ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

歯車は回る、されど進まず

2022-06-29 | 雑記
凡そ一年近く放置していたこのブログも、消えることなくまだ存続している。

今もたまに読みに来られる方がおられるようで、感謝の念が絶えない。


去年にも書いたと思われるが、以前の職から放り出され、今はまるっきり違う仕事に着いている。
それまでは夜勤で朝寝て夕方から仕事、夜が明けたら日中ぶらぶらしてから帰るといったのが、朝起きて夕方帰ってまた次の朝、というよくある形に変貌した。
その上肉体労働である。ただ、人員が減ったため、就業した当初は数人で行っていた仕事を己一人で回すという状態になっている。要するに二人前の仕事量と言える。

今は休みになると身体が痛くて動きたくない、動いても動きづらいという辛いとしか表現できないような日が多々あった。
今日は比較的軽症といえるが、休みだから楽しもう!という氣分になりづらいところではある。用事があったのでそのために外出して戻って来て、これを書き始めた。


さて。先週のことであった。

同居している弟と一悶着あった後の金曜日から日曜に掛けて、弟は帰宅しなかった。

日曜は仕事なので夕方帰宅すると、弟の家財道具の大半、机といった大型の家具までもが綺麗さっぱりなくなっていた。
書置きなどもなく、電話にメールもないし、電話にも出ようともしない。といっても23時ごろにかけたのだが、いずれにせよ、今も何もない。

親に電話してみたが、何も知らされてないようだった。ただ、以前からお互いの関係が芳しくないことは伝えてあったので、特段、驚いてもいなかった。

何があったのかを以下に述べる。

水曜夜、こちらが食事をしている最中に弟帰宅。弟は料理を始める。
出来上がった料理を自室に持っていったのでこちらは自分が使った食器を洗う。
そこに弟がやってきて、食器を片づけ始めたので「お菓子買ってきたぞ」と伝えると、「そんなことより流しの生ごみ捨ててない」と明らかに自分の機嫌が悪いだけから来た口調で言い出す。
「俺はあんまり生ごみださんし、兄貴の方が出すだろう。俺は多く出る程やった時はすぐ取り換えてるから」と吐き捨てるように続けた。

「おう」と答え、弟が部屋に去ってから、生ごみを叩きつけるように片付け、分けるつもりだった菓子は握り潰して一緒にゴミ箱に投げ入れた。

ただただ己の機嫌が悪いのを解消するための言い草だったことを見抜いたので、こちらも即座に機嫌が悪くなったというわけである。

思い切り部屋の戸を閉じてしばらくすると、弟が声をかけてきた。

「今のは言い過ぎた」というのだが、その後は上記の通り。「忙しくて余り寝られなくてイライラしてて」などと。

ゴミの量がどうこういうなら、外に出すゴミ出は週によってお互いの量が増減したりするだろうに分担してない(弟がいつも先に捨てているが)よな?
それにコーヒーの殻入れてあるのはなんだ?ほとんど出してないってなんだ?と詰問すると、「あそこは一時的に水切りする場所だから」と言い逃れをしようとする。
答えに窮したのか、とりあえず言い過ぎたことは謝る、という風に来たので「わかってたらいいよ」と横柄に返した。

すると弟は自室に戻って部屋の戸をさっきこっちがやったように大きな音を立てて閉めたり、風呂場で何やら大きな音を立てていた。

さらに大きなことを後日こちらがするのだが、その結果が最初に述べた話になる。

とはいえ、もう少し上記の状況を考察しようと思う。


台所の生ごみ云々は、住み始めた当初にこちらが先ほど弟が述べたような具合で押し付けたことがあった。
鬱病云々だったとかいうので、衛生には氣を付けた方がいいのだろうと考えすぎた結果ではある。
何故考えすぎたか、についても思い当たることを書く前に思い出したが、引っ越し前の状況から仏心を無駄に出し過ぎて心配し過ぎたからではある。

ともかく、余り現実的でないやと結局そういうやり方はしなくなった。しかしまあ、拙も間抜けなので「捨ててねぇ!」と直接怒鳴ったりはしなくても大げさな音を立てて捨てていたこともある。

これを踏まえて上記の弟の態度を見て、違和感を覚える人はいるだろうか?

昔怒られたことを根に持ってやり返しているだけ、というのは見て取れるだろう。

それぐらいなら、たまたま機嫌が悪かったから、で済むとは言わんが、そうなる。


しかし、そうとは言えないのである。

常にこうなった場合、弟はこう言う。「俺はやってるから」と「兄貴はやってない」をセットでいう時もあるが、こうである。

根に持っているのだが、持ち方がどうも奇妙である。言われたことを言われた通りにだけやっている、である。

これは他の例でいくつも見受けられた。

スパゲッティの電子レンジ調理器というのがある。水とスパゲッティを入れてレンジにかけて、終わったら付属の蓋を被せてお湯を切るという形のものである。

かつて拙が夜勤だった時はあまり影響はなかったので、水切り籠に「別に拭かずに乗せても構わない」とは当初は言ったものである。

仕事前に起きて料理することも当時はなかった。

しかし、去年から朝飯を作って食べるようになったりして、仕事が変わったことを受けてか弟は何かの話の折りに「状況が変わったから」などと述べていたので、何か考えて動くのだろうなと思っていたら、皿は相変わらず拭かない。
皿はまだ浅いので乾く方だが、他の食器はほぼ濡れているのと変わらない状態だったり、件のスパゲッティ調理器はくぼみに水がたまったままである。

この器についてはもっと前に水気をまったく拭くどころか切ろうともしないので、「せめてこう叩いて落とすとかやってくれんか?片づけた先がかびたりするだろう?」という風に伝えたら、そうやるようにはなった。
しかし。せめて、と言ったかどうかはもう定かではなくなったのだが、それ以上の行動は一切しない。
言われたことを言われた通りにだけやって、「俺はやってるから」なのである。前後の話は何も聞こえていない。
皿を拭かないのも当初に「言われた通り」なのであろうと思う。

直近の生ごみの喧嘩より一か月ほど前だったか。
弟が夜、食器を片づけようとしていた、というのもこちらは拭いて水切り籠に入れてあったので、それを片づけてから自分のを乗せるという流れである。
そこで不意に皿の割れる音がした。乾いた食器の片付け場所は、拙の部屋のすぐ目の前で、戸を開けているとお互いが丸見えの場所である。
そして先ほど書いたのとほぼ同じく不機嫌な弟はほとんど同じ内容を怒鳴り散らし、ゴミ箱をひっくり返して壊した。
他にニ、三、以前からたまにあった内容も付け加えてだった。「理不尽な事ばかり言いやがって」とか「どうすりゃいいんだよ答えろよ」とか。
以前からすさんだ顔が何日か続くと、先ほど書いたようなことやこれに近いことを始めることは何となく感じていたのと、激しい剣幕で怒っているのに怖いというより「何を言っているんだ?」が先に来た。
理解できないから、ではないが、もうこの時点で「怒っていること自体に腹を立てていたのではなく、ただの切っ掛けに過ぎないレベル」と見抜いたのかもしれない。
※そう思った理由をはっきり思い出したので追記する。「気に食わなかったら人の物壊しやがってよぉ!」とも言っていたのだ。はて?以前にこちらもやったが、そもそも誰がいきなりやった?無関係な理由でやったのは誰だったか?このことについてはもう少し下で。
吹っ飛んだゴミ箱のパーツを怒鳴られながら拾い集め直した。側面は割れたが、蓋を開け閉めする機構は問題なかった。

そこで拙は一計を案じ、「理不尽がどうこう」というのならばと、後日酔っぱらって家に帰り、弟の部屋を開けてこのように語った。
「理不尽がどうこというならば、引っ越し直前の泣きながらの上京を辞めるかもしれないなんて電話なんぞ理不尽だろう。引っ越してからも己の苛立ちでお互いの喧嘩でもないのに他人のザルと共同でしかも友人が車出してくれて買ったゴミ箱をぶっ壊された。そんなこといきなりされる時点でわしが出ていくかお前を放り出すべきだったのだが、そんなことせずに今までわしは理不尽を自身に掛けてきたんだわ」と。演技ではなく感極まって泣きそうな具合に語った。

今になって思うが、その弟の返答の言葉には本来絶句するところだったろうが、こう返ってきた。

「俺も一つ言わせてくれ。生ごみ捨ててくれよ」と。

「兄貴もそんなに追い詰められてたのか」みたいな一言はなかったように思う。そして即座に返してきた言葉が上記となる。

改めて思い返して書き出してみたが、一体何を相手にしているのかと慄然とする。日常の動きを含めて見てきたが、まるで人間らしさを感じない。

時系列をあっちこっち飛ばして申し訳ないが、つい先日辺りに話を戻す。

頭の腐ったような物言い(状況もみずに自身にのみ正当性ありと一方的に述べる態度)に腹を立てたこちらは、量を多く出してる云々ならあれはなんだ?これはどういうつもりだ?というのを示すために、その次の日の朝五時に思い切り部屋の戸を開け放ち、そのままガスコンロに向かった。
もうここしばらく、フライパンで料理を作るという事はこちらはしていない。しても数えるほどだった。
しかし、ガスコンロは飛び散った油で円を五徳の下に浮かばせているほどになっている。
思い切り音を立てながら拭きまわり、また思い切り部屋の戸を閉じた。
その後起きた弟は何か言うかと思ったが、何も言わずにそのまま仕事に出ていった。

そしてこちらも仕事に向かい、帰りに大酒をかっ食らい、なのだが、ちょっと楽し気なお話をしておく。

通り道にはツバメが巣を作っている建物がいくつかある。

今年も来たんだなぁと、一つ一つを覚えているわけではないが、町の人も壊さず見守っているのが多いようだった。

その建物のうちの一つで、とある民家がある。十年経ったかは忘れたが、もう何年も目にしているお宅である。

そこの玄関にも、通りから見える位置にツバメが巣を作っており、子育てをしていた。

うっかり見るのを忘れて通ったりする日も多かったが、夜の帰りに見て、数羽が寄り添ってるのを見たりしたものである。

そしてその大酒云々の帰り道にその家の前を通りかかると、そこの奥さんらしき人が庭の手入れをしている。

つい「玄関のツバメ、旅立っちゃいましたね」と声をかけると、奥さんはパッと明るい顔になって、「見守ってくれてたんですね!」と話が弾み、「また見守りましょうね」と言って別れ、何だか嬉しい氣分になって家路についた。

そして帰宅。

こうしてやろうああしてやろうと細かく考えていたわけではないが、ドンドンと部屋に入り、物音を立てながら風呂場に向かいシャワーを浴びた。
浴びながら、弟のシャンプーやらをぶん殴り続け、ポンプは破壊した。
理由はある。風呂場のシャワーを浴びたり身体を洗ったりするところの床の四隅がよく赤くなっている。
弟のシャンプーだかが赤いのがあるので、それのせいか?と聞いたこともあり、気付いたら拭えよと言ったことがあるが、弟はほとんどやっていないようだ。やったなら「やってるから」とか前に言ったことを注意でも何でもない会話でも「もう聞いた」などと返してくるほどの奴なのだから。
よくよく考えれば石鹸カスでもなり得るだろうが、実は拙はほとんど石鹸で洗ったりはしていない。お湯のみである。

それならば夕べの理屈なら、弟がやるべきであるはず、と別に伝えたわけではないが、それからの連想で破壊した。

それから風呂に上がって壁を蹴り殴りした後着替えて、冷蔵庫の上に五千円札をたたきつけ、今朝も拭いたくせにガスコンロをガリガリ拭き始める。

泥酔しているうえに拭くことに氣が向かっていたので、部屋から出てきた弟が声をかけてきたことが分からなかった。声が聞こえた気がして「ああ!?」っと返すと怖気付きつつ「おかえりっていったんだよ」と言うので「小さくて聞こえんわ!」と返し、拭き続ける。
一瞬の間の後、「昨日の事で怒ってるんだと思うけど」と言ったところで間髪入れずにこう返した。
「それだけちゃうわ!お前、住み始めてすぐに関係もないザルぶっ壊したやろう!?許してないからな!あんなことは通り魔の人殺しと変わらんのじゃボケ!」

「それからお前のシャンプーとかぶっ壊したからこれは弁償ぢゃ!」と冷蔵庫に載せてあった五千円札を渡す。一応受け取って部屋に行こうとしたらまさか五千円札と思わなかったのか「こ、こんなにいらんよ・・・」と返そうとしてくるので、「いるか!もってけボケ!」と持っていかせた。

それからこれまた昨日拭いたのだが、風呂の四隅を拭いに行った。

部屋に引き取り、寝転がりながら「はよぉ死ねや!」と二回ほど叫んだものである。
何故か外から猫の鳴き声がしてきたので「猫ちゃんごめんよ」となどと小声で言ったりするという滅茶苦茶ぶりであったとさ。


夜が明けて金曜の朝。するとあら不思議。いつもより遥かに速い時間にいなくなっていた。

そしてその夜は帰ってこなかった。電話したら一応は出た。まだ追加でいう事があったが、「はい」しか言わない。何となく理解もしていないだろうなとは思いつつ、家賃で渡す分にいくらか足してあるから全部持ってけよ、じゃあ、コンゴトモヨロシクと言って切った。

週末は友達の所で過ごすから。たしかこう言っていたように思う。

そして日曜に帰宅すると、もぬけの殻になっていた。冒頭の話と相成る。


弟の奴が鬱病と診断されて治療していた、というのは今から六年ほど前だろうか。それ以前はどうだったかは確認を取ってはいない。

ザルと友人の手伝い込みのゴミ箱を破壊したことは昔書いたと思う。まだ鬱病が怪しい状態だったなどとは当時言っていた。

兄にも電話をしたものだが、十数年ほど前、兄と弟が一時期同居していたことがあった。その時も兄と喧嘩したわけでもないのに、扉が破壊されたという事も聞いた。
理由などについては詳しくは覚えていないが、少なくとも兄と喧嘩したからではないようだ。その時は何病だったのやら。

ザルについては即日買い直して同じ型のを置いてあったが、ゴミ箱については人の言葉を額面通りに受けてそれ以外の行動をしようとしないというのが遺憾なく発揮され、半年以上放置されていたのでこちらが怒鳴った。

その際にこういうことを言った。「お互い金出しただけじゃなく、わしの友人も車出してくれたりしてた、そういうこともないがしろにしてるんだぞ!?わかってんのか!」と。

だから自分でも怖いぐらい怒ったのだが、怖いしか頭に出てこない弟は当時、駅前の交番に「DVとかで避難するシェルターないか」と聞きに行ったそうだ。

余談ではあるが、じゃあなんでまたザル?という事を。通り魔の人殺しは言い過ぎではないか?と思われる向きもあるだろう。

我々が物質と呼ぶものはすべて命である、という向きの話は理解に苦しむだろうから、もう少し分かりやすくいう。

拙も単純にたまたま気に入った色のを買い物に行った際に見つけたから、という理由で大事に使っていたのだが、その理由が出来上がること自体が理由なのである。


人というのは、例えば名前だけ取り出して「山田太郎」と呼んでも目の前の山田太郎さんかどうかは実は決定づけられない。

ここそこの今いくつでこんな見た目であんな笑い方する自分と交流のあるこの「山田太郎さん」と、別人で面識もない別の山田太郎さんは同じにはなり得ない。

こういった種々の要素が集まった状態で初めて浮かび上がってくるのが人であり物事なのである。仏教でこのことを「縁」と呼ぶ、というのはご存知の方もおられよう。

この「縁」を破壊するというのは、つまりその人を破壊しているのと同じと言えるのである。

弟は拙とザルの縁を破壊する、つまり当時までの拙を拙たらしめていた、同じザルは世にいくつもあるが「縁」を結んでいたザルを、人を破壊したのである。

そして兄弟間だけの仕事ではないゴミ箱も同様である。

そういうことを怒っているのに、脳が足らんので怖がるだけだった。


しかし、どうしてここまで情緒というか人の心というものを感じる能力がないのだろうか?と最近思っていた。

自主的にゴミ捨てしてるのかと思ったら「何故お前はやらん!」となってくるのか?

一応の目的としては一時的だろうとしても、いずれ一人暮らしするなら、自主的にやらざるを得んのだろうに、人のせいにしたばかりの言動が目立つというのは上記までの部分だけでも感じ取られるだろう。

かつてこうやって暮らすことになった切っ掛けは、母親に上京の際、お金が不安だと相談すると「じゃあ兄貴と一緒に住んだらどうか」と提案されたそうで、その脚で電話してきたようだ。

結構前から思っていたが、一緒に暮らしたくて暮らし始めたわけじゃないなこれは、とは感じていた。理由は金だから。
これまた受動的な理由。主体性のなさである。

引っ越し直前云々はかなり上の方で当時のやり取り部分のセリフにも書いたが、めそめそしながら「どうしたらいいのかわからんのや」とのたまっていた。
どうしたらいいかわからんのじゃなくて、どうしたいかじゃないのか?とは問いただしたものだが。
上記にも示した、弟の暴れながらのセリフも、態度が違うだけで同様である。

物事に常に決まりきった答えがあるといった、実に即物的なカチコチの脳みそだったのである。

そういうのは何も考えなくても出来るから、考えるという事を放棄し続けて来た結果がこの数年で噴出したのだと思われる。

俺はやった、だがお前はやってない、というのは考えて物を言う態度ではなく、既に決め付けている事から現実を見ずに機械的に正否を当て込んでいるだけなのである。

そういう人の常套句としてよく上がるのに「常識だろう!」もある。全部が全部ではないが。

そんな状態では主体性だとか自主性が育つわけもない。あるのは「俺が!俺が!俺が!」だけである。

人の脳の働きというのは一様ではなく、例えば仏教だとかは8段階だかまで心の層があるという。宗派によっては9とも言う。

岡潔に至っては10を提唱している。この辺りは長くなりすぎるので割愛するが、それぞれが陰に陽に働いて人が生きていたり物事が動いているのだと、大雑把に思ってくれればよい。

「俺が!」というのは人の心では「自我意識」と呼ばれる。英語や中国語の文法を見れば自我からしか物を見ていないのが分かるだろうと、岡潔が例に挙げていたものである。

反対に、かつての、と言った方がいいようだが、日本語は主語がない、もしくは弱い言語であるというのを聞かれた方もおられるだろう。
小さな子供に向かって「ボク、いくつかい?」と尋ねたりするような言葉遣いに現れている。

現代はこの自我が全てという、主に欧米からの思想で塗りこめられている故、自我というのは力強いのだろうと勘違いされているのだが、これは心の一部分でしかなく、いわば機械の歯車が一部だけ頑張ったところで機械全体の働きが良くなるわけがないのと同じ状態なのである。

機械の歯車の一つである自我がおかしくなってやたらに動こうとしているのを抑えて機械全体を統御する存在が必要なのである。

こういう話はさっきも引き合いに出したが、岡潔という方が昔、存分になされていた。そちらはもっと深い話なのだが、それはさておき。

自我を制御する心の働きを「自分」、と呼ぼうかと思う。

自我には「俺が!」しかないと語った通り、空回りしていることを自覚することもない。

一方の「自分」はちっぽけな自我も見てはいるが、それが全てではないことを感じているので、自我が変な動きをし始めて機械の別の箇所に変な負担がかかって支障が出た時に知らせてくれたりする。自我が強すぎると伝わりにくかったりするが、それでも何とか働いてくれている。


自我が暴走して「自分」が動かなくなったり動きが極限まで悪くなったりすると、OSのセーフティーモードよろしく、最低限の機能しか働かなくなるのと同様、視野も狭く痴ほう染みたコチコチの動きになっていくのだろうと思われる。

日本では昔から「人の事を考えろ」とか「相手の立場になって考えろ」という。

この機械の例えもまた、「縁」の話からすると、自我という歯車だけ取り出して示したところで、その機械の事はさっぱりわからないのである。

他人、それに「自分」といった他の歯車や操縦士と噛み合っているかを見ないことには、己も他人も何も見えてこないし、いずれネジが緩んで歯車が弾け飛ぶだろう。


自我はあれど「自分」はなし。

これが弟から見えた事であり、岡潔が語った現代の状態なのだろうと思う。


では、よき終末を。


他者の怒り

2021-10-08 | 雑記
ツイッターもブログもサボっているが、今も何とか生きている。

拙は生きているが、先ほど、とある人の訃報を聞いた。

顔見知りではないし、その方のブログをよく読んでいただけではある。

そのブログもツイッターも更新がピタッと止んだのが今から二カ月ほど前。

ツイッターの方は余り日を置かずに更新されていたのでおかしいなと思ったが、余り氣にしていなかった。
きっと忙しいのだろうと。

ご冥福をお祈りする。


さて。話を変えて、身近なことを少々。

ある人物の不興を買ってしまった。ついでに昨日は弟にも怒られたものである。

不興を買ってしまったというのは、勿論、拙の行動が問題だった。
単純な話で、謝罪すべきところで謝罪しなかった、というのが続いたのである。

酷い奴だと思われるだろう。それだけならば。

以来、その方は拙を視界に入れるのも嫌なようで、他の人達との態度の差が歴然としている。

つまり、「あいつ(拙のこと)はまともな人間じゃないからまともに扱わない」と。こういう態度である。


そこで少々思い出したことがある。


改めて書くと、その人物というのは今の仕事場の人間である。

丁度二カ月前にそこへ初出勤した。その日だったかは思い出せない。初対面の時だと思われるが、何をどう見て考えたのか、恐らく予防線でも張ろうとしたのだろう。簡単な作業をしつつ他の人たちも交えた雑談の最中、いきなりこう言われたものである。
「あなたを男性と思ってないから」と。続けて、「わたし、結婚してるから」と言っていたかもしれないが、その辺りははっきりとは思い出せない。

拙は背が低く、筋骨隆々といった男らしさが横溢しているような容姿ではない。
昨今話題のLGBTだとかにも当てはまらない。

昔のとある有名漫画みたいに「おれは男だ」と一々確かめながら暮らしているわけではないが、己を構成するものに、男性というものがあり、それが極度に自己との同一性が乖離していない状態である。

この同一性の乖離が著しく、病的なほどの場合を、「自己同一性障害」という。
男の姿で生まれたが、実際は女性なのだとか、またその逆の場合も同様。

一昔前から、ジェンダーフリーという思想が吹聴されているし、昨今はLGBTと頭文字を並べて、非多数派の性愛者に権利を、というのはお聞きになった方は多いだろう。

それの良し悪しはともかくとして、権利を認めるか認めないかもここでは語らないし、そういう話題ではない。

世の中は男性と女性が必ず存在するわけである。先日、「中性」と言っているモデルだかの話題があったのを見たものだが、それも男性と女性があるから中間の性と表現できる。

とまあ、ややこしく話を続けても仕方がない。

中身が女性の男性に向かって、「男性とは思わない」と告げた場合、それは「女性だと認めてくれた」と受け取られてもおかしくない。

では。中身も外見も男性に向かって「男性とは思わない」と告げた場合。これはどうなるか。

前者の場合、女性という人格を認められたといえる。

翻って、後者はというと。

これは人格の否定である。つまりは侮辱である。

ありのままのものを何かの意図でもって削り取り、捨て去る、というと何か物騒な響きだが、意味は変わらない。

別に女性の真似をしているだとか制服を女性の物を着ているだとか、そういうものは一切ないのに、己の都合でありのままを無視するというのは、つまりはその対象を、この場合は男性たる人物の人格を蔑ろにすると宣言しているのである。

当人にそんな意識なんぞなかったろうが、このことを何人かにどう思うかと尋ねたら、ある一人はこう返してきた。
「何かしたのか?」と。
拙がその女性を口説こうとして振られた言葉だとしたら、あり得るだろうが、何もしていない。

当時は新しい環境で緊張していたのもあるし、自分が何を感じていたかは分からなかった。

しかし、昔にもこういう事があった。書いたこともあったかもしれないが、簡単に述べておく。

大学時代、とあるクラブにいた。文化系のクラブだが、だからといって重労働が無いわけではない。

同期のかしましい女性達、というと語弊がある。目立ってたのは一人で、後はその取り巻きとでもいうか。

女性でも三人集まって物を運べば、男性一人よりは効率があがろうもの。

それをこう、自らで評していた。拙に向かって直接言って詰る、というような具合ではなかったが。
「わたしたち、ここの男組だからねぇ」などと。

目の前の男性一人よりも女性の集まりのほう力が出ている、と言っているわけである。

とても空しい言葉である。徒に男性を傷付けるだけで、いくら集まっていようが女性は女性でしかなく、そんな言葉を吐いたところで男性になるわけでもない。寧ろ一人だと非力です、というアピールをしていることになる。

あのような言葉を紡いだのは、やはり男性にコンプレックスがあるからだろうとは、その後に思ったものである。

個人の事なので細かくは言えないが、幼少の頃に「男性に傷付けられた」という過去を持っていたからである。

傷付けられたからといって傷付けて良いわけではないのは言うまでもないが。


話が長くなった。

どうして特にその件の人物について無礼を重ねることになったのか。まるで狙ったかのように状況が重なった。
広い職場ではないとはいえ、共有で使うものとはいえ、あちらが使おうと準備しかけていたものをこちらが先に使ってしまったりだとか、一方的にこちらが迷惑をかけている状態ではあるのだが、謝罪しなかったり、できない状態になっていたりと、少し思い出せる限りで、まるで冗談のように重なっていた。

人の意識の九割ほどが無意識という。心臓の鼓動だとか胃腸での消化、目に何か飛び込んできた時に目を閉じようとするといった分かり易い例も含まれる。

その無意識に働きかける事によって物事を好転させよう、というのが引き寄せの法則というわけだが、まるで引き寄せたかのようであった。

何せ、当人がどう思っているかは知らないが、いきなり「人間扱いしない」と宣言したわけである。
それで、そう感じたとおり拙が人間扱いされないような動きになっていき、ご覧の結果となったと。
その態度を見ていて思ったものである。

あれはもしかしたら、拙が取る可能性があった態度ではなかろうかと。

人によってはなんてことはない言葉かもしれない。が、説明すれば理解は出来るだろうし、簡単な具体例を対比として述べておいた。
心の奥底に沈めていたが、とんでもなく怒っていたのだろう。大学時代の話を思い出して喋ったり書くだけでも嫌な氣分があった。
そこで不甲斐ない顕在意識に代わって、無意識がこういう事態を引き起こしたのかもしれないな、などと。


ついでに弟に怒られた話もしておく。

こう怒られた。
「頼んだこともちゃんとしてくれず、こっちへの頼み事ばかりでちゃんとしてなかったら怒って物を壊すし、上から目線で偉そうに物を言うし、やってあげたことにありがとうもない。二人よれば社会だろう。ふざけるな」と。
こんな具合であった。

怒って物を壊したのは数日前にあった。些細な理由ではある。その事を踏まえての話である。

しかし思うのである。恩着せがましいなぁ、などと。

弟のトイレの後に便器にこびりついた糞便をこすり落としたことは一度や二度ではないし、部屋の掃除は毎日ではないとはいえ、台所や玄関、風呂場の脱衣洗面所に至っては髪の毛が目立って落ちており、掃除は拙がやっているが、それにお礼を言われたことは無い。無い、は語弊ありだが、氣付いた時に、もしくはしておいた、といった時だけである。トイレについては、糞便のこびりつきにそもそも氣付いてないか、時間が経っていて向こうには経緯不明という奴だろう。最近は余り見かけることはないので、自分でも行っているのかもしれない。
これも毎日ではないが、水場に設置してある手拭きタオルは、拙の洗濯の際に交換しているが、その事についてお礼はない。日常と化したので氣にしていないからである。
くれという気もないが、してあげたことに云々なら、まったくもってお互い様である。
怒って物を壊す、という点なら昔に書いたが、ゴミ箱とザルの粉砕の件は拙自身とは関係のない八つ当たりだった。関係あれば壊していい、ではないが。なんだか先ほども似たような断りを書いた氣がする。
などと、言えなくもない。

ガミガミ怒れば怒るほど墓穴を掘っているような気もする。そして先ほどの件で触れたが、その態度は自身が取り得るものだったのかもしれないと。
というのはつまり。相手の不満は、自身の不満の投影なのだろうと。自覚しているかしていないかはあるが。
冗談みたいな言い草に聞こえるが、昨日怒られた件も踏まえて、相手が怒っているのは、拙の代わりに怒っているのかもなぁ、などと思う。どちらの件も、先に拙が怒りだしてもおかしくない話だからである。
上記のようにあげつらえば腹も立ってくるが、立たせる腹の意味がないとなる。
切っ掛けがあって怒るのではなく、怒っているから切っ掛けが来るのである。
怒っているなと自覚できれば、切っ掛けは切っ掛けとはならずに素通りするのだろう。

もう既に腹は立てた。ただ、主語がないだけである。

だが、あっても変わらない。「わたし」が腹を立てたのだから。


では、よき終末を。


話すと長くしてしまう

2021-09-01 | 雑記
ツイッターもブログもしばらく更新をしなかった。

ブログよりはツイッターは更新がしやすいかと思ったとはいえ、何か人に向けて物を言う意味を思い出せなくなったので、やはり放置となった。

とりあえず、手短に近況を。

今年四月に仕事をリストラという横文字の言葉で放逐された。
例の疫病による不況の故である。

そして三カ月ほどぶらぶらしていた。

それから詳細は省くが、仕事をしようと思ったので、八月の頭に清掃関係の仕事へ就いた。

これを書く直前のツイッターに仄めかすようなことを書いておいたので、何の仕事かは想像が付く人はいるであろう。

とはいえ、あれも医療従事者となるらしい。

きっと所謂陰謀論界隈で拙も悪辣な存在として非難の的となるのであろう。ファファファ。

しかし、あの疫病がそれほど酷いなら、直接関わるイメージ通りの医療従事者はもちろんのこと、色々と触れるこの仕事にかかわる人々はもっと罹っていそうなはずだが、この三週間ほど、何もなかった。
それに纏わる話も直前のツイートに書いてはある。

拙以外の大半がヴァクチンを接種しているから、という理屈も成り立たなくもないだろうが、それで済む話かは知らぬ。九割以上防げる抗体が出来ていようが、十割ではないだろうに。

それはともかく。
自宅待機で逝ってたという話がよく出てきた。だが、病は氣からである。
この状況、一般的な目で言う所のひねくれものでもなければ、「あれに罹った!」となって家に籠っていたら、重度の鬱病の如くになり得るだろう。
マスクや報道含めたストレス攻勢で身体は氣付かぬうちにボロボロ。
そしてベッド(拙は畳の上に布団だが)で絶望に打ちひしがれて飯を食う気力も失って・・・、となってもおかしくはない。

たかが三日で?と思われるだろうが、無いとは言い切れない。

前にも書いたが、『金枝篇』で紹介されている話で、「バナナを食べると死ぬ」という掟(トーテムと言っていたか?)の部族の人が「先ほどの料理にバナナが入っていましたよ」と聞いたら卒倒して死んだという。

現代人とそんな未開部族を一緒にするなとお叱りを受けるところだが、「飛沫は防いだり飛ばしにくくはするだろうがウイルスは通す」マスクでウイルスによる感染症を抑え込めると考えるのも、実に迷信深いと言える。

もう少し理屈っぽくいえば、既に誰かが言っているだろうが、鼻腔や喉の粘膜に着いたウイルスを咳やくしゃみで飛ばすのが人の生理現象。
健常な人同士なら、飛んで来ても別に何ともない。精々、嫌な氣分になる程度。それで罹ったように見えたりもするだろう。
「そんな氣がした」でそう無意識に身体が動くものである。

そこはともかく。

本来は飛沫と共に飛んでいくはずのウイルスが、マスクの顔側に残る。
それを何度も吸い込む。何度も吸ううちに、体内に侵入を許すことになるだろう。
鼻腔や喉の粘膜は謂わば前線。突破されると体内で激しい戦いを引き起こすことになる。
そして重篤化して・・・。三日で死んだとかニュースになったりするわけである。

とはいえ、その割には拙が勤務している病院(医者ではない)で、毎日何人も死者が出ているというような状況には出くわしてはいない。
すれ違う医者も数が減ったりせき込んでいたり人手が減ってもっとピリピリしているかと思ったが、そういう風にも見えなかったものである。
日本は平和である。頭のおかしな意味で。


では、よき終末を。


複雑怪綺

2021-07-17 | 雑記
先日、とある事が切っ掛けとなり、「己は何をしたいのか」を考えていた。

要するに仕事の話である。何を隠そう無職になって三カ月ほど経っている。

結論からまず書くと、このような事に思い至った。

「何かを綺麗にしたい」と。

そのように至った理由のような物を少し書いていく。


拙の前職はホテルのフロント勤務だった。規模の大きなホテルではないので、接客業としては難度の高いものではなかったと思う。
フロントでの応対や事務所での仕事以外に、ちょっとした肉体労働があった。
昼間に休憩で貸した部屋を掃除して夜に売れるようにする、というものがある。ベッドメイクである。
経営方針やら景気の具合でまちまちではあったが、拙が詰めている日はこれの多い日が多数を占めていた。

かつての上司から聞いたものだが、ホテル勤務に憧れて入社したものの、望んだ形と違うと言ってすぐ辞めていく、という人が結構いたという。他のホテルの話だが。
石ノ森章太郎の『ホテル』のような華やかな仕事を夢見たものの、実は雑用だらけで絶望したと。

かくいう拙はというと、まったく興味がなかった。接客なんぞやりたくなかったが、兄にそこのバイトを辞めるから代わりに入れと言われて入り、四苦八苦しながら働いていたのである。

時は流れ。四、五年ほど前だったか。事務所の改装が行われ、今まで手狭で混みあった具合から広々とした事務所になった。この話は直接関係はないが、一応。

それから一年ほど経ったぐらいで、週一に昼間のシフトに入っていたご老人が変な具合で辞めていった。
少し精神的に不安定だったようにも思えるが、今年か去年ぐらいに、恐らく亡くなったらしいと聞いた。
身体が悪くなってきていたのを感じていたのかもしれない。

話を戻す。

そのご老人は若い頃からの習慣だったのだろう。一時間以上も早く出勤して着替え、事務所内の電話やらフロントのカウンターを拭いていた。毎回見ていたわけではないが、掃除する箇所は決まっていたように思う。

当たり前の話というのもなんだが、そのご老人が辞めてからというもの、そういった掃除をする人間はいなかった。
清掃業者による床やフロントロビーの掃除はあるが、事務所の備品などは触れることは出来ないので、そういったところはずっと手付かずであった。

事務所内ならまだよしとしよう。しかし、カウンターの記帳に使うタブレットPCの台座(冷却用の台座である)の下にホコリが溜まっているのまで誰も気にしていなかった。

自分などは昔から嫌々していた仕事だったし、他の人も似たり寄ったりだったり、他の仕事に追われていたりもする。
しかし、これで接客するのか?と疑問が沸いた。ネット予約の宿泊プランの値段やオマケの具合を考えるのは必要だろうが、これが客を迎える態度かと感じた。

人に命令する立場でもないし、向こうもされる道理がない。清掃業者が手を回さない箇所の清掃は業務内容には存在しない。
ならば、いなくなったご老人がやっていたように自発的に掃除を始めようと考え、時間のある時(夜勤は夜中暇な時間も多い)にホコリをはたいて机の脚まで拭いたりしていたものである。

その時は業績が落ち込んでいたが、たまたま上り調子だったのだろうとはいえ、掃除を始めたころから毎月伸びていった覚えがある。掃除すると開運するだとかは何かで聞くし、そういうことも念頭にあるにはあった。

「Aさん(前述のご老人)の後継者だ」などと、先輩アルバイトの女性が微笑みながら言っていた。
「皆後継者になってもらいたいものだ」とは思ったがそれは口に出さず、やんわりと掃除の必要性は訴えたかもしれないが、そこはもう覚えていない。

そしてコロナ禍。望んだ形には臨めなかったが、周りのスタッフも掃除の真似事をし始め、「皆始めてくれて嬉しいなァ」などとおどけながら言ったものである。
言うまでもないのだろうが、自発的な部分は一切ないもので、ケチって使い始めた手指消毒アルコールを撒いて拭くというとんでもない事態になっていった。
おかげで記帳のタブレットPCには綺麗な弧が描かれていたものである。そしてそれを拙が拭き取るという。

もうそろそろ辞めるか。無意味にマスクさせられながら仕事を続けるのはバカバカしさの極みだと感じていたころ、ある夜勤の日、電話があり、次の日の明けに本社に来るように言われ、そしてクビを言い渡された。

すまないが受け入れてもらえるか?という風に尋ねられたが、上記のように感じていたので、「そろそろ辞めようかと思っていたので、なんだか不思議です」などと答え、晴れて退社となった。クビを晴れというのはおかしいが。


長々とクビになるまでの経緯を書いただけになったが、何を感じたのかというと、己は何かを綺麗にすることを望んでいたのだなと、業務としてのベッドメイクも、自発的に始めた掃除も、ここで大した内容でもないが何やら書いてきたのも含めて。
それが冒頭の「何かを綺麗にしたい」なのだと。

というわけで、清掃関係の仕事を探すことにした。十七年ほど続けたホテルのフロントという稼業には微塵も興味を持てなくなった。
そもそも、さっきも書いたが嫌々始めたものだった。役に立つ部分はあるが、仕事にするかどうかはまた別である。


このように感じ始めていたせいなのか、少し前からTwitterの方は滅茶苦茶な話を始めて、今まで見に来ていいね!をたまにしていく人も離れていったようである。

ワクチンは危険だから反対!というのは安全でむしろ身体をよくするなら打つと言っているようなものだ、などと言われていい顔をする人がいるわけがない。
全員がそう考えているのかは分からないが、西洋医療の利権構造や危険性を指摘しつつそう訴えるのなら矛盾も甚だしい。その立場から言うのなら効こうが効くまいが無用、である。

添加物などの毒をなるべく排除した食べ物で身体の調子が良くなったことを健康だなどと宣うのは、二日酔いが治ってスッキリしたのを最大級の健康を手に入れたと騒いでいるのと変わらない、などと言われて喜ぶ御仁が居たらお会いしたいものである。

絶滅収容所に放り込まれたフランクルのような極限状況に身を置けとは言わないが、人には生きようとする力が備わっている。
あれがあるからないからというのは、その力を自分から眠らせているのである。
例えが特殊な具合になるが、物理学者の湯川秀樹は『老子』や『荘子』を愛読書としていたから画期的な発見が出来た、という風に語られることがあるが、湯川だから出来たのであって物理学者が皆それらを読んだからといって画期的な発見が出来るわけではない。

十年ほど前にも出くわしたこの手の話。「正しいものを食べれば正しくなる」と表現してきたが、このように拙の前で言い出したのはとある御仁であることは昔から書いてきたものである。
「バラモンは生まれによってではなく、その行いによってバラモンとみなされる」という風に仏典にあるが、正しい行いをすれば正しくなるとは言っていないことに注意してもらいたい。

ところで、世界規模の大金持ち(例:ロスなんたら)は前述の様な毒の少ない「正しいもの」を食べているそうだが、陰謀論界隈では大悪党として散々非難されているのはどういうことだろうか?世界支配が本当として、彼らのその仕事は「正しい」ということにならないのか?


複雑な幾何学模様は美しく見えるだろう。これを分解して一本の線に作り直すのは綺麗と言えるだろうか?
その模様が歪んだ場合、それを整えるのを綺麗にすると呼ぶべきである。

一口に「綺麗」と言っても様々である。ただただ短絡な思考に絡めとることだけを綺麗だと言い張るのなら、汚くて結構である。

では、よき終末を。


怨舞に奪己

2021-07-10 | 雑記
ここしばらく、毎度のように野口晴哉がいわくとやっていて大半の人は飽き飽きしていることだろうが、まだ続ける。

子供の頃から例えば味の素や、本来なくても良かったはずの食品添加物だとかが気になっていた。
影響の一つに漫画の『美味しんぼ』もあっただろう。小学校か中学校でそういった教育があったように思う。
そこでコーラで骨が溶けるとか、とある着色料は何かの虫からとっている、というのは見た覚えがある。

風邪に付いても、小林よしのりがコラム漫画『新ゴーマニズム宣言』で、自身の風邪の処置について、森鴎外の言葉を引用しつつ述べていたのを見、「風邪は寝て治すもの」と思ったものである。
つまりは風邪を引いたからと薬を飲んでいては、自身の免疫が落ちていくだけだと思い、以来、風邪を引いても市販薬は薬局などで売られている「葛根湯」と銘打った顆粒状の薬を飲んだことが何度かあったぐらいで、もう二十年近く飲んだ覚えはない。

医者にかかったのはこれも十数年ほど前に、腕と顔がアトピーのような症状になり腫れ上がったのを診てもらい、その時貰った薬を塗って治って以来、再発もなく、医者にかかった記憶もそれ以降ない。

医者にかかるかからないはともかくとして、なるべくそうしてきた。

顔と腕が腫れた時とどちらが先だったかは忘れたが、これまた十数年前のある日立ち寄った本屋で野口晴哉の『整体入門』と『風邪の効用』というものを見つける。

その時の本の帯に「身体への信頼感があがる」とかいう読者の声が書かれていたように覚えている。

専門書でもないのに整体入門と書かれているのがひどく気になったのと、帯にあった『風邪の効用』と一緒に読めば身体への理解がもっと深まる!という煽り文句も気になり、両方買って帰った。

風邪の症状や身体の状態によって効果的な対処が違ったりはするようだが、自分が思ったことは間違っていなかったのだなと、読んでやたら感動したものである。
風邪は身体の調整作用であって病気ではないというのも、他では聞いたことの無い話であった。

『整体入門』の最初の方に「氣」(現在売られている文庫では「気」)について話しているのだが、氣については野口晴哉のオリジナルではないだろうが、こう具体的に語るものも読んだことがなかった。

ただ、気功で人を治療するという意味合いではなく、氣を操作して自身の身体を健康にしていくというのが目的だという。そのための色々なコツが書かれていたり、ちょっとしたからかうような引き合いに出した話が笑えたりと、読み物としても面白かったりする。


思い出話を長々と書いたが、冒頭の最後にこのように語っていた。

ある作家の方が整体協会に入会したら、作家仲間から「お前も野蛮人の仲間入りか」と言われたそうですが、わたしたちが求めているのは文明生活の中で野蛮人の力を発揮できるようにしていくことです。

見て書いてるわけではないが、こういう風だった。

つまり、人が健康に生きていくというのは、身体の中で眠っている力を引き出してこそ、ということなのだと。

整体入門の終わりの方には、病状と依存の関連性について語っている。

ある子供が風邪を引いたというので野口晴哉の所に連れてこられる。
まるで手品みたいな話だが、野口はぐいっとやって風邪をあっという間に治してしまう。
そして親子は帰っていくのだが、また何日かするとまた風邪を引いたと連れてこられる。

どうやらその子供は、母親に構ってもらいたかったようで、風邪を引けば構ってもらえるからまた風邪を引く、という風になっていたという。

こんな感じで、病気になったからと人に世話をしてもらって当然だと思っている人を治すのは難しいという。
口では治りたいと言うが、本心ではそう思っていないというわけで、治るものも治らない。

現代でもメンタル・ブロックという言葉があるが、こういう風な心理が語られている。
わたしは不細工だからもてない、としよう。別にそうでもないのだが「不細工だから」という建前にしがみつき、もてないことを僻むのに、もてないこと自体をどうしようもせずに言い訳に終始するというものである。
言葉はそれぞれ違うが、人はこういう心理状態にはまっていたりする。
ちょくちょく自身の内の言葉に耳を傾けると、そういう動きがあるのに気付く人もいるだろう。
つまり、建前に依存しているのである。病気同様、否定したいはずなのにそれに安住してしまうと。

こういう話を聞いていたりしたものだが、結局理解が半端だったのか、後年「~が悪い」という話ばかりする人と付き合うことになってしまった。その件は昔からちょくちょく書いてきた。
ま、類は友を呼ぶという奴か。

そこで先ほどTwitterで「添加物を目の敵にしているが、それは食べ過ぎのせいではないか」という趣旨の一文を書き上げた。反応はない。

どうして添加物が使われるのかを考える必要がある。

それは国民の健康を損なうため・・・というのが陰謀論という奴だが、結局は周り周って国民の要望である。

いつでもどこでも安心して綺麗な色をした食べ物をたらふく食いたいというのがあるから、腐りにくくしたり色鮮やかにしたり、味も再現する。
昔は戦後の飢餓の時代を生きてきた人が多かった。その要望に応えざるを得なかったはず。
そしてその当初の理由は忘れて、食べ物がふんだんにある社会を維持するためになっていったわけだ。

しかし疑問に思う。国が認可を出した添加物を疑うなとは言わないが、国は添加物を入れたものを毎日食べなさい、とは言っていないはず。
三食食べるというのは大昔に根付いた習慣だというが、農民にしろ武士に江戸の町の商人や職人しろ、現代より動き回る事が多いので食わねばならなかったところが大きいなら、現代の実態にはそぐわない。食べるなという話でもないが。
栄養学を根拠に三食をというのが現代にも続いているが、三食食わないと罰せられるというわけでもない。

それを入れた方が推進した方が悪い、というのはいったいどういう了見なのかと疑問に思う。
政府や企業の思惑というものが全く無いわけでもないが。

Twitterで書いた意見を改めてここにも示しておく。

添加物は確かに物によっては毒だろうが、それなら栄養も毒となり得るものがある。日常の量では遥かに及ばないが、それでも大量に摂ればその分身体に負担がかかるといえる。
そんな風に身体を疲れさせてるところに添加物を解毒せよと来れば、さらに疲弊する。
そして栄養が摂れてないからとさらに食べる。
それなら普段から摂取している毒も節制しなさい。

と、このように書いた。その後しばらくしてからまた別の話を持ち出した。

腹が減って食べたいと思った時に、例えばコンビニ弁当を平らげる。
さして食べたいと思わないが、栄養が不足するからと例えば薬膳料理を無理に食べる。
どちらが健康的か?食事に付いては後者とはいえる。
現代は後者の方が多く、これは頭で物を食べている。
己の健康を発揮しようとしているのではなく、食べ物に健康にしてもらおうとしている。
人の身体はそんな小賢しさを悠々と超えていく力があるのだ。

と書いて最後にはちゃんとフォローもしている。

だからといって、毒だけ選んで食え、ということではない。


添加物の危険性を指摘するのはおかしなことではない。
それを避けるのもおかしなことではない。
そもそも毎日ふんだんに食えとは国も言っていないし、守られているのか本当に大丈夫なのかは分からないとしても、ある程度の基準を設けてはいる。

そういうものなのに、認めた国が悪い入れる企業が悪いという風に話を持っていくというのは、国やらが最初から最後まで自分を守ってくれることを前提にしている、依存の態度ではないのかと考える。

食べ物に健康にしてもらおうというのも、国に保護してもらおうというのも、行き過ぎればただの「おんぶにだっこ」である。「おんぶにだっこ」が日常となれば、もはや自分の脚で歩くことも叶わなくなる。

では、よき終末を。


叫び声が氣になる

2021-07-09 | 雑記
昨日、ちょっと遠出をして馴染みのカフェに行った。

少々飲み過ぎたが、久しぶりの顔なじみや店主とでわいわい喋って過ごしていた。

それはさておき。

これを書いている日の未明。はたと目が覚めると、叫び声のような物が聞こえている。

酔っぱらってPCを付けたままだったせいというわけでもなく、外から聞こえる。
カーテンを避けて見てみると、目の前の一軒家も不審に思ったのか、明かりを付けた。

しばし外の様子を伺ってみたが、収まる様子がない。もし人だったら警察を呼ぶべきかとも思い、捜索することにした。

家が密集しているという程ではないが、二車線の道路分くらいの土地を挟んで向かいにアパートもあり、部屋から見える一軒家も部屋から見ていうと、向かいのアパートの右にある。
そのアパートと一軒家の間から公園の一部が見える。よく近所の少年野球が週末に練習しているような、遊具のない公園である。

どうもそちらから聞こえているような?と感じ、耳を澄ましながら公園の方に向かった。

しかし、公園に付くどころか、すぐに声の方向が分からなくなった。向かいの道に行ってみたが違うと悟り、また公園の方に引き返すと、歩道わきの排水溝から声がする。

ここから声がするにしても、部屋まで真っすぐに聞こえてくるとは思いづらかったが、声は続く。

どうしようもないので引き返そうと思ったら、今度は窓から見た時に聞こえてきた方面から声がする。

恐る恐る近づくと、先ほど書いたアパートと一軒家の間は公園の敷地で、区切りの金網が貼られている。

金網のすぐ裏側に排水溝があった。声はそこから聞こえているようだ。

恐らく、何かの小動物が落っこちたのだろうとは思うが、悲痛な声が続く。

別の排水溝から声が響いた理由と、原因が特定出来たのはいいが、どうしようもない。
声は大きくなったり小さくなったりをしばらく繰り返していたが、少し小さくなったようだと思い、部屋に戻った。

気になったのでメモ帳(物理)に書き記す。一時間もしないうちに、声はかなり小さくなり、そして消えたのを確認して、横になった。

消えないようなら後で警察に連絡しようかと思ったが、その心配はいらないようである。
人が襲われているのではないのは幸いだったが、そこに落っこちたと思われる小動物には災難だったろう。


また冒頭の話に戻る。

たまたまワクチン接種の話になって、店主はこう語る。

「危なそうなのにどうして皆打ちたがるんでしょうね」と。

店主がワクチンのことについてどういった見解を持っているかまでは分からないが、こういう反応が普通だと言える。

こちらは別に学者でもないが、話のネタとして、今回とそれまでのワクチンの違いについて簡単に説明した。


既にご存知の方には釈迦に説法という奴だが、どちらにしても体内に抗体を作らせるという点では同じである。

血清と言う、蛇の毒などにやられた時の治療薬があるが、これはかつては馬に弱めた毒を注入し、死の間際まで抵抗させて抗体を作らせ、その血を抜き取って精製するというものだった。現在は合成である。
今までのワクチンは、丁度この馬のと同じ流れだった。死んでしまうような毒ではないが。

だから人によって抗体の出来が違うから安定しない、というのが医者の理屈である。

そこで騒ぎになっている今回のワクチン。

ウイルスの遺伝子の一部を取り、それを書き換えたものを入れている。
細かい理屈は忘れたが、それが特定の細胞に取り付き抗体を作らせ続ける仕組みだと、どこかで読んだ。
mRNAと言ってたか。mはメッセンジャーの頭文字である。
だから効果が段違いだ、ということだそうな。
これが遺伝子を書き換えてしまう恐れがあるので危ないという指摘もあるが、動物実験でも騒がれているような問題が出ていないだとかは聞く。
どちらが本当かまでは分からないが、結構な割合で死者や重篤な反応が出ていることは、メインのメディア以外とはいえ、よく目にする。直後に死亡したというニュースもメインメディアで出るくらいでもあるし、厚労省のHPにも死者数や副反応のデータが載せられているという。

mRNAワクチンの話で騒がれている、遺伝子が書き換えられてしまうから人間じゃなくされる、という風な話も出ているとは伝えたが、別に打てとも打つなともいう話ではなく、それから店主が「ワクチンを考え出した人はどうやって思いついたのかな」と素朴な疑問を返してきた。

昔読んだか子供の頃の解説漫画で読んだかの、天然痘対策が始まりだったようだ、と色々喋っていた。
天然痘という病気があるが、牛にも牛痘という同じ症状の物がある。発症した牛の体液だかを取ってナイフで肩や腕に傷つけて塗り込むというものだったとか。
定かではないが、どこかの部族が行っていた風習を、然る貴族が真似したとも聞く。

ワクチンはまじないみたいなものかもしれんな、などと笑い話にしておいた。

話は前後するが、抗体も身体の一部なら機能がまともな場合に有効になると思う、例えば身体が弱っている人に抗体だけ作らせたところで防げるとは思えない、という自説も付け加えておいた。


とはいえ、この辺りは一般的な理論に則った話ではある。


野口晴哉が「風邪はうつらない」と語っていた事を度々書いているが、ではどうして風邪やインフルエンザがうつっているのだ?と尋ねられる。コメントではなく、人と話した時のことだが。

風邪が流行る時期に風邪を引かないというのは身体の反応が鈍いので、そういう人は時季外れに引いて重くなったりする、という話も言っていたか。つまり、時期に合わせて身体がそう動くのが大半だからうつったように見えるといえる。
普段から滅多に風邪を引かない人が風邪を引くと症状が重くなる。もしくは後々大きな病気になってぽっくり逝くことが多いとも。コロナが重症になった人は、そういう人なのかもしれないと推測している。
重症患者が普段から風邪を引いてなかったかどうかを調べている医者は恐らくいないので調べようがないが。

風邪という観念が人にうつすという事も言える。野口晴哉のいう所の「氣」である。
よく、楽しそうな人の近くにいると、こちらも楽しくなるというのがある。
反対に辛そうな人の場合は、こちらも辛くなったりというのがある。
感情が伝播しているのである。
風邪を引いているという感情が他者に風邪を引き起こしているということも考えられる。


急に話を変えるが、去年の三月ごろに見た記事で、アメリカで三週間ほど夫とも顔をあわせない自主隔離生活を続けた女性がコロナに罹ったという話があった。
あの時期のコロナは肺が苦しくなって、という報告が多かった。今もあるのだろうが、それはともかく、自主隔離前に買い出しでドラッグストアの店員とのやり取り、後は夫とも離れているので、食事の宅配サービスなどを受け取った時に人と話したぐらいだったとか。

こんな話を聞くと、怖いと感じるだろう。そうすると、コロナの事で頭が一杯になり、テレビでも散々流すし、そういう記事も追いかける。人を見たらコロナだと思うようになる。

野口晴哉が言うには、「氣の動くように心が動く」と。後、読み返してみたら氣は心そのものではないとも。

氣は感情で操作することができるという。つまり、コロナが怖いという感情を持てば、氣は自然とコロナの恐ろしさばかり追いかけ、報告されている罹った場合の恐ろしさを見るあまりに、本当にそのような状態を作り上げてしまう。厚労省はマスクを年中しろとは言っていないらしいが、年中マスクしたりさせたり、ワクチンが出ましたと聞けば何を置いてもすぐに打ちにいったり、半ば強制的に打たせようという道理も理屈も無視する空氣の理由でもある。

3密回避はこの意味では対策と言えなくもない。近くよりは離れた方が他人の氣による影響は減るだろうから。
ただし、多くの人がテレビや大手新聞系列の情報を見ているという点で、無意味に近い。

テレビを捨てて似たり寄ったりの報道をする新聞やそれに沿ったネットのニュースを排除すれば、否が応でもなくなるとはいえる。捨てるのが無理なら報道が無くなればだが、一度乗った勢いは行き着くところまで行かないと止まらないだろう。

ただ、もう一つ懸念はある。

コロナは嘘だとか、ワクチンは危険だ、というのは結局コロナ騒動から離れてはいない。
これらはネットを介した媒体で盛んである。
現状、この騒動をまったく無視するのも無理なので、致し方ないところではある。
それらの主張の正否は関係ない。

前述した話からしたら、感染症すべてが嘘だともいえるようなわけで、ことさらにコロナだけが嘘っぱちと言う意味もない。

と分かればそもそもワクチンなんぞ必要なく、危険か安全か、効果の有無なども無意味となる。
だが、現代の多くの人にこのような観点を伝えても理解されないだろうとは思う。
胡散臭い話という奴だからだ。

マスクしてワクチン打って隔離していればコロナはなくなると思っている人は、そういう氣の下で動いている。
正反対の氣をぶつけても反発を起こすだけで、頭で言葉を理解しても心に響かないので本当には理解しない。
氣が合わないというが、そういう人とは話が噛み合わないだろう。現状は正にそうだと言える。皆が皆そうだとは思わないが、確実に凝り固まっている人はいる。

文字通り氣付かない限りは、話を聞かせても無駄である。
自身の感情が如何なる理由で動いているのかを本人が自覚しない限りは。
別に「氣」を知りなさい、という意味ではない。

こう言うと反発されるとは思うが、コロナは嘘だとかワクチンは陰謀で危険だとかというのは、却ってこの騒動を補強するのではないかと考えている。
陰謀と言われるような物はないという訳ではない。

メインメディアでも陰謀論がどうとか言い出すほどで、それを切っ掛けにして中途半端に知り得た人が怒りの余りに騒ぎ出し、そして事態は悪化すると言えなくもない。
今まで書いたことを踏まえてまた言うならば、結局コロナとワクチンで頭が一杯であり、立場が違うだけの現代で大多数の人がそうであると推測される状況と変わらない。コロナとワクチンという概念を補強している。

Twitterで余りコロナが如何に嘘かだとかワクチンが危険だという風な話を直接的に持ち出さないのは、こういう理由である。寧ろ当初は正反対の事を言ってもいた。その時は少し迷ってもいたし、ここまで確信してなかったからだ。とはいえ、人気はないので影響力はほぼない。ボ〇ムズ次回予告パロディは空振りである。

現代医療が正しいか正しくないか、ワクチンは良いか悪いかといった二項対立は、結局現代医療を前提にして考えられている。
拙が上記に示したような観点で病氣を見る人は多くはいない。
風邪になったらすぐ医者に行ったり、薬を飲むとかいう人が件のワクチンについて騒いでいたとしたら、ワクチンに問題がなく効果があれば打つつもりだと言っているようなもの。

己の身体は己がどうにかするのが基本である、ということを忘れてはいけない。
現代はどこまでも行っても「どの医者に頼ろうか」という具合なのである。

では、よき終末を。


ドし難い話

2021-07-05 | 雑記
フランスの作家だったか、オノレ・ド・バルザックという人がいる。
いきなり話が逸れるが、同じくフランスはスタンダールの小説『赤と黒』の主人公の名をジュリアン・ソレルというのだが、途中で貴族に成り上がって、ジュリアン・ド・ソレルと名乗るようになる。
貴族になったらド、が付くから、王や皇帝になったら超ド級か、などという分かりにくい冗談は措くとして、バルザックのド、は貴族でもないのに勝手に名乗っていたという。おのれバルザック!

そのバルザックの著作に『役人の生理学』というものがある。生理学、と銘打たれているが学術的なものではなく、風刺である。生理学という言葉が流行った時期があったそうで、なんとかの生理学、と題された学術書ではないものが多く出版されていたという。
『役人の生理学』もその流行に乗ったものの一つで、バルザックの目でもって役人の生活振りを風刺したものである。

そこで拙もそんな話を書こうか、などと思ったが、そんなに体系立ててまとめる力量はない。
というわけで、昔話の絵本のような語り口で書こうかと思った。
当初はTwitterでやろうと考えていたが、TLとやらを汚しまくっても仕方あるまいと、思い直した。

お話の題目は『陰謀論者の生理学』と、冒頭で触れた話から付けようと思ったが、単純に『インボーロンジャのオジサン』で行こうと思う。ではでは、行き当たりばったりで書いていくが、ご覧あれ。

インボーロンジャのオジサン


むかーしむかし。あるところに。インボーロンジャのオジサンが住んでおりました。長いのでこれからはオジサンにします。
オジサンが若い頃大学で書いた卒業論文は、キョウサンシュギだかキョウサントーが世界を牛耳っているというものだったそうな。
その論文で出した図解を見せながら「キョウサントーをイルミナティに入れ替えれば、ゲンダイにも通じる」とかなんとかと、語っておったとか。

そんなオジサンは、商社勤め時代の食事の影響で、ブーチョッチョとなり果ててしまいます。
これではいけない、と一念発起してダイエットに励みます。調べていくうちに、これは魔女の呪い、ではなく食べ物も既にインボーまみれなのだと思い至ったそうな。

それからオジサンはベジタリアンだとかヴィーガンだとかを試していきました。
如何に肉を食べることが酷いことであるかという事も知り、その事に気付かない普通の人々を蛇蝎の如く嫌うようにもなりました。
努力の甲斐あって、見事ブーチョッチョからちょいブーチョッチョかもう少しぐらい痩せて、自慢しておったそうな。

オジサンの頭の中では、こんな閃きがあったのです。
「人は正しいものを食べなければならない」と。
そして「正しいものを食べれば人は正しくなる」とも感じたようです。

普通の人々は正しいことに気付いていないので、HPで周知したり、見込みのありそうな人を会員制掲示板に引き込んでは「気付かない愚かな民衆は滅んで当然だ」などと当たり散らしておりました。

そんなある日。その「正しさ」に沿った理論と実践に出会います。
それはアメリカのスポーツドクターが提唱した、果物と葉野菜を主食とする、フルータリアンダイエットというものでした。
感動の余りオジサンは叫びました。叫んだかどうかはわかりませんが。
「わたしはフルータリアンになるために生きてきたのかもしれない」とかなんとか。

それからなんやかんやで農地を手に入れ、一番の理解者である奥方と共に自給自足のフルータリアン生活を始めるとのことで、HPや掲示板も閉鎖しました。

月日は流れ。人の考えというのは良くも悪くも変わるものです。

オジサンが「このために生きてきた」と叫んだこと自体は変わってはなかったのですが、ただ一つ、大きく変わった点が増えておりました。
なんと、放牧で育った牛を食べているのです。
かつて「動物の死体を食う奴は死んでしまえ」とすら言っていたのはどこ吹く風。

さっき出てきたスポーツドクターはこう言っていたそうな。
「肉が美味いと感じるのは習慣に過ぎない」と。
肉を食うようになってオジサンは言いました。
「肉を食べるのは身体が喜ぶから」とか。

オジサンは別に棄教したわけでも転向したわけでもないのです。

ただ、人より正しいと思うことを実践しているから正しいと思う人なだけだったのです。

お釈迦様はこうおっしゃられました。
「バラモンと呼ばれるというのは、バラモンの家に生まれたからとかではなく、行いによるのです」と。

オジサンはこれからも正しい物を食べて、正しく生きていくのでした。

めでたしめでたし。



うむ。Twitterじゃ収まらないな。

では解説へ。というほどの事ではないが。

詳しくは昔にも書いたが、「人は正しい食べ物を食べなくてはならない」や恐らくそこから導き出されるだろう「正しいものを食べれば正しくなれる」という理屈について。

後者はありきたりなものである。「これを拝めば幸せになれますよ」と変わらない。

少し遡って考えてみよう。

「正しい」ことに気付くまでは、「正しいもの」を食べていない、「正しくない」心身であったと。そこから「正しくないものを食べてるから大衆は気付かないし滅んで当然」となる。

では。どうしてその「正しい」ことを「正しくない」はずの人間が気付くのだ?となる。
オノレ、ではなく己は気付けて大多数は気付かないのは何なのだと。洗脳されているから?だったらかつてのあなたは?となる。

以上から導き出した答えはこうなる。散々書いてきたが。

「如何に己が他人より優れているかを示すための正しさを求めているだけの選民思想」だと。

とはいえ。人のことは言えない。身に覚えありという奴ではある。


個別具体的なものごとに関して言えば正不正はあるだろうが、問答無用でこれが正しいとは一概に言えない。上記の「オジサン」の如くである。
インボーロンジャのオジサンが~♪

それこそ真理だとかと言われるようなもの以外は常にこのようになるだろう。

力強く生きようと、またはそう生きた人類の後塵を拝すだけでは正しいとは言えない。
それこそ「これを拝めば幸せになれますよ」と言っているのと変わらないからだ。

思うに、人は己の生命を存分に働かせることが正しいのであって、理屈を捏ね上げて作った正しさというのは小賢しさにすぎず、風の前の塵と同じである。

それが過去の人類の足跡と軌を一にするか、それとも現代社会を破壊したりもしくは発展させるようなことになっていくのか。そこは未知数である。


では、よき終末を。


目にも止まらぬ訓練

2021-06-18 | 雑記
先日書いた、「筋トレ不幸論」なる記事が面白かったと、Twitterで知り合った人に感想を頂いた。
それで気分を良くしたので調子に乗って何か書こうという。単純な奴である!

しかし、ふとした事で気になったりすると、それに纏わる話が舞い込んで来たり、思い出したり、はたまた身に覚えがあったなどととなったりする。不思議なものである。


感想を頂けた方とは別の方とのやり取りの件で、そういえば・・・と思う話を少々書いておく。

詳しくはTwitterの記事を!と言うのはここしか見ていない人には困るので、簡単に話をする。

タバコのニコチンというものは、体内の神経並びに筋肉に受容体があり、これに取り付くことによってエネルギーとして利用されるという。
これが不足する場合は、ATPというのが余分に生産されるという。アデノシン三リン酸の略称のようである。
こうなると、筋肉と運動野が強固な共鳴を維持することになる、という。

この話からすると、これが昔読んだ、喫煙者のアスリートの成績が良かったという比較実験の報告の原因なんだろうと。躁うつ病や花粉症が治るのは、神経だけでなく筋肉にも影響があるからかなんだろうと。身体のこわばりが和らぐのかなと。
そんなことを書いたら、返信があった。こういう内容である。
「自分は余り動かない日もあるが、その場合は物を書いたり深く考えて脳を鍛える。脳を鍛えていけば筋肉を増やすことも可能だ」と。

その話を受けて即座に思い出したことがあり、こちらも返信した。


とあるセミナーを開いていた氣功士の方が語っていたが、身体と脳は連動している。頭を良く使う、例えば教授だとかは特に鍛えていないのに結構丈夫だったりするものだと。

それで脳力開発のために、普段脳の内で働いていない部分を活性化させる氣功の訓練へと話は続いているのだが、その内容はネット上から消えているので、参照することが今は出来ない。

とはいえ、理屈は簡単で、両手のひらでボールを持つような具合にして意識を集中するという、氣功の初歩訓練だったように覚えている。それを毎日やっていくと、脳の内で神経回路が繋がり、さらに強化されていくと語っていた。
日常では繋がり得ないものが繋がって、幅が広くなるのだと言える。

この話と思考で筋肉が増えることに何か関連があるのか?と思われるだろう。

件の氣功士の方が引き合いに出したのは、日常レベルの延長上の賢さの大学教授である。

とすると、日常では中々使わない脳の部分を開発していくとどうなるか?常人離れとまでは行かなくとも、余り動かなくても鍛えられるという具合になってもおかしくはない。

拙自身も、前腕部は、ビルダーみたいにはならないが、鍛えてもないのに意外と筋肉があるなどと評されたことがある。
その時は、マウスとキーボード操作で文字チャットしながらゲームしてるから、そのせいで鍛えられたのだ、などと冗談を返したものである。

関連した話で有名人を引き合いに出すと、ブルース・リーがいる。

リーは映画の中でとても素早い攻撃を繰り出して相手を倒すのがカッコいいのだが、リーが普通にアクションを取ると速すぎてまともに映らないので、リーに速度を落としてもらって撮影していたという。

また、相手の手のひらにあるコインを手が閉じるまでの一瞬で相手が気付かないうちに奪い取るといった、とんでもない早業が出来たとかいう。この「コインマジック」はよく人に見せびらかしていたそうな。
また逆に、相手が気が付かないうちにその手のひらに戻すだとか、目を疑いたくなるような具合である。

何故このような身体を持つに至ったのかというのを、この話を紹介していた動画が語るには、「脳を極限まで鍛えた」というようなことを述べていた。
実際に、リーは脳浮腫で亡くなっているので、脳の使い過ぎのせいというのも、あり得そうではある。


この世は思考した通りになるという。意識したことが起るのだと。

筋トレで筋肉が付くのは、筋肉を鍛えようと脳を働かせて付いたからであって、筋トレが原因ではないのかもしれない。

とあるスポーツドクターの話だが、筋肉が膨張するのは、リラックスしている状態だと述べていた。
勿論、トレーニングを行った上での休息という話だが、ここでもう一つ面白い話がある。
脳が一番働いている状態は、実はぼんやりしている時なのだとか。
あれやこれやと思考を巡らせて整理をつけたりしているという説がある。
ぼんやりしてくるのには何かがあったからと言えるので、上記のスポーツドクターの話となんだか似てくる。

思考というものは目には見えないが、見えないものが見えるものを作り上げるというのは、度々ここで書いてきたことではあるが、改めて目にすることになったわけである。いや、見えないか。


では、よき終末を。


引き寄せの黒っぽい鳥

2021-06-16 | 雑記
昨日の夕方、コンビニへタバコの補充に向かった。

ここでたまに話に出る、近所の池のある公園を通った時の事である。

その公園の前辺りで、電線の上でカラスが鳴いているのを見た、かどうかは忘れてしまったが、池の淵に降りていく階段の横を通りかかった時、カラスが舞い降りて階段の手すり辺りにとまった。

その時ふと思い出した。そういえば、たまに池の淵に降りて日光浴がてら読書をしていると、先ほどのカラス同様、手すり辺りをうろついていたのを。

同じカラスなのかは流石に分からないが、何となく氣になったので「元氣そうだなぁ」と低く声をかけておいた。


2ちゃんねるなどの面白い話をまとめたサイトで昔見たものに、カラスに纏わる話があった。

要約すると、いつも見かけるカラスに挨拶していたら、ある日不良に絡まれた時に助けられた、といった具合のものである。
カラスに限った話ではないのだろうが、その脳の容量では考えられないほどの知能がある、という報告もあるという。

その話を読んだせいかは忘れたが、なんでも、カラスの色は真っ黒ではなく、少し青みがかっているというので、いくつか見て回ったこともあった。それとも、日本語訳でどれもカラスになるが、英語では種類を区別していて、それがどう違うかを調べた時だったか。
種類にもよるのかもしれないが、氣になる方はお調べのほどを。


さて。最近、新型コロナのワクチン接種で色々大変なことになっていると騒ぎになっているのだとか。
滅多なことは言えないが、打った後ほどなくして死亡したというのはニュースにもなっているようである。

打った人から妙な化学薬品の匂いがするという話も目にしたが、これはワクチンに限らずある。
影響があるのかないのかまでは分からないが、体調の悪い人が独特の体臭を放つことはよくある。
ましてや現代人。何かの処方薬を飲んで症状を緩和させるというのが大多数であろう。
拙の周りにも、毎日薬品のような匂いを漂わせてる人がいた。身体も大きいが故に目立つのだろう、喘息もちだったり花粉症もあるしで、色々服薬しているせいかと思われる。
体内で普段行われていない化学反応が起きている証拠なのだと言える。
つまり、この点のみで危険だと断定するには判断材料に欠けると思われる。

ただし。体内で普段行われていなかった化学反応という点に注意してもらいたい。その前の体調の悪い人の体臭という点もである。

少なくともそのような状態は平常の身体とは言えない。要するに体調がおかしくなっている。

詳しくは調べていないが、ワクチン接種をした地域で何故か感染が増えた、という報告が出ていたことがある。
真偽のほどはともかくとして、今回のワクチンは遺伝子組み換えだと騒がれるような具合で、ウイルスそのものは入っていないという。ウイルスの遺伝子の一部にある、細胞への取りつき方を司るものを利用したという。
専門的な話は他に譲るとして、それで体内で抗体を作り続けるシステムを構築させるものだとか。

これが危険だ危険ではないと騒がれているのだが、危険でなく効果があるものとして、それと何故接種後に感染が増えたのか、というのも本当の事と仮定して話を続ける。


現代の感染症の定説というのは、パスツールが提唱した「病菌原因説」が根底にあるというのは知る人ぞ知るというところだろうか。

この論を大雑把に言えば、「殺菌すれば病氣にならない」となる。
コロナ以前から殺菌消毒の製品が売られまくっているのがその証左と言えよう。

しかし。ご存じだろうか。食中毒が起りやすい飲食店というのはどういうところか?
汚らしい店だと思われるだろうが、殺菌消毒を徹底している店で発生することが多いという。
その逆の店で起きていたとしても、不真面目なので報告していないだけでは?と言えなくもないが、それなら徹底すれば起きないはず。だが起きている。

これは有名な話かもしれないが、メチシリンという抗生物質がある。
黄色ブドウ球菌という病原菌を殺菌できるというので、その感染症状が現れた際によく使われていた。
だがある時。明らかに黄色ブドウ球菌の猩々、ではなく症状なのにメチシリンが効かないという症例が出始めた。
調べると、黄色ブドウ球菌はメチシリンに耐性を持って逆襲してきたのだという。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、英語の頭文字でMRSAとかそんな名前である。逆襲の黄色ブドウ球菌!

孔子のある二人の弟子が論争していた。片方は知識がとてもある。片方は知識がとても少ない。知識が多い方がいい少ない方がいいといった具合の論争をしていたそうな。
そして「先生!どちらが正しいでしょうか!?」と判断を仰いだ。
孔子はこう言われたという。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と。

黄色ブドウ球菌に耐性が付いたのは、使い過ぎたからという指摘がなされていたものである。
ちょっと風邪引いたと言っては医者に行くと薬を貰うものだが、それで抗生物質をちょくちょく配っていたというわけである。
だが、これを医者の責任だけに還元することは出来ない。

「風邪ですね。家で寝てください」と言う医者と「では、念のため、お薬出しておきましょう」と言う医者では、後者のほうを信頼してしまう心理があるからである。

話を戻すとして、ワクチンで抗体が出来たであろう人々がまた感染する。

抗体が出来ているなら、かなりの確率で防ぐはずだが、そうはならなかった。もっとも、ワクチンは病気にかからないようにするためだという触れ込みはいつしか軽症にするものだとか、話が二転三転している。インフルエンザなんかはいつの間にかそうなっていた。

これはつまり。体内で出来た抗体というものも身体の一部なわけなら、体調が悪いとまともに働かない。
以前からのワクチンでも打つと体調を崩すという人は少なからずいた。そんな状態では罹るのもおかしくない。
何せ体臭を放つほどの尋常ではない化学反応を体内で起こしているのだから、予想以上に身体は疲れているだろう。
抗体はその病気を防ぐ能力はあるだろうが、その能力を働かせる人体については無視しているのである。
これが西洋医学の伝統とでもいうべきものの見方であることは、ご存知の方もおられるだろう。


この件も何度か触れてきたが、パスツールの同僚で、その説に反対をしていた人物がいた。

彼の主張は、健康を保って免疫を付けろというものである。名前をいつも忘れる癖に調べていない!

二人の論争はパスツールの死の間際まで続き、病床にあったパスツールは最後に説を撤回したと伝わっている。


人のことは言えないのだが、これらの事は人の心理における問題点を示している。

パスツールの理論はつまり、「他のせいにする」である。
彼の同僚の理論はその逆で、「己のせいにする」である。
これは文字数を揃えただけで、深い意味はない。

どちらが楽か?それはもちろん「他のせいにする」である。
医療業界に限って悪く言うなら「己のせいにする」と儲からない。


よく口をついて出る非難の言葉というものがある。

「こんなことをして、死んでしまったらどうしてくれるのだ」などと。

死ぬだと極端だが、怪我したらどうしてくれる、とかいうぐらいでよかろうか。

怪我をしたら治るまで療養するしかないだろう。だが、これは「他のせいにする」が常態化しているが故に飛び出す言葉である。
これを「被害者意識」という。その逆は「当事者意識」とでも言うのかな。


この被害者意識というものは、恐怖心に彩られている。恐らくは、恐怖心が被害者意識を作り出すのだと思われるが、細かい話は措く。

つまりは、何かにつけて原因を外に求めるのが人間の悪い癖なのだと言える。

いつもの道を歩いていたら、暴走した車が突っ込んできた。巻き込まれて怪我をした。その運転手が悪い。

確かにそうではある。だが、果たしてそれだけで片付けられることだろうか?

いつものように怪しげな話に持っていく。

あなたはいつものように起きて準備し、いつもの道をいつもの時間に歩く。

しかし、風邪を引いたわけでもないのに、何か変な氣がする。氣分が悪いというわけでもない。胸騒ぎという奴か?
などと感じたかもしれないが、些少の違和感は夕べの食べ過ぎや飲み過ぎやちょっとした夜更かし等のせいだろうと無視する。
そしてその日その時。上記のような事故に遭う。
そのほんの少しの違和感に耳を傾け、それで数分でも遅れて歩いていたとしたら、事故に遭わなかった可能性もある。
つまりは「己のせい」で事故に遭ったと言えなくもないのである。
これを客観的に証明するのは無理だが、そういう経験をした人もいるだろう。

とはいえ。怪我をしたから嫌な目に遭った、だけとも言えないということも述べておく。

遠方の恋愛成就の神社に参拝した人がいた。そしてその神社から出たら交通事故に遭ったという。旅先で入院することになって、途方に暮れていたが、なんとその世話をしてくれた看護師と結婚することになったという。
まあ、余談である。


話があちこちに飛んでいるが、MRSAの件で思いついたことを書いて終わる。

所謂新型コロナの症状は今まで見たことが無いものだ!肺がおかしくなっている!という報告がある。
肺の細胞が繊維状に変質してしまうとかいう話をどこかで見かけたものである。人工呼吸器が原因だとかなんとか、いろいろ騒がれていた。

MRSAが発生するような西洋医学の流れが今も続いているのなら、新型コロナはどこかの研究所から漏れたものではなく「他のせい」にしてきたツケなのではなかろうか、などと考える。逆襲のコロナかもしれないと。

昨日カラスが近くに舞い降りたと書き始めて、気が付けばこんな話になっていた。
これはきっと「カラスのせい」だろうとしておく。


では、よき終末を。


筋トレ不幸論

2021-06-08 | 雑記
この前の日曜、馴染みの店に久々に立ち寄って、昼飯を食べていた。

そうすると、こんなことを言われた。

「前より顔色が良くなった」と。

実は二日連続で来店しており、その日は前日にはいなかった店員さんもいて、その人が言う。

店主までそうだなぁと言い出し、挙句の果てには小学生のその息子までが言う。

ちっとも健康的な生活をしてないのだがなぁと思い、そう答えたが、後は以前は夜勤だったからだろうと付け加えると、それもあったんだろうとのこと。

何が健康にいいのか。悩ましいところである。


さて。面識はないが、とある人物が「不眠症は死ぬほどつらい」と言っていた。

筋トレしていて身体もかなりムキムキのようである。といってもネットで見たというだけの人なので、本当にそんな身体なのかはわからない。身体を動かしているのに不眠症で悩むというのは不思議だが、そう言っていた。

昨今、筋トレがブームらしく、その関連事業も広まっている。トレーニング・ジムが増えたり、プロテインがよく売られているのは周知の通りかと思われる。

ある程度の運動をすると幸福感が増すという報告もあるという。弟がそんな話をしていた。
そんな弟も毎日筋トレをしている。拙なんぞと比べたら圧倒的に引き締まった身体をしている。
幸福度が増すのかは知らんが、男の喘ぎ声の如きを聞かされるこちらは不幸になりそうである。

さて、そんな悪口は措くとして。
ではきっと幸福そうなんだろう、と思われるが、ストレスの方が多いので、いつも疲れた感じである。
そして疲労がピークなのか、調子を崩して先週末から寝込んでいる。医者に行ったら胃腸炎だとのこと。

あらかじめ断っておくが、筋トレをするな!とも、しろ!とも思わない。ただ、西洋的な唯物主義的考察で成り立っている機械的な筋トレをするというのは、脳を機械的に動かしているにすぎず、徒に繰り返せば、ただただ「硬い身体」にしかならないだろうとは思う。

プロレスラーのアントニオ猪木の修業時代は、山奥で岩石を持ち上げるといったことを行っていたと聞くが、こういうものの方が柔軟性の高い頑強な身体を作り上げるだろう。しかし、現代人にそれをやれるかというと厳しい。
拙も岩石を持ち上げに行きたいとは思わぬ。

筋トレの効用、みたいな説明を見たか読んだかしたことがあるが、利点の一つとして、結果が分かり易いというのがある。やればやるだけ効果が見えてくるからである。腕が太くなるとか、腹筋が割れてくるだとか、目に見える。
それで徒に繰り返しやすくなると。有体に言えば、依存症である。
機械的に繰り返す筋トレを行って結果が見えてくると、病みつきになってさらに機械的に繰り返すだろう。

広告媒体が散々取り上げるというのは、流行らせるのが目的であって流行った結果ではない、という点を感じているなら、こう疑うのもそれほどおかしくはないだろう。
何も筋トレだけに限った話ではないが、名詞を変えれば他の事も同じである。

さて。不眠症の話で思い出したことを一つ。

またもや野口晴哉の逸話を。

とある不眠症で悩んでいる青年がいた。もう死んでやる!とまで追い詰められていたそうだが、野口はその青年をとっ捕まえて将棋を指す。わざと下手くそに指し、何度ももう一戦!と繰り返し、三日徹夜したという。
さすがに疲れ切ったわけで、件の青年はその夜はぐっすり眠れ、以後は不眠症で悩むこともなくなったという。


この話はいくつか解釈があるだろうが、拙が思ったことを続ける。

まず、青年個人については、不眠症で眠れないから辛い、という観念に憑りつかれている。死ぬほど眠れないからこの辛さから解放されるためには死んでやる!とこうなっていたわけだ。そして死ぬほど眠れない状況を続けさせたら、死ぬほどよく眠れたと。
つまりは思い込みだとなる。思い込みを侮ってはいけない。「想像妊娠」というものを聞いたことがあるだろう。
あれはただの狂言ではなく(そういうのもあるが)、実際に女性の体内では妊娠した時と同じような体勢を取ることがあるという。

なら、不眠症は眠くなるまで放っておけばいいと言えなくもない。試したら死んでしまったとか言われても困るが。

眠れないから辛い、というのは実際にあるが、これは「条件付け」というもので、依存的傾向を強める。

以前からよく書いたものだが、例えば「これを拝めば幸せになる」という、胡散臭い宗教だとかの謳い文句があるだろう。

転じるとつまり「これを拝まなければ不幸になる」と言っているのである、と散々書いてきたものである。

死ぬほど辛いが、辛いだけでは人は死なないので、死ぬまで生きるだけである。本当に死ぬほど辛い環境なら、既に自殺するだとか過労死だとか他の死に至る病に侵されるだろうし、よく眠れている人も次の日にコロッと亡くなったりする。

話を戻すが、将棋を指している間は、眠れないだとか余計なことを考えることがなくなり、自身がしがみついていた観念を捨てさせることが出来たというわけである。

表面上はふざけたやり方だが、三日も親身に付き合ったというのは、青年もありがたかったことだろうと思われる。

とはいえ、世の中そんな有難い人だらけでもない。

個人で個人の問題を解決するというのなら、自身で自身を親身になって付き合うということになる。なんだか意味の分からない言い方だが。

不眠症というものが必ずしも思い込みだけで成り立っているとは言えないかもしれないが、こう考えてみてはいかがだろうか。
※実際に脳機能の異常で眠らない人というのはいたという。不眠症とは違うだろうが。

「辛いとどうなるのか?」と。

本当に辛かったら動けなくなるので、それでもうよかろう。ぐっすり眠れる。
こういうと怒られるだろうが、死んでしまったらそれはそれで死ぬほど辛いと思っていた通りになったと。

辛い、というのもこれまた次の条件付けに繋がっていくというのもある。

辛いから調子が出ない。出ないから仕事をミスする。ミスをして怒られてさらに辛い、といった具合になっていく。

これがまた最初に問題として条件づけられた不眠症に戻っていく。辛いのは不眠症のせいだと。

作家のひろさちやのある著作に書かれていたと思うが、まるでガンを治すために生きているかのような人の話があった。もしかしたらそういう状態になっていく、のかもしれない。

辛いけど頑張ろう、と考えるのも逆張りという奴になるだろう。前提条件の「辛い」から抜けていないからである。



やり玉にあげる形になってしまった例の人物は、所謂陰謀論者という具合の人物であった。

陰謀というものがこの世に存在しないとは思わないが、「常識」も陰謀論も「条件付け」が上手く利用されているので、深入りしないのがよろしいとは思う。前回書いた、昭和天皇の発言の趣旨の曲解などは「天皇は悪党に決まっている」という前提からなされているわけで、発言の前後の文脈を読み取る気がなく、これはそもそも貶めるための悪意か、前提による思い込みでしかない。仮に昭和天皇が悪党であったとしても、それはまともな感覚から逸脱している。マスメディアがよくやっているという、発言の切り貼りと同じになっている。

もし、拙の指摘したような硬直化した思考が故に不眠症(陰謀論もか?)だというのなら、機械的に筋繊維を肥大化させることは決して人を豊かにしないのだろう。

身体を鍛える必要はあるが、筋線維を肥大化させることは手段であって身体を鍛えるという目的に置き換わるものではない。

何が健康にいいのか。実に悩ましい所である。


では、よき終末を。


キャラメル箱の中の標本

2021-06-02 | 雑記
ついさっき書いたのにまた書くとかいう暇人ぶり。自慢にならぬ!

それはさておき。先ほどの記事で「今まで書いてきたことが本当なのかわからない」と述べた。

先月にTwitterを始める前から、新型コロナの話を色々見て回ってきたが、まあ、多く見てきたのは「新型コロナは嘘だ」とかそっちの方面ではあった。

じゃあどういう立場なのか?というと、どっちも本当かもね、とはぐらかすことにする。

お互いがお互いをデマ呼ばわりしているような見苦しいのもあれば、証拠立てて話しているのにまったく取り合わないというようなのもある。ま、このことに限った話ではないが、怪しげな証拠で騒いでいるなと思えるのは、所謂陰謀論の立場の方かなとは思う。

何故こういう風に語るのかというと、既存の科学や常識が一片の疑いもないようなものの場合、「新型コロナは危険」というのは間違いがなくなる。もちろん、その逆では「新型コロナは嘘」となる。しばらく前に紹介した風刺漫画の如くである。

スピ系と呼ばれる方面では、現代世界は「二極化」が進んでおり、光と闇がどうこうと騒いでいる。今は光が闇を駆逐しているのだ!とやっている。
その動きが本当かは判断しかねるが、言ってしまえばテレビドラマの水戸黄門だとか暴れん坊将軍の悪役が斬られるシーンに差し掛かっているというわけだ。

ぱっと思いついた例えではあったが、丁度良い。

オカルトの言だが、「闇は光の量の違いでしかない」という。

光と闇という区分なんぞ、そもそもなかったというわけである。闇の正体は光だったと。

ドラマで斬られる役の俳優と斬る側の主人公の役者は、撮影や舞台以外でまでそうなるか?そうはならない。
人気が出すぎて、悪役が板についた俳優の子供がそれでいじめられた、などという話はあるが。

つまり、ただの配役に過ぎないのだが、真に迫っていたりすると、視聴者が真に受けてしまったりするわけだ。

コロナが嘘だというのも、危険だというのも、どちらもいわばテレビドラマの脚本通りなのだろうと。

実際に死んでいる人がいるのにけしからん!とお叱りを受けるところだが、内実はともかく、死んでいる人は実際にいる。

それも含めて、我々は脚本通りに動いているだけなのかもしれないなと考えるわけである。言葉遣いは違うが、こういう話は受け売りみたいなものである。


さて。話は代わるが、所謂陰謀論で、「天皇は酷い奴だ!」という言説がある。

二次大戦終了時に、時の昭和天皇がGHQのマッカーサー元帥と対談した際に、その時に語った内容がアメリカの機密文書の期限切れで公開され、それが出版された、のかは忘れたが、その時に話していたという内容がある。

曰く「日本人は頭が空っぽだ」と。よく陰謀論者の間で広まっていた。

酷い!と思われるが、実際はこうである。

曰く「日本人は主体性に欠けるところがあり、上からの命令に従いがちで、民主主義的風土が育ちにくい云々」

と、こういう感じの冷静な分析を、日米との比較を交えつつマッカーサー元帥に伝えていた。細かいところは忘れたが、アメリカに見習いたいところだという風に続けて語っていたように覚えている。

思い切り歪曲すれば、「頭が空っぽ」と言えなくもない。~に欠けると言われれば、その分の頭の中身が足りていないと言えなくもないからである。

それを所謂陰謀論者というのが上記の如く誇張して広めていた、というのがあった。
まあ、人のことは言えないが、この件については、見たすぐ後に知って訂正をした覚えがある。

あとは昭和天皇は当時英国から陸軍大佐だかの称号貰ってるからグルだ!というのがあった。ガーター勲章もだったか。
ガーター勲章については、明治天皇も大正天皇も拝領している。この大佐だかの称号は、儀礼的なもので、昭和天皇だけの特別ではない。第二次世界大戦開始時には、ガーター勲章もだったか、英国王室に一時返還している。

だからといって、グルでない証拠にはならない!というのが陰謀論だが、仮にグルだったからといって悪いかどうかはまた別である。納得できない部分があるだろうが。


「あ、そう」というのが昭和天皇の口癖だが、こうだけ書くと素っ気なく聞こえる。

気になっていたので後年、その口癖が写っている映像を見てみると、「あぁ、そう」という具合だった。
その映像は、戦争で親を亡くした子供がしゃべっているのに相槌を打って「あぁ、そう。あぁ、そう」とやっていたものである。

この世に完全な善も悪もない!とは言わんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しというし、大賢は大愚の如しともいう。

拙は昭和天皇のエピソードで一つ好きな話がある。実家の和歌山が生んだ大学者、南方熊楠との話である。

ある時、南方熊楠が天皇陛下に研究標本を差し上げて、講義するというのがあった。後で調べたら、ご進講とご新献という。
昭和天皇は和歌山は田辺の沖に浮かぶ、神島(かしま)に行幸された。
なんと、その時南方は標本を大きなキャラメルの箱に入れたのを献上したそうな。

その後は南方の講義となるのだが、昭和天皇は予定の時間を過ぎても聞いていたそうな。

昭和天皇は生物学者でもあり、それでこの話になったというが、南方が感激するのは当然として、実は憧れの学者に会えたと昭和天皇も感激していたのかもしれないな、などと思う。

と、話が長くなってしまった。

なんにせよ権力者と言われるような立場の人物は何かと言われる。
実際にそういう点があるのかもしれないし、本当に悪人と呼ばれるようなことをしていたのかもしれない。

だが、憧れの学者に会ってプレゼント貰って予定の時間を越えても講義を聞いてたとかいうのなら、大悪党と断罪するのもバカバカしくなる。

少なくとも、正義感に憑りつかれて発言を歪曲する人よりは、遥かに人間らしい。

天皇が善人か悪人かであるかという単純な話でもない。
所謂陰謀論では(全部かはわからないが)天皇は悪党というのが常識ではある。
一般的には新型コロナは危険で、ワクチン接種が必要だというのも常識である。
常識というのはつまり、ある一定範囲内においての多数が善と認めるものということになる。
人が生きるのは善で死ぬのは悪。大雑把な言い方だが、これもまた常識といえる。
コロナ危険という方も反コロナという方も、その点では共通している。これも全部かはわからないが。

さて。その個人や集団が生きるのは善か悪か?生き延びた場合は問答無用で善たり得るか?
そのような思索は常識ではなしえないので、「歴史が決める」としか言えないと述べておく。

ふと、ニーチェの著作に『善悪の彼岸』というのがあったなと思い出したところで終わる。

では、よき終末を。


話すは放す

2021-06-02 | 雑記
たまに読んでいた引き寄せの法則のブログを、しばらくぶりに読んでみた。

中川翔子がデビュー時は売れず、他のアイドルの真似をして、ケーキを作ったこともないのにケーキ作りが趣味です、などとプロフィールに書いていた、などとあったものである。

それで半ばやけになって、元からのオタク趣味を全快にしていったら、あれよあれよと売れていったという話が書かれていた。やけになったわけではないが、自分らしく行こうと。

そうか。自分らしくか。というわけで、Twitterの方にブログのリンクを貼っておいた。余りフォローしてもされてもないが。
ツイッターのアドレスは@Himagineatpである。
一時期自己紹介の所に書いてあった、「Imagine」の替え歌が元ネタ。

そこで自分らしくってなんだ?と数日前から夜も眠れなくなるほど悩んでいたところ、やはりわからない。

昔やっていたゲームの実況プレイ動画か?と思ったが、そうとも言い切れない気がする。

自分らしくというのがわからない、という人は多い。上記のブログの人物のセッションとやらでもよくあると、昔読んだように思う。


自慢にしか聞こえないが、人と話すと「物知りで話が上手い」と言われることがよくあった。
具体的な指摘だと、「例え話だとかで分かり易く話す」と。ブログと大違いである。

そんな拙だが、かつて、ゲームの実況プレイ動画を始めた時、緊張するからと少々酒を呑んでから取り掛かる、という状態であった。思えば、ブログの初投稿もそうだったように思う。
要するに、人見知りで怖がりなところがある。

酒は人の本性を現すとはいう。人の本性とはいうが、そういうものはいくつかある側面の一つなので、必ずしも乱暴だけになるわけでもないのだろう。
と、そういう話はどうでもよくて、飲むと大体喋っていることが多い。

今はよくわからんが、かつては流行り言葉でいう「陰キャ」であったといえる。

話そうと思ってもどう話したらいいか分からない、相手にどう思われるか、といった不安がその人をその人らしく話させることが出来ない原因だったりするが、そういう具合だったのだと思われる。

というわけで、拙は人とおしゃべりしたかっただけだったのだろうと。対面による話が一番として、ゲームの実況プレイ動画でしゃべってそれにコメントが来る。それにまた対応してと。リアルタイムではないが、おしゃべりだったと。


正直言って、この世の中が北斗の拳みたいな荒廃した世界になろうがなるまいが、関係ないのかもしれない。

ここで今まで書いてきたような話が完全に疑いのないようなことなのかも、実際は分からない。

実際にそんな世界になるかどうかはその時まで分からない。それまでは仮説に推論で、つまりは情報である。

知行合一というのだったか、知識は行動に基づいてこそ本物になるというのが仏教にあるようだ。
頭に仕入れた知識というのは、それだけでは情報(知と呼ぶ)でしかなく、使いこなし(識と呼ぶ)て、初めて「知識」だという話も昔聞いたものである。この話は筋トレなどで例えている話を先日読んだものである。

話が横道にそれた。


拙は、情報はおしゃべりの手段でしかなかった(というと語弊があるが)のに、目的にしていたのだろうと。


世の中がよくなるに越したことはない。寧ろ望んでいる。

しかし、情報に翻弄されて、挙句の果てに目的になっているとしたら、楽しくなんかないだろう。楽しくおしゃべりも出来まい。それでは、よくなるものもよくなるまい。

未だ来たざるものが来れりとしても、それはそれで問題ない。それが良きにつけ悪しきにつけ。

この世全てを作り上げている「情報」は、どこまでいっても手段でしかないのだから。

というわけで、これからもよくわからない話を続けていくつもりである。


では、よき終末を。


帰ってきた丑の刻参り

2021-05-30 | 雑記
共産党宣言、じゃなくて緊急事態宣言がまた延長に、という発表が先日あった。

そして先ほど見かけたのが、「最後の延長」と。

じゃあ次は「帰ってきた延長」とか「延長よ永遠なれ」とか言い出すかもしれぬ。というのは冗談だが、とある映画シリーズだとかにそんなタイトルのがあった覚えがあったりする。バ〇トマンだとか。ウル〇ラマンも「帰ってきた」はあったが、こっちの方が馴染み深いか。

本当にそんなことを言って延長してきたら、この世は映画を見ているような状態というのが定着してしまうな、というのもまた冗談ではある。が、その話をまたやろうというわけではない。


Twitter発の小説とか漫画がちょくちょく書籍化されて話題に上るというのがある。いや、反対か。

最近では、件の緊急事態宣言に関わる感染症についての4コマ漫画が話題になり、そして出版された。

『コロナは概念』というタイトルで、風刺漫画である。以前からWeb上で見ていたもので、中々に考えさせてくれる上に笑える。ものによっては笑えるが、ため息が出そうな話もある。冗談で描いているようなことが現実になってるなという具合である。別に暗い話でもないし、気が向いたらどうぞ。

さて。何故「コロナは概念」としているのか?新型コロナウイルスの存在が確認されていないからだと。

その根拠になる話はある。都や厚生労働省に開示請求したら、「存在を示す論文を保持していない」と書かれていただとか、その書類の写真だとかが出回っている。

後は、以前にもここで取り上げた、徳島大学の名誉教授の大橋眞氏の、「コッホの四原則」のどれにもかかっていないという指摘もある。

ただ、コッホの四原則は古典レベルの話ではある。二百年近く前だったか?

こちらも専門家でもなんでもないので、詳しいことは書けないが、近ごろはウイルスの全長が分かればそれで特定できるとのことで、その長さの違いで人由来かそうでないかを調べるということを行っており、コッホの四原則はそれほど重視されていないという。

となると、一応存在するということになる。では、何故厚生労働省だとかに存在を示す論文がないのか?と思われるだろうが、上記からすれば、特定は出来ているが論文は書いていないから文書を保持出来ていない、ということになるのだろう。

ではやはり、危険なのだな、と思うかどうかはまた別ではある。ただ、一つだけ例を書いておく。実は人の話の丸パクリだ!
沖縄の最近までの死亡者数を日にちで割ると、一日辺り0.3人ほどの割合で、やはり高齢者が多いという。
ちなみに沖縄の感染者やら死亡者数は日本でワースト2位だとか言っていた気がする。ちょくちょく、緊急事態をやっていた覚えがおありかと思われるが、中身はそんな状態だといえる。


感染症というのは、パスツールが発表した病菌原因説が根拠として現代にいたるのだが、これが実は他の学者の説を使っただけでなく、パスツール自身は検証もしていないという話もあるそうな。
パスツール自身は晩年、反対意見の同僚と死の間際まで続けた討論の最後に自説を撤回した、というのは以前にも書いた。つまりは仮説のまま、定説のように扱われていたという可能性がある。

「コロナは概念」どころか、「感染症は概念」とすら言えなくもない。病は氣から。

凡そ病気と呼ばれるものが全て感染しないとは思えないが、常識とされていることは、ただの思い込みや盲信ではないかと考えてみる必要があるだろう。

人体実験になるので誰も試すことは恐らく出来ないが、ガン細胞を患者から取り出して他人に移植すると、恐らくガンになるとして、それでもガンは感染症、とはならない。

狂犬病の犬に噛まれたりで、その体液が体に侵入し、狂犬病に罹患する。これは感染症となる。

ふと思ったが、ガンの患者に噛まれたら、ガンになったりしないだろうか?まあ、これはただの空想である。
もしそうなったら、ガンも感染症となるのだろうか。

しかし、鬱病が伝染するというような例がある。飽くまで感染症という意味ではないが、鬱病の人と親身に接している人が、鬱病になってしまったという話は何かで聞いたものである。

これも以前書いたが、野口晴哉は、風邪を経過させる(身体の正常な反応なので治すとは言わない)時には、リラックスして静かにするため、子供が近づかないように、うつりはしないが「うつるから寝てる部屋へは入らないように」と言っておく、と述べていた。

感染症の原因とされているウイルスは、実は病的症状を起こした細胞からの排出物ではないか、という説も実際にある。エクソソームという名称だそうな。

つまり、ウイルスがあるから病気になったのではなく、病気になったからウイルスが出てきたと。

そうだとすると、ウイルス兵器は意味があるのか?と思えてくる。


ここからは拙の本領発揮である!というのは冗談だが、以前にも同じことは書いた。

『金枝篇』という人類学の古典がある。その中で紹介されているものに、「共感呪術」という概念がある。ちなみに検索をかけてみたら、大枠が「共感呪術」でそのうちに「感染呪術」と「類感呪術」があったが、「共感呪術」で書いていく。

とある部族の呪術で、呪いたい相手の影に木の枝だとかを刺す。足に刺したら動けなくなるだとか、胸に刺したら心臓発作で死んだりすると信じられている。

日本で例えるなら、「丑の刻参り」だろう。藁人形に相手の体の一部を仕込んで、神社の御神木の幹に五寸釘で打ち止めると、相手を呪い殺せるという奴である。

影や相手の体の一部(毛髪など)は、言ってしまえばその相手そのものではない。だが、効力があるとされてきた。

ウイルスがエクソソームだとするならば、ウイルス兵器はまるで共感呪術ではないか?と書いた訳である。

対象を苦しめるために熱心にウイルスを弄繰り回すわけで、丑の刻参りのようだと。

なお、詳細は不明だが、未だかつてウイルスや細菌が病気の原因だと特定された事例がない、という話もある。流言飛語の可能性もあるが、とりあえず。


とある迷信がその地域で何故信じられてきたかというと、その地域では事実だという共通認識を持っているからだというのがある。こういうものも共感呪術と呼ぶのかどうかは分からないが、通じるものがある。

ウイルス兵器が共感呪術だとすれば、現代社会は・・・。これ以上はご想像にお任せする。

「コロナは概念」から「感染症は概念」と上記でもじってみた。なら、「呪術は概念」となるか。

上述したものからもお分かりかと思うが、「呪術は概念」というのは一般的に理解されているところである。言い換えれば、呪術は迷信と。
しかし、実際のところは「概念は呪術」である。

「病は氣から」の別解といえなくもない。狂った概念は氣を侵し、それにつれて心身を病むに至るからである。

では、よき終末を。


今日も拙拙と

2021-05-23 | 雑記
先日、Twitterのアカウントを開設したと書いた。特にここのリンクを貼ったりはしていない。

勢いで開いたもので、何をしたものかと途方に暮れているので、ここと同じくらいの妙な話をちょっと書いたぐらいである。

というわけで、今朝、Twitterに書いた話でも書いておく。


半ば冗談でこのブログ内の自称を「拙(せつ)」とやってきた。とあるゲームの忍者キャラの自称らしいが、本当かまでは確かめていなかった。
武士なら「拙者」というのは時代劇などのイメージで広まっている。僧侶なら「拙僧(せっそう)」というのもあるし、現代でも自著のことを示す際に「拙著(せっちょ)」と言ったり、自身に纏わることを人に伝える時にへりくだって使う言葉である。

さて先日。漫画の『美味しんぼ』を見ていたら、アメリカ人の落語家というキャラが「拙」と自称していた。

故なき言葉ではなかったのだなと安心したものである。別に不安だったわけでもないが。

しかし妙ではある。『忍者ハットリくん』の自称は拙者。そして前述のゲームの忍者キャラは拙。
以前にも書いたが、実は古文書に「拙者」と書かれていても「せっしゃ」と読まなかったのではないか?と推測したものである。

かつて、江戸時代の終わりまでは、文章を書くときは漢文調というのが日本の決まりだった。

もっと時代を遡れば、朝廷の公式文書は漢文だったりする。江戸の時代も漢籍は必須科目であったから、武士同士がやり取りする手紙も漢文調と相成る。

勿論、中国語で読んでいたわけではなく、現代の学校でも習ったことのある人は思い浮かぶであろう、「訓読」をするわけである。レ点だとかを着けて行きつ戻りつする読み方である。

拙者という言葉が漢籍にあるのかどうかまでは知らないが、この訓読で実は~者と書いてあるのを「~ハ」と訓読する例がいくつかある。まあ、見た覚えがあるという程度で、具体例は挙げられないが。

学者だとか賢者といった言葉は、この「者」がついてようやく人を指す言葉かのように思われる。
実際にそういう風に定着しているわけで、別にこれを否定しようという話ではない。
とはいえ、「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、「者」はないのにどちらも人を指している。

日本語の漢字言葉の癖というのか、同じ意味を重ねるというのがある。漢語的だとありがたく聞こえるからだという風に、文学者の高島俊男氏がかつて書いていた気がする。

例えば、「皮膚」というのは、どちらの字も実際は「かわ」を指す。

かわ科、では極まりが悪いので、皮膚となっていると。同じ意味の漢字を並べているというのは枚挙に暇がなく、趣旨とは違うのでここまでとする。

拙何某と漢文調で書かれていたとしたら、別に意味が通じないわけではない。そもそも中国語でもない。

分かりにくいだろうから、英語に置き換えると変だというのがわかる。 I am 何某となるところが、I 何某となって片言になるのである。

翻って、上述した「~者」を訓読の際に「~ハ」としていた例があるというのを思い出していただく。

丁度、英語でいう is や am に当たるのである。

拙者何某を訓読するならば、「拙ハ何某」となる。申、だとかくっ付けたりしてあれば、「拙ハ何某ト申ス」となるわけだ。


さて。そうなると「拙僧」だとかどうなるのか?そういう疑問が沸く。

わざわざ「私は何某という僧侶です」などと名乗らなければならない状況というのは、日常的とは言えない。

僧侶然とした格好で相手も僧侶だと判っている状態で「わたしは僧侶です」と名乗るのは奇妙である。

ただし、武士に向かって手紙を書く際には、「拙僧」と書いたであろう。知己でもない相手に送るなら、身分を伝える必要があるだろうから。

「拙僧」があるなら、「拙士」とか「拙侍」という風な言い方があってもおかしくないが、そういう言葉があるかはわからない。

ただし、江戸時代は武士の時代である。大小二本を腰に差していれば、誰が見ても武士だと判るわけで、武士が武士に手紙を書くときに「拙侍」のような言葉を使うというのも考えにくい。

かようなわけで、「拙者」というのは別に侍だけの言葉ではなかったのではなかろうかと。

拙僧何某なら、「拙ハ何某トイウ僧」となる。ハが勝手に入って来たのは訓読にはよくある奴ということで。
もしくは拙僧者何某か。

とはいえ、拙者も拙僧も、一々こう読んでいたら七面倒くさい。定型文化し、そして口語化していったものと思われる。

「拙者」における拙と者、「拙僧」における拙と僧は、文脈毎にだが、同じことを指しているわけで、上記した「皮膚」の例と同じ具合といえる。


本当は武士は「セッシャ」と言わなかったのではなかろうか?という辺りから考えていたのだが、「拙者」を多用する武士は「セッシャ」、「拙僧」を多用する僧侶は「セッソウ」と訓読ではなく音読したものを口語で使うようになったのだろうと。

長々と書いたが、拙者は「わたしは~といいます」で、拙僧は「わたしは~という僧です」の略した読み方だったのだというわけである。


なんだろうこれは。何かのレポートか?ともかく、以上である。


では、よき終末を。


諦めぬいてDistiny

2021-05-17 | 雑記
死ぬほど暇になって、そろそろ死んでしまうかもしれないと疑ってみたりしている今日この頃、十年越しにTwitterなるもののアカウントを取得してみた。

死ぬほど暇なのは昔からといえなくもないが、追撃を食らったのである。とはいえ、望んだ通りかもしれない。

それはさておき。

拙はよく、酒を食らいながらオンラインゲームをしていたものである。

先々月ほど前に、久しぶりに勢いでログインして喋っていたら、「ログがにぎやかになっている」などと言われる始末。

普段は閑散としたチャットログなのかと否が応でも感じるところだが、氣にしてはいけない。

そんな拙はちょくちょく、文字チャットなのに歌っていることがある。替え歌することが多いが、親父ギャグと言われるようなノリだと思ってくれれば結構。


というわけで、さっきTwitterに書いた替え歌をここで改めて披露する。


街を包む PCRtest
誇大な distance 動き出せば
それは紛れもなくヤツさ

コロナ Leaving me blue
コロナ Missing you true
コロナ Only few memories after you

背中にまといつく翳りは
コノヨという名の ものがたり
許されるはずもない Peace & Love

はい!

はい!は歌詞にはない。終わりの合いの手という奴なので無視してもらう。Twitterにもない。

寝ようとしたけど眠れないからネタを考えていたら不意に思いついて動いてしまった。反省しようはない。


この元の歌は何よ?と聞いてくる人はいるかは分からないが、まあ有名どころである。ヒュー!

気が向いたらTwitterのアカウントを貼っておこうかと思うが、何せ酔った勢いで開設したもので、どうするかはまったくもって未定である。

かなり前からブログはオワコンとか言われている。そのうちSNSもオワコンで、これからはテレパシーだ!とか言われかねないが、拙は年寄りからしたら若いが子供からしたら年寄りという、どうしようもない立ち位置である。
とはいえ、そもそもそういう具合で生きてきたので、それでいいのかもしれない。

というわけで一つ小咄を。

一休さんとして親しまれているアニメがある。小坊主が主人公のアニメであるが、一休という名の僧侶が実際にいたという。

そんな一休さんは、修行を頑張って見たけどこんな中途半端な自分じゃ悟りを開くなんて無理だ!一休みします!と住職に伝えた。

すると住職は「でかした!それこそが悟りぢゃ!お主はこれから一休と名乗るがよい」と言われたという。


この前の記事に「SNS断ち」という話を書いたものだが、別にそれだけではない。その個別例をあげつらうのは浮世離れしてるように思われるしそんな氣もする拙には大変だし挙げ切ると世、じゃなくて夜が明ける。

上述の一休宗純(一休さんの元ネタの実在僧侶)の話を聞いて、「ああ、そういうことか」と思って頂ければ幸甚である。


思えば、釈迦も苦行をやり続けてもう無理だと諦めたら悟りを開いたという風に仏典にある。

諦めないで諦めるという矛盾した言葉が思い浮かびそうだが、この諦めるという言葉は、元は違う。

現代では放り出すというような意味で使われているが、「明らかにする」という意味だったそうな。

上記の二つから照らし合わせて書くならば、「これ以上の苦行は無意味だ」と「明らかにした」となるのである。

その結果部分だけみて、諦めるは放り出すという意味に使われているのだろうと思われる。

だからあなたも諦めぬいて!とかいうと怒られるなこれ。

とはいえ、諦める前に諦めるのは、人の性だがちょくちょくある。

だからあなたも諦めぬいて!先っちょだけだから!とか下ネタをつい書いてしまったのは、飲み過ぎたせいである。

思えば、一休宗純は飲み過ぎで渇水病、今でいう糖尿病にかかっていたと言われている。

そうとはいうものの、人には既に諦めざることがある。

嫌でも死ぬ。悟りを開いたという釈迦も死んでいる。


人の身は有限である。釈迦は施された食べ物で死に、一休は酒の飲み過ぎで病んで恐らくそれで死んだ。

これが毒だあれが薬だと選り好みするのは、悟りから離れた姿ではあるまいか?
実際に釈迦の時代からの托鉢(托鉢自体は別宗派からあったようだが、詳細は忘れた)は、条件はあるものの、肉を托鉢されても断らずに食べていた。


薬を飲もうが毒を食らおうが、人の身はいずれから滅ぶ。

人の身が全てだと思いなすのならば、それは一つの悟りと言える。そこからすれば死は無意味であるが、その先を見ようとも考えようともしないのは悟りたり得るだろうか?

その先があるのかないのか「諦める」ために、拙は酒を食らっているのである。

この言い方は語弊があるのでもう一つ言っておくが、釈迦が弟子に向かって言っていたことはこうである。

「死後の世界があるかどうかを考えるのではなく、今をしっかり生きなさい」と。


人類が意識というものを持ってから、このような問いかけは幾多も行われてきたのであろう。

しかし、これらを現代社会で例えると、「オンラインゲームの状態」と例えるのが実にしっくりくるというのは、分かり易くていいのか卑俗になったと悲しむべきかは何とも言えない。

仏教の思想が量子力学と親和性があるとかいう話もあった気がするが、紀元前のインドと現代では表現できる語彙の量が違うので、思ったほど恐ろしいことをしてばかりでもなかったのかもしれない。

昔の滝行の如き修行は、今だとジェットコースターのようなものだったのかもしれないなと。

などと妄言を述べ・・・。

そういえば仏教の戒律に妄言を吐くなというのがあったな。

だとすると、拙は成仏には程遠いというわけである。


では、よき終末を。