ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

希望が消えた時

2018-07-18 | 雑記
先週は休みが続いていたので、久々に『整体入門』を読みかけていたと書いた。

野口晴哉はずっと言っていた。現代人は食べすぎなのだと。それで糖尿になったりするわけで、さして食わなくても食いまくっていた時より遥かに身体は動くのだし、食べ過ぎて怠けるなら、それこそ悪いことをする以外になくなるわけで、活元運動が広まれば、お互いを疑りあって暮らすようなことはなくなるだろう、という風な希望を述べていたものである。

思うに、世にはびこる陰謀とやらの遠因は、己の裡の要求というのを無視した、上で言ったように食べすぎて怠ける己のことを無視した結果なのでなかろうかと。

そうなると、あまり動かなくて儲けようなどと考えれば、悪い事をせざるを得なくなる。なら、世の中を牛耳っている、パッとみでも判るような、いわば「お偉方」じゃないかと言われそうだが、まずは考えてもらおう。

あなたが思いつくことは、既に誰かが思いついている。なら、誰かが思いつくことはまた、あなたも思いついて当然である。

いわゆる「悪いこと」を思いついて実行される原因は何か?それに思い至らなければ、「歴史は繰り返す」こととなろう。

とはいえ、人の身であり続ける限りは、繰り返される歴史というある種のフィクションに沿って動き続けることになるのもまた、必然と言える。

だからといって、森に入ったところで人を辞めたつもりになるのは、それこそ人の愚かしさそのものであると、何度も指摘した。



さて、先ほど、何かの縁で健康関係のHPやらを見ていた。スギナの茶が健康にいい!というのをたまたま見て、そこから調べたら行き当たった。

いわゆる陰謀論の話を展開していた。そのことについては、異論はまったくない。

表面上は儲け続けようと思ってやってきていることだから、人を間引いて(死人続出のがん治療だとか)、それらの遺児には現状維持を教え込み(世の中の決まりきった形を型通りに教える)、かつて遺児だったものはまた間引いて・・・と繰り返すのが、今時の商売のやり口であるのは、言うまでもないからである。子供が大人になったら、その大人が子供時代のおもちゃを買いなおす率は低かろう。

そして、そういう世の中の流れというのは、実に不可逆的で、絶対的な何かの力で動いているように感じるし、また思える。

個人の力は無力である。それはそうだ。人が人を変えるというのは、山を切り崩すより大変というより無理である。


先日来から言おうと思っていて、書いているうちに忘れたり話が長引いて逸脱したり、はっきり書けてなかったりしたことがあった。



さっきも書いたが、世の中というのは、実に抗い難いもので、こちらを押し潰すのではないかと考えるのも無理はないと。

これはまるで現代社会特有なのかというと、そうではない。

健康の良し悪しは別とし、日本だけで見るとしても、そこら中に餓死者が溢れているような時代ではないのは判るだろう。災害が立て続けに起こってはいるが、『日本沈没』の憂き目に会っているわけでもない。

かつては、食いつなぐことすら困難だった時代が長かった。日本も例外ではない。

森で生活していたから安泰、というのは楽観にすぎる。森は現代でいうコンビニではない。

仮にそうだったとして、どうして飢餓状態で発揮される遺伝子が我々の身体に残されているのか?それは進化だったのか?最初から無かった体力なら、火事場でも出なかったはずだとは、野口晴哉の言である。

森でたらふく食っているだけでよかった、などというのなら、安定をもたらした森林の消失と共に、我々の先祖に当たるものは、地上から姿を消していたであろう。

だが、我々は生きている。木の股から生まれたのなら森で暮らせばよかろうが、木の股から生まれた証拠を出してもらわねばなるまい。

また話しが脱線してきたので、元に戻す。


かつては自然の、または神の「陰謀」だった人類への災害だとかの困難は、現在はまだ目に見える形での軍産複合体による「陰謀」という流れになっただけで、別に何も変わってはいない。

地震兵器についての話なんぞは、昭和の新聞では当たり前に出ていたと聞く。出なくなった年代は知らないが、恐らく二千年代からは出なくなったと思われる。

ジャーナリストのウイリアム・イングドールが、その現在の神(自然の、または神の「陰謀」というのにかけただけである)がやろうとしている統治、その名も「ニュー・ワールド・オーダー」について言っていた。

あれは新しくなんかない。アンシャン・レジームの復刻でしかなく、「ワン・ワールド・オーダー」と呼ぶべきだと。

それらが人の形をしているからなんとか出来るとお思いの方も多いだろうが、人が人を力ずくで変えるのは無理である。出来ても破綻するだろう。


ならばどうするかというと、己自身を変えよ、である。


何ゆえ大企業やら大富豪のとてつもない陰謀を書き散らすのか?書けば書くほど、またそれらを見れば見るほど、己の中にある恐怖が膨れ上がるだけである。

なら、無視すればよいのかというと、これもまた違う。

無視するのは、恐怖を克服しているからではなく、ただ、己の中の恐怖心を見たくないがゆえである。

それらの情報を知るのはいいが(推奨はしない)、恐怖心と猜疑心の塊になるのなら、意味はない。


陰謀を書き散らす人に伺いたいところだが、仮に、そういう存在を全て抹消したのち、何をするのか?

曲がりなりにも、というとあれだが、彼らが敷いて(強いて?)来たと思われるレールの上で成り立っている生活をぶち壊す覚悟はおありか?

また、その後の混迷を統治する気概がおありか?

己の不幸は何某のせいだ、と言っているだけではないのか?



似た話は、知り合いからも聞いたものである。


某駅前で、「安倍を辞めさせろ!」とチラシくばったりしている人がいて、知り合いはちょっと癪に障ったので聞いたそうだ。

「安倍を辞めさせたとして、それからどうするのだ?」と。

その相手は、特にどうしたいという言葉は出てこず、ただ安倍を辞めさせるのが目的だというノリで、会話にならなかったそうだ。


これと同じになっていないか?という訳である。



話が回りくどくなったが、簡潔にいう。


陰謀とやらも含めて、周りがどうこうではなく、あなたは何をしたいのか?どのように生きたいのか?これだけなのである。

某森の生活者は、マネーがない世の中を作ると言っておったが(フタコブラクダの方の新HP)、マネーが無くなれば幸せになるというのは、既に述べた「己の不幸は何某のせいだ」の言い換えに過ぎないのである。
また同様に、「これがあるから幸せだ」というのも同じ。コインの裏と表である。

上記のビラ配りと同様、目に見える対象に振り回されているに過ぎない。

コインの裏と表に違いはない。百円玉の裏は五百円の価値がある、などというのはおかしな話であろう。



さて、話は代わるが。


先ほど、この話の切っ掛けになった、某健康と陰謀のHPの件に絡めて、少々続ける。


現代人は栄養が足りない、というのは、ちょくちょく聞く。

曰く、土壌のミネラルがとか、農薬のせいでとか、遺伝子改良作物のせいでとか、穀物が本来は人間に合わないからとか、以前からよく聞いてきた話であった。

別に目新しくも無く、また、今まで習ってきたことから逸脱もしていない。

それは今まで通り、食べたものの成分を取り込んでいると思い込んでいるのだから。それには違いないとするとしても、正しいとは思えない。


野口晴哉が言っていた。

いろいろと余分な栄養を与えて、食物から栄養を摂取しようという体の勢いを消してしまうというのはよくあることだと。

また、一粒種が大樹になるのは、必要な物質を気が集めてきてなったのと同様に、人の体も要求によって生み出された気が必要な物質を集めて生み出したのだと。


江戸時代に日本を訪れた外国人の手記があるのをご存知か。

その中にある記述で、雇った人力車の車夫が何を食っているのかと思ったら、野菜と穀物メインだったので、これはいけないと思い、力つけてくれと肉を食わせていたら、後の方で「もうやめてくれ」と言い出したそうな。

食わせていたら、当初のような力強さがなくなっていったという。


別にベジタリアンになれ、という話ではない。


現代の我々は、栄養が足りていないと、そういう風に気を動かしてしまっており、栄養があると聞けば飛びつく状態なのだと。

野口晴哉が現役だった何十年か前からも、流れは変わっていないといえる。



いわゆる陰謀論というのは、常識の否定と相成っている。

なら、そういう常識も否定すべきものであろう。

また、政治活動やらをして他人や環境を変えていくというのも、正に常識的である。


世の中を変えたいというのなら、己を変えろというのは、現代社会では正に非常識である。


だから、外ばかり見ないで、己の内側を見、さらにそれを広げていく努力をすべきである。


スペインの思想家、オルテガが見出した命題がある。ずっと前にも何度か書いたものだ。

「わたしとは、「わたし」とその環境である」と。

わたしが変われば環境も変わる。それはオルテガ以前からも、ずっと伝わっている話ではある。

常識と、それの対になったかのような恐怖で「わたし」を縮め続けているのなら、自ずと環境も小さく、また歪になろうというもの。



病気が治ったらどうしたい?という質問にまともに答えられない人がいる。

するとどうなるか?病気が長引く。もしくは悪化して死ぬ。

仮に世の中からいわゆる陰謀が無くなったとしても、夢も希望も持っていないなら、その先は闇が続くというわけである。

そういう人を助けてくれるとかいう宇宙人とやらは、間違いなく、詐欺師であろう。

夢や希望のお手伝いしてあげます、というならまだしも、絶望の淵に立とうという人を助けますというのは、霊感商法と同類なのだから。

だから、病気が治った後のことを世界人類同時に答えられるはずがないので、「陰謀」は消えないのである。



本当の陰謀とは、あなた自身が夢や希望を抱いていないことだといえる。本人が夢や希望だと思っても、それは何かの裏返しだったりするからである。

最早何もかもなくなったとしかいえない状況でも見出せるか否か、である。

ヴィクトル・フランクルが、収容所での生活で見出したかの如くに。

彼は例えば、「収容所から出るときは絶対右足!」という孤独なゲームをやっていた。建物から右足で出ることに何かエネルギーが充填されるとかいうのがあるというわけではないことをお断りしておく。

そういう勘違いが多いのも、人の性という奴である。成功法則の真似をしても成功しないことが殆どな理由の一つであろう。


長くなったが、陰謀自体を否定する気はない。むしろ、よくここまで計画してきたものだと(本当かどうかは別として)感動すら覚える。

現代の生活を、アウシュビッツの収容所と同じだと考えるとフランクルに失礼かもしれないが、そう思うのなら、日々の収容所の生活のうちに、看守にも見破られない独自のゲームをするのがよろしかろう。

それを希望というのである。夢や希望を思い描けるのは、人間だけなのだから。


夢も希望も本当に思い描けなくなると、現実の模倣をするだけになる。

しつこいが、森での生活が理想だというのも、かつての、また現代にも続いている現実の模倣であるからだ。


陰謀があるから希望が失われるのではない。希望を失っているから、陰謀につけこまれるのである。



では、よき終末を。


余談だが、どこぞの天気予報で、「この暑さは終末まで続く」とか書かれていたというのを先ほど見たものである。


サッカーはサッカー

2018-07-11 | 雑記
子供のころの夢は、保育所(幼稚園ではない)時代は飛行機のパイロットと言っていた、なんぞというのは、書くことが何度も重複するここで、大昔にも書いた覚えがあったものである。

小学生の時は、「飛行機が落ちたら死んじゃうから辞めた」といって、カガクシャと言っていた。科学なのか化学なのかは曖昧である。

それを今度は、ドリフのコントみたく爆発したら死んじゃうから嫌だ、なんぞと抜かして夢ではないと言い出したというのも覚えている。

その次は作家、なんぞと言っていたが、今となっては遠い夢なのかなんなのか。

サッカ、という音だけのつながりになるが、過日自殺したという思想家の西部邁は、小林よしのりと仲が良かったときに、小林の現在は廃刊していると思われる季刊誌で、かつてサッカーに纏わる時事評論を書いていた。英語表記が同じなのか別なのかは判らないが、玉蹴りのサッカー以外の意味をさらに二つ述べていた。

後援者という意味と、もう一つは間抜けという意味だといって、サッカーのサッカーはサッカーなのさ、などと書いておったものである。

サッカーの後援者は間抜け、ということになる。後、カタカナで表記するなら、ブラッドサッカーと書けば吸血鬼と相成るが、これらの綴りがどうなのかは今も知らない。

別に球蹴りのサッカーを批難するつもりで書いているわけではないことをお断りしておく。西部はブームに沸く日本を含めて批難めいて書いていたが。

それで、上記の説明をした上で、拙はサッカーになるのだぁ、などと酔っ払っていつものお店で笑っていたりするのであった。

というわけで、拙はついにサッカーになってしまったといえる。これは正に願ったり叶ったりであろう。この世とは面白くてどうしようもない。


さて、サッカーはサッカーでも、すでに上記したサッカーの一種で、エナジーサッカーだとかもいる。別名エナジーヴァンパイア、日本名を生霊などという。

それは一度措くとして、人への突っ込みは運気を下げる、などという話がある。細かい理屈は気にしないで頂く。

もしくは、ここで元ネタにしている所をご存知であれば、あの話だなと判るが、ここで直接は紹介したことはないので、興味があればご自身でお調べいただこう。


というわけで、サッカーたる拙は、サッカーによるサッカーのためのサッカーの面目躍如をしようと思い立ったのである。というか、いつもやっている気がするのだが。

つまりは突っ込みである。酔って件の如し。



数日、休みが続いていたので、部屋に転がっていた『整体入門』を読んでいた。全部読んだわけではなく、体癖(タイヘキ)の辺りまでで止まっている。


その中までで、入浴に関する話を目にしたものである。単純に言うと、体が柔軟な若い時は温度は低いが、歳を食って硬くなると熱めになってくる。

これはあくまで年齢についてのみで、後は疲れた時は熱く、エネルギーが余っているような疲れていない時はぬるめにすると言っていた。


さあ、ここから突っ込みを始めて、サッカーになってしまおう、という訳である。


とあるブログ、といってもスピリチュアルの話と陰謀論の話をやっているブログだが、「返って身体を冷やして壊しかねない半身浴を流行らせたのは、陰謀だ」ということを書いていたのを思い出した。

その方もぬるめの温度で半身浴をやってみたのだが、話に聞いていたような具合にならず、身体が冷えてしまってかなわないと言っていた。


さてさて。こういう美容と健康によいと言って話を流行らせるというのは、一体どこから出てくるのか。広告代理店が流行らせた、というのはいうまでもないが、そういうのを始めた人物がどういうものなのかは考えないのだろう。

森で果物と野菜を食べるのが至高!と言っていたのに、健康に良いから(身体が喜ぶからと言っていた)と、草食いの牛を食べるなどと宗旨替えしたというラクダの事を友人に話したら、こう返ってきたと以前書いた。

「丸の内のOLですか」と。

ロハスだとかなんだとか、環境やら美容と健康にもよいですぅ、といった流行は、大体女性発信で、友人の発言の如しである。

推測であるが、そういうことを実践するようなOLというのは、人にもよろうが、時間やら金が余っているような奴ではなかろうか。

つまり、熱い湯に浸かりたくなるようなほど疲れてなんぞいない、ということである。

そういうのがぬるめの湯に浸かれば、程よくなる。そういうものである。野口晴哉も、別に入浴は首まで浸かるべしとはいっておらず、その人の身体の裡(うち)からの要求に従えばよいだけだと述べている。言ってしまえば、その人の身体の状況次第では、半身浴がぴったりだということもありえるのである。

レプティリアンがーとか、イルミナティがーとか、散々頭の中を数多のネガティブで埋め尽くす、こり固まった生活をしているのだから、恐らく、丸の内のOLなんぞより憑かれて、ではなく疲れておるに違いない。

そのブログで、半身浴を否定する話として、ガンと宣告された人が治すのあきらめて死ぬ前に温泉巡りしようと思ってやってから帰ったら、ガンが消えたとか書いていた。

その理屈が、熱いお湯に浸かると、ヒートショックプロテインとかいうのが身体に出てきて、これがガンを抑えるだとかなんだとかという。

要するに、心地よいレベルで体温を上昇させればいいのだといえる。今の時期なら暑い日差しでも浴びて汗でも流すがよかろう。そして熱い風呂に入る。丸の内のOLの如きでも、冷房で身体が疲れるだろうから、どちらにしても熱い風呂に入ればよかろう。丁度よい空調でだらだら過ごしているのなら、熱い湯は毒になる。

そういうのを知らないで陰謀だのと言うのはお門違いである。陰謀が含まれていようとも、広告代理店の日常業務の一つでしかないのだから。

自分で陰謀を作ってその陰謀に嵌って、「嵌められた!」と喚いているだけなのだといえる。


自身の裡を見ないで、外からの物に唯々諾々と条件反射しているのでは、サッカーと呼ばれても仕方ないし、またその攻撃の具合もサッカーとなる。


サッカーはやはりサッカーである。そして、そのようなサッカーではない、ただのサッカーとなるのは、まことに難しいのだと思わざるを得ない。


では、よき終末を。


夢にて少女となる

2018-07-09 | 雑記
もう二ヶ月近く前だかに、とあるところで聞いたことがある。

目が覚めたらすぐに見た夢の内容を書きとめることを繰り返すと、記憶力があがるという。

毎日見ている、のかもしれないが見た覚えがなければ書かず、たまに疲れていて書くのをサボったりはしているが、何度か書いてきたものである。

実際やってみると、小学生向けの方眼ノートでは文字数が足りないのではないかと思えるくらい、書いていると足りない時もある。

記憶のコツというのは、覚えるのではなく思い出すことだとは、先日、そのとあるところの別の箇所で読んだものだが、その理屈にそった訓練と相成る。

教えていた人が「忙しい朝の五分をその時間にさけれるかどうかが分かれ目」という風なことを言っていたが、書いていたら三十分以上経っていたので、我ながら書きすぎだと思うこともしばしばである。

書きすぎる気がしたので、細かい描写はあきらめつつ書いているのだが、やはり色々と訳が判らない光景があったりする。


昨日は夜勤明けで、日勤の社員(以前シャイン氏と紹介した人物)が何かの流れかはわからないが、飯をおごってくれるとのことで、夜勤明けのもう一人と日勤全員でピザを食べていた。

挙句の果てに、自分は近くのコンビニでワインを買って来て、一人だけ飲むという有様。家に帰ったのは夕方だった。


そのせいか、日付が変わる前から寝ていたのに、今日はかなり疲労感が激しく、昨日、家路の途中で買っておいた米をようやく開封し、米を炊いて茶漬けを食べたりしていたが、やはり、どうにもならない。

今週は家でゆっくりしようと思っていたので、願ったり叶ったりではある。そう思ったのもあり、食べてしばらくしてから籐の枕で昼寝していたら、変な夢を見たものである。

詳細は上記の訓練に従ってノートに書きとめたのだが、アーミテージみたいな大男の足元に自分がいて、その大男を見上げながら何やら話しているというのがあった。

「何でかな」と言いながら不思議に思って首を傾げると、その大男が身体ごと同じ方向に傾く。向こうも「何ででしょうね」と言っていたかもしれない。

面白かったので反対にやると、大男もまた反対に動く。見た目以上の優しげな雰囲気の、謎の大男であった。

それから、大男を見上げていた視線から外れて、それをやっていた自分と思しき姿を別の視点から見ると、どうも小さな女の子だった気がする。

その後、何かを食べに行くとなり、喜んでパタパタ走っていくさまは正に少女。話を聞いていなかったのかは判らないが、乗る車を間違えるさまも正しく少女であった。

荘周夢にて胡蝶となる、とは漢籍にあるが、夢にて少女となるとは、実に不思議な気分である。



さて。またいつもの話になる。


文明とその生活に溺れた存在を憎んで、森での生活こそが地球とそこで生まれた人間のためのものである、と考え、実践し始めたラクダ達がいると、何度も書いてきた。

ラクダ云々も何度も説明してきたので割愛するが、単なるあだ名である。ゴリラみたいなごつい人にゴリラというのと同じだと思ってくれればよい。

いきなりだが、一つ問題をだす。すぐ下に答えを書くので、答える必要はないが、考えてもらいたい。

現代社会には、数多の宗教がある。古いのもあれば、新しいのもある。

先日、「宗教とは生活パターンである」と書いたので、混乱されるかもしれないが、そのことは措くとして、一般的な認識での宗教というもので考えてもらう。

では、本質的な宗教らしい宗教と、カルト宗教とを分けるものはなんであろうか?



それは、実に簡単な話である。「これこれを実践すれば幸せになれますよ」と言っているか言わないかである。

言わないのが本当の意味での宗教。言っているのは古今を問わずカルト宗教と相成る。

どちらにせよ、上記で断りをいれた「宗教は生活パターン」という意味では、どちらも宗教とはなる。

この区分は、カルト宗教とは言わなかったが、作家のひろさちやが書いていた区分である。ホンモノ宗教とニセモノ宗教という分け方で、ここでカルトと書いたのがニセモノ宗教に相当する。


釈迦は別に悟れば幸せになるとは言っていないし、何かに寄れば悟れるとも言っていないのである。

また、イスラムは神が創られたこの世での生活を正しく実践すれば、死後に神の元へいけるなどとは言っていない。

死後の話は死後のことで、生きている人間には判らない。それは神の決めたことだから。という訳である。

それはともかく、神のお創りになられたこの世でルールを守って皆仲良く暮らしましょう、というのが、イスラムである。

乞食にものを上げたりするのは、死後、神の元へ行けるからではなく、こうすることがお互い喜ばしくこの世を生きていくことだから、という訳であって、義務感だとか正義感でやっているわけではなく、喜んでやっているのである。

日本でも古来から言う。情けは人のためならず、である。回りまわって自分のためになるのだよと。


それなので、皆が森での生活を行えば地球はハッピー!なんぞというのは、大昔からあるカルト宗教である。

似たり酔ったりではなく寄ったりというより、パクリ元はニューエイジであって、彼らの志すものもまた、「古きよき生活」であって、森で原始人が暮らしていたころの生活を焼き直ししたというわけである。

その程度なので、理想に生きて理想に死ぬつもりもないのだろう。肉は一切食わないで生活している、某スポーツドクターのやり方を志していたはずなのに、「身体が喜んでいるから」と、自然に近いという理由で、草だけ食っている牛肉を食べたりしている。

肉を食う食わないはどうでもよい。理想を実現する気がないということだけは判ればよい。

それは現実の模倣に堕しているのである。理想はどこへやら。

文明生活と文明人を憎む彼らは、ただただ、その二つをひっくるめて現代人と言えばいいのだが、現代人となんら変わるところはなかったのである。

彼らのカルトっぷりは以前書いたが、改めて書いておく。

「馬鹿な人類はイルミナティに滅ぼされるがよい」である。

先日、死刑が執行されたオウム真理教の教祖と幹部何名かは、自身の組織で「馬鹿な人類」の粛清を実行したものである。

当時抱いていたであろうこの理想が他人任せという間抜け振りである。己の健康とやらもまた、森での生活という環境任せである。

自身で出来ることをしようとしない奴が、人に助けてもらえる道理はない。また、見える物からしか考えないのだから、見える森のことしか考えられないのである。

このような視野狭窄が地球などと語る。というより、自身の固定観念による地球どまりの考えしか披露していない。「地上天国」なんぞといっていたが、エベレストの天辺は天空にあるように見えるが、あれは地上ではないのか?蟻の視点からしたら、人間の目線の高さは天空であろう。


彼らの生活ぶりは実に楽しそうである。まあ、ネットのインスタもどきでそう書いてあるだけで、実際は知りようがない。


しかし、そうとしても、それは一時のものである。森や地球がなくならない限りという有限のものでしかない。明日どうなるかは、拙にも彼らにも実際は判らないのである。

こういう(明日死んでいるかもしれないということ)、本当はごく当然のことを言うと、愚兄に怒られたものであるが、その「当たり前」が本当は当たり前ではないと感じないのが現代社会なのは言うまでもない。


森は彼らにとっての財産である。それが破産した時、彼らはどう思うのか?森の悉くが消えうせてもなお、希望を持てるのだろうか?



砂漠を通り抜けられる人は、暑さや喉の渇きに人並み以上に耐えられる体を持っているからではない。

それは希望を持っているからである。その希望のイメージの中で生きているので、我慢しようと思わずに暑さも喉の渇きも気にならなかったりするという。


現代社会の生活を砂漠と感じるならば、この砂漠を抜けた先の楽しみを胸に抱くべし、である。



森もビル街も、砂漠に変わるときが来ないとは限るまい。既に例えて言ったが、物があっても砂漠に感じる人もいるのだから。


彼らをラクダとあだ名したものだが、彼らでは砂漠を越えられまいよ、というのが拙の思うところである。ラクダの名折れであろう。

あれらは、ビル街のみを現代文明として、また砂漠だと思いなしているのだから。



では、よき終末を。


矛を向ける先は

2018-07-05 | 雑記
先ほど、とあるアニメを視聴し終わった。馴染みのバーの店長に「面白いぞ」と言われていたので、夕方からずっと見ていたが、酒を飲んだら数時間寝てしまい、こんな時間になっていた。

タイトルやら何やらは別にどうでもいいので、特徴をいくつかだけ書いておく。その話を書きたいわけではないからである。

簡単に言うと、ゾンビと戦う話である。噛まれた人もそのゾンビになってしまい、そういう訳でそこら中に溢れかえっている世界で、主人公が住んでいる町にもとある切っ掛けで押し寄せてくる。

主人公は日頃から対策出来る武器を開発していて、丁度完成したその武器で相討ちしてしまう。

してしまうのだが、侵攻こそ早いがウイルス性の病気やらヘビ毒の如きものであったことも判明していたので、その場で応急処置をすると成功し、半分人間半分ゾンビと化して生き残る。

すると、超人的な能力を持つことになり、噛まれてもゾンビになることもない。

当初は疎まれたり、殺されそうになったりしたが、やがて仲間と協力して、陰謀を働いているが表向きは英雄と呼ばれている人物を打倒するというお話であった。


ゾンビに噛まれた人がそれにならない、というノリは、しばらく前に別のもので見た覚えがあったが、あっちはゾンビに仲間と思われて攻撃されない(後半は違った)が、こっちは襲われる。

超人的な能力を手に入れるというのも目新しい物ではないが、製作スタッフの言通り、王道を行く内容で、アニメの視聴自体が久々なのもあり、見入っていた。


さて、話の感想というにはちょっと違うが、続ける。


敵がいて、それに対処するのが共通事項なのに、パニックに陥るとお互いを疑いあうという、パニック映画なんかでよくある描写があるわけだが、それを意図的に引き起こし、その混乱に乗じて復讐を果たそうとしたのが、上記の内容で書いたが、その世界で英雄と称されている人物であり、なおかつ国のトップの息子だったりする。

国の英雄がそうやって歪んだのは、父親たる国のトップの疑心暗鬼によるもので、復讐の際には、幼少のころに聞いた父親の言い訳と同じ言葉をかけて殺害する。「やったのは恐怖だ」と言っていた。
殺しただけでは飽き足らず、何もかもを破壊していくつもりだったようで、崩壊していく街を眺めながら「次は何を壊そうか」と呟いていた。


物語の冒頭から、役人達の心根がおかしいと主人公は言っていたり、終盤では、主要人物の一人の女性領主が、恐慌状態に陥った住民が事実無根の言いがかりでよそ者を殺そうとするのを諌める。

「本当の敵はお互いを疑う心だ」と、突きつけられた銃口に飛び込みながら述べると、暴徒と化していた住民達は落ち着きを取り戻す、というのがあった。


本当の敵は、恐ろしいゾンビでもなく、また、それを操って人や街を破壊する悪党でもなく、恐怖に振り回されることだというメッセージが込められた内容だった。

メッセージが込められているというより、そういう台詞回しや筋書きなので、何も考えずに見ても誰もが思うところではあろう。



話は代わる。


拙はかつて、某陰謀論者と交流があって、その手の話を音声で流したり書いたりし続けていた時期があった、というのは何度も書いてきた。

陰謀論というのは何かと言えば、この世を牛耳っている何かが人類をほしいままにするために何やらやってきて今の世の中が出来ている、というものである。

どこかの国だったり、何かの理念で動く組織だったり、どこかの大富豪だったり、昨今は宇宙人(最近だけでもないと思うが)だったりと、バリエーションはあるが、内容は変わらない。

古くは悪霊だとか悪魔の仕業と言っていたりしたのだろうと思われる。


これも何度も書いてきたが、陰謀と呼ばれるようなものは一切ないと言っているわけではないことをご承知願う。

上記アニメのラスボスだって、表向きは英雄と呼ばれるほど働きまわっていながら、裏では恨みを晴らすために準備を重ねてきたので、これは「陰謀」を働いていたわけである。


ついでに言うが、その某陰謀論者も似たようなものであったというのも何度も書いた。

「馬鹿な一般人は何がしに滅ぼされて当然だ」という発言を裏ではよくしていたものである。

陰謀を語るものが陰謀と呼ばれているものを肯定するというのは、実に詰まらない話である。漫画にもならない。


彼奴が表でも言っていたことであり、かつまた、色々なところで見かける言い草がある。

「地球を大事にしないと滅ぶぞ」という趣旨の言葉である。

まるで「悪行を積めば地獄に落ちるぞ」と言っている。

そんな言い草は人類が始まって以来、何度となく繰り返された言葉であろう。

そして面白い、いや面白くはないのだが、かつてその著書を翻訳し、当初は絶賛していた人物への評が、天に唾する行為といわざるを得ない。

「彼は昔から言われてきたことを言っているに過ぎない」と。



さて。上記のアニメの話からこういう話に持っていくというのは、もう見え透いてきたかと思われる。


彼奴も、それと変わらない言葉を述べている数多の人々も、また、拙も含めた多くの一般人も、根本的には同じである。

「本当の敵」が見えていないという点である。

この本当の敵を克服しないことには、地球がもっと長生きしようが宇宙人やら悪霊の障りが物理?的になくなろうが、まったく意味がない。

また、地球が吹き飛んでも飛ばなくてもあなたや拙が生きようとも死のうとも関係がない。


それは己の命が損なわれるのが怖いから、地球がとか言い出しているのである。別に命を投げ捨てろとは言わないが。

だから、他者を馬鹿にし、挙句の果てには「滅んで当然」などといいだす。また、生き物はそういう風に動き易く出来ている。

馬鹿にする理由は、理解者が増えないと怖いからである。そうしないと地球が滅ぶから、である。本当にそうなるかどうかは誰にも判らないというのに。

これは、温暖化の話にも同様の流れがある。温暖化自体が科学的に疑問を呈されている状況で、一方的に「滅ぶぞ」と脅して世の中を動かしているのだから。

ついでに、寒冷化の可能性すら指摘されているわけで、そのような状況で温暖化対策だけを特化して進めていると、寒冷化した暁には、穀倉地帯を保護して対策している国なんぞぼろ儲けだろう。

そうなったらそうなったで、陰謀論者は飯の種が増える。五穀豊穣は土地だけではなかったか。

話が逸れたが、怖いから馬鹿にするという攻撃しているわけで、上記アニメの陰謀を働く英雄と変わらない。


某陰謀論者が間抜けとしかいえない言動をしてきたというのを、笑ってはいけない。

これは、人類が昔から続けてきて、なおかつこれからも続く習慣なのだから。


宗教は生活パターンだと、以前、引用して書いた。

恐慌状態に陥ると人々が同じ行動を取るのもまた、「生活パターン」といえる。

上記のアニメで、主人公が役人に正論をもって突っかかってボコボコにされるというのがあるが、役人は「生活パターン」を害されて腹を立てたというわけである。


その程度のものと変わらない動機に、大層な理屈をとりつけただけで、やっていることは言い掛かりでよそ者を殺そうとした恐慌状態の住民と変わらないのである。

恐怖に彩られた心根で、何が見えようというのか。

「本当の敵」は、宇宙人でも陰謀集団でも国家政府でも大富豪でもない。

恐怖に振り回されるその心根といえる。

矛を向けるべきは、己の心臓を皮膜のように覆っている恐怖なのである。
(上記アニメのゾンビは心臓のみが弱点だが、鉄の皮膜に覆われていて当初は一筋縄ではいかなかったというのに掛けただけで、深い意味はない)


毎度毎度説教臭いが、これは人類共通の話である。某陰謀論者が馬鹿なだけと思わないほうがよろしかろうと、老婆心ながら申し添えておく。


まったくもって、下手な話を聞くより面白いアニメを見て感動した方が、人生のためになる。



そうそう。ゾンビと言えば。

彼奴らもよく、一般人をゾンビに例えていた。

何をか言わんや、である。


では、よき終末を。


仙人、モデルと邂逅す

2018-07-01 | 雑記
これを書き始めた日の午前中、以前に何度か告知した、「風呂敷鞄の講習会」を行ってきた。

紆余曲折、というほどではないが、参加者は三名。内一名は市内に住む、大学の後輩であった。

しかし、終了時に講習費を頂戴したところ、何故か四名分貰うことになったのだが、それは今回の企画発案者の女性スタッフの方も実際に着席して講習を受けたからというわけで、締めて四名に風呂敷鞄の作り方を教えたわけである。

しかし、まさか本当に行うことになるとは思わなかった。告知してからすぐに参加表明した方一人だけになるかと危ぶんでいたのだが、かき集めてきた自前のと借りてきたのと、上記の女性スタッフの自前の分(インドの織物)で、参加者全員とついでに店主(大きすぎる布の端っこだけ結んだだけのを持ってもらって)とで記念撮影をして終了と相成った。

ただ、残念なことに、純粋な参加者は一人として風呂敷を持ってこなかった。出来れば自分で作った鞄を持って、使う使わないはいいとしても、こういう事が出来るのだなと自身の肥やしにしてもらえたらよかったなぁとは考える。

とはいえ、肝心要は結び方なので、この先何かで役立ててもらえれば結構である。結び方の練習はハンカチでも紐でも出来る。

それに、一週間くらい前に、馴染みのバーで「例のお店でこの講習会をやる」と喋って、結び方はこうこうと、持ち歩いていた手ぬぐいでやってみせたところ、「それ、知ってる」と返された。
というのも、その結び方で包帯を結ぶそうで、バーの女性店員は「看護師結び」と言っていた。
知っている人は知っているレベルといえるが、見たことがない人には、まるで手品のように見える。

風呂敷を借りたお店に返却しにいってその場で鞄に作り直して渡した後、帰宅途中で気が変わって、いくつか言いふらしていたお店に立ち寄って実演するとかいうことをやってきたが、最初に立ち寄ったお店で見せたところ、店の人はたいそう面白がって、カウンターから出てきて横から作り方を見入っていたりしていたものである。

話を戻して、講習をしてみて思ったところは、発案者の女性スタッフに以前こちらが「そんなに時間もつかねぇ」と言ったら、「意外とすぐに覚えられないと思うから」とか「後は安生さんのトークが長すぎないようにしてくれたら」などと言っていたりしたが、トークはまあ、そんなに出来なかった。講習自体の終了後のランチタイムで飲みながらしゃべって、やろうと思ったネタを話す、などというのはやったが。
それはともかく。一時間半の講習の中で一番時間がかかったのは、結び方の反復練習だった。

同じ視点に立って実演しながら結び方を教えてみたところ、結び方自体は出来たが、何故かセットで見せた解き方を失敗したりだとか、後で戻ってきてやってもらったら、こんがらがって余計な結び方をして失敗したりだとかしているものであった。

もしこれが十人ほどの参加者だったら、一人ずつ実演しながら今のはこう、それは反対、という風にやるところだったので、人数としては丁度良かったと思われる。

十人いたら、結び方を覚えてもらうだけで終ったかもしれなかった。それはそれで、次回に持ち越し、というやり方もありではある。


とはいえ、一時間半の講習でも覚えているのかというと、ちょっと怪しい。

ランチ中に、こちら自前の手ぬぐいを使って抜き打ちでやってもらったところ、もう忘れてたり忘れかけていたりした。

数日前に呼びかけたら参加してくれた件の後輩が覚えているか賭けになったが(勝ったら参加費用減額)、あっさり失敗していた。

「十回連続でやりますから!」と豪語していたのだが、最初の一回で失敗して「これはウォーミングアップ」と負け惜しみを言って・・・という、よくある笑い話の流れになったものである。


今度、お店に自前の風呂敷でも置いてもらって、「和の結び方講習できます(その人がいたら)」みたいな感じで、ちまちまと教えまわるのもいいかもしれないが、そうなると頻繁に店にいなくてはならないので、飲みすぎで倒れかねない。鞄ををディスプレイとして置いて貰って、年中告知できる体勢にするぐらいがよかろうか。

とはいえ、もう既に述べたが、肝心なのは結び方である。別名看護師結びの真結びは、引っ張りに強く、物理的に限界な力がかからなければ、解け難くなる。

なのに、簡単な手順でスルっと解ける。秘密でも手品でもなんでもないので、興味がある方は、ネット上で検索してみるとよい。

とはいえ、一人で動画や写真を見てても中々理解しづらいという人もいる。また機会があれば、こちらも鞄以外の物を包むやり方だとかを勉強しておこうかと考えている。




さて、ここからはまた、いつもの変てこな話である。別に怖い話でもヒナンチューショーな話でもない。


以前から、人に見せるためではない小説のようなものを書いている、というのは忘れたころにここで記している。

それの登場キャラの容姿に纏わることで、あれやこれやと考えていたら、昔テレビで見た女性モデルのことを思い出した。

その女性が好みだとかなんだとかいうのではなく(ある程度綺麗だと思ったら誰でも好みである)、髪型が特徴的だったからである。

奇抜だから、ではなく、もう少し時代を遡った、ゲーム機がスーパーファミコン全盛だったころの話を思い起こす髪型だったからである。

現代で通じる(上の話もまだ現代だが)言葉だと、今調べたらウィキナンタラにも載っていた、「ぱっつん」という髪型である。

上でも触れかけたが、某高校を舞台にした恋愛シミュレーションゲームでそういう髪型の女性が出てくる。

のだが、ファ○通の当時の記事だとかで「ヘルメット」なんぞと言われていた印象が拭えず、普段はモデルの名前を覚えることがなかったのだが、覚えてしまったものである。

あのモデルさん、普段テレビ見ないのもあるが、元気かねぇ?などと思い、じゃあ、それで行こうと考えた次の日か数日後。


馴染みのバーに夕方立ち寄って、テレビを見ていた。何かないかねと、店の人にチャンネルをいじってもらっていたところ、懐かしい名前を見た。

NHKでやっていた、ノストラダムスについての特集番組の再放送があり、マスターも気になったのかそれにする。

番組が始まってすぐ、ナビゲーターが画面に現れ、内容を話すのだが、つい先日名前も顔も思い出した、その女性モデルが映っていた。

驚いたが、上の話をするわけにもいかないし、したくないので、黙って番組を見ていた。しかし、変わっていなかった。髪形が。

ちなみに、五年前の番組の再放送とのこと。

世の中、不思議で一杯である。



日常の些細でつまらない話ではある。

しかし、上記のように思えるかどうかで、日常は不思議なのだと思えるかどうかで、物事は一変してしまう。

風呂敷講習の話で例えるなら、向こうからのお誘いだったとはいえ、こちらが強情を張れば行われることもなかった。

が、こういうものでも習い事になるのだなぁと不思議に思って承諾し、開催する運びとなった。


ここからまた、特定であり不特定多数への批難染みた話になるので、お覚悟を。


かつて、サラリーマンをやっていたある男性は、世の中を牛耳っているという存在のことを知る。

後ついでに、家のこととか毎日の通勤電車とかで嫌になっていたのもあったろう。多分。

それで脱サラして何やらその手の本を翻訳したり、文明生活がいけないのだと農地を開いたりして、今は幸せだーとかやっている。

世の中を牛耳っている存在云々はなくても構わないが、見せ掛けの規模が違うだけで、同じ事を思っている。

「世の中は嫌な物でしかないし、自身の生活は嫌な物だ」と、何ごとにつけてもそう思っていたのである。


現在、彼とその伴侶の目的は、「世の中をマネーのいらない生活に導くこと」だとのこと。

実に不思議である。何が?その生活を見せびらかすのが楽しくて仕方ないらしいが、それはマネーがある故に成り立っているという点である。

いずれその目的が達成されるために現在はそうしているというのであろうが、そんなことはどうでもいい。

「世の中(今のその生活環境)は良い物でしかないし、自身の生活は良い物だ」と、現在は何事につけてもそう思っているだけなのだから。

何かが原因で自分はこうなったと決め付けているだけで、要するに、環境や対象に振り回されている点がまったく変わらないのである。

だから、何事かを槍玉に挙げて排撃対象となし、それが達成できれば幸せになれるとのたまう。


彼らは、そして我々も常々思い起こさないと忘れるし、また聞いただけでは実感しないのも常だが、考えてもらいたいものである。

朝起きたとき、まだ自分が生きているということは、実に不思議なことなのだと。

生きていることを不思議だと考えることに、マネーも文明生活も関係ない。だから、マネーのない生活に導かれれば幸せだとか曰まうというのは、世迷いごとである。

そんなことは人間をやっている時点で既に達成されていたのだから。

とはいえ、こういう言い草の方が世迷いごとにされるのが不思議な世の常だと、拙は不思議に思いながら、風呂敷を広げたり畳んだりするのである。



では、よき終末を。