ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

人として軸がぶれている

2012-05-30 | 雑記
中学生のころだったか。読んでいるかたにも身に覚えがあるだろう。

体育の時間に「行進」というものをやらされたことを。運動会だとか体育祭の時期になると、よく授業で練習するあれである。


その時の体育の教師が、ちょっとした笑い話をしていた。


腕をブンブン振るのだが、手の振りが宜しくない(寧ろ正直である)奴がいるので、「こら!そこ!もっと手を振れ!」と注意した。

すると、注意された生徒はにこやかにその教師の方へ手を振ったのである。「お前は天皇か!」と、体育教師の言。


さて、行進とは何ぞや。言うまでもない。軍隊の行軍の練習である。学校は兵士の訓練所だったとは知らなんだが、そもそもそこらじゅう訓練所だらけである。


学校でやらされる行進は、足の運びは膝を曲げて腿を上げる足踏み方であるが、彼のナチスドイツの場合はグースステップという、膝を全く曲げずに前へ出す行進をしていた、と書いてふと気になったので調べてみたら、現在でもいたる国で、式典などでやっているようだ。※ガチョウ足行進

国によって手の振り方が違うと言う。


まあ、大体は左右交互に前後させている。(右手が前に来てる時は左脚も前に)


さて、実際今となってはお目にかからなくなっただろうが、(アニメ「クレヨンしんちゃん」では見たことがある)手足を左右同じ前後の位置で出しているというのを見たことはなかろうか。

こちらも、ごく小さい時はもしかしたら、その行進など、人前に引きずり出された緊張の余り、ぎこちなくなり、その歩き方をしたかもしれないが、もう判らない。


さて、この歩き方。緊張して「ぎこちなく」なったからそういう変な動きをする、とよく言われている。(見たことがない、という方にはよく判らんと思われるが)


実はこれ、緊張して「ぎこちなく」なったから、までは同じだが、そのぎこちなさを解消するがために、自然な歩き方へ戻っているのである。


この、同じ左右の手足を同時に前後させる(誇張していえば半身を交互に前に出しているようなものだ)歩き方は、日本古来からあるといわれる、「ナンバ」という歩き方なのだそうな。

古来、武士が太刀を佩いている時は、今一般に行われている歩き方だといざというときに抜けなくなる(必ずしもではないようだが)。武士でなくとも、和装で歩く際、衣擦れが起こったり、帯が緩むそうな。

上記のリンク先のウイキペディアでは、ナンバについては諸説あるそうだ。一説によると、手を振らない歩き方も「ナンバ」であるとか。

古武術研究家の甲野善紀氏が広めるのに一役買ったようである。

ナンバ歩き-甲野善紀-



動画の中でも、ナンバで(その時の示し方は手足を同時に出すほうの)歩くほうが歩幅広がるという風な話をしている。体を捻らないこと、が要のようだ。

ウイキペディアに、「検証せよ」という決まり文句つきではあるが、利点が書かれている。貼り付けてよかったのかどうかわからんが、気にしないでおく。

 体を必要以上にひねらないためスタミナが減りにくい。
上半身のねじれが小さくなるので、姿勢が安定する。
動きに無駄がなくなり、瞬発力が出る。
相撲の鉄砲のように、片側の腕、腰、足を合わせて動かすとパワーが出やすい。
急な坂道や階段などを上る際にナンバで歩行すると体に負担がかかりにくい。



ここまで書くとそろそろ答えが見えた!と思われるだろう。

「つまり和装して手を振らずに歩けということだな!そして正坐しろだな!?」正坐は最近のいつものセリフだが、和装云々は個人の自由である。無論、和装したほうが正坐やナンバで気づきやすくなる「身体感覚」と呼ばれるものをもっと自覚しやすくなるだろう。


問題はそこにはない。いや、それも問題だが、もう少し込み入っている。


手足を左右交互に歩くやり方が明治から(西洋に倣ったが故に)始った、というような話もウイキペディアにある。「ナンバ」が廃れた理由として挙げられていて、そして横槍も入っている。そこはウイキのこと。話半分で聞いてもいい。(横槍の方についてだ)


いわゆる学校教育が始り、大抵の人は冒頭の行進と同じように(流石に太股を持ち上げるようなことはないが)歩くことが普通になったといえる。元がどうだったかはさておき。


さて、ここでまた別の話を始める。こちらも一応歩くことについてである。


歩行瞑想法というのがある。解説ページはこちら。ヴィッパサナー瞑想実践方法 歩行瞑想マニュアル

瞑想というのは意識の障りをなくし、無意識に到達するという試みというわけだが、いきなり意識とやらを飛ばすことは難しい。

そこで、歩く時に、左足を上げたら「左」という風に意識をする。(ページでは「ラベリング」と呼ばれている)
ただ、機械的に「右」「左」とラベリングしていくのは、掛け声やマントラと同じになってしまうと注意が促されており、その一瞬一瞬に浮かび上がったものや時々の状況についてラベリングしていく。飽くまでメインは歩行ではある。それを心が落ち着くまでやると。

ここ最近、意識意識と書いていたのだが、野口整体も言ってしまえば瞑想(技法、修練法と言うのかその一つに活元運動というのがある。「動く座禅」と呼ばれたりする)なのである。


また少し逸れていくようだが、もう少し続ける。


今まで普通の食事をしていた人が、配置換えを機に、仕事場の片隅で忙しなくかき込むような食べ方になっていった。そして、普段は食事だけで満足していたのに、隙を見てはなにやら食べるようになっていった。そうなったころには飯の味も判らなくなっていたそうである。直リンク禁止なので、こうすればいいのかな。http://p.tl/41OE
ストレスによって食に対する集中力が損なわれ過ぎたがため、体を壊したのである(本文中では「体が乱れてしまった」とある)。虫歯が化膿したとか。


こういうことが出来る。「食に対する集中力」とは意識することであろうが、それは歩行瞑想法における「ラベリング」であるといえる。

ストレスや食事中にも仕事に気を使う状態という、「掛け声」や「マントラ」が、意識を乱したと言える。


意識とは無意識のうちにあると、野口整体ではいう。さっきのページのどこかに書いていたが、興味があったらいろいろお読み戴きたい。


現代は、無意識の一部でしかないはずの意識が自身を統べていると考えている。要するに思い込みだ。

ストレスにさらされ、一瞬一瞬に意識を集中できない状態は、いわば霧のようにバラけた意識の断片が無意識を薄く覆っているだけなのを勘違いして「ここに見えるものが全部意識である」と言っているようなものである。

意識する、とはそのバラけた断片を一まとめにして、無意識の一部でしかないことを自覚させるように持って行ってこそ、なのだといえる。



さて、通りを歩く人をご覧戴こう。手足を左右交互に振らない人を見ないことはまずないだろう。まず歩く人がいなかったとか、やっと来たと思ったら荷物持ってたとか、そもそも両腕がなかった、などという事情は別にしてもらう。


彼らはマントラを唱える。左右交互に手を振るというマントラを。体を捻りながら。そして、種々の掛け声に苛まれる。捻られ続けた体は休まることがない。


体の軸と言えるものがその心身両方の圧力によってぶれていく。


そのようなぶれた人間がぶれた人間をぶれたままに統率していくというのである。「人として軸がぶれている」と言わざるを得ないのである。


ちなみに、今回のタイトル。然る歌手があるアニメで歌ったOPテーマだそうな。最初はその関連で話をやろうかと思ったが、長くなるので辞めた。「日本をインドにしてしまえ!


というわけで、わしが皆の衆にマントラを届けたいと考えた。



「手を振るのを辞めよ 体を捻るのを辞めよ 意識を捻って無意識まで捻ろうとすることなかれ」





捻じれた心身では前を見ることも叶わぬ。努々「意識する」を怠ることなかれ。では、また。




追記:ラヂヲ用にピンマイクを購入しました。今日、もしくは明日中に試験の後に録音予定です。長くなりすぎないよう気を付けたいと思います。

この鳩を見よ

2012-05-28 | 雑記
先日、仕事場へ向かうため、ホームで電車を待っていた。


基本的にいつも同じ場所で立って待つのだが、女性が一人、黄色の線から二歩ほど離れて立っている。



電車が来るまで少々時間があった。ふと、後の女性のほうで何やら動きが見られる。(位置としては斜め後で、視界には入るレベルである)

何やらチョコボールのようなものを摘み出しては口に運んでいる。

そこはいいだろう。自由である。「不自由」でもあろうが、彼女の自由である。


そこまでなら在り来たりの風景だった。


気になったのはそこではない。その女性の「動き」である。


「動きが見られる」と書いたが、チョコボール(仮)を取り出したのが判ったからではない。

通販番組でよく、某世界の警察国家で発案された健康危惧、じゃなかった器具というものが出るだろう。

それの足踏みをする奴を思い浮かべていただきたい。


その女性は食べながらそれに近い足の動きを行っている。これを書くまでに間が空いたが、それまでに思いついたのは「律動体操」だった。(リンクの動画内で足を地面から離さない状態で動いているシーンが正に)


なんだこれは。いつからここはチュチェササンを奉戴したのだ。


向かいのホームを歩く鳩を見たまえ。

彼の者は全体を通してみるなら、覚束無く動いているかのように見える。だがその一挙手一投足(手はないが)には雑念が感じられぬ。

首を振りつつ歩き、時折、餌をあるのかないのか判らないが啄ばむ。そしてまた歩き出す。


彼らの意識というものはその一瞬一瞬にしか存在しないといえるが、その一瞬が永遠ともいえる膨大な威力を持って迫ってくる。


生物と意識を現実にあるものにして例えてみよう。


鎖に繋がれた犬を想像していただく。


その犬は鎖に繋がれていることを認識している。そしてまた、鎖の重さと長さをも自覚している。

彼は走る。その鎖の長さの限界まで走る。そして思い知るのである。「引っ張りすぎて首が苦しい」と。

彼はもといた場所に戻っていく。そしてまた、思い切り走る。首と鎖が引きちぎれない程度まで。

これがあの鳩である。


翻って、我々人間についてはどうか。


彼の犬は同じく鎖に繋がれている。鎖に繋がれていることは自覚している。重さもそこはかとなく判ってはいる。

だが、その長さを知らない。かなり長いことだけは承知している。長さがどの辺りまでか量る前に、右往左往していたせいでその体に纏わりついてしまい、動くことが億劫になっている。

時折ほどけることがある。走り出そうかと彼は考える。しかし、走りかけてはまた、トボトボと元来た道をたどり、定位置で座り込む。


食べるのなら何を食べるにしても、鎖を引っ張りきって食べるべきである。律動体操をしながら食べるなどという自分に鎖を纏わりつかせるような真似は、魂への冒涜である。

この鳩を見よ!



すんません。ニーチェのパロディです。主にタイトルが。(晩年の著作だったか「この人を見よ」というのがある)




さて、先日、正坐について質問を受けた。それと、正坐の写真も。まあ、写真についてはおまけと思っていただく。



普段、自身の体がどのような状態が自然な姿勢であるかを意識するのはなかなか難しい。

正坐を意識し直す前は、こちらもひどく気分が落ち込んだような、嫌な感じを持つことが多かった。「猫背になっているな」という感じは強かったのだが、意外と治らない。


そこで、姿勢を自覚する方法として一つ提案をする。


とりあえず、固い床に仰向けになっていただく。


尾てい骨が痛いなどと言う苦情は受け付けない。寧ろ、クンダリーニを発現させるいい刺激だと思うほうがよい。


話が逸れたが、恐らく、その状態があなたにとっての自然に伸びた背筋であると思われる。


それをイメージしつつ、坐骨に上半身の体重をかけるように坐れば、自然と「臍が上を向く」状態になる。


ちなみに、坐骨に体重をかける状態になればいいので、椅子に坐るときも背もたれによりかからず、足を地面につけて踏ん張れる状態にし(出来ればなおよし、というところだそうな)、坐骨を意識して背筋を伸ばせば問題ない。

慣れてくると、歩くときも背筋を自然に伸ばすことに意識が行くようになると思われる。都会の空気はまずいが、空気が新鮮になること請け合いである。

その上で、呼吸をするときは、「背骨に息を通すつもりで」やるといい。これはまずは正坐して瞑目した状態から練習するそうだが、これは瞑想をしたことがある人には想像がつきやすいと思われる。


野口晴哉曰く、「背骨に気が通ると発汗する」と。時期も時期であり(朝晩は涼しい)、あまり汗をかき難い状態にあるとはいえ、体が熱くなるような感じがあれば、恐らく野口晴哉の言っていることに近づいたと思われる。


さて、ここからは少々お見苦しいギャラリーへ。


正坐の形としては不十分なので、参考にはならないが、ご笑覧いただく。


一枚目 フロントサイド
ちょっと疲れた顔をしているが、気にしないでほしい。


二枚目 レフトサイド
背筋が曲がっているような気がしないでもない。



おまけ ダークサイド



健やかな正坐生活をお楽しみください。では、また。

ラジオ始めました

2012-05-28 | ラヂヲ
まるで中華料理屋のようだが、ようやく重い腰を持ち上げて録音。

【ラヂヲ】ウヰスキーの時間




以前からやるやるといってたのにやるやる詐欺のようになってしまったが、内容については前から言っていた通り「ゲームを辞めた理由」。


まだゲームにこだわっているのか、と受け取られそうだが、自分がある程度分かるものであるのと、このブログを始めるきっかけになった知り合いの多くが(もう見てないだろうとしても)ゲーム仲間だったこと、そして、たかがゲームと言えども、この社会を動かしているものの一部には違いないこと。それが一部どころではないものに繋がっている。

大げさに言うと、「ゲームを通して世の中を見る」というところだが、まだまだ至らない所が多いし、聞き苦しいところもあるかと思われる。


原稿も何もなしのぶっつけ本番だったが、意外とすらすら言葉が出てきたりして、不思議な気分だった。


いわゆるインボーロン的にはまだ序の口というか、入り口に立っているかどうかも怪しいレベルだが、判らない人には考える切っ掛けになってもらえたらなと思うしだいである。


ところで、子供のころから少々気難しいところがあったと、以前書いた。気難しくなったというか思春期も重なったのか、それはよく思い出せないが、「こう思う」というと、決まって返事が来る。「考えすぎだ」と。


「世の中それで回ってるんだから」と、いわば「大人の論理」で返されたりするわけだが、今はこう言い返そうと考えている。

「そういうあなたはそこまで考えようともしていないのではないか」と。ケンカになったらケンカになったで。兄貴に胸倉捕まれるようなこともあった。



スピリチュアル的な話に広げようかと思っていたのに、忘れていたので、もし、ブログを動画から見に来た人のために追記しておく。(動画にはヒントしか出してないが)


テレビを見るという行為が、同じ時間、同じ感情(主に恐怖を煽る)を共有させることによってあたかも宗教のように働くという話(視聴者の精神状態が信者のそれと同等になる、という論も実際ある)なのだが(さらにそのエネルギーを吸い取って集めているという話に繋がって、ようやくスピリチュアル的となる)、これがゲームでもその意図が働いているのではないかと。

それが昨今のネットゲーム興隆の意図ではないかと考えている。時折、ゲームの管理側からお祭りが出されるわけだが、普段はばらばらの時間(それでも同時に接続する多数の人間がいる)だが、まとめて注意をひきつけることが出来る。

普段は苦行のような内容のモノを緩和して期間限定で出血サービスをやるのがその定番だが、ニュースを見ては憤り、お笑いを見ては笑いを催し、グルメを見ては食欲を増大させるという、テレビの流れと実は変わらないのである。


動画の中でも「感情に振り回される状態は異常である」という風なことを語ったのだが、もしかしたら、感情というもの自体は全て「恐怖」なのかもしれない。心理学的にも、喜びにしろ悲しみにしろ、そういう刺激は「ストレス」であるという話にも触れたのもあって、少々説得力を持って感じられる。


ところで、流石に宣伝しまくっても、家やらネットカフェでやるネットゲームの人気は衰えてはいると思われる。あの手この手で惹き付けようとしてはいるようだが。

そして、もっと手軽にもっと時間に制約されにくい形で広まっているものがある。それが、スマートフォンなんかでやっている人が増えている、モバイルゲームというのか、ああいうものだと。


まるで手品師のよう、手を変え品を変えてはいるが、根本はテレビを見せるのと同様に「ストレス」を与えることには違いないのである。


手品もネタがバレては仕舞いである。そろそろ目の前の手品より、もっと大きな手品があなたを騙くらかしていることも自覚していいころである。


詰まらない手品を見るより、太陽を眺める方が奇跡を感じれるだろう。猫を撫でるのも素晴らしい。言ってしまえば、あなた自身が生きていること自体が、人工の奇跡たる「手品」より遥かに奇跡である。




というわけで、この補足を語れたほうが格好いい気がしなかったでもないが、ラジオ自体は少々腰砕けの感が否めない。


時間も四十六分という長丁場なので、本当にラジオを流すかのように聞いていただくのが丁度よいというなら、その腰砕け感も予定調和ということで。では、また


反栄養的考察

2012-05-27 | 雑記
なんというおどろおどろしいタイトル。


これから三十回くらいに渡って、栄養とはなんなのかを徹底的に追求していきたい、と思ったが、やる方も読むほうもしんどいことこの上ないし、そもそもタイトルを思いついただけに近いので、肩と鳩尾の凝りを抜いて、果物でも食べながら、いや、ながらはいけない。読み終わったら食べてください。


というわけで、ちょっと余談を。


先日、ある方に、前に書いた文章を誉められた。


何件か前の、野良猫が死んだ話を書いたところの最後のほうの一行について、「小説の一節のようでした」という風に。


何やらよくわからんことをよくわからんままに書いて、お節介にもその状況について事細かに書くよろしくない癖があるので、今までに貰った賛辞は「無駄に長い」である。


その賛辞の後は惨事に繋がったようなので、こちらとしてはそれもまた栄誉であると考えることにした。



話が逸れたが、その一言だけで書いた甲斐があったと感じるしだいである。これからもトンチンカンがチンプンカンプンなことを書き散らすと思うが、ご愛顧のほどを。




では、本題へ。



現代で主流の栄養学は、大体こういう事を述べている。


曰く「一日三十品目を、主菜、副菜を中心に、一日三食バランスよく食べるべし」と。


その三十品目をつらつら挙げるほど愚かしいことはないので略するが、その中には勿論、肉、魚、及び乳製品が含まれる。


何故三食摂取するのか、というと、その三食で二千キロカロリーを摂ると前提して、朝食べたら昼に丁度空になるはずだから、ここでこれだけ食べたら次まで持つ、というような話であろうと思われる。違うかもしれないが。

ちなみにアメリカの話だが、あちらで一日三食が始まったのはエジソンがトースターを売り出してから、という話である。それまでは二食だったそうな。その辺りは「犬も歩けば棒に当たる」、と言わんばかりに転がっている。知的訓練だと思って、肩と鳩尾の力を抜いてやってみてもらいたいものである。


さて、ここからはあなたにも経験があるであろう話しである。無い人もいるだろうが、そこは想像力という奴で補ってもらう。



あなたは仕事だか学校だかで一日動き回って(ベンチウォーマーでした、というのでも)くたびれている。今日は昼飯が少なかっただとか、忙しくてちょっとお菓子つまんだくらいだったとか、部活で激しく動き回ったので空腹になったとかで、歩くのもやっとである。


サァ!我が家に帰り着いた。食事の時間はこれからである。玄関を開けると、台所から匂いがする。これは・・・好物の○○(お好きな名詞を挿入してご想像ください。しかし、そこで「冷奴」とか「刺身」とか言われたら文脈としてはアレだが)だ!

あなたは無我夢中で(冷奴を無我夢中で食べる人は見たことはないが)食べる。お代わりもするほど(冷奴を以下略)。アァ満足だ。元気になったぞ!ちょっと休憩したら日課のアレやらコレやらをやるかな、という風になったりする。余りにも満腹で眠くなったりもするだろうが、その辺りは一旦、想像の埒外に置いて戴くとする。


さて、例の栄養学が提唱するところは、「毎日一日三十品目を三食バランスよく食べないと不健康になる」と言っているわけだ。

そのドグマからしたら、昼が少なかったり抜けたりして、晩飯まで食べずに過ごしたというならば、栄養が空になっていて、車ならガソリンが無くなった状態である、と言うはずである。

車にガソリンを入れるならすぐ動く。しかし、人間はV6エンジンを搭載していたなどとは聞いたことが無い。実はディーゼルでした、というわけでもない。


ある程度その栄養学的に言うとするならば、体に蓄えられたエネルギー(脂肪やら血糖やら)を消費してやり繰りした結果に過ぎないので、これまた不健康である、と結論付けて来そうではある。


あんたらは人を健康にしたいのか不健康にしたいのかよくわからんぞと。説に則らないものを罰するかのような上記の物言いには、何やら信仰箇条めいたものを覚える。



「上の例え話は気のせいじゃないのかね」と言われるかもしれない。だが、食べ物を燃料にするには、体の中で原油を精製するかのような手間が掛かっている。

腹に収まった時点では何物でもなく(敢えて言うならガソリン車にとっての原油である)、異物である。異物が胃に詰まって何故元気になるのか。


そもそも、「疲れて歩くのもやっと」というのに、食べて元気になって、尚且つ体内の「精製プラント」は活発化している。一説には、消化には体内のエネルギーの九割以上を差し向けているという。


先ほどから述べている栄養学云々の話は、ある程度こちらの推測で(一日の消費カロリーの宗旨、じゃなくて収支の話は特に)語ったが、その想像通りだとすると、破綻していると言わざるを得ない。


つまり、人は食べ物の栄養によって健康になっているのではなく、食べることそのものによって健康になっている、という考えが成り立ちうるのである。


「人はパンのみによりて生くるにあらず」と、どこかのユダヤの人が言っていたそうだ。

言い得て妙である。パンを胃に詰めるのは手段であって、目的ではないのだと。



と、ここまで書いたが、また話がこじれていく。こじらしたつもりは無いが、こちらとしては腹をよじれさせたいところである。



学術的に、人間の本来の食べ物はこれである、という話が出てきているそうだ。




こちらの記事をどうぞ。


後、そちらで紹介されている書籍の内容について触れている、同ブログの箇所。

左の「ブックマーク」のうち、上から二番目の「おデブ脱出計画♪」より。


ところで、一つ謝罪しておきたいことがある。ちょっと私信に関わるところがあるが。

上記ブログの執筆者、きみしぐれさんと以前、メールのやりとりをしたのだが、ご自分のブログを「あやしげ」だとかおっしゃられていた。

とんでもない。ちゃんと典拠を示して話をされている。こちらなんか、怪しげにも「たしかこんな話を読んだ」とかいう風に、トンチンカンに書いている。

そのトンチンカンが調子に乗って、左記のブログ紹介と相成ってしまっている。こちらとしては、あの紹介文は受け狙いをやり過ぎた感があるものの、気に入ってはいる。申し訳ない。

ダメ!と言われたら取り下げる腹積もりなので、遠慮なく申し出ていただきたい。



さて、人間という動物は本来、熱帯で暮らしていたという。

今も熱帯で暮らしている人々は、人間の原型を留めているといえるわけだ。

人の細胞の中には、ミトコンドリアというものがある。これは、母から子へと受け継がれていくという。母から子だけの遺伝であり、その子が女子であるならば、さらにその子もまた同じミトコンドリアを持つという。

そのミトコンドリアを遡ると、一人の女性に行き着くそうである。その女性はアフリカにいたと言われている。仮名として、「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている。どうやって調べたのかは、科学についての知識を一片も持たぬこちらとしては知る由もない。


さて、人は本来熱帯にいて、そこから地球上を彷徨って今に至ったというわけだが、ある動物も、想像しづらいだろうが、最も原型に近い存在が熱帯にいるそうな。


その動物は「アザラシ」。まさかぁ、と思われるだろう。流氷の上でビッタンビッタン這ったり、ゴロゴロ転がっているやつのどこが、と。


ハワイモンクアザラシ」というのがいる。毎度ダジャレで申し訳ないが、クレーマーではない。

上記のリンクにあるプロフィールにはないが(改めて読むと、他にも二種類、暖かい場所に生息するものがいるそうな。片方は断絶)昔、テレビを見ていたときに、某国営放送局の番組でこのアザラシの話をやっていた。その番組曰く、「骨格が一番古い」という。


といっても、海を泳いでいるので果物は食べてはいないだろう。「豚もおだてりゃ木に登る」とはいうが、「海豹おだてりゃよく転がる」というのが関の山である。


関係なかった。


氷の世界に生きているイメージの大きい動物ですら、原型が熱帯にいるというわけである。


地球はかつて暖かかったから、原型がその当時に近いところにいるといえる。



地球が温暖化しているという話がいつ頃からかある。(温暖化は定説ではなく、多分に政治的な背景が絡んでいる。要するに嘘っぱち)

寧ろ暖かくなってくれたほうが本来に戻れるというもの。暑い暑いとモンクを言っている場合ではないのである。



さて、本来食うべきものは果物である、という話だった。

まだ地球は寒い。長期的には寒冷化に進むという説も説得力を持って提出されているようだ。寒いのが慣例化されたらこちらとしてもたまったものではない。


温暖なところで豊富に採れる果物は、やはり暑さに対応するためにあるとはいえる。体を冷やすと。本当にそうなるのかは判らんが、現今主流の話ではよく聞く。

フルータリアン(果実食主義者、と訳すればよい)を奨励したいところだが、茨の道を突き進んでみたい方は、体内の「精製プラント」を増設及び改良するという方法もある。


そんなご無体な、と思う人が普通なので、そんな胡散臭い話を聞くよりは素直に果物を食べる道をお選びいただきたいところである。


ところでフルータリアンを実践している人。多く見聞したわけではないが、「一般の食事より少量で済む上に腹持ちがよく、体調も向上した」という方ばかりであった。

こちらはこちらで、まだ「普通」の食事をしたりするのだが、これがまた少量で腹持ちがよく、体調も向上しているのである。

まだ若いからに違いない、と言われるが、「若いから」で説明できない事が多い。

数年前、さらにはもっと前でこれをやってたらぶっ倒れていたに違いない。仙人どころか即身仏である。


「普通」の食事と書いた。この二日何を食べたか。どこが仙人か、と憤られるかもしれないが、お笑い種として。

昨日、土曜の夕方から夜勤で、五時に仕事場、二時間ほどしたら夕食となる。もりそばを食べてきた。そこから夜勤明けまで、お茶数杯とタバコを吸っていただけ。早朝に仮眠が数時間。

朝、帰る前に缶コーヒーを貰ったので試しに飲んだ(良い子も悪い子も真似はしないように)。それから電車で一時間弱移動。で、昼にまたもりそばを食べ、約一時間歩いて帰り、近所の川原でしばらく日向ぼっこをしていた。

本当はこの猫を探しに行ったのだが、いなかったので代わりに日向ぼっこ。

で、帰宅してコレを書いていると。昼のもりそばと一緒に一杯やってたのだが、まったく眠くならなくて困った。きっと肝臓が即身仏なのだろう。


その前の日、金曜日まで遡ると、昼にイタリアンでほんとに「普通」の食事をして(量は少ないといわれる店ではある)、上記と同じ要領で歩いて帰り、豆大福を買って帰り、夕方茶と共に戴いた後、その土曜日の夜まで食べず。



お分かりいただけただろうか・・・。仙人とは名ばかりであることが・・・。


いやまあその、以前にも書いたが「健康に良いらしいから、たまに断食っぽいことやってる。今日も半日以上食べてないぞ」と言ってたら、「まるで仙人ですなぁ」とからかい半分で言われただけである。



ただ、その時(去年言われた)よりも食べる量が少なく、その上次に食べるまでの間隔が一日近く開いても問題なくなってきている。正直、今日の昼も「食べてみるか」という程度だったので、本当に食べなくてもよくなっているのかもしれない。水を飲むのも、タバコをちと立て続けに吸ったときに湿らす程度で問題なくなり、茶を飲むのが苦痛になってきている。

そろそろ仕事場で晩飯の時間になったら、食べに行く振りして散歩でもしてようかと考えている。都心の街は歩いていて心地の良いものではないが。


気のせいだろう、そのうちおかしくなる、と言われそうだがもう何ヶ月もこれよりちょっと多いくらいだったので、もうおかしくなっているのかもしれない。この一日が二日となり、三日四日と延びていってまだなんともなかったら「気」のせいだ、と答えることにする。


自慢するほどのものでもなく(寧ろ叱責される)、これくらいのことはもうすでにきみしぐれさんがすでにやってきていた道である。しかもヴィーガンとしてである。


ただ、「穀物だと空腹になりやすい」ということだったのだが、その実感がここ一週間くらいから、とんと湧かない。

気のせいなのかもしれないが、気のせいでなんともないなら、やはりなんともないのだろうということにしておく。

ただ、本人の体の健康だけでなく、他の事を考えるなら、「普通」の食事は摂るべきではないのである。というわけで、果物、お一ついかがですか?

人間の「事象」化について

2012-05-25 | 雑記
ジョルジュ・バタイユがその主著『宗教の理論』で、人間とは、物=客体(オブジェ、とルビが振られている)を、事物にするのが人間である、という風に書いている。


かなり噛み砕いた言い方であるが、大体そんな感じだった。不意に思い出して読み返してみたが、読んだ方が混乱しそうだったし、ちょっと別の話が紛れ込んだ感じで、半ばわし独自の発想になっていたように思う。


それはそれとして、話を進める。


物=客体というのをこれまた噛み砕けば、例えば自然そのもの、野生動物が野生動物のままであること、というわけだ。


物=客体のままでは、人間にとっては「何の役にも立たない」ものである。それを認識によって事物に作り変えてでないと、人間は何も取り込むことが出来ないのである。


事物にするとはつまり、農産物を作る、動物を家畜にする、さらにはそれを作り変える(つまりは「料理」する)こと。



物=客体であるということは、認識によらない状態であるといえる。肉食獣が草食獣を捕食するとき、認識によって事物に作り変えて食べているわけではない。

それは一つの流れと言うか、一まとまりというか。バタイユはこう表現する。「世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」と。(下線部は原文では傍点)


と、改めて読んでみたらちょっと考えていたものと違ったのと、恐らく使われてなかった用語がこちらの頭の中に浮かんだので、この先はバタイユは関係ないものとしてお読みいただく。



思い浮かんだ言葉はこうだった。


物=客体(他にもそれに類する言葉はあったが、目に付いたのがそれだったので)をありのままのものと言うなら、それを「存在」と呼ぶ。

その「存在」を認識によって人間側に引き寄せた物を「事物」。

そしてもう一つ。その事物をさらに認識によって作り変えたものを「事象」と呼ぶと。



てっきり、バタイユがこう言ってたと思い込んでいたが、ちょっと違った。が、気にしない。


少し向こうに寄せて考えるなら、こちらが「事象」などと呼んでいるものは、事物の中にあると言えなくもない。



さて、人間はかつて「存在」であったと考えられる。要するに、野生動物だったと。

如何にして得たかは判らねど、認識と言う道具を得るに至った。


そこから全ての「存在」を「事物」にする、という以前に、己を「人間」という事物にするということから出発したと言える。


全てを「事物」と捉え、さらに「事象」へと作り変える。

事物、を「事物」と「事象」へと分けて考えると、さらに人間は「事象」から「事物」を見出すということもやってのける。例えば、木の椅子がある。壊れて役に立たなくなったその椅子が、薪になるという「事物」を見出せる、と言った風に。


認識の力に万能感を抱いたであろう人間は、「存在」を全て「事物」へと変える事に成功した、という自負を持つに至ったと思われる。



それはつまり、「事物」と「存在」を履き違えたのだと。



「存在」に立脚し、「事物」を見出し、「事象」へと成す。半ば自然、半ば不自然であることを認識しているのが人間の「自然」であったと。



「存在」と「事物」の間に認識があり、「事物」と「事象」の間にまた認識があり、それぞれの橋渡しをしている。


「存在」と「事物」の間に掛かる認識の橋を作り出した労力は、恐らく、「事物」と「事象」の間に作られた舗装道路より粗末で稚拙であったろうが、とても力強いものであったろう。


だが、われわれはその最初の橋の「事物」側の岸に看板を立てた。「この橋渡るべからず」


「では、真ん中を歩こう」では一休さんだが(真面目にやらんかい)、ともかく、その橋を渡ることが危険なのか、それとも彼岸が危険なのか判らないまま、風化したその看板は以前、効力を発揮している。



バタイユに負うところから論を展開している、然る精神科医がいる。


彼の著作で、こういう論があった。


動物性から抜け出した人間は、反動物性の存在であると。だが、故郷たる動物性に郷愁を時折強く抱く。例えば、統合失調症になるなどして。

だが、その動きは、反・反動物性という色合いとしてであり、動物性そのものに至ることがないという。発作が過ぎて廃人になってしまったり、あるいは自死するほどの郷愁を抱く。


言い換えるなら、人間が人間のまま動物に立ち返ろうとすると、人間とも動物ともつかない、危うい境地に達するというわけだ。




「事物」と「事象」の「世界」のみに認識の力があると思い上がり、(フェアシュティーゲンハイト、とかいう精神病理学の用語があてはまりそうだ〔日本語では「頽落」と訳されている。ハイデガーが使用したようだ〕)、「事物」たる己が存在をも「事象」へと劣化させる。


恐らく、それに耐え切れない「人間」が、反・反動物性を帯び、その看板を蹴倒そうとするのだが、それを人間は強く禁じてきた。

「われわれはそのようなモノではない」という魂の叫びは、彼岸に届くことは稀であった。



われわれがその看板を引っこ抜き、その橋を渡れるかどうか、また、渡るべきかどうかは判らない。


その看板、いや、看板はともかく、その橋とその先のものに背を向けただけならまだしも、その「存在」という存在を忘却しているのが、「事象」へと落ちていく現代の人間であると痛感している。



「われわれはあの橋から渡ってきた」という「認識」に立ち返り、「存在」と「事物」の間の橋を「われわれは自由に行き来してもよいのだ」と、渡るか渡らないかは別として再認識することを、もしかしたら「覚醒」と呼ぶのかもしれない。



時折、橋を眺めていたら、看板を避けて「真ん中」を歩いて向こう岸へいく人が現れるだろう。もし戻ってくるなら、その人と世間話をしてみるのも一興である。





と、最初想像していた話とはちと変わってしまったが、ここでまた「正坐せよ!」などというとふざけているようにしか聞こえなかったが、敢えて言う。


「彼岸と対峙する気概を持とうとするなら正坐せよ!」



たぶん、根気が必要と思われる。たまには胡坐をかいて一服していただいて結構である。では、また。

日輪の威光

2012-05-23 | 雑記
金環日蝕であった。タイムリーな話をタイムリーにやれないのは、偏に私の不徳の致す所でありまして・・・。

まあ、長く太くやっていこうかと考えている。短くても別に構わない。



キンカンキンカンというから、ミカンの仲間かと思ったのだが、日蝕というと怪奇な皆既だったり、これまた怪奇な部分だったりするのしか覚えがなかったせいである。キンカンについては冗談である。


「金環日蝕、あなたの地域ではこんな感じでしょう」とかいう気象庁だかなんだかのページを前の日に見たのだが、何が金環なのかそこで漸く腑に落ちた。



月が太陽の大きさより一回り小さく太陽を塞ぐので、月を丸く縁取った部分が金色になるから「金環」だと。その時そのページを見ながら「環の色がミカンのようだなぁ」とすっ呆けてたのはナイショである。



さて、テレビで日蝕の映像をごらんになっていた方もいらっしゃるはず。こちらとしてはテレビも仕事場でつけられた時しか見ない(見たくないが目に入る場所にある)ので、じっくり日蝕なんぞ観察することも叶わなかった。


それに、In Deepさんの言に従って、その日はカーテンを閉め切ってブログを書いていた。書き終わったら「そういえばそろそろ始るんだった」という程度の認識ではあったが。



テレビで日蝕を見ていたら月のように立ちはだかられた、という人はいるだろうかいないだろうか。そもそも、そのような方々はこちらと元の話をご覧になっていることはないであろうが、気にしない。


そこで敢えて、「月のように立ちはだかられた」もしくは、「度々立ちはだかられた。恐らくこれからも立ちはだかるであろう」という方々への打って付けの処方箋を案内したいと思う。



さて、あなたは金環日蝕の映像をご覧になっている。そこへあなたの骨肉が「月のように」立ちはだかる。


あなたがオットでその骨肉がツマなら、あなたはこう言うべきである。


「月がきれいですね」



今宵の月が真っ赤になれば成功である。真っ赤に燃えたのは太陽だが、我が家では月が真っ赤なのである、と。



そんな骨肉の著しい変化を気取るのなら、あなたはテレビなどという似非の金環に興味など持つ必要は無いのである。目の前に燃え上がるような輝く月を見るはずなのだから。



そして、テレビを消せば宴をするがよい。まだ望には遠いが(金環の日は朔である)、こう唱えるのだ。


「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」



続けて骨肉が「欠けたることも なしと思へば」と言うならば、この世はあなた方のものである。



さて、いくら今宵の次が見事な望を見せても、立ちはだかられた時に言うべきではないことがある。単純に順序の話だが。


サァ、今宵も月が上ったぞ!ええ、なんていうんだっけか。



「望月の欠けたることもなしと思へば」




これが小倉百人一首なら問題はないのだが、目の前の望月に言ってはならぬ。

日輪の逆鱗に忽ち触れることになるであろう。


「逆鱗に触れたのに襲い掛かってきたのは虎だった」などと言おうものなら、日の目を見られなくなるやもしれぬ。努々注意なされよ。



さて、骨肉が逆の場合も言っておく。


今宵も月が上ってきたぞ!なんだか立ちはだかっているようだ。ええっとこういう場合は・・・。



「月がきれいですね」




しかし、月は冬空で輝くかのように蒼ざめてしまった!



あなたは常々気にかけている、望月の欠けたることを不意に見てしまったのである。努々注意なされよ。



いやはや、わしも「月がきれいですね」と言う相手が欲しいところである。しかし、「望月」と相対してそう言えるかどうかは、今のところ判らない。では、また。

日常

2012-05-21 | 雑記
たまには、というよりわしにとってはどれもこれも日常であり得るのだが、一部ではそう受け取ってもらえそうにないので、今日はささやかな、言ってしまえば塵世の楽しみを少しご紹介しようかと思う。


昨日、いつものお店(こればっかり書いている気がする)で飲んでいたら、おそらく初めて会ったであろう常連さんがいた。

いつものことだが、こんな格好である。店の兄さんは、よく冗談半分で、「武道の先生なんですよ」などと人に紹介する。


ちょっと世間話ししつつ飲んでいたら、その常連さんのお知り合いがやってきて(電話していたので、その時落ち合う約束をしていたようだ)、さっきそこの古着屋でTシャツ買ったんだ、などという。


そういえば以前、あの店の前を通りかかった時、入り口からすぐ見えるところに、夏向けの帽子が置いてあるのを思い出した。



店を出てから、あのバーに一杯だけやりに行こうかどうか歩き始め、家に向かうかそのままバーのほうへ向かうかの分岐に差し掛かる。さっきの店から歩いてほんとにすぐのところだ。


迷わずバーのほうを目指すことになった。ただ、分岐に差し掛かるまではちょっと悩んでいた。


話に出た古着屋のほうを目指すのを強く意識してたわけではないが、結果、そっちの方に行くことになった。店はまだ閉まってなかった。帽子もある。


通り過ぎてから横断歩道を渡り、その店に引き返す。


店番は、店主の息子なのだろう。小学生くらいの子がいた。帽子を物色している位置からでは見えなかったので、レジに立ってから判ったことだったが。


「ちょっと待ってください」と言って、電話をかけ始めた。二階から女性が降りてきて、会計をしてもらう。なんだか妙に家庭的な感じで面白かった。


帽子を袋に入れようとしてたので、「そのまま被って行くんで、タグとか切っておいてください」と頼み、袋も辞退した。


で、ついでに被ってみて、「似合いますかね?」と聞いたら「着物とよく合う」と言われた。

もうお決まりパターンのようなところがあるが、「着物はお仕事ですか?」とやはり問われる。

いやぁ、仕事は関係なくて休日だけ着てますやら、こいつはデニムなんですよ、などと話する。


というわけで、こんな帽子を買ってきた。





遠めには判り難いが(元の大きさの写真だとそうではなかった)、透けるくらいの網目になっている。ちゃんと確認していないが、去年買ったハンチングと同じメーカーだったと覚えている。


さて、帽子の上に何か乗っかっているのが判るだろうか。

これは帽子とは関係ない。


羽織紐である。着物の構造を一々説明するのは手間だが、要するに前を閉じないコート状のもの(羽織という)があって、腹の前で紐を結ぶ。古式ゆかしいのは、文字通り紐状になっていて、それをTPOに合わせて結び方を変えたりする。一体化してるものは普段着向けなのだろう。簡単に結んだりしているのが、昔の人の写真などで見受けられる。

乳(ち)といって、引っ掛ける部分があるタイプのものは、こういう、変わった物を取り付けたりしておしゃれができるというわけである。

本当は、以前持っていた飾りつきの羽織紐(真ん中にドーナツ状の石がくくりつけてある)を、間抜けなことをして千切ってしまった。紐の部分を交換出来ないかと、市内の呉服屋を訪ねたのだが、仕立てたものらしいので、買うのと変わらないことになるだろうと。


それならば新しくお買い求めになってはどうか、と勧めてくる。


面白そうだったので買ってしまったというわけである。ただ、最近は着物着て遊び(飲み)に行くときはケータイ電話を家に放り出していく。

だから、着てる写真はないのである。上記のリンクは以前の写真であり、昨日着ていたものそのものではないことをここに記しておく。


気が向いたら写真を撮るかもしれないが、電話は嫌いである。荷物自体持ちたがらないので(財布とキセル、あとは暑くなってきたので扇子があれば特に)仕事以外はカバンも持たない。

そんなカバンも実は、風呂敷を結んで肩掛けにしたものだったりする。店の人に「おしゃれだ」などと言われるのは営業トークかもなと一歩引いて聞いてはいたが、ある日、近所のインド料理屋で食後(たまたま昼の仕事帰りに立ち寄った)、帰ろうとしたら他のお客さんから声をかけられる。

「風呂敷ですか?」
「ええ、結んであるだけなんで、いつでも解けます」
「へぇー、おしゃれですね」

風呂敷を結んで肩に掛けているだけで「おしゃれ」といわれることがあろうとは夢にも思わなかった。その時は和装ではなく、洋装である。ジーパンにTシャツ。

ちなみに、気取ってやってるのではなく、仕事以外でカバンを持つ気がないのと、その仕事もちょっとした着替えがあれば済むため、カバンなんぞ買う気にならん、という投げ遣りな動機からである。


そうしようと思い立って、風呂敷の結び方を調べ、肩掛けにする方法を見つけたのはいいのだが、キャッチコピーが「エコバッグ代わりにスーパーで買い物する時なんかにどうでしょう」だったりする。

うーん、そういうのは普段のカバンにするにはよくないのだろうか?と考えたが、考えてもカバンはない。それからもう凡そ一年かそこいらか、風呂敷が肩にぶら下がっている。


これからはしばらく、この新しい羽織紐がぶら下がることになるのであろう。着物の時は、風呂敷は肩に掛ける部分を短く結びなおして手提げに切り替えるので、ぶら下がらない。


どうもこういう話は久しぶりすぎて勝手がわからない。帽子買ったり羽織紐買ったりおしゃれだとか似合うだとか言われるのは面白いなぁ、と感じるのだが、やっぱりどこかで「それがどうした」と思っているところがあるのだろう。

腹が立つことも悲しいことも、確かにその時はその時でとても感情を揺さぶるものである。ただ、揺さぶるのはその時の話でしかない。


また野口晴哉の話を持ち出してしまい恐縮だが、こういう話がある。

十日前だか十年前だか、強盗にあって死ぬほど怖い目にあった、と来客が野口氏に語る。もうそれはそれはひどく蒼ざめて。

野口氏は「別にこちらがその強盗なわけじゃないんだから、そんなに蒼ざめるんじゃあない」とかいう風に語りかけるのだが、来客は強盗にあった時の話を思い出してずっと蒼ざめていたそうな。


人の記憶、つまり意識というものが、その時の感情をそのまま今に呼び起こしてしまって、まるでその強盗に今あっているかのような状態に陥れてしまうのである。

勿論、記憶というのは人間以外の動物にもあるくらい、普遍的なものである。ただ、人間は意識に過剰に引き摺られるのである。

ああいっている野口氏というのは別に人間としての記憶をなくせとか言っているわけではない。でなけりゃ来客と話も出来ないし、上記のエピソードも出ない。

意識だとか記憶だとかいうものを絶対的に見るのが今の社会である。それを相対化せよ、というところなのだろう。

上の強盗の人の例で言えばこういうところか。「いやぁ、十年前に強盗に会いましてね、あん時は生きた心地がしませんでしたよ、あっはっは」という感じになれと。空元気でそうやるのではないが。


「全生」という思想を、野口晴哉は打ち立てる。野口整体の考えを示したものというのだろうか、読んで字の如く、生を全うするということであるのだが、意識や記憶はどこまで行っても過去のこと。「生きて」はいない。生を全うするとは、今を生き切ること、といえる。

本来、あなたを縛るものは何もないのである。ただ「過去」があなたを縛っていると思っているだけである。無論、現実に起こっていることがあり、それに影響されるだろう。解決しない問題も山積しているだろう。だからせめて、一日の終わりに、その日あった、辛いことも悲しいこともそして楽しいことも含めて、「それがどうした」と一蹴してみるのもよかろう、と思うのである。では、また。

ある野良猫の死

2012-05-21 | 雑記
ついうっかり飲んできてバッタリと行ったら、朝早く目が覚めてしまった。まだ暗いので朝早いというレベルでもなかったが、豆腐屋の朝レベルであろうか。

飲みに行くのが仕事みたいなもので(嘘です)そこであーでもないこーでもないと話をしていたりする。

いわゆるインボーロンとかいうものの話を知っているバーテンさんとひどく話が盛り上がるので、どうもそこばっかり行くのである。ついでに他の客やらも巻き込んで。


さて、話は変わって、前回の話について、書いた後で気になったことをちょっとやろうかと。長くなければタイトルの話に行く・・・はず。


最近お知り合いになってコメントまでくれるようになった方は、ローフルータリアンからブリサリアンを目指すそうである。

ちょっと前までは所謂完全菜食主義、ヴィーガンという立場を貫かれていた。


現行の栄養学というものは嘘である、というのは結構前から指摘されていたが、悲しいかな、理解する人は戦後の教育といい限られた中でしか知られてなかったというのもあろうが、逆立ちしても多くは見えない。

そう、「人はこれ(現行の栄養学が推奨するところの食品)を食わなければ生きていくことはできない」というのが大嘘であると。


で、それを本来の人の食事である、果物を主食とする生き方をするというのである。いきなりこんな話をされてもチンプンカンプンだろうが、このブログはトンチンカンがチンプンカンプンなことを書いているので、チンプンカンプンなままでよい。


とりあえず、そのブログをご紹介することにする。その名も「おデブ脱出計画♪」。


「無駄に長」くなりそうなので、急ぐ。


というのも、前回の話を読めば、その人の解釈によるだろうといってしまえばそうだが、「何食っても生きられるから何でも食え」に聞こえる(野口晴哉も「胃袋があるなら胃袋を使え!」と言っていた)し、インスリン注射で体のインスリン分泌機能が怠ける、という話は、人間本来の主食である果物という、ある意味体に優しいものを食べることで、寧ろ本来ある力が弱体するであろう、という指摘に聞こえたのではなかろうかと。


というわけで、これをどう解釈しようか、という補足という名の蛇足である。


思うに、このローフルータリアンというのを突き詰めていくと、恐らく、五年のカリキュラムでブリサリアンになる、というやり方と似ていくのではないかと。

これは言わば、「体の外」からの働きかけで本来の状態を目指していくのだと。「ちゃんとした」モノを食べることによって、眠らされた力を呼び覚ます方法であると。


では、前回の内容。伝わりにくいところが多かったと思うが、言ってしまえば、「修行」して超人化する、という感じである。その修行(修行ってのは比喩だが)は、「普通」の生活をしていながらに進むといえる。進むかどうかは当人によるだろうが。

つまり、「体の内」から眠った力を呼び覚ます、己自身に拠る、自発的な働きかけによる方法であるといえる。


どちらも本来はブリサリアンを目指す考えではないのだが、突き詰めれば同じところに辿り着きそうだと考えている。


飛行機で東をまっすぐ飛んでも、西へまっすぐ飛んでも、そのまままっすぐ飛んでたらまた同じところに戻ってこれるのだろう。同じところじゃおかしく聞こえるが、目的地は同じだと。

とんでもない話に聞こえるが、何やら確信めいた予感を覚える今日この頃なのである。



はい、じゃあ野良猫の話。


ブログ更新停止宣言もあったのでやる機会がなかったのだが、一週間ほど前だったろうか。上で書いたバーテンさんがいるところで飲んできて(行くときは大抵、はしご酒)、家の近くの住宅街のいつも通る道を歩いていた。


大通りから曲がって歩いてすぐの小さな交差点。なにやら真ん中に置いてある。近づくと、猫が倒れている。

元々こちらに顔を向けていたのか呼びかけたせいで向けたのか忘れたが、つい、こう呼びかけてしまった。「おい!お前どうした!?」


ずっともがいている。恐らく、バイクか車に撥ねられたのではなかろうかと。血や内臓が出ているといった、遠めに見て判る外傷はなかったが、半身の毛皮が何かで擦ったように荒れている。


そのままではまた轢かれかねない。死んでたとしてもそうなったら惨たらしい。ちょっと嫌がる猫を持ち上げて、交差点角の自販機の前に腰を下ろした。

暴れているので、置くときに落っことす形になったが、猫は立ち上がることが出来なかった。

これは助からないかもしれないな、そう感じて、しばらく撫でていることにした。猫にはいい迷惑だったかもしれないが。


撫でながら思い出したのが、愉気法(ゆきほう)という、これまた野口整体の技法。技法というと難しく聞こえるが、要は手当てのアップグレード版である。だが、難しい。


撫でながら猫に「ひどいことをするやつがおるもんやなぁ」とか「人間には手当てってのがあってなぁ、意外と効果があるらしいんやぞ」だとかいいながら、時折、手を当てたまま瞑目したりしている。不審者である。


しばらく時間が経ったが、猫はまだまだもがいている。愉気とは本来、無心でやるべきところを、「治って欲しいな」だとか余計な気持ちを入れるとダメになるそうで(こういう意識から自由になるというのが野口整体の要点でもある)そういう影響なのか中途半端でどうしようもなかったのだろう。大怪我を一瞬で治すようなものではないし。



などと思っていたら、自転車で通りかかった男性が「どうしたんですか?」と声をかけてきた。

すぐそこの家の人らしく、事情を話した。「もしかしたら死ぬかもしれないから、せめて最期まで見てやろうかと」。


「こちらは明日も仕事が早いもんで何もできませんが・・・」と言って、こちらも「お仕事頑張ってください」とお別れを言ったら最後にこうきた。

「こんな状態で言うのもなんですが・・・格好いいですね」と、羽織袴で胡坐かいて死にかけた猫を撫でている不審者にお褒めの言葉を頂戴してしまった。


またしばらくして、猫はもがき続けていた。そろそろ家に戻って、猫を運ぶ何かを持ってこようかと歩きかけたら、さっきの人が(すぐ見える範囲の家だった)がやってきた。


「猫は相変わらずなんで、家にとりあえず運ぼうかと思って」と話をしてたら、なにやら差し出してきた。「家にこれくらいしかなかったんですが、よかったら」と、発泡酒をもらった。

それと、電話番号と名前を書いたメモを頂戴した。何かあったらご連絡をという。とりあえず、死んだら死んだで連絡を入れるつもりで受け取ることにした。


また猫の傍らに座り込み、今度は発泡酒を飲みながら、あーでもないこーでもないと喋っている。不審者の度合いが傍らに置いた発泡酒で鰻登りになっているに違いないが、夜中だったので、誰も通らない。


少しまだ冷える感じがするので、半分ほど飲んで捨てて、家に戻ることにした。猫に向かってこういう。「十分ほど待つんだぞ」と。


下駄履いて走ったのは初めてだったが、意外と走れるものであった。雪駄ほど速くはないのは仕方ない。


洗濯籠が丁度空だったのですぐさま取って引き返したが、猫はやっぱり同じ状態でいる。



持ち上げても同じようにもがいているが、洗濯籠に入れて少し早歩きで来た道を帰った。


猫の顔がこっちを見る形になっていて、途中、猫の様子を伺うと、目が合ったような感じになったので、またも不審なことをする。「とりあえず、わしの家で寝かせておくけど、かまわんか?」と。

ただ、その猫の片方の目は瞳孔のある部分が見えなくなっていた。まぶたが開ききっていなかったのもあるが、予想以上に重症だったのかもしれない。


寝かせた猫は、それでももがき続けていた。こちらも次の日は夜勤であったので、しばらくごろごろしたりしてから布団に入ったが、静かな家のこと、猫がガサガサやっているのが聞こえる。

まだ生きてるか、と安心するのと同時に、あのまま動き続けるのは衰弱を早めるのではなかろうかと心配になって、前脚を両方掴んで「お前、じっとしとかんと死んでしまうぞ。お願いやからゆっくりせぇ」などと言ってみたが、猫は聞く耳もたず、また足を動かし続けていた。


病院も調べてはおいたが、あまりノリ気ではなかったのだろう、昼過ぎに起きた。


ジタバタこそしてはいないが、どうやら虫の息というやつであろう。浅く短い呼吸をしていた。


「すまんな、仕事行ってくるからな。生きてたらまた会おうな」と、頭に触れると、まだ反応はするのか、耳が動いた。



帰ってきたら、案の定、冷たくなっていた。



清掃業者を手配し、しばし待つことにした。しばらく横になっていたら、時折、物音がした気がして、猫の方を見ることが数回あったが、うっかり居眠りしてしまった。

清掃業者の方に電話番号を伝えてあったので、電話で起こされ、引き渡す。



部屋も寒かったし、止めを刺してしまったのかなぁ、などと思ったが、理不尽が形を成した社会とやらの作った理不尽なものに理不尽な殺され方をしたとはいえ、あいつは自由になれたのかもしれない、などと思い直すことにした。


その後、暗くなってから、着替えていつもの店に行った。上述のバーではなく。たまには座敷で飲もうかと思い、座敷で構わないかと問うと、兄さんはこう聞く。「結婚式ですか?」と。

「いやぁこいつぁ結婚式には着ていっちゃならんことになってるんだ」などと行って、席に着いた。もしかしたら、何やら気取られたのかもしれない。


一般に言えば告別式だが、スピリチュアル的に言えばお祝いかもしれんなぁ、などと飲むのだが、やっぱりちょっと泣けてきた。


なるとはあまり思ってなかったが、元気になったら刺身でも食わしてやろうかな、などと考えていたが、好きかは不明のままである。

代わりに、こちらが肉でも食べてやろうかと思ったのだが、大抵肉抜きで頼むのもあり、今回もその機転を利かしてくれたようで、肉はなかったが、かまぼこが入っていた。


店を出て家に向かう途中、出かけには吹いてなかった強い風が吹いている。心地の良い風だった。いつもの道の例の交叉点を過ぎたところで、たまに窓から吼える子犬がいる。キャンキャンやっていた。


自宅のすぐ近くの家には、大きな秋田犬が飼われている。昼間は車の出入り口になる門扉の前で寝てたりするのだが、夜はいないはずなのに、何ゆえか判らないが、そいつ(アンちゃんという)がいた。人が来ると吼えることの多い犬だが、昼間、自分がちょっと近づいても吼えなくなっていたのに、珍しく吼える。

「おう、アンちゃん」と、立ち止まって一緒に吼える真似をしてたら、飼い主さんが出てきた。

顔見知りだったのでちょっと立ち話をすると、今日は珍しく、暗くなっても家に入りたがらなかったという。「いい風が吹いてますからね、気持ちがよかったんでしょう」とコメントした。

飼い主さんが来たと思ったら、アンちゃんは何事もなかったかのように家に入ろうとし始める。一瞬、飼い主さんもキョトンとしていたように窺えた。



犬というのはよくわからない。最近では不審であるとも思っている。まだ「一般的」な感覚で言えば、なにやら気取って、こちらを元気付けてたんじゃなかろうか、といえるだろうが、そうも思えないというわけだ。

まあ、近所の誼である。そういうことにしておこう。



変な話だがもう一つ。


その猫と出会う直前に、たまたま久しぶりに出会った知り合いと飲んでいて、猫はいいねぇ、だとか話をしていた。

飼うなら猫だなぁと。一般的には「飼う」というところだろうが、こちらの感覚としては、一緒に過ごす、という感じであるが、なんというか、いい結末とは言えなかったのだが、一晩とはいえ、本当に猫と過ごすことになってしまったのである。


それはさて措き、道の真ん中で動けなくなっていた猫。恐らくは撥ねられたであろうそいつは、一歩も動けなかった。

轢いた野良猫を助けてやれ、などとまで言う気は無いが、せめて、もう轢かれないように車の来ない角にでも置いてやれなかったのだろうかと。

轢かれたかどうかは実際のところ不明で、その時はまだ動けたという可能性もあるが、その猫をそのままにしていったという行為、それを唆すのが「世界」という名の理不尽なのだろうと。では、また。


日本の美風とブリサリアン

2012-05-20 | 雑記
正坐は日本固有の美風なり、と、野口晴哉は言う。


と、いきなり国粋主義者になったのかお前は、といわれそうだが、違う。

そもそも仙人じゃなかったのか?と問われれば本当はこれも違う。


ちょっと話が逸れるがこうである。


またもや出てくるいつものお店。飲みながら世間話として兄さんに語った。

「断食すると健康にいいんだそうな。有害成分が脂肪に溶け込んでるから云々」と。

兄さんは「はぁ~まるで仙人ですね」などと答える。


仙人、などという言葉がそもそも念頭になかった。世間じゃ仙人と呼ばれるのだナァと思ったので、時折、仙人と呼ばれるのを当たり前にしてしまったのであった。


左のプロフィールの一言は、更新停止前と解除後で書き換えたのである。約めていうと「人が仙人と呼ぶんだよ」と。

ブログタイトルの下の副題も変更したのだが、こちらは関係ない内容である。ついでというわけで。


さて、野口晴哉(のぐち・はるちか)とは誰なのか。


日本に「整体」と呼ばれるものがあるのは周知のことかと思われる。ただし、その整体とはまったく別物である。

区別するために、一般には「野口整体」と呼ばれている。本人は「整体」と称していた。


その直弟子にあたる方の道場とホームページがあって、故野口師の文献などを展示したり、後は色々と学際的なことを行っておられる。

ただ、引用文以外は転載禁止だとか、直リンクもダメという感じなので、とりあえず、そのHPのトップのリンクを貼っておく。
野口整体 気・自然健康保持会


仙人染みた人が気だなんだというと、まるでマンガだが、別に空を飛んだり妖怪と戦ったりはしていないので安心して欲しい。
むしろこちらが妖怪と認識されて退治されてもおかしくない。現代社会的に。


さて、引用文は構わないということなので、一つ。

野口晴哉著『思春期』という著作の一部である。

 その人の生命の自由を束縛している無駄な知識、教養をみんな捨てさせるような方法を常に考えているのです。(中略)私達が“自分”だと考えているものは、自分が生きて来た知識、経験の総合なのです。「○○さん」と呼ぶと「はい」と答えるのは○○さんが自分だと思い込んでしまった先入主です。(中略)そういう知識の集りが自分だと思っているのです。

 けれども自分とは、それだけのものなのだろうかと言えば、自分の名前をまだ覚えていない内から自分は在ったのです。生まれる前から自分は在ったのです。しかし意識以前に在った自分は判らないのです。意識以後に自分で作って来た、自分だと思い込んで来たその自分だけを、自分だと思い込んでいるのですが、生きているということ、健康を保つということ、いざという時の咄嗟の行動も、みんな意識以前の自分の行動なのです。そして、それを縛っているのが意識しての自分なのです。



さて、これを読んで思い浮かんだのが、エックハルト・トールだった。

もう何十年も前にこのことを指摘していた人物がいて、しかも実は何年も前にその近くにいた(著作二冊ほど読んだだけだが)のだが、すっかり忘れていた。
何たる不覚。



ところで、あまり気だとか整体とか、しかもブリサリアンなどとタイトルにあるのにそんな話が出てこないと思われるだろうが、もう少しお待ちいただこう。

『整体入門』にあったかと思ったが、ちょっと違った。が、引用する。

私のいいたいことは、表面に表れている体力だけが体力のすべてではなく、潜在している体力も体力であることを自覚し、自発的に行為すれば、こういう力(註:冒頭は「火事場のバカ力」の話から始る、平素は使わないが、人が本来持っている身体能力のこと)を、活発に喚び起こすことができるのだということです。(中略)野蛮人の体力を持つようになることは我々の欲していることです。野蛮人の体力を得て今日の文明生活を見直すことが現代の人々にはことに必要なことでありましょう。


では、気とは何か。同じく『整体入門』から。

 
 気は物質以前の存在です。欅の大樹も始めは一粒の趣旨でした。その種子の中にあった気が必要とする物質を集めて、ああいう大きな樹となったのです。(中略)人間の体も気が造ってきたのです。要求によって生まれた気が、必要とするものを集め産み出したのです。気は精子以前の存在、物質以前の動きなのです。だから見えない、触れない、ただ感じる。それも五官ではない。気で感じるだけなのです。気の動きは勢いなのです。勢いは人のいのち(本文では傍点)です。


だが、気は心ではない。心そのものではないという。心も体も気の動くように動くだけだという。


その後で続くのが、その章で説明されている、気に心が引きずられないで、心で気の集散を自由にする訓練へと続く。


とまあ、今これを書いている本人はなんとなくわかっているような風で書いているが、これを知らない状態の自分が見たらなんと感じるだろうか。たぶん、理解しないだろう。


で、書いているところを見つけられなかったのだが、こういう理想を述べていたと記憶している。

あまり食べなく、あまり眠らず、よく働けて(マネー労働のことではないには違いない)皆仲良く和気藹々と、といった風だったか。


サァここだ!ここなのだ。長かった。


野口整体の要点は、もう書いた通りでもあるが、体に本来ある力を発揮させること、である。

もっと細かく言うと、病気にならないとかいうことではなく、例えば風邪だとかその他病気なども含めて、それらの刺激に的確に反応していける敏感な体作りである。


それには気というものの動きを自覚して、というわけであるのだが、こういう感覚というのは実は、野口晴哉一人による発案だったわけではない。

野口整体というもの自体はそうなるのだが、それを可能にさせたものが、実は古来の日本人の生活にあったという。いわば再発見である。

それで冒頭の言葉に繋がる。

正坐もそうだが、着物も実は重要である。野口整体が重視する「身体感覚」というものは、着物(正確には腰に帯をすることだろうが)を着ている状態のほうが自覚しやすい。


ええい、論が飛んでいる。


さて、話を戻して。気というもの、また新たに飛び出してきたこの身体感覚という言葉。まあ、わからんでもいい。


ただ正坐するだけではちゃんと座れていないのである。野口師の言葉を借りるなら、「臍が上を向いた状態」でないとダメだそうな。

鳩尾の力が抜け、上半身が柔らかくなり、頭がすっきりとし、息は深くなり、足は温かくなる。これを「頭寒足熱」というわけだが、この言葉は本来は今の通り、「そうなっている」ものであり、頭冷やして足温める、ではない。


というわけで、ここから実体験に話を進めていく。いやぁ、縁切った友人だったやつに昔言われたものだ。「無駄に長い」と。
度々話を持ち出してきた覚えがあるのだが、改めて言う。貴様の言葉が有益に短かったことなどない。


野口晴哉から正式に認められて道場を開いている人のHPを先ほど紹介したが、そちらのページに正しい正坐のすすめというのがある。
必ずしも正坐でないとダメ!というわけではなく、椅子坐でも要点を抑えて坐ればいいらしい。坐るときに是非とも一考していただきたい。


表千家の総本山?は不審庵だが、仙人もどきの俗世のお仕事は不寝番である。ちょっと言いたかっただけである。申し訳ない。

家にいるなら正坐をやるわけで(今も時折体勢を整えながら正坐して書いている)椅子しかない仕事場でやるわけにもいかない。

というわけで、その要点を抑えた椅子坐を心がけた。電車の時も、仕事中も食べているときも。

いやはや、行きも帰りも電車で寝ることがなく、ずっとじゃないが本を読んでいた。前ならすぐ眠くなったのだが、休憩しようと辞めただけで、眠くならない。

行きはまだしも、帰りは仮眠を数時間(眠りに落ちないこともあるが)とってあるとはいえ、普段は眠くてしょうがなかった。その帰りの電車の中でも読んでいたが、途中で欠伸が出たので、姿勢を意識し直したら、すぐに止んだ。

羽織袴で仕事なんか行くから眠くないんだろうが!と思うかもしれんが、別に着物は着慣れたものなので、汚してはいけないという風な余計な意識はない。世間の目が冷たいので目が冴えたんです、ということにしておく。


冗談はさて措き、食事の時に話を戻そう。

仕事場の近くで天丼を食べたのである。大盛りで。天丼だと!とお叱りを受けそうだが、考えあってのこと。ご容赦願いたい。

天ぷらなんて消化に悪いわけだ。しかも大盛りで食べる。普段ならこれでひどく眠くなるのだが、これがまたなんともない。

食べきるのに苦労する日もあったのに、特に問題なく胃に収まった。まあ、食べきれないなら残すべきではあるが、また別の話である。

飽くまで大盛りは試しただけなところがあったのだが、後は夜食に豆大福を二つ食べた切りで、茶を飲む以外は、昼に住んでいる町に戻るまで食事らしい食事は無かったが、疲労感も空腹感もない。ある意味元気だったので、朝は空になった胃が音を立てたが、飯を呉れ、という要求ではなかった。

昼に帰ってきて、いつも一駅歩いて帰る。約一時間。そこでよろしくないのだろうが、食べて帰ることが多い。

たまに行くそば屋の昼の定食に、刺身御膳なるものがあった。

ご飯は茶碗に軽く。家で炊いて食べる量の三割くらいであった。が、例の坐り方(そこも椅子である)を意識しつつ食べていると、(ついでに飲んだ)別にこのくらいの量でまったく問題がなさそうだな、という気持ちが出る。まあ、空腹の絶頂だったというわけではなく、これまた試してみようか、というレベルであったが。


第二次世界大戦後の日本は、全国食糧難だった。が、我々より壮健な方々もいらっしゃる。

江戸時代に飢饉が度々起こっていて、餓死者も大量に出たが、別に全員死んだわけでもない。


ブリサリアンというのは、文字通りでは「空気を食べる人」であるが、その指導的立場にある人だったか、ブリサリアンがとっている栄養というのは「プラーナ」と呼ばれるものであるという。

ちなみに、ブリサリアン=一般に食べない人、ではないそうだ。

プラーナで生きていない存在は、いくら食べずに頑張って生きていてもブリサリアンではなく、また反対に飲食をほぼ一般と変わらずに行っていても、プラーナによって生きているものはブリサリアンである。


プラーナと気が同じものかどうかは判らないが、似たようなものかもしれないと考えている。解釈違いで、同じものの状態や動きに合わせて名前が変わっただけではなかろうか、と。



「人は飢餓によって死ぬのではなく、飢餓による絶望で死ぬ」という風な言葉がある。

気で解釈するなら、腹が減りすぎて死ぬ、という風に気が向いてしまって、心身が死んでしまったのかもしれない、といえる。



口にするモノは大事である。それは間違いないことの一つであろうが、あたかも糖尿病患者にインスリン注射をするせいで体のインスリン分泌機能を怠けさせることになるのと同じで、他に頼るだけの行為になり得るのだといえる。


ブリサリアンになる訓練法があるのだが、それでやはり、誰でもなれるわけではなく、失敗する人もいる。

それよりももっと簡単にカリキュラム化されたものは、五年ほど、年毎に食べるものを変えていって、最後の一年は生ジュースだけ、というのが一番簡単な方法として紹介されていた。


もしそれでも失敗する人がいるとするなら、(いたかいないかは調べてないが)その人は「インスリン分泌機能が怠けた体」の人であるといえる。


人とは本来ブリサリアンで、そのものになるかどうかは文字通り「気」がつくかどうかであるのだ、と。


正坐せよ。「気」が付きたくば正坐せよ。うーむ、どっからどうみても怪しい。では、また。

仙人的な、あまりに仙人的な

2012-05-19 | 雑記
仙人仙人と言ったり言われたりだが、先月くらいに言われたのは「人間のクズ」である。

その話はちょっと遡れば、つい最近の更新頻度が少なかったのですぐ見つかるかと思われる。

一般的な感覚から言えば実に「人間のクズ」と言われてもおかしくはない。


ちと要約するとこうである。


ヒートアップした豚みたいなおっさんが(豚に失礼だが)こういう。

「お前にとって大事な父やら母やら兄弟やらが死んだ時なんとも思わないのか!」と。

そこでこう答えた。

「なんとも思わない」と。


まあ、いきなりそういう話になったわけでなく、その「大事な」存在が死にかけた時、足掻かないのかというので、「こちらが足掻くことに何の意味がある?」と言って、ヒートアップさせたのである。

してやったり、では無いが、事前にちゃんとこういっておいたが、理解するはずも無い。

「父だとか母だとかなんてものは既成事実にしか過ぎんのだ」と。


豚のおっさんは間違えている。そもそも、こちらは一言も「父や母は大事である」とは答えていない。豚のおっさんの了見で勝手に誰でもそう思っているものだから、こちらもそう思っているのだ、もしくは思わなければならないというところである。

生返事的にへいへいそうですね、という感じで言っては置いたが、豚の了見(略し始めたぞおい)に同意したものと見たようだ。


そして豚はこういうのである。「だったらそんな格好するな!」と。

ではこちらもこういうべきだったであろう。「だったらそんな豚みたいな腹と奴隷のTシャツ姿をするんじゃない」と。

当時は思いつかなかったのと、何か知らんが席を立ってお仲間のほうに戻って喚き続けることになった。一息つけるかと思ったが、まだこちらに何か言っている。正直逃げたのはあっちにしか見えない上に聞こえない。


どうも若い者は若い者らしくもっと奴隷らしくしろといいたかったのだろう。最初から何か、人を縛りつけようとする気持ちの悪い意図が見え見えで、嫌な感じであった。


奴隷状態にされ続けた(ている)人間は、自分より弱い立場の存在をその奴隷にしようと企ててしまう心理作用があるそうだ。

例えるなら、吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になってしまう状態という。


何が人を豚に変えたのか。


それをわしは「世界」と呼ぶ。


さて、もう少し似たような、いや、同じ話を続ける。



住んでいる町で、ちと物騒な話があった。某検索大手のトップニュースにも出たそうだが、正直そういうニュースはまったく見ないので、知らなかった。

話を聞いたのは、いつものお店の兄さん(こう書いたら誰かバレてしまうが気にしない)からだった。

何ゆえ聞く事になったかというと、その事件の内容への解釈で、フェイスブックつながりの人のコメントに腹を立てたらしく、愚痴を聞く事になったからである。

「愚痴ってすんません」と言われて、ああ、愚痴だったのか、というくらい、こっちは気にしてなかったのだが、腹を立ててたのは聞きながら伝わっていた。


さて、その事件の内容から掻い摘んで話す。


然る中学生が、バスジャックを起こしかけたという事件である。ナイフで運転手を刺そうとしたが、ナイフは安物で刺さらず、そのまま子供は逃走、捕まって云々というわけだ。


中学生が動機を問われて曰く「友達にバカにされて、見返したかったから」という風だった。


兄さん曰く「子供と謂えど、善悪の判断はつくんだから、キチガイは殺すべきである」と。掻い摘んで言うとこうなる。まあ、少年法改正だー!ではあった。


こちらは、確かに法改正というのも必要であろうが、そもそも何故その子がそういう犯罪行為に至ったのかを考えるなら、それは社会(いきなり「世界」と言ったら広すぎてわからんからそう言った)がそいつを追い詰めたところがあるのである、と柔らかく言った。

兄さんはこういう。

「社会には適応せねばならないのだから、適応出来ないやつぁどうしようもない」とかいう風だったか。ちと忘れたがそういう感じであった。

こっちと話して怒ってたのではないので、腹立ちの原因となった知り合いのコメントを読ませてもらった。こちらとしてはこの内容のどこに立てる腹があるのか、自分の腹をさすってみたが、ぺったんこだった。


彼の前提にあるのは、現今の社会(狭義の「世界」と呼ぼうか)に立脚して我々は生きている(飼育されていると言おうか)のだから、その秩序乱すことまかりならぬ、というわけだろう。


さて、話を少し戻して、何故その子はそんな危なっかしいことをしでかしたのか、はたまた「善悪」とは何ぞや、というところに論を進めたいと思う。


社会、といってもまだ広い。この場合、その子を追い詰めた直接の原因は答えた動機にあるとおり、その友達という繋がりの「社会」である。それと学校という「社会」。

あんな監獄と変わらんところで過ごしてたら、ちと弱いものと見たらいじめにかからざるを得ない状況(前述の酔っ払い豚の論理と同じである)になるわけだ。

じゃあ、その子供らも悪いな、共犯者だな、というのは簡単である。もう少し正解に近い答えを言えば、首謀者であり被害者である。


首謀者というのはまあ、いじめて追い詰めたから、であるが、被害者とは何か。

それは、それまで我々も含めて、育ってきた中で吹き込まれてきた知識だとか常識といったものの影響である。


まあ、個別の状況は不明なので、その子、特に危なっかしいことをしでかした方に焦点を当てていくとしよう。

もしかしたら、いじめた方も解明できるかもしれない。


さて、確か中学生だったはず。

なら、幼稚園だか保育所、小学校と過ごしてきたわけだ。

大体、なんて聞いて育つかな?



友達は大事にしましょう。




これを聞いて腑に落ちた人は、皆まで読まなくても大丈夫。


進めるとしよう。


やんわり言っているがこれは命令である。裏を返せば、友達を優先しろ!一人になるな!と、言っているようなものである。

友達とやらの評価が高くないとダメである、というわけだ。そもそも、善いか悪いかなんぞ人が人として生きることになんの意味があろうか。

それは措くとして、その件の子は、友達からの評価が最低レベルに達してしまったわけだ。


このままじゃダメだから見返してやろうと(評価を上げようと)して、かくしてバスジャック未遂に至ったというわけである。


友達を大事にする(される)のは善で、友達に見放されるのは悪。


つまりは、善悪の判断自体はついているのである。善悪判断の拠り所がおかしかったといえなくはないとはいえ。


戦争する時、「石油独り占めしたいから分捕りに行きます」などと言って、戦争に行く国があろうか?動機はともあれ。

ムスリムは宗教的な戦いをするときは、ジハード、「聖戦」と自称する。


善悪というのは自らの行為に正当性を与えるためにでっち上げた、予防線でしかないのである。あまりに稚拙で粗雑で、そもそも予防線を張らなければ出来ない行為というもの自体が欺瞞である。


善悪、つまりは上か下かという評価基準に彩られた、言わば空気、社会、大きく、また小さく個人の中にあるその「世界」を盲信して生きる存在を「人間」と呼び習わすのなら、わしは「人間のクズ」であることを最高の栄誉であると考えるのである。



と、実はこんなことを書きたかったのではなかった。いつもタイトルから書く癖があって、今回は特にタイトルに引っ張られて内容が決まってしまったようである。



前回ちらっと話した、「何故最近は電車で眠くならなくなったのか」をしようと思っていたのだが、細かい話は抜きにして、やんわりと命令して終わることにする。


「お願いだから正坐しなさい」














追伸

ラヂヲ的な動画をやるかも、という話をちらっとしました(ここじゃないよ)が、その内容は予てより考えていた「何故ゲームを辞めるのか」というもの。

すぐには始まらないので、以前に出したものを。参考にどうぞ。ですが、軽く飲んでおりますゆえ、少々ノリは軽薄。

約四分後くらいに始まるエンドロールで喋っております。

もっと話を広げて、経済的に(専門的な話は皆無ですが)とか、うさんくさくスピリチュアル的な話に行ってみたりだとか出来たらいいなと思っておるしだいです。






では、また。







せっかち

2012-05-17 | 雑記
お久しぶりです。

無期限更新停止といいつつ、なにやら一つだけ書いたり、(その上そこで終幕と〆ていたり)と思ったら、またキーボードを叩き始めていたと。

ハンマー持ってきて粉々になるまで徹底的に砕いて掃いて捨てて、サァ綺麗になった、というわけではない。



冗談は措くとして、こんなわけのわからんブログでも読みたい(全部の内容がどうとかではないとしても)とお願いをされたのである。

命令は断固として聞かないが(表面はぐにゃぐにゃと玉虫色の返答をして回避してしまうという日本政治のお家芸をやったり)、懇願されたのに辞めてしまうというのは、男が廃るというもの。


別にわしが男だからとかなんだとかは関係ないが、そういうことにしておく。


余談だが、子供のころは、男らしくないと、よくクソ兄貴(申し訳ない)から言われていたものである。

思えば、やりたくないことをやらされるのを拒否する時の軋轢が嫌だったのと、物事や自分の気持ちのようなものは、すっぱり割り切れるものではないと思っていたのかもしれない。

そうでなかったとして、もう少しホルモンバランスとやらが狂っていたら、あんな格好してたかどうかはわからないところである。まあ、何事もなく乱暴に育ちました。

さて、そういう兄貴は、「やりたくないこと」をクソまじめにやってきたせいだろう。欝になったりパニックになったりしていた。ぐにゃぐにゃと受け入れるのとぐにゃぐにゃと受け入れないのはどちらが男らしいのか。どっちも間抜けかもしれない。

男だとか女だとかというのも、確かに生物的にあるのだろうが、それすらも後付の「思い込み」でしかないのかもしれない。でも、ジェンダーフリー反対。


ついでに、この一個前の(画面なら下の)記事のコメントの内容に触れるのはあまりよろしくないのかもしれないが、こう言われた。

「柔らかい性格のあっきー(その人はそう呼ぶのである)がなんだか気難しくなったようで」


子供のころのことを全部覚えているわけではないが、他人から伝え聞くところも含めて、自分でも気難しい性格だったと思っている。柔らかい性格に見えたのは、きっと世間に疲れていたからである。男らしくなくなっていたのであろう。


ちょっとわざとらしい記事だったが、つい最近、無期限更新停止を宣言した後、ある人にブログがばれる、しかも着物姿を見られたり声まで聞かれるという事態になってしまった。だから、ちょっとそっち向け。しかし、「男らしい」云々の話をしようとは思っていなかったのだが。

ウールのマントを作ってしまったり、絹の着物を着ている人間が、果たしてヴィーガンやらベジタリアンの(それだけではないのだが)人たちの集まりに参加するのはどうだろうか、と思っていたので、このまま報せないでいようと思っていた。

その集まりというのは今は解散してしまったのだが、こちらも覚えている限りのそこで交わされていた話の内容を書いたりしゃべったりしている。どう思われてきたかは不明、というか所謂リアルの人間からは反応が皆無である。


先日の「終幕」の後、こう言われるに留まった。「ブログ終わってしまったね」と。


「着物着て酒飲んできたって内容の記事が面白いのですか?」と、勘繰られたかどうかは判らないが、少し腹を立てながら問うと「そこを面白くするんだよ」という。

「それで内容は同じでも面白いと思うのですかあなたは?」と重ねて質そうと思ったが、徒労に終わる気配が濃厚だったので、諦めた。



というわけで、ある程度言いたい放題言ったので、改めて宣言する。無期限更新停止の停止を。


コメントが無い!と拗ねたことを言っても仕方ないのである。というか、無いと書かないならもうとっくに辞めてるはず。



ただし、一つお別れを申し上げねばならない。


それは、テレビゲームはもうやらない、ということである。手慰み程度にはやるかもしれないが、ほぼ個人宛に書いた前回の記事にも記したとおり、ゲームをやると気分が悪くなる。

一番の理由がそれでないとしても、やり続ける気(特に購入)は起きない。

体調が悪いに違い無い、と考える人はこちらとしては匙を投げたくなるので、お引取り願う。夜勤明けで歩いて古着屋に行って買い物をし、戻ってきて着物を片付けて、今に至る。時計は午後四時である。仮眠は明け方にあったが、そこから電車でも寝てなかった。本を途中まで読んでいた。人と比べるなんて嫌いだが、気楽なもんではある。

しかし、おかしい。最近こんなことできなかったはずだ。去年はよくやってたが、少なくとも本読んでても途中で寝てたはずだ。


その話はまた後か、あるか判らない次回に譲る。


だから、「ゲーム仲間」、としてはさようならである。



これからはもっと訳のわからんことをわかり難いような面白いような面白くないような感じで書いたり書かなかったりする予定である。

それでもよければ、コメントの有無に関わらず続けていくつもりである。まあ、またそのうちコメント無い!とか有ったら有ったで煩い!と喚いているに違いない。

というわけで、ゲームをやっていたころの合言葉で〆としたい。

「コンゴトモヨロシク」


まあ、このネタやってた人は別の相手だった気がするが。では、また。


考えて欲しいこと

2012-05-15 | 雑記
恐らく、リンクから飛んで来たと思われる。ゆいさんへ。

「何故つまらない日常を送らざるを得ないのかということを考えて欲しい」とコメントをしたが、読んでくれたか判らないし、仮に読んでも「何を言っているんだ」と思われるだろう。

長文がお嫌いなようだが、これまた長文になる予感がある。だが、決して目を逸らさないで欲しい。

これは、あなただけではなく、僕自身も含めた数多くの人間にも当てはまる事柄なのだから。


というわけで、まったく関係ないように見える話から始まる。


代替医療というものがある。

これは、現代主流の西洋医療以外のものを指す。

歴史は長くは無いようだが、有名なところではホメオパシー、鍼灸もそうなるだろうし、民間療法といった昔からあるものもそうなるだろう。

現在、その西洋医療というものに対して、大きな疑問が呈されている。疑問や疑惑、というレベルではなく、敢えて言うなら、西洋医療は治療をしないで、寧ろ人を病気にして儲けているといえる。


西洋医療(手術や投薬による科学的治療)と代替医療の違いはというと、西洋医療というものは病気の症状を抑えることを治癒だと称するのに対し、代替医療は本人の治癒力を助けることによって、病気の原因自体を克服するという違いである。


つまり、胃が悪いから胃薬を飲んで痛みが治まったとしても、原因は別のところにあるので、イシャは薬を飲ませ続けるしかなく、挙句の果てに胃を切り取ることにもなりえるだろう。そのうち、首を切除してもらったほうが早くなるかもしれない。

胃の痛みの原因が実際は、例えば人間関係の軋轢によるストレスだった、というのなら、いつまで経っても胃は治らないのである。


さて、投薬に効果があるという前提が上にはある。曲がりなりにも胃の痛みを抑えたりはしているのだから。しかし、そうだろうか。


鬱病、または欝状態というものがある。

これも心療内科にかかると、考えてないイシャからお薬がもらえるそうだ。飲むと欝の不快な状態が緩和されて、サァ元気になったとイシャはいう。


鬱病の特効薬と言われる最近のお薬だが、飲んでいた人間の自殺割合がかなり多いそうだ。

そして自殺しなくても、欝が酷くなったり、鬱病状態とは言えなかった人が真性の鬱病になったりする。



代替医療の全部、というわけではないが、野口整体では、風邪は治すものではなく、経過させるものであるという立場にある。本人の治癒力を助けるのが代替医療というならば、野口整体の立場はそれを表明しているといえるだろう。

それは措くとして、風邪を経過させるというのはなんなのか。

風邪というものは、体の不調を整えるために、熱やらの不快症状を出して、体を元の状態に整える働きである、という。

風邪というのはわかりやすい例であり、その「整体」の考えは、寒くなったら鼻水が出たりくしゃみをしたり、体に悪いものを食べたら吐き出す、という人間の体が持っている自然の反応を、不快症状だと否定しないということである。


ちょっと話が込み入ってしまったが、あなたのコメントに話を引き戻して続ける。


「つまらない日常のストレス」を簡単に忘れるためにゲームをしてきた、というわけだろう。

上から順番に読んできたのなら判るだろう。

風邪を引いたら医者に行って風邪薬をもらって飲む、欝っぽいと思ったら医者にかかって、というのとまったく同じ構図であることが。


「つまらない日常のストレス」を自身で「経過」させないで、外部からの働きかけや治療(この場合はゲームである)に頼り続けた結果、「つまらない日常のストレス」に振り回されるだけになってしまったのである。


ストレス、つまりは苦しみから逃れるために、楽しかったことに耽って一時凌ぎをする。

それは、感情の奴隷になっているといえる。

感情とはあなた自身ではない。感情というものに振り回されていないあなたは、安らかで満たされた状態であるはずなのだ。
感情とは身体、現代で通じる風に言えば心身の状態を表明する、手段でしかないのだと。


腹が立つから怒って、怒るだけ起こったら元に戻る。可笑しいから笑って元に戻る。泣きたいから泣いて泣き止んだらケロッとしている。

これが感情である。

怒りも悲しみも喜びすらも、手段でしかないもののどれかが心地が良かったからといって(怒りと悲しみなんかは「考えて」は選ばないだろうが)それにすがり続けるというのは、感情というものの本懐を遂げさせないことになる。元に戻ろうとする、感情を動かそうとしているあなた自身を妨げることになるのである。

我々は、その感情というものも含めて、「自分自身」でないものを「自分」だと思い込まされて、また、思い込んで生きて、否、過ごしてきたのである。


あなたは「あなた自身」を取り戻すべきである。

つまらない日常というものはつまり、「日常をつまらないものだ」と見ているのである。これもまた、「物事というのは楽しい状態でないといけない」という感情の奴隷になっているといえる。

これはつまり、感情の奴隷たる状態のあなたが、「あなた自身」をつまらない存在である、と見做しているからなのである。あなたは「あなた自身」を突き放し続けた。



ここまで書いたが、あなたにゲームを辞めろなどというつもりではない。個人の自由である。

政治問題、健康問題、環境問題等、やるべきではないということを客観的に色々示すことはできる。

示したところで(以前の記事では何度も触れた事柄でもあるし)その先はあなた自身が決めることである。ただ、日本の主流メディアの話しか理解しない人にはいつまで経っても理解できない話ではある。

自分自身としては、ゲームをつけて画面が流れるだけで、何やら頭、額の奥のほうに軽く深いな感じを覚える。音楽が鳴り響けば、鼓動が不安定になるのを強く覚える。
時折、手慰み程度にプレイすることがある。が、一時間も座れば長いほうだろう。
まだ、楽しくプレイすることはできる。ただ、その楽しみとやらに意味がないのもまた事実である。「楽しい」ということに振り回されるつもりがなく、また、人の敷いたレールをなぞれと強制されることを楽しいなどと感じることは愚かしいことでしかないと確信している。


最後に。

ゲームの関係は薄い関係でしかない、という。

それは本当にあなたがそう思っていたのだろうか。それとも、所謂世間から吹き込まれた言葉なのだろうか。

どちらにしても、画面を通した先とはいえ、血肉の通った人間がいることを大なり小なり自覚していたはずだ。

少なくともこちらはそう感じていた。常に全霊を込めて相対していたかというとそうでもなかったかもしれないが、相手は人間であることを考えていた。

だから、不快な思いもしたし、不快な思いもさせた。


僕と過ごした事を、決して「楽しいだけ」の物にして欲しくはない。腹の立つこともそのままに、ありのままにしておくべきである。逃れるべきは苦しみだけではなく、楽しみでもある。

感情の奴隷であることを辞めたとき、それはありのままの「あなた自身」になるのである。なるというより、戻るというべきである。


さて、もう一つ。冗談のように聞こえるのだが、ゲームをやるなら、正座をしてやるべきである。

ゲームをしながら正座をできる状態にないのなら、日々の時間のうち、少しの時間でよい。正座をすべきである。

我々が心といい体といい、まるで別々のように扱うこれらの代物。本来は一つである。別れてはいるが、まったくのよそ様ではない。

体がまっすぐでないと、心まで曲がるのである。曲がった心が曲がった思考と感情の操作を行うものである。自分でないものを自分であると思い込み続けるのである。

今までの話がさっぱり理解できない、とか、こちらへの罵倒だ!と思われたなら、正座を心がける、ということだけでも留意してもらいたい。それだけでいいので、他の話は忘れてもらっても結構である。では、さようなら。

お報せ

2012-05-03 | 雑記
色々と先月からお報せしたとおり、このブログのこれからについて。


お忙しい皆様はそもそもここをお読みになられていないようなので、そもそも何を言おうが変わらないと。今までどおりであろうと。

もし読んでいたとして、特に去年のある時期からの話を読んでいたとして、「これはストレスによる錯乱だろう(特に去年は大きな地震があったからと)」などとと思って、そっとしておくに限ると思っているとも限らない。

そっとするならどうぞ、ブックマークをお消しいただきたい。そちらが消すのを待っていても仕方がないので、こちらにある、そちらの登録は先に削除することにする。


もう書きたいこともない。というより、書いて見せる相手を間違えていたと考えている。もっと正確に言うなら、読まれてなかったのだろうが。


よって、このブログは無期限更新停止とする。気が向いたら、以前の記事の公開保留などの処置はするかもしれないが、恐らくそのままである。では、さようなら。