先週は休みが続いていたので、久々に『整体入門』を読みかけていたと書いた。
野口晴哉はずっと言っていた。現代人は食べすぎなのだと。それで糖尿になったりするわけで、さして食わなくても食いまくっていた時より遥かに身体は動くのだし、食べ過ぎて怠けるなら、それこそ悪いことをする以外になくなるわけで、活元運動が広まれば、お互いを疑りあって暮らすようなことはなくなるだろう、という風な希望を述べていたものである。
思うに、世にはびこる陰謀とやらの遠因は、己の裡の要求というのを無視した、上で言ったように食べすぎて怠ける己のことを無視した結果なのでなかろうかと。
そうなると、あまり動かなくて儲けようなどと考えれば、悪い事をせざるを得なくなる。なら、世の中を牛耳っている、パッとみでも判るような、いわば「お偉方」じゃないかと言われそうだが、まずは考えてもらおう。
あなたが思いつくことは、既に誰かが思いついている。なら、誰かが思いつくことはまた、あなたも思いついて当然である。
いわゆる「悪いこと」を思いついて実行される原因は何か?それに思い至らなければ、「歴史は繰り返す」こととなろう。
とはいえ、人の身であり続ける限りは、繰り返される歴史というある種のフィクションに沿って動き続けることになるのもまた、必然と言える。
だからといって、森に入ったところで人を辞めたつもりになるのは、それこそ人の愚かしさそのものであると、何度も指摘した。
さて、先ほど、何かの縁で健康関係のHPやらを見ていた。スギナの茶が健康にいい!というのをたまたま見て、そこから調べたら行き当たった。
いわゆる陰謀論の話を展開していた。そのことについては、異論はまったくない。
表面上は儲け続けようと思ってやってきていることだから、人を間引いて(死人続出のがん治療だとか)、それらの遺児には現状維持を教え込み(世の中の決まりきった形を型通りに教える)、かつて遺児だったものはまた間引いて・・・と繰り返すのが、今時の商売のやり口であるのは、言うまでもないからである。子供が大人になったら、その大人が子供時代のおもちゃを買いなおす率は低かろう。
そして、そういう世の中の流れというのは、実に不可逆的で、絶対的な何かの力で動いているように感じるし、また思える。
個人の力は無力である。それはそうだ。人が人を変えるというのは、山を切り崩すより大変というより無理である。
先日来から言おうと思っていて、書いているうちに忘れたり話が長引いて逸脱したり、はっきり書けてなかったりしたことがあった。
さっきも書いたが、世の中というのは、実に抗い難いもので、こちらを押し潰すのではないかと考えるのも無理はないと。
これはまるで現代社会特有なのかというと、そうではない。
健康の良し悪しは別とし、日本だけで見るとしても、そこら中に餓死者が溢れているような時代ではないのは判るだろう。災害が立て続けに起こってはいるが、『日本沈没』の憂き目に会っているわけでもない。
かつては、食いつなぐことすら困難だった時代が長かった。日本も例外ではない。
森で生活していたから安泰、というのは楽観にすぎる。森は現代でいうコンビニではない。
仮にそうだったとして、どうして飢餓状態で発揮される遺伝子が我々の身体に残されているのか?それは進化だったのか?最初から無かった体力なら、火事場でも出なかったはずだとは、野口晴哉の言である。
森でたらふく食っているだけでよかった、などというのなら、安定をもたらした森林の消失と共に、我々の先祖に当たるものは、地上から姿を消していたであろう。
だが、我々は生きている。木の股から生まれたのなら森で暮らせばよかろうが、木の股から生まれた証拠を出してもらわねばなるまい。
また話しが脱線してきたので、元に戻す。
かつては自然の、または神の「陰謀」だった人類への災害だとかの困難は、現在はまだ目に見える形での軍産複合体による「陰謀」という流れになっただけで、別に何も変わってはいない。
地震兵器についての話なんぞは、昭和の新聞では当たり前に出ていたと聞く。出なくなった年代は知らないが、恐らく二千年代からは出なくなったと思われる。
ジャーナリストのウイリアム・イングドールが、その現在の神(自然の、または神の「陰謀」というのにかけただけである)がやろうとしている統治、その名も「ニュー・ワールド・オーダー」について言っていた。
あれは新しくなんかない。アンシャン・レジームの復刻でしかなく、「ワン・ワールド・オーダー」と呼ぶべきだと。
それらが人の形をしているからなんとか出来るとお思いの方も多いだろうが、人が人を力ずくで変えるのは無理である。出来ても破綻するだろう。
ならばどうするかというと、己自身を変えよ、である。
何ゆえ大企業やら大富豪のとてつもない陰謀を書き散らすのか?書けば書くほど、またそれらを見れば見るほど、己の中にある恐怖が膨れ上がるだけである。
なら、無視すればよいのかというと、これもまた違う。
無視するのは、恐怖を克服しているからではなく、ただ、己の中の恐怖心を見たくないがゆえである。
それらの情報を知るのはいいが(推奨はしない)、恐怖心と猜疑心の塊になるのなら、意味はない。
陰謀を書き散らす人に伺いたいところだが、仮に、そういう存在を全て抹消したのち、何をするのか?
曲がりなりにも、というとあれだが、彼らが敷いて(強いて?)来たと思われるレールの上で成り立っている生活をぶち壊す覚悟はおありか?
また、その後の混迷を統治する気概がおありか?
己の不幸は何某のせいだ、と言っているだけではないのか?
似た話は、知り合いからも聞いたものである。
某駅前で、「安倍を辞めさせろ!」とチラシくばったりしている人がいて、知り合いはちょっと癪に障ったので聞いたそうだ。
「安倍を辞めさせたとして、それからどうするのだ?」と。
その相手は、特にどうしたいという言葉は出てこず、ただ安倍を辞めさせるのが目的だというノリで、会話にならなかったそうだ。
これと同じになっていないか?という訳である。
話が回りくどくなったが、簡潔にいう。
陰謀とやらも含めて、周りがどうこうではなく、あなたは何をしたいのか?どのように生きたいのか?これだけなのである。
某森の生活者は、マネーがない世の中を作ると言っておったが(フタコブラクダの方の新HP)、マネーが無くなれば幸せになるというのは、既に述べた「己の不幸は何某のせいだ」の言い換えに過ぎないのである。
また同様に、「これがあるから幸せだ」というのも同じ。コインの裏と表である。
上記のビラ配りと同様、目に見える対象に振り回されているに過ぎない。
コインの裏と表に違いはない。百円玉の裏は五百円の価値がある、などというのはおかしな話であろう。
さて、話は代わるが。
先ほど、この話の切っ掛けになった、某健康と陰謀のHPの件に絡めて、少々続ける。
現代人は栄養が足りない、というのは、ちょくちょく聞く。
曰く、土壌のミネラルがとか、農薬のせいでとか、遺伝子改良作物のせいでとか、穀物が本来は人間に合わないからとか、以前からよく聞いてきた話であった。
別に目新しくも無く、また、今まで習ってきたことから逸脱もしていない。
それは今まで通り、食べたものの成分を取り込んでいると思い込んでいるのだから。それには違いないとするとしても、正しいとは思えない。
野口晴哉が言っていた。
いろいろと余分な栄養を与えて、食物から栄養を摂取しようという体の勢いを消してしまうというのはよくあることだと。
また、一粒種が大樹になるのは、必要な物質を気が集めてきてなったのと同様に、人の体も要求によって生み出された気が必要な物質を集めて生み出したのだと。
江戸時代に日本を訪れた外国人の手記があるのをご存知か。
その中にある記述で、雇った人力車の車夫が何を食っているのかと思ったら、野菜と穀物メインだったので、これはいけないと思い、力つけてくれと肉を食わせていたら、後の方で「もうやめてくれ」と言い出したそうな。
食わせていたら、当初のような力強さがなくなっていったという。
別にベジタリアンになれ、という話ではない。
現代の我々は、栄養が足りていないと、そういう風に気を動かしてしまっており、栄養があると聞けば飛びつく状態なのだと。
野口晴哉が現役だった何十年か前からも、流れは変わっていないといえる。
いわゆる陰謀論というのは、常識の否定と相成っている。
なら、そういう常識も否定すべきものであろう。
また、政治活動やらをして他人や環境を変えていくというのも、正に常識的である。
世の中を変えたいというのなら、己を変えろというのは、現代社会では正に非常識である。
だから、外ばかり見ないで、己の内側を見、さらにそれを広げていく努力をすべきである。
スペインの思想家、オルテガが見出した命題がある。ずっと前にも何度か書いたものだ。
「わたしとは、「わたし」とその環境である」と。
わたしが変われば環境も変わる。それはオルテガ以前からも、ずっと伝わっている話ではある。
常識と、それの対になったかのような恐怖で「わたし」を縮め続けているのなら、自ずと環境も小さく、また歪になろうというもの。
病気が治ったらどうしたい?という質問にまともに答えられない人がいる。
するとどうなるか?病気が長引く。もしくは悪化して死ぬ。
仮に世の中からいわゆる陰謀が無くなったとしても、夢も希望も持っていないなら、その先は闇が続くというわけである。
そういう人を助けてくれるとかいう宇宙人とやらは、間違いなく、詐欺師であろう。
夢や希望のお手伝いしてあげます、というならまだしも、絶望の淵に立とうという人を助けますというのは、霊感商法と同類なのだから。
だから、病気が治った後のことを世界人類同時に答えられるはずがないので、「陰謀」は消えないのである。
本当の陰謀とは、あなた自身が夢や希望を抱いていないことだといえる。本人が夢や希望だと思っても、それは何かの裏返しだったりするからである。
最早何もかもなくなったとしかいえない状況でも見出せるか否か、である。
ヴィクトル・フランクルが、収容所での生活で見出したかの如くに。
彼は例えば、「収容所から出るときは絶対右足!」という孤独なゲームをやっていた。建物から右足で出ることに何かエネルギーが充填されるとかいうのがあるというわけではないことをお断りしておく。
そういう勘違いが多いのも、人の性という奴である。成功法則の真似をしても成功しないことが殆どな理由の一つであろう。
長くなったが、陰謀自体を否定する気はない。むしろ、よくここまで計画してきたものだと(本当かどうかは別として)感動すら覚える。
現代の生活を、アウシュビッツの収容所と同じだと考えるとフランクルに失礼かもしれないが、そう思うのなら、日々の収容所の生活のうちに、看守にも見破られない独自のゲームをするのがよろしかろう。
それを希望というのである。夢や希望を思い描けるのは、人間だけなのだから。
夢も希望も本当に思い描けなくなると、現実の模倣をするだけになる。
しつこいが、森での生活が理想だというのも、かつての、また現代にも続いている現実の模倣であるからだ。
陰謀があるから希望が失われるのではない。希望を失っているから、陰謀につけこまれるのである。
では、よき終末を。
余談だが、どこぞの天気予報で、「この暑さは終末まで続く」とか書かれていたというのを先ほど見たものである。
野口晴哉はずっと言っていた。現代人は食べすぎなのだと。それで糖尿になったりするわけで、さして食わなくても食いまくっていた時より遥かに身体は動くのだし、食べ過ぎて怠けるなら、それこそ悪いことをする以外になくなるわけで、活元運動が広まれば、お互いを疑りあって暮らすようなことはなくなるだろう、という風な希望を述べていたものである。
思うに、世にはびこる陰謀とやらの遠因は、己の裡の要求というのを無視した、上で言ったように食べすぎて怠ける己のことを無視した結果なのでなかろうかと。
そうなると、あまり動かなくて儲けようなどと考えれば、悪い事をせざるを得なくなる。なら、世の中を牛耳っている、パッとみでも判るような、いわば「お偉方」じゃないかと言われそうだが、まずは考えてもらおう。
あなたが思いつくことは、既に誰かが思いついている。なら、誰かが思いつくことはまた、あなたも思いついて当然である。
いわゆる「悪いこと」を思いついて実行される原因は何か?それに思い至らなければ、「歴史は繰り返す」こととなろう。
とはいえ、人の身であり続ける限りは、繰り返される歴史というある種のフィクションに沿って動き続けることになるのもまた、必然と言える。
だからといって、森に入ったところで人を辞めたつもりになるのは、それこそ人の愚かしさそのものであると、何度も指摘した。
さて、先ほど、何かの縁で健康関係のHPやらを見ていた。スギナの茶が健康にいい!というのをたまたま見て、そこから調べたら行き当たった。
いわゆる陰謀論の話を展開していた。そのことについては、異論はまったくない。
表面上は儲け続けようと思ってやってきていることだから、人を間引いて(死人続出のがん治療だとか)、それらの遺児には現状維持を教え込み(世の中の決まりきった形を型通りに教える)、かつて遺児だったものはまた間引いて・・・と繰り返すのが、今時の商売のやり口であるのは、言うまでもないからである。子供が大人になったら、その大人が子供時代のおもちゃを買いなおす率は低かろう。
そして、そういう世の中の流れというのは、実に不可逆的で、絶対的な何かの力で動いているように感じるし、また思える。
個人の力は無力である。それはそうだ。人が人を変えるというのは、山を切り崩すより大変というより無理である。
先日来から言おうと思っていて、書いているうちに忘れたり話が長引いて逸脱したり、はっきり書けてなかったりしたことがあった。
さっきも書いたが、世の中というのは、実に抗い難いもので、こちらを押し潰すのではないかと考えるのも無理はないと。
これはまるで現代社会特有なのかというと、そうではない。
健康の良し悪しは別とし、日本だけで見るとしても、そこら中に餓死者が溢れているような時代ではないのは判るだろう。災害が立て続けに起こってはいるが、『日本沈没』の憂き目に会っているわけでもない。
かつては、食いつなぐことすら困難だった時代が長かった。日本も例外ではない。
森で生活していたから安泰、というのは楽観にすぎる。森は現代でいうコンビニではない。
仮にそうだったとして、どうして飢餓状態で発揮される遺伝子が我々の身体に残されているのか?それは進化だったのか?最初から無かった体力なら、火事場でも出なかったはずだとは、野口晴哉の言である。
森でたらふく食っているだけでよかった、などというのなら、安定をもたらした森林の消失と共に、我々の先祖に当たるものは、地上から姿を消していたであろう。
だが、我々は生きている。木の股から生まれたのなら森で暮らせばよかろうが、木の股から生まれた証拠を出してもらわねばなるまい。
また話しが脱線してきたので、元に戻す。
かつては自然の、または神の「陰謀」だった人類への災害だとかの困難は、現在はまだ目に見える形での軍産複合体による「陰謀」という流れになっただけで、別に何も変わってはいない。
地震兵器についての話なんぞは、昭和の新聞では当たり前に出ていたと聞く。出なくなった年代は知らないが、恐らく二千年代からは出なくなったと思われる。
ジャーナリストのウイリアム・イングドールが、その現在の神(自然の、または神の「陰謀」というのにかけただけである)がやろうとしている統治、その名も「ニュー・ワールド・オーダー」について言っていた。
あれは新しくなんかない。アンシャン・レジームの復刻でしかなく、「ワン・ワールド・オーダー」と呼ぶべきだと。
それらが人の形をしているからなんとか出来るとお思いの方も多いだろうが、人が人を力ずくで変えるのは無理である。出来ても破綻するだろう。
ならばどうするかというと、己自身を変えよ、である。
何ゆえ大企業やら大富豪のとてつもない陰謀を書き散らすのか?書けば書くほど、またそれらを見れば見るほど、己の中にある恐怖が膨れ上がるだけである。
なら、無視すればよいのかというと、これもまた違う。
無視するのは、恐怖を克服しているからではなく、ただ、己の中の恐怖心を見たくないがゆえである。
それらの情報を知るのはいいが(推奨はしない)、恐怖心と猜疑心の塊になるのなら、意味はない。
陰謀を書き散らす人に伺いたいところだが、仮に、そういう存在を全て抹消したのち、何をするのか?
曲がりなりにも、というとあれだが、彼らが敷いて(強いて?)来たと思われるレールの上で成り立っている生活をぶち壊す覚悟はおありか?
また、その後の混迷を統治する気概がおありか?
己の不幸は何某のせいだ、と言っているだけではないのか?
似た話は、知り合いからも聞いたものである。
某駅前で、「安倍を辞めさせろ!」とチラシくばったりしている人がいて、知り合いはちょっと癪に障ったので聞いたそうだ。
「安倍を辞めさせたとして、それからどうするのだ?」と。
その相手は、特にどうしたいという言葉は出てこず、ただ安倍を辞めさせるのが目的だというノリで、会話にならなかったそうだ。
これと同じになっていないか?という訳である。
話が回りくどくなったが、簡潔にいう。
陰謀とやらも含めて、周りがどうこうではなく、あなたは何をしたいのか?どのように生きたいのか?これだけなのである。
某森の生活者は、マネーがない世の中を作ると言っておったが(フタコブラクダの方の新HP)、マネーが無くなれば幸せになるというのは、既に述べた「己の不幸は何某のせいだ」の言い換えに過ぎないのである。
また同様に、「これがあるから幸せだ」というのも同じ。コインの裏と表である。
上記のビラ配りと同様、目に見える対象に振り回されているに過ぎない。
コインの裏と表に違いはない。百円玉の裏は五百円の価値がある、などというのはおかしな話であろう。
さて、話は代わるが。
先ほど、この話の切っ掛けになった、某健康と陰謀のHPの件に絡めて、少々続ける。
現代人は栄養が足りない、というのは、ちょくちょく聞く。
曰く、土壌のミネラルがとか、農薬のせいでとか、遺伝子改良作物のせいでとか、穀物が本来は人間に合わないからとか、以前からよく聞いてきた話であった。
別に目新しくも無く、また、今まで習ってきたことから逸脱もしていない。
それは今まで通り、食べたものの成分を取り込んでいると思い込んでいるのだから。それには違いないとするとしても、正しいとは思えない。
野口晴哉が言っていた。
いろいろと余分な栄養を与えて、食物から栄養を摂取しようという体の勢いを消してしまうというのはよくあることだと。
また、一粒種が大樹になるのは、必要な物質を気が集めてきてなったのと同様に、人の体も要求によって生み出された気が必要な物質を集めて生み出したのだと。
江戸時代に日本を訪れた外国人の手記があるのをご存知か。
その中にある記述で、雇った人力車の車夫が何を食っているのかと思ったら、野菜と穀物メインだったので、これはいけないと思い、力つけてくれと肉を食わせていたら、後の方で「もうやめてくれ」と言い出したそうな。
食わせていたら、当初のような力強さがなくなっていったという。
別にベジタリアンになれ、という話ではない。
現代の我々は、栄養が足りていないと、そういう風に気を動かしてしまっており、栄養があると聞けば飛びつく状態なのだと。
野口晴哉が現役だった何十年か前からも、流れは変わっていないといえる。
いわゆる陰謀論というのは、常識の否定と相成っている。
なら、そういう常識も否定すべきものであろう。
また、政治活動やらをして他人や環境を変えていくというのも、正に常識的である。
世の中を変えたいというのなら、己を変えろというのは、現代社会では正に非常識である。
だから、外ばかり見ないで、己の内側を見、さらにそれを広げていく努力をすべきである。
スペインの思想家、オルテガが見出した命題がある。ずっと前にも何度か書いたものだ。
「わたしとは、「わたし」とその環境である」と。
わたしが変われば環境も変わる。それはオルテガ以前からも、ずっと伝わっている話ではある。
常識と、それの対になったかのような恐怖で「わたし」を縮め続けているのなら、自ずと環境も小さく、また歪になろうというもの。
病気が治ったらどうしたい?という質問にまともに答えられない人がいる。
するとどうなるか?病気が長引く。もしくは悪化して死ぬ。
仮に世の中からいわゆる陰謀が無くなったとしても、夢も希望も持っていないなら、その先は闇が続くというわけである。
そういう人を助けてくれるとかいう宇宙人とやらは、間違いなく、詐欺師であろう。
夢や希望のお手伝いしてあげます、というならまだしも、絶望の淵に立とうという人を助けますというのは、霊感商法と同類なのだから。
だから、病気が治った後のことを世界人類同時に答えられるはずがないので、「陰謀」は消えないのである。
本当の陰謀とは、あなた自身が夢や希望を抱いていないことだといえる。本人が夢や希望だと思っても、それは何かの裏返しだったりするからである。
最早何もかもなくなったとしかいえない状況でも見出せるか否か、である。
ヴィクトル・フランクルが、収容所での生活で見出したかの如くに。
彼は例えば、「収容所から出るときは絶対右足!」という孤独なゲームをやっていた。建物から右足で出ることに何かエネルギーが充填されるとかいうのがあるというわけではないことをお断りしておく。
そういう勘違いが多いのも、人の性という奴である。成功法則の真似をしても成功しないことが殆どな理由の一つであろう。
長くなったが、陰謀自体を否定する気はない。むしろ、よくここまで計画してきたものだと(本当かどうかは別として)感動すら覚える。
現代の生活を、アウシュビッツの収容所と同じだと考えるとフランクルに失礼かもしれないが、そう思うのなら、日々の収容所の生活のうちに、看守にも見破られない独自のゲームをするのがよろしかろう。
それを希望というのである。夢や希望を思い描けるのは、人間だけなのだから。
夢も希望も本当に思い描けなくなると、現実の模倣をするだけになる。
しつこいが、森での生活が理想だというのも、かつての、また現代にも続いている現実の模倣であるからだ。
陰謀があるから希望が失われるのではない。希望を失っているから、陰謀につけこまれるのである。
では、よき終末を。
余談だが、どこぞの天気予報で、「この暑さは終末まで続く」とか書かれていたというのを先ほど見たものである。