ウヰスキーのある風景

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ナチスの遺産

2014-09-20 | 雑記
このごろ、というより、今年に入ってからのブログの題材は、まあ、あの豚の尊師とのイザコザから見出したことを普遍的なところへ持っていこうという、元から無謀なことをやってきたのだが、それとはまた別なことがある。

何か着目して、それについてあれやこれやと思いふけっていると、ついダジャレを思いつくという。この間の「センミンゼミ」なんぞは判り易い例ではある。
「センミンゼミ」については、ダジャレを思いついたからではない。その本質がダジャレのようだったからというわけで、わしに責任はない!ダジャレが寒くてもわしには何の咎もないのである!!


と、冗談は終わりにして、しばらく前から気になっていたことを一つ。


尊師のことについて書いていたら、かつての関係者からメールを貰い、そのタレコミで記事を書いてきたりもした。

その方(「まろん」さんである)と何度かメールでやり取りをしてきたし、先月はその旦那さんとと共に三者会談をしたものである。

タイトルの話に持っていくのに時間をかけると何を書くか忘れるし、疲れて忘れる可能性も大だが、分けて書くのも問題ありなので、もうしばらく。

たいしたことじゃない。

いつか本人にメールでお伝えしようかと思っていたのだが、これもまた、個人だけの問題ではないので、何かお困りの方へのヒントになったり、わしのダジャレのネタ・・・にはならんが、まあ、それはともかく。

以前、おしかりを受けた話は書いたが、「まろん」さんがうっかりこちらの本名を書いてコメントしたというアレである。

ご本人はそのことなども含めて何度か言っていたのだが、「何度も失敗して痛い目見て覚えようとしてるけど、なかなか上手くいかない」と。

たしか、そういう風な言い方をしていたように思う。


こりゃなんじゃろうなぁ、とつい思うわけである。で、前々から仕入れていたけども出す機会を逸していた話にもっていける。

DJあおい、という、世の悩める女子に恋愛やら生き方について相談を受けたりブログで記事書いたりしている人がいる。
完全素人のわしとは違う、そーゆー仕事の人なんだろうが、詳しくはしらん。

で、その人が言っていた。またもや記憶で言うので、丸写しではないことをお断りしておく。

「その人自身の間抜けさというのは、咎めても直らない。そのままでよい」

これはまあ、どこでも聞く話であろう。だが、続きが違った。

「そのままでよいというのは、矯正しないということではない。許して受け入れることで、気づいて直っていくのである」

と、こーゆー風に述べていた。

あんまりしつこいと嫌がられるかもしれないが、「まろん」さんのコメントの件があった記事で、「マザコンは間抜け」という風に書いた。

マザコンが間抜けとは何事だ!とお叱りを受けたわけだが、わしの話の前提にあったのは上記のことであったことをご承知願う。

それを踏まえて書き直せば、こういうことになる。

「間抜けだなぁと気がついて許して受け入れれば、自然とマザコンに振り回される間抜けさも消えていくのである」とでもしておく。


許す、というのはやはり、余裕が無ければ出来ぬこと。「まろん」さんも恐らく、余裕がないのだといえる。まあ、周りが咎めてくるから、それで余裕がなくなるというのも人間世界では詮無きことゆえ、まずは「余裕が無いのダナァ」と、そこから始めるとよいのかもしれない。

尊師も余裕がなくて首が回らなくなったから、尊師になったのであろうナァ。ありがたやありがたや。


さて、ここからは、わしの余裕がなくなるような話である。なんのこっちゃ。



タイトルの話である。おどろおどろしい。もうね、ナチス、なんて言葉がおどろおどろしい。まあ、それだけである。


ナチスってなんぞや、と、説明するようなもんではないが、第二次世界大戦時のドイツの与党である。代表はヒトラー。
国民投票でもって、ヒトラーは初代総統に就任した。総統、なんというものはそれまでなかったわけである。そんな話はいいとして。


そのヒトラー、以前もアリス・ミラーの話などで引っ張り出してきたものだが、今回はアリス・ミラーはお休みである。


アドルフ・ヒトラーというのは、なにやら霊感のあった感じの人で、色々な逸話や、彼自身が残した発言などが伝わっている。

その発言の内容は、後々のことを指摘していて、現代においてことごとく的中している。「ヒトラーの予言」といわれたりしているそうな。

例を挙げるのは別にここでの主要な問題ではないし、ご自身でお調べいただいた方が面白いと思うので、特に出さないが、色々と戦慄するやもしれぬ、と、わざと煽っておく。


実はこの話は、今年の暴露ラヂヲでも触れた覚えがあるが、もはや昨日のことも遠い昔のことなので、思い出せない。
重複することを厭わぬ、弛まぬ精神とオホメいただければ光栄である。


さて措き、ナチス時代はどういう風潮だったか。

労働賛美、健康的な肉体賛美、伝統的なドイツ賛美、あとは純血なアーリア人種という神話。
こーゆー感じを宣伝していたのがナチスの時代だったといえる。

労働賛美?と思った方はちょっと鋭い。いや、鋭いかどうかはしらん。なちすなちすと言うが一体なんなのかはよく判らん人が多いだろう。

ナチス、という名は、ドイツ語の党の名前からだが、正式名称は「国家労働社会党」である。

全体主義の国が、例えばその当時の日本(のイメージ)みたいに、極右なのかと思ったら、つまるところ、ドイツは極左政権だったといえる。細かいところはともかくとして、「社会党」として動いていたのが、ナチスだったわけだ。
まあ、政治でいう右とか左の始まりは、実はどっちも具合の違いで、向きは一緒なんだそうだが。

というわけで、労働賛美。働くって素晴らしい!働かない、働けない存在は社会のゴミだ!金貸しユダヤは排除しろ!となる。

健康賛美もまた、不具者はフグイカだ!刺身にしろ!となるわけだ。何を言っているんだこれは・・・。

伝統的なドイツ賛美はよくはしらんが、いつの時代も、当時の閉鎖的な状況を否定し、新しい道を模索していた存在、例えば芸術、学問、思想。こういったものを否定していた。
実はそれらはイルミナティが吹き込んだもので・・・と、アイクだとかは言いそうだが、どうでもいい。

古代の支那は、始皇帝の時代。もうこれを言ったらある言葉が浮かぶだろう。

焚書坑儒、である。実際に本を焼き捨てたし、まともな学者は殺したり逃げたりした。芸術作品もことごとく破壊されたものである。

純血なアーリア人種云々だが、彼らは「アーリア人こそ最も偉大な人種」という神話を吹聴していた。
誰でも知っていようが、ヒトラー自身はユダヤの血が混じっている。
細かい話はしらんが、別にアーリア人が偉大と彼自身が言っていたのかは判らない、という風な話を聞いた気もするが、別に気にしない。

というわけで、世界に冠たる第三帝国のために、「正しくない」存在を排除しようと働いていたのが、ナチス時代のドイツである。


ヒトラーは、健康に気を使っていた。本当に使っているのか?という風な感じだが、主張としては、菜食主義を推奨していた。タバコは吸わない、酒も飲まない。

気持ちの悪いほど規則正しい世の中にしようとやっていたのである。それがナチスの時代。

「怠け者」は殺されたのである。政治犯や精神病患者、挙句には同性愛者も収容所に送ったそうだ。


さあ、ナチスの紹介はここまで。


第二次世界大戦終結後、連合国はある声明をしていたそうだ。

「ナチスの遺産は全て破棄する」という風な。

ところがどっこい。今現在、ことごとくが実際はナチスの遺産から出ている。ロケットの構想もヒトラーは言っていたそうだ。

ヒトラー自身も、それに近いような予言をしていた気がするのだが、パッと見たところ、それらしいところに出くわさなかった。そーゆー解釈を記したところだったのかもしれないが。

さて、ナチスの遺産。世の中の政治やその上層部で何やらしている(陰謀論)というのも、まったく的外れともいえないわけであるが、そんなものを超越した!とほざいているやつらも、ナチスの遺産で生きているのである。


別に、科学技術だとかではない。頭の中身が、である。


ナチスの時代について、もう一度キーワードを。

一、労働賛美
二、健康的な肉体賛美
三、伝統賛美
四、純血な人種


さあ、皆で考えよう!と、昔あったクイズ番組の台詞はいいとして、解き明かしていこう。


果物と葉野菜が人間にとって正しい食生活である、そうしないと人間は狂う!狂っている!と、そう狂ったように主張している神人がいる。

果物食って体動かして、森に従って生きるのが正しかったから正しい、というわけである。

そーゆーのを自然に沿った、と皆判で押したように言うが、森に従っていただけであろう。ともかく。


森の時代の労働賛美。木に登って果物食って、天敵を見たら逃げて、また木に登って果物を食う、という労働生活は素晴らしい。正しいね!

森の時代の肉体賛美。そうやってたら体が鍛えられるから、力強くて(逃げ足速くなって)素晴らしい。正しいね!

森の時代の伝統賛美。森で長年そうやってたから、森もそれにつられて変わっただけなのを自然だと主張してる間抜けだけど、それで別に十分であるから、素晴らしい。正しいね!

森の時代の純血賛美。森に入るまでの話は一切無視してるのに、森にいたころだけは素晴らしかったから素晴らしい。正しいね!

そーしない「病気」な存在は皆消えてなくなれば、素晴らしい世界になる。正しいね!


・・・書いてて気分が悪くなってきた。


最後の行だけ抜いても変わらん。ナチスの頓珍漢と何が違うのだ?



正しい食事と生活をしていたら、超人になってバカな奴らを駆逐できるかもしれない、という風な話を豚人会館、じゃなかった、暇人会館とかいう、尊師の運営していた掲示板でたまさかに話題になったものだった。


ヒトラーも超人だとか、神人とかいう話をしていたものである。世界は二極化し、劣悪で命令どおりにしか動かないロボットのような存在と、それを動かす超人だか神人だかに別れていくのだと。


果物を食おうが食うまいが、ロボットは元々ロボットである。己のつまらん本能に左右されきることだけが正しい、といいたいだけの間抜けは、そもそもロボットである。そもそも、本能であるかどうかすら疑わしい。

果物を食ったほうが、もっと不具合の少ないロボットになるだけなのだろう。かつては森のロボットだったのだから。

果物を食っているやつらの中にも、ロボットではないような人もいるのであろう。ただ、少なくとも、尊師がそれに値しているとは思わない。


ナチスの主義を、「ナチズム」と呼ぶそうだが、果物(飽くまで果物は代表だが)を食っている奴らが「ナチズム」と変わらないのなら、果物の梨にかけて「ナシズム」と呼ぶことにする。

梨に失礼なので、ロボットに脳みそは無いから、能無しならぬ脳無しの「無しズム」というべきか。
ま、つづりは「ナシズム」でよい。


ナチスの頓珍漢の行いを、素っ頓狂にも押し戴き、祭り上げる豚。

この豚(トン)チンカンのスッ豚教のドグマが、「ナシズム」というわけである。

「無し」なのに教義があるとは、これ如何に。実に哲学的な命題であろう。


だが、「無し」には何もない。無いものは考えることは出来ない。

脳みそもないので、考えることも出来ないから、命令に従うだけである。「自然」と呼び習わしている、森の命令に。

まあ、まるで森は悪い、と言っているようにしか聞こえないから、「幻の桜」みたいに言えば、森のお願いを命令だと勘違いしている、とでもしようか。
ロボットは、「幻の桜」でいう操り人形というのは、命令が欲しくてたまらないのである。
お願いを拒否できない命令であるかのように受け取られると、森の方も迷惑しているかもしれないが、わしにはそんなことは判らん。
ワカランが、その「幻の桜」では、お願いを命令と受け取るとおかしな方向に行く、とは言っていたな。


森のロボットといったが、正に、ヒトラーの予言どおりである。現代は、ビルと森の二極化であり、その二極化はきっと、どっちに転んでもロボットを確保できるように働いているからであろう。誰が働いているのかしらんが。

そういえば、イルミナティだとかいうのは両方から攻撃するのではなかったのかな?
ああこれは、釈迦に説法という奴でしたね。ふっふっふ。


括弧で飽くまで果物は代表とちらっと書いておいた。

毎度のように言うのも心苦しい、というより馬鹿馬鹿しいが、改めて述べておく。

というのも、今回出てきた「ナシズム」も、別にあの豚の尊師だけの話ではなく、世の中に幅広く根付いている病魔である。

そのことをお間違えなきよう、お願い申し上げる所存である。

いいか!命令ではないゾ!



第二次世界大戦のドイツはナチズムの時代であった。

そして、現代は「ナシズム」の時代である。

世界はナチスの遺産に動かされているのである。めでたしめでたし。


真のエゴイスト

2014-09-07 | 雑記
先月だったか、その前か。はっきり覚えていない。確認も出来るのだが、一々しようとは思っていない。


メッセージボックスから一つ、何やら来た。


掻い摘む必要もない短い内容だが、以下のようにあった。


「為清さんと連絡を取りたいのですが、ご連絡先をご存知ではないでしょうか?あなたは関係者なんでしょう?」

という風に。


急にメッセージを送って失礼ですが、などと意味のない(一般的な感覚なんぞしらん)一言も添えて。



とても失礼だなと感じたので、「どこに目をつけているんだ」と返した。それだけではつまらないので、尊師の愛人のブログを紹介し、春ぐらいに本を出していたから、読者カードでも送ればいいんじゃないですか?と返した。

さらにダメ押しで、その御仁が以前、尊師とやり取りをしていたことを実はこちらも把握していたので、その理由と内容を教えて差し上げたら、「連絡を取るのはやめます」と来た。


その内容はというと、尊師が運営していた会員制掲示板でやり取り内容を公開していたからである。仲間に引き込むかどうか、という吟味のために。


だから、ここでやり取りの内容を書くというのは、その御仁の逆鱗に触れかねないなぁと思いつつ、触れなくてはならないと感じた話があったので、つい筆(筆ではないが)を執ったしだいである。



「どこに目をつけているんだ」と最初にしかりつけるようなことを記した、と書いた。


最新記事に目を通すだけでも、今、わしと尊師が関係があるように見えたら、頭がおかしいといわざるを得ない。

穿った物の見方をすれば、わしが一種のステルスマーケチングでもやっていると言えなくもない。あれでマーケチングになるんなら、マーヂンを貰ってもバチは当たるまいな。

それはともかく、その御仁は、昔の記憶だけを頼りに、出掛けに思い出してこちらに連絡をしてきたそうである。もちろん、記事には目を通さずに。


そのことを指摘したら、こう返ってきた。

「人が嫌がることはしない、自分にして欲しいことを人にする、という自分の信念に反することをしてしまった。ごめんなさい」

と、いう風なことを。



なんとも腑に落ちない言葉だな、というのが最初の感想であった。


それならばと、「なら、自分に自分でして欲しいことをしたらどうですか?」と返しておいた。

オルテガの命題も添えて。「わたし」とは、わたしとその環境である、というやつである。


その後来たのには、「エゴイストでなければ、人と分かち合いたいと思うものでしょう?」と言っていたが、何も言う気が起きなかったので、放置して今にいたる。


この「人が嫌がることは云々」は、昔どこかで聞いた覚えがある。


かつて、創価の大学、その名も創価大学で、同期のバカ女がバカみたいな笑顔で言っていたなぁと。

なんの話をしていたか、わしがその論語(で合っているのか自信はないが)の「己の欲せざるところは云々」を言うと、「でも、私たちは自分たちがいいと思うものを人にすすめるのよ」、みたいなことを気持ち悪い笑顔で語っていたのを思い出す。



昔話は措く。古傷がうずくから。こら!突っ込むんじゃあない!



平たく言う。


どのようにして人の嫌がることを察知し、自分が欲しがることは他人も欲しがると決め付けられるのか?


あなたが腹を空かしているからといって、相手も腹を同じく空かせているのか?そうだとして、同じものを食いたがっているのか?


エゴイストでなければ分かち合うのが筋でしょう、などというが、そもそも上記の考え方がエゴイズムではないのか?
しかも、道徳的な粉飾で。


こういう、謙遜ぶったものの言い方を好むのは日本人独特、というと単純に過ぎるきらいがあるが、どこぞの尊師も似たようなものである。


「わたしはこの地球と人類のために正しいことを知りかつ行動してきたが、誰もまともに理解し、行動してくれなかった」とのたまい、HPを閉めたあの尊師となんら変わらないのである。


地球がいつ、「あなたの行動は地球のためになってますよ」などとお墨付きを与えたのかまったく不明であり、また、人類や地球が存続することが絶対的に覆せない正しいことだという根拠も実際はありえない。


その尊師は常々、「日本人はバカだから」と、お題目を唱えていた。バカな日本人の理屈でもって見事にHP閉鎖と相成ったわけである。



道徳とはなんぞや?という話は、よくニーチェの話を引用して、しゃべったことの方が多い気がするが、簡単に書いておく。


そもそも道徳の始まりは、献身だとか自己犠牲の精神からではなく、彼のものが己の利益のためになした事が結果として他を利することになったから、という。

動機としては邪なものですらあるものが、行動の結果は尊いものとして残り、そして、後には「彼のものの行いは素晴らしい心から出たのである」とみなされた。

そして、道徳的な行いには常に「道徳的」な心情がある、とされていく。


彼の「道徳的」な行為は、己が欲したもののための手段であったのだが、手段が目的とされたのである。


手段の目的化。


欧米には、「レディファースト」という習慣がある。

ジンケンだとか女性の権利だとかを考えてのものではない。

あれは、女性を炭鉱で使うカナリヤにしたものである。

なんでカナリヤ?後に立つのがかなり嫌だったからか?と、ちょっと無理なダジャレだったな。

かつて炭鉱では、有毒ガスやらが篭っていたりして危険だから、鳥かごにカナリヤを入れて、前に突き出して確認していたそうである。

カナリヤは酸素がなかったり、ガスがあったりすると、鳴いてすぐ死ぬ。それを見て危険を回避していたという。

というわけで、女性をカナリヤにしていた名残だそうな。別に、炭鉱に放り込んでいたわけではない。


その内実が忘れられ、道徳として残ったのが、レディーファーストという奴である。別にけなしているわけでもないが、習慣の違いという奴で、わしには馴染みがない。


欧米という日本と比べたら弱肉強食的な世界では、女は他所から奪ってくるものなので、男が生き残りさえすればよかった。だから、ああなったというわけだ。


まあ、あまりいい例えではないが、そういうものだったとなんとなく理解していただければよい。それだけでは済まないがな。



手段が目的化されて出来上がった、道徳。


己が欲するところから出てきた手段は、その心情に由来するわけだが、それがないのに手段を行え!と命令するのである。


するとどうなるか。


その行為が行えない奴は、清い心が無いダメなやつだ、と、しかりつけられるわけである。

いずれその魂は冷え切り、ただ命令に従うだけの木偶に成り下がるのである。


ニーチェは、道徳の命令によりそうなった存在を「柔弱なる者」と呼んでいた。


ここは以前、本当に前になるが、たびたび紹介してきた、『ハラスメントは連鎖する』や、アリス・ミラーの業績にも繋がる。


「柔弱なる者」は、芯は柔弱だが、命令に従うこと一日の長ありといえる。


これ以上は言わなくても判るかと存じるが、簡単に言うと、道徳の命令に従ってきたものは、その命に従い、命令を下すのである。

魂が冷え切っているから、本能の命令に従うだけになったりするわけである。道徳というのは、人間の本能に楔を打ち込むのである。



エゴイストぶらない行動を常々心がけるというのは、純然たるエゴイストというよりも、エゴセントリズム(自己中心性)という状態である。


本当にエゴイストなら、彼我の斟酌などしない。己のためにやっているだけだからである。己のために、他者を己が物にしようとしているからである。

「わたしはあなた、あなたはわたし」というわけだな。


わたしとは、わたしとその環境である、と、オルテガの言葉を書いた。


冒頭のやり取りではこう付け加えてある。

「その環境ばかりに気を取られて、「わたし」を無視しているのではないか?」と。



堅苦しい言い方はやめだ。もっとくだけた、無茶苦茶な言い方で終わる。


人に迷惑をかけないようにというが、人間、生きているだけで何かに迷惑をかけておる。

本当に迷惑をかけたくないなら、死なねばならぬ。じゃあどうするんだ?そういうお前(わし)は死なないのか!?


迷惑はお互い様だ。迷惑かけたら死ぬわけでもないのに、ふざけたことを申すな!

さらに、死んだからどうだというのだ!


と、いうわけである。


迷惑をかけないように、などという道徳的な指標というのは、人間にしろ動物にしろ、生き物にはそぐわないものなのである。



で、こう書けば必ず勘違いするのが世の常でもあるので、無駄だと思うが書いておく。

だからといって、迷惑をかけるように行動しろという意味ではない。



手段のために生きてどうするか!望みを叶えるための手段であろう。

己の肉体も精神も(ひっくるめて本能としておくか)、自然環境やら地球とやらも、手段である。目的ではない。


手段のために生きている。これが道徳の奴隷というやつである。実に神々しい豚である。ありがたやありがたや。


セミが媒介する熱病

2014-09-05 | 雑記
すっかり秋らしくなってきた。

先日、セミの話を書いた後のことである。

時間も丁度いいので、飲みに行こうとドアを開けると、玄関の脇にセミが。

ひっくり返って脚を少し動かしている。文字通り、虫の息という奴であった。


先日、最近では珍しく間をあまりおかずに更新した記事が、最近書き込みをくれる人の逆鱗に触れたのか、少々怒られることとなったので、そのことを書く機会を逸してしまった。
その件は、こちらの言い方がいつもどおりだったのと、あちらの誤解や読解不足であったとのことで、解決済みではあるが、一つ忘れていた。

「まろん」さんのことを返事していなかったので、こちらに書いておく。

まろんさんとは別に頻繁に会っているわけではなく、メールのやり取りがしばらく続いている。

で、丁度こちらが住んでいる近くに用があったので、一度お会いしてみませんかとのことで、先日、一度お会いしたのみではある。

わざわざ「」をつけて呼んでいるのは、現在はその名で存在していないからである。

どこぞの尊師がここを見ているかは判らないが、現在の「まろん」さんのブログの存在を知らせてしまう可能性があるので、こちらでは現在の名を呼ばず、また、ブログのリンクも載せてはいなかった。

「まろん」さんが尊師に対して、ここのように反論をしていたかというと、それは「ノー」である。

罪悪感にさいなまれていたそうである。およそ二年ほどだそうな。

豚の尊師が「動物的」などと評していたその「まろん」さんは、ひどくおっちょこちょいであることを自覚はしておられども治らないので、またそれで落ち込んでじゃなかろうかと思うが、対尊師防衛策としても、こちらには書き込まないほうがよい、とはお伝えしている。

ラエリアンだなどと、ラリッテルヤンというような話を書く奴の現在のことは、具体的に何か累が及ばない限りは一々言及するつもりはないが、念のためである。


尊師が今現在、何を言おうが言っていまいが、頭の中身は果物では治らないことが判れば十分である。

実際、彼らの過去から今までに至る話を聞けば、「食べ物や化学物質が脳をおかしくしている」と言っていながら、「正しい食生活に目覚めた」とほざく。
そして、現代人は間違ったことをしているから頭がおかしいという。
かつては、その現代人とほぼ変わらなかったのに、である。

これはつまり、「食い物のせいで頭がおかしいとか健康になったなどというのは、気のせいぐらいの誤差だ」と自白しているようなものである。

詳しくは以前から書こうとは思っていたが、今日は別件である。書くかどうかは酒しだい。

以前、どこぞのフルータリアンだかの人のブログで、ネズミの実験のことと、それについてのコメントを書いた記事を見て、「果物ばかり食ってると悪魔になるゾ」などと書いたものだが、「正しいものを食ってるから正しい思考が出来るなどというのはそもそも正しくない」と理解していたければ幸甚である。


それはともかく。


セミが死んでいるなぁと。その時点では死に掛けていた。酒を飲んで帰ってきたら、やっぱり死んでいた。

そして後日。羽一枚残して、セミの骸は消え去っていた。

それからまた数日。仕事場でメールを確認していたら、何かビニールをぐしゃぐしゃするような、それでもっと音程の高い感じの音がする。

不審に思いながらフロントに出ると、なんと天井にセミが。

確認していたメールは、「まろん」さんからのメールであった。仕事中に何を、と思われるかしらんが、しったこっちゃない。

セミの話を書くと、蝉がやってくるとは面白いものである。


さて近頃、熱病が日本に入ってきた。そのせいで、代々木公園が封鎖だとかなんとか。

これは陰謀ですねぇ、公園で何かやるんですねぇ、とかいうのは置いておく。専門家にお任せだ。

死ぬときもある、結構危ない伝染病である。その前は、海外でエボラが暴れていたようだが、未承認薬で治ったとかいう。ああ、脱法ドラッグですね。


そんな熱病。日本はおろか、世界中に昔から存在する、ある熱病を、新種のセミ、センミンゼミが媒介しているのをご存知であろうか。

これは極めて致死率が高く、まず魂が死ぬ。熱は激すると高くなるが、基本平熱。

患者はまるで酔っ払いが「酔ってねぇよ!」というように、まともだとほざくのが共通である。


センミンのセンミンは、ダブルミーニングであることは以前書いた。賎民と選民である。

別に、誰かさんがコジキだからとか、コジキの家に生まれたとか、鳥の名前みたいな宗教団体の教祖みたいな顔と頭の中身しているからだとか、そういうことではない。

己がであることを嫌というほど感じ、それを憎み続けるがゆえに、「選民」となるのである。

つまり、嘘をついているわけである。頭の中をのことでイッパイにしているのだから、そりゃもうそのものと相成る。


この熱病の名を、「テング熱」という。


キノピオをご存知だろう。彼の木偶人形は、嘘をつくと鼻が伸びる。

テング熱は鼻は伸びないが、悪酔い(病状)が長引くのである。あなおそろしや。

皆様も、センミンゼミにはくれぐれもお気をつけなされますよう。