ウヰスキーのある風景

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自然汝

2020-07-15 | 雑記
さても先日。弟の機嫌が悪くなっている所にこちらの不注意も重なって怒鳴られたと書いた。

その時のこちらの行動についての指摘は、怒りながら言っていることと、後は今も不明な点がある以外は問題ない。

不明な点については先日書いたかは忘れたが、「ワーワー言われたら何も言い返せんわ!」と怒声を上げていた。そして締めに、先日も記した「どれだけ働いていると思っている」だったという流れである。

どのことを指して言っているのかは判らないが、怒りに囚われると前後の脈絡がまったく関係なくなるのは、他人についても自身についても思い当たることはあるだろうから、特に意味はないかと思われる。


それで、その次の日の朝に顔を合わせて、どうしてそういう風に怒ったのかを指摘しておいた、とまで書いた。

これも既に書いたが、怒鳴りつけたことを反省している節もあったので、挨拶もするし、素直に話も聞いていた。


するとその夜。帰ってきた弟が言う。日曜の仕事がなくなったから、飯を食いに行こうと。兄貴の馴染みのイタリアンに行こうと言ってきた。

兄貴とは拙のことである、などという説明は冗談である。

それが日曜のことで、ワインを飲んで前菜付きのコースを食べつつ、先日書いた件を伝えたものである。


その内容をおさらいすると、拙は弟が怒鳴った時の最後のセリフの理由を考えていた。

少なくとも現代社会において労働というのは賃金を得るためというのが大きい。それが全てではない、というのも言えなくもないが、誰もかれも首肯するものではないだろう。

ブラック企業、という表現を目の当たりにすることも多かろうが、弟の仕事場はいつもではないが、今は忙しい。

それで疲れてきてというのは誰にでもあるが、問題はそこである。

前回も書いたが、以前、弟は「お金は大事だと思っている」と語った。

賃金、つまり金を稼ぎに行っているのに嫌な気分にだけなるのは、実際は大事というのはどう思っていることなのか?という訳である。

朝の短い時間では伝えきれないので、「金を好きになったらいいんじゃないか」とだけ伝えてあった。


前回にも書き記した、大事という言葉にどんなニュアンスを感じるか、というところを尋ねると、拙が書いた見解に納得していたものである。

本当は嫌なものだけど、仕方ないからという気分が強いのではないか?これは現代日本人にも経験やら周囲からの教育で獲得している思い込みだとは書いた。

それ以降は記事に書き記してはいない内容を用意していたかのように色々と伝えたものである。

大なり小なり拙がここで書いてきた話や、弟に以前から話してきたことをまとめたような具合であった。


こういう指摘されたり考えてみないと気付かない心のしこりのことを、メンタルブロックと心理学方面で言うらしい。こういう説明で合っているかはしらん。

拙がしばらく前からちょくちょく見ているセミナーの先生は、時々、受講生に「メンタルブロックをどうにかしたいんです」とお願いされると言っていたものである。

そのセミナーの先生は、「メンタルブロックを無くすのは目的じゃないですよ」という。

というのも、そうやって嘆願してくる人の心理は「メンタルブロックが無くなれば幸せになれる」と思い込んでいるからだと、書いていた気がする。気がするというのは、該当ページを見ながら書いているわけではないからである。

前回も書いた「現代日本人の信仰」と仰々しく示した箇所についても、実はその先生の受け売りではある。

同じことを別の所で読み聞きした覚えはあるので、復習したと言えばよかろうか。

理屈は同じで、「努力すれば報われる」と裏返しの「努力しなければ報われない」の抱き合わせ販売と同じ論理なのである。


これまた仰々しく書いているが(癖である)、つまりはその人らしい自然体ではなくなっていることが問題なのだという。


お金を嫌っているから、じゃあ好きになろう!と奮起するのも、やはり自然体ではなくなるのだろうと思う次第である。

そういうところもしっかり、弟との対話中にはしてはある。「別に好きになれとは言わんが、気づかない思い込みが、そういう言葉を選ばせているんだよ」と。

さて。上記の内容を踏まえて、もう少し。弟にも話はした内容である。


多くの日本人が経験的に、または周囲からの教育で「金(以下カネ)は汚いもの」と思い込んでいることが多い、とは書いた。

そしていきなり拙は、弟に問題を投げかけた。「カネとはなんぞや?」と。

弟は答えに窮した。経済学だとか金融工学の話ではない。

カネはエネルギーである。今着ている服もこうやってこのお店で座ってしゃべっているのも、全部カネが成り立たせている。紙幣や硬貨で出来ているという話ではない。

紙幣や硬貨や数字というのはその表現であって、本質ではないのだと。

そしてエネルギーとは、アインシュタインも述べていたが、物質とエネルギーは同質なのだと。例えば道教で言う氣もうんたらかんたら、とやったわけだ。

そのうえで、何か支払うとして、嫌な氣分でカネを渡すとしたらどうなるか?と問うと、「それは良くないことになるな」と素直に答えてきたものである。

まったくこの手の話を聞いていないわけではなかった(折に触れて語ってきた)ので、短くて済んだ。


動物は動物の体の自然の働きで、犬は犬らしく、蛇は蛇らしく振舞うが、人間の自然はほったらかしでは出来上がらない、という風なことを、野口晴哉は言っていた。

余談だが、幼い犬が猫に囲まれて育ったら、猫と同じ習性になった、という話もあるなとは思うが、少なくとも親戚(らしい)犬猫の垣根を凌駕はしていないので、まだ自然ではある。人語を話し始めたとかいうならともかく。


それは措くとして。お札や硬貨の意味も使用方法も知らない幼子が玩具にしているのを叱りつけるようなもので、子供はそこからカネに対する想像力を失い、不自然な態度を取るのである。人のことは言えないが、拙の弟の如くに。
自然にふるまうというのを現代社会では他人の迷惑を顧みない放縦な態度、みたいなことを指すように思われがちだが、それは想像力の欠如であると、拙は指摘する。見えるにしろ見えないにしろ、何事につけても、おかしなことをしでかすのはそれ故にだと。


何せ、想像力は人間が賜った自然に備わる能力であり、それに不具合があれば、自然と不自然になるのは道理である。


では、よき終末を。


ケサあった話

2020-07-10 | 雑記
先日、というより昨晩のことだが、帰宅した弟に怒鳴られたものである。

夜中晩飯を作っていて、鍋を火にかけしばし放置していた。少々火加減が強く、鍋の蓋がカチャカチャなっていたが、時間まで待とうと、アニメなんぞを見ていたら、ちょっと長引いてしまった。

そして戻ると同時位に弟が部屋から出てきた。うるさかったか?と聞いたら、「何がカタカタ鳴っているんだ?」と聞いてきたので、火加減がちと強すぎたようだと言っておいた。

その後水を飲んだ弟は黙って部屋に引き取った。ああ、これはと思ったところである。

ここしばらく仕事が忙しく、疲れた顔をしていたり声も覇気がなかった。

それはともかく、弟は昨晩帰ってくるなり、昨日の料理のことから怒り出し、火も見ずに放置するなんぞふざけるな、と怒った。

火なんぞ見てても見てなくも燃える時は燃えるだろうに、とは思うが、それはともかく、正論である。

しかし、その後が頂けなかった。

「どれだけ働いていると思っているんだ!」と。

拙は別に弟に経済的に依存して暮らしているわけではない。たまに作ったものを分けたりするが、料理も別々である。光熱費などは折半している。弟が金を出している状態のものもあるが、養われているという状態ではない。

別にそのセリフに腹をまったく立ててないわけではないが、横になりながら思ったものである。

「意味のない言葉だな」と。


仕事で疲れていて、その安眠を妨害をされたのを怒るのは当然だろうし、火の番云々も上の冗談のような言い草も通じるわけがないので、理解する。

しかし、間接的には関係あるとしても、やはり関係ないことを口にして八つ当たりするのは頂けない。そう感じたのである。

横になって考えていたら朝になっていた。そして思いついたことがあったので、書くか直接言うか考えてみたが、結局直接言っておいた。

昨日の夜の今朝でどう思っているかは分らんが、朝の挨拶はしてきたし、おどけて「昨日はおかげで眠れなんだぞ」というと、「すまんな」と返してきたものである。

イライラして怒鳴りつける形になったことは後悔しているのかもしれない。


さて。何を思いついたかというとである。


話は遡ること七年ほど前であろうか。

ここに何度も書いてきたことだが、掻い摘んで書くことにする。

とある夫婦(内縁のというやつだが)に、「(仲が良くて)羨ましいですね」と言ったら、夫の方が不機嫌になって「それは違う」と言い出し、後日、いつもやり取りしている会員制掲示板で罵倒された、という話である。

そのうちの言葉はこういう風であった。流石に完ぺきには思い出せない。

「この人(その妻)と一緒になるのにどれだけ苦労したと思っているんだ」と。

罵倒の締めは「苦しんで滅びろ!」であったことも記しておく。

拙だから理解できなかったとかそういう前提があるということにしても、無理がある。

近所の人にも同じように言われたら、烈火のごとく怒るのだろうか?

そんな思い出すと腹を立てる程の苦労をしたのだろうか?疑問は尽きないが、どうでもよい。

所謂不倫関係となっての同棲なので、色々あったには違いないが、拙にはこういう風に思えて仕方がない。

「そんなに苦労(嫌なことであろう)したのなら、それが故に成り立った今のその関係も苦労の塊では?」と。

今の関係が喜ばしいのなら、苦労したことも「色々あったけど、よかったな」で済む。

その時の嫌な感情でも噴き出したのか、拙のようなナマケモノに言われたのが腹が立ったのか。

ちなみに、その罵倒文の中に、「お前のような何もしようとしない奴に羨ましがられる筋合いはない」とあったことも記しておく。


こういう風に腹を立てるのは、別に上記の御仁特有でもない。拙にもあるし、冒頭から続いている話の弟もである。


恐らく、この手の話は何度もしてきたし、結構最近にも書いた気がするが、これはこういうことである。

「努力すれば報われる」という信仰である。日本人の大半が仕込まれている。無論、拙もそれに馴染んで過ごしてきた。

しかしこれは、裏面があって、よく忘れられている。

「努力しないと報われない」である。

太極図の陰陽の如く、これは表裏一体で不可分となっている。

問題は、「努力すれば報われる」は信仰箇条でしかないのである。

努力とはすなわち、上記の発言に準えて、「苦労」とほぼ同じだと言っていい。

これが個人の内側の葛藤だけで済んでいるならまだよろしい。喜ばしくはないが。

実際に周りを見てもらいたい。努力だとか苦労だとかとは無縁で平然と暮らしている人は確実にいるだろう。

この信仰が盲信になれば、言わずもがな。「己の努力が足りない」ともっともっと苦労を重ねるか、外側に攻撃するだろう。

俺は苦労している、もしくはしてきたのに、お前はしていないと。

上記の男性も弟も、同じ理屈から怒鳴ったというわけである。


別に弟の頭の中身を誹謗したいわけではない。上記の男性の話も思い出しつつ、「何故弟はああいう風に怒ったのか」を考えていたら、本当に朝になったので、弟が起きてきた時、昨日変え忘れたタオルを交換するついでに話をしたのである。昔もしたものだが、上記の男性の話を交えてである。

その某夫婦がかつての苦労を想起したかはしらんが、弟が怒声を上げたのと同じく苦労という言葉を掲げて罵倒してきたのは、つまりは嫌々やってきたし、今も嫌なんだろうと。

それでは、こうもなるだろうと。お前は金を稼ぐために嫌々仕事をしているのなら、それで稼いだ金は嫌なものにならんか?と。

だったら、金が大好きになったらいいのかもしれんなと。直接言った内容はこのぐらいである。


何故そう思ったのかというところが実は本題で、上記の夫婦は実は本題ではなかった。


以前にも弟とイザコザがあったことを書いたかもしれないが、その内で話し合った時に、弟がこう言っていた。

「俺はお金は大事だと思っているから」と。

ずっと何か引っかかっていた気がするし、実は拙自身にも関係があるのかもしれないので、寝られずに考えていたことはここだったのである。

某保険会社がアヒルにグワグワ言わせているCMで流れていた歌が思い浮かぶ人も多かろう。

大事とはなんだ?が気になったのである。

辞書を引けばいい、という問題ではない。その言葉をこういう文脈で使うということは、実際何を示していたかをである。


大事な人、というだろうが(普段使うかは別として)、似た言葉で大切な人とも表現する。

大事な人と大切な人。まったく同じに聞こえるかと言うと、違う。


大切な人だとか物とか事と聞いたとき、あなたはどういうイメージを浮かべるか?

拙の場合は、と断って言うが、好きな人や物事を指している気がしないだろうか?

一方の大事といった場合はである。

好きだとか嫌いといった感情を抜きにした立ち位置にある人や物事を示しているように思われるのである。

無論、常にそうなるという訳ではないし、その指し示しかたの良し悪しは一概には言えない。

ここでまた日本人論的な話に戻る。


努力すれば報われる云々とさっき書いたが、こういう信仰も昔から日本に根強く伝えられている。

「金は良くないもの」というものである。

キンではなくカネである。英語で言うとMoney。

陰謀論に片足を突っ込んでいた拙ならば、ロスなんたらがどうこうだとかいうところである。

それで金とか金融というものは害悪であると、よく言っていたものである。


しかし、金に良し悪しなんぞあるのか?と。

某狙撃手に百万ドル渡して仕事してもらうとする。

政敵の排除だったり商売敵だったり、はたまたはマフィアに都合の悪い証言をする人物だったりと、まあ色々ある。

結局は人殺しだが、法が裁かない人物を殺害するというのもあり得る話である。実際、某漫画にそんな話はある。


一方、養護施設だとか孤児院に同じ額を寄付したとする。

これは良いことだと、一般的に称賛されうる話である。

しかし、その寄付した孤児院の正体は、子供を奴隷として売り飛ばすマフィアの隠れ蓑だった、などとなれば、某狙撃手に渡した金と違いはないといえよう。

百万ドルは百万ドルである。しかし、如何様にも姿は変わる。

某狙撃手の仕事が世の中にとって良い方向になることがないとは言い切れないし、社会的に認められるはずの行為が実は社会悪そのものを助長していたりということもありうるわけである。


長々と書いたが、つまり、何気なく弟は「金は大事だと思っている」というその心根には、日本人が昔からよく馴染んできた可能性の高い思考回路「金は良くないもの」が前提にあるからでは?と考えたわけである。


そこまで考えていたとはいえ、話する時間もなかったので、上記に示した程度に留めたが、金に纏わること(上記の場合は労働である)に嫌な感情を向けているのなら、それは金を嫌なものと見ているのと同義である。洗脳されたかのように苦役を尊ばしいことだと思え、というのは無茶でおかしな話だが、嫌なことばかり見てても仕方がないということである。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはいう。腹立たしい坊主は確かに憎いかもしれないが、袈裟自体は関係ない。

というわけで、今朝は袈裟のことを考えていたということで、終わりにする。


では、よき終末を。