹿は、時々小鳥を捕まえて食う、という話もあるらしい。
チンパンジーにいたっては、他の哺乳類(猿のほかに、人間も)をとっ捕まえて、生きたまま食う。
あなおそろしやあなおそろしや。セーターはカシミヤ。
ミッキーに話を戻そう。
なんでも食うネズミが、むしろ肉食なんだが、肉ばかりを食う状況というのは何か。
それはあんた、他に食うものがないからじゃないか。
縄文時代の貝塚から人骨が出ている。これは共食いの証拠だ、と、明治期に日本で調査したモースだったか、外国の学者が指摘していたそうだが、共食いして数を減らし、食糧の需給の釣り合いをとっているだけじゃないかと。
肉食たるネズミが野菜食って「調和」してたのは、疲れて動かなかったのかもしれない。飽くまで、いや、悪魔の推論とでもしておこうか。
肉ばかり食わされて、ネズミたちは感じた!
この状況は食糧危機に攻撃されている可能性があるッ!と
さあ大変だ!種を根絶やしにしてはならぬ!というわけで、傍から見ている人間には理解不能だが、何事か約束して、「わしは食われる役、あんた食う役」と割り振って、見事その働きをなしとげた。
かくして、ネズミは絶滅の危機を乗り越えたのである・・・。めでたしめでたし。
まあ、実験の籠ごとゴミ箱に捨てられるので、やむなし、である。
ビオスとゾーエー、という言葉がある。確か、心理学の言葉だと記憶している。ギリシャ語で、どちらも「生命」を指す言葉である。
ビオスというのは、英語で言えば、BIOSとなるのだろう。個人の経歴だとかをBIOSという。つまり、個体の生命をいう。
ゾーエーというのは、Zooの語源で、種の生命という風にいわれている。
動物も人間も、どっちも動物には違いない。
違いないんだが、ミッキーの例からすれば、ゾーエーが強く働いて、ビオスを減らした。ということである。
ミッキーの行動はゾーエーに強く突き動かされた結果、といえる。
どっちが善で悪か、なんて区別に意味はあるだろうか?
生きたいと願っているネズミの行動を悪だというならば、生命自体が悪である。
では、ベジタリアンの話に戻ろうか。
生命自体を悪だと思っているから、そして、生命をビオスだけでしか推し量らないから、生きようとするネズミのゾーエーを見て、悪だと罵る。
アイクは言う。
「アスパルテームなどの化学物質や、電磁波その他もろもろで、我々はマインドに閉じ込められている」と。
また、負彦のおっさんの翻訳で、「訓練すれば、オキシトシン(化学物質である)の分泌や受容を正常化し、他者を愛し、また愛されることが出来る」という風にあった。
個体の生命というは、それはそれで大事であろう。ないがしろにしたら、わしは酒もたばこもやれなくなる。
それはともかく。
バタイユは、キリスト教は、いわゆる善悪渾然となっていた聖なるものを、清くて善なるものを「聖なるもの」とし、汚くて俗的なものを「悪なるもの」へと分けた、という。
動物は、善悪を勘案しないが、人間は考える。動物は考えないだけで、人間が決め付けるものとしての、善悪の行動を常々行ってはいるだろう。ミッキーの例を先ほど示した。
聖なるものだけが目指すべきものであり、悪なるものは弾劾すべし!というのが道徳というわけだが、これはここでやる話ではない。
動物は、ビオスとゾーエーが渾然としており、おそらく、ゾーエーが強いから、先ほどのネズミのようになる、としておこう。
化学物質などによって、人間はマインドに閉じ込められている、とアイクの言葉を用いた。
じゃあ、やっぱりネズミさんは、おにくのかがくぶっしつでおかしくなってるんだね!とはならない。
ビオス、つまりはアイクの言うマインドからの信号を、敏速にキャッチしたからこそのネズミの(ゾーエーの)行動である。生命活動である。
生命体の反応でいえば、脊髄反射の如くに。肉の化学物質が、というのは後付の理屈である。
われわれは、善と悪を分けることによって、人間になった。元生まれた自然を否定して、なおかつそれを否定していく人間世界に生きている、とバタイユはいう。
そしてこう続く。しかし、「それは元の自然に帰っていくわけではないのだ」と。
ここまで持ってくるのにちと苦労してしまったが、結論である。
自身が分裂していることを感じていない、もしくはよく理解していないがゆえに、生命の本質に触れた途端、それを悪と、マインドで否定する。当人はアイクのいうハートのつもりで、だ。
それは、生命を憎んでいるゆえに出る。愛ゆえに、ともいえるが。
それはまさしく、化学物質(の乱調)のせいである。負彦のおっさんの近刊の話では、愛情とやらは訓練で正常になれるそうだとあるが、つまりは訓練不足である。
化学物質のせいだとか、世の中が悪いというのは確かにあるが、それのせいだけにするというのは、そういうことである。
だから、敢えていう。
果物ばかり食べていると、悪魔になるぞ!と。
余談だが、オキシトシンを摂取すると愛国心が強くなる、という研究報告がある。つまりは偏狭になるということである。正確には、エスノセントリック(自民族中心主義)の傾向が増すという。
肉食ってるやつは死んでしまえ!というのは、わしも言った覚えはあるが、負彦のおっさんとその不愉快な仲間も共有していた感情である。
フルータリアン万歳!フルータリアン以外は苦しんで滅びろ!!
エスノセントリズムですな。
化学物質に左右される!危険だ!といったその口から、乗り越えられるといい、そして乗り越えていないままのトンチンカンな言葉が出てくる。まさに、善悪渾然である。
元の自然に戻っているわけではないのに、戻っていると勘違いをする。こういうの、ドイツ語で「フェアシュティーゲンハイト」という。心理学などで用いられる言葉である。
訳は平たくいうと、「思い上がる」という。逐語訳にすると、「登りそこなう」だそうな。重々しい心理学用語では「頽落(たいらく)」とあてられている。
猿も木を「登りそこなう」のは自然の摂理である。世は真に太平である。