ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

企画案件

2017-01-27 | 雑記
昔話をする。

かつて、ゲームのプレイ動画というものをニコニコ動画で配信していた。

生放送ではないが、プレイしながらのもので、ハプニングがあったりする。なおかつ、ほとんど編集のないものだった。

だらだらプレイしながら喋っているだけのものだが、そういうのが流行っていたので、自分もやってみようとやったものだった。

いくつか他の人のを見たことはあるが、はっきり言ってこちらが太刀打ちできるレベルではなかっただろう。

世の中の広さを知った次第である。

とはいえ、何か自分で手を加えたものを出してみたい、という気持ちがないわけでもない。

そんな気持ちがくすぶり始めたか時期に被るかどうかは定かではなかったが、以前からプレイしていたオンラインゲーム内で、お誘いがあった。

ゲームによって呼称が違うが、チームへの勧誘であった。しかも、ヴォイスチャット専門の、という。

少し悩んだが、今いるところは長い付き合いだった人達の集まりだったとはいえ、多少蚊帳の外だった気もする上に、このゲームには誰も来なくなっていた。

で、入ってみたのはいいものの・・・。

いやな目にあったわけではなく、寧ろありがたかったのだが、どうしようもない違和感があった。酔っ払ってヴォイスチャットをしていたせいかもしれないが、記憶を消滅させるほど飲めやしない。

昔、思い至ったことを再度認識した、そういうところである。

詰まるところはというと。

学校でクラスメイトと切磋琢磨という美辞麗句の元、成績、つまりはテストなどの点を上げていく行為が加速しただけじゃないか、と。
これがひいては、会社での営業成績だとか業績でギュウギュウに締められたり、家族を養っているという人なら、収入という「点数」が死活問題となっていく、などというのは、聞いたことがあったり考えたこともある人もいよう。
それが世の習いである、などというのは聞き飽きた。
とはいえ、そこから飛び出せてもいないのだが、感じるのと感じないのではやはり違う。

遊びならまだいいだろう、とも思ってはいたのだが、川原の水切りの如く、一人で工夫したりして遊ぶ分には構わないのだが、ならんでヨーイドン!とされるとたまったもんじゃない。わしは横の奴より多く、遠く跳ねさせるのが目的ではないのだから。
そう思わなければいい、というのは簡単だが、雑音が激しい中、それが続けられるかどうか。

と、具体的に言葉にはしていなかったのだが、こういった理由でそのゲームを続ける気を失ってしまったものである。久しぶりに顔を出してみて、続けられそうなら、というのはよしておこうかと思う。不意にいなくなってしまった点については非礼を詫びたいところではあるが、ま、いいだろう。
今まで続けてきたのは、基本的に自分のペースだけでやれたからだったのだろうと、そういうわけである。チームでヴォイスチャットしながらでもできるんじゃないか?との問いへは上記が回答である。

長ったらしくややこしく書いたが、自分のペースで出切る、何かをやろうと思い立ったわけで、その第一弾として、ゲームの動画の配信を少ししてみようかと企画していた。
TVゲームと大雑把に区切れば、長らくプレイはしていたが、久しくプレイしていなかったジャンルである。久しぶりにプレイしたら、調子が悪かったのか、少し酔った。酒ではなく。

予告なんぞすると、確実にまた未定にしてしまいそうだが、二月中を目処に取り掛かろうかと思っている。

出来たらいきなりここに出すので、「完成間近!」とかいうのはやらない。










さて、昔話をもう一つ。

若いころは、作家とやらになってみたいものだなぁ、というぼんやりした、志しとはいえないレベルの興味程度の気持ちがあったものである。

とはいえ、わしは何か伝えたいことなんかあったっけ?という根本的な問題があった。今もないのかもしれない。

しかし、ここ何年かは、何がしかを伝えようと書いてきた気はする。何を伝えてるのかはそれでもやはりよくワカラナイ。

では、それらを織り込んで話を書けば良いのではないか?なんぞと思ったもので、さっき、しばらく書いていたのだが、ひどいどころのものではなかった。

二次創作、というものがある。年末や盆のコミケで売られているものの仲間、といえばよかろう。エロくはない。

ああいう話にしろなんにしろ、作り話というものを書くというのは、わしはずっと恥ずかしかった。今でも恥ずかしい。

とはいえ、何時間もよく書いたものである。この書きかけを読み返すと(わしが)悶絶してしまうので、『知られざる傑作』ということにしておく。
※『知られざる傑作』は、オノレ・ド・バルザックの小説。ある画家が秘匿していた傑作を巡っての話。結末はというと、その絵は実は「白紙」だったというオチである。

この話は忘れよう。お互いのために。

では、よき終末を。


遮光器土偶大いに怪力乱神を語る

2017-01-08 | 雑記
かなり旧聞に属するが、このような話が去年にあったそうだ。

それは、英国の女王がセレモニーだかで衆目にさらされた場所にて、その姿に異変が起こったとのこと。

目撃した市民はツイッターで「女王がトカゲになった」と次々と発信。

その後はどうなったかというと、それらのツイートは全て削除されただけで収束したという。


人間様を、あろうことか英国の女王をトカゲ呼ばわりとはなんたること!で処罰されたといかいうのではなく、ツイートの削除だけで済んだという、なんとも奇妙な事件があったらしい。


ツイートの削除ではないが、似たような話は実は日本にもある。

高山長房という作家がいる。皇室の血筋に当たる人だそうで、爬虫類人がどうたらという著作を書いている、所謂「トンデモ」な本を書く人と、とりあえず常識的に言っておく。

それで、その著作だか発言だかは忘れたが、「天皇家は龍の血筋」だとかなんとか。もっとはっきり「爬虫類人」と言ったかもしれんが、詳しくはMAGICAの人のブログを読まれたし。magicaカバラで検索すれば出るが、その内容に賛同するかどうかはご勝手に。
理解できない内容ばかりだからと言って、向こうに文句は言わないようにお願いする。


龍や蛇といった存在が支配者層によく現れるというのは、なんとなく記憶にある。

例えばアレキサンダーの母親は蛇を可愛がっており、いつもじゃれていたという。

余りの溺愛ぶりに、アレキサンダーは蛇とその母親との間に出来たのではないか、と父親が疑っていたという話があったりする。


これは上のブログで読んだ話だが、代々中国の皇帝というのは、龍の末裔を自称していたという。

そして、始皇帝は家臣の面前で龍に化けたという記述が残されているとのこと。




よく言われるのが、昔の人は想像力が豊かだったからああいう風に書いたんだと。


遮光器土偶はシュールレアリスムか何かなのか?ピカソやダリはあんな風に造型したりするのか?

まあ、ダリが遮光器土偶書いたらパクリ呼ばわりになっていただろうが。

仮に感性が豊かでああいうのを作ったというなら、その末裔たる人類は皆感性が豊かであってもよかろうもの。無理はいうものではないか。


歴史学者や作家の推察だと、直接表現しちゃいけないので、ああいう風にやったのだろう、というのは聞いたことがある。

遮光器土偶は措くとして、蛇の顔した人だとかを造型する理由は説明できなかろう。

その人は蛇っぽい顔してたんです、では誰のことか当時の人にはバレバレである。


井沢元彦の著作で、記紀の国譲りの下りは、天皇の威光でもって譲り受けたという風になっているが、実際は分捕ったのを隠しているという主張があった。
血なまぐさいやり方だと、当時の日本に住んでいた人々の反発が強くなると予想したからだろうという。

実際に「国譲り」で検索してみたが、朝廷側の意向を強く主張した形になっている、といった文面が見られた。


つまりは、神話にすらも歴(れっき)とした下敷きの実話がある、ということである。歴史だけに、というダジャレは敢えて言う!



想像力が豊かだといわれている古代の人々も、まったく何もないところから話を構築できるほどの能力はない、といえる。

況や現代をや、である。


現代のストーリーテラーの大家といえば、宮崎駿の名前を挙げてもいいだろう。

まあ、また上のブログにあった話なんだが、とりあえず。


『魔女の宅急便』という作品がある。あんまり出来はよくないと言われている。

確かに、他の作品は今でも色々と取り沙汰されるものだが、この作品についてはあまりネタになっていない。

子供のころに見たものだが、あんまり覚えてない。それくらいの印象である。

興行成績もそれまでと比べると低かったようだ。


さて、宮崎駿はこの後で妙な発言をしている。

「自分自身の才能はたいしたことなかったんだな」といった内容だったという。

うろ覚えで書いているので前後の細かい発言内容は忘れたが、変である。

というのも、それならば、今までの作品はあなたの才能で書いたものではなかったのか!?となる。


ラピュタにしろナウシカにしろ、謎の元ネタがあったというわけか。


その辺りの内容はしつこく出してるが、上のブログで書いている。以前にも言ったが、魔法の結社で能力を開発したり、そこで隠された歴史を学んだりして、それを元ネタにしているのだと。


学んだことをアレンジするというのは判り易いネタである。漫画やゲームのシナリオを構造主義的に解析したら、同じ分類だらけになるのだろう。


能力の開発という点に話を持っていくと、こういうのは他で例えれば「チャネリング」の能力である。

バトラーの著作でも出てきたのだが、「ハイヤー・セルフ」だとか、高次元の存在にアクセスして、色々知ってくるわけである。


さて、実を言うと、ここまでがちょっとしたかった話の下敷きではある。


この辺りは例のブログにあった話かは忘れたが、恐らく宮崎駿は、そういったもの(魔法の結社とやら)で培ったことを排除した状態で物語を作ってみようとしてダメだったから、ああいったんじゃなかろうかと。


宮崎駿についてはここで終了する。


要約すると、人間は五体だけ(五体が不満足な人もいるが)では実際は無能力といえる。それは大昔から大差なかったと。



さて、話は変わって、2chだかで書き込まれた話のことを。


「空色ノート」というスピリチュアル系のブログで紹介されていたのだが・・・該当記事が判らない。


というわけで、いつものうろ覚えである。お覚悟!



内容はというと、「夢で宇宙人と語り合っている話」である。


そのスレッドを立てた人は、オカルトや宇宙人やらの話にはまったく造詣がないという。


とはいえ、不思議な内容を書き綴っている。宇宙とやらは我々が普段知っている次元ではない何かで動いているのだなと、感じざるを得ない内容であった。

その宇宙人が言うには、「遠くの宇宙から反応できる人を命がけでずっと探していた」とのこと。


そして、こうも言う。「君達が魔法だとか(他にも言っていたが忘れた)呼んでいるものは、我々が関与したものなのだ」と。


MAGICA魔法入門カバラ(正式名称書いてしまった)でも、「秘密結社で宇宙人から力を得ているのが大富豪」と言っていたものだが、裏付けるような内容が出てきたわけだ。


ただし、同じ宇宙人と括っても、意図が違う。


夢で話しをした方は、奉仕活動をしているようで、破滅を回避するために色々と努力してアクセスをしている立場という感じらしい。

釈迦とかイエスとかで例えるのもどうなのかしらんが、悟った存在とでもいおうか。


地球で大富豪に能力を与えている方(代表、爬虫類人)は、ここで阿漕なヤクザ商売をやっているのが現状、というわけである。




また遮光器土偶の話になるが、前々からあれは宇宙服っぽいとか言われている。現代の宇宙服そのものな造形物もあったりする。

上のスレッドの話の宇宙人も、段階があってずっと昔は現代の地球のようになっていたりしたのを克服したりして今に至ったという。


現代の地球というのは三次元の世界といえる。爬虫類人なんかは少し上の四次元の下の方という話らしい。

近いのでちょっかいを出せるというわけで、その上の方はまったく見えないという。


パラレルワールド的にいえば、爬虫類人も命がけで地球人にアクセスをしている宇宙人も、「人間」が取りうる未来の形なのかもしれない。

遮光器土偶はパラレルで地球に降りてきた、平行世界の人間、なんぞという誰かがやってそうな想像である。

今と変わらないレベルで時間が経てば爬虫類人、レベルが高くなって時間が経てば宇宙人というのが、三次元の思考では判りにくいが同時に存在していて、何らかの形で垣間見えるのだと。


なんだかよく判らん話になったが、人間は一人ぼっちではないのだろうということである。見える形でも見えない形でも。

爬虫類人にすら興味をもたれないような存在では、価値などなかっただろうともいえる。これは言葉の綾である。よくかみ締めていただきたい。


では、よき終末を。